大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害
「世界から恐れられた7人の日本人」
「大東亜戦争の英雄の日本人1」
「大東亜戦争の英雄の日本人2」
「大東亜戦争の英雄の日本人6」
「大東亜戦争の英雄の日本人3」空の要塞B29撃破とB29撃墜王
「大東亜戦争の英雄の日本人4」陸軍エースパイロット撃墜数
「大東亜戦争の英雄の日本人5」海軍エースパイロット撃墜数
「大東亜戦争技術者」
「大東亜戦争技術者2」
「アジアを解放した大東亜戦争 安濃 豊 令和2年」
大東亜戦争で日本は世界をいかに変えたか。 加瀬 英明 2015
大日本帝国の真実。黄文雄 2005
慰安婦の真実。マイケル・ヨン 2018
「大東亜戦争石油」
日米開戦前日米交渉(アメリカが日本に実質的最後通牒(日本の南部仏印撤退などの譲歩案に))
「大東亜戦争技術者」
日本よ、情報戦はこう戦え!山岡鉄秀2018
[
孔子 親子の間では犯罪は隠せ!]
これが、中国、朝鮮の基本的考え方、儒教、論語なのだ。
人を貶めること、誣告だ。
世界から見た大東亜戦争名越二荒之助1991年
はしがき 太陽を背にして 「佐藤 和男」
第一部 日米戦争の遠因と近因
一 大東亜戦争はなぜ起こったか
長期的視野に立った、原因の研究
主として、英仏の教科書から
二 日露戦争直後から始まった、日米対決
遠因はアメリカのアジア侵出にあった
三 アメリカの対日外交姿勢
パリ講和会議とワシントン会議
四 日米協調時代の欺瞞性
スタール博士の碧眼
五 満州事変は起こるべきして起こった
国際連盟離脱の原因
六 日本の立場{満州事変と国際連盟離脱}を理解した外国の碩学たち
ジョージ.プロンソン.レー、ジョン.トーランド、クーデンホーフ.カレルギー
七 支那事変の真相
中国大陸を舞台にした、列強の謀略戦場
八 難航した日米交渉
大西洋会談までに決意を固めていた、ルーズベルト大統領
第二部 大東亜戦争のクライマックス
一 真珠湾攻撃日本の「奇襲」に安心した、米英首脳
二
空前のスケール .破竹の進撃
アジア.アフリカの植民地民族に与えた、独立への夢と勇気
三 大戦のハイライト.大東亜会議
昭和18年のアジア.サミット
四 壮絶なる戦い.玉砕戦
日本の勇戦を称える世界の人々
五
世界が共闘した、特攻隊の出現と感動
日本人よりも深く洞察し教官を寄せる外国人
六 敗戦に顕現された民族の個性
日本帝国の決断.国体護持の誓いと整然たる和平
七
忘れてはならない敗戦時の自決者たち
壮絶なる民族の留魂
八 世界が評価する五つの歴史的意義
戦争目的を達成した国はどこか.見事なるドラマの完結
第三部 アジアに生きる遺産
一 フィリピン
日本軍政と民族意識の回復{ニック.ポアキン、ピオ.デュラン、望月 重信}
二
インドネシア
大東亜戦争の意義を語る指導者たち{ナチール、ナスチオン、ルピス、アラムシャ}
三 マレーシア.シンガポール
大東亜戦争を評価する人々{ノンチック、アビデン}
四 ビルマ{ミャンマー}
独立の系譜{バー.モー、オン.サン}
五 インド
独立に果たした、日本の役割{ビバリー.ポーズ、チャンドラ.ポーズ}
第四部 日米戦争の超克
一 大東亜戦争をどう教えるか
教科書記述のモデル
二 米英側から見た、第二次世界大戦の批判と反省
米英同罪論から、ルーズベルト開戦挑発論への展開
三 アジアは「反日」か「親日」か
今も続く二つの評価とそれを超克する方途を探る
四 憎悪のアジアか仁愛のアジアか
岡倉天心の「東洋の理想」とサンフランシスコ講和会議のおけるスリランカ代表の演説
五 アメリカ大統領に謝罪を要求する
大東亜戦争完結のために
スポットライト
第一部
明治天皇とハワイ王 カラカワ
蒋介石の慨嘆ーー戦わない共産軍
米国は、開戦前に巨額の対支援助
対米覚書「最後通牒」手渡しの遅延
第二部
大東亜共同宣言
玉砕を称える詩三篇
世界の玉砕戦比較
大東亜戦争「玉砕戦一覧表」
マバラカットの特攻記念碑と愛媛県西条市の特攻慰霊碑
第三部アギナルド将軍と黄金造りの日本刀
リカルテ将軍の孫ピスルミノ.ロメロ少年のこと
親日三巨頭{リカルテ、デュラン、ラモス}の運命
アラムシャ将軍I 大著{ペタと義勇軍ーーインドネシア国軍の母体}
アラムシャ将軍U 大局観に立った大東亜戦争の意義
インドネシア軍政とモーベル賞
BIA{ビルマ独立義勇軍}〜鈴木雷帝への感謝状
牛島中将とビルマ人士官候補生
チャンドラ.ポーズ{ネタジ}に対するガンジーとウー.ヌーの評価
インド国民軍{INA}の進軍歌「征け征けデリーへ」と「愛国行進曲」
インド国会議事堂中央に掲げられたポーズの肖像
慰霊団が発掘した、日本兵の真相ーー一枚の徴発書.日本兵の花.コヒマの戦跡に立って
第四部海部演説を批判するウトモ氏
世界から見た大東亜戦争名越二荒之助1991年
はしがき 太陽を背にして 「佐藤 和男」
東京裁判は日本が「侵略」戦争したとは、判定していない
一部の日本国民が誤解していることだが、東京裁判は日本が「侵略」戦争したとは、判定していない・
わが国は、満州事変、支那事変、仏印進駐等を通じて、国際法上合法的な軍事的行使、に終始したことを実証でき、大東亜戦争についても、
「1928年のパリ不戦条約の自己解釈権」に基づき、かつ十分な法的根拠により、自衛戦争であることを堂々と主張できるのである。
Aggression を「侵略」と和訳するのが間違いであるのは、侵略は「他国に無理やりに押し入って、領土や財物を奪い取ること」を言い、略取、略奪の意味を含むが、Aggression は本来「挑発を受けない攻撃」を意味し、略奪の意味を持たない。
東京裁判は、日本は「War of Aggression」を行ったといっている「侵略」ではない。
第一部 日米戦争の遠因と近因
一 大東亜戦争はなぜ起こったか
長期的視野に立った、原因の研究
主として、英仏の教科書から
真珠湾奇襲と忠臣蔵の討ち入り
大東亜戦争は一般に真珠湾奇襲から、始まった。と言われます。確かにそうですが、話をいきなり、真珠湾攻撃から始めると、いかにも好戦的な日本人が、だまし討ちによって勃発させたという印象を与えます。
なぜ、日本が真珠湾奇襲に訴えあざるを得なかったのか、そこには長い歴史の積み重ねがあったのです。「民族の意地」というか「誇り高い気概」というかそれが積もり積もって、爆発したのです。
例えば、忠臣蔵の物語があります。
この物語でも、いきなり、吉良邸への討ち入りから始めたらどうでしょうか。
赤穂浪士は予告もせずに土足で、吉良邸を「奇襲」し、すやすやと眠っている、老人の首をはねたのですから、「忠臣蔵」どころか、武士の風上にも置けぬ「狼藉蔵」になってしまいます。
ところが、「忠臣蔵」を浅野内匠頭の殿中におけるにん傷事件からはじめ、主君を思う、大石良雄ら四十七士が、粒々辛苦の末やっと討ち入りに至ると、観衆は留飲を下げ喝さいするのです。
東京裁判 東条英機の陳述(速記録)
原因は先方の
挑発であり、日本はやむを得ず戦争を開始した。
私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国
際法には違反せぬ戦争なりと主張します
こういう構成の8日間の「東條部門」でした。
清瀬弁護人の要点は、全部で7つありました。速記録の見出しを拾いましょう。
@日本は予め米英蘭に対する戦争を計画し準備してはいない
A対米英蘭戦争は挑発に原因し、日本はまことにやむを得ず開始した
B 合法的開戦通告を攻撃開始前に米国に交付するために周到な手順を整え
ていた
C大東亜政策の真の意義とは
D所謂「軍閥」の不存在
E統帥権の独立と連絡会議御前会議の運用
206
F東條の軍政の特質は統制と紀律にあり
つまり、米英蘭に対して戦争を計画・準備はしてはおらず、原因は先方の
挑発であり、日本はやむを得ず戦争を開始した。
次がさきほど触れた通告の
遅れです。
国際法に則った開戦通告を攻撃開始前にするための準備は整えて
いた。
第4項目は自ら中心となって主催した大東亜会議に関わる話です。
5
番目は、日本には軍閥などなかった、という主張。
6番目、統帥権の独立に
ついてです。東條自身も統帥権の独立の持つ弱点を痛感していて、それを補
うために連絡会議や御前会議を頻繁に開催して統帥部との連絡を密にするよ
うに図ったと言っています。
そして最後に、自らの政治の特質は統制と規律
にあった、という主張です
―「終りに臨み―恐らくこれ
が当法廷の規則の上に於て許さるる最後の機会でありませうが」とあって、
以下をご覧ください―
「戦争が国際法上より見て正しき戦争であつたか否
かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異な
つた問題であります。
第一の問題は外国との問題であり且法律的性質の問題
であります。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国
際法には違反せぬ戦争なりと主張します」。
さらにさきへ進みます―「第二
の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任でありま
す。この意味における責任は私は之を受諾するのみならず衷心より、進んで
第 10 回「東京裁判」研究会[編]極東国際軍事裁判研究プロジェクト 207
これを負荷せんことを希望するものであります」と書いて、口供書を締め括
りました。
これに対して、日本の新聞では批判の嵐です。
グローバル Web アイコン
nii.ac.jp
https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/?action=repository...
[PDF]「東條英機の東京裁判」 速記録 - 国立情報学研究所 / National ...
ウェブ本日は「東條英機の東京裁判」という課題を掲げてお話しいたします。 東京裁判のアプローチにはさまざまあろうかと思います。 この国際軍事法廷の背景にある国際政治 速記録
ドイツ 哲学者 ヤスパースの「戦争の贖罪」
ヤスパースはドイツ敗戦の翌年「戦争の贖罪を発表した、そこでは
戦争は歴史を通じて存在し、なお幾多の戦争が切迫しているのをどう見るか。一つの民族だけが、戦争の贖罪を負わねばならない義務はないと思う。自分には罪がないというのは薄っぺらで誤魔化しの道徳希薄だ。その証拠に彼らはすでに戦争の準備をしこれを促進しているではないか
ドイツの戦争はヒトラーが始めたが、ヒトラーには戦争を始めるだけの原因があった。
これはアニュールンベルグ裁判での連合国への批判だが
戦後の日本への痛烈な批判でもあります。
敗戦後の日本人は戦争の贖罪は日本だけにあると思い込んでいる。
原因者がやれ軍人だ天皇だと言い合っている。それはまさにヤスパースのいう「薄っぺらで誤魔化しの道徳希薄だ」。
主として、英仏の教科書から
戦争の責任はどこにあるかーーーーイギリスの教科書記述に見る
英国で最も採用されている、中等教育用の教科書「世界の近代史」(1985年ロングマン社)の第五章
「二つの新興国ーーアメリカと日本(Two New Giant USA &
Japan)]
というタイトルです。
この教科書は太平洋をはさんでほぼ同時期に、日本とアメリカの両巨人国が現れたというわけです。
1898年アメリカはスペインとの「米西戦争」を契機として、膨張を続け、太平洋からアジアまで手を伸ばします。それに対して
日本は、日清戦争、日露戦争に勝利して、アジアのチャンピオンとなります。
この両巨人国が宿命の対決をしたのが大東亜戦争(太平洋戦争)でした。
どちらが侵略であったか、そしてどちらに責任があり、加害者であったのか。そういう善玉、悪玉論ではなく、対極的、客観的に描いているのです。
イギリスの教科書は日本のものに比べて極めて長文なので全文を引用できませんが最初にアメリカの起こした「米西戦争」から入ります。まず冒頭に興味深い写真を載せています。
それは1898年米西戦争が勃発した年の2月17日に発行した、「ミューヨークジャーナル」の巻頭記事です。
この新聞は扇動的な記事を得意とする記事ですが、派手な見出しを付けて次のような趣旨を訴えています。
(アメリカの軍艦、メイン号が極悪非道の秘密兵器を使った、スペイン人によって、爆破され江、260人のアメリカ水兵が死んだ。
犯人を知らせてくれたものには5万ドルの賞金を支払う。)
この新聞はメイン号を爆破したのは、スペイン人で260人のアメリカ水兵が殺されたと断定していますが、その証拠はなかったのです。
そもそも当時のスペインにはアメリカと戦争する気はありませんでした。ところが新聞はアメリカの仕業と決めつけて、犯人を知らせたものには5万ドルを支払うと公募しているのです。この新聞を読んだアメリカ人は激高し、ついに米製戦争に踏み切ったのです。やがて「メイン号を忘れるな」という合唱が、功を奏し、米西戦争はわずか8か月足らず根終わり、ハワイ、グアム、フィリピンを占領しました。あまりにうまくいったので、アメリカはこの戦争を「すばらしい小戦争」と呼んでいます。
皆さんお気づきのことと思います、「メイン号を忘れるな」という合言葉は、「真珠湾を忘れるな」というスローガンになって甦ったことを。
米西戦争に勝利したアメリカは・・イギリスの教科書では
事態は驚くほどのスピードで進んだ。この予期せぬ戦争の結果、アメリカは、太平洋の2141島を獲得し、700万の原住民を支配下に入れた、
アメリカ国民は、自分の国が突然帝国主義国になったのを不思議に思った。
そして一度帝国しゅぐの道を歩み始めると、停止することは難しかった。
事態は連鎖反応を開始したのである。アメリカは太平洋と大西洋の二つに必要な海軍を布陣するようになった。
以上がイギリスの教科書のアメリカに関する部分です。
続いてイギリスの教科書の日本に関する部分です。
日本はアメリカがスペインを敗退させた「米西戦争」とほぼ同じころに、日清戦争と日露戦争に勝利します。
イギリスの教科書は、特に日ロ戦争の推移を好意的に書いております。
東郷平八郎のT 字先方により、「ナイルにおけるネルソン以来の大勝利を納めた」と激賞し「日本は海外に領土を持つ帝国主義国となり
、西欧に対するアジアの人々の明かなチャンピオンになった」と結んでいます。
このように太平洋を挟んで日米の両新興強国が同時期に登場したことを書いています。
やがて日米両国の民族エネルギーが膨張し激突するに至るのです。どちらが良いとか悪かったかではなく国際政治の宿命の力学を教えているのです。
このような記述はフランスの教科書にも見られます。
フランスの教科書 ーー日米を対等にみる大人の史観
フランスの偸盗教育用教科書「歴史、フランス革命から今日の世界へ」(1978年フェルナン.ナタン刊)
はからーをふんだんに使った、見て楽しい歴史の教科書です。
その第四巻 第15章は「ヨーロッパ外の二つの新興強国、アメリカ合衆国と日本」です。
この賞は評宇内のように、ヨーロッパ外に二つの新興強国が現れたとして、アメリカと日本の登場ぶりを対照的に描いています。
まずアメリカのほうは左の絵のように、1855年ごろのニューヨークの寒村ぶりをカラーの絵で示しています。
摩天楼が林立した、今日のニューヨークと比べて今昔の感があります。
教科書はこのような寒村に過ぎなかった、米国が、フロンティア精神をもってインディアンと戦い、広大な地域を征服したことを表すために、開拓者とインディアンの戦闘の場面を紹介しています。
アメリカが西部開拓から半世紀の間に世界的役割を担うまでに強大な工業国家になったのはなぜか。教科書はモンロー主義を拡大解釈して、対外進出を打ち出した、セオドア.ルーズベルト大統領(第26台、1901年〜1909年)の言葉を引用しています。
(もし軍事上、商業上の覇権争いにおいてその地位を保つたいと願うなら我が国の国境外に勢力を打ち立てねばならない)(もし我々が激しい競争を避け勝利をつかもうロしないなら、我々よりもっと大胆で、もっと強力な国民が、我々を追い越し、世界の支配権をその手に収めるだろう。)
アメリカは米西戦争でフィリピンを支配下におさめ、同年ハワイを領有していました。ロシアがアジアで勢力を伸ばしそうになると陰に陽に日本に肩入れして、仲裁役までかって出ました。
日本が勝利し、アジアで覇権を握りそうになると、今度は日本の圧迫にかかりました。
教科書はこの時代の「アメリカ帝国主義」の考え方を、当時のかじ取り役であったルーズベルト大統領に語らせているのです。
これに対して近代日本の導入部はどうか
赤尾浪士の絵を掲げ、恐るべきサムライ戦士が19世紀半ばまで日本を支配していた。と解説しています。そうしてこのように古い封建的なサムライ日本が明治維新を契機に近代化の道に突入氏40年足らずのうちに強国ロシアに勝利したことを強調しています。その象徴的な資料として、奉天に入場する実っ本軍の絵を掲げたわけです。
そして教科書はその後の日本のおかれた立場を駐日フランス大使であった、ポール3クローデル(文豪)に語らせているのです。
日本はもともと資源に乏しく、増大する人口を抱えて、大国としての役割を果たすためには、強力な武装を整えねばならなかった。そして、工業、商業に力を入れ、競争に打ち勝つためにはあらゆる犠牲を払っても中国市場を獲得しなければならなかった。
以上英仏二種の教科書を紹介しましたが、両社に共通していることは
、@長期的視野に立っていること
A戦争を善悪で判断せずに国家対国家の対立の帰結と見ていること
Bそのため先述のロングマン社の教科書等には敵国のドイツ側でも、勇敢に戦った、軍人や智謀の将には敬意を表しています。
真珠湾攻撃でも航空機に力を注いだ、山本五十六提督の先見性を評価し、淵田指揮官の見事な攻撃ぶりを詳しく述べ、フチダの名が4か所も出てくるのには驚きました。それでいて子の教科書は、日本の真珠湾攻撃は失敗(石油基地と航空母艦を破壊でなかった)であった。と指摘しています。
ついでに、大東亜戦争自体の記述では、東条英樹(写真と2回)山本五十六(6回)、山下奉文(写真)というように軍人ばかりで書かれており、戦争の全貌がまとめられております。
ここで紹介した二つの教科書は「帝国書院」から善や区分が発行されています。
二 日露戦争直後から始まった、日米対決
遠因はアメリカのアジア侵出にあった
三 アメリカの対日外交姿勢
パリ講和会議とワシントン会議
四 日米協調時代の欺瞞性
スタール博士の碧眼
第一次大戦が終わり、ワシントン会議(大正11年1922年)から満州事変(昭和6年:1931年)までは日米協調時代でした。
この間アメリカは満洲に何度も滲出しようとしました。
この間の日本の外交は幣原平和外交でした。
問題のある事案もありました。
@ワシントン海軍軍縮会議で主力艦について米英日の比率を5:5:3に決めたこと
Aアメリカの反対で、明治35年以来21年間続いた日英同盟が廃棄されたこと。代わりに「中国に関する9か国条約が締結されたこと」
この条約には、欧米諸国が加盟しているが肝心のソ連は加盟していないこと。
これらはともに日本の譲歩によってできた条約でした。
これについてロンドンの王立国際問題研究所はこの結果について(英語を国語とする諸国は、日本を難攻不落と見えた地位
〜巧妙な策謀によって、一歩一歩押し出してしまった)
と評していますがまさにその通りでした。
敗戦後の日本では
戦前の対米強硬派に「国際協調に乏しい頑迷な攘夷派」とレッテルが貼られました。
ところが、「あの当時の日本外交の軟弱なる譲歩主義が、将来、必ず禍根を残す」と警告したアメリカの学者がいるのです。
その学者は、フレデリック・スタール博士(1858〜1933)という人類学者です。
そのスタール博士は大正13年(1924年)にアメリカで「排日移民法」が米議会に上程されたとき、「日本人だけを差別する移民法は、人道を無視するもの。しかも関東大震災後、日本が困っているときに、このような法律を制定することは、米国の建国精神に反する」として反対したのであります。
同時に、日本国民に対しては「日本は親善のために国際社会に対して常に譲歩をしてきたが、それは誤解を生み、軽蔑を招く。排日移民法に対してなぜ日本の正当を正々堂々と主張しないのか」といった苦言を呈した[9]。1930年代に満州事変・第一次上海事変を受けて日本へのアメリカの世論が硬化すると、一人で南部・中西部の諸州を巡回し日本の立場を極力弁護した。
。
フレデリック・スタール(寿多有)博士の言葉:日本外交への諫言
2008-11-14 04:13:30 | 財政・経済問題
既に小楠氏が、1年半前に彼のブログ<反日ワクチン>で紹介されているのだが、「緊急G20サミット」に臨む日本代表団に、米国人フレデリック・スタール博士が述べた言葉を是非思い出して欲しいので、ここに再録する。
http://vaccine.sblo.jp/pages/user/search/?keyword=%83X%83%5E%81%5B%83%8B
昭和5年(1930)10月19日、一時帰国するに際し、スタール博士は日本国民へのラジオ放送を行った。それは、満州事変の起こる1年前である。
(引用始め)
去るに臨みて親愛なる日本国民諸君へ
はじめに
親愛なる日本国民諸君、今や日本を去るに臨んで私は諸君に別離の辞を呈したいと思う。私の生涯は国際関係に於ける日本の活動の時機に等しいのである。私は1858年、即ちタウンゼント・ハリスが江戸条約(日米修好通商条約)を締結しその条約によって通商上発達を期したる年に生まれたのである。
途中略
日本の歴史上の素晴らしさが語れている
日本の青年男子は日露戦争当時の如き剛毅勇武の風を失い、柔弱に流れている。更に特に目立つことは日本婦人が彼等の賞賛すべき美徳を棄てて、西洋婦人の悪風に染みつつあることである。日本婦人はそのもてる典雅にして謙譲の美風を忘れて、その態度が粗暴に流れ、粗野な洋服をして最も下等の米国婦人の如き態度をして、得々然として大道を横行闊歩しつつあるを見て痛嘆の至りにたえない。真に日本を愛する者は、心を痛められずしてこの不自然の光景を観ることはできない。
何となれば今日の日本文明は、勇敢なる日本男子の愛国的精神に因れると共に、また謙譲にして献身犠牲の精神に富める日本女性の努力に基因せるものであるからである。
日本は外交で譲歩するなかれ
日本は今や過去の孤立鎖国の域を脱して、世界の列強の一つとなった。日本は世界の進歩発達に際して真のリーダーとなるべき幾多の機会を有したが、勇気と確信を欠きたるためにしばしば絶好の機会を失ったことは痛嘆の至りである。日本はこの大責任を果たさんためには高遠の理想と、高尚なる目的と、確乎不抜の決断と、特別の智慧を有たねばならぬ。今日何れの国家と雖も利他的なものはない。また、これを期待することは愚である。日本は国際親善の精神と正義の観念とをもって、自主的見地から勇往邁進せば、反って世界の尊敬を受け自然のリーダーとして立つことができると信ずる。(中略)
日本は1895年の日清戦争以来、常に外国の圧迫に対して譲歩に譲歩を重ねて来た。日本は他国の要求及び意志に従わんとして常に国家の重大事に関して譲歩したのである。私は日本の譲歩の動機は国際協調及び国際親善のために寛大なる態度に出でたのであろうと信ずる。然しながらかかる政策が繰り返されたならば、外国はこれを目して日本は国際親善の目的に非ずして、むしろ自己の行為または判断の不当を容認せるか、然らざれば卑怯に起因せるものなりと誤解し、その結果日本を軽蔑するようになって来るのである。斯様に推移して行くならば、日本は将来必ずや国権を主張せねばならぬ機が到来するであろう。しかしながらその時は日本の主張が有効となるにはあまりに遅過ぎるのは遺憾である。要するに日本の諺に「後悔先に立たず」という名言がある。
今これを例証せんとせば、米国の排日移民法通過の際の日本の態度の如きはその適例である。日本政府当局者は何故に日本国民の名誉のために、且つ正義人道のために、正々堂々と日本の正当の主張をなさなかったか。米国との親善を希望して米国に遠慮し、最後まで日本の主張を率直に米国民に披瀝しなかった故に、反って不幸なる結果を招来したのである。
日本はワシントン会議に於いて日本の国防上多大なる犠牲を払って大譲歩を為した。国際関係に於いては国家と国家との間は対等であらねばならぬ。然るに日本は何故にワシントン会議に於いて、自ら進んで世界列国環視の前で、巨艦に於いて対英米六割の比率を承認して自国の劣等なることを制定する条約に調印したのであるか。 而して、今回のロンドン会議は決して国民負担の軽減をなさずして米国に関する範囲に於いてはむしろ大なる軍備拡張である。
もし将来戦争がないから軍備縮小をするというならば、何故に英米両国が率先して軍備撤廃を主張しなかったか。何故に日本は国防上必須の兵力要求を貫徹しなかったか。日本の政治家は言う、この条約は1936年までの暫定的のものであるから憂うるに足らずと。しかしながら米国海軍はこの条約によって米国が多年要望して果たさざりし均整艦隊を初めて完成することができたことを密かに喜んでいる。
補助艦艇の現有勢力に於いて日本海軍が遥かに米国より優勢なる今日、なお日本の国防上必要条件とする対米七割を獲得することができなかったとすれば、欧米人の既得権尊重の心理状態を知らざるも甚だしいものであると称すべきである。
現に本年五月米国上院海軍委員会、ロンドン条約審査会に於いて、1936年に日本が対米七割を要求せば如何との問いに対して、合衆国海軍当局の大官が次の如く言明している。「もし1936年の会議に於いて日本が対米七割を要求した場合には、米国は会議から脱退するのみである。如何となれば海軍に於いては現有勢力以外に頼るべき何物もない。その時には米国は日本の古ぼけた大巡洋艦に対して、精鋭なる最新式大巡洋艦十八隻を有しているからである」と。
かくの如く日本は外交折衝の際、日本帝国の存亡に関する重大問題に関して外国に譲歩を重ねている。日本の将来を憂うる私はかかる場合に於いて傍観座視沈黙を守っていることは極めて困難である。
むすび
親愛なる日本国民諸君、今や日本を去るに臨んで諸君に希望する。諸君は光輝ある日本帝国の伝統に忠実にして、日本国民の美徳を涵養せられ、日本文明の精華を発揮すると共に、米国及び世界各国の長所美点を採用し、以って日本をして東亜に於いてのみならず、太平洋時代に於ける真の世界的リーダーたらしむべく努力せられんことを切望して止まない。
(引用終わり)
五 満州事変は起こるべきして起こった
国際連盟離脱の原因
昭和5年(1930年)にスタール博士が、指摘したように、当時の日本男性は、日ロ戦争当時のような剛毅勇武の気風を喪い、婦人は下卑た米国女性の真似をして、外交は、また米英追従の軟弱ぶりでした。
確固たる外交の哲学がなく五・五・三の比率を、全世界注視の中で飲んでしまいました。
続いて起こった、アメリカの対日移民法に対しても打つ手がなく、隣国のシナはすっかり日本の手の内を読んでいました。
そのシナに手を貸したのが幣原外交でした。幣原外交は大将13年〜昭和4年までの間の都合5年間ありました。
その対支外交方針は
@対支内政不干渉の徹底
A支那現状に対する寛容と同情
目に余る国際条約違反があっても通り一片の抗議をするだけでした。
最終的には、日本は日露戦争で得た満洲の利権から放り出される寸前となりました。
支那側は、満洲の南満州鉄道には、並行路線は作らないという条約に違反して、満鉄平行線を作り、大連港には近接した コリョ島に築港しました。満鉄は大きな赤字となりました。
日本人に対する暴力の激化し、日本人小学校は休校や閉校が続出。万宝山事件、中村大尉殺害事件など、未解決事件は240件に達しました。
満洲滞在日本人も(朝鮮人と合わせて)130万人から100万人に30万人も減りました。
犠牲者が30万人も出た、背景のもとに昭和6年(1931年)満洲事変は起こるべくして起こったのでした。
リットン報告書と国際連盟脱退
リットン報告書は満州事変は日本の侵略とはしていない。満洲を実質的のアメリカの支配下に置こうとした。
満州事変が起こると支那はこれを国際連盟に提訴しました。国際連盟は、イギリスの代表リットンを団長としイギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、イタリアの5か国20人の調査団を派遣しました。
昭和7年2月から調査し昭和7年8月報告書を完成しました。
報告書には
一.柳条溝事件以前への「原状回復」も「満州国承認」もいずれも問題の解決にならない。
二.外国人顧問(国際連盟理事会が派遣)の指導の下、広範な行政権を持った、自治政府を支那の主権下に樹立する。
三.満洲を非武装地帯とし国際連盟の助言を得た、特別警察が、治安維持にあたる。
四.日支両国は相互不可侵.相互援助の条約を締結し、もしソ連がこれを求めなければ、別途三国協定を結ぶ
。
六 日本の立場{満州事変と国際連盟離脱}を理解した外国の碩学たち
ジョージ.プロンソン.レー、ジョン.トーランド、クーデンホーフ.カレルギー
ジョージ.プロンソン.レー ”Case for Manchoukuo"(1935年(昭和10年ニューヨークとロンドンで原著発行)
「満州国傀儡論を徹底批判したジョージ.プロンソン.レー満州国出現の合理性」(昭和11年田村幸策約)(ニューヨークとロンドンで原著発行)
戦後日本では、満州事変後の歴史を否定的に見ることが過剰と思われるばかりにあふれています。
欧米がアジアを侵略したことは「進出」といい日本の戦争に対しては「侵略」のレッテルを張るアンバランスです。
満州国には「傀儡国家」と書いていますがソ連の衛星国にはこの言葉を使いません。モンゴルは1922年ソ連が作った国家ですが「傀儡国家」とは言いません。
(世界は満洲国をよんで”傀儡国家”であるという。満州国人、政治の術に巧みならざるしゆえに、建国当時日本人専門家の友好的援助を受けて、新国家を組織したのである。それを傀儡というなら、世界には無数の
傀儡国家が存在することになる。
彼はこのように述べて、世界の傀儡国家の例を挙げています。
そうすると、自力で独立している国家はだんだん少なくなり増す。満洲を傀儡国家として攻撃している、「シナ共和国」自身も傀儡国家になってしまいます。
あの当時日本人には五族協和、王道楽土を建設するという、満洲への大きな夢がありました。
それは欧米流の植民地ではなく、それ以前にソ連が、モンゴルに対して行った、共産主義に基づく、衛星国家化でもありませんでした。
満州事変調査の報告書は。満洲の多数の住民が支那人または支那系満洲人であることから、支那人が満洲の主権を当然に獲得する権利があると述べています。
これに対してプロンソン.レーは次のように述べています。
(支那本部〜いかに支那人が満洲に移住しても、満洲に対する権利を有するものではない。これはあたかもスペイン人移民がラテンアメリカ諸国、スペインの主権を樹立し、ブラジルにポルトガルの主権を、アメリカに、イギリスの主権、ケベックにフランスの主権、ハワイに日本の主権、シンガポールに支那の主権を樹立し得ないのと同様である。
もし植民あるいは移民したものの数が原住民の数を超えた、という事実が、主権を伴うことになる、ことになれば、日本は同一論法をもって、ハワイ群島は日本の主権を主張するかもしれない。
当時ハワイの全人口は36万人、そのうちアメリカ人は2万2千人、日本人が14万7千人もいました。
、レーは詳しくハワイと満洲を対比しながら、「アメリカは日本が満洲でとった政策を判定する資格はない」激しく批判するのです。
その他、ソ連に言及し、「軍国主義日本が、世界平和の脅威になるというのはソ連の宣伝であり、本当の軍国主義はソ連である。これまで日本が、アジアで果たしてきた、日本の役割を忘れてはいけない。
シナやソ連に同情するあまり、日本を孤立化させ発展を阻害してはならない。
日本こそはアジア安定の礎であり、共産主義の防波堤だ」という趣旨を繰り返しています。
アメリカの矛盾を鋭くえぐった、ジョン・トーランドの「大日本帝国の興亡」
日本を孤立化させ、たたきすぎると、アジアのバランスを崩し、共産主義の進出を許すことになるとして、警告する、アメリカ人は多かったのです。ウデマイヤー大将、リンドバーク大佐、フーバー元大統領、エール大学の、ニコラス・スパイクマン教授などです。
ジョン・トーランドの「大日本帝国の興亡」の中で排日移民法や、満州事変についての見解を紹介します。
満州事変について。
日本の満洲奪取と北支への侵攻について、アメリカがさらに激しい、言葉を用いて、日本を弾劾するようになると、両国の溝はより深くなっていった。
この同義的な原則に基づく、アメリカの非難は、逆に、一般の日本国民の結束を固めるだけであった。
なぜ、アメリカではモンロー主義が許されるのに、アジアに対して「門戸開放」の原則を強制しようとするのか?
日本が匪賊の跋扈する満洲に乗り出すことは、アメリカがカリブ海に武力介入するのと何ら変わらないではないか?(注1)
そのうえ、どうしてアメリカのような広大な、国家が、第一次大戦以来、日本の発展を阻んできたいろいろな問題を理解できるといううのであろうか?
イギリスやオランダが、インドや香港、シンガポール、及び東インド諸島をを領有することは完全に認めることはできるが、日本が彼らの真似をしようとすれば、罪悪であると糾弾する根拠はどこにあるのか。(注2)
?
なぜインディアンに対して述作をろうし、酒を使い、虐殺して土地を奪った、アメリカ人が、日本人が中国で同じことをしたからといって、指をさすことができるのだろうか?
アーノルド・トインビーは一面では、(注1)の考えの正統性を認めている。後日彼は、「日本の満洲に対する経済進出は、日本が国際社会で存立
していくうえで不可欠であったので、決して、どん欲な、行為とはいえない。
ーー国民党に率いられた、
中国と、ソ連と、太平洋にあった、人種偏見の強い、英語国民が、日本を圧迫すると、日本の国際的地位は、再び危ういものとなった。」と述べている。
グルー大使は(注2)のいけんに同調したい意見を国務省に、具申したことがあった。
リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵の国際連盟批判
日本は国際連盟で、丁重なる言辞をもって、しかも強硬なる、行動をもって、世界に対し「満洲より手を引きなさい」と叫んでいる。
日本は、第三国の干渉や、仲裁を用いずに、直接の協議を支那との間に開かんとしている。
すなわち日本は極東における「モンロー主義」を要求しているのである。
支那
はこのモンロー主義に反対している。
あたかもラテンアメリカ諸国が、米国の「モンロー主義」に反対しているように。
しかし、アメリカの「モンロー主義」を承認している、国際連盟が、一人、極東の「モンロー主義」だけを拒否し、アジアを無制限に連盟の、権力化におかんとすることは困難であろう。
日本の占領以前の、満洲は、蒙古やチベットと同じく、何ら重要さもない、人口希少な支那辺境の1州に過ぎなかった。
しかも一度はロシアに占領され、もし日本が「奉天」の戦いに勝利しなければ、今頃はロシアの1っ州になっていたことだろう。
満洲が、日支両国の権利及び利益が、密に錯綜していることは、「スーダン」における、エジプトとイギリスの権益関係に似ている。
ゆえに満洲は日支両国
を深く結びつけるか、然らずんば、両国を永久に離反させる、不和の原因となるか、このどちらかである。
、
彼は日本に対して国際連盟理事会で、アメリカのモンロー主義や、イギリスのエジプトへのスーダン、フランスのルール占領を引用して次のように言うべきであった。
フランス代表に対しては「ルール」
英国代表には「エジプト」
アメリカ代表には「ニカラグア」
イタリア代表には「ゴルフー」
ポーランド代表には「ヴィルナー」
思考して聖書の一句を引用して、「誰も罪がないと思うものがあるなら、まず石を投げなさい」と付け加えれば、極東に対する、国際連盟の、物質的及び、精神的、無力は、米国傍聴者が、理事会参加したことによっても、少しも救済されない。
クーデンホーフ・カレルギーは「国際連盟は、フランスもイギリスも、アメリカも、イタリアも、ポーランドも自分たちがやってきたことは棚に上げて、満州事変を材料に、に日本だけを悪者にし、孤立化に追い込んでいると指摘しているのです。
彼が強調していることをまとめれば次の4点になります。
@日本は極東における、西洋文明の選手である。
A日本はソ連共産主義の、アジア侵略を防ぐ、大きな岸壁である。
B日本はシナの無政府状態を防ぐ、治安の巨岩である。
C欧米諸国はこのようなに本の立場を理解して、極東の「モンロー主義」を認めるべきである。
。
ジョージ.プロンソン.レー
内容説明
アメリカ政府が日本人に最も読まれたくない一冊です。満洲の地で起きたことには、アメリカの陰謀がからんでいた。やがて、それが、世界大戦を引き起こす。すべてを知っていた男の幻の名著を新訳。
目次
第1部 米国はアジアに何を求めるのか?(不承認主義;戦争を企てる者 ほか)
第2部 問われる判事の中立性(審問なしの有罪判決;支那ではない満洲国 ほか)
第3部 条約について(日本は不戦条約に違反したのか?;九カ国条約と決議 ほか)
第4部 真の問題は日本対共産主義(日本の存亡と危機;田中上奏文とされるもの ほか)
第5部 選択を迫られる米国(共産主義のためにシベリアを救った米国;立場を宣言した日本 ほか)
著者等紹介
レー,ジョージ・ブロンソン[レー,ジョージブロンソン] [Rea,George Bronson]
1869年、ニューヨーク市生まれ。技師であったが、米国の新聞社の特派員として1898年、アメリカ=スペイン戦争の際キューバに赴き、1899年のアメリカ=フィリピン戦争でも現地で取材。第一次世界大戦中は米国陸軍情報部大尉、また在マドリッド大使館付副武官を務めた。1905年に上海で英語の雑誌『The Far Eastern Review』を創刊し、国際的に名が知られるようになる。東洋の政治状況に詳しく、また技師として中国での鉄道建設計画及び資金調達に深く関与し、さらに中国及び日本政府要人とも親密な関係を築いていた。1932年、満州国建国と同時に満州国政府顧問に就任。1935年7月に病気のため極東より帰国。1936年11月21日、ワシントンにて死去。アーリントン国立墓地に眠る
満洲国建国の正当性を弁護する 単行本 ? 2016/6/29
ジョージ・ブロンソン リー (著), & 2 その他
4.8 5つ星のうち4.8 12個の評価
すべての形式と版を表示
最大10%ポイント還元 本のまとめ買いキャンペーン
その存在を列強によって否定され、「日本の傀儡国」としてネガティブにとらえられてきた満洲国。だが満洲国建国は、四分五裂し、軍閥が相争う中国と決別し、新たな民主国家をつくる試みだった。
中国を知悉する米人ジャーナリストが、満洲国の正当性を米国民に向けて訴えた、切れ味鋭い「弁護論」。原書1935年刊行。日米開戦直前に刊行された同時代の貴重な証言!待望の新訳。
日露戦争時、実はロシアと清国は「露清密約」を結んでおり、“連合軍"として日本と戦ったのであるが、このことは日本人には教えられていない。終戦の調停役であったアメリカも、当然オトボケで条約を結ばせたため、グルだった。これが知られていれば日本は清国に賠償を要求できたのだ。この一事でも分かるとおり、満洲国建国をめぐって、日本が国際連盟脱退に至る歴史は、一般的解釈とされている「日本の侵略」ではなく、清国利権を狙う、アメリカを始めとする欧米列強の謀略であり、国際的な「日本イジメ」だったのである。本書では、アメリカのジャーナリストであり、満洲国の顧問を務めていた著者が、列強の言動のあまりの理不尽さに憤慨し書き残した、「満洲国をめぐる真実」である。特に、著者は、「アメリカの意図はどこにあるのか」を厳しく追及している。アメリカ政府が日本人に最も読まれたくないであろう歴史の証言を、詳密に新訳した一冊である。
七 支那事変の真相
中国大陸を舞台にした、列強の謀略戦場
八 難航した日米交渉
大西洋会談までに決意を固めていた、ルーズベルト大統領
第二部 大東亜戦争のクライマックス
一 真珠湾攻撃日本の「奇襲」に安心した、米英首脳
二
空前のスケール .破竹の進撃
アジア.アフリカの植民地民族に与えた、独立への夢と勇気
三 大戦のハイライト.大東亜会議
昭和18年のアジア.サミット
四 壮絶なる戦い.玉砕戦
日本の勇戦を称える世界の人々
五
世界が共闘した、特攻隊の出現と感動
日本人よりも深く洞察し教官を寄せる外国人
六 敗戦に顕現された民族の個性
日本帝国の決断.国体護持の誓いと整然たる和平
七
忘れてはならない敗戦時の自決者たち
壮絶なる民族の留魂
八 世界が評価する五つの歴史的意義
戦争目的を達成した国はどこか.見事なるドラマの完結
第三部 アジアに生きる遺産
一 フィリピン
日本軍政と民族意識の回復{ニック.ポアキン、ピオ.デュラン、望月 重信}
二
インドネシア
大東亜戦争の意義を語る指導者たち{ナチール、ナスチオン、ルピス、アラムシャ}
三 マレーシア.シンガポール
大東亜戦争を評価する人々{ノンチック、アビデン}
四 ビルマ{ミャンマー}
独立の系譜{バー.モー、オン.サン}
五 インド
独立に果たした、日本の役割{ビバリー.ポーズ、チャンドラ.ポーズ}
第四部 日米戦争の超克
一 大東亜戦争をどう教えるか
教科書記述のモデル
二 米英側から見た、第二次世界大戦の批判と反省
米英同罪論から、ルーズベルト開戦挑発論への展開
三 アジアは「反日」か「親日」か
今も続く二つの評価とそれを超克する方途を探る
四 憎悪のアジアか仁愛のアジアか
岡倉天心の「東洋の理想」とサンフランシスコ講和会議のおけるスリランカ代表の演説
五 アメリカ大統領に謝罪を要求する
大東亜戦争完結のために
スポットライト
第一部
明治天皇とハワイ王 カラカワ
蒋介石の慨嘆ーー戦わない共産軍
米国は、開戦前に巨額の対支援助
対米覚書「最後通牒」手渡しの遅延
第二部
大東亜共同宣言
玉砕を称える詩三篇
世界の玉砕戦比較
大東亜戦争「玉砕戦一覧表」
マバラカットの特攻記念碑と愛媛県西条市の特攻慰霊碑
第三部アギナルド将軍と黄金造りの日本刀
リカルテ将軍の孫ピスルミノ.ロメロ少年のこと
親日三巨頭{リカルテ、デュラン、ラモス}の運命
アラムシャ将軍I 大著{ペタと義勇軍ーーインドネシア国軍の母体}
アラムシャ将軍U 大局観に立った大東亜戦争の意義
インドネシア軍政とモーベル賞
BIA{ビルマ独立義勇軍}〜鈴木雷帝への感謝状
牛島中将とビルマ人士官候補生
チャンドラ.ポーズ{ネタジ}に対するガンジーとウー.ヌーの評価
インド国民軍{INA}の進軍歌「征け征けデリーへ」と「愛国行進曲」
インド国会議事堂中央に掲げられたポーズの肖像
慰霊団が発掘した、日本兵の真相ーー一枚の徴発書.日本兵の花.コヒマの戦跡に立って
第四部海部演説を批判するウトモ氏
*情報戦の重要性を痛感した慰安婦像設置問題
*情報戦を仕掛けられたら、宣戦布告されたに等しい
*ファンタジーではなくリアリズムで世界を見る
*情報戦は立ち技より総合格闘技の世界
*せっかくの情報を生かせなかった日本軍
*相手を貶めるための嘘「誣告」は中国のお家芸
*「約束」という概念が日本とは違う韓国人
*中国の「手のひら返し」に騙され続ける日本
*英語で日本を貶め続けている朝日新聞
*英語で土下座している外務省のホームページ
*火事も情報戦も初期消火がポイント
*日本が自立するための条件
日本よ、情報戦はこう戦え!山岡鉄秀2018
*はじめに
*感情に流されづに淡々と理を説く
*嫌韓,嫌中ではなく地域の平和な生活を訴える
*本書で触れる情報戦について
第一章 情報戦が世界一 苦手な民族.日本人
*情報戦の重要性を痛感した、慰安婦像設置問題
*情報戦を仕掛けられたら、宣戦布告されたに等し
*外国との戦争時に行われた日本人の情報戦
*GHQのスキームに自らはまる日本人
*ファンタジーではなくリアリズムで世界を見る
*情報戦に敗れた日本@「田中上奏分文」
*情報戦に敗れた日本A 「通州事件」
*情報戦に敗れた日本B「ハル.ノート」で戦争に追い込まれた日本
*一方的で極端な主張は逆に利用する
*情報戦は立ち技より総合格闘技の世界
*情報戦に敗れた日本C世界の情勢を読み切れずドイツに頼った日本
*情報戦を戦った先達.藤村義朗の苦心
*せっかくの情報を生かせなかった日本軍
*オーストラリアで慰安婦像問題に遭遇するまで
*在豪州韓国人大使との議論
*日本人が主張すれば相手は虚を突かれる。
第二章 優位性の議論と劣位戦の議論を峻別せよ
*劣位戦を避けて優位戦に持ち込む
*こちらの土俵を作り直して、相手を巻き込む
第三章 議論する相手の性質を見極めよ
*民族性の違いを分析する
*相手を貶めるための嘘「誣告」は中国のお家芸
*「伝統的に嘘つきだ」と理解したうえで対応する
*悪事はもみ消す「避き」という文化と伝統
*泥棒に追い銭をする日本の文化
*「約束」という概念が日本とは違う韓国人
*公の約束より個人の関係を重視する韓国
*相手がどんな人物かあらかじめ情報収集しておく
*「中国の手のひら返し」に騙され続ける日本
*中国の属国にされつつあるオーストラリア
*力を蓄えたら、一気に攻撃に来る中国
*恨みを続けるのが伝統という、韓国の「恨」文化
*歴史的に迫害されていた朝鮮半島の女性たち
*「元慰安婦」の中には「泣き女」がいる
*中国人や、韓国人は決して議論に強くない
*韓国人は偉そうな人間しか尊敬しない
第四章 内なる敵を克服せよ
*英語で日本を貶めている朝日新聞の大罪
*外務省ホームペジが格段に良くなった?
*相変わらず、英語で土下座している外務省のホームページ
*自ら加害者になっている外務省
*曖昧過ぎる河野談話の罪
*英語で北朝鮮に忖度している海上保安庁の資料館
*働きかければ状況は変えられる
*竹島で殺された漁師たちを無視している外務省
*いまだ日本は12歳の「ビビり」な少年
第五章 反論より立証に徹せよ
*反論にもなりうる立証の重要性
*謝れば終わりになると思っている日本人
第六章 即時性の重要性を理解せよ
*間違った主張にはすぐ反論して叩き潰す
*完璧を期して沈黙したら負けを意味する
*火事も情報も初期消火がポイント
*記者のインタビューにも即時応える
*インタビューされたら、率先して、情報提供する
*渋谷でオーストラリア人記者と立ったまま議論を交わす
*あくまで、冷静に理論的にしかし臆することなく即時対応
第七章 カウンター.ナラティブを英語で作れ 実例集
*「対抗する物語」の重要性
*子どもを洗脳しも反日を展開する韓国のカウンター
*被害者を侮辱せず事実のみ述べる
*朝鮮人慰安婦をいたわるロジックで真実を語る
*歴史の記憶は歪曲した記憶を含んでいる
第八章 情報戦に勝つための自己変革
*情報戦のカギはフレーム ワークの再設定
*みんなが動けば外務省も変わっていく
*米中の駆け引きの中で日本がやること
*安倍首相への注文
*国のトップにこそ求められる即時性
*ディベートを航行の必須科目に
*日本が自立するための条件
*日本人の美徳である、情感は弱みにもなるーーケビン.ドーク教授の指摘
*日本的センチメンタリズムがつけこまれる原因
*いいところは残し克服していくべき所は克服する
資料
資料2
*情報戦の重要性を痛感した慰安婦像設置問題
*情報戦を仕掛けられたら、宣戦布告されたに等しい
*ファンタジーではなくリアリズムで世界を見る
*情報戦は立ち技より総合格闘技の世界
*せっかくの情報を生かせなかった日本軍
*相手を貶めるための嘘「誣告」は中国のお家芸
*「約束」という概念が日本とは違う韓国人
*中国の「手のひら返し」に騙され続ける日本
*英語で日本を貶め続けている朝日新聞
*英語で土下座している外務省のホームページ
*火事も情報戦も初期消火がポイント
*日本が自立するための条件
日本よ、情報戦はこう戦え!山岡鉄秀2018
*はじめに
オーストラリア最大の都市シドニー郊外の人口4万のストラスフィールドという街に慰安婦像県立の話が始まった。2014年のことである。
同市は中国、韓国系の人口が30%を占め、日系人は70人ほどの町である。慰安婦像設置の仕掛け人は、毎度のことながら、韓国人と思いきや、実は中国人だった。在豪州韓国人をけしかけて、「日本の戦争犯罪を糾弾する、中間連合」という反日団体が結成された。
ストラスフィールドの慰安婦像設置の動きも、中国共産党の指令によることは明らかだった。
当時オーストラリアに永住し、企業で働いていた私は、日本人や、オーストラリア人とともに、「反日」勢力と闘い続け、市議会での、慰安婦像設置議案を、全面秘訣まで持ち込んだ。
どう戦ったかは「日本人よ、もう謝るな!」(飛鳥新社)にも書いている。
*感情に流されづに淡々と理を説く
ストラスフィールド市議会で、慰安婦像設置に関する公聴会が開かれるのを知ったのは、開催前日の、2014年3月31日のことだった。
パソコンに慰安婦問題で、日本を貶める、勢力と闘う、日本の女性たちのグループ、「なでしこアクション」からの拡散メールがめぐって舞い込んだ。
ストラスフィールドに住む日本人の母親が、公聴会が開かれるので、日本人に集まってほしいという内容だった。
わたしは早速「なでしこアクション」に連絡し、このお母さんにわたしにすぐ連絡が取れるように「携帯電話番号を渡して依頼した。
しばらくして、そのお母さんに頼まれた、オーストラリア人男性から携帯に電話が入ったので持論を述べた。
「相手はいつものように、歴史問題で、日本を糾弾してくるはずだ。しかしその土俵に乗っては反論してはならない。事実関係がどうであれ、そんな問題をローカルコミニュティーに持ち込んではだめだ。という原則論を一貫して主張するべきだ。」
我々は意気投合してその日の夜に合うことにした。
翌日の公聴会では参政.反対4人ずつがスピーチすることになった。相手方は、中国人、韓国人だけだったが、こちら側は、地元のオーストラリア人や、アメリカ人とわたしを含む日本人で、市会議員たちを前に持論を展開した。
アンカーを務めた私は次のように述べた。「わたしはいつでも、中韓コミニュティーの方と歴史について話し合う用意があります。しかし慰安婦像を建てる真の目的は何でしょう。慰安婦像設置推進団体の代表の方が新聞のインタビューで明言されています。
慰安婦像を設置
目的は、「日本が昔も今も、どんなにひどい国か、世間に知らしめるため」でそのためにオーストラリアに10基の慰安婦像を建てるのが目的であると。アメリカでは、慰安婦像が原因で、日系の子供たちに対し、差別やいじめが発生しているのですが、それについては「日本人特有の嘘だ」と言い切っています。
こんなことがまかり通るなら、私は自分の子供を決してストラスフィールドの学校に生かせないでしょうこれは明らかに政治的反日キャンペーンであり、慰安婦像はその象徴に過ぎないということです。
女性の人権を取り上げるならば、他の国の助成も含めなければ、差別に当たるのではないですか?
これまでのところ、ストラスフィールド
は多文化主義が最も成功した、街です。その評価を維持しなければなりません。
慰安婦像によって分断された、街として記憶されてはなりません。市議会議員の方もそう思われるのではないでしょうか」
公聴会の結果は「市で判断できる問題ではないので、州や連邦のの大臣に意見を求めます」という棚上げであった。
*嫌韓,嫌中ではなく地域の平和な生活を訴える
公聴会は何とか防戦したがこれから本格的な戦いになることは明らかだ。今回像設置に動いた、反日団体、「日本の戦争犯罪を糾弾する中韓連合」はあくまで慰安婦像設置に向けて、活動を継続しようとしている。
そこで公聴会傘下メンバーを集めて、既存の日本人会とは別に、慰安婦像設置阻止活動のためのグループJCN(Japan cominyuty Netwark)を結成した。
後にAJCN
公聴会のスピーチを組み立てた私が、JCNの代表になった。
現地のオーストラリア人を前面に出しながら、全ての議員や、多くの市職員に粘り強く語りかけていった。
州議会議員、国会議員、様々の政府機関にも自分たちの言葉で語りかけた。
公聴会というのは、セレモニーに過ぎない。だから公聴会で、正論を述べるだけでは不十分で、実際の勝負は、もっと包括的なコミニュケーション能力にかかっているのだ。
情報戦の重要性を示す冊子がある。
1969年スイスの国民保護庁が国民に配布した、「民間防衛」(civil defence)である。
スイスか「国民皆兵」だけあって、防衛に対する意識が高い。それによれば、敵からの侵略には段階があるという。
第一段階 工作員を送り込み、政府上層部の掌握と洗脳
第二段階 宣伝、メディアの洗脳、大衆の扇動 無意識の誘導
第三段階 教育の掌握、国家の破壊
第四段階 抵抗意識の破壊、平和や人類愛をプロパガンダとして、利用
第五段階 教育やメディアを利用して、自分で考える力を失う
最終段階 国民が無抵抗で腑抜けになった時に大量移住して侵略完了
*本書で触れる情報戦について
第一章 情報戦が世界一 苦手な民族.日本人
*情報戦の重要性を痛感した、慰安婦像設置問題
*情報戦を仕掛けられたら、宣戦布告されたに等し
*外国との戦争時に行われた日本人の情報戦
*GHQのスキームに自らはまる日本人
*ファンタジーではなくリアリズムで世界を見る
*情報戦に敗れた日本@「田中上奏分文」
*情報戦に敗れた日本A 「通州事件」
*情報戦に敗れた日本B「ハル.ノート」で戦争に追い込まれた日本
*一方的で極端な主張は逆に利用する
*情報戦は立ち技より総合格闘技の世界
*情報戦に敗れた日本C世界の情勢を読み切れずドイツに頼った日本
*情報戦を戦った先達.藤村義朗の苦心
*せっかくの情報を生かせなかった日本軍
*オーストラリアで慰安婦像問題に遭遇するまで
*在豪州韓国人大使との議論
*日本人が主張すれば相手は虚を突かれる。
第二章 優位性の議論と劣位戦の議論を峻別せよ
*劣位戦を避けて優位戦に持ち込む
慰安婦問題などで 「日本政府や外務省は、もっときちんと反論すべきだ」
といわれる。
しかし「単なる反論」は優位戦.劣位戦の定義、峻別
によると、劣位戦に立った議論である。
どういうことか
慰安婦問題の場合、韓国が、「日本はかって酷いことをした」ということを設定して発信している。それに大した、日本が、「いやそんなことはしていない」と反論することは、
裁判で言えば、被告の立場で反論することを余儀なくされている。婦女暴行をして殺した、と非難されて、「いや、私はその時どこどこにいて、そんなことはしていません。被害者の〇〇三は知りません。動機もありません」という反論は、その時点で、ディフェンシブ「守り」になってしまっている。
これは外から見ると、「被告席から一生懸命反論している」という、最初から不利な、形成を余儀なくされているのだ。かなり反論しても、せいぜい「証拠不十分だから起訴しない」という程度の価値になってします。日本人は「これでやむを得ない。まあ、良しとしよう」と妥協的になる傾向がある。単なる反論は、基本的には劣位戦の議論である。議論するときは、劣位戦を、極力避けることだ。いかに優位な形に持ち込むかがものすごく重要だ。
例えば、ストラスフイールドの戦いでは、韓国側が例によって「日本軍は勝ってこんなひどいことをした。あんなひどいことをした。女性の人権を侵害しまくった」
と述べてきた。それに対し、歴史認識に踏み込んで、議論しようとすると、終始相手のペースにはまってしまう。
そこでこちらは、現地に住んでいる、オーストラリア人を揃え、「そもそも、そういう議論をここですべきではない。お門違いだ。...と
慰安婦像を設置
目的は、「日本が昔も今も、どんなにひどい国か、世間に知らしめるため」でそのためにオーストラリアに10基の慰安婦像を建てるのが目的であると。アメリカでは、慰安婦像が原因で、日系の子供たちに対し、差別やいじめが発生しているのですが、それについては「日本人特有の嘘だ」と言い切っています。
こんなことがまかり通るなら、私は自分の子供を決してストラスフィールドの学校に生かせないでしょうこれは明らかに政治的反日キャンペーンであり、慰安婦像はその象徴に過ぎないということです。
女性の人権を取り上げるならば、他の国の助成も含めなければ、差別に当たるのではないですか?これまでのところ、
ストラスフィールド
は多文化主義が最も成功した、街です。その評価を維持しなければなりません。
慰安婦像によって分断された、街として記憶されてはなりません。市議会議員の方もそう思われるのではないでしょうか」
公聴会の結果は「市で判断できる問題ではないので、州や連邦のの大臣に意見を求めます」という棚上げであった。
*こちらの土俵を作り直して、相手を巻き込む
慰安婦の議論について、外務省の反応はそもそも反論にも
なっていない。
優位戦の議論に持ち込む以前に、中国や、韓国の言っていることに曖昧に反応し、「もう誤っています。賠償しています」では全然話にならない。その段階からそのレベルを二段階位あげて、こちら〜土俵を作っていく。受け身ではなく、プロアクティブに自分たちで土俵を作り、相手を乗せるという発想が必要である。これを呈してやったのがストラスフイールドの防衛線なのだ。
第三章 議論する相手の性質を見極めよ
敵を知り己を知れば百戦戦いて危うからず
。
敵を知り
とは日本人の一番弱いところであろう。
いわゆる戦国の軍師なるものの仕事は敵を知ることであった。
武田信玄の山本勘助、豊臣秀吉の黒田官兵衛、勇将ははいくらでもいるが、軍師は少ないのである。
*民族性の違いを分析する
敵を知り己を知れば百戦戦いて危うからず。大東亜戦争で、敵アメリカが、最も力を注いだのが敵、日本を知ることであった。アメリカは文化人類学者なども動員して、日本人はどういう民族的資質を持っているかを研究した。
一方日本はソ連のスパイだった朝日新聞の尾崎秀美が言い出した「鬼畜米英」を唱え、英語も適正外国語として禁じてしまった。敵を知ろうとしなかった。
*相手を貶めるための嘘「誣告(ぶこく)」は中国のお家芸
中国、韓国の民族的特性は何か?
「誣告」は中国のお家芸だ。嘘をついて相手を貶めることを「誣告」という。
誣告とは「虚偽の事実で訴える」ことである。裁判では「偽証」となる。
南京で大虐殺があったという嘘をついて、日本を貶める。典型的な誣告である。
南京で虐殺がなかったことはすでに公知の事実の事実である。ここでは省略する。
ではそれに対してどう対応すべきか?
「誣告」は韓国でものお家芸だ。誣告は儒教国のお家芸なのである。
韓国では一人当たり「偽証」は日本の1400倍もある。
強制連行慰安婦は当然誣告である。
ではそれに対してどう対応すべきか?
*「伝統的に嘘つきだ」と理解したうえで対応する
*儒教、悪事はもみ消す「避き(ひぎ)」という文化と伝統
儒教
古典に親しむ「論語」より 父は子のために隠し、子は父のために隠す 2013/09/02
今日は家族と国家の関係について述べた「論語」の一節を取り上げます。
葉(しょう)という県の長官が孔子に言いました。
「私の村にはとても正直な者がいます。彼の父親が羊を盗んだとき、自らの父親を訴えたのです。」
孔子はこれを聞いて答えます。
「私の村の正直者というのはそれとは違います。父は子のために罪を隠し、子は父のために罪を隠します。本当の正直とはその心の中にあるものです。」
(以下、書き下し文)
葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰く、吾が党に直・躬(ちょくきゅう)なる者あり。
その父、羊を攘みて(ぬすみて)、子これを証す。
孔子曰く、吾が党の直き者は是れに異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きことその中(うち)に在り。
(白文)
葉公語孔子曰、「吾党有直躬者。其父攘羊、而子証之。」 孔子曰、「吾党之直者異於是。父為子隠、子為父隠。直在其中矣。」
キーワードは「誣告(ぶこく)」「避諱(ひき)」「性即理」の3つです。
山岡さんの『日本よ、情報戦はこう戦え!』は、現状このような事態になっているからこそ、絶対に必要な知見が満載の本です。
未読の方は<<絶対に>>読んで下さい。絶対ですw
それでは、以下に同書よりご紹介します。
(TSJ"@紫"管理人 / https://twitter.com/realistjp )
-------------------------------------------
日本よ、情報戦はこう戦え!
日本よ、情報戦はこう戦え!
作者: 山岡鉄秀
出版社/メーカー: 扶桑社
発売日: 2018/08/01
メディア: 単行本(ソフトカバー)
この商品を含むブログを見る
●相手を貶めるための嘘「誣告(ぶこく)」は中国のお家芸
ここで私が特に取り上げたいのが、中国人の恐るべき伝統、「誣告(ぶこく)」だ。
「誣告(ぶこく)」は立命館大学の北村稔名誉教授に教わった。
「誣告(ぶこく)」という概念は、「虚偽の事実で訴える」ことである。
虚偽の申請、虚偽の訴えをして相手を貶めるという意味だ。
●「伝統的に嘘つきだ」と理解した上で対する
中国で教学の観念としてある「誣告(ぶこく)」という行為、つまり意図的に事実を偽り、他人を罪に陥れるために告訴する、ということは日本の文化に相いれないものだった。
一方、中国や韓国では、同国人同士で「誣告(ぶこく)」し合ってきた長い歴史があり、伝統となっている。
それが日本に対して向けられたのが南京大虐殺であり、慰安婦強制連行であるということだ。
韓国で桁外れに偽証罪が多いのは、「誣告(ぶこく)」文化だからだ。
中国や韓国には、事実を偽り他人を罪に陥れる「誣告(ぶこく)」という概念があることを、日本人は知らなければいけない。
まさに小さな怒りを大きな恨みに仕立て上げ、過去の古い案件を新たに蒸し返し、大げさに言うのが「誣告(ぶこく)」の手法である。
北村教授によれば、中国ではかつて、でたらめな訴訟を書くことを専門にした「訟師」と呼ばれる職業まであったという。
日本人は、事実にまったく即していないことを言うことに非常に抵抗があるが、中国や韓国は逆で、まさに息をするように嘘をつくのが当たり前で、そうしなければ生き残れなかったという長い歴史と伝統があることを理解して対応しなければならない。
●悪事はもみ消す「避諱(ひき)」という文化と伝統
これも北村教授に教わったことだが、儒教の後継変種である朱子学に含まれている、避諱」という教えがある。
避とは、都合の悪いことを隠す、という意味で現在も使われているそうだが、もともとの意味は、「徳のある人間の過失を隠すことは尊い行為だ」という教えである。
たとえば、道徳水準の高い君子が治めてこそ国は安定する。
徳のない小人が政権を担えば、たちまち乱世だ。
君子も人間だから時には過ちを犯すわけだが、社会の安定のためには君子の犯した過ちは隠し、逆に功績はことさら大げさに讃え、威信を高めることが大事なのだ。
それは道徳的に正しい行為だとされている。
つまり、国を治めることを大前提の至上命令と考えたら、それを治める人の悪いところは隠し、いいところは誇大に宣伝することが道徳的に正しいというのだ。
だから中国や韓国では、あらゆる醜態も悪事も隠すことがむしろ道徳にかなった義務になっているわけだ。
過ちを隠すということは、真実を隠して嘘を申告するということになる。
したがって、「避諱(ひき)」は「誣告(ぶこく)」に容易に転化してしまうと北村教授は言う。
避諱から誣告へとつながっていくシークエンスがあるわけである。
小学生が日本人に慰安婦にされたとか、一般家庭から二〇万人の少女が拉致されて性奴隷にされて虐殺されたなど、なんの証拠のないままに勝手に話を膨らませ、被害者として自己陶酔している韓国人の姿に激しい違和感を覚える日本人は多いが、しかし彼らにとっては伝統の「誣告」にすぎないのである。
*泥棒に追い銭をする日本の文化
●泥棒に追い銭をする日本の文化
さらに北村教授は朱子学には、「性即理」という基本原理があることを指摘する。
性とは人間の本性、すなわち主観的願望であり、その性に客観的世界を律する理が一体化することで、自分たちの主観的願望に限りない客観性がもたらされる」という考え方である。
それゆえ中国人や韓国人にとって、「誣告(ぶこく)」とは自らの主観的願望を客観的事実だと強弁することに同義だ。
主観的願望ありきだから、主観的願望が変われば、「誣告(ぶこく)」の内容も変わっていく。
主観的願望とは無関係に、事実は事実として客観的に存在するという日本人の発想とはまったく相いれない。
そして、「誣告(ぶこく)」や「避諱(ひき)」が韓国の恨の文化に結びついたらいったいどうなるのか、火を見るより明らかだろう。
異民族を自国文化の延長で理解しようと思ってはいけないのだ。
たとえば、韓国がお家芸の「誣告(ぶこく)」を繰り出しているときにひたすら謝罪して金で解決しようとしたら、いったいどうなるか?
相手が道徳的行為としてやっている「誣告(ぶこく)」で金をせしめることができたら、ますます「誣告(ぶこく)」は激しくなるだろう。
だから、日本のようにひたすら自己批判して平身低頭すれば平和がもたらされるという発想は、絶好のカモなのだ。まさに日本人は告の格好の餌食である。
それらを理解した上で、第二章で述べた優位戦の議論に持ち込まなければいけない。
そういうことの理解なしでは勝てるわけがないのである。
これも中国の古典『孫子』の兵法で「相手を知り、己を知れば百戦殆からず」という言葉があるが、その「相手を知り」という部分が全然できていないのが、今の日本なのだ。
何度騙されても、誠意を示せば相手も誠意を示してくれる、といった極めて非現実的なお花畑的発想から抜け出せない時点で、もうすでに負けている。
日本よ、情報戦はこう戦え!
日本よ、情報戦はこう戦え!
作者: 山岡鉄秀
出版社/メーカー: 扶桑社
発売日: 2018/08/01
メディア: 単行本(ソフトカバー)
この商品を含むブログを見る
--------
--------------------------------------------------------
▼山岡鉄秀▼
AJCN Inc.代表・公益財団法人モラロジー研究所研究員
1965年、東京都生まれ。中央大学卒業後、
シドニー大学大学院、ニューサウスウェールズ大学大学院修士課程修了。
2014年、豪州ストラスフィールド市において、中韓反日団体が仕掛ける慰安婦像設置計画に遭遇。
子供を持つ母親ら現地日系人を率いてAJCNを結成。
「コミュニティの平和と融和の大切さ」を説いて非日系住民の支持を広げ、圧倒的劣勢を挽回。
2015年8月、同市での「慰安婦像設置」阻止に成功した。
著書に、国連の欺瞞と朝日の英字新聞など英語宣伝戦の陥穽を追及した『日本よ、もう謝るな!』(飛鳥新社)
*泥棒に追い銭をする日本の文化
*「約束」という概念が日本とは違う韓国人
https://oogchib.hateblo.jp/entry/ar687902
2014-12-17
日本人と韓国人とでは「約束・契約」の概念が全く違う
さて、今回はまた日本人と韓国人の価値観やあり方の問題の違いとなります。
ここに来る皆さんも、「韓国人はすぐに約束を破る」と言う話を聞いた事のある人は多いのではないでしょうか。
実際韓国人は約束や契約というものを殆ど守りません、むしろ当初交わした契約通りに事が進む方が珍しいくらいです。
しかし、実は多くの韓国人は自分達が約束破りの常習犯であるという自覚が一切ありません。
なぜなら約束や契約というものに対する概念が我々とは全く違うからです。
最初に結論を書いてしまうと、韓国人の中で約束や契約というのは、解りやすく書くと「相手の話を聞いた」程度の物なのです。
しかし韓国人の多くはそれと同時に約束や契約の言葉の意味自体は知っています。
その結果何が起きるかと言うと、例え約束や契約を交わしたとしても、後から自分にとって不都合な内容が判明したら、韓国側は理由をつけてそれを破ってもかまわないとなります。
そしてそれは「理由があるから仕方がないこと」であり、相手はその事を理解しないといけないとなるのです。
更に、約束や契約の意味自体は知っているからこそ、自分は理由があるから契約を履行できなくても仕方が無いが、相手は契約を必ず守らないといけないのです。
そして相手が韓国人との契約を当初の予定通りに守らないと、彼らは「ルールを守れない非常識な相手」と認識し怒り出します。
相手がどんな理由で契約を破ったとしても、それは韓国人にとっては「言い訳」に過ぎないからです。
日本人の感覚からすると非常に自分本位で身勝手考え方なのですが、これが韓国人の基本的な考え方であり価値観です。
以前から書いているように韓国人は自己の絶対正義を信じて疑いません、ですから自分達が契約を守れないのは「相応の仕方が無い理由」があるからとなるわけです、そうしなければ「自分達が道徳的に間違っている事」になってしまうからです。
そして相手は韓国人の道徳的正しさとその「仕方が無い理由」を理解しないといけないと、そう考えているわけです。
結果的に韓国人は一切の自覚無く約束や契約を次々と破ることになるわけです。
その解りやすい事例がこちらです
https://oogchib.hateblo.jp/entry/ar687902
*公の約束より個人の関係を重視する韓国
A氏の上司はアメリカ人。A氏が日本政府から叙勲を受け、来日した。そして帝国ホテルで叙勲パーティをやった。
アメリカに帰る前に韓国によって、パーティをやっていこうと考えた。パーティの相手側主賓として、韓国銀行副総裁をお願いして、OKされた。パーティ当日、待てど暮らせど韓国銀行副総裁はパーティに来なかった。秘書の話ではとっくに出かけたとのこと。パーティ会場まで、20分程度。そして結局パーティに韓国銀行副総裁は来なかった。
A氏らがアメリカに帰って分かったことは、
韓国銀行副総裁はパーティ会場まできた。そこでばったりと旧友と出会った。二人はそこで二人で飲み会に出かけたのだった。
公式のパーティよりも旧友との懇親のほうが大事だったのだ。
https://yukashikisekai.com/?p=34978
2015年の日韓合意については、日本の与党も野党もこれを支持している。
ふだんは意見の異なる産経新聞や朝日新聞も、「日韓合意は守るべき」ということでは考えは同じだ。
日本中が日韓合意を尊重している。
そして韓国が約束を守って、慰安婦像を動かしてくれることをじっと待っている。
それが慰安婦問題の現状だ。
日本が「慰安婦像(少女像)を動かしてほしい」と韓国に言うことは、「日韓合意を尊重してほしい」「国と国が交わした約束は守ってほしい」と言うことと同じ。
これに対して韓国の政府高官(外交部長官)は、韓国紙とのインタビューでこう発言している。
−−駐韓日本大使館の前に設置された少女像に対する立場は。
「公館を保護しなければならない外交部の国際的義務があるが、少女像に対する市民社会の熱望に共感して尊重しなければならない。日本が移転を要求すればするほど少女像はさらに作られる」
韓国外交部長官「日本が移転を要求すればするほど少女像は作られていく」
「日韓合意を守ってほしい」という日本に対して、長官は「日本が移転を要求すればするほど少女像は作られていく」と言っている。
これが記事のタイトルになっているのだから、この言葉がこのインタビューの中で特に重要な部分であるはず。
韓国風に言えば、これは妄言だ。
「日本が『約束を守ってほしい』と言えば言うほど、我々は約束は守らなくなる」と言っているに等しい。
こんなデタラメな話はない。
*相手がどんな人物かあらかじめ情報収集しておく
*「中国の手のひら返し」に騙され続ける日本
韜光養晦(とうこうようかい)の意味ですが、「韜光」は才覚を覆い隠すこと、「養晦」は隠居すること。合せると、爪を隠し、才能を覆い隠し、時期を待つ戦術のことです。自分が弱い間は他者に合わせておく、そして強くなると
一気に攻撃するのだ。
尖閣諸島の問題も1970年代に国連が付近に大量に石油が埋蔵されていると報告するまでは、中国は一言も言及しなかった。1972年 9月日中国交正常化 でも中国側は、未来の人々はよい解決策を見つけるでしょう。と棚上げしたといわれる。自分が強くなって解決しよう。そういう意味だったのだ。
、 力を蓄えたら、一気に攻撃に来る中国なのだ。
*中国の属国にされつつあるオーストラリア
中国の「静かなる侵略」は阻止できるのか
アジア太平洋の「中国化」について豪チャールズ・スタート大学教授に聞く
2018.6.29
0件のコメント
飯山 辰之介
日経ビジネス記者
トランプ政権は7月から500億ドル相当の中国製品に関税を課すと発表した。即座に対抗関税を発表した中国は、今世紀半ばまでに米国に並ぶ大国になるという目標を掲げている。両者の角逐は足元の“貿易戦争”だけでなく、先端技術や軍事まで幅広い分野で本格化していくだろう。
日経ビジネスでは6月25日号特集「米中100年 新冷戦〜IT、貿易、軍事…覇権争いの裏側」で、現在の関税措置の打ち合いや米国の懸念、中国化する世界の現状を徹底した現地取材でまとめた。それに関連して、米中に精通した専門家のインタビューを掲載する。
中国の影響力が急速に強まっていたオーストラリアでは昨年から反中感情が噴出し始めた。今年2月には豪チャールズ・スタート大学のクライブ・ハミルトン教授が『Silent Invasion〜China’s Influence in Australia(静かなる侵略〜オーストラリアにおける中国の影響)』という著書を出版。政治家への資金供与や大学への寄付、企業買収などにより豪州が中国に「侵略」されている様を克明に描き、広く豪州で物議を醸した。豪ターンブル政権は中国との関係見直しに動いたが、足元では豪中関係の悪化に苦しむ。オーストラリアはこれまでの関係をリセットできるのか、中国のアジア太平洋地域における影響力の拡大は阻止できるのか。『静かなる侵略』の著者ハミルトン教授に聞いた。
(イラスト:北沢夕芸)
親中派と見られていたターンブル政権は昨年からオーストラリアにおける中国の影響を排除しようと動きはじめました。
クライブ・ハミルトン・豪チャールズ・スタート大学教授(以下ハミルトン):オーストラリアでは1年ほど前に中国に対する認識のシフトが起きました。北京が長年に渡ってオーストラリアの政治、経済、学界エリートの言動に影響を及ぼしていたことに人々が気づいたからです。中国の影響力拡大やその手法に関する詳細なニュースやリポートが主要メディアや情報機関から出され、私の著書も広く読まれています。政府も中国との関係見直しに動き始め、7月には(中国を念頭に置いた)外国による内政干渉を制限する法律も施行される見通しです。
豪チャールズ・スタート大学のクライブ・ハミルトン教授。今年2月、豪州で中国が陰に陽に影響力を拡大している様を克明に描いた著書『Silent Invasion〜China’s Influence in Australia(静かなる侵略〜オーストラリアにおける中国の影響)』を出版し話題を読んだ。その内容の過激さから複数の出版社が出版を拒否する騒動も起きた。
ただ残念なのは、ここまで来るのに時間がかかり過ぎたことです。2005年、オーストラリアに政治亡命した在シドニー領事館の中国人外交官は「中国共産党がオーストラリアに深く入り込んでいる」と既に警告していました。ただ当時は誰も注意を払わず、具体的な対策が取られることもありませんでした。何年も経ってようやく、彼の警告が正しかったことが分かってきたのです。
次ページ
「中国の圧力に耐えるのは容易ではない」
中国の「静かなる侵略」は阻止できるのか
アジア太平洋の「中国化」について豪チャールズ・スタート大学教授に聞く
2018.6.29
0件のコメント
飯山 辰之介
日経ビジネス記者
印刷
?
クリップ
「中国の圧力に耐えるのは容易ではない」
今もオーストラリアの政治は深刻な問題を抱えています。中国マネーに踊らされ、彼らの都合のいいように操られる政治家がいます(昨年、野党議員が中国企業から金銭支援を得て中国寄りの発言をしていたことが発覚している)。特定の政治家が買収されていたように、北京は個人を通してその国に影響を与えます。誰が北京の利益になっているのか、それはなぜなのか、注意して見ていく必要があるのです。
経済界からは豪中関係の悪化を不安視する声が出ています。オーストラリア経済は中国との取引を拡大させており、既に中国なしでは立ち行かない状況です。
ハミルトン:(豪州産ワインの一部が中国の関税で足止めされたり、豪政府関係者に中国のビザが発給されなかったりといった)今オーストラリアが受けている北京からの圧力は最低限のものに過ぎません。北京のさじ加減一つで、もっときついプレッシャーを受けるリスクも十分にあります。習近平国家主席がオーストラリアと長期的な友好関係を結びたいと考えるのならば話は別ですが、今のところそうした兆しは見えない。スタンスは強硬です。
オーストラリアは中国の圧力に耐えて中国との関係をリセットできるか。北京がバックオフ(後ずさり)するまで強い態度を保てるか。残念ながら、現状で北京は今もオーストラリアの政治、経済、学界、メディアエリートの手綱を握っています。今の段階では北京の圧力に抗することは難しいかもしれません。
中国の弱点はソフトパワー
中国の影響力はアジア太平洋全体に広がり、かつ深まっています。
ハミルトン:中国にも弱点はあります。たとえば経済的、軍事的な影響力に比べて文化的な影響力(ソフトパワー)は小さい。彼らが持つマネーに群がる国々も、社会主義まで取り入れようとはしていません。民主主義のシステムに比べ中国の政治経済システムは硬直的で脆い部分がある。経済が立ち行かなければ、たちまち行き詰まるリスクを抱えています。
もっとも、しばらく中国の成長は続くでしょう。長期的に向き合っていくためには、互いの利益になる形を追求しつつ、かつ内政干渉には強い態度で臨まなければなりません。経済と政治とをできる限り分離し、経済的関係を構築したいというメッセージを北京に送り続ける必要があるのです。
これを実現するのは容易ではありません。中国との関係を見直すにはコストがかかるからです。経済的な損失を覚悟しなければいけないところまで来ています。アジア太平洋地域の各国に求められているのは、「自分たちの主権はいくらの価値があるのか」を見極めることです。主権を犠牲にしても(中国の支援を得て)GDP(国内総生産)の成長を優先させたいのか、あるいは、GDP成長をある程度犠牲にしても、自分たちの価値観を守るために中国との関係を見直しに踏み切るのか。各国が決断を迫られているのです。
次ページ
米国が手を引けば中国はますます自信を深める
完結
中国の「静かなる侵略」は阻止できるのか
アジア太平洋の「中国化」について豪チャールズ・スタート大学教授に聞く
2018.6.29
0件のコメント
飯山 辰之介
日経ビジネス記者
印刷
?
クリップ
米国が手を引けば中国はますます自信を深める
汚職や腐敗が蔓延している国々が、どこまで後者(価値観を守る)ことを選択できるのかは疑問です。北京が巧妙なのは、これまで西欧諸国が軽視してきた国々、たとえばアフリカ諸国などに入り込んだ点でしょう。オーストラリアで言えば(ポリネシアやミクロネシアなどの)太平洋諸国がこれに当たります。ここはオーストラリアにとっては裏庭のようなものですが、これまできちんと支えてきませんでした(今年4月、中国が南太平洋のバヌアツで軍事基地建設を検討していると豪州メディアが報じた。バヌアツと豪州とは2000kmほどしか離れていない)。
問題は同盟関係にある米国の動向です。彼らがインド太平洋で存在感を保とうとすれば豪中関係見直しの後押しになりますが、現状で米国のプレゼンスは弱まっています。もし今後、米国がこの地域から手を引くような兆しを見せれば、中国はますます自信を深めて、影響力の拡大に動くでしょう。
*力を蓄えたら、一気に攻撃に来る中国
*恨みを続けるのが伝統という、韓国の「恨」文化
2021年09月08日
恨(ハン)の文化
unnamed●「恨」(ハン)という文化
日本が深く恨まれたことをしたわけでもないのに(逆の例の台湾を見て下さい!)、どうして「反日教育」が韓国で行われているのかについて、もう一つくらい説明する必要があります。
Wikipediaの「恨(ハン)の文化」の項目から引用してみましょう。
歴史学者古田博司は朝鮮文化における恨を「伝統規範からみて責任を他者に押し付けられない状況のもとで、階層型秩序で下位に置かれた不満の累積とその解消願望」と説明している。
階層構造などから発生する恨みつらみ、悲しみ苦しみ、(支配者層に対する)あこがれや優越者に対するねたみ、辛い境遇からの解放願望(ここ重要)、またこうして積み重なった恨みつらみは何代かかっても解消されなければならない感情と考えています。これが恨(ハン)の感情の中核をなす朝鮮半島の文化なのです。
●恨みつらみ「をいつでも持ち、それを解消したいという願望
恨(ハン)の感情は日本にだけ向けられるものでなく、元々は自国の人物にも向けられる普遍的な感情です。
華夷秩序 特に日本にだけ向けられるように見えるのですが、そもそも朝鮮半島への圧政のひどかった異民族(漢民族・モンゴル族・満州族ほか)の方にこそ向けられるべきでしょう。モンゴル族・満州族は減りほぼ絶滅民族となっているので恨の対象ではなくなったのでしょう。
漢民族を恨まないのは特殊な中華思想のためでしょう。中華思想とは中国を中心として東西南北、離れた民族は蛮族と考える文化です。日本は韓国よりも中国から遠いため、朝鮮民族の華夷秩序(中華思想)の中ではより徳のない蛮族であると考えるためです。
理屈などなく、中華思想で考える朝鮮人は日本人を蛮族と考えています。その蛮族によって統治されたのだから許しがたいということでしょう(とはいうものの、日韓併合時代に恨による反乱が何度も起きたわけではありません。日本に恨の感情を持つよう扇動したのは日韓併合後、イ・スンマン大統領が政治的に人をまとめるために反日を利用しました)。
TD000125_20191217112323 この恨の「積み重なった恨みつらみは解消されなければならない感情」がよく韓国で見られる良い例が、歴代韓国大統領は任期後に投獄されたりすべてろくな目に合っていないことです。恨の感情とは、晴らさなければいけない鬱積した感情のことです。特権を享受していた大統領は妬ましいので牢獄にでも入れておけば恨が晴らすせるからでしょう。どのような大統領でも最後には弾劾されます。恨み晴らさで置くべきか、で形成されているのが韓国社会なのです。とくかく誰も彼も許せない、甘えた感情ともいえます(妬みや恨みの感情を常に晴らせると考えるのは甘えでしょう。まるで駄々っ子のようでもあります。恨はすべての人に向けられる感情といってよいでしょう。
韓国大統領が自ら「国民の皆さんの恨の感情を晴らすことができなくて申し訳ない」(何らかの政策が失敗している言い訳程度の意味)と言うくらい、韓国では重要な要素なのです。
とにかく、誰でもいいから恨んでいなければ精神の安定が保てないのです。日本人には理解しがたい感情でしょうね。日韓友好など夢また夢です。日本人は韓国・朝鮮人に配慮して彼らの恨のはけ口になりたいですか?ご免こうむりたいところです。
*歴史的に迫害されていた朝鮮半島の女性たち
https://kwsklife.com/korean-goddess/
バズニュース速報
高麗・朝鮮王朝時代の貢女の実態…残酷な歴史を知った韓国人が凍りつく…
高麗・朝鮮王朝時代の貢女の実態…
残酷な歴史を知った韓国人が凍りつく…
高麗・朝鮮王朝時代の貢女とは
高麗時代から朝鮮王朝時代まで続いた恥辱。
貢女とは一般に女性を朝貢品の1つとして献上すること。
高麗時代の献上先は蒙古(元)、契丹、明であり、
貢女だけでなく多くの朝貢を強いられていた。
貢女は高麗時代に始まったもので
新羅を含む以前の時代には確認されていない。
貢女の実態
「娘が生まれたら秘密にしたまま暮らす。
他人に知られるのが心配で隣人にも娘を見せられない。
娘を隠していた事実が発覚すれば村全体が害を被ることになり、
親族を縛って取り調べ、屈辱を与える。
処女を選ぶ過程でわいろが取り交わされるが、
金がある者は切り抜け、金がない者は連れて行かれる」
高麗時代、李穀(イ・ゴク:1298?1351)が
はるか遠くの元の皇帝に差し出した上訴は切々としています。
李穀が訴えたのはことあるごとに中国に献上しなければならなかった。
恥辱の歴史は5世紀初めまでさかのぼる。
高句麗・新羅から中国の北魏に女子を送ったという記録がある。
貢女の献上が最も盛んに行われたのは
高麗後期から朝鮮王朝時代にかけてだった。
自害・早婚で抵抗することも
高麗時代の元宗15年(1274年)
元が140人の婦女を連行したのを皮切りに
忠烈王・恭愍王代に元に対し献上した貢女は
170人以上、44回に上った。
朝鮮王朝時代にも太宗から孝宗の時代にかけて、
明・清に対し9回にわたり146人が献上された。
学界では、中国の高官が私的に連れて行った
ケースを合わせると数千人に上ると推定している。
中国から貢女を選ぶ採紅使が訪れると朝廷では
貢女選抜機関を臨時に設置し、巡察使が各地を物色して回った。
しかし、民衆の抵抗は激しかった。
孝宗の時代、慶尚道の鄭煌(チョン・ファン)という人物は
娘が貢女候補になったことを知るや娘の顔に薬を塗って傷を付けた。
また、娘を出家させるケースもあった。
高麗時代には乳飲み子を乳母が抱いて嫁がせることまであった。
そのため朝鮮王朝時代には世宗が
「12歳以下の女子については婚姻を禁ずる」
という法令を公布しなければならないほどだった。
朝鮮王朝時代の太宗8年4月、
各地から処女30人が選ばれ、ソウルに移送された。
父母を亡くして3年以内の女性や
息子がいない家の一人娘を除いた7人が
景福宮での最終審査に臨んだ。
しかし中国の使臣は美しい女がいないとして
官吏を棒で打とうとした。
娘たちも指名を避けようと体に障害があるかのように
口をゆがめたり、足を引きずったりした。
最終的に娘たちの父親は全員罷免されたり、流刑に処されたりした。
同年7月、再び選抜が始まった。
太宗は
「処女を隠した者、針灸を施した者
髪を切ったり薬を塗ったりした者など
選抜から免れようとした者」
について厳罰に処するという号令を下した。
国内外の権力関係を反映
貢女たちのほとんどは
他国で人妻や「めかけ」として人生を終えたが、
中には皇帝の目に留まり妃嬪(ひひん=君主の側室)の地位を与えられ、
権力の道を歩む者もいた。
高麗出身の奇皇后は母国高麗の王位継承に関与するほどだった。
貢女出身の妃嬪の父や兄も皇親として権勢にあずかった。
奇皇后の兄・奇轍(キ・チョル)は
高麗国王と並んで馬に乗り、歓談した。
朝鮮王朝時代の太宗・世宗の代に相次いで
2人の妹を貢女として送った。
韓確(ハン・ファク:1403?1456)は
右議政や左議政(共に現在の副首相クラス)などの要職を歴任した。
韓確が密通に及んだ事実が発覚した際も
世宗は「罰せられない人物」だとして黙認するしかなかった。
中国は大陸に新たな権力が誕生したり、
国内の国家権力が不安定になるたびに貢女を要求した。
高麗や朝鮮の新たな支配者にとって、
大国の承認を得ることは最大の急務だった。
世宗でさえ、貢女の献上は
「国内の利害のみならず、外国にも関係することなので、
ただ(中国皇帝の)令に従うのみ」
と語った。
ネットでの反応
・朝鮮民族が自らの正史を知ったら、皆発狂して自殺してしまうか、
半島から逃げ出して外国人になりすまします。
隣国の人間としては複雑な思いです。
・若い人々は本当の歴史を全然知らないのでしょうが、
どの世代がどの程度本当の歴史を知っているのか知りたいものです。
まあ知っていても他人には言えないし国の主張には同調するのでしょうけど。
・シナからの独立を祝って建築された独立門も日本からの開放で
出来たと思いこんでいるのが現在の韓国人ですからね〜
あなたにオススメの記事
⇒ 韓国人がベトナムに残した悲劇…ライダイハンを史実から消去画策…
*「元慰安婦」の中には「泣き女」がいる
*中国人や、韓国人は決して議論に強くない
*韓国人は偉そうな人間しか尊敬しない
第四章 内なる敵を克服せよ
*英語で日本を貶めている朝日新聞の大罪
*外務省ホームペジが格段に良くなった?
*相変わらず、英語で土下座している外務省のホームページ
*自ら加害者になっている外務省
*曖昧過ぎる河野談話の罪
*英語で北朝鮮に忖度している海上保安庁の資料館
*働きかければ状況は変えられる
*竹島で殺された漁師たちを無視している外務省
*いまだ日本は12歳の「ビビり」な少年
第五章 反論より立証に徹せよ
*反論にもなりうる立証の重要性
*謝れば終わりになると思っている日本人
第六章 即時性の重要性を理解せよ
*間違った主張にはすぐ反論して叩き潰す
*完璧を期して沈黙したら負けを意味する
*火事も情報も初期消火がポイント
*記者のインタビューにも即時応える
*インタビューされたら、率先して、情報提供する
*渋谷でオーストラリア人記者と立ったまま議論を交わす
*あくまで、冷静に理論的にしかし臆することなく即時対応
第七章 カウンター.ナラティブを英語で作れ 実例集
*「対抗する物語」の重要性
*子どもを洗脳しも反日を展開する韓国のカウンター
*被害者を侮辱せず事実のみ述べる
*朝鮮人慰安婦をいたわるロジックで真実を語る
*歴史の記憶は歪曲した記憶を含んでいる
第八章 情報戦に勝つための自己変革
*情報戦のカギはフレーム ワークの再設定
*みんなが動けば外務省も変わっていく
*米中の駆け引きの中で日本がやること
*安倍首相への注文
*国のトップにこそ求められる即時性
*ディベートを航行の必須科目に
*日本が自立するための条件
*日本人の美徳である、情感は弱みにもなるーーケビン.ドーク教授の指摘
*日本的センチメンタリズムがつけこまれる原因
*いいところは残し克服していくべき所は克服する
The Korea -韓国の真実- (blog.jp)
https://thekorea.blog.jp/
韓国:ウソをついて他人を蹴落とす社会 : The Korea -韓国の真実- (blog.jp)
https://thekorea.blog.jp/archives/11413657.html
2021年09月18日
韓国:ウソをついて他人を蹴落とす社会
●誣告罪(ぶこくざい)とは
誣告罪(ぶこくざい)とは、他人を犯罪者にするために、虚偽の発言で相手を貶める行為です。現在では虚偽告訴等罪(きょぎこくそとうざい)と言い、私がかつて調べた時点では日本では年間10件前後と、1億2000万人の国ですから、「ほとんどない犯罪」と言っていいでしょう。
韓国ではこの誣告罪(ぶこくざい)が多く世界一で、2000年から2014年の誣告罪は日本の500倍になっているそうです(ソース)。
毎年数が変わるので、この誣告罪を含む虚偽罪はBusinessJournalから引用すると、
2000年に、法廷での偽証罪で起訴された人は1198人、罪をでっち上げて訴訟を起こす誣告罪で起訴された人は2956人、詐欺罪で起訴された人は5万386人でした。それが08年には偽証罪が1544人、誣告罪が2171人、詐欺罪は7万人となり、13年には偽証罪3420人、誣告罪6244人、詐欺罪に至っては29万1128人と急増しています。
韓国で偽証罪で起訴された人の数は日本の66倍、人口比に照らすと165倍に達すると計算されています。
と、ウソが日本と比べて蔓延した社会であるということが分かります。
●ウソをつくことが常態化している社会
このように儒教が歪んだ方向に浸透している韓国・朝鮮の社会では、自分が正しいことも示す=ウソをついてでも自分が勝者側だということが正しいこと=ウソを方便としか思わない、ことになっているのです。
ウソも突き通せば、ウソではなくなる、ウソは悪いことではない=騙される側が悪いのだ、という理屈になっています。だまされる側が悪く、自分は嘘をついてることに罪悪感はありません。ウソをついてるという認識すらないかもしれません。
その意味では日本と、韓国・朝鮮の文化の組み合わせは最悪です。正直を旨とし、騙されても自分に落ち度があったと考える自罰的な日本人と、自分は常に正しいと考えウソも平気でつき、だますことも自分の権利だと考える韓国・朝鮮人。30年以上も韓国人の主張する慰安婦問題のウソに日本がいいようにされてきたのも、組み合わせの悪さゆえでしょう。
●高級ブドウの苗持ち出しに見る、韓国人のウソのつき方
2021年、日本の高級ブドウの苗木がおそらく盗まれ、韓国で販売されている事件は記憶に新しいところです。その韓国の業者は「日本は先進国なんだから、このくらい見逃してほしい」と言い、次には、
「ブドウの実を見に日本に行ったのは事実だが、苗木を日本から持ってきたわけではない。苗木はすべて中国から輸入しているんだ。文句を言うなら中国に言え!」
ここでも、「苗木を盗んで売っている中国が悪い」と自分の非を認めません。日本産イチゴなども種が盗まれた件ですが、「種苗法」を制定しても盗まれることを防ぐには限界がありそうです。儒教文化の韓国・朝鮮社会では、「遵法精神」が育ちにくく、法を軽く見て法に効き目があまりありません。いつくかの議題で、日韓関係が平行線なのも、文化が違いすぎるからです。韓国人は、自分に非があることを絶対に認めないのです。「日本側が譲歩する」という悪癖で、今まで乗り切ってきたのです。日韓関係の問題は最近起こったことではなく、それこそ関係を持ち始めた約150年前からずっと日本側が騙されるばかりだったのです。
ビジネスジャーナル > 社会ニュース > 韓国、国民の虚言が社会問題化
https://biz-journal.jp/2016/06/post_15482.html
2016.06.14 00:12
社会
韓国の「常識」は世界の「非常識」
韓国、国民の虚言が社会問題化…偽証罪は日本の165倍、嘘で他人を蹴落としが常態化
文=林秀英/ジャーナリスト
【この記事のキーワード】韓国, 詐欺罪, 偽証罪, 誣告罪, 韓国の「常識」は世界の「非常識」
「Thinkstock」より
「韓国人は息を吐くように嘘をつく」と揶揄されることがありますが、あながち間違っているとはいえません。そしてそれは、韓国人たち自身も否定できません。
韓国内の有名な弁護士であるベ・グムジャ氏は「国全体が嘘の学習場だ。一挙手一投足がマスコミに報道される大統領などの指導層は、影響力が大きい嘘の教師だ」と述べ、大統領すらも公の場で大胆に嘘をついている状況を自虐的に表現しました。
韓国では、以前から虚言、欺瞞、嘘つき行為が蔓延していることが社会問題となっていましたが、特に近年は惨状に拍車がかかり、不況の影響もあってか詐欺犯罪が増加し続けています。
2000年に、法廷での偽証罪で起訴された人は1198人、罪をでっち上げて訴訟を起こす誣告罪で起訴された人は2956人、詐欺罪で起訴された人は5万386人でした。それが08年には偽証罪が1544人、誣告罪が2171人、詐欺罪は7万人となり、13年には偽証罪3420人、誣告罪6244人、詐欺罪に至っては29万1128人と急増しています。
韓国で偽証罪で起訴された人の数は日本の66倍、人口比に照らすと165倍に達すると計算されています。また、直近3年間の詐欺被害額は43兆ウォン(約4兆3000億円)に上っています。犯罪類型別にみて、韓国は世界一の詐欺大国となっています。
また、韓国は汚職大国でもあります。中国ほどではありませんが、政治家や役人の多くは賄賂を受け取っています。特に全斗煥(在任1980〜88年)以降の大統領は全員、本人や親族に賄賂や不正蓄財などカネの問題が発覚しています。
韓国行政研究院の「政府部門腐敗実態に関する研究報告書」によると、国民の過半数が公務員に金品を渡す行為は「普遍的」だと答えました。つまり国民は役人への貢物として賄賂を渡し、役人側も「地位が高い者は受け取って当然」と考えている実態が浮かび上がります。
韓国に不正がはびこるワケ
では、なぜ韓国ではこれほど嘘や不正がはびこるのでしょうか。朴槿恵大統領の父である朴正煕元大統領は、『朴正煕選集』(鹿島研究所出版会)のなかで「わが民衆は名誉観念が薄弱であり、したがって責任観念が希薄である」と指摘しています。
つまり、高い意識を保ち信念を貫くという考えは欠け、自らの体面を最も重んじるのです。その結果、責任感が薄くなり、他者を蹴落としてでも自分のプライドを守ろうとすると考えられます。
韓国は世界でもまれに見る学歴社会です。幼少期から熾烈な競争を強いられ、常に周囲と比べられます。そのプレッシャーに耐えかね、自殺する若者が後を絶たないという悲劇的状態にあっても、この傾向は弱まるどころか年々ひどくなっています。
このような競争社会にあっては、評価基準はほかの人と比べて優秀なのか、劣っているのかということです。そのため、周囲の人を蹴落としてでも自分が上に行かなければならず、しかもそれを善しとする風潮が定着しているのです。
周囲を蹴落とすことで相対的に自分の地位を高めるという考えは、外交にも表れています。日本を懸命にバッシングするのは、世界の中で韓国が日本より上であると誇示するためなのです。韓国自身の評価を高めるための努力をせずに日本を叩けば、かえって自らを貶めることになるとは気付いていません。
なぜなら、韓国人にとっては、周囲を蹴落とすことは自分の評価を高めるための当然の行為だからです。
多少極端に分析すれば、韓国は結果至上主義です。途中経過でどのような手段がとられたか、どれほど努力したかは重要ではありません。不正があっても、最終的に富や地位を手に入れた人は称賛されます。あらゆる手段を講じ、厳しい競争を勝ち抜いた者は蜜にありつけ、勝負に負けた者や脱落した者は勝者に貢ぐ国なのです。
(文=林秀英/ジャーナリスト)
#韓国 はやくざである。 約束を守るのはバカである。
18. #反日種族主義 の神学
https://www.youtube.com/watch?v=73cUE8D6yo8
現世で巨悪でも勝てば、あの世では勝である。
悪いことをしてでも勝て "此の世の勝者はあの世でも勝者であり、この世の敗者ははあの世でも敗者なのだ" "この世の両班(
権力者)はあの世でも両班であり、この世での僕(奴隷)はあの世でも僕であり"
#韓国 #李栄薫 #ソウル 大学名誉教授
林秀英/ジャーナリスト
ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2016/06/post_15482.html
Copyright c Business Journal All Rights Reserved.
資料
資料2
、
1000年に一度の絶対悪、ホロコースト、他との相対化を許さず。戦後欧米史観。南京事件、慰安婦などごみ
福井義高2016
1000年に一度の絶対悪、ホロコースト、他との相対化を許さず。戦後史観。南京事件、慰安婦などごみ、ホロコーストは600万のジェノサイト、スターリンの2770万虐殺、中国共産党の7000万人虐殺との相対化も許さず
第一章 日独同罪論は虚構
日独同罪論の落とし穴
日本とドイツは同罪ではない
第二章 歴史認識は処罰の対象になるか
ヘイトスピーチ
ホロコースト否定論者を処罰するドイツ
批判を許さないニュールンベルグ裁判史観の絶対化
冷戦後の思想統制強化
第三章なぜ「修正主義は批判されるのか」
二度の大戦と歴史認識
第一次大戦中の英米のプロパガンダ
第一次大戦後の修正主義
第二次大戦後の修正主義
なぜ第二次大戦の修正主義がタブーとなったのか
第一次大戦責任論の度重なる逆転
第四章 チャンドラ.ポーズは英雄だった
歴史戦争の同盟国
ポーズ再考
英軍の主力を占めていたインド兵
日本艦に乗り移った時のポーズの感慨
ポーズの人柄に魅せられた、東條首相
インパール作戦はインド解放の作戦だった
日本の敗戦後に実現した「テェロ.デリー』(征け.デリーへ)
インド独立をもたらした聖者と戦士
弐 「コミンテルンの陰謀」
第五章 コミンテルンの陰謀」は存在したか
コミンテルン史観
レーニンの世界戦略を示現した「基本準則」
後継者スターリンの雛伏期
スターリンに奔走される日本
スターリンの高笑い
戦争勃発に舵を切るスターリン
ノモンハン.長鼓峰におけるスターリンの謀略
ヒトラーをけしかけるスターリン
スターリンの大誤算
第六章 過去を直視しない人々
過去を直視しないのは誰か
戦後正統史観とスターリンの呪縛
反共リベラルが正統だった時代
反共主義に対抗する「修正主義者」の台頭
第七章 ヴェノナ(スターリン極秘電報)の解明、ソ連崩壊で
ヴェノナ文書とは?そして何が分かったか
原爆をめぐるスパイ活動
米国高官のスパイ活動
日本とのかかわりーーアメラジア事件
歴史的再検討を迫るヴェノナ文書
第八章 それでもスパイを認めない人々、ソ連崩壊での公開文書を前にしても
「ザ.クエスチョン」
開き直る「修正主義者たち」
「ヴェシエフ.ノート」の公開が意味するもの
「ホワイト=スパイ説」(ルーズベルト大統領の部下)をどうしても認めない人々
動機純粋論によるホワイト擁護
ホワイトによる対日工作
「ヴァシリエフ.ノート」を前にした反.反共主義者たち
研究者の保身の論理と心理(日本の学術会議と同じ)
参 大衆と知識人
第九章 大衆と知識人はどちらが危険か
欧州における、反EU.反移民勢力の躍進
穏当な「極右」正統の主張
実行が伴わない規制の保守政治家
好戦的なのは大衆ではない
自己欺瞞に長けたエリート
秘密投票は自由の最後の砦
第十章 ナチスを支持したのは果たしてだれか
丸山真男の日本ファシズム論
下層、中流階級に罪を擦り付ける人々
ではどの階層がヒトラーを支持したのか
エリートも労働者も支持した国民政党
なぜ「下層中流階級」に対する偏見が始まったのか
四 中国共産党誕生の真実
第十一章 毛沢東はスターリンの傀儡だった
明かにされたスターリンの決定的貢献
中国に「国民国家」という概念は存在しない
佐々木更三 の謝罪発言に対する毛沢東の返答
「兄」スターリンと「弟」毛沢東
第十二章 中国共産党の「救世主」だった日本
なぜ日本が「救世主」なのか
青息吐息の中国共産党
西安事件から支那事変へ
近衛首相の決定的失策
汪兆銘南京政府の闇
第十三章 中国共産党の誕生に果たした米国の役割
策士、策に溺れた英国
米政権内で暗躍するソ連スパイ
縄張り争いに明け暮れる米政府
中国共産党と米陸軍の不思議な「蜜月」
日米ソ合作の中国共産党王朝
第一章 日独同罪論は虚構
特異かつ比較を絶する事象であるホロコーストを、いかなる形であれ、他のテーマと同列に置くことは許さない。
アンゲラ.メルケルドイツ首相
日独同罪論の落とし穴
中韓の歴史攻撃は昨今ますます激しくなり、「南京大虐殺」や「「慰安婦強制連行」をホロコーストと呼ばれる、ナチスによるユダヤ人虐殺に匹敵する、反人道的犯罪であると宣伝している。
日独同罪論には「ドイツは反省したが、日本は反省していない」という非難がともなっている。
これは「ホロコーストは唯一絶対悪である」とするイスラエル及び欧米の正統歴史認識への挑戦である。とみなされている。
アウシュビッツに象徴されるホロコーストはドイツ国民の原罪であり、ドイツ外相が1999年3月に演説で強調したように、「アウシュビッツは比較に絶するのだ」
ドイツのエジプト学者ヤン.アスマン教授は「過去2000年はキリストの死がそうであったように、今後の1000年はホロコーストはグローバルな記憶の絶対的中心であろう」と述べている。
ホロコーストと日本の通常の戦争犯罪を比較することは「ホロコースト」の比較を絶するはずの絶対悪を相対化することを意味するからだ。
ソ連や連合軍との戦争犯罪と比較することもホロコーストの無罪化につながるとして厳禁である。
日本とドイツは同罪ではない
たとえ南京大虐殺や慰安婦強制連行説が仮にその主張がおおむね真実であったとしても、ドイツが「悪魔」であろうと、まれにみる、「凶悪犯」であろうと、いずれにせよ日本という「コソ泥」とは比較にならない。
そのうえ、日本支配下の満洲や、朝鮮では中国人と朝鮮人の人口が大きく増えたではないか。さらに日中戦争中には、たとえ傀儡といわれようとも、中国は、中国人首班の南京政府が統治していた。
支配地域内のユダヤ人をほぼ全面的に「除去」したナチス.ドイツと同一することは、ホロコーストの極端な「無害化」である。
東京裁判とニュールンベルグ裁判の違い
東京裁判では「平和に対する罪」で7人が死刑だった。
ニュールンベルグ裁判では「人道に対する罪」で12人が死刑になった。
東京裁判では「人道に対する罪」は協議はされたが該当なしだった。
「人道に対する罪」はユダヤ人に対するホロコーストの犯罪だった。
ニュールンベルグ裁判では「人道に対する罪として、リウス・シュトライヒャー 反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー』の発行者。が何ら戦争遂行に責任ある立場でないにもかかわらず、過激な反ユダヤ言論活動が反人道罪になるとして死刑となった。絶対悪を称揚する「ヘイトスピーチ」を理由に処刑されたのである。
対日戦争
2005年5月8日の対独戦勝記念日にニューヨークタイムズ傘下のボストン.グローブ紙に「よき戦争はどれほどよかったか」で米国の戦争はもともと太平洋が主体の対日戦争であった。
この戦いにおける米国の道徳的優越性が曖昧だったために、対日戦勝利は祝わず、もっぱら、対独戦勝利のみを祝っている。もし「真に邪悪な存在があったとするなら、それはドイツであり、日独には大きな違いがある。対日戦は通常の帝国主義戦争であった。
米軍が日本兵に投降を許さず、玉砕を強いたとまで述べている。
また米軍兵士もソ連軍同様若いドイツ人女性を、強奪と強姦を繰り返しながら、進軍したと、従来のおタブーを翻す書籍が続々発刊されている。
ドイツのアンゲラ.メルケル首相は、2014年7月訪中時、中国の習近平国家主席の「過去に向き合うドイツと反省しない日本」という中国側の主張に乗らなかった。
スターリンの犯罪との比較すら、欧米では問題視される中、中韓のみならず日本の自称リベラルの日独同罪論者は、欧米で極右化されかねない、ホロコーストを相対化する歴史認識を確率しようとしているのだろうか。
第二章 歴史認識は処罰の対象になるか
ヘイトスピーチ
ホロコースト否定論者を処罰するドイツのヘイトスピーチ
ドイツでは刑法で公衆扇動罪が規定。
民族.人種、宗教的グループに対する憎悪.をあおり 暴力や恣意的行動を促し、あるいは侮辱等で
人間の尊厳を傷つけ、公安を害した場合には5年以下の懲役など。1994年に追加されて、ナチズムのもとで行われた、民族虐殺を公然とあるいは集会で、是認、その存在を否定、あるいは無害化した場合には懲役5年以下等の刑罰。さらに2005年追加。ナチの暴力的、恣意的支配を是認、称賛あるいは正当化することで犠牲者の尊厳を傷つけた場合、懲役3年以下等。
要するに公衆扇動罪はユダヤ人迫害に関する通説を否定する、いわゆるホロコースト否定論者を対象にしているのだ。しかも表明される内容そのものが犯罪を構成するするとされるので、表現方法が一見「学術的」であっても許されない。当然ながら日米ではなんの罪にもならない行為も一種の「思想犯」となる。
.
例えば、ソ連共産主義の犯罪との比較を行えば、相対化による「無害化」と指弾されかねない。
後述するようにこれは杞憂ではない。基本的にナチスドイツを絶対悪とするニュールンベルグ裁判史観に異を唱えることは、命までとは言わないけれども、社会的地位を失う危険と、文字通り隣りあわせなのである。
ドイツは日本以上にニュールンベルグ裁判史観に自縛されている。
日本は大東亜戦争が、大東亜共栄圏を目指したアジア解放戦争と主張できるが、ドイツはナチスの戦争を話すだけで犯罪となる。
フランス。批判を許さないニュールンベルグ裁判史観の絶対化
批判を許さないニュールンベルグ裁判史観の絶対化が一種の宗教的ドグマになっているのが、フランスのゲソ刑法である。ゲソ法は第9条で、ニュールンベルグ裁判第6条で規定され、同第9条に基づき犯罪組織とされた、ナチス指導部、親衛隊、ゲシュタポ島のメンバーその他が犯した、「人道に対する罪」の存在に異議を唱えることを犯罪としている。
フランスは、事実上国家に歴史の真実を決定する権限を与えた。
アメリカ
アメリカでは、「ヘイトそのものは犯罪ではない」日米はヘイトスピーチに関して、ほぼ同じスタンスである。
FBIがホームページにわざわざ記載している。米国では憲法修正第一条に基づく「表現の自由」が絶対視されている。
2014年国連人種差別委員会は、ヘイトスピーチ等の規制導入を日、米等に勧告した。この機関は国連ではなく国際条約に基づく、諮問機関に過ぎない。ヘイトスピーチ規制導入を勧告されたアメリカでは話題にもならなかった。
冷戦後の思想統制強化
第三章なぜ「修正主義は批判されるのか」
二度の大戦と歴史認識
第一次大戦中の英米のプロパガンダ
第一次大戦後の修正主義
第二次大戦後の修正主義
なぜ第二次大戦の修正主義がタブーとなったのか
第一次大戦責任論の度重なる逆転
第四章 インパール作戦はインド解放の起爆剤だった。チャンドラ.ポーズは英雄だった
歴史戦争の同盟国
安倍首相はインド太平洋地域平和安全を掲げて、アメリカ、インド、オーストラリア、カナダ等地球儀を俯瞰する外交を発想し推進している。極めて好評である。
特にインドとの友好をはかっている。インドのモディ首相とは特に友好をはかっている。
モディ首相も安倍首相との夕食会で「インド人が日本に来てパール判事の話をすると尊敬される。自慢できることだ。判事が東京裁判で果たした役割は、我々も忘れていない。」と発言するなど親日ぶりを発揮した。(産経新聞、2014年9月3日つけ)(パール判事は東京裁判で、日本被告及び日本無罪論を唱えた。)
近年とみに激化する歴史戦争の最重要国としてインドは日本にとって、かけがえのない存在である。
8月15日という日付は日本もインドも特別な日付である。
インドにとっても特別な歴史の日なのである。
一人のインド人を通じてこの日は両国を結びつけている。
インドの独立記念日なのである。1947年8月15日、日本の敗戦の2年後インドは300年の植民地支配から独立した。
最初のポルトガルの植民地から大英帝国の長い間の植民地を経て。
チャンドラ.ポーズ再考
チャンドラ.ポーズ 日本軍のインパール作戦と共同してインド国民軍(INA)を率いて、インド北東部に進軍した。インパール作戦で日本軍は敗北したけれども、インド独立の起爆剤となった。チャンドラ.ポーズは日本敗戦時、満洲へ向かう途中台湾台北で航空事故死した。
重要なのはインドがチャンドラ.ポーズをどう見ているかである。
1997年8月15日、インド議会は独立50周年を祝って、独立闘争の三大英雄、すなわち、ガンジー、ネール、ポーズの肉声録音を流した。
その際、最大、最長の拍手喝さいを浴びたのはポーズであった。
インドでの圧倒的声望にも拘わらず、ポーズがそれに相応した扱いを日本で受けていないのはなぜか。
それはポーズが日本とともに、英国と戦ったからである。連合国にとってポーズは、悪の帝国日本の傀儡であり、当然ながら、否定的評価が支配亭である。
欧米での評価、すなわち、東京裁判史観の支配下にある戦後日本の歴史研究がポーズに冷淡であったのは一面当然であったろう。
F機関長藤原岩一少佐,国塚一乗少尉(藤原岩一 「F機関」、国塚一乗「インパールを超えて」)
ポーズから全面的信頼を得、ともに英軍と戦った。
日本軍の問題点も冷静に指摘した、こうした貴重な記録も、東京裁判史観論者にとっては「歴史修正主義」に基づく、侵略戦争の美化でしかないのであろう。
しかし、近年米国で公刊され藤原少佐や国塚少尉の見方と比較的近い視点から書かれた「国王陛下の敵」には安易なレッテル貼りは通用しない。著者のスガタ.ポーズは歴史研究の主流も主流、ハーバード大学歴史学教授、そしてその名もわかる通り、チャンドラ.ポーズの縁者、性格には大
甥(おおおい、甥の息子)なのである。
「国王陛下の敵」はインドの著名な歴史学者ドラングシュ.ムカジーによって、現時点のみならず、将来に割ったっても、ポーズ伝の決定版であり続けるだろうと称賛された。
英軍の主力を占めていたインド兵
先の大戦、大東亜戦争では真珠湾攻撃に始まり、ミッドウエー海戦、ガダルカナルの決戦、ラバウル航空隊等
太平洋の戦いが目立つが、戦略的に重要なのはマレー、シンガポール、インドネシア、ビルマの戦いであった。
日本軍の相手は、米軍ではなく英軍であった。英軍は将校を除いて、植民地インド出身のインド兵が大半であった。何世代にもわたって、英軍に勤務し、忠誠心も厚かった。インド兵は、大英帝国の忠誠な僕(しもべ)であった。日本軍と戦うまでは。
F 機関と藤原岩一少佐
https://note.com/mutukawa34413/n/n8f0aa6c51d8a
(2)エピソード インド独立のために人生をかけたF機関の藤原岩市
1941年10月。藤原岩市は、連合軍との戦争が始まる直前にタイのバンコクへと向かいました。彼に与えられた任務は、イギリスなどヨーロッパの国々の植民地にされて苦しんでいるマレー人やインド人たち助けて日本の味方になってもらうことでした。
このために作られた日本軍内のチームはフリーダム(自由)、フレンドシップ(友情)そしてリーダーである藤原岩市のフジワラの頭文字のFをとってF機関と名付けられました。
藤原はさっそくインド独立をめざすプリタム・シンとひそかに会談ました。当時のインドはイギリスの植民地になっていたので、イギリス軍の中にはインド人の部隊が加わっています。そこで、二人はイギリス軍の兵士となっているインド兵を目覚めさせ、逆にその兵隊たちと一緒にインド独立のためにイギリスと戦うインド国民軍を作る行動を開始したのです。
さっそく、日本軍に降伏したイギリス軍からそのまま日本軍の味方になったインド人の中から新たな協力者が現われました。モン・シン大尉です。藤原はこのモン・シン大尉と相談して、仲間のインド人をイギリス軍に潜入させることにしました。潜入した者はインド兵の部隊に「日本軍はインド兵を助けてくれる」と話し、ひそかに戦線を離脱させたり、密林に隠れたのちに白旗をもって出てくるようにさせました。こうして、多くのインド兵が日本軍の味方になっていったのです。
スクリーンショット 2021-10-09 130258
インド兵たちは自分たちを常に見下そうとするイギリス軍とちがい、インド国民軍の自由で温かな雰囲気に安心しました。
ある日、藤原はインド人たちと会食をする機会を作りました。日本人とインド人の親善のためです。食事はインド兵に頼んで作ってもらった珍しいインド料理です。単に親善のために、と思っての開催した食事会でしたがインド人たちはみんな驚くほど感激してくれました。
「日本軍の皆さんが、敵であるイギリス軍から来た私たちインド人と同じテーブルで会食するとは驚きです。イギリス人はインド人と食事をともにしたことはありません。インド料理を作りたいという私たちの提案さえ受け入れてくれませんでした。敵味方も、民族も越えたこの温かい食事会は日本人がインド人に対して誠意をもってくれていることの証明です」
このモン・シン大尉の話にインド兵たちから割れるような拍手が起きました。
その後、日本兵が担当する飛行場建設の作業をインド兵が手伝い、朝の9時から午後4時までのつらい作業を一緒にすることで、日本兵とインド兵はたちまち仲良しになってしまったのです。
F機関の活動を「成功するわけがない」と冷ややかな目で見ていた他の日本軍将兵たちも、こうした日本人とインド人が一体となって活動する姿を見て徐々に協力してくれるようになっていきました。しかし、敵のイギリスはF機関の活動に神経をとがらせるようになり、藤原に懸賞金をかけてその命をねらうようになっていました。
そんな危険もありましたが、イギリス軍を離脱してインド国民軍に参加する兵士の数はどんどん増えていきました。ある日、5万人近いインド兵が集まった広場で藤原はこう呼びかけました。
「インド兵の皆さん!日本はインドの独立を願う皆さんの友人です。インド兵と友情を結ぶためにここまで来ました。インド国民軍に対してあらゆる援助を行うつもりです」
日本軍はインド兵諸君が自ら進んで祖国の解放と独立の戦いのために」忠誠を誓いINA(インド国民軍)に参加を希望するにおいては、日本軍の捕虜としての扱いを停止し、諸君の闘争の自由を認め、また、全面的支援を与えんとするものである。
総立ちとなったインド兵から歓呼の声が上がり、数え切れない数の帽子が空中に舞い上がりました。
こうして日本の支援によってインド国民軍が大きくなるにつれて、支援のための日本の組織も新たに編成されることになりました。これによってF機関はその役割を終えたのです。
その後、インド国民軍は日本軍と行動をともにしてイギリス軍との戦闘が続きました。序盤は破竹の勢いだった日本軍でしたが、徐々に形勢は逆転しイギリス・アメリカなどの連合軍の前に敗れました。約2万人のインド国民軍も捕らえられ、イギリスに刃向かったその見せしめに厳罰に処せられる運命となりました。
しかし、インド国中の国民が「インド独立のために命をかけた戦った勇士を助けろ」と全国で立ち上がりました。今まで従っていたインド人が立ち上がったことに驚いたイギリスは混乱を恐れ、ついにインド独立を認めざる得ませんでした。
このインド独立をきっかけにイギリスは49もあった植民地を手放すことになりました。さらに独立の動きは世界中に広がり、戦前は50数カ国しかなかった独立国は180カ国を越えたのです。
日本は戦争には敗れましたが、藤原岩市とF機関が描いた夢はついに現実のものとなったのです。戦後、藤原はこう言っています。
「日本は戦争に敗れましたが、武力による勝敗を越える永遠の真理という勝利を得ました。戦後、インドをはじめとする東南アジアの友人たちと日本人は親近の情と深い信頼で結ばれています。それは焦土と化した日本の復興の大きな力となりました」
*「特別の教科 道徳」の内容項目「C 主として集団や社会との関わりに関すること」の「伝統や文化の尊重、国や郷土を愛する態度」「国際理解、国際親善」に関連します。
(3)インド独立を勝ち取った本当の立役者とは?
インドが独立を勝ち取ったその要因は何か?と聞かれればおそらく10人中10人が「ガンジーと非暴力主義」をあげることでしょう。もちろん、ガンジーは世界史上忘れてはならない人物ですし、非暴力主義も有名です。
しかし、インド独立当時のアトリー英首相は、インドのベンガル州を訪問した際のチャクラヴァティ州総督の質問にこう答えています。
「「今次大戦で連合軍が勝利をおさめ、枢軸側を完敗させ、当時世界の国々が英国がインドを統治することに対して、だれ一人反対する者のないとき、なぜ早急に撤退されたのか?」
アトリー首相は、過去をしのぶような表情で、きわめて率直に答えた。「英印軍のインド兵の、英人指揮官に対する忠誠心が、チャンドラ・ボースのやった仕事のために、低下したということですよ」
さらにチャクラヴァティは聞いた。
「ガンジーの非暴力運動が、どれほど英国の早期撤退に影響を与えましたか?」
「ごくわずかですよ」
これによって、インド独立に対する最大の功労者がだれかということが、当時の敵によって裏書きされている。」(国塚一乗『インパールを越えてーF機関とチャンドラ・ボースの夢』講談社 p248)
スクリーンショット 2021-11-04 153447
チャンドラ・ボースはガンジーと並ぶインド独立運動のリーダーです。当時、インド人はボースのことを「ネタジー」(指導者)と呼んでいました。ボースはインド独立には自前の軍隊が絶対に必要だという考え方でした。なぜならば、いかに非暴力運動を繰り広げても最後には同じインド人の兵士がイギリス側兵士として運動を弾圧してしまうからです。なんとも悲しい現実です。
日本のF機関とインド国民軍はこのボースの考える独立運動の方針をそのボースの目の前で現実のものにしてみせたのです(ボースは1945年8月18日に祖国の独立を見ることなく飛行機事故で亡くなっています)。
つまり、インド独立の本当の立役者はボースとインド国民軍と、そして日本軍・藤原岩市のF機関だったと言ってもいいのではないでしょうか。
(4)参考文献等
*藤原岩市『藤原(F)機関ーインド独立の母ー』(原書房)※2012年に『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』(バジリコ)として復刊されています。
*国塚一乗『インパールを越えてーF機関とチャンドラ・ボースの夢』(講談社)
日本艦に乗り移った時のポーズの感慨
遅きに失したといえ、ポーズの重要性に気づいた日本政府はドイツにいたポーズを日本に招くことを決意する。なぜポーズはドイツにいたのか?
1941年1月、獄中で容体が悪化し、前年末に保釈されカルカッタで静養していたポーズは、陸路で敵の敵、すなわちドイツを目指した。当時ガンジーの非暴力主義がインドの主流であったが、ポーズは武力での独立を目指していた。
紆余曲折を経てドイツにたどり着いたもののポーズはヒトラー率いるナチス政権からインド独立に友好な支援を得られなかった。
大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言
インパール作戦の一面
インド国民軍総帥の地位につき、
自由インド仮政府を作って、英米に宣戦布告したチャンドラ・ボース チャンドラボースはインドを英国から独立させるためにナチスドイツに協力を求めましたが拒否された
ヒトラーは「インドはイギリス人が統治すべきだ。イギリス人がいなくなるとインドは崩壊するだろう」と言っていた。 チャンドラ・ボースがヒトラーにインド独立への協力を求めた時"インド独立は150年早い"と回答した。
インドのオールドデリー市街、 チャンドラ・ボース公園の 「インド独立義勇軍(INA)と日本兵たち」の像(日の丸に注目)。 日本兵はインド兵と共に戦い、それがインド独立の基礎となった。
1943年4月28日マダガスカル沖で、ドイツのU-ボートから寺岡正雄大佐指揮下の日本の伊29号潜水艦は、無事にポーズを受け取る。
寺岡は自らの指令室をポーズに譲りよく29日の天皇誕生日にはペナンで仕入れた
食材を用いて、インド料理を用いて歓迎会が開かれた。この命がけの船旅について、ドイツから、ポーズに同行した、アビド.ハサンは後年、こう語っている。
U-ボート艦員は終始友好的だったけれども、日本の潜水艦に乗ったとたん、故郷に帰ったような気がした。ポーズも同じ思いだった。スマトラのサバンに上陸したポ^図は、艦員との記念写真。
空路5月16日東京に到着した。
ポーズの人柄に魅せられた、東條首相
しかし当初日本の東條英機首相はボースを高く評価しておらず、ボース側の会見申し入れを口実を設けて拒絶していた[16]。しかしビハーリー・ボースやA.M.ナイルが仲介したことでボース来日から一ヶ月後に実現した会見で、東條首相はボースの人柄に魅せられ、一ヶ月後の再会談を申し入れた[16]。再会談でボースと東條は日本とインドが直面している問題に関する意見を一致させ、東條はその後食事会にボースを招待している[16]。
東條はボースの影響でインドの独立に対する考え方を新たにし[16]、またボースの東亜解放思想を、自らが提唱する大東亜共栄圏成立に無くてはならないものだと考えていた。
自由インド仮政府
ボースは10月21日に昭南で自由インド仮政府首班に就任し、ボースはそのカリスマ的魅力やA.M.ナイルらの国民軍の首脳による献身的な協力を元に、日本軍の占領地域である東南アジアにおいて国民軍の募兵を積極的に行った[18]ほか、ラジオを使い対英闘争の継続を訴えた。
東条英機はインド仮政府に海軍が占領していた、アンマンダン及びニコバル諸島を自由インド仮政府に帰属させた。
ポーズは軍隊とともにわずかとはいえ領土を手にしたのである。
インパール作戦はインド解放の作戦だった
昭和19年(1944年)3月20日自由インド政府チャンドラ・ボース
「インド国民軍はいまや攻撃を開始し、日本帝国陸軍の協力を得て、両軍は肩を並べて共同の敵、アメリカ、イギリスおよびその連合国に対し、共同作戦を進めつつあり。外国侵略軍をインドより放逐せざるを限り、インド民衆の自由なく、アジアの自由と安全はなく、またアメリカ・イギリスの帝国主義戦争の終息もなし。(中略)ここに自由インド政府は、インドの完全開放の日まで、日本の友情と共に戦い抜くべき厳粛なる決意を布告す」
日本の敗戦後に実現した「テェロ.デリー』(征け.デリーへ)
インド国民軍進め、デリーへ 〜 インパール作戦
チェロ・デリー!
S1942
昭和19年(1944年)3月20日自由インド政府チャンドラ・ボース
「インド国民軍はいまや攻撃を開始し、日本帝国陸軍の協力を得て、両軍は肩を並べて共同の敵、アメリカ、イギリスおよびその連合国に対し、共同作戦を進めつつあり。外国侵略軍をインドより放逐せざるを限り、インド民衆の自由なく、アジアの自由と安全はなく、またアメリカ・イギリスの帝国主義戦争の終息もなし。(中略)ここに自由インド政府は、インドの完全開放の日まで、日本の友情と共に戦い抜くべき厳粛なる決意を布告す」
インド国民軍、約6,000人が「チェロ・デリー(進め、デリーへ)」を合言葉にインパール作戦に参加し、日本軍第33師団山本支隊らとインパールに迫るパレルで奮戦しています。第33師団山本支隊はモーレ、タムを突破し、バレルへ進撃しました。佐間連隊、はティディムからトイトムへ、笹原連隊はシンゲルに進出し、開戦わずか一週間で1800両の英印軍自動車部隊を包囲。その後、33師団はビシェンプールへ進撃し、インパールへ迫ります。
インパール作戦は結果から導き出された「無謀」という刷り込みが行われ、第15軍司令官の牟田口廉也司令官を悪者とする、戦後の日本陸軍悪玉論の格好の標的にされています。
しかし、実際には日本軍の特務機関である光機関による諜報、宣伝活動によりインド国内世論の下地をつくり、インパール作戦でイギリス軍に一撃を与え、一気にインド国民の覚醒、蜂起を促すものでした。
イギリス軍は日本軍の諜報活動を非常に警戒しました。そしてインパールの戦いではイギリス軍は戦線を縮小して戦力を集中して補給線の伸びきった日本軍を迎え撃つ作戦にでました。これは合理的で「イギリスのほうが賢い、日本陸軍は馬鹿」のように言われてきましたが、戦わずして領土を放棄することになり、インド国内に動揺を与えることに繋がり、非常に難しい判断だったのです。
第31師団と行動をともにしたインド国民軍のアジミルシン大尉は国境を越えてインドに入った時、「おお、わが祖国!」と土を両手で握りしめて喜びました。そしてイギリス軍内のインド兵の切り崩しと民衆宣撫を行いました。4人で一班を編成し、敵陣地に潜入し、メガホンで投降を呼びかけるのです。
光機関・金子工作隊のエピソード
「朝点呼をとったら、インド兵が15人ほど多いのです。おかしいと思って調べたら、これが、なんと、ほんものの英印軍なんです。服装も同じだし、ことばも通ずるものだから、敵のインド兵が夜間偵察に来て紛れ込み、われわれのテントで寝ていたわけです」
そしてアジミルシン大尉は「われわれはチャンドラ・ボースを中心とするインド国民軍であって、インド独立のためにここまで来たんだ」と説明すると英印軍のインド兵はすっかり感激して「おれたちも一緒にやる」とそのまま工作隊に入ってしまいました。(この後寝返ってイギリス側へ戻ってしまった)
この他こんなエピソードもあります。光機関の工作員が敵陣へ近づくと英印軍が射撃してきたため、インド国民軍の工作員が日本人工作員の前に立ちはだかり、大声で叫びました。
「日本人を殺すな。われわれインド人の独立のために戦っているんだぞ」
いったん射撃は止みましたが、また射撃してきます。今度は日本人工作員が立ち上げって両手を広げヒンズー語で叫びます。
「同胞を殺すな。撃つならまず俺を撃て。俺はお前たちに話しに行くところだ武器は持っていない」
そうすると今度はまたインド工作員が再び日本兵の前に両手を広げて立ちます。この繰り返しにとうとう相手は根負けし、英インド軍の一個大隊すべてが寝返ってしまったというものです。
しかし、日本軍の進撃は4月までで戦線は膠着し、7月には遂に撤退命令がでます。
インド国民軍は6000人、そのうちチンドウィン川まで到達できたのは2600人(要入院患者2000人)。その後戦死400人、餓死および戦病死1500人の損害となりました。
日印双方の夢は費えてしまいました。しかし、このインパールの奮戦は後のインド独立の起爆剤となりました。
英軍東南アジア総司令部司令官 ルイス・マウントバッテン大将
「かつて不敗を誇った日本軍も、半年の死闘に、戎衣(じゅうい:戦闘服のこと)も靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけだった。指揮の崩壊と飢餓に追い詰められたとき、前途に横たわるのは生き地獄だった。日本軍はインパールにおいて、また全ビルマにおいて敗れるべくしてついに敗れた。兵理である。しかし、そこには何かが残った」
「それは史学の権威トインビーが、いみじくも喝破した通りである。もし『日本について神が使命をあたえたものだったら、それは強権をわがもの顔の西洋人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』」
征け征けデリーへ母の大地へ
いざや征かんいざ祖国目指して
征け征けデリーへ母の大地へ
いざや征かんいざ祖国目指して
進軍の歌は今ぞ高鳴る
我等の勇士よ眦あげて
見よ翻るよ独立の旗
参考文献
展転社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
PHP「インパール作戦」土門周平(著)
吉川弘文館「特務機関の謀略 諜報とインパール作戦」山本武利(著)
インド独立をもたらした聖者と戦士
大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言
インパール作戦の一面
インド国民軍総帥の地位につき、
自由インド仮政府を作って、英米に宣戦布告したチャンドラ・ボース チャンドラボースはインドを英国から独立させるためにナチスドイツに協力を求めましたが拒否された
ヒトラーは「インドはイギリス人が統治すべきだ。イギリス人がいなくなるとインドは崩壊するだろう」と言っていた。
チャンドラ・ボースがヒトラーにインド独立への協力を求めた時"インド独立は150年早い"と回答した。
インドのオールドデリー市街、 チャンドラ・ボース公園の 「インド独立義勇軍(INA)と日本兵たち」の像(日の丸に注目)。 日本兵はインド兵と共に戦い、それがインド独立の基礎となった。
875 名前:「インド独立義勇軍(INA)と日本兵たち」の像 :2011/08/16(火) 09:40:38.46
インドのオールドデリー市街、
チャンドラ・ボース公園の
「インド独立義勇軍(INA)と日本兵たち」の像(日の丸に注目)。
日本兵はインド兵と共に戦い、それがインド独立の基礎となった。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi01.htm
イギリス首相としてインドの独立を承認したクレメント・アトリーは、
1956年にインドのカルカッタを訪問し、その当時の西ベンガル州知事P.B.チャクラボーティ判事と会談を行った。チャクラボーティ判事は、「1942年に国民会議によって開始された 『Quit India』(インドから出ていけ) 運動は完全に潰され、1944年までには完全に消滅していたのに、
英国はなぜ戦後、あれほどの焦りの中でインドを独立させ、離れたのか?」と質問したところ、
アトリーは「それはスバス・ボースのINA(インド国民軍)と、それが英国インド軍で引き起こした反乱のせいだ」と答えた。
続けて判事が「インド独立の承認においてマハトマ・ガンジーの『インドから出ていけ』運動はどのような役割を果たしたのでしょうか?」と鋭く質問した。判事によれば、アトリーは皮肉な笑みを浮かべながら「ほとんど何も無かった」と明言したという[11]。
F機関‐アジア解放を夢みた特務機関長の手記‐ 単行本 ?2012/6/29
藤原岩市 (著)
大東亜共栄の夢を愚直に信じ、中野学校出身者、ハリマオなど少数の精鋭を率いてマレイ、スマトラの民族解放工作に奔走、のみならずインド国民軍を創設しインド独立運動の巨魁チャンドラ・ボースを迎えるという驚くべき成果を あげた藤原少佐とF(藤原)機関。 その栄光と挫折の軌跡をF機関長藤原少佐が自ら詳細に綴った貴重な手記。
シンガポール陥落で捕虜5万人から4万人のインド国民軍を組織した。
インド独立
インド国民軍を反逆罪で処刑しようとしたことが発端でインド人の大暴動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
インド国民軍(インドこくみんぐん、Indian National Army、略号:INA)
は、太平洋戦争中に日本軍の支援によって設けられた、英印軍の捕虜のインド人転向者や 英領インドからの亡命者を中心としたインド独立派の軍隊[1][2]。モットーは和合 (Etihaad)、信仰 (Etmad)、犠牲(Kurbani)[1]。
当初は日本軍がマレー作戦を優勢に進めるための補助戦力としてゲリラ部隊的な色彩も強かったが、インド独立運動の英雄の一人であるスバス・チャンドラ・ボースが来日し、イギリス領インド進攻作戦が具体的に検討され始めてから次第に重装備化され、本格的な軍隊となった。当初は大本営の南方作戦の範囲は東南アジアまででインドを攻略する計画は含まれていなかったが、途中から現地で工作支援にあたったF機関によるインド独立を考えていた。
戦後にインド国民軍を反逆罪で処刑しようとしたことが発端でインド人の大暴動が発生したため、イギリスは統治権を返還する事態となった。そのため、インド国民軍の活動が「間接的に300年の植民地支配を終わらせた」とされ、インド国民軍を反逆罪で処刑しようとしたことが発端でインド人の大暴動初代インド首相のネール氏も「独立は日本のおかげで30年早まった。この恩は忘れてはならない」と評価している[3]。2016年にはモディ首相は「イギリスが戦勝国であるにも関わらずインドから撤退したのはガンジーのためではなく、インド国民軍のためである」との英国の機密文書を公開し、インド国民軍をより評価している[2]。インド国民軍を反逆罪で処刑しようとしたことが発端でインド人の大暴動
インド国民軍裁判と大暴動によるインド独立
「en:Indian National Army trials」も参照
終戦後、イギリスは元インド国民軍将兵約20,000人を、
イギリス国王に対する反逆罪で裁こうとした(11月5日の発表では起訴の対象は約400名)。
しかし、この裁判を機にインド民衆の間に独立の気運が一気に高まった。次々とゼネストや暴動が起きる中、国民会議派も「インド国民軍将兵はインド独立のために戦った愛国者」として即時釈放を要求、
1946年2月には英印軍の水兵たちも反乱を起こし、ボンベイ、カラチ、カルカッタで数十隻の艦艇を占拠し「インド国民軍海軍」を名乗った。水兵たちは市民に混じって官憲と市街戦を展開、英印軍の将兵たちはイギリス人上官の発砲命令を拒否した。
また、人々はイギリスの植民地政府による日本への戦勝記念日に弔旗を掲げて抗議の気持ちを表している。
これらインド国民軍将兵の裁判によって起こった一連の事件はイギリスが統治権を放棄しなければいけない状態になり、インドが独立を勝ち取る大きなきっかけとなった[2][3][9]。
インド独立の過程については、ガンディーやジャワハルラール・ネルーに代表されるインド国内における大衆運動が有名だが、
チャンドラ・ボースやビハーリー・ボース、A.M.ナイルらインド国民軍とその関係者が独立に果たした役割も非常に大きな評価を受けている。
実際にインドにおけるチャンドラ・ボースの位置づけはガンディーと同等で、ネルーより上位であり、国会での写真の飾り方はチャンドラ・ボースが最上部になっている[10]。なお1947年8月にインドが独立を獲得すると、インド政府は元インド国民軍将兵たちを表彰して年金も給付した。
イギリス首相としてインドの独立を承認したクレメント・アトリーは、
1956年にインドのカルカッタを訪問し、その当時の西ベンガル州知事P.B.チャクラボーティ判事と会談を行った。チャクラボーティ判事は、「1942年に国民会議によって開始された 『Quit India』(インドから出ていけ) 運動は完全に潰され、1944年までには完全に消滅していたのに、英国はなぜ戦後、あれほどの焦りの中でインドを離れたのか?」と質問したところ、
アトリーは「それはスバス・ボースのINA(インド国民軍)と、それが英国インド軍で引き起こした反乱のせいだ」と答えた。
続けて判事が「インド独立の承認においてマハトマ・ガンジーの『インドから出ていけ』運動はどのような役割を果たしたのでしょうか?」と鋭く質問した。判事によれば、アトリーは皮肉な笑みを浮かべながら「ほとんど何も無かった」と明言したという[11]。
歴史家のエリック・ホブズボームは、「インドの独立は、ガンジーやネルーが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動によるというよりも、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍 (INA) が協同して、ビルマ(現ミャンマー)を経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされた」としている[12]。ボースの弟のサラの孫息子である在英インド系英国人で、英BBC記者やCNNインド特派員を務めたアシス・レイの調査結果から戦局が敗色濃くなった日本がインド独立闘争の継続望むボースの意思を尊重して、ソ連亡命を許可していたことが判明している。レイ記者は「独立闘争支援を優先させた日本の配慮の表れ」と述べ、連絡担当だった磯田三郎中将の功績とし、「日本がインドの解放と独立のために戦ったことは間違いない」と評価した[13]。
1955年(昭和30年)になると、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ二十九カ国が集まって、国際会議が開かれた。
「この会議の主催者から、出席の案内が来た。日本政府は参加を躊躇していた。アメリカへの気兼ねもあったが、何分現地には反日感情が強いに違いない、と覆っていた。私は強く出席を勧めて遂に参加が実現した。出てみるとアフリカからもアジアの各国も『よく来てくれた』『日本のおかげだ』と大歓迎を受けた。日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。それにあの時出した『大東亜共同宣言』がよかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。『アジア民族のための日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く』と大変なもて方であった。やっぱり出席してよかった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ。
ところがこのように評価されている大東亜戦争の勇戦や、大東亜会議の意義だが、日本のマスコミや学会では取り上げられない。この辺にも日本の歴史認識や外交の未熟さがあるように思われてならない」
この話は平成十九年に無くなった名越二荒之助氏の「昭和の戦争記念館第5巻」(展転社)に掲載されているものだ。
英国の歴史家、アーノルド・トインビーは、
日本の近代史についてこんな分析をしました。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi01.htm
19世紀以来の食うか食われるかの帝国主義時代の中で、
日本の取るべき選択肢は一つしかなかった。
それは明治維新を断行し、近代国家に生まれ変わることだった。
それがなかったら、日本は欧米の植民地になっていただろうと。
また日本に来たこともあり、日本を愛したトインビーにとって、
大東亜戦争は悲しい出来事でした。
しかし彼は、日本の無謀さを批判しながらも、戦後は、
「日本は米英を一時的に打ち破り、植民地帝国を解体へ追い込んだ。
そしてアジア諸国民のためになる働きをした」
と、その一面を評価しました
953 名前:歴史学者H・G・ウェルズも述べています :2011/08/16(火) 09:53:36.41 歴史学者H・G・ウェルズも述べています。
「この戦争は植民地主義に終止符を打ち、
白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石を置いた」。
その主役を果たしたのが日本でした。
あの空前のスケールの戦争だった大東亜戦争の意義が、ここにあります。
戦争は、ないに越したことはありません。
しかし、もしあの戦争がなかったなら、
今もってアジア諸国は西欧の植民地であり続けたでしょう。
黄色人種は白人の召使いのように、
ペコペコしていなければならなかったでしょう。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi01.htm
。
20211211 ガンジーの運動がインド独立に果たした影響は「ほとんど何も無かった」--インド独立を承認したイギリス首相アトリー談
https://maginavi.hateblo.jp/entry/2021/12/11/232855
スバス・チャンドラ・ボース研究
スバス・チャンドラ・ボースの研究をしたいと思ったきっかけのエピソードを紹介します。
日本では、マハトマ・ガンジーの非暴力不服従ばかり知られています。とても高尚な理想です。
一方、日本の教科書において、チャンドラ・ボースは、意図的にフォーカスから外されている印象があります。
弐 「コミンテルンの陰謀」ソ連崩壊で分かったこと
第五章 コミンテルンの陰謀」は存在したか
歴史的再検討を迫るヴェノナ文書
第八章 ハルノートを書いたのはスパイ。ソ連崩壊での公開文書で分かる 「歴史的再検討を迫るヴェノナ文書」
941年11月 東條内閣。対米。米案丸呑み。南部仏印撤退、米国は日本に石油を供給する。米援蒋停止、アメリカに提出(半年前〜交渉してきたアメリカ最終案に沿って)
下記 乙案
米ハル国務長官。同案を評価受け入れ可能と、
ハル暫定案作成。南部仏印撤退、石油禁輸解除は3か月とし延長条項。米、援蒋停止触れず 英、中、蘭に通知と
ところが青天の霹靂の「ハルノート」
1941年11月27日 米国、 いわゆるハルノート日本に提示「中国からの全面撤退三国同盟脱退 実質対日開戦」
ハルノート。「ハル4原則の無条件承認、中国・仏印からの無条件全面撤兵、南京汪兆銘政権の否認、三国同盟義務からの離脱」
今までの日米交渉経緯を全く無視した、ちゃぶ台返し。
東郷茂徳外相は誠意の人だった。 「ハルノート」を受領したとき、「自分は目も眩むばかりの失望に撃たれた。」と述べ、「米国が今までの経緯および一致せる範囲をすべて無視し、従来とった、最も強硬な態度さえ超えた要求をここに持ち出したのは明らかに平和的解決に到達せんとする、熱意を有しないものであり、ただ日本に全面的屈服を強要するものである。
(略)これは日本の自殺に等しい。(略)もはや立ち上がる外ないということであった。」とA級戦犯としてとらわれて、獄中で病死する前に記した。
開戦の詔勅が「今や不幸にして、米英両国と戦端を開くに至る、まことにやむを得ざるものあり豈朕が志ならんや」
と述べ、「ことすでにここに至る帝国は今や、自存自衛のため、決然起って一切の障害を破砕する、の外無きなり」という言葉が続く・・・。
これを書いたのは
ルーズベルト大統領のお気に入り「モーゲンソー財務長官」の補佐、財務次官補「ホワイト」だった。
ソ連崩壊後公開された極秘文書「ヴェノナ文書」等に明記されていた。
ハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White、1892年10月9日 ? 1948年8月16日)は、アメリカ合衆国の官僚、ソ連のスパイ。フランクリン・ルーズベルト政権の財務長官であるヘンリー・モーゲンソーの下で財務次官補を務めた。
ハリー・デクスター・ホワイトはソ連のスパイであるとがばれて1948年の夏自殺。
スターリン、コミンテルン史観、ソ連崩壊で公開された極秘文書「ヴェノナ文書」「ヴァシリエフ.ノート」
ヴェノナ文書
*スパイの「原爆スパイ」は大々的に行われた。
共産主義の高揚期であちこちにソ連ん、コミンテルンになびくものが現れた。
レーニンの世界戦略を示現した「基本準則」
後継者スターリンの雛伏期
スターリンに奔走される日本
スターリンの高笑い
戦争勃発に舵を切るスターリン
ノモンハン.長鼓峰におけるスターリンの謀略
ヒトラーをけしかけるスターリン
スターリンの大誤算
陰謀史観の持ち主は、アメリカでも日本でも大成功を納めた。
日本には支那事変の泥沼の消耗戦に引きずり込み、ノモンハン事件、で陸軍に対ソ恐怖心を植え付けた。
その後も日本人エージェントを使って、謀略を続け、反蘇から反米英に向けさせることに成功した。
究極には、まとまりつつあった日米交渉の最終盤で、ハルノートの書き換えというどんでん返しをやって、日本に対米戦争を始めさせた。
ところが、欧州ではそうは動かなかった。独ソ不可侵条約という飴をやって、ヒトラーをてなづけていたつもりであったがヒトラーに対ソ全面奇襲攻撃を許すという決定的失敗をやってしまった。
独英という資本主義国同士を戦わせて、相互疲えいしてしまったところを,一網打尽にするつもりだったのだが・・・連合軍中最大の2700万人という被害となって・・・、
第六章 過去を直視しない人々
過去を直視しないのは誰か
戦後正統史観とスターリンの呪縛
反共リベラルが正統だった時代
反共主義に対抗する「修正主義者」の台頭
第七章 ヴェノナ(スターリン極秘電報)の解明、ソ連崩壊で
ヴェノナ文書とは?そして何が分かったか
原爆をめぐるスパイ活動
米国高官のスパイ活動
日本とのかかわりーーアメラジア事件
歴史的再検討を迫るヴェノナ文書
第八章 ハルノートを書いたスパイ。それでもスパイを認めない人々、ソ連崩壊での公開文書を前にしても
「ザ.クエスチョン」
開き直る「修正主義者たち」
「ヴェシエフ.ノート」の公開が意味するもの
「ホワイト=スパイ説」(ルーズベルト大統領の部下)をどうしても認めない人々
動機純粋論によるホワイト擁護
ホワイトによる対日工作
「ヴァシリエフ.ノート」を前にした反.反共主義者たち
研究者の保身の論理と心理(日本の学術会議と同じ)
参 大衆と知識人
第九章 大衆と知識人はどちらが危険か
欧州における、反EU.反移民勢力の躍進
穏当な「極右」正統の主張
実行が伴わない規制の保守政治家
好戦的なのは大衆ではない
自己欺瞞に長けたエリート
秘密投票は自由の最後の砦
第十章 ナチスを支持したのは果たしてだれか
丸山真男の日本ファシズム論
下層、中流階級に罪を擦り付ける人々
ではどの階層がヒトラーを支持したのか
エリートも労働者も支持した国民政党
なぜ「下層中流階級」に対する偏見が始まったのか
四 中国共産党誕生の真実
第十一章 毛沢東はスターリンの傀儡だった
明かにされたスターリンの決定的貢献
中国に「国民国家」という概念は存在しない
佐々木更三 の謝罪発言に対する毛沢東の返答
「兄」スターリンと「弟」毛沢東
第十二章 中国共産党の「救世主」だった日本
なぜ日本が「救世主」なのか
青息吐息の中国共産党
西安事件から支那事変へ
近衛首相の決定的失策
汪兆銘南京政府の闇
第十三章 中国共産党の誕生に果たした米国の役割
策士、策に溺れた英国
米政権内で暗躍するソ連スパイ
縄張り争いに明け暮れる米政府
中国共産党と米陸軍の不思議な「蜜月」
日米ソ合作の中国共産党王朝
TBS NEWS
失われる宗教、言葉、尊厳… 記者が見たウイグルで進む「漢族化」の実態 市場の刃物は鎖で繋がれ民家の玄関にはQRコードが…そのワケは?【news23】
TBS NEWS DIG_Microsoft の意見 ? 昨日 15:55
失われる宗教、言葉、尊厳… 記者が見たウイグルで進む「漢族化」の実態 市場の刃物は鎖で繋がれ民家の玄関にはQRコードが…そのワケは?【news23】
失われる宗教、言葉、尊厳… 記者が見たウイグルで進む「漢族化」の実態 市場の刃物は鎖で繋がれ民家の玄関にはQRコードが…そのワケは?【news23】
c TBS NEWS DIG_Microsoft
JNNのカメラが中国・新疆ウイグル自治区にー。人口はおよそ2500万人で半数近くを占めるのがイスラム教を信仰する少数民族、ウイグル族の人々です。中国政府はここ数年、ウイグル族などに対する抑圧政策を強化していますが、これを欧米各国は「人権侵害だ」と厳しく批判、国際問題となっています。抑圧政策により失われていく宗教、言葉、そして尊厳。その実態を取材しました。
市場では刃物に鎖 民家にQRコードのワケは?
新疆ウイグル自治区、カシュガル市。人口の9割をウイグル族が占める、ウイグルらしさが色濃く残る街です。厳しい移動制限を強いていたゼロコロナ政策が終わり、多くの観光客でにぎわっていました。観光客の多くは“漢族”です。
漢族の観光客(女性)
「ウイグルの人たちは、みんなとても親切でフレンドリーです」
漢族の観光客(男性)
「今は漢族とウイグル族の関係は、とても親密です。中国は少数民族と漢族との一体化を重視し、たくさん努力してきましたから」
漢族の観光客(女性)
「ますます民族が融合しています。ウイグル族の人たちも中国語が、だんだん喋れるようになっているし」
“ウイグル族とは、うまくいっている”と口をそろえる漢族の人々。その実態は、どうなのでしょうか?
カシュガル市の市場では、ウイグル族の人たちの食生活に欠かせない羊や牛が取引されていました。平穏に見える人々の暮らし。しかし、そこで目に留まったのは・・・
記者
「刃物に鎖がついています。テーブルに固定されていて、持ち出せないようになっています」
市場の全ての刃物が鎖やヒモで固定されていました。
ウイグル族の男性
ーーいつから鎖をつけるようになった?
「結構前からです。5、6年前かな」
2009年にウイグル族と漢族が衝突した「ウルムチ騒乱」以後、中国政府は「テロ対策」の名のもと、ウイグル族に対する監視を強化。刃物を鎖で固定するのもテロ対策の一環だということです。あるウイグル族の男性は、複雑な心境を明かします。
ウイグル族の男性
「鎖をつけられることで、心理的に抑圧されている気持ちになる。尊厳が奪われている」
監視の目は、ウイグル族の人々が暮らす住宅にも・・・
記者
「民家の玄関には、QRコードが貼ってあります。QRコードを読み込んでみると担当する警察官の電話番号と名前が書いてあります」
一軒一軒、住民を監視・管理する態勢が整っていることをうかがわせます。さらに、こうした抑圧政策は宗教にも・・・
破壊されたモスクも・・・ 「宗教の中国化」とは?
記者
「こちらはモスクだということですが、完全に壊されています」
イスラム教徒であるウイグル族にとって大切なモスク。その多くが、取り壊されたり閉鎖に追いやられていました。何が起きているのか?近所の人に尋ねても、皆、かたくなに口を閉ざします。
閉鎖されたモスクの近所に住む人
ーーモスクはありますか?
「ありません」
ーー見に行きたいのですが、ないですか?
「ありません」
残された数少ないモスクも、様変わりしていました。2015年に撮影されたウルムチ市内の様子には、当時、ウイグル文字で書かれていた看板に、2023年には漢字表記が追加されています。別のモスクの壁には「愛国愛教」=「国と宗教を愛せ」の文字。こうした流れをつくっているのは、2015年に中国政府が打ち出した「宗教の中国化」です。
習近平国家主席
「我が国の宗教の中国化の方向を堅持し、宗教が社会主義社会に適応するよう積極的に導く」
信仰を中国共産党の指導のもとに置くというもので、以来、宗教活動に対する統制が強くなっています。そのため人々の姿にも変化が。
2015年に撮影されたウルムチ市内の様子には、宗教上の慣習に従って、女性たちはヒジャブで頭を覆っています。8年後の2023年は、ヒジャブをつけている女性は、ほとんどいません。ヒジャブは「過激派」のように見えるという理由で政府が許さないのだといいます。失われていたのは、宗教だけではありません。
学校の授業は中国語 進む「漢族化」の実態
子どもたちが暗唱しているのは、唐の時代の詩人「李白」の詩。学校では、中国語を使うようにという指導が徹底されていました。
ウイグル族の子ども
ーー授業は全て中国語?
「そうです」
ーーウイグル語は?
「学校でウイグル語をしゃべっちゃいけないんだ」
ーーなんで?
「
学校のルールだから。先生たちもウイグル語は使っちゃダメなんだよ」
ウイグル族の子ども
ーー中国語を勉強するのは好き?
「好きじゃないけど勉強しなきゃいけないんだ」
ーーなんで好きじゃないの?
「難しいから」
ーーウイグル語の方が楽?
「そうだよ」
中国語ができないと、就職などが不利になるといいます。
漢族の女性
「今、就職するには中国語が必要です。ウイグル族も中国語が喋れないと仕事ができないんです」
伝統の街並がテーマパーク化 失われる宗教・言葉・尊厳
レストランを訪ねると・・・
記者
「レストランの入り口には、警備員がいて金属探知機が置かれています」
新疆では、どこの街にも金属探知機が置かれ、装甲車や警察官の姿が多くみられます。しかし、住民によると、これでも警備は数年前より緩くなったのだといいます。
今、中国政府は、新疆ウイグル自治区の経済発展、特に観光産業に力を入れています。伝統的なウイグルの街並みは壊され、代わりにテーマパークのような観光施設が登場していました。
新しく整備された民宿街。経営しているのは漢族です。政府の支援があるため、ビジネスはやりやすいと話します。
漢族の男性
ーー商売はどうですか?
「とてもやりやすいです。政府も積極的にサポートしてくれます」
ーー10年前は漢族とウイグル族の衝突がありましたよね?
「ないです」
ーーなぜ今は良くなったんですか?
「党の政策がいいから。このような取材はしないほうがいい。10年前の話題は良くない」
観光用に再開発された地区には「中国共産党に感謝」の看板。
漢族の男性
「インフラの建設に国が多くのお金を投資しています」
ーー発展の変化は大きいですか?
「ここの発展はとてもはやいです」
漢族の女性
ーーウイグルの人たちが流暢に中国語を話すのにびっくりしましたが?
「みんな中国人だから、標準語を喋るのはもちろんです」
当のウイグル族の人たちは、どう思っているのでしょうか。
ウイグル族の男性
ーーウイグル族の習慣や宗教に変化は、ありましたか?
「質問の意図がわかりません」
ウイグル族の女性
ーー話を聞いてはダメですか?敏感だからですか?
「・・・(手で振り払う)」
人々が本音を口にすることはありませんでした。
習近平国家主席
「中華民族共同体意識の強化を主軸とし、党の民族対策を強化し改善する。中華民族の偉大な復興を全面的に推進し団結奮闘しよう」
ウイグルで進んでいたのは、宗教活動を制限され中国語を使うことを強いられ、中華民族の一員として生きていくことを余儀なくされる「ウイグル族の漢族化」。その流れを止めることはできないのか。「ウイグル族側に選択肢はない」ある住民はそっと打ち明けました。
ルトワックの日本改造論
序章 戦略思想で日本を救う
わたしが漁民だったら、と想像してみたい。北朝鮮画発射したミサイルが、日本海に落下する。
そんな危険のある海域で、操業していたら、どう思うだろうか。
むろん、東京の政府のだれか、防衛省や自衛隊画わたしを守ってくれることを望むだろう。
国民は税を納める見返りに、政府があらゆる外敵の脅威から、国民の生活を守り、安心感を得る権利があるはずだ。
もし、日本国民が、政府に対してそれを期待できない、というのであれば、それは安全保障政策と政治の失敗と言わざるを得ない。
国防と同じくらい大切なもの
もう一つ、日本んが国民に提供しなければならないのは、「安心して子供を産み、育てられる制度」である。
少子化は自滅の道
ルトワックの日本救出戦略
第一章 韓国よ、歴史の真実の学べ
日韓衝突は韓国の問題ーヨーロッパの対独感情との比較
韓国の行動の基本は、従属相手を切り替える点にある。彼らは日本に従属した後、アメリカに従属した。
そして今中国に従属しようとしている。
日韓関係というのは外交問題ではなく、二国間交渉では解決できない。これは韓国自身の問題なのだ。
そのことは、ドイツが欧州で直面した歴史問題と比較してみると分かりやすい。
第二次世界大戦が終わるまでに、ドイツはロシア人を二千万人以上殺害していた。
1945年の終戦から十年たっても、ロシアの反独感情はまだ激しかった。
それから70年以上経過した現在、ロシアでは反独感情は全て消え去っている。
ところが韓国人の日本への反感は、74年たってもいまだに残っている。
これはいったいなぜなのか。
理解するには、ドイツとオランダの関係と比較する必要があろう。
ドイツが戦時中殺害したオランダ人の数はロシア人に比べれば非常に少なかった。
むろん戦争が終わる前6か月間はオランダは苦しめられたが、これは食料が底をつきかけていたからだ。
オランダ人はほとんど殺されなかったにもかかわらず、ドイツ人への憎しみを解消するまで、はるかに長い時間がかかった。
その最大の理由は、ロシア人はドイツと戦ったが、オランダはそうではなかったからだ。
ドイツ人はロシア人を
殺し、ロシア人もドイツ人を大勢殺した。そして戦後、お互いに「もう、戦いはやめよう」となったわけだ。
フランス人は遅かったが、それでも一応ドイツに抵抗した。
ベルギー人の抵抗の仕方は巧みで、ドイツが作った秩序を崩壊させている。
デンマークは国民レベルで抵抗していて、非常に効果的であった。
ノルウエーにはレジスタンスの戦士がおり、占領に来たドイツ人を、しっかり攻撃した。
ところがオランダ人は、臆病者で、抵抗しなかったのである。
オランダ社会はドイツに服従し、対独協力が大々的に行われた。
例えばドイツはオランダ警察を使って、オランダ国内のユダヤ人を逮捕している。若いオランダ人たちは、自分の父親たちが、臆病者であったからこそ、戦後に反ドイツ的感情を持ち続けたのである。私の子供時代の体験もこれを裏付ける。
両親は戦後、1960年代に、車で私をオランダ沿岸部へ連れて行ってくれた。
そこかしこにあった、民宿の入り口にはもれなく「ドイツ人お断り」という看板が掲げられていた。
同じ時期、わたしはユーゴスラビアのダルマチア地方の沿岸部にも連れて行ってもらったことがある。
当時私達家族はイタリアに住んでいたので、車で遠出することができた。
この地域は、第二次世界大戦中、ユーゴスラビア王国と、ドイツの激戦地で、戦死者もたくさん出たが、
ユーゴの人々はドイツからの旅行客を大歓迎していた。
その理由は、ドイツ人がユーゴ人を殺し、ユーゴ側もドイツ人を大勢殺したからだ。彼らは決して臆病者ではなく
、立ち上がり戦ったのである。
誰も、自分たちの父を恥じることなく、誇りを持てた。だから戦後、ドイツ人に対して友好的になれたのである。
韓国人のトラウマの構造
これらを踏まえて、朝鮮問題を考えてみよう
韓国や北朝鮮で製作された、プロパガンダ映画は数多い。
勇敢な朝鮮兵、韓国兵が無法で残虐な日本兵を撃退するという、ワンパターンのストーリーだ。
だが1945年までの朝鮮半島で、実は抵抗運動と呼べるものはほとんど発生していない。
朝鮮人たちは概して服従的だったのだ。
むしろ多くの人は、服従的以上の態度で、日本に協力し、日本軍に積極的に参加したのである。
その数は80万人にも上るが、その中には朴クネ前大統領の父親、朴正キ元大統領も含まれていた。
彼は日本名「高木」を名乗り、自分の血でしたためた血判状をもって、当時の満州国の、軍官学校、陸軍士官学校に志願し、入学した。極めて優秀な成績だったという
。
わたしは彼が暗殺される数か月前に、会ったことがある。
1979年、わたしと夕食を共にした席で、彼は若いころの夢について語った。
それは日本軍の勲章をもらい、大佐として退役することだった(実際は中尉で退役)。
2019年の韓国に話を移そう。韓国人はいまだに、自分たちの父親や、祖父たちが、臆病者で卑屈だったというトラウマに悩まされている。これはオランダのケースと同じだ。ロシア人やユーゴスラビア人、そして静かに抵抗していた、ベルギー人とも事情は異なる。
ベルギーにはドイツから逃れてきたユダヤ人だけでなく、非ユダヤ人だがナチスに反対する、ドイツ人も多く定住していた。
反ナチスのドイツ人たちは、ヒトラーの政権の下で、オランダとベルギーに逃げベルギーは彼らを守った。
これはベルギーの静かな抵抗の多くの実例の一例に過ぎない。ベルギー政府はドイツに「ノー」とは言わなかったが、決してドイツの望むことはしなかった。しかし、オランダはドイツに協力し、逃亡者を逮捕し、引き渡した。
彼らは、強制収容所に送られ、オランダに逃れた人々はことごとく死んだ。
オランダはまるでドイツの使用人のようにふるまっていた。
だからこそ、戦後、ドイツ人を長期にわたって憎み続けることになった。
1945年以降のオランダ政府の国民に対するメッセージは二つの嘘で塗り固められていた。
第一に、戦時中、ほとんどドイツへの抵抗がなっかにもかかわらず、話を膨らませて、大々的に抵抗したかのように、装ったこと。
そして第二に、対独協力は個別のケースで存在したが、政府ぐるみで協力していたことは、なかったとしたことだ。
これが、完全な嘘であることはアンネ・フランクが逮捕された、事実を見ればよく分かる。彼女の家族は逃げて居場所を
隠したにもかかわらず、誰かがオランダ当局側に居場所を教えたのだ。
これはオランダ人社会に大規模かつ組織的なドイツへの協力体制があったことを示している。
そしてこれは、大きな政治的副作用を生んだ。オランダは、西ドイツが、北大西洋条約紀行(NATO)に加入することを拒否したのである。
NATOは西ドイツを必要としていた。なぜなら、当時の西ドイツは社会主義の東ドイツと国境を接する、西側の最前線に位置していたからだ。ところがオランダは、独自の反ドイツ感情に動かされて、西ドイツの、NATO加盟を阻止する運動をしたのである。
韓国人と同じように、オランダ人の反ドイツ感情は、長年にわたって維持されたのだ。
スウェーデンの偽善
もう一つ別の事例がスウェーデンである。
第二次世界大戦中、ドイツがヨーロッパ中で行っていた、非人道的な行為に対して、この国は消極的態度を
変えなかった。スウェーデン人は自分たちを最も偉大で、人道的な存在であるように見せたがる。
最近の例は、温暖化防止サミットで演説した、グレタ女子高校生である。彼らは、世界に対して常に人道主義を説き
人類を保護し、地球を救えと主張する。
第二次世界大戦中の人道の危機に対し、彼らは何もしなかった。ただ戦争の中で、優雅にパンを食べていただけだ。
傍観するだけでなく大量の鉄鉱石をドイツに輸出した。その鉄鉱石で、鉄鋼が作られ、戦車や、軍艦、武器が作られた。
最も人道的なはずのスウェーデンがドイツの武器庫になっていた。さらにナチスがノルウエーを占領するとき、スウェーデン鉄道はドイツ軍輸送に喜んで協力した。彼らは兄弟国ノルウエーを裏切りドイツ軍に協力した。
戦後、例えば1953年頃になると、ヨーロッパの多くの国は、西ドイツをすでに許していたが、スウェーデンはオランダと同じように、超がつくほどの反ドイツ感情を保持していた。戦時中スウェーデンはオランダ人と同じように、臆病者で、ナチスに協力していた。
戦時中スウェーデン人はドイツに協力することで、経済的に豊かになった。
戦時中ドイツに協力的だった国ほど、戦後になると「ドイツはひどい国だ」と非難して回るようになった。
オランダ人も従僕のようにドイツに協力したため、戦後は「ドイツ人お断り」に転じた。
韓国の日本に対する「反日」と全く同じである。
韓国人の反日心理と「苦悩に満ちた再評価」の義務
ここで紹介してきたヨーロッパの60-70年前の歴史は現在の韓国に二つの点で教訓となっている。
第一に、日韓関係は外交問題ではないこと。
日本は関係改善のためにあらゆる努力を試みてきたが、問題の本質は、日韓の間にはなく、韓国人の世代間ギャップ、つまり、現役の世代と、その父や、祖父たちの間に横たわる問題だ。
自分たちの祖先が、日本の統治時代に臆病者として、行動したことへの反発である。
第二に、非常に残念なことだが、韓国はもはや米国や、日本と過去の結んでいた、関係には戻らないことが明白になったことだ。
彼らには、中国に抵抗する、意思はなく、一方的に従属しつつある。
保守の朴槿恵前大統領さえ、中国共産党の対日勝利記念日に参加し、習近平と同席して,中共軍を閲兵した。
韓国が米日からの離反と中国への従属をやめたいなら、歴史問題で対ドイツ関係でのフランスの態度を見習わなければならない。
戦争が終わった数年でフランスは、もう
「過去は忘れて未来に生きよう」と態度を改めた。
フランスは戦時中、実に多くの一般のフランス人が、ドイツの軍需工場で、半ば強制的に、働かされていた。
現在のフランス政府が、過去の不幸に遭遇したフランス人に、損害賠償を請求するようにドイツを非難することはない。
ドイツがフランスに対して実際に行った、行為は、日本の朝鮮半島、での行いよりはるかに過酷だった。
道を歩いている人を連行して働かせた。
ドイツ人はフランス人を追放し、射殺した。
フランス国内から、馬車3万両、分の財宝を奪っている。
小麦から、鉱物資源、美術品、〜トラックまであらゆる、財宝を略奪したのだ。
、
プーチンの戦争、ナザレンコ・アンドリー2022年5月発行
「ロシアに早く降伏したほうがいい」と主張する、日本の「平和主義者に言いたい」。それは「奴隷の平和」選べというのと同じだ
第一章「軍事力無き外交」はロシア・中国には通用しない!
ウクライナ大虐殺の衝撃
がれきの山となった、わが子協ハルキウ
ウクライナ有事は日本有事
ロシアと中国は同根
軍事力無き「外交努力」は無益だ
プーチンがウクライナに固執する4つの理由
ロシアの「性(さが)」はサソリの「性」
中露独裁国家同士が助け合う理由
このままではクリミア同様北方領土は永遠に帰ってこない
愚かにもほどがある「NATO悪者」論
「恩知らずの国」(露、中、朝鮮)の日本包囲網
経済で独裁国家との戦争は回避できない
日本政府は靖国参拝の覚悟を決めよ!
台湾を第二のウクライナにするな
第二章
本物の難民と偽難民戸を見極めよう
自称難民はやりたい放題
外国人を安易に受け入れる日本政府の3つの失敗
自国民の人的資源に目を向けよ
武蔵野市から日本の崩壊が始まる
「多様性尊重」で瓦解する欧米の轍を踏むな
アフガン陥落の教訓
中韓の「自国第一主義」を見習え
第三章
”反日”日本人が多すぎる
支持率一桁”永久野党”の反立憲主義
LGBT利権に群がる活動家に屈してはならない
日本の「左翼政党」はどうして「反日正当」になるのか
「表現の自由」と「ヘイトスピーチ禁止令」
日本にくけりゃ東京五輪まで憎い
夫婦別姓と同性婚が目指す家族のきずなの断絶
「クレーマー野党」コロナ禍に死す
LGBTで滅んだ「マウスの楽園」
第四章日本の「危機管理」は大丈夫なのか
自民党は「保守」の源流に立ち返れ
祖国(母国)とは国語なのだ
!
若者の政治無関心が生む四つの不都合
”参政権”は血で贖(あがなう)
うものだ
左翼の経済政策にご用心
万世一系の皇統が”非核・日本”の抑止力
”自由主義者が私権制限を叫ぶ不思議
為政者の「コロナ禍」が奪った幼い命
日本人が知らない朝鮮半島史、ケント・ギルバート
韓国と北朝鮮
・・・反日の源流
初めに
韓国と北朝鮮に困惑している日本の皆さんへ
近年特に気になっていることがあります。それは「韓国は1919年(大正8年)以降に日本が朝鮮半島に対して行った統治行為のすべてを”不法”だと考えているらしい」ことです。この話にピンとくる方はどのくらいいらしゃるでしょうか
2019年3月1日、韓国の首都ソウルは、文在寅大統領主催の「第100周年3.1節記念式典」にわきました。
1919年3月1日(当時は日韓併合の時代)朝鮮半島は宗教指導者を中心に日本を敵として、独立運動が起き、独立宣言が読み上げられました。
「3.1運動」といいます。3.1運動ののち独立運動家が上海に「大韓民国臨時政府」を樹立しました。
この臨時政府が国際的にに承認されたことはありません。
(当時の中国政府も日華事変中の蒋介石国民党政府も承認しませんでした。
これに対して満州国は実質的に当時の独立国家44か国のうち22か国が承認していました)
韓国人はどうやら、「大韓民国臨時政府樹立をもって、”韓国”は国として成立し、今に続いている」と考えているようです。
「臨時政府の樹立=大韓民国成立」と考えるなら、「日韓併合は、日本が独立国家を不法に統治していた」という理屈をつけることができます。戦後に結ばれた「日韓基本条約」で片付いたはずの賠償も「日本の不法統治に対しては済んでいない」というのが彼らの理屈です。
「徴用工訴訟問題」も「慰安婦」問題もこの理屈に基づいています。
韓国側のこの理屈は国際的には全く詭弁ですが、韓国人は本気で信じていることを物語っています。日本人にとってはとんでもない考え方ですが、朝鮮半島の人々にとっては”歴史”は特殊なのです。
「歴史を忘れた民族に未来はない」と韓国人はよく言います。これは「日本人は歴史を重視しないから悪い」という意味に使われます。しかし、韓国や北朝鮮の「歴史」とは自分たちに「都合の良いように書き換えてきた歴史」です
。
朝鮮半島の人々の「都合の良い歴史」とは何か?「日本という国がどのように位置づけられているか」等を知らないと日本の国益は確実に失われていきます。
例えば、皆さんは「日本列島はかって朝鮮民族の植民地だった」
「日本人は朝鮮半島から追い出された朝鮮民族のなれの果てだ」と朝鮮半島の人々が本気で考えている。・・・
「1910年に始まった、日韓併合によって、朝鮮半島の人々の”反日”は始まった。だから、この問題さえ解決が憑けば、彼らの”反日”は消えて、お互い仲良くなれる」と多くの日本人は考えています。
ところがそうではありません。まったくの勘違いです。
朝鮮半島人の「反日の源流」は古代まで遡ります。朝鮮半島の歴史全体が「日本を貶める仕組み」にできています。
第一章 日本と朝鮮半島@「古代〜近代」
韓国と北朝鮮「反日」のワケは歴史にある
01:稲作問題
「稲作」の技術は本当に朝鮮半島から伝わったのか・・・?
02:「2つの三国時代」
朝鮮半島の強国「高句麗」は満洲人の作った国!
03:
「百済人の大量移住」
日本列島は朝鮮民族の植民地!それが朝鮮半島人の認識
04:
「神功皇后の三韓征伐」
日本は「恨み」と「劣等感」から何度も朝鮮半島を侵略した
05:白村江の戦い」
百済首脳のふがいなさにほとほとあきれた日本人将軍
06「李氏朝鮮の誕生」
07:「豊富秀吉の朝鮮出兵」
両軍の兵の数何と40万人以上!16世紀最大級の大戦争
08:「朝鮮通信使」江戸幕府は手厚く迎えたが、李氏朝鮮は、釜山までしか帰国させず。
かたくなに鎖国
第二章 日本と朝鮮半島A「幕末〜韓国併合」
朝鮮半島を助けざるを得なかった日本
09:「欧米列強のアジア進出」
東アジアの危機的状況下で、酷暑を拒否した大院君
10:「征韓論」
国際情勢虫の朝鮮半島を、何とか近代化させなくては・・
11:「日朝修好条規」
「自主独立」の意味を理解しなかった李氏朝鮮
12:「日清戦争」
朝鮮半島に手を焼く、日本と清朝の戦い
13:「日露戦争」
ついにロシアにおもねった、李氏朝鮮の「時代主義」
14:「伊藤博文暗殺事件」
併合に反対していた伊藤博文を、独立運動派の安重根が暗殺
15:「韓国併合」「韓国併合」によって韓国の人口は2倍に
第三章 日本と朝鮮半島?「3.1運動〜現在」
失われたアイデンティティを探し続ける人々
16:「3.1運動」
韓国は神聖化し、北朝鮮は否定する「3.1運動」
17:「終戦」
韓国にとっては自主独立。北朝鮮にとっては、祖国解放
18:「南北朝鮮」
国家の建設理念そのものに、「反日思想」を据えて独立
19:「朝鮮戦争」戦後の東アジアの構造を決定した代理戦争
20:「李承晩ライン」
日米安保条約のあいまいさを利用した、韓国の卑劣さ
21:「日韓基本条約」
国際条約を無視する、常識しらずの国・韓国
22:「慰安婦問題」
日本国内を蝕む,親韓&親北の反日勢力
23:「日本人拉致事件」
「主権」と「人権」を蹂躙する、北朝鮮による大犯罪
24:「徴用工問題」
法の常識が通用しない、韓国の大法院
第四章 日本と韓国「現代」
ストーカー国家・韓国に悩まされる日本
25:「併合と植民地の違い」
奪い続ける西洋の植民地支配、与え続ける日本の併合統治
26:「建国100年説の恐ろしさ」
慰安婦問題も徴用工問題も、ひずんだ韓国現代史観が原因
27:「嘘だらけの慰安婦問題」
でっち上げ記事に始まり、韓国内でエスカレート
28:「反日の日本人」
日本を貶めている、内なる敵、「朝日新聞」と「日弁連」の大罪
29:「徴用工問題」と「レーダー照射事件」
稚拙な外交戦略を続ける、文在寅政権
第五章 日本と北朝鮮「現代」
カルト国家・北朝鮮に脅かされる日本
30:「金王朝神話」
「小中華主義」と「徹底反日」で出来上がっている建国神話
31:「主体思想」
頑なままの上から目線と「金一族」絶対主義の正体
32:「核開発問題」
裏切りと傍若無人は、北朝鮮の正義
33:「日本側の北朝鮮観」
北朝鮮に対する甘さを露呈した拉致事件
34:「北朝鮮シンパの日本人」
「東京裁判史観」に縛られている、政治家、官僚、マスコミ
第六章 アメリカと朝鮮半島「現代」
なぜアメリカは朝鮮半島にこだわるのか
35:「朝鮮半島の占領」
「東西冷戦」の開始を告げる、南北朝鮮の境界線
37:「米兵の犠牲」
米国国防省の発表では3万6千人強、犠牲を払って手に入れたが・・・
38:「北朝鮮と中国」
「朝鮮半島はいつでも取れる」と考えている習近平
39:失墜する韓国」
未熟な民主主義、無視される言論の自由
第七章 日本と朝鮮半島C「現在と未来」
40:「身分に支配される国」
下層階級を必要とする国民「総両班」の実態
41:「儒教に支配される国」
ジコチューを肯定するための、最強理論としての「儒教」
42:「プライドという悪徳」
過剰・過大な自己評価と恥を知らない傲慢さ
43:「憲法改正へ」
国益を守るために、保守されるべき民主主義
第一章 日本と朝鮮半島@「古代〜近代」
韓国と北朝鮮「反日」のワケは歴史にある
01:稲作問題
「稲作」の技術は本当に朝鮮半島から伝わったのか・・・?
朝鮮半島の人々は「日本という国は朝鮮人が創った」と本気で信じています。読者の皆さんは「そんな馬鹿な」と一笑にふすでしょうが、こう考えているということが真実です朝鮮半島人の「反日」の源泉は全てここにあります。
日本人の多くも教科書的な常識として「古代の日本文化は、大陸や、朝鮮半島からやってきた渡来人によって伝えられたもの」と考えていますよね。
たとえば、日本列島での「稲作」の始まりについて次のように信じている人が多いのではないでしょうか。
「稲作技術は朝鮮半島から退去して移住した、人たちによって伝えられ日本は弥生時代を迎えた」と。
そう教科書に書いてありました。戦後の歴史教育での通説です。
これがそうではなかったのです。
近年では「縄文人こそが、弥生文化を作った」という見解が主流です。
1986年福岡県糸島郡志摩町「新町遺跡」で弥生時代前期の墓が発掘されましたが、出土した14体の遺骨はすべて縄文人でした。
従来の常識を覆す大発見です。
1992年岡山県総社市の「南溝手遺跡」で縄文土器から
紀元前1500年の稲の葉の成分(プラントオパールと呼ばれます)
が検出され、農機具も出土しました。
こうした考古学的な発見から「稲作をはじめ広めたのは、縄文人であって、弥生時代の渡来人画日本列島を濃厚開拓したのではない」とする研究が今では常識となっています。
また、日本に稲作を伝えたとする、朝鮮半島に、日本より古い、稲作関係の考古学的資料が発見されていないという事実があります。
中国四国農政局
ホーム > 広島県拠点 > 広島の消費・安全 > お米教室 > お米はどこからきたの
お米はどこからきたの
米=稲は本来日本列島には自生していない熱帯性植物です。稲作の起源は、インドのアッサム地方から中国の雲南省にかけての山間との説が有力で、中国の長江(揚子江)中流の遺跡から約6500年前の水田跡や灌漑設備が発見されています。日本に稲作が伝わったのは縄文時代の終期です。
福岡市の板付遺跡(約2400年前)青森県田舎館遺跡(約2000年前)からは水田の跡が発見されています。
日本に稲作が伝わった道としては下の4つの説があります。
<参考図書:山岸良二・松尾光(1999年)「古代日本がわかる事典」日本実業出版社/岡村道雄監修(2000年)「全国訪ねてみたい古代遺跡100」成美堂出版>
お米はどこからきたの
資料:文珠省三・福原敏男「米と日本文化」及び渡部忠世編「稲のアジア史3アジアの中の日本稲作文化より作図
2013年3月30日 投稿者: ADMIN
ゆらぐ縄文時代 稲作はどこまでさかのぼる?
縄文中期に稲作 熊本の土器で稲もみ圧痕を確認
圧痕(あっこん)
熊本県本渡市の大矢遺跡から出土した縄文時代中期(約5000〜4000年前)の土器に稲もみの圧痕(あっこん)を確認したと19日、福岡市教委の山崎純男・文化財部長が明らかにした。
全国最古のもので、縄文中期に稲作があったことを示す貴重な資料という。
圧痕は、土器の製作中に稲もみなどが混ざって出来た小さなくぼみ。 作物が栽培された時期を特定する有効な資料で稲もみとしてはこれまで、岡山県の南溝手遺跡など縄文後期(約4000〜3000年前)の圧痕が最も古かった。
九州の縄文土器を調査していた山崎部長は、大矢遺跡の土器群を電子顕微鏡で解析した結果、縄文中期の土器から1点、縄文後期の土器から1点の圧痕を確認した。ともに長さ約3ミリ、幅約1ミリだった。
水田稲作は長く、弥生時代に朝鮮半島から伝わったとされてきた。しかし、近年は縄文時代に陸稲を含む農耕があったとする説が認められつつあり、稲作の起源に注目が集まっている。
山崎部長はこれまで、熊本市の石の本遺跡など約10遺跡の縄文後期以降の土器からも稲もみやコクゾウムシなどの圧痕を見つけており「縄文中期以降に稲作があったことは確実。
今後も縄文農耕の解明に努めたい」と話している。 西谷正・伊都国歴史博物館長(九州大名誉教授=考古学)の話
「縄文中期に稲作があったことを示す確定的な証拠。稲もみの圧痕という実物で確認しており、貴重な発見だ。」 (2005.7.20 読売Online)
02:「2つの三国時代」
朝鮮半島の強国「高句麗」は満洲人の作った国!
紀元前108年、衛氏朝鮮は漢の武帝に滅ぼされ、その後400年間中国の直轄地となる。
その後中国三国志に朝鮮は、中国に支配されていた、馬韓、辰韓、弁韓の三国時代になり、後に馬韓は百済に辰韓は新羅に、弁韓は任那になる。三国志には「弁韓の風俗は倭(日本)に似ている」と書かれている。
朝鮮半島に大きな変化が起こったのは4世紀です。満洲にできた高句麗が南下、朝鮮半島北部を支配しました。
日本はこの4世紀、朝鮮半島に進出しました。これが「日本初期」に記載されている、「任那日本府」です。
「任那日本府」が日韓歴史認識の対立点になっています。日本がこの時期に挑戦に領土を持っていたのか、いなかったのか、その論争は今も続いています。
03:
「百済人の大量移住」
日本列島は朝鮮民族の植民地!それが朝鮮半島人の認識
韓国生まれの学者、呉善花氏は「攘夷の韓国開国の日本」(文芸春秋1996年)で、高麗大学教授チェジュソク氏の論説を紹介しています。かれによれば、古代日本への百済人の移住の意義は次のようになっています。
:「韓民族は北九州をはじめ、倭(日本)各地に住んでいたが、大和倭(明日香・奈良)の建設は、集団移住を遂げた、百済人の手によって、この時(弓月君の移住)から始まった。こうして、大和倭は百済の植民地として栄えていった。」
チェジュソク氏によれば「日本書記」には次のようなことが書かれているというのです。
:大和倭の実質的な王である、曽我氏、配下の物部氏、仏教界の指導者、王室教育担当者、歴代天皇の侍医、遣唐使及び留学生、軍隊司令官、博士等百済人を主とする「韓国人」である。
:7世紀に、唐・新羅同盟軍によって百済が滅び、王族、貴族をはじめ2000人も倭に移住した。百済が滅んだので百済人は倭に独立国家を創った。
:新羅の攻撃がなくなった時点で、倭を日本に改めた。
天武天皇の「日本書記」に書かれている
:「日本」は太陽を意味し、韓民族の根本思想
:天照大神等の神の名前は韓民族の太陽根本思想の名前
「天照」は太陽の「照」に天上祖神の「天」をかぶせたもの、「天皇」は「王」に天をかぶせたもの、みな、韓国の
東明思想・太陽思想に由来する。
:日本を建設した百済人は、出自を隠し「日本化」した。
(「百済と大和倭の日本化過程」チェジュソク氏 1990より)
上記に対する歴史事実。
”高麗大学教授チェジュソク氏の論説 「百済と大和倭の日本化過程」”は
663年(天智天皇2年) - 日本軍が、唐、新羅の同盟軍に韓国南西部の白村江の戦いで大敗したあとの歴史の一部を
妄想拡大したものである。
(日本とは聖徳太子が名付けた
聖徳太子の大戦略
日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。
太子は隋と国の交わりを結ぼうと考え、607年、隋につかいを送りました。
このつかいを「遣隋使」といい、小野妹子が選ばれました。 妹子が隋の皇帝にわたした手紙には、日本が新しい国に生まれ変わった誇りがこめられていました。
韓国の
東明思想・太陽思想に由来する。
それなら、なぜ朝鮮には太陽由来の、国名とかないのでしょうか。
「朝鮮」とは中国の明王朝が李氏朝鮮の建国者、李成桂の依頼に応じてつけた国名であり「朝鮮」とは「朝貢、鮮(少なし)」という意味。
飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、難波宮や飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年から和銅3年710年)にかけての118年間を指す。
飛鳥寺の大仏。609年作製と見られており、日本最古の仏像である。
法隆寺
聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。
663年(天智天皇2年) - 白村江の戦いで大敗する
唐・新羅同盟軍に百済再興を目指した日本軍が韓国南西部の白村江の海戦で大敗。
百済が新羅に滅ぼされたので百済から何度も救援要請があり、斉明天皇は百済再興を決断。都を福岡県朝倉市に移し
た(朝倉の宮)。
663年(斉明天皇の子、天智天皇2年)、百済の国家復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。
そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。664年(天智天皇3年)、筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫など朝鮮半島方面の日本海に防人や烽を置いた。666年(天智天皇5年)には、日本国内の百済人2000人余りを東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。
)
トンデモナイ妄想です。しかしこのような見方が韓国人の一般的な考え方です。
呉善花氏は前掲書の中で韓国で放送された、テレビ番組にも触れています。テーマは「韓半島文化としての飛鳥・奈良・京都」
番組では人名、地名、寺社、等をあげるとともに、「飛鳥・奈良・京都」の文化遺産の多くが朝鮮半島から移住した知識人や技能者によって作られているかを説明しています。法律や、制度、儀礼、等が「韓式」で、当時の日本の、貴族、高級官僚、僧侶、学者のことごとくが韓半島人によって、占められていたと説明しています。
極端に言えば、文化ゼロの日本に韓民族が文化100を生み出したと説明されているのです。
トンデモナイ妄想です。しかしこれが韓国の教育で教えられている、真実です。
韓国からは日本に奈良、京都に修学旅行にたくさんの学校が来ますが、彼らは、寺社、庭園等の文化遺産を見て、修学旅行の引率先生は「これらは我が韓国民族の祖先が作ったもの」と説明しています。
韓国にはこれら寺社、庭園等の文化遺産はありません。
韓国は「儒教」の国です。儒教では、子孫より先祖、子より親というように先にあるほうが上に立ちます。
「朝鮮半島は日本に文化を伝えた(伝えてあげた)。したがって、韓民族は、日本民族より、上の存在だ」これが疑問の余地なく韓民族の考え方です。
これが韓国と北朝鮮が「反日」である、そもそもの理由です。
日韓の諸問題は兄の韓国の言うことを弟の日本が聞かなければならない。というのです。「日本は問答無用で韓国の意見を聞き、カネを出したり、協力したりしなければならない。(格下の国)だから当然」と考えているのです。
04:
「神功皇后の三韓征伐」
日本は「恨み」と「劣等感」から何度も朝鮮半島を侵略した
神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后です。4世紀後半の人物です、
その神功皇后が海を渡って韓国の百済・新羅・高句麗を平定した。神功皇后の三韓征伐です。
「日本書記
」や「古事記」に記載されています。
征伐の理由は住吉三神〜「貧しい熊襲の地よりも、金銀財宝に満ちた海の向こうの新羅を征伐せよ。我ら三神を祀れば新羅も降伏する」という神託を授かったからでした。
この神託を信じて
神功皇后は海を渡り三韓征伐を実現し、帰ったから、雄略天皇を生みます。
1880年に旧高句麗の故地にて「好太王の碑(広開土王の碑)」が発見されました。そこには「辛卯の年(391年)に倭が海を渡って、百済、新羅、加羅を破り臣民にした」という内容を含む1802文字が刻まれています。これが「神功皇后の三韓征伐」に対応します。
韓国では「高句麗が海を渡り、百済を破り、新羅を救って臣民とした」
北朝鮮では「高句麗が海を渡って、倭を破った」と解釈しています。
朝鮮半島人の「反日」はこの「神功皇后の三韓征伐」に始まっています。日韓併合の1910年からではありません。
朝鮮半島の人々にとって、侵略を目指す、日本人の民族的資質が初めて、発揮されたのが神功皇后の三韓征伐でした。
三韓征伐に始まって、豊臣秀吉の朝鮮出兵があり、幕末から明治にかけての征韓論があり、そして韓国併合という植民地支配という「日本人の侵略的で、野蛮な性格を物語るものだと」朝鮮半島の人々は考えているのです。
さらに大変興味深いのは
「日本人の侵略的で、野蛮な性格を物語るものだと」朝鮮半島の人々は考えている、その理由です。
呉善花氏は前掲書の中で引用している、金洪吉という大学教授が書いた文章を紹介しましょう。
金教授は日本人が韓民族を忌み嫌う理由を次のように述べています。
:現在日本人の90%以上は、わが国(韓国)から流れていった、人々の子孫、あるいは血が混ざった人々である。
:日本文化の大部分はわが文化がそのまま伝えられたものである。少なくとも明治以前は、わが国がはるかに先進国であった。
:日本に移住した人々は、三韓、と三国、加那が滅亡した後の王室を中心にした指導層と韓半島では生きていけない罪人などの最低層、彼らは追い出された人々であり、わが民族に対し、強い恨みと敵対心を持っている。
:この凝り固まった恨みとコンプレックスが子子孫孫に伝えられ、絶え間なき敵対行為と復讐心になっている。
:憎しみによる敵対行為とともに、彼らは自らが、韓民族出身であるという出自を隠そうとしてきた。「古事記」「日本書記」等は歴史を捏造したものである。
(「日本人の韓民族に対するコンプレックス2000年・・・憎しみと侵略で一貫した、敵対の歴史、その実装と原因」ジブムンダン社 金洪吉、1993年ソウル)
前述の高麗大学教授チェジュソク氏とともにトンデモナイ論理ですが、韓国では大学教授たちがほとんどこのように考えています。
金教授
の考え方は在日朝鮮人への韓国本国の韓国人の考えと同じです。
朝鮮半島の人々は「日本人は民族性を忘れた、韓国・朝鮮人に過ぎない」と考えています。
「神功皇后の三韓征伐」
九州の神社:福岡県・概要
https://www.kyushu-jinja.com/fukuoka/
筑紫国(筑前国・筑後国)の地である福岡県。古代より、大陸との交易の中心地とされてきました。政治・文化の中心地であることから数多くの重要な神社さんが鎮座しています。
その歴史を紐解くと、仲哀天皇から神功皇后にかけての熊襲征伐と三韓征伐にかけての神跡・故事が数多く伝承として残されています。『延喜式神名帳』には廟の香椎宮、筑前国(19座10社)、筑後国(6座5社)が式内社と記載せられています。その式内社と共に、忘れてはならないのが、菅原道真の飛梅で知られる太宰府天満宮です。
その多くが、仲哀天皇と神功皇后による熊襲征伐と三韓征伐にかけて由緒を求める神社が多いのが特徴と言え、対大陸との姿勢が色濃く残ることから、多くの神社さんが西に向かって社殿が建造されています。
05:白村江の戦い(
はくすきのえのたたかい)」
百済首脳のふがいなさにほとほとあきれた日本人将軍
歴史教科書にある
「白村江の戦い」は663年に起こった「日本」対「唐・新羅連合軍」との戦いです。
新羅が百済を滅ぼしたので、百済の国家再建のために日本が兵を送ったのです。当時日本と百済は深い外交関係にありました。
日本は百済に半島での鉄事業を代行させていたのです。百済王朝の後継皇子・豊璋(ほうしょう)は飛鳥にいました。いわゆる人質ですが、飛鳥で何不自由なく過ごしていました。
百済の危機を眼前に、日本はまず兵5000人をつけて
豊璋を百済に返しました。百済王朝再建のためです。
「白村江の戦い」は日本軍の惨敗でした。作戦の失敗によるものでした。
「日本書記」には豊璋に同行した日本人将軍朴市田来津(えちのたくつ)が登場しいくつかのエピソードを残しています。
百済の跡継ぎ、豊璋が、人質時代に甘やかされていたせいか、食料の豊かな所に移りたい。と言い出し、新羅軍に攻撃されて、再び城に戻る、という事件を起こしたことがありました。「軍事的要害を離れてはいけない」と反対したのは将軍朴市田来津だけでした。
白村江の戦いにおいても、豊璋並びに日本人諸将が先手必勝を主張するのを、戦況がわからぬ愚行だと
朴市田来津は考えていました。朴市田来津はは天を仰ぎ、歯を食いしばって怒り、摘数十人を殺して,そのまま戦死します。
「日本書記」には「その後、百済から2000人の人々が日本へ渡ってきた」と書かれています。
これが
高麗大学教授チェジュソク氏の論説
:7世紀に、唐・新羅同盟軍によって百済が滅び、王族、貴族をはじめ2000人も倭に移住した。百済が滅んだので百済人は倭に独立国家を創った。
の言い分です。
06「李氏朝鮮の誕生」
「中華」から遠い日本は朝鮮から見下されて当然?
一旦新羅が唐と連合して高句麗を破り、朝鮮半島を統一した。その後新羅は内乱となり、内乱の中の一つ、後高句麗の将軍、王建が「高麗」を建て、朝鮮半島はいったん統一された。
高麗は13世紀、元の属国となりました。1368年、元が明朝に中国から追い出された。この時1392年元の属国高麗王は将軍李成桂に命令し元救援の軍を送った。
将軍李成桂は軍を率いて、鴨緑江まで来ると、高麗王に反乱を起こし、高麗を滅ぼした。
李成桂は、明朝に即位の承認を求め、、国号を「朝鮮」あるいは「和寧」かに決めてほしいと、要請します。明皇帝は「朝鮮」にしました。
「由緒があって優雅だから」と表面は言われていますが「朝貢、鮮(少なし)」だからと言われています。朝貢、儀礼などなど、徹底的に、中国に仕える。ことで、国が守られる。というのが李氏朝鮮の外交政策のすべてでした。この外交政策を「事大主義」といいます。
「事大主義」とは強いものに追従して、自己保身を図る。ものでした。
李氏朝鮮にとって「事大主義」は誇りでした。
中国の戦国時代の思想家・孟子の「小をもって大につかうるものは国を保つ」の言葉に由来するからです。
そして李氏朝鮮が誇りをもって時代主義を徹底して中国に尽くすのはさらに深い理由があります。
中国を世界の中心とする「華夷秩序」と呼ばれる世界観です。
自らが世界の中心にあり、その中心から同心円状に遠ざかれば遠ざかるほど野蛮で、侵略的な者たちが跋扈する文化はつる夷族の地となる。
東夷、南蛮、西戎、北狄(とうい、なんばん、せいじゅう、ほくてき)である。
こうした世界に秩序を生み出すためには世界の中心、すなわち文化の中心にある、「優等な、中華」が周辺の「劣等なる夷族」に文化・道徳を与えて、感化・訓育し、中華世界に組み入れていくことである。(「日帝だけでは歴史は語れない」「反日の源流を検証する」呉
善花,三交社 1997年)
これが「中華主義」です。
現在の中華人民共和国の指導者たちが、しっかり受け継いでいる思想です。「一帯一路」等はその典型です。李氏朝鮮は中国に対して礼を尽くします。事大主義は李氏朝鮮にとって国家安寧の礎でした。、
韓国人はかって韓国は文化のなかった日本に文化を与えてやった。と考え、それを口にもします。韓国人は今でも、日本は韓国よりも文化的に下にある国とみなしています。
日本はどうだったのでしょうか
聖徳太子が遣隋使、小野小町を通じて、隋の皇帝煬帝,に
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(ひ いずるところのてんし しょを ひをぼっするところのてんしにいたす つつがなきやいなや)」
と伝えたように中国と対等と考えていました。
現在の国際常識として、日本にとっては、韓国も北朝鮮も、対等な独立国家です。
しかし、韓国と北朝鮮にとっては、いまだ「華夷秩序」に位置付けられた「野蛮な劣等国」です。
この考え方の違いが外交問題になります。
なお「華夷秩序」を尊重している国は韓国と北朝鮮だけです。
南のベトナムも西のウイグル、チベットも北のモンゴルも、従来の満洲も「華夷秩序」に従っていません。
07:「豊富秀吉の朝鮮出兵」
両軍の兵の数何と40万人以上!16世紀最大級の大戦争
秀吉は朝廷から「豊臣」姓を賜って、1586年、豊臣秀吉隣、1590年小田原の北条氏を降伏させ天下統一を果たします。天下統一を果たした秀吉は次に大きな計画に移ります.明朝征服です。豊臣秀吉はまず、「華夷秩序」に従って、明の属国だった、李氏朝鮮に服属を要求します。
明への道案内をさせるためです。
しかし拒否されたので秀吉は1592年、朝鮮半島を征服するために16万人の大軍を派遣しました。「文禄の役」です。
李氏朝鮮軍、19万5千人、明軍5万3千人が迎え撃ちました。両軍合わせて40万人、世界的にみても16世紀、最大の戦争だったのです。
「文禄の役」は1593年、停戦協定が成立して、休戦となります。
明は秀吉を日本国王として認め、明皇帝の属国とする講和条件を出してきました。
秀吉は激怒し1597年「慶長の役」となります。しかし翌年秀吉が病死したことから、日本軍は全軍引き上げました。「秀吉が死なずに進軍すれば、明を窮地に追い込んだ可能性は高い」といわれています。
ソウルの光化門広場に立つ李舜臣は、「露梁海戦」で日本水軍を破った朝鮮水軍の司令官です。彼はで戦死しました。
李舜臣はは日本水軍を何度も破ったといわれていますが、破ったのは兵装のない輸送船ばかりでした。そして日本朝鮮間の水運は何の被害もありませんでした。秀吉の朝鮮出兵で、日本軍将官の戦死もありませんでした。
歴史に「if」はないが秀吉が1598年に死亡せず日本軍が撤退していなければ、東アジアの歴史は大きく変わっていたでしょう。
08:「朝鮮通信使」江戸幕府は手厚く迎えたが、李氏朝鮮は、釜山までしか帰国させず。
かたくなに鎖国
「朝鮮通信使」は江戸時代李氏朝鮮が日本に派遣した使節をいいます。
江戸時代には12回使節がありました。
豊臣秀吉の朝鮮出兵で、途絶えた国交を家康が1607年に招いたことに始まります。
徳川将軍の代代わりの祝賀等のために正使、副使をはじめ、通信使の数は4百から5百人、はるばる江戸まで招いていました。
朝鮮通信使一考は、対馬、壱岐、九州から瀬戸内海の各地に寄港し、陸路で、大阪、京都、名古屋を経て、中山道で江戸に向かいました。
通信使一考を対馬藩士800人が護衛し、総勢3000人の大行列でした。
日本国内の往復に半年かかり、日本民衆には手厚く迎えられたそうです。
日本と李氏朝鮮は友好だったそうですが、通信使は李氏朝鮮から日本への一方通行でした。
李氏朝鮮は日本の使節を受け入れず、対馬藩の使節等が来れば、釜山の「倭館」に留め置き一歩も国内に入れませんでした。
李氏朝鮮は、「完全な鎖国政策」を執っていました。
例外は中国に対する、朝貢関係とこの日本に対する、朝鮮通信使だけでした。
第二章 日本と朝鮮半島A「幕末〜韓国併合」
朝鮮半島を助けざるを得なかった日本
09:「欧米列強のアジア進出」
東アジアの危機的状況下で、酷暑を拒否した大院君
1863年、日本の明治維新の5年前、李氏朝鮮25代、国王哲宗がなくなりました。李氏朝鮮では国王に父がいて、生存している場合、それを「大院君」といいます。
李氏朝鮮は末期的な状況にありました。
いわゆる支配階級の両班が不毛な議論を続けていました。両班は1690年に7.4%
だった両班の人口は、1858年には48,6%にまで増加していました。
両班は科挙で選ばれ、世襲制ではないのですが・・・・
問題は世襲はもちろん両班の地位の売買や、偽造の資格の売買、自称を含めて両班の割合が増えたのです。
「大院君」「衛正斥邪(えいせいせきじゃ」を掲げて攘夷の国策をつづけました。
衛正斥邪の正は儒教と中華主義を意味し、邪は 儒教以外の宗教と、中華主義以外を意味します。
明治維新で日本は新政府の樹立を李氏朝鮮に伝達するための使節を釜山に送りました。李氏朝鮮は日本使節が携えた、国書の受け取りを拒否しました。
拒否の理由は次の2点でした。
@文面に「皇上」「奉勤」の文字が使われていること
A署名、印章ともにこれまでのものと異なっていること。
国際標準に照らして、李氏朝鮮が国際法を理解しなかったことでした。
旧来の「華夷秩序」にこだわる、朝鮮半島と近代化の推進に行った日本の世界観が真っ向から対立した事件でした。
10:「征韓論」
国際情勢虫の朝鮮半島を、何とか近代化させなくては・・
征韓論についてお話しする前に知っておくべき大きな問題があります。朝鮮版図の人たちの「プライド」
「傲慢さ」です。
朝鮮半島の人たちは中国に仕える事大主義を信奉するにもかかわらず、本当は、「自分たちが世界の中心」と考えています。「小中華主義です」この小中華主義は李氏朝鮮の事大に始まりました。
李氏朝鮮が礼を尽くしてきた中国とは明朝
と清朝です。
清は1616年に満洲で建国しました。建国したのは、女真族のヌルハチです。
当初は後金国といい、明の属国でした。は後金国は万里の長城の北側にありました。中国に礼を尽くす蛮族でした。
1631年明朝が内乱で滅びます。
1644年ヌルハチは長城を超えて北京を首都としました。
ここで重要な問題が生じました。
李氏朝鮮が事大主義で尽くすべき中国が、今や蔑視すべき蛮族・女真族が支配する清王朝となったのです。
事大主義画骨の髄までしみ込んでいる李氏朝鮮としては、精神の事大を失うわけにはいかなかった。
そこで内面では過去の漢民族王朝に事大しているのだという、まことに屈折した、意識を持つことになってしまった
。
以後、李氏朝鮮は「中国が蛮族化した以上、正統的な中華主義を奉ずるのは、もはやわがくじしかない」
「大中華無き今、世界で唯一の「中華」であることを大きな誇りとすることになった。
これが李氏朝鮮特有の「小中華主義思想である」
(呉善花、「日帝だけでは、歴史は語れない」)中国は古来、朝鮮半島に対し、侵攻・侵略を繰り返してきました」しかし、日本を責めることはあっても中国の行動を問題にすることはありません。韓国人は中国を父とし、日本を弟だと今も考えています。
そして「弟の日本が兄である韓国に、意見したり、指図することは許せない。」と思っています。
「小中華主義思想である」は他の中国周辺の国では信じられていません。
満洲はもちろん、ベトナム、ラオス、タイ、ミャンマー、チベット、ウイグル、モンゴル、そして日本も。
11:「日朝修好条規」
「自主独立」の意味を理解しなかった李氏朝鮮
12:「日清戦争」
朝鮮半島に手を焼く、日本と清朝の戦い
13:「日露戦争」
日清戦争の結果、朝鮮は独立することになりました。
国内では「親日派」が増えましたが、それは「親ロシア」派にとってかわられます。
親ロシアが増えた原因は「三国干渉」です。
日清戦争の結果の下関条約で、清国は遼東半島の日本への割譲を認めます。ところがロシア、フランス、ドイツは
清国は遼東半島の日本への割譲に反対します。「三国干渉」です。
日本は列強三国の要求の前に泣く泣くそれをお受け入れ清国に遼東半島を返還します。
ついにロシアにおもねった、李氏朝鮮の「事大主義」
李氏朝鮮の「事大主義」の本領発揮、力の強いほうになびくという、朝鮮半島の本領発揮です。
高宗は漢城(ソウル)にあるロシア領事館に住み、ロシアに守られながら政治を行う始末でした。
高宗は多くの朝鮮利権、鉱山の採掘権、森林伐採権などをロシアに渡しました。もはや植民地状態です。
高宗は1897年皇帝に即位し大韓皇帝を名乗り、「華夷秩序」から抜けることを意味しますが、
「事大主義」の本領は変わりませんでした。
大韓皇帝初代皇帝高宗の取った「親露」政策は、朝鮮半島そのものがロシアの領土になりかねないものでした。
日本にとっては「国家存亡」の危機です。
「義和団の乱」(1900年)の鎮圧を経て、清は欧米の半植民地と化していました。
遼東半島はロシアに租借され、ロシアは他の列強が撤退する中で、満洲にとどまり、事実上、満洲を占領下に置きました。
不凍港の獲得をもくろむロシアの南下政策は、明かに朝鮮半島を狙っていました。
日本は1902年日英同盟を結んでロシアの脅威に備えます。
中国に利権を持つイギリスもロシアとは利害をたがえる国でした。
日英同盟に脅威を感じたロシアは一旦満洲を清に返えす約束をしますが、すぐに約束を破ります。
日本では大手新聞社を中心に「ロシアとの戦争待望論」が沸き起こりました。
しかし時の日本政府はロシアに勝てる可能性は低いと判断して、外交交渉を続け、満洲と朝鮮半島を交換する、「満韓交換論」を提案します。「満洲のロシア支配を認める代わりに、朝鮮半島での日本の支配を認めよ」という提案でした。
ロシアはこの提案を退けます。「交換など必要ない、朝鮮半島も自力でものにする」というロシアの意思表示に外なりません。
1904年日本はロシアに国交断絶、ロシアの旅順艦隊を攻撃します。宣戦布告、ロシアも宣戦布告。日露戦争の始まりです。
列強の予測に反し日本はこの戦いに勝ちます。アメリカのセオドア・ルーズベルトの仲介で、1905年アメリカのポーツマスで講和条約が結ばれました。ポーツマスで講和条約で日本に南樺太が割譲され、朝鮮半島の優越権、遼東半島の、旅順と大連の租借権を得ました。
なお、樺太は江戸時代は日本領でしたがロシアの侵略に耐えかねて、1895年、日ロ間でロシア領の北千島と樺太が交換されました。南千島、択捉、国後は江戸時代から日本領でした。
、日露戦争の勝利で日本は、国際世界の中で大きな地位を得ることになりました。アジア、アフリカの中で白人国に勝利したのは日本だけっだたからです。特にトルコは200年間の間に何十回もロシアと戦争を市ほとんど全て負けて領土を失いました。今のウクライナもオスマントルコの領土であり、黒海はトルコの内海でした。
、
14:「伊藤博文暗殺事件」
併合に反対していた伊藤博文を、独立運動派の安重根が暗殺
「併合する」とは「その地域の経営を行う」ということです。併合には莫大なお金がかかります。
「植民地にする」とはそこから資源を搾取する。ことです。欧米の植民地はすべて、植民地から搾取する経済です。
日本は搾取する一方の植民地政策をとるつもりはありませんでした。
そして、「併合」に反対していたのが元総理大臣、朝鮮統監府、初代統監「伊藤博文」でした。
その伊藤博文は1909年満洲のハルピン駅で暗殺されました。
満洲・朝鮮問題についてロシア蔵相と会談するためにハルピンに来ていました。
拳銃による暗殺犯は独立運動派の安重根です。
暗殺の動機は安重根が「伊藤博文は明治天皇の意向に反した、政策を朝鮮半島で行う”逆心”だ」と思い込んだところにありました。
韓国ではもちろん日本国内でもよく知られていませんが、実は安重根は「明治天皇は韓国の独立をはかり、兵をを維持しようと努めたこと」をよく理解していた人でした。
暗殺事件の裁判の中で、安重根は「日本が大韓帝国皇太子、李コンの教育に尽力したこと、に対して、韓国民は非常に感謝している。」と述べています。さらに、安重根は日本が、日清、日露戦争で、を通じて、朝鮮半島を含む
東洋の平和を守った事実も評価しています。
しかし、現実には日本が大韓帝国皇太子、李コンを日本に招いて教育させたのは伊藤博文でした。
銃弾を受けた後しばらく意識のあった伊藤博文は犯人が朝鮮人であることを聞き「馬鹿な奴だ」とつぶやいたそうです。
15:「韓国併合」「韓国併合」によって韓国の人口は2倍に
当時、会員が百万人ほどいた、大韓帝国最大の政治結社「一進会」派「日韓合邦」を
歓迎する声明を出しています。
日本は「併合」にあったって、列強各国に、打診しました。一か国も反対はなく、イギリスやアメリカの新聞は、東アジアの安定のために支持するという論調を張りました。
先に述べたように、現在の朝鮮半島の人々は、韓国併合を「古代から続く、日本の朝鮮半島侵略の意志、日本民族がもともと持つ、野蛮な資質がそうさせたものに過ぎない」と考えています。
しかし韓国併合に武力は一切使われていません。大韓帝国の意志が無視された事実はありません。
互いの国の政府の合意が立って実現し、国際社会の歓迎のもとに実現されたものです。
日本は莫大な費用を朝鮮半島に投入しました。その結果朝鮮半島に次のような変化をもたらしました。
*韓国併合当時の朝鮮半島の人口は1312万人、併合後には最終的に2512万名と約2倍になった。社会的インフラの整備と経済成長の結果によるものであることは明らかです。
*併合当時100校ほどだった、小学校に相当する4年生の普通学校が、6年生の国民学校として、総計5960校に増加、。
*6%程度だった識字率が、22%に伸長
*とりわけ朝鮮半島では知られていないが、ハングル教育を推進して普及させたのも併合時代の日本
*当時世界で高くても年2%程度だったGDP成長率が1920〜1940年代ねんへいきん4%ほどの成長をコンスタントに記録。
*併合当時年1000万石ほどだったコメの生産高が、1940年には年平均2200万石を超えるほどに伸長。
*併合当時24歳だった、平均寿命が42際に伸長。
ここに挙げたのはほんの一例にすぎませんが、当時の欧米列強が推進した、「植民地」政策と大きく違うことが分かります。
植民地は欧米列強にとって、本国工業に必要な原料を安く仕入れる、ことのできる供給地でした。
特定農産物を生産するプランテーションを本国人が経営し、現地の人たちはその安価な老労力として、利用されました。
そしてまた植民地は、本国の工業製品を購入される市場でもありました。
つまり、欧米列強は、植民地を、二重に搾取したのです。
奪うばかりであるのが欧米列強の植民地政策です。
一方日本尾へいごうせいさくは、現地の人たちを主人公として、本国と同等な経済摘発展をもって、強い地域となり、欧米列強の脅威を排除できるだけの力をつけさせるのが目的でありました。
日本が収奪した?何を
日本統治:平成とほぼ同じ期間。一人当たり所得は1.8倍に。年平均2.2%増加。人口は2倍
朝鮮のGDPは4倍に。
10. 日本の #韓国 植民地支配の方式 EUと似ている。経済的には各地域が解放され資本と労働が自由に移動。EUと同じ効果。
https://www.youtube.com/watch?v=yzILJHdB6qY&t=2s
#韓国 の教科書では* 日帝が #韓国 の土地を奪い、増産したコメも収奪した。GDPの80%を日帝が収奪したといいます。 果たしてそうでしょうか? それなら、#韓国 の経済は成り立ちません。餓死続出、人口絶滅でしょう。 然しながら、なぜ #韓国 人の寿命が延び、#韓国 の人口が2倍になったのでしょうか。 日本統治時:一人当たり所得は1.8倍に。年平均2.2%増加。 朝鮮人の会社数は0から2500へ。工場数は0から4000へ増加。農業はGDP比で70%から40%へ。 "#反日種族主義 を打破しよう" #旅行 #料理 #韓流 #グルメ #旅行 #アイドル #スター #KPOP #韓国 李栄薫ソウル大学名誉教授 のGR(洛星経済研究所
第三章 日本と朝鮮半島?「3.1運動〜現在」
失われたアイデンティティを探し続ける人々
16:「3.1運動」
1919年3月1日、後に「3.1運動」と呼ばれる大日本帝国からの独立運動が京城、ソウルで発生しました。その前年、第一次世界大戦が終わったとし、アメリカのウイルソン大統領が、「14か条の平和原則」を発表していました。その第5条に「民族自決」の減速が含まれていました。それがこの3.1運動のきっかけでした。
3月1日,天道教という宗教団体が「独立宣言を発表しました。独立宣言には「朝鮮の独立によって、日本、そしてそこに住む、人々との間に、ただしい友好関係を樹立する」といった内容もあり、当初はデモやストライキに限った平和的な運動でした。
ところがしだいに、警察署や、村役場や小学校等が襲われるようになり、暴徒化し放火、投石と悪逆なんでもありの暴徒となっていきました。
3.1運動家が上海に集まり、「大韓民国臨時政府」を樹立します。アメリカに亡命していた「李承晩」が初代大統領になりました。
この政府はアメリカも、中国も誰も承認しませんでした。ただ、中国国民党の財政的支援を受けていました。
3.1運動は日本の朝鮮総督府によって鎮圧され、その後このような大規模の抗議活動は大東亜戦争終戦までありませんでした。
16:「3.1運動」
韓国は神聖化し、北朝鮮は否定する「3.1運動」
17:「終戦」
韓国にとっては自主独立。北朝鮮にとっては、祖国解放
18:「南北朝鮮」
国家の建設理念そのものに、「反日思想」を据えて独立
19:「朝鮮戦争」戦後の東アジアの構造を決定した代理戦争
20:「李承晩ライン」竹島
日米安保条約のあいまいさを利用した、韓国の卑劣さ
1951年9月、日本は連合国48か国と、サンフランシスコで講和条約を結びます。これで6年間の連合国による日本占領は終わり、独立を回復します。
韓国は、この平和条約に連合国に一員として(戦勝国とした)参加したいとアメリカに懇願しましたが,はねつけられ、拒否されました。朝鮮は日本の一部であり、連合国にとっては敵の一部だったのです。
このため、李承晩は、この講和条約の後に一方的に李承晩ラインを宣言し、竹島をその範囲内にしました。サンフランシスコ講和条約と同時に日米は、日米安全保障条約を結びました。しかしアメリカは、日本を守る義務のない条約で舌。李承晩はそのすきを突いた行為でした。
竹島では約3800人の漁民が、殺傷され、韓国に連行されました。
アメリカが日本を守る義務が生じたのは、1960年岸内閣が、日米安保を改定したからです。
21:「日韓基本条約」
国際条約を無視する、常識しらずの国・韓国
1951年9月、日本は連合国48か国と、サンフランシスコで講和条約を結びます。これで6年間の連合国による日本占領は終わり、独立を回復します。
韓国は、この平和条約に連合国に一員として(戦勝国とした)参加したいとアメリカに懇願しましたが,はねつけられ、拒否されました。朝鮮は日本の一部であり、連合国にとっては敵の一部だったのです。
韓国はアメリカに対し宣伝活動を行い、日本に対日賠償を請求しました。当然ですが、日本は「韓国を合法的に、領有、統治しており、韓国と交戦状態になったことはない。したがって、韓国に、戦争賠償金を支払う、立場にはない。」と反論します。
同時にこれも国際常識ですが、
日本は「韓国の独立に伴って、韓国に遺棄せざるを得なくなった、在韓日本資産の返還を請求する権利がある」と主張します。
「インフラの整備をはじめ、併合時代に韓国に投資した、費用を保証してもらう権利がある。」としたのです」
10年以上の交渉を経て、「日韓基本条約」が結ばれます。
アメリカの仲介のもと、「日韓基本条約」「日韓請求権・経済協力協定」に乗って、日本が韓国に巨額のカネを支払うことで、片が付きます。
日本は韓国に、無償で3億ドル、有償で2億ドル、民間借款3億ドルをはじめ、総額11億ドルを支払いました。当時の韓国国家予算の2.3倍でした。
53億ドルと試算された、先述の日本が、在韓日本資本、韓国に投資したお金は免じた上のことでした。
韓国はこの協定によって、すべての日本に対する請求権は放棄しました。
「完全かつ最終的な解決確認」が協定には明示されています。いわゆる徴用工についても、「日本は、韓国内の元、徴用工に直接、保障したい」といいましたが韓国は「協定の中にそれらもすべて含み、韓国政府から支払う、といい、それが議事録にも残されています」
元、徴用工が、保障を受けたければ、韓国政府に請求すべきなのです。
日本の北朝鮮の国家不承認はこの日韓基本条約で明確化されました。
条約第3条の「大韓民国政府は、朝鮮の唯一の合法的政府であることが確認された」に基づきます。
なお。宗主国が、植民地が独立するときに、植民地に独立時、宗主国が植民地に投資したお金を返還してもらうのは国際常識です。
例えばオランダはインドネシアを350年間植民地にしましたが、インドネシアが独立するときインドネシアに60億ドル請求し、インドネシアはその請求金額を払っています。350年間インドネシアを守ったという口実です。
22:「慰安婦問題」
日本国内を蝕む,親韓&親北の反日勢力
慰安婦問題は、日本国内の反日勢力が作り出した問題です。
1982年、朝日新聞が、衝撃的な記事を載せました。
「軍の命令で、朝鮮の済州島にわたり、朝鮮人女性を、木刀で、脅してトラックに乗せ無理やり連れ去り、慰安婦にした」という、吉田清治の証言記事です。吉田清治は1977年に同内容の「朝鮮人慰安婦と日本人」
という本を出版した人物でした。
終戦後、これらの本が出版されたり、新聞で報道されるまで、韓国は一度も、「慰安婦」という問題で、日本政府に抗議したことはありません。朝日新聞は吉田清治の証言だけで、18本の記事を作っています。
吉田清治は後にインタビューで「「本に真実を書いても何の益にもならない。」「真実を隠して、自分の主張を書くなんてのは新聞だってやっている」と応えています。吉田清治の完全なフィクションでした。
GHQは占領時代日本人に対してWGIP(war gilt infomation program),戦争犯罪情報宣伝活動、を行い、「日本は悪い国だった」という活動をあらゆる期間を通してやりました。左翼、社会党、共産党がこれに乗りました。
学術会議はその司令塔でした。でしたという過去ではなく今もそうです。
朝日新聞が吉田清治の証言に基づく記事はすべて誤りだった。という訂正記事を書いたのは2014年、22年後のことです。
しかし、韓国政府は慰安婦問題を取り下げません。韓国政府が欲しいのは、カネであって、真実ではないのです。
23:「日本人拉致事件」
「主権」と「人権」を蹂躙する、北朝鮮による大犯罪
24:「徴用工問題」
法の常識が通用しない、韓国の大法院
2018年10月30日、韓国の大法院が新日本製鉄(日本製鉄)に対して、韓国人4人に対して、一人当たり1億ウオン
、約1000万円の損害賠償を支払うように命じました。
大法院は日本でいえば、最高裁判所です。「徴用工訴訟が大法院で結審したのは初めて」と報道されました。
結審していない訴訟が他にたくさんあるということです。
「徴用工」とは併合時代の1938年(昭和13年)に制定された、「国家総動員法」により終戦間際の1944(昭和19年)年9月から日本人同様に、労働者徴用が適用されて、労務動員された、朝鮮半島の人たちのことを指します。
日本の悪行としてよく言われる、「強制連行」あるいは「強制動員」はこのことを指します。
先にも触れたとおり、戦争にまつわる、対日請求権は日韓請求権・経済協力協定ですべて放棄されています。
さらには、韓国政府は、「個人への補償は全て韓国政府が行う」として、その費用を含めて、日本は一括して、協力金を支払いました。
ところが韓国政府は、日韓の取り決めを国民に周知せず、その事実を韓国国民が知ったのは、2009年、ソウル行政裁判所が情報公開したときのことでした。
そのため、徴用工訴訟などという国際常識であり得ないことが起こったのです。つまり、いわゆる「徴用工」だった人たちが訴訟を起こすのは勝手ですが、訴訟するなら韓国政府を相手にしなければならない。ところがそれを覆す出来事が、2012年、に起こりました。
韓国大法院が、元徴用工8人が、新日鉄と、三菱重工を相手に起こした、損害賠償請求訴訟を始めて認めたのです。
それが現在に続いているのです。
大法院の理屈は、「1965年のに締結された日韓請求権協定は、日本の植民地支配の賠償を請求するための交渉ではないため日帝が犯した反人道的不法行為に対する個人の損害賠償請求権は、依然として有効である。被告たる日本企業の消滅時効が過ぎて、賠償責任はないという主張は、審議誠実の原則に反し認められない」というものでした。
第四章 日本と韓国「現代」
ストーカー国家・韓国に悩まされる日本
25:「併合と植民地の違い」
奪い続ける西洋の植民地支配、与え続ける日本の併合統治
日本が1910年に行った韓国併合は韓国を日本と同じ近代国家にしようとする政策でした。
併合時代に日本が朝鮮半島に投入したお金は、総計約53億ドル、現在価値で約63兆円ほどだといわれています。
日本はこうして、朝鮮半島に鉄道や道路等様々なインフラを建設整備していきました。実はこれは国際常識からすれば、異常です。例えばアメリカは沖縄を1945年〜1972年まで占領しました。27年です。日本が韓国を併合したのは35年です。大差ありません。しかしアメリカが沖縄に何もしていません。沖縄返還の時に何があったかといえば、縁石もまともについていない片道2車線の、現在の、国道56号線くらいのものです。アメリカは沖縄に何も投資しなかったといってもいいですしそして外地への対応としてそれが普通です。
日本の韓国統治は朝鮮半島の人たちに「日本人になってもらう」という政策でした。
日本内地に住む朝鮮人には、衆議院議員の選挙権も被選挙権も与えられていました。当然日本の、議会には朝鮮人の議員もいました。ちなみに朝鮮半島の居住民には日本人にも選挙権も被選挙権もありませんでした。
日本は朝鮮半島の人たちに、日本の文化に溶け込んでもらおうとしました。よく「創氏改名」という措置が「朝鮮人の姓名を強制的に日本名に改めさせた」としてやり玉にあがります。
しかし、その実態は「創氏」とは朝鮮式の「本貫と姓」とは別に新たに別に一つの家族名として「氏」を創設する制度であり、「改名」とは従来の氏名をを任意に変更できる制度のこと。そこには、「日本式の姓名に改めなければならない」といった規定はありませんでした。
日本が一連の制度を善意をもって行ったことは事実です。その証拠に当時日本が統治していた、
台湾では日本の善意が通じました。
理不尽にプライドの高い朝鮮人にはそれが通じませんでした。
日本政府は朝鮮半島に、道路を作り学校を作り、ハングル文字を広めました。公立学校では、日本語、、朝鮮語
算数,日本史、朝鮮史、朝鮮伝統の修身等の教育が行われました。
客観的にみると、日本は朝鮮半島に国家基盤建設をはじめ良いことをたくさんしました。
それに対し韓国はあまりにも、恩知らずです。恩を忘れてはいけないというのは常識です。
26:「建国100年説の恐ろしさ」
慰安婦問題も徴用工問題も、ひずんだ韓国現代史観が原因
27:「嘘だらけの慰安婦問題」
でっち上げ記事に始まり、韓国内でエスカレート
28:「反日の日本人」
日本を貶めている、内なる敵、「朝日新聞」と「日弁連」の大罪
29:「徴用工問題」と「レーダー照射事件」
稚拙な外交戦略を続ける、文在寅政権
第五章 日本と北朝鮮「現代」
カルト国家・北朝鮮に脅かされる日本
30:「金王朝神話」
「小中華主義」と「徹底反日」で出来上がっている建国神話
31:「主体思想」
頑なままの上から目線と「金一族」絶対主義の正体
32:「核開発問題」
裏切りと傍若無人は、北朝鮮の正義
33:「日本側の北朝鮮観」
北朝鮮に対する甘さを露呈した拉致事件
34:「北朝鮮シンパの日本人」
「東京裁判史観」に縛られている、政治家、官僚、マスコミ
第六章 アメリカと朝鮮半島「現代」
なぜアメリカは朝鮮半島にこだわるのか
35:「朝鮮半島の占領」
「東西冷戦」の開始を告げる、南北朝鮮の境界線
37:「米兵の犠牲」
米国国防省の発表では3万6千人強、犠牲を払って手に入れたが・・・
38:「北朝鮮と中国」
「朝鮮半島はいつでも取れる」と考えている習近平
朝鮮半島のことわざ
*「泣く子は餅を一つ余計にもらえる」
*「嘘をうまくつけば稲田千坪にすぐる」
39:失墜する韓国」
未熟な民主主義、無視される言論の自由
第七章 日本と朝鮮半島C「現在と未来」
40:「身分に支配される国」
下層階級を必要とする国民「総両班」の実態
41:「儒教に支配される国」
ジコチューを肯定するための、最強理論としての「儒教」
儒教とはどういう教えか分かりやすい例を一つ上げましょう。
儒教の聖典「論語」に次のような話があります。
葉(しよう)という県の長官が孔子に次のように言いました。
「私の村の直窮という正直者は父親が羊を盗んだのを知って、子供なのに訴え出ました。」
・・・
孔子は次のように答えます。「私の村で「正直とは、この事例とは違います。
父はこのためには罪を隠してかばい、子は父のために罪を隠してかばうものです。
この罪を隠すことの中にこそ正直の精神があるのです」・・・・
公のただしさよりも、家族愛を上に置く、価値観が儒教の真骨頂です。これを突き詰めていくと
結果として「公」よりも「私」を重んずる方向へ向かいます。
つまり「私」や「一族」の利益のためなら、法律を犯してもよい、という考え方は「儒教」によって保障されているのです。
したがって、北朝鮮や韓国は、国際的な「公」のルールを守ることよりも自国だけの利益、むしろ自分とその一族の利益を守ることをよしとします。「自分の利益のためならどんな嘘も付く」
「自分に嘘があっても絶対に謝らない」
「何があっても悪いのは自分ではなく相手である」こうしたいわゆる「自己中心主義」と身勝手な思考回路は、儒教の裏打ちがあり、だから揺るぎません。
儒教は日本にも伝わりました。仏教が伝来されたとされる6世紀以前すでに伝わっていました。徳川幕府は江戸時代当時の先進学「朱子学」を公認学問としました。
同じ儒教を学んだはずなのに、北朝鮮、韓国の文化に大きな隔たりがあります。
「仁義礼智信」といった儒教の精神を取り入れながら、独自の文化を発達させました。
わたしは「天皇の存在」が大きいと思います。
建国以来一度も王朝の交代が起きていない、過去に誰一人として、犯したことがない「公」である皇統が日本文化を熟成させたのです。
日本は儒教を取り入れ、仏教を取り入れながら、従来の神道等に吸収して、江戸時代に「武士道」という倫理・道徳規範を確立しました。
台湾の元総統、李登輝は「この武士道こそ、今日まで続く日本人の高い道徳規範の源泉であり、支配層の指導理念」
になっていると絶賛しています。
武士道はやがて日本人全体を代表する精神として社会全体に浸透していった。これは韓国や北朝鮮に儒教が深く浸透していったのと対照的です。
大東亜戦争でのアメリカ軍も皇統を廃止させることができませんでした。
42:「プライドという悪徳」
過剰・過大な自己評価と恥を知らない傲慢さ
43:「憲法改正へ」
国益を守るために、保守されるべき民主主義
慰安婦の真実。マイケル・ヨン 2018
本書は2014年から2018年にかけてフェイスブックに投稿の記事をもとに編集したものです。
マイケル・ヨン
1964年アメリカフロリダ州生まれ
1980年代にアメリカ陸軍特殊部隊(グリーンベレー)に所属。
2004年からイラク戦争、アフガニスタン紛争に従軍記者として参加。世界75か国をめぐりレポート。
2008年に刊行した著書「Moment of Truth in Iraq」(イラクの真実の時)は全米ベストセラーを記録。
慰安婦問題では長く埋もれていたアメリカ政府の調査報告書「IWGレポート」を再発見し、「慰安婦問題」の真実を調査し続けている。
現在は、ジャーナリスト、写真家、ブロガーとして幅広く活躍し世界の主要メディアから注目されている。
*慰安婦を推し進める中国
*「従軍慰安婦を作り出した千田夏光
*「米国への警告
*日本を嫌っているのはどこの国か
*韓国の「慰安婦」研究に中國が参加
*第二次世界大戦から70年ーー韓国政府と慰安婦
*慰安婦像の撤去を要求する
*反日慰安婦のペテンが加速する
*慰安婦のペテンの目的は何か
*韓国軍の強姦行為
*軍事上の必需品
*日本は韓国・中国と慰安婦問題について交渉するべきではない
*韓国の新興宗教
*子供たちに「慰安婦」を教えることについての論争
*性奴隷の嘘に対して真実を語るサイト
*韓国の男たちとその子供たちは臆病だったのか
*フェイスブックのパワーで慰安婦のストーリーが崩れ落ちていく
*情報戦としての慰安婦
*南京ーーある本
*神風とメダル表彰者
*神風とイスラム自爆テロリストとの違い
*フィリピンでの日本軍
*歴史を直視し、軍国主義と一線を画すべきでは.中国
*ビルマでの日本軍
*慰安婦問題を啓発することを目的とする美術展
*日本とアメリカの医学実験
*南京大虐殺の映画の数字に日中双方からクレーム
*朝鮮人の戦争犯罪
*日本生まれの北朝鮮人ーーー非常に憂慮すべき問題
*アメリカの大学生との対話
2.日本が戦争犯罪に関して正当化を主張することに対して、今日アメリカが無関心であるのは、日本の積極的な情報提供がないからでしょうか、あるいはアメリカの政治的判断なのでしょうか?
3.歴史観が対立していても、日米両国は友好的な関係を保てるでしょうか?それとも双方の間で、もっとコンセンサスが必要でしょうか?
3.歴史観が対立していても、日米両国は友好的な関係を保てるでしょうか?それとも双方の間で、もっとコンセンサスが必要でしょうか?
4.フランクリン・ルーズベルトによる、JB355(日本本土爆撃計画)、蒋介石軍への、アメリカ人パイロットや戦闘機提供は、戦争行為だと思いますか?
5.日本は自前の軍と装備を開発するべきでしょうか?あるいは独仏両国が、EUと協力しているように、同盟諸国と協力して、兵器を開発すべきでしょうか?
5.日本は自前の軍と装備を開発するべきでしょうか?あるいは独仏両国が、EUと協力しているように、同盟諸国と協力して、兵器を開発すべきでしょうか?
6.アメリカは、日本に核兵器の保有を許すべきでしょうか?中国等からの強い反対があってもそれは可能と思いますか?
6.アメリカは、日本に核兵器の保有を許すべきでしょうか?中国等からの強い反対があってもそれは可能と思いますか?
7.アジア諸国に対して、戦争犯罪を直接謝罪することは長期的にみて、日本の利益になるでしょうか?
それとも日本の権益を弱めるでしょうか?
7.アジア諸国に対して、戦争犯罪を直接謝罪することは長期的にみて、日本の利益になるでしょうか?
それとも日本の権益を弱めるでしょうか?
8.日本は戦争犯罪に対して、今、どのような道筋をとるのが最善でしょうか?
8.日本は戦争犯罪に対して、今、どのような道筋をとるのが最善でしょうか??
第一章 慰安婦問題
*慰安婦を推し進める中国
*「従軍慰安婦を作り出した千田夏光
*かってって米軍に接客していた売春婦が弁論の機会を与えられる
*日本を嫌っているのはどこの国か
*韓国の「慰安婦」研究に中國が参加
*第二次世界大戦から70年ーー韓国政府と慰安婦
*慰安婦像の撤去を要求する
*反日慰安婦のペテンが加速する
*慰安婦のペテンの目的は何か
*韓国軍の強姦行為
*軍事上の必需品
*日本は韓国・中国と慰安婦問題について交渉するべきではない
*韓国の新興宗教
*子供たちに「慰安婦」を教えることについての論争
*性奴隷の嘘に対して真実を語るサイト
*ミンディ・カトラー”差別主義”の名言集
*韓国の男たちとその子供たちは臆病だったのか
*フェイスブックのパワーで慰安婦のストーリーが崩れ落ちていく
*慰安婦像、豪州ストラスフイールドへ
*情報戦としての慰安婦
*慰安婦像、米国ジョージアへ
*”どうか暴力はやめてください
”
*米国の捏造された歴史教科書
*タイの年長者たちの記憶
*中国が仕掛ける情報戦
*嘘の天才・中国
*中国のエージェントだったアイリス・チャン
*ソウル日本大使館前の慰安婦像
*韓国のナヌムの家とフッカーズヒル
*慰安婦のペテンは続く
*作り話には裏がある
*韓国人慰安婦がトランプ大統領にハグを迫る理由
*安倍首相の友好外交に効果はあるのか
*韓国教会に立つ慰安婦像
*米国、日本、韓国、ベトナムへの警告
*慰安婦カルトのテロ活動
*
第二章 第二次世界大戦
*南京ーーある本
*神風とメダル表彰者
*神風とイスラム自爆テロリストとの違い
*フィリピンでの日本軍
*歴史を直視し、軍国主義と一線を画すべきでは
*ビルマでの日本軍
*平手打ちーーJap Slap
*マレーシア、ペナン島の反日プロパガンダ
*中国共産党が画策する、ペナン島、反日プロパガンダ
*慰安婦問題を啓発することを目的とする美術展
*日本とアメリカの医学実験
*南京大虐殺の映画の数字に日中双方からクレーム
*朝鮮人の戦争犯罪
*日本生まれの北朝鮮人ーーー非常に憂慮すべき問題
*ベトナム戦争での韓国人
*アメリカの大学生との対話
*求む真実! 賞金2万ドルを進呈します
*真珠湾攻撃から七十五年
*千九百四十一年から続く改ちゅうと陰謀ーーパール・ハーバー
*ダグラス・マッカサー元帥の証言
*日本人収容施設
*インドネシアに眠る日本兵
*ビルマで行方不明となった日本兵
*済州島の「四・三平和記念館」
*日本と中国の歴史ーーー読者からの質問
*日本だけが悪者なのか
第三章 世界情勢の中で
*朝日新聞のとんだへま
*朝日新聞社に対しての訴訟
*アムネスティ・インターナショナル、日本とタイを攻撃
*バチカンの中国接近政策
*韓国、旭日旗の曲解
*
*
*慰安婦を推し進める中国
我々アメリカ人は普通中国のいっていることを、そのまま信じることはありません。ただそれも例外があります。中国が日本を批判しているときは別で、我々欧米人は、いとも簡単に、その話を額面道理に信じてしまいます。
慰安婦について、あるいは「ザ・レイプ・オブ・南京」そして中国が推し進める、情緒的な話題の大木は、実は人道とは、何の関係もありません。もともと中国は人権擁護の立場をとっておらず、地球上で最大の人権侵害が横行している国です。
*「従軍慰安婦を作り出した千田夏光
千田夏光は「従軍慰安婦」の中で日本が二千万人の中国人を性奴隷にしたと非難しています。
しかも韓国人が主張する、二十万人から四十万人の韓国人はその数に入っていません。千田葉「戦時中性奴隷は、い1日に300人以上を相手にしていたと証言しています。
記事は女性一人が1日300人にサービスしていたと伝えています。ちょっと考えてみましょう。
彼女は1日に休みなしで20時間、猛スピードで仕事をこなすことができるとします。
男性一人当たり、4分のサービスで20時間です。当時二千万人もの性奴隷がいたのなら、どうして一人が300人の男性にサービスしなければならないのでしょうか
*かって米軍に接客していた売春婦が弁論の機会を与えられる
米国への警告
我々の中でほんの少数しか慰安婦問題に注意を向け、巨大な陰謀と知井坂策略に気が付いています。実際のところ、米国では、誰もその陰謀に気づいていません。
韓国政府は日本政府から金を巻き上げ、一方では日本に対する県を間を醸成するために、陰で「慰安婦産業」に援助してきました。
これまでずーっと長い間、韓国は世界で最も精力的に、売春婦を輸出してきた国の一つです。
*日本を嫌っているのはどこの国か
これまで私はアジア25か国、アジア以外の75か国を訪ね約20年にわたって海外に住んで旅をしてきました。
メディアは日本は嫌われている。と主張しています。
しかし実際は、日本の評価は最高レベルです。
日本を嫌っているのはたった二か国です。中国と韓国だけです。韓国の日本嫌いは度を越しています。日本と仲良くなるくらいなら、核で脅しつける北朝鮮の傘下になるほうが好きです。
*韓国の「慰安婦」研究に中國が参加
これではまるで、二匹の狼が一匹の羊を研究するようなものです。
韓国では今百二十二人の韓国人娼婦たちが、韓国政府を訴えています。
娼婦たちが、米国に権利を主張してくる日が来ます。そうすると、アメリカ合衆国下院の121号決議、オバマとヒラリーの生命が我々アメリカ人にブーメランし復讐してくるでしょう。
*第二次世界大戦から70年ーー韓国政府と慰安婦
韓国政府の客引きが、第二次世界大戦にぶつぶつ不平を言っています。
驚くべきことに、第二次世界大戦中、韓国は最も甚大な被害を受け過酷な被害を受けたと思っているようです。
たとえてみれば、膝に擦り傷を負ったようなものです。70年たっても罠にかかったウサギのように泣き叫んでいます。
韓国政府は駐留米軍への韓国人売春婦の客引きとして、長い歴史があります。今122人の娼婦が韓国政府に賠償を要求しています。
韓国政府は日本が「二十万人もの女性をさらった」と言っています。
全く荒唐無稽です。歴史的文書でどこにもそんな、文書、証拠はありません。
*慰安婦像の撤去を要求する
ニュージャージー州のユニオンシティー、カリフォールニア州のグレンデールの慰安婦像は、撤去して、ごみ箱に捨てるべきです。
慰安婦像に熱中しているのは韓国だけです。
この情報操作がアメリカ人と反日の人々にに対し非常にうまくいっているのを見て中国はもみ手をして笑っています。
*反日慰安婦のペテンが加速する
「米国の大学の研究者らが慰安婦の歴史を修正しようとしているとした、日本政府を非難する」
これは「ワシントンポスト」の記事です。
このペテンは過去数十年にわたって作り上げて来たものです。
日本政府が先手を打って反論しない限り、間もなく爆発的に広まるでしょう。
その結果に満足して中国は静かに笑うでしょう。
中国は膨大な資金を使って、この情報操作を進行させています。
いろいろな国の影響力のある人物が、私の書いている記事を読んでくれています。
それは別に私を好きだからというわけではありません。私が、現地に行って、本物の仕事をしていることを知っているからです。
性奴隷の県はでっち上げです。米国市民と政府高官は、中国の”毒餌”を呑み込もうとしています。
これは日米の同盟関係を分断するための大きなまやかしです。
それもこれも、中国が同盟関係を分断し、アジアの周辺地域を征服するためです。
*慰安婦のペテンの目的は何か
調べれば調べるほど、言って見れば「性奴隷」は大きなペテンであることが明らかになった。この詐欺の第一の目的は日本からお金を引き出すこと、及び、日本に憎悪を煽ることです。
第二の目的は、日本を米国などの同盟国から引き離すことです。(実際、日米間に摩擦を引き起こしています)
究極の目的は日本を可能な限り弱体化させ、南シナ海における中国の領有権を確立することです。
この件について調べるためにフィリピンに行ってきました。
慰安婦がいたことは確かです。
他の国と同様韓国でも慰安婦はもてはやされています。
問題なのは彼女らが集団で、誘拐されたかどうかです。そんなことはありません。彼女らはただの売春婦です。
*韓国軍の強姦行為
ベトナム人は正義を求めています。韓国の嘘は思いがけないところからほころびはじめています。いかに韓国軍兵士によって、乱暴された、ベトナム人女性のビデオ証言を引用します。
・・・・・
悲しいことですが、私の話は何も特別なものではありません。
ベトナム戦争当時、何千人ものベトナム人女性が、私のようにレイプされました。
それなのに、韓国政府はベトナム戦争中の韓国兵の組織的な、暴虐行為に対して、謝罪どころか、認めようともしません。
韓国軍のベトナム民間人虐殺「一切なかった」 国防相 [きつねうどん★]
1きつねうどん ★2023/02/18(土) 16:59:02.54ID:PcNlIFJI>>6
https://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/6/b/810wm/img_6bc91fcc8744f0c90dc41c865c3dfc28145845.jpg
【2月18日 AFP】韓国のソウル中央地裁が先週、ベトナム戦争(Vietnam War)での韓国軍による民間人虐殺について同国政府の責任を認める判決を出したのを受け、李鍾燮(イ・ジョンソプ、Lee Jong-sup)国防相は17日、民間人虐殺は「一切なかった」と主張し、上訴する意向を示した。
原告のベトナム人女性は、韓国海兵隊が1968年2月に民間人約70人を殺害したとして提訴。地裁は、韓国軍が加害者だと証明するのは困難だとの政府側の主張を退け、政府に約3000万ウォン(約310万円)の賠償の支払いを命じた。
しかし、李氏は議会の委員会で、国防省は「韓国兵による虐殺は一切なかった」と確信していると主張。判決を不服として上訴する意向を示した。
さらに、ベトナム戦争の戦況は「極めて複雑」で、原告女性の主張を立証するのは不可能に近いとし、「韓国兵以外の人物が韓国の軍服を着ているケースも非常に多かった」と述べた。(c)AFP
https://www.afpbb.com/articles/-/3451942?act=all
*軍事上の必需品
「植民地時代のマニラにおける売春婦」
アメリカの植民地支配により、フィリピンの売春婦問題は一層悪化した。
1899年フィリピンとアメリカが戦争となり、戦闘部隊の焦土作戦により、多くの人が財産を失い極貧生活となった。マニラには多くの売春宿ができた。米軍兵士のための売春婦の役割は、「軍事上の必需品」であると、アメリカフィリピン総督、タフトは認識していた。
アメリカ軍は1901年赤線区域を定めた。(アメリカの皆さん)ここに誰か清廉潔白な人がいますか?
*日本は韓国・中国と慰安婦問題について交渉するべきではない
韓国と中国は、いつものように嘘をついています。
慰安婦は存在したし、今でも、世界中に存在します。
米国や他の国々でも同じですが、日本の慰安婦制度において、女性は性病検査を受けていました。ですが,旧日本軍が20万人から40万にの女性を拉致した等とはお笑い種です。
彼女らのほとんどは売春婦でした。
私は、調査すべきと思われる、8か国のうち。6か国に行って調べました。(2015年時点)調査して分かったことは、戦時中に日本軍と接触した、80代後半から90代の人たちの多くは日本軍に好意を持っていたことです。大多数の人たちは日本人が好きだといいます。
日本人が私たちを「兄弟姉妹」のように扱ってくれたといいます。
アジアのうち25か国を旅行した経験では、「日本は憎まれている」という通説とは全く逆で日本人は高く評価されています。日本人を憎んでいるのは、「中国、韓国、そして日本」の3か国だけです。
売春は世界中で大金が動いています。タイのバンコクの繁華街には売春婦があふれています。
*韓国の新興宗教
現在もアメリカのジョージア州で売春婦像の設立が進んでいます。
韓国のカトリック教会すらこの新しい「売春婦像」を信仰の対象にしています。この「新しい神」にひざまずいています。慰安婦像崇拝者は反米・反日の確信犯です。
*子供たちに「慰安婦」を教えることについての論争
日本軍は売春婦に対して「慰安婦システム」を構築しました。
当時売春婦は完全に合法でさらってくる必要などありませんでした。
慰安婦のほとんどは日本人でした。
当時、朝鮮は日本の一部で、数十万人の朝鮮人が日本の軍人であったことも覚えておいてください。
数十万人の朝鮮人が日本の市民として、日本軍の兵士であったことは性奴隷の嘘自体をぶち壊しにするものであります。
誰も指摘しませんが、つまり朝鮮人が朝鮮人を非難しているのと同じことであります。
韓国人と朝鮮人は日本人がアジア中で嫌われているといい降らしていますが、そんなことはありません。
私はアジアの25か国で何年も過ごしてきましたが、何所でも日本人は尊敬されています。(一般に北欧の人々及びアメリカ人も好まれています。)
アジアでは韓国人や中国人よりも日本人はずっと人気があるのです。
軋轢の種になるような嘘を、米国の学校で教えてはいけません。彼ら(朝鮮と中国)は日米の中を引き裂こうとしているのです。
*性奴隷の嘘に対して真実を語るサイト
http://www.eagerexec.com
(East Asian GeopoliticalExecutive Response 慰安婦についての解説)は信頼おけます。
ここに述べられていることは正確で我々とのちゅおうさ結果とも一致しています。
インドネシアでは当時も今も日本は植民地から解放してくれた、とされています。2015年初めに現地に行って、戦時中の日本について調査しました。ジャカルタバンのアーリントン墓地(米国の国立墓地で、多くの戦死軍人や政府高官が埋葬されている。35代大統領だったジョン・F・ケネディもここに埋葬されている)、に行ってみればわかります。そこにはインドネシアをオランダから独立させるために戦った日本兵も埋葬されています。中国や韓国は、日本を悪辣な国だと思わせようとしていますが日本はインドネシアで感謝され尊敬されているのです。私はこれまで8か国を調査し、(2015年現在)資金が調えばさらに他の国々も調べるつもりです。日本軍が20万人から40万人も誘拐したという証拠は全くないにもかかわらず、これまでマスコミはあたかも事実化のように報道してきました。いずれにせよ、それだけ自国の女性が、拉致されるのに、韓国人や中国人が、何の反撃もしなかったとしたら、とんだ臆病者です。
*ミンディ・カトラー”差別主義”の名言集
*韓国の男たちとその子供たちは臆病だったのか
第二次世界大戦中、韓国の男たちは臆病だったのでしょうか?日本帝国陸軍が、20万人もの韓国女性を強制連行して「性奴隷(慰安婦)」にしたという疑惑について、裏付けのない主張が現在も拡大しています。
慰安婦たちの主張を裏付ける、証拠を求めて、米国政府は、三千万ドル(30億円)の費用をかけて、調査を行いました。
約七年の歳月をかけて、大勢の米政府職員や、歴史学者が、過去の公文書を徹底的に調査した結果、有力な証拠は何一つ見つからず、結局三千万ドルが、無駄に費やされました。
IWGの最終報告書(Naz
i Warand Japanese Imperial GovermnentRecords
Interagency Working Group:
ナチス戦争犯罪と日本帝国政府記録についての米国各省庁に残る文書を調査・点検してまとめられた報告書)は2007年に米国議会に提出され発表されました。
この報告書を最初から最後まで読むことなく、誰も慰安婦問題について書いたり語ったりする資格はありません。
韓国は日本が数十万人の韓国女性を性奴隷にするために強制連行したといいます。しかし、韓国人男性が、日本軍の行為に反抗して、戦ったという証拠は何一つありません。
戦争中、韓国の人口は二千三百万人でした。
現在テキサス州の人口は二千六百万人です。テキサス州の女性二十万人強制連行しようとしたら、何が起こるでしょうか。
きっとあたりは血の海に染まることでしょう。
その目的に動員された軍隊は何千人もの兵士を失うことになるでしょう。
戦闘と虐殺の証拠は、写真、動画、戦闘の痕跡等山ほど残っているでしょう。
テキサスで二十万人の女性を奪ってレイプしたら、あたりは間違いなく血の海になるでしょう。しかし韓国にはそのような痕跡はありません。
つまり韓国政府は戦時中、韓国男性は臆病者の集団だといっているのです。
日本軍の中には数十万の韓国人兵がいました。
数十万の武器を持った、韓国人兵は自分たちと同じくらいの年齢の数十万人の若い女性が強制連行されるのに抵抗しない臆病者だったのでしょうか?
*フェイスブックのパワーで慰安婦のストーリーが崩れ落ちていく
明かになった点
2014年のはじめ朝日新聞は吉田清治の「慰安婦を強制的に奴隷とした」という証言を確かめもせずに報道してしまったことを謝罪しました。
ニューヨークタイムズは朝日の記事を丸飲みしてきていました。
「ニューヨークタイムズ」が触れていない第一次情報源として
IWGの最終報告書(Naz
i Warand Japanese Imperial GovermnentRecords
Interagency Working Group:
ナチス戦争犯罪と日本帝国政府記録についての米国各省庁に残る文書を調査・点検してまとめられた報告書)をあげることができます。
これは2007年に米国議会に提出されました。ナチスと帝国日本の戦争犯罪を暴こうという運動のもと、、総額さん線万ドルもの経費をかけ、総計八百五十万もの書類を調べた結果が、一般に公開されました。しかしながら、当時の日本政府や、日本軍による、売春の強要の証拠は何一つ見つけることができませんでした。
IWGレポートではそのような証拠を待ちわびていたとみられるある団体に対して、謝罪まで述べています。
IWG2007。慰安婦は売春婦。米議会日本軍性奴隷調査結果
1944年に米国戦争情報局(OWI)が発表したレポート49
には20人の韓国人慰安婦への聞き取り調査の結果が掲載されています。
彼女らは性奴隷ではなく、賃金が支払われていた売春婦であり、
日常的に将校や軍人たちとスポーツイベントやピクニック、エンターテイメント、ディナーをしていたと書かれています。この第一次情報源では売春婦は高級売春婦であることが明確に述べられています。
興味深いことに最近韓国に駐留する、米国軍の慰安婦であった、韓国の女性グループが、韓国政府を訴えました。
米国のメディアは即座に彼女らは売春婦だとして報道したにもかかわらず、
同じ米国のメディアが日本軍の「慰安婦」の場合は「性奴隷」と言い続けています。
日本軍と米軍の基地はそれぞれの時期にそれぞれの「慰安婦所」を持っていて、娼婦にお金を払っていたのです。おかしなことに日本軍にサービスすると同じ「娼婦」が「性奴隷」になってしまうのです。
、
*慰安婦像、豪州ストラスフイールドへ
*情報戦としての慰安婦
韓国が日本を非難することは、時刻や、ベトナム等でのおびただしい、数の戦争犯罪を想起させます。今日でも売春婦ビジネスは韓国のGDPの四パーセントを占めます。
売春は韓国では巨大ビジネスです。売春婦は韓国の巨大輸出産業でもあります。
大東亜戦争,太平洋戦争の真実。マイケル・ヨン
第二章 第二次世界大戦
*南京ーーある本
[南京にて ジョン・らーべの日記」(南京の真実)
らーべは日本の侵攻から多くの中国人を救ったといわれています。多くの出来事が、彼の日記に帰されています。
中国人が他の中国人に残忍出ること。本来軍や武器と葉無縁の安全区。安全区では日本人が住む代わりに中国軍の侵入や、武器の所有の禁止が合意されていました。
ラーべによれば、中国軍はその約束を破り、日本の攻撃を防ぐために、あるいは日本人を攻撃するために、安全区内の市民に紛れていました。実際中国軍の兵士の多くが制服を脱ぎました。いうまでもなく制服を脱ぎ市民に紛れることは惨劇を招くものです。らーべが言っていることの引用です。
*神風とメダル表彰者
フィリピンの神風記念館。
神風パイロットが酷くさげすまれ、同様なことをしたと思われる、米軍の兵士が、称えられていることの二重性。
1944年、海軍一等兵、リチャード・アンダーソンの死後
彼に授与された名誉勲章に刻まれた文言。
「海軍一等兵、アンダーソンは勇敢にも自己犠牲を選んだ。
手投げ弾の上に自ら覆いかぶさり、爆発の衝撃を、すべてその体で受け止めて、仲間を救った。市に直面しての、彼の勇敢さと、そのたぐいまれな愛国心は
米国海軍の気高い伝統にかなったものである。」
*神風とイスラム自爆テロリストとの違い
パリのフランスのルモンド紙がパリの自殺テロリストと「神風」を比較しました。
神風とイスラムの自爆攻撃者は大きく異なります。イスラムの自爆攻撃者は彼らのやっていることはすべて犯罪です。
パリの自爆攻撃者は軍服を傷、民間人に紛れて、民間人を攻撃しました。民間人が主要なターゲットでした。
神風の場合は全く異なります。彼らは何の犯罪もしていません。宣言された戦争において、神風は法的に戦闘に従事しました。
別の話ですがもしも神風が米軍の飛行士だったならば、彼ら全員に、米国の最高名誉賞が授与されていたでしょう。
*フィリピンでの日本軍
フィリピン、ルソン島のクラーク空軍基地近くで
84歳の戦争目撃者ダニエル・ディソンから興味深い話を聞きました。
インタービューは2時間以上に及びました。ディソン氏は侵入者である日本人を微妙なニュアンスを込めて説明しました。・・・
先ごろインタビューした他の戦争目撃者もどうような見解を述べていました。彼らは日本軍に肯定的であったこと。
彼らは、「日本軍は米軍よりも、子供に対して友好的であった」と言っているのです。
「日本軍は子供たちに対し、自分の子供や兄弟姉妹のように接していた」と述べています。
ディソン氏に慰安婦について聞きました。
彼はもともと米軍が売春宿を運営していたといいました。
日本軍が侵攻してきたとき、彼らは自前の売春宿を持っていたようです
(彼によると彼女らは性奴隷などではなかったそうです)
書いておきたいことがあります。二晩ほど前エンジェルス市を歩いていた時、そこにいた売春婦に出会いました。そこにはたくさんの売春婦がいました。
*歴史を直視し、軍国主義と一線を画すべきでは 中国
「日本は歴史を直視し軍国主義と一線を画すべきだ」と中国が述べた
第二次世界大戦ののち!に五千万人以上の自国民を殺害、餓死、または処刑した中国がそう言っています。
チベットを侵略し、国を奪った中国がそう言っています。
ウイグル族を叩きのめし、ベトナムを脅し、香港、台湾を脅し、フィリピンを脅し、自国民に堕胎を強要する中国がです。
皆の知的財産を盗んでいる中国がです。「お前は偽善者だ」都の商標をつけるべきでしょう。
*ビルマでの日本軍
83歳の男性と76歳の彼の妻にインタビューしました。
ビルマにて第二次世界大戦中の日本軍についての話を聞いて回っています。
年配の人々に日本人についての記憶を訪ね第二次世界大戦中の日本人と今の日本人についてどう感じるか聞きまわっています。
私がフィリピン、タイ、ミャンマーで見出したことは
驚くことに多くの場合、、年配者たちは日本軍について良い印象を持っているということです。
私は教えられてきました。
韓国と中国が毎日繰り返しているように、それらの国々で、多くの女性が日本兵の犠牲になったと。
しかしながら大々的な虐待についての証拠は全くありません。
ミャンマーでも何も見つけることはできませんでした。・・・・・・
戦争時のレイプや犯罪について聞いてみました。
彼らはそんなことは聞いたこともないといいました。日本人はよくしてくれたし、子供たち(当時は子供でした)にも良くしてくれたといいました。
この言葉はミャンマーのシッタンや他で聞いたことを思い出します。日本兵は彼らの家を訪ね昼食や夕食を共にしたそうです。シッタンで聞いたことと全く同様です。
*平手打ちーーJap Slap
*マレーシア、ペナン島の反日プロパガンダ
*中国共産党が画策する、ペナン島、反日プロパガンダ
*慰安婦問題を啓発することを目的とする美術展
印象操作する見出し
「インドネシアで慰安婦問題を啓発するための美術展を開催」
インドネシアは様々の意味で親日国です。
残酷なオランダ帝国主義二より何世紀も支配されていましたが、オランダからの独立に日本人が手を貸しました。
日本軍はオランダ軍を汚れた絨毯のホコリをはたきだすようにインドネシアから追い出しました。
オランダは第二次世界大戦後にもインドネシアで虐殺を行っています。
日本兵はインドネシアのジャカルタにある国立墓地にイスラム教徒とともに埋葬されています。
イスラム教徒は異教徒と同じ墓地に埋葬されることを嫌います。
しかも日本兵にはクリスチャンもいました。しかしながら日本兵は彼らの英雄だったのでその国立墓地に埋葬されています。
*日本とアメリカの医学実験
我々が第二次世界大戦中の性奴隷物語についてどんどん真実を明らかにしていくにつれ、一部の人はまだ人種偏見を引きずり
日本人の首根っこをつかむ何かを見つけようとします。
彼らは「でもパターンの死の行進についてはどうなのだ」
私は2015年の1月にパターンに滞在しましたが
程度の差こそあれ、戦争犯罪が起こったことは事実でしょうと答えます。
我々だって「(アメリカ先住民強制移住の)涙の道」で同じことをしています。
そうすると彼らは「(東南アジアで連合軍捕虜を使った)死の鉄道建設はどうなんだ?」といいます。いいでしょう。これも実際に起こったことです。
しかしだからと言って我々がかって奴隷を保持したり、1950年代まで黒人をバスの奥に座らせたり、黒人をリンチしたりしていたのと同じです。
すると今度は「ザ・レイプ・オブ・南京はどうなんだ?」と言ってきます。日本人に関するこれらの告発はほとんどの場合、全く信用できない中国が発信元です。
「ザ・レイプ・オブ・南京の著者は中国系アメリカ人で精神を病んでいました。彼女は後に拳銃自殺しました。
拳銃を咥えて自殺することによって、話に疑いが増すというよりも信頼性が増すと考えるとしたら正気の沙汰ではありません。
「南京大虐殺」と呼ばれる事件を調査した歴史学者たちはその詳細について大きな疑いの余地を見つけています。
例えば殺されたとされる人々の人数が当時の南京の住人よりも圧倒的に多いことなどです。
アメリカ人たちも「ダスキギー梅毒実験」において、生きている黒人に対して医学的犯罪に関与しました。
これらの実験は1932年から1972年にかけて実行されました。被験者は貧しい黒人男性でより良い社会を作るという名目のもとに実行されました。
中国と韓国が日本の歴史について何か言おうと出しゃばれば出しゃばれるほど
中国が人類史上最大の人類虐殺を犯していることを我々は思い起こします。
これらの大虐殺がすべて第二次世界大戦後に起こったことですが、班員の多くはいまだに政権の中枢に居座っています。
韓国の歴史を見れわ見るほど思います。
正義はフェアな心と事実を必要とします。我々は世界に拡散した、性奴隷制度なる物語について地道に調査を続けます。すでに
性奴隷の物語はフィクションであると分かっています。
*南京大虐殺の映画の数字に日中双方からクレーム
テーマは30万人です。
南京戦争記念館は、中国人による、中国人への戦争犯罪を無視する一方で、日本への憎しみを駆り立てるために、作られたものです。バスを連ねてやってきた中億陣が入り口に殺到しています。中国語だけが聞こえました。日本語やタイ語は聞こえませんでした。入場は無料です。
「悪鬼日本がレイプと人殺しをするためにやってきた。」と書かれた石碑。
しかしながら同じ戦いでの中国人の大量虐殺には一切触れません。
30万人という数字が石に刻まれ、表示板に表示され、ライトアップされ、何所を見ても30万という数字が出てきます。
すべての展示品が写真撮影を許可されています。
館内には集団墓地のように、ヒトの骸骨が
おかれています。本物の骸骨のように見えました。少なくともよくできたレプリカです。このように人骨を宣伝に利用している例をカンボジアで見たことがあります。
、
しかしいわゆる「南京大虐殺」で30万人が殺されたという証拠は一つもありません。
証拠はゼロです。
フェースブックやツイッターも情報統制されています。禁止や東征されているものの多いことは驚くほどです。
南京事件について中国側のストーリーに意義を唱えるものは「極右日本の国家主義者」都レッテルを張られます。
米国民は、中国政府が息を吐くように嘘をつくことを知っています。それならばなぜ「南京大虐殺」のことになると急に、中国政府が真実を言っていると思うのでしょうか。
米国の当時のプロパガンダでは三万という数字でした。その数字の大部分は、中国人が中国人と戦って死んだ数字だということを米国は知っています。
*朝鮮人の戦争犯罪
ここ25年から30年の間、韓国人は、自分たちは、日本の占領と残虐行為に痛めつけられた、罪なき犠牲者だ、というのろしを上げ続けています。しかし、それは嘘です。特に最近10年間は信じられないほどの悪辣さで嘘をつき続けています。
真相はこうです。
日本は朝鮮を侵略して、占領したのではありません、日本は1854年まで鎖国をしていましたが、アメリカの砲艦外交で開国しました。
・・・・
最終的には1910年日本は朝鮮の同意のうえで、朝鮮を併合しました。我々がハワイを併合したより、ずっと文明的でした。数十万人の、朝鮮人が日本軍に加わりました。朝鮮人の士官もいました。警察官や官吏、日本の国会議員になった、朝鮮人もいました。今日、朝鮮人は当時のことを話題にするとき、日本からいかにむごい扱いを受けたかと嘘をついています。
第二次世界大戦中、「ジャップ」によってなされた同盟軍兵士に対する残虐行為と呼ばれるものの実際は朝鮮人によるものが大半でした。信頼度や戦闘意欲に問題があったため、朝鮮人は看守にされることが多かったのです。
看守の中でも朝鮮人は、特に残忍でした。アメリカ人は日本人と朝鮮人の遅配が分からないので彼らをひとくくりに「ジャップ」だと思っていました。
オーストラリア人、イギリス人、オランダ人そのたは日本人と朝鮮人を区別できたので、朝鮮人を嫌っていました。
このオーストラリア人の戦争記録文書を読んでください。
「かっての戦争捕虜たちが看守の戦争犯罪人の人定めをしているところです」
「1945年9月、タイ国サラブリ。日本帝国陸軍の朝鮮人看守を並ばせて、戦争犯罪人の特定をしている。朝鮮人看守は、タイメン鉄道工事の労役に従事していた連合軍兵士の捕虜に対し、最も残忍であった。日本の降伏後、日本兵の戦争犯罪人を特定するための首実検、がかっての戦争捕虜によってなされているところ。(ドナー・B・セオボールド)
*日本生まれの北朝鮮人ーーー非常に憂慮すべき問題
1945年8月、戦争が終わり、一部の朝鮮人は日本に残りました。
第二次世界大戦で日本はほぼ破壊されましたが、朝鮮はいわば脛に少しひっかき傷を作った程度です。
朝鮮人の話を聞くと、まるで日本が朝鮮人を何百万人も虐殺した。と思ってしまうかもしれません。そんなことはありません。多くの朝鮮人が殺されたのは第二次世界大戦後の朝鮮戦争の時です。日本軍は無関係です。
第二次世界大戦の時に、朝鮮のどこが爆撃され、何所が侵略されたか、を朝鮮人に聞いてみてください。怒り出すでしょう。彼らは答えられませんから。
・・・・
慰安婦についていえば、当時売春は完璧に合法でした。韓国人は売春業で有名です。今日でも韓国そのものが巨大な売春宿として知られています。2017年の現在でも韓国の街角では老女は春を鬻いでいるのです(売春している)。
*ベトナム戦争での韓国人
*アメリカの大学生との対話
サンフランシスコ州立大学で日米関係を学んでいる学生から8項目の質問が来ました。
1.あなたの背景情報を簡単に教えてください。
2.日本が戦争犯罪に関して正当化を主張することに対して、今日アメリカが無関心であるのは、日本の積極的な情報提供がないからでしょうか、あるいはアメリカの政治的判断なのでしょうか?
A.両方です。そしてそれ以上です。
「マーケッティングが問題の要です。日本は、真実と純粋な意図で十分と信じており、真実を話せば人々はーー純粋な意図を持っている限りーーーそれを信じてくれるのが当然だ、と考えます。
しかし、西側諸国では、それは通用しません。そのアイデアも商品と同じように、「マーケッティング」して売り込まねばならないのです。日本は、自分の物語を、真剣にプレゼンテーションしているようには見えません。中国、韓国は両国とも、自身の歴史観のマーケッティングに非常に長けています。
多くのアメリカ人が好意を持っているイスラエルさえ、中東の出来事、イスラム過激派の主張と戦うため自分たちの主張を「売り込まねばなりません」
それに日本は、中国、韓国からの宣伝だけでなく、アメリカがどう見ているかについても対処しなければならないのです。
先の太平洋での対戦を太平洋諸国への圧政からの解放のためにアメリカは戦った、と信じられている見解に意義を申し立てることは、アメリカ人の気持からすれば大問題です。
太平洋戦争の現実は我々(米国)が戦った、他のどんな戦争とも同じ、地政学的理由によるものでした。我々はただ、プロパガンダに長けていた。これが決定的でした。
日本は中国、韓国のプロパガンダに負けています。
3.歴史観が対立していても、日米両国は友好的な関係を保てるでしょうか?それとも双方の間で、もっとコンセンサスが必要でしょうか?
A.安倍首相は先日のアメリカ議会の演説で、硫黄島の戦いの両当事者、アメリカのスノーデン大将、栗林中将の子孫を紹介しました。
旧敵との和解を示すため対象は、他の退役軍人とともにその場にいたのです。歴史には必ず、見解の違いがあります。
日本はもっと、真剣に、歴史の、論理的、感情的なプレゼンテーションを行うべきです。
4.フランクリン・ルーズベルトによる、JB355(日本本土爆撃計画)、蒋介石軍への、アメリカ人パイロットや戦闘機提供は、戦争行為だと思いますか?
A.開戦に先立ってアメリカは、中国国民党支援のために、多くのことをやりました。
飛行機燃料だけで無く、中国航空機製造会社顧問、
公的あるいは民間人による暗号解読支援。強力な諜報艦もそうです。
アメリカ海軍は10年以上、対日本戦争演習をやり、日本から抗議
を受けましたが無視しました。
アメリカはB17 爆撃機、空の要塞、をフィリピンに真珠湾に艦隊を配置し、日本領土(台湾)に対する初期攻撃能力を備えました。
ソ連がキューバにミサイルを持ち込んだ時の、キューバ危機と事情は同じです。
この時ケネディ大統領は第三次世界大戦を覚悟して、キューバ海上封鎖を実施しました。日本にとってもフィリピンにB17重爆撃機が導入されたのは事情は同じでした。
5.日本は自前の軍と装備を開発するべきでしょうか?あるいは独仏両国が、EUと協力しているように、同盟諸国と協力して、兵器を開発すべきでしょうか?
A.日本は他の同盟諸国と、良い関係にあります。
日本は検討すべきです。
6.アメリカは、日本に核兵器の保有を許すべきでしょうか?中国等からの強い反対があってもそれは可能と思いますか?
A.中国は日本が何をしようと、常に文句をつけてきます。
屈服し、属国にならない限りは。
日本の指導者と報道陣はこのことを、理解し、国際的報道陣にこのことを言うべきです。
中国は北朝鮮、パキスタン、イラン、の核武装化に協力しているではないか。
7.アジア諸国に対して、戦争犯罪を直接謝罪することは長期的にみて、日本の利益になるでしょうか?
それとも日本の権益を弱めるでしょうか?
A.日本はすでに謝罪しています。中国は日本が属国にならない限り、謝罪を受け入れないでしょう。
韓国はもう一世代立たないと成熟国家とならず、自国の本当の歴史を理解しないでしょう。
だからいつも文句ばかり言っているのです。謝罪と賠償はもうとっくの昔に住んでいます。
中国は1930年代から今日まで、大躍進、文化革命、天安門事件、チベット、ウイグル、満洲、内蒙古、ベトナム、インド等等数百万人のアジア人に対して行ってきた、大量殺戮と与えた苦しみを謝罪するべきです。
8.日本は戦争犯罪に対して、今、どのような道筋をとるのが最善でしょうか?
A.日本はすでに戦争犯罪に対して、何度も支払いを済ませています。加害者たちは絞首刑となりました。
中国は死人を墓から掘り起こし、再度処刑せよと毎年のように言うのです。自分の意図と人権抑圧から、世界の目をそらすためです。
安倍首相は連邦議会で素晴らしく振舞いました。首相はアメリカの退役軍人に謝罪しました。
過去をたどれば、戦争犯罪から免れる国はありません。
*求む真実! 賞金2万ドルを進呈します
「1944年に、ティニアン島で、日本軍が、五千人の朝鮮人を殺害した」というローラ・ヒレンプランドの主張を立証できた方には二万ドル
を進呈します。
*真珠湾攻撃から七十五年
当時わが国(アメリカ)の為政者と軍の指導者は真珠湾に駐留していた、部隊を見殺しにしました。非常に悲しむべきことです。
日本の攻撃が差し迫っていることは世界中が、知っていました。新聞は攻撃が近いことを報道していました。
真珠湾が卑怯な急襲でなかったことが知らされると、アメリカ人の多くは「日本が真珠湾を攻撃するとは思はなかった」と以前とは違った理由で日本を非難しようとします。
しかしこれは奇妙なことです。なぜなら添付した、秘密指令文書で、真珠湾攻撃のちょうど1週間前に、日本のカリフォールニア攻撃を予測し、それに対して、準備していたことが明らかです。
カリフォールニアへの攻撃は準備し、ハワイやフィリピンへの攻撃にはなんの準備もしなかったというのでしょうか。
他によくある非難の理由としては、「日本の宣戦布告が少し遅れた」というものです。
そんなことをだれが気にするでしょう?
我々は攻撃が差し迫っていることを、「知っていた」のです。攻撃が近いことは新聞の見出しにも大きく載っています。
1941年12月7日以降、アメリカは何時、宣戦布告したでしょうか。真珠湾攻撃の数日後に、ドイツトイタリア、数か月後に、ハンガリーとブルガリア。1942年6月5日にルーマニアに宣戦布告したのが最後です。
すなわち、第二次世界大戦後、に我々が戦ってきた、戦争及び今も戦っている数々の戦争では宣戦布告は一切されていないのです。あれから一体いくつの戦争を戦ってきたのでしょうか。
朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争・・・・・
・・・・・
真珠湾奇襲について調べれべ調べるほど、その時なくなった、わが軍の兵士たち、は。米国政府が日本を小突き回しちょっかいをかけ、首を絞めたのち、その日本をおびき寄せる生餌として犠牲になったと気づくのです。
米国は実際何年にもわたって、日本を攻撃していました。おそらく九十九・九九九パーセントのアメリカ人は、真珠湾攻撃の前に米国が日本人を殺していたことに気づいていません。学校で教えられていませんから。
秘密文書の第一弾を見るとこうあります。
「日本の敵愾心を取り除くことができないならば、日本が最初に明確な攻撃をしてくることが望ましい。」
米国は日本の敵愾心を取り除くことを何一つしませんでした。
ハワイの新聞には週末ハワイ攻撃が報道されていた。カリフォールニアでは攻撃にアクションをとれとの命令。ハワイでは何の防御準備もなし
ハワイの新聞には週末ハワイ攻撃が報道されていた。カリフォールニアでは攻撃にアクションをとれとの命令。ハワイでは何の防御準備もなし
ハワイの新聞には週末ハワイ攻撃が報道されていた。カリフォールニアでは攻撃にアクションをとれとの命令。ハワイでは何の防御準備もなし
*千九百四十一年から続く改ちゅうと陰謀ーーパール・ハーバー
1941年12月7日にいわれなき奇襲攻撃を受けた、というルーズベルトの陰謀と改ざんですが、いまだに何千万ものアメリカ人がそのことを疑わないのが驚きです。
ルーズベルトの作り話を信じるのは「月面着陸は嘘だった」とか「世界貿易センタービルへの攻撃はアメリカ政府の手によるもの」といった陰謀を信じるのと同じです。
真珠湾攻撃の前から、アメリカは日本に爆薬で攻撃しました。1932年ロバート・ショートの空爆や1938年に台湾をソ連、シナ軍とともに爆撃したなどがあります。
原爆投下、民間人の大量虐殺。
原爆投下への世論調査。
アメリカは無差別虐殺の原爆投下を、この戦争でアメリカ人と日本人の戦争被害をさらに増やさないために必要だったと正当化した。
原爆投下への世論調査。
1945年8月26日ギャラップ調査。
原爆投下は正しかった 85%
投下すべきではなかった 10%
分からない 5%
1945年12月 フォーチュン調査
原爆投下は正しかった 54%
もっと大量の原爆を投下すべきだった 23%
投下すべきではなかった 5%
1994年 ギャラップ調査。
原爆投下には賛成 55%
原爆投下には反対 38%
1994年 ギャラップ調査。
原爆投下に謝罪は不必要 71%
どちらともいえない 3%
わからない 3%
日本に原爆投下を謝罪すべきだ 23%
2016年 CBS調査(オバマ大統領の広島訪問直前)。
原爆投下を支持する 43%
原爆投下を支持しない 44%
トルーマン大統領は、長崎への原爆投下直後に、ポツダム会談の内容を語る8月9日のラジオ放送で、こう述べている。
「我々は原爆が敵の手ではなく、我々の手にあったことを神に感謝する。原爆の使用について、神ご自身の方法と目的について、我々を導いてくださるようにと祈っている。(バージニア大学ミラーセンターでの大統領スピーチ)
これを聞いた一般のクリスチアンの間で原爆投下は道徳的に正当化できると思っても仕方ない。
トルーマンはアメリカキリスト教連合協議会から非難の電報を受け取ると、
日本の真珠湾の奇襲、捕虜の殺害に憤怒を示し、「けだものの日本人にわかる言葉は爆撃しかない。
極めて残念なことだがこれが真実である。」と返信している。
前述したように、大東亜戦争はアメリカが日本に先制攻撃を仕掛けるように仕組んだのであり、
トルーマン大統領は
ルーズベルト大統領の副大統領だったのであるから、この事情はよく知っていたはずである。
さらに、その結果として、日本軍が真珠湾を攻撃することは、ハワイの新聞にまで記載されている「公知の事実だった」
しかも真珠湾攻撃は、軍事施設のみを攻撃し、民間施設は攻撃していない。
「宗教からアメリカを知るための48章」上坂昇(著)より
マニフェスト・デスティニー(明白な運命)に促されて
アメリカの海外伝動を促した、思想的はいけいとしては「マニフェスト・デスティニー」がある。
1845年にジャーナリストのジョン・オサリバンが提唱したものでアメリカ大陸の西方への領土拡大は神から与えられた運命であり、自由と民主主義の拡大と同義である。と領土拡大を正当化した。
テキサス併合、オレゴン領有、ニューメキシコとカリフォールニアの獲得を神の名を使って正当化したのである。
領土的野心が海外に向けられた最初は1898年、米西戦争が初めてである。米西戦争でアメリカはスペインに圧勝し、フィリピン、グアム、プエルトリコ、キューバ等を支配下に置いた。1900年にはハワイを支配した。米西戦争を指揮したのは、マッキンリー大統領である。
マッキンリーはアメリカは神に選ばれた国である。大統領たる自分は、神の意志をこの地上で果たすための道具であると固く信じていると言っていた。
原爆投下を祝福したチャプレンたち
広島と長崎に原爆を投下した爆撃機B29は テニアン島から進発した。
広島に原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイの飛行士にはプロテスタントのチャプレン、ウイリアム・ダウニー(大尉)、
長崎への原爆投下ボックスカーの飛行士にはカトリックのチャップリン、ジョージ・ザぺルカが担当した。原爆投下に何の疑いもなく神の御加護を求め勇気を励ましたのである。
チャプレン:教会堂以外の施設で礼拝などを執る牧師や司祭などの聖職者)
兵士の愛国心を高めるだけではなく自己節制をするためにもチャプレンの協力が必要と考えた。アメリカ独立戦争から大量に採用された。給料は陸軍中尉と同程度だった。
従軍チャプレンとは、一言でいえば、軍隊に専属の聖職者である。従軍牧師・従軍司祭とも訳されるが、国によっては必ずしもキリスト教の牧師や司祭だけではないので、従軍チャプレンという言葉の方がよいだろう。
第二次大戦をとおして、アメリカ軍は合計約1万2千名ものチャプレンを従軍させた。
現在でも基地や士官学校などはもちろん、巨大な空母のなかにも礼拝堂が設置されている。
彼らは大尉や少佐などの階級をもつ軍の士官であり、他の将兵とまったく同じ軍服を着ている。
迷彩服を着た聖職者が、銃を肩にかけた兵士らと共に礼拝をしている様子は、多くの日本人の目には奇異な印象を与えるかもしれない。
「宗教からアメリカを知るための48章」上坂昇(著)より
*ダグラス・マッカサー元帥の証言
*日本人収容施設
*インドネシアに眠る日本兵
*ビルマで行方不明となった日本兵
ソウルの慰安婦像
*済州島の「四・三平和記念館」
慰安婦ペテンについて調査するため、済州島にいきました。そこで
済州島の「四・三平和記念館」(「四・三」は1948年4月3日に発生した武装蜂起にちなみます)で一日を過ごしました。
「四・三平和記念館」は中国の「南京戦争記念博物館」を連想させました。どちらの施設も「洗脳の日」を過ごす子供たちでいっぱいでした。
この記念館は韓国人が韓国人を虐殺した歴史の事実を教えるのではなく、
米国人に対する憎しみを韓国人に教える社であることがわかるでしょう。
いずれにせよ韓国人は互いを虐殺し始めました。今日彼らは済州島で三万人が虐殺されたといっています。
パンフレットの1ページ。中ほどに 我々アメリカ人は「アメリカ人食人種(American canniibels)と記されているのに気づきましたか
パンフレットの1ページ。中ほどに 我々アメリカ人は「アメリカ人食人種(American canniibels)と記されているのに気づきましたか
朝鮮人はアメリカの敵であり、我々と戦いました。1945年に米国と日本/朝鮮との戦争は終わりました。
戦争によって日本はその国土を大規模に破壊されましたが、韓国は事実上何も被害を受けませんでした。しかしながら今日韓国人に聞くと、韓国が第二次世界大戦で、どの国よりも被害を受けた科のように言います。実際には何も被害を受けていません。朝鮮には侵攻や、爆撃作戦は行われず、鳥やコオロギが鳴いているだけでした。
1983年、日本人の共産主義者である、吉田清治が「日本軍が済州島で朝鮮人女性を、性奴隷にするために、約二百人拉致した」との慰安婦のペテン(後に嘘だったと本人が認めた)を始めるまで慰安婦問題は存在しませんでした。
性奴隷のペテン話を作ったのは一人の日本人共産主義者だったのです。今、慰安婦はふくれあがって、200人から1000人そして2万人、40万人まで膨れ上がりました。
だが40万人は膨れ上がりと悟ったらしく今は20万人といっています。
それから済州島の、情報戦士たちは「四・三平和記念館」というとんでもないものを建てました。済州島の「虐殺博物館」で買った、別のパンフレットの一ページです。
我々アメリカ人は「アメリカ人食人種(American canniibels)と記されているのに気づきましたか
米軍は旭日旗に敬意。米陸軍、海軍旭日旗デザイン
情報戦の真実マイケル・ヨン 2020
*日本と中国の歴史ーーー読者からの質問
*日本だけが悪者なのか
第5章大日本帝国のアジア解放思想
3.侵略主義の対極に立っていた「大陸浪人」の真実
4.中国人の裏切りと満蒙独立運動
5.第アジア主義が生んだ満州国
6.アジア解放のための国内改造運動
第6章超大国に戦争を挑み続けた大日本帝国
1.東アジア主導権をかけた日清戦争
2.日本の「檜舞台となった「北清事変」
3.世界の予想を裏切った日露戦争の勝利
4.日本を追い詰めた超大国群の挑発
5.日本の最終攘夷戦争としての大東亜戦争
第7章大日本帝国の大東亜共栄圏の精神
1.英米主導体制への隠忍自重の限界
2.東亜新秩序のあい路であり続けた中国
3.アジアの共存共栄を理念とした新世界秩序建設
4.大東亜共栄圏の東アジア史における画期的意義
5.世界に受け継がれた「八紘一宇」の神道精神
6.大東亜共栄圏構想の優越性
第8章「君民一体」を原動力とした大日本帝国
1.維新を支えた超伝統的存在としての天皇
2.近代日本の支柱となった天皇の神聖観
3.「統帥権独立」派国を破滅に導いたか
第9章文明史の中での大日本帝国
1.なぜ近代国民国家への転生に成功したか
2.中華文明を克服した大日本帝国
第10章大日本帝国の世界史的な大貢献
1.西欧列強の地球分割を阻止した日本
2.アジア独立を達成させた日本人の解放理念
(1)現代の中韓の歴史教育ではいかにも自国民が反日抗日、反帝反米闘争を闘った
ように教えているがそれは嘘八百の創作である。これらの国では異民族の軍隊たいていは解放者として歓迎し激しい抵抗などは例外なのだ。朝鮮ではモンゴル人や満洲人による「胡乱」も日本人による「和乱」も民衆からは歓迎され、「義兵」の闘争などまれだった。
、、
(2)白人植民地からの東アジアの解放
大東亜戦争中、日本軍の占領下で独立を達成したのは、ビルマ、フィリッピン、そして自由インド仮政府である。仏印のベトナム、カンボジア、ラオスも1945年3月、フランスから独立を宣言した。
ビルマはアウンサンスー・チー以下30名の「志士」が1943年独立式典を行った。フィリッピンは1942年8月に日本軍が独立運動の指導者、パルガスを長官とする、行政府を作り、1943年10勝ち、ホセ・ラウレルを大統領とする、フィリッピン共和国が、誕生した。
自由インド政府は1943年10月、チャンドラ・ポーズを首班として、シンガポールで発足した。ポーズはこの時インド国民軍(英軍インド兵の捕虜で編成)の司令官に就任し、後、日本軍とともにインパール作戦に参加した。
戦後インド国民軍の将兵はインドでイギリス軍に反乱の罪で裁かれた。これに激高したインド国民は、二年間にわたって反乱を起こし、その結果1947年にインドは独立した。
1943年3月日本軍は仏印のフランス軍を武装解除した。フランス総督府の反日姿勢、及び日本外務省の「アジアの解放を貫徹したい」という強い意向が反映された。
これにより、ベトナムはグエン邑生町最後の皇帝、パオ・ダイが安南帝国の独立を宣言した。次いでカンボジアでは、ノロドム・シアヌーク王がフランスとの保護条約の破棄を宣言し、よく4月にはラオス王シサヴァン盆が独立宣言を行った。
インドネシアにおいては1943年にはすでに日本軍の指導下でPETA(郷土防衛義勇軍)が編成され四万名近い将兵が養成されていたが、個々での石油やゴム等の資源を確実に確保したい日本陸軍の戦争遂行上の都合によりインドネシアはマレーとともに「帝国領土」に組み込まれた。
しかしそれでも1944年9月小磯内閣はインドネシアの独立を約束し、終戦直前の1945年8月9日には鈴木内閣も独立許可を再確認している。
そして終戦の良く翌日8月17日、スカルノは独立を宣言した。
マレーシアでは、日本の軍政下で興亜訓練所が設置され、あるいは若い留学生が南方特別留学生として日本に派遣され、このように養成された人材が戦後、
マレーシアを独立させ、国の中核となった。
日本軍はアジアの各地でこのように、それまでの白人支配者の奴隷状態にあった、諸民族を独立させた。もちろん独立に先立ち、以上のように、新国家経営の人材も養成したのだった。
(3)日本軍による華僑粛正の歴史的背景
こうした中でさらに良く見落とされる日本軍の東南アジアへの貢献がある。
それはマレー半島などにおける華僑に対する「粛清」だ。マレー半島ではイギリスがスズ鉱山などの労働力として、導入した中国人が急速に増え、
マレーシアの人口は1940年にはマレー人228万人に対し中国人(華僑)235万人に達していた。その華僑は、支那事変以来、重慶政府に通じそして抗日ゲリラ活動も開始したため同半島を占領した日本軍は、これを抗日分子とみなし、粛清を行ったのだった。この時とらえられた華僑は、日本軍により、「大虐殺」されたとして、今日では日本のアジア侵略の代名詞の一つまでなっている。
イギリス植民地時代の南洋華僑は常に植民地統治者の側にあり、そのばんとう、仲介人となっていた。
政治を白人がつかさどるなら、経済は華僑が牛耳り、マレー人に対し、白人以上に、搾取者収奪者になっていた。
そもそも白人の植民地支配は、代替代理統治する人種を設定するもので、アジアではインド洋からアフリカが印僑、ビルマから東は華僑が代理支配を務めた。
このように東南アジア諸民族と南洋華僑の対立は経済的文化的なものを超え、民族的対立まで昂進だから政治的変動の旅に華僑には襲撃が加えられるのであった。
戦後も華僑への反感は消えていない。ベトナムは華僑の追放を行い中越戦争を起こした。インドネシアでも近年華僑排斥暴動が発生したことは記憶に新しい。
・・・・・・
日本フンの華僑粛正はこのような民族間の緊張のもとで行われた。日本軍の進軍が東南アジア諸民族から歓迎されたのは、支配者である白人を駆逐したからだけでなく、その代理支配を担当していた華僑を粛清したからである。
・・・・
マレーシアにおける華僑の粛正と、マレー人の人材育成は今日のマレーシアの基礎を築いた華僑を追放しない限り、マレーシアの解放はあり得なかったのである。
インドネシアの独立運動の歴史は長いが、それは華僑の経済的搾取に対する反抗運動でもあった。イスラム同盟の運動は直接的には華僑排斥運動であった。ここでもまた華僑はオランダ人以上に過酷な搾取を行っていた。
一昔前には東南アジアの反日デモがしばしば報じられたが、それを主導してきたのは華僑勢力と何らかの意図がある日本のマスコミであることに注意しなければならない。華僑は日本政府の謝罪表明を喜んで受け入れるだろうが、諸民族はそれを逆に、日本の東南アジアへの敵対行為とみるはずである。
(4)アジアとの共存共生の道を選んだ日本の精神
a.フィリピン等
ではスペイン、アメリカの植民地植民地支配に反抗する、独立闘争が行われたが、台湾総督府の参謀の原偵は「フィリピンの独立を救援しなければアメリカは必ずこの地を占領し東亜の自由と発展を阻害するだろう。」として、軍籍を退き五人の民間人と義勇隊を組織して戦地に駆け付けた。かららは独立軍のリーダー、アギナルドの歓迎を受けその軍事顧問となった。この時フィリピン在住日本人300人も独立軍に加わった。
b.ビルマの繁栄独立運動は、
二十世紀初頭日ロ戦争に触発された仏教青年会のオッタマ僧正と仏教団体総協議会のウ・ソーテンの二人によってはじめられた。大東亜戦争勃発の年である、1941年2月、鈴木啓司大差を機関長とする南機関が、ビルマ独立支援のために設立された南機関はアウン・サンら30人のビルマ青年を、海南島においてビルマ独立戦争要因として、訓練した。
日本軍がバンコックに進駐すると、アウン・サンを中心とする、ビルマ独立義勇軍(BIA)が南機関によって編成された。そしてBIRAへは日本軍のビルマ進撃とともに志願者が増え、
ラングーン陥落時には、四万人まで達していた。その後、鈴木大佐は、早期のビルマ独立を求めて参謀本部と意見対立し、北海道への転属を命じられ、南機関は解散した。
これを嘆いたBIAは「我々は独立軍の父、ビルマ独立の庇護者、ビルマ独立の恩人のことを忘れない」との感謝状を鈴木大佐に贈っている。
また、鈴木はB級戦犯として戦後ラングーンの
軍事裁判にかけられたが、BIAの元将兵らが抗議し、無罪になっている。
c.インドネシアの独立運動
今村均中将率いる日本軍の第十六軍はわずか十日かんでインドネシア全域を制圧、獄中から解放されたスカルノらは今村中将に日本の軍政に協力することを約束した。
やがて開戦一周年を記念してブートら運動が始まった。これは民間の総力を結集して、防衛に当たるというもので、
五十六万人者青年を団員とする大組織が出来上がった。
さらに軍事訓練を受けた、団員によって、インドネシア郷土防衛義勇軍(PETA)が編成された。
PETAの教育は柳川宗成大尉が中心に進められ、、日本軍式スパルタ教育が行われた。
日本の敗戦でPETAは解散したが、その四万の兵力は、戦後の独立運動の主力となる。独立戦争は日本の敗戦、二日後の独立宣言とともに開始された。この年九月、英印軍の進駐から、
49年12月のハーグ協定による独立承認まで、実に四年半に及ぶ、戦いが展開されたのである。
日本軍は連合軍から、独立運動の弾圧を命令されたものの、それに反して、大量の武器弾薬を独立軍に渡したほか、多くの将兵が軍を脱走し、独立軍に身を投じた。
スマトラで約く500人、ジャワでは約270人がインドネシア人との共生同死を誓い、そして多くが戦死した。ハワイ出身の日本軍政研究家ジョージ・s・カナヘレは著書「日本軍政とインドネシア独立」の中でこう記している。
「日本はインドネシア語の公用語化を徹底的に推進し、インドネシア国民としての連帯感を人々に植え付け広域の太秋を、インドネシア国家の国民として組織した。特に若者に民族意識を植え付け、革命の戦闘的情緒と雰囲気を盛り上げた。またPETAの革命における意義は大きく、これなくしてインドネシア革命はあり得なかった。
d.マレーでも日本軍の進撃は歓呼の声で迎えられた。
戦後、外相を務めたラジャー・ダト・ノンチェック氏は「新国家、マラヤ連邦の建国の基本策と具体策は、冬至のマレー人青年の日本グループによって進められたといって過言でない。
あの当時の国家計画庁本部は湘南、マラヤの両興亜訓練所や、日本に留学した、南方特別留学生の同窓会の雰囲気だった」と語っている。
マラヤ大学の副学長だったウンク・アジス氏は「日本軍がもたらした「大和魂」のような考え方を持つことは独立のためにどうしても必要だった。
日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏したのち、英国人が踊ってきて、植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき人々は立ち上がったのだ」と証言している。
インド独立の英雄、チャンドラ・ポーズは、1941年、ヒトラーに
独立支援を要請し、「ドイツがモスクワにまで攻め込むなら、ついでに、インドにも来てほしい」と頼んだというが
ヒトラーは「インドが独立政府を持つに状況に至るにはあと少なくとも百五十年かかる」
と冷たく断った。そこでポーズはドイツの潜水艦に乗り、マダガスカル島沖で日本軍の潜水艦に乗り換え、シンガポールに来た。
日本はポーズの後押しを決定し、シンガポールで彼を迎えた。そして,英印軍の捕虜、五万五千中、一万三千人を選抜しインド国民軍(INA)を編成し、ポーズを同軍の司令官に据えたのである。それと同時にポーズは自由インド仮政府首班に就任し、米英に宣戦布告を子なった。
日本軍はすでに占領していた、インド領、アンダマンとニコバルの両諸島を、その領土に帰属させた。そして、日本、ドイツ、タイ、等7か国がこの政府を承認した。
日本敗戦後、インド国民軍の将兵は、国家反逆罪で軍事裁判にかけられた。この軍事裁判において、首席弁護人でインド法曹界の長老グラバイ・デサイ博士は「インド国民軍将兵はインド独立のために戦った愛国者であり、即刻釈放すべきだ」。
「インドはまもなく独立する。この独立の機会を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで、三十年も早くなった。インドだけではない。ビルマもインドネシアもベトナムも東アジア民族は皆同じである。インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興に惜しみなく協力しよう」と演説した。
e.日本が与えた「自信」が戦後アジアを繁栄させた
アメリカのJ・C・れブラ教授は著書
「東南アジアの解放と日本の遺産」の中で「日本による占領下で
民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったことを、イギリス、オランダは知ることとなる」と日本の占領下で各民族が自信をつけたことを述べている。
イギリスの歴史学者H・G・ウエルスは終戦直後、「大東亜戦争は大植民地主義に終止ふを打ち、白人と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の基礎を築いた」と評した。
f.明治維新の世界史的意義ー−−ポール・リシャルの日本賛歌
フランスの哲学・神学者で高名な詩人であったポール・リシャルの日本賛歌がある。・・・・
文明論者A・J・トインビーは
「日本人が歴史に残した業績はアジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去二百年間考えられてきたような不敗の半神でないことを明らかにしたことである。イギリス人もフランス人もアメリカ人も皆バタバタとドミノ倒しのようにやられてしまった。そしてアメリカ人だけが何とか軍事上の栄誉を保ち続けたが他の二国は不面目な敗北を喫した」(「オブザーバー」1956年10月28日)
インドネシアの政治学者アリフィン・ペイ
「日本が戦争に敗れ、日本軍が引き上げたのち、アジア諸国に残っていたのは、ほかならぬ、日本の、精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次世界大戦後に新たに起こった東南アジアの民族独立運動にどれだけ貢献したか認めなければならない」
3.非西洋近代化のモデルとなった日本
大東亜共栄圏の夢は日本の敗戦とともに消えたが理想だけは残った。
戦前の軍国主義のノウハウと、戦後の経済主義のノウハウとはそれほど変わらない。
4.台湾・朝鮮・満洲の近代化ー−ヒガシアジアでの第二第三の維新5・近代駐奥建設への日本の献身的協力
日本の近代化が生んだ現代の中国語。
「中華人民共和国」も人民、も共和国も日本製。社会主義の社会、も主義も。「四個現代化」の現代も個も。「改革開放」の改革も解放も。共産党の常用区である「革命」「解放」「闘争」「運動」「進歩」「民主」「思想」「同志」「理論」「階級」「批評」「計画」「右派」等皆そうだ。「天安門広場」の「ヒロバ」に至っては日本語そのままだ。
実際今日の中国語も、日本語からの「借り物」であふれている。例えば思いつくままに、
「基準」「「基地」「「石油」「現金」「支配」国際」「代表」「学校」「学生」保険」「出版」「電波」「業務」「警察」「伝統」「侵略」「拝啓」「論文」「建築」「作用」「意識」「現実」「常識」「進化」「理想」「「工業」「促進」「体操」「展覧会」「農産物」図書館」「炭鉱本」「高利貸」「生産手段」がそれだ。
その他「中国式」の式「優越感」「好感」の間感「新型」「流線型」の型「必要性」「可能性」の性「出発点」の点「「文学界」の界「想像力」「生産力」の「力」「使用率」「効率」の率「客観」「価値観」「人生観」の観とうとう。
このほか数詞の「噸」「吋」「糎」「粍」「哩」。「入口」「出口」「市場」「広場」「取消」「手続」「場合」「見習」「大型」「但書」「大熊座」「倶楽部」「瓦斯」「浪漫」といった例。などなどたくさんの日本製漢字が使われている。
東南アジアの華僑問題 - 中国人の考えでは - J-Stagehttps://www.jstage.jst.go.jp ? asianstudies ? _pdf ? -char
東南アジアの華僑問題. 社会ピラミッド構造の尖端のヨーロッパ人支配者層と基底部の原住民農民層との中間に在って両者のいずれにも奉仕. するものとして、原住民より ...
(4)アジアとの共存共生を選んだ日本の精神
3.非西欧近代化のモデルとなった日本
4.台湾・朝鮮・満洲の近代化ー東アジアでの第2、第3の維新
5.近代中国建設への日本の献身的協力
6.日本における清国留学生の文化運動と革命運動
7.「赤化」からアジアを防衛し続けた日本
8.東アジアを支える日本の遺産
5.
大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか
加瀬 英明
第1章
日本が敗れるまで
第2章仕組まれた対米戦争の罠
第3章
大東亜会議と人種平等の理想
1.屈辱的な不平等条約の撤廃
2.白人が拒絶した人種差別撤廃
3.有色人種の光だった日本軍の侵攻
4.有色人種のリーダーが集まった大東亜会議
6.インド人から感謝される日本
7.大東亜会議は世界史の転換点
日本軍に協力した現地人
第4章
アジア諸民族を鼓舞した気高い精神
1.インパール作戦がもたらしたインドの独立
2.戦争未亡人からの手紙
3.皇紀による年号が刻まれたジャカルタの独立記念碑
「ムルデカ17805」
4.若者の心を打った「プライド運命の瞬間」
5.字損自衛の精神を復元する
6.シアヌーク国王が演じた日本兵
「ボコールの薔薇」
7.対日協力者は民族の功労者
日本の敗戦後中国では数千人の中国人は「漢奸」の名のもとに処刑された。南京政府、汪兆銘政府関係者だった。しかしフィリピンからインドに至るまで、裁判にかけられた、日本協力者はいなかったし、彼らは民族の英雄とみなされた。フィリッピンでは初代のラ売れる大統領の長男が日本の陸軍士官学校を卒業し他が。戦後日本駐在大使となった。秋の大統領の一家が対日協力者であったように、このようなことは枚挙にいとまがない。
第5章
白人による人種差別からの解放
4.164の独立国が誕生
5.差別なき日本の統治
6.日本統治下の朝鮮人は協力的だった
7.白人にとってのインディアン
8.馬小屋に閉じ込められた日系アメリカ人
9.人間扱いされなかった日本兵
アメリカ軍は日本兵の投降を許さなかった。捕虜にしなかった。投降してきても撃ち殺した。
大西洋単独飛行横断で有名な英雄リンドバーグは大佐として日本軍とたたかった。
「孤高の鷲ー−リンドバーグ第二次世界大戦参戦記」学研M文庫
10.トルーマンもマッカサーも人種差別主義者
11.日本民族を絶滅させるべきかという質問
12.ニュールンベルグ法より過酷な黒人差別
ナチスはユダヤ人の判定にユダヤ人の血が1/5以上入っているとユダヤ人とした。アメリカでは戦後まで、黒人の定義を黒人の地が1/8以上入っていると黒人と認定者他。
13.差別主義的なアメリカが民主主義国といえるか
第6章
日本軍の「精神第一主義」
第7章
特攻隊はなぜ称えられるのか
1.ソ連の自爆機とどいつの特攻隊
2.世界で読まれる「神風・日本の特攻神」
「神風・日本の特攻神」は世界でよく読まれている
3.「ばんだ隊」と「冨獄隊」
4.特攻隊に見る至純な愛国心
5.教養高き日本の庶民
米軍将校だったパッシング少尉、ハーバード大学教授
大宰府で
月夜よし川音清けしいざここにいくもいか無もも遊びていかむ
万葉集
6.日本が実現した人種平等の世界
7.世界で称賛される特攻隊
8.東京大空襲は大虐殺
9.
第8章
アメリカと日本の原爆
6.ドイツ人と日本人の扱いの違い
7.「ポツダム宣言」は日本の無条件降伏ではない
8.アメリカを恐れさせた日本軍
9.特攻隊な無駄死にではなかった
10.軍歌が愛唱される日本
第9章歴史を歪められた国
1.GHQが仕掛けた歴史戦
2.
3.歴史を歪めるアメリカ
4.
5.自虐史観を蔓延させるおころ内日本人
6.愛国心は罪なのか
7.独立国としての気概
第10章
日本が成し遂げたこと
1.日本が人類史に果たした役割
2.日本人の心は壊れない
3.「無条件降伏」へのすり替え
4.「国際連合」は「連合国」
5.言葉の呼び変えによる誤魔化し
6.
10.特攻隊に現れた感謝の心
11.感性を尺度にした日本人
12.神々も人民も平等な社会
アジアを解放した大東亜戦争
連合軍は東亜大陸では大敗していた
安濃豊
東亜植民地の解放は対日経済封鎖への対抗策
米軍は太平洋では勝利するも東亜大陸では惨敗
1.ミッドウエー作戦はフィリッピン独立のための囮作戦だった
2.ガダルカナル戦のころビルマが独立
3.カイロ宣言は実現せず、大東亜宣言は実現
4.マリアナ沖海戦のころ、インド独立は決定的となっていた
5.米国サイパン線の勝利のころ、シナ大陸では大陸打通作戦に大敗北
6.硫黄島での戦いのおころ、インドシナ3国がフランスから独立
7.対日戦勝を祝っていたころ、インドネシアが独立
4.
第3章
1.ミッドウエーで負けたのはアメリカ海軍
2.近衛文麿こそアジア解放の英雄
3.神風特攻が日本本土上陸作戦を諦めさせた
4.米国にとって、欧州が主戦場だったという捏造
5.戦ったのは日本軍だけでなくアジア合同軍
6.太平洋当初戦はアジア解放のための囮作戦
7.勝敗の分岐点は広島
8.アジアの独立は戦時中
9.タイ王国は緩衝地帯として植民地化を免れていたわけではない
10.罠にはめられているのに暗号解読の成功に意味はない
11.日系人部隊がダッハウ強制収容所を解放
12.B29は無敵ではなかった
13.戦前の日本軍は米軍を恐れていない
14.戦前の日本は軍国主義だったという捏造
15.沖縄戦で敗北したのは米軍
第4章
大日本帝国こそ、大なる特攻隊だった
1.大日本帝国建国の目的は白人帝国主義の打倒
米国を強く見せるため戦後に捏造された虚構
大日本帝国こそ大なる特攻隊だった
6.鶴野正敬技術大尉
震電、究極のプロペラ機、プロペラが主翼より後ろ。B29撃墜用。鶴野正敬技術大尉
7.
酸素魚雷、
英米の普通魚雷より2倍の射程、魚雷の航跡を残さないためかわし難い、日本独自の魚雷。
8.大量短納期で造船
1か月という短工期、標準船、「SB艇」。、
9.
海軍ミサイル、
「奮龍」海軍が開発したミサイル。試験発射で終戦。、
10.
陸軍ロケット砲
「噴進弾」、陸軍が開発したロケット弾。硫黄島の激戦で活躍。
11.
日本のレーダー開発。
日本もレーダーを開発実用化していた。伊藤大佐、
12.
「水中高速潜水艦」目指すは通常の3倍!
13.富嶽(ふがく)
は、大東亜戦争中に日本軍が計画した、アメリカ本土爆撃を目的にした6発の超大型戦略爆撃機である。名は富士山の別名にちなむ。
、
1.堀越二郎は、日本の航空機技術者で零式艦上戦闘機の設計主任として有名
2.
小山悌(こやま やすし、1900年(明治33年) - 1982年(昭和57年)8月25日)は、
大日本帝国陸軍(陸軍航空部隊)の九七式戦闘機・一式戦闘機「隼」・二式戦闘機「鍾馗」・四式戦闘機「疾風」の設計主務者であり、戦前日本を代表する航空機技術者であった。
3.
飛燕 三式戦一型(キ61-I)
1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示した[5][23]。キ60の設計は1940年2月から、キ61の設計は12月から開始された[24]。設計は両機ともに土井武夫が担当した。
4.
一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき / いちしき - )は大日本帝国海軍の陸上攻撃機であ
人物事典風雲伝
時代を駆け抜けた英雄・偉人たちの人物伝 jpreki.com
https://jpreki.com/horikoshi/
明治・大正・昭和風立ちぬ 堀越二郎 ゼロ戦の設計者
風立ちぬ 堀越二郎 ゼロ戦の設計者
明治・大正・昭和太平洋戦争コメントを書く
Tweet Share Hatena Pocket RSS feedly Pin it
堀越二郎は、日本の航空機技術者で零式艦上戦闘機の設計主任として有名。
1903年6月22日生まれで群馬県藤岡市出身。1903年と言えば、ライト兄弟の飛行機が初めて空を飛んだ年だ。
藤岡中学校、第一高等学校、東京帝国大学工学部航空学科と進学し、それぞれ「首席」で卒業している。
就職は、三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。
三菱は支度金四百圓(現在の約100万円相当)を堀越二郎に渡し、航空機の最先端技術を学ばせるため、彼をヨーロッパ、アメリカにと1年半派遣した。
大変几帳面な性格だったようで、自分が乗った客船の食堂のメニューを集めて保管しておく、領収証も一枚一枚保存、布団を敷くときには必ず部屋の壁と平行になるように敷くなど、と言ったエピソードがある。
日本に戻った堀越二郎は、その優秀な設計者ゆえ、この時代には最新の技術が必要とされる「戦闘機」の開発に携わることになった。
日本の航空機はそれまで外国機のコピーと言った感じだったが、時代がそのように堀越二郎を必要としたのであろう。
この当時の日本はどうしてもエンジン出力が弱い。その欠点を、堀越二郎らの航空機設計技術により補ったと言えよう。
堀越二郎が設計主務者として担当した最初の設計機は「7試艦上戦闘機」で進歩的な低翼単葉を採用したが、ライバルの中島飛行機設計機ともども、正式採用はされなかった。
その後、1935年(昭和10年)に完成した試作機「9試戦闘機」は上昇力など戦闘機に不可欠なもののみに重点をおき、試作1号機は逆ガル型の主翼を設計した。
堀越二郎によるこの9試の設計が基礎となり、のちの三菱九六式艦上戦闘機の設計に於いて日本独自の革新的な設計が施され、日本海軍初の全金属単葉戦闘機が誕生したのだ。
日本はエンジン性能が低いと言う欠点があるなか、その欠点を機体設計で補い、96式艦上戦闘機は固定脚機としては驚異的なスピードである最高速度400km/時を超え、当時の世界水準を超える優秀な戦闘機となった。
しかし、96式艦上戦闘機は航続距離が1200kmと短く、中国内陸部での作戦に支障が出た為、日本海軍は、速度500km以上、高い航続距離、20mm機関砲の重装備と言った厳しい性能を要求した新機種開発に着手。
三菱のライバルだった、中島飛行機は途中で開発を断念するくらい厳しい条件だったが、三菱の堀越二郎技師は3000枚に及ぶ設計図をチェックし、設計主務者として開発に取り組んだ。
その結果、航続距離2222km、最高速度533kmと高い運動性能、20mm機関砲2門の重武装を持ち、太平洋戦争の緒戦では無敵とも言える活躍し、述べ10000機が生産された「零式艦上戦闘機(A6M2b)」が、堀越二郎の手により誕生した。
ちなみに、ゼロ戦の半数以上は、中島飛行機でライセンス生産されている。
このように、堀越二郎は日本の航空機水準を世界一にまで高めた優秀な設計者だ。
堀越二郎は大学での成績がよかったので、三菱内燃機製造株式会社(現・三菱重工)から声がかかったとの事。
あまり知られてないが、当時、三菱は恐慌の影響で業績が悪く、帝大出の優秀な人材を獲得、育成して挽回を図ろうとし、それが堀越を成長させた。
堀越二郎の最も強いこだわりは、機体の美しさと機能を両立させることだ。堀越二郎が考案した、ねじり下げ、沈頭鋲といった技術は、現在でも世界のほとんどの航空機で採用されている。
堀越二郎が(三菱のライバルである)中島飛行機に入っていたら、ゼロ戦は生まれなかっただろう とまで言われている。
ゼロ戦は防御面が欠点だと言う事実は良く知られるが、設計段階で防御面は海軍からも要求はなく、徹底した軽量化により高い旋回性能を持つ事で敵機の攻撃を回避できると言う考えから、機体が重くなる防弾装備は当初不要との判断だった。
実際問題、日本はエンジン出力が低く、スピードを上げるには機体を軽くするしかなかった。その反面、アメリカは優秀なエンジンを開発し、ゼロ戦よりスピードが速い戦闘機をアメリカが持つ事で、ゼロ戦の優位性が崩れたのだ。
雷電、烈風と続けて設計を手掛け、疎開先の長野県松本市でも開発を目指したというが終戦。
戦後は木村秀政らとともにYS-11の設計に参加した。
三菱重工業は戦後分割されたため、それにともない発足した中日本重工業(のちの新三菱重工業)に勤務。
新三菱重工業では参与を務めた。
新三菱重工業を退社した後は、教育・研究機関で教鞭を執った。
1963年〜1965年にかけて、東京大学の宇宙航空研究所(現、宇宙航空研究開発機構=JAXAを構成する宇宙科学研究所)にて講師を務めた。
1965年「人の操縦する飛行機の飛行性の改善に関する研究 :昇降だ操縦系統の剛性低下方式」と操縦装置の基本理論で東大工学博士。
1965年〜1969年には防衛大学校教授。
1972年〜1973年は、日本大学生産工学部教授。
1982年1月11日死去。享年78。
小山悌(こやま やすし、1900年(明治33年) - 1982年(昭和57年)8月25日)は、日本の航空機・林業機器技術者、実業家。第二次世界大戦中は中島飛行機技師長・取締役、中島飛行機三鷹研究所長・黒沢尻製作所長(第1軍需工廠第21製造廠長)、戦後は岩手富士産業(中島の後身富士重工業系、現・イワフジ工業)取締役。
大日本帝国陸軍(陸軍航空部隊)の九七式戦闘機・一式戦闘機「隼」・二式戦闘機「鍾馗」・四式戦闘機「疾風」の設計主務者であり、戦前日本を代表する航空機技術者であった。
概要
九一戦
四式戦「疾風」
第二高等学校を経て、1922年(大正11年)4月に東北帝国大学工学部機械科進学。卒業後は理学部助手を務め、1925年(大正14年)12月に一年志願兵(学歴と財力を持つ者を対象に短期間の現役期間の後に予備役幹部に登用する制度、のちの幹部候補生制度)として帝国陸軍の電信部隊(在中野)に入営する[1]。
なお、当初小山は航空機設計に対し興味は特に無かったが、一年志願兵時代に休日外出で訪れる叔父宅(在蒲田)にて、中島飛行機創業者・中島知久平と海軍機関学校同期であった叔父の度重なる勧めを受けて満期除隊後の中島入社を決意している[2]。
1926年(昭和元年)12月28日、25歳の小山は中島飛行機製作所(のち中島飛行機株式会社)に入社。航空先進国であるフランスの航空機産業に学んでいた当時の日本航空機産業(およびフランス陸軍航空部隊(フランス空軍)を師としている日本軍航空部隊)にとって、
学生時代よりフランス語に堪能であった小山の存在は貴重なものであり、ニューポールやブレゲーの資料を翻訳する傍ら設計技術を磨いた。その様な状況で翌1927年(昭和2年)4月、早くも小山は当時の甲式四型戦闘機に代わる陸軍次期主力戦闘機の開発に関与する[3]。ニューポールの招聘技師アンドレ・マリーを設計主務者(および助手ロバン)に、小山と同僚の大和田繁次郎[4]が補助して設計された試作機・中島NCは、三菱重工業のIMF2「隼」や川崎航空機のKDA-3を抑え陸軍に採用、1931年(昭和6年)12月に九一式戦闘機として制式制定された。
こののち、航空機設計の才能を開花させた小山は陸軍機を中心に数々の機体開発に携わり、特に1936年(昭和11年)に全金属製低翼単葉戦闘機である九七式戦闘機(キ27)を、1937年(昭和12年)末以降には著名な一式戦闘機「隼」(キ43)、重単座戦闘機たる二式戦闘機「鍾馗」、さらに太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)末以降はそれらの集大成として、「日本軍最優秀戦闘機」と謳われる四式戦闘機「疾風」(キ84)の開発を設計主務者として手がけた。なお、小山は機体設計部門における中島の重鎮であるためこの他多数の機体にも関係している。
敗戦を工場疎開先の中島飛行機黒沢尻製作所長(第1軍需工廠第21製造廠長)として迎えた小山は、軍用機開発の要職にあったことから公職追放にかかり林業機器の技術者となる。1952年(昭和27年)に追放解除となると、旧中島飛行機の後身である富士産業(富士重工業の前身)系である岩手富士産業(旧・中島飛行機黒沢尻製作所、現・イワフジ工業)の取締役に就任。しかし、小山は他多数の航空機技術者と異なり戦後の航空機産業に復職することや、自動車産業・鉄道産業に移ることは拒み続け、以降1974年(昭和49年)に引退するまで20年以上に渡り岩手富士産業にて林業機器の技術者として過ごした。このことに関して小山は「日本の国力回復の基は、まず山林の開発であると思ったのです。また、私自身、そうした仕事が好きだったここともあるのでしょうが……」と語っている[5]。1962年(昭和37年)には林業関係の東京大学学位論文で「農学」博士[6]。
さらに小山はその責任から戦後は多くを語ることは無く、メディアへの露出も極めて少なく[7]回顧録なども残さなかった。そのため、小山は国産機創成期の九一戦から一式戦「隼」を経た集大成たる四式戦「疾風」に深く携わった、戦前日本の航空機産業を代表する大物でありながら、戦後の知名度は航空機産業に復職しメディアへの露出も積極的に行い己の業績を誇っていた三菱の堀越二郎(零式艦上戦闘機等の設計主務者)、川崎の土井武夫(三式戦闘機「飛燕」等の設計主務者)等と異なり極めて低い。
三式戦闘機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川崎 キ61 三式戦闘機「飛燕」
台湾・松山飛行場駐屯の第37教育飛行隊所属の 三式戦一型甲(キ61-I甲、1944年3月撮影)
台湾・松山飛行場駐屯の第37教育飛行隊所属の
三式戦一型甲(キ61-I甲、1944年3月撮影)
用途:戦闘機
分類:戦闘機
設計者:土井武夫
製造者:川崎航空機
運用者:大日本帝国の旗 大日本帝国(陸軍)
初飛行:1941年12月
生産数:1,919-
生産開始:1942年
運用状況:退役
表示
三式戦闘機(さんしきせんとうき)「飛燕」(ひえん)は第二次世界大戦時に大日本帝国陸軍が開発し、1943年(昭和18年)に制式採用された戦闘機である。開発・製造は川崎航空機により行われた。設計主務者は土井武夫、副主任は大和田信である[1]。
当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機であり、ドイツの液冷航空エンジンDB601を国産化したハ40を搭載した。防弾装備のない試作機は最高速度590km/hを発揮した。主翼より後部の機体下部にラジエーター・ダクトを搭載し、機体の空気抵抗低下と冷却効率の両立を図った[2]。
また基礎工業力の低かった当時の日本にとって不慣れな液冷エンジンハ40は生産・整備ともに苦労が多く、常に故障に悩まされた戦闘機としても知られる。ハ40の性能向上型であるハ140のエンジン生産はさらに困難であり、これを装備する予定であった三式戦闘機二型はわずか99機しかエンジンが搭載できず、工場内に首無しの三式戦闘機が大量に並ぶ異常事態が発生した。
この事態に対処するために星型空冷エンジンハ112-IIを急遽搭載した五式戦闘機[* 1]が生産された。
概要
開発の経緯と機体内部構造
「DB 601」、「ハ40」、および「キ60」も参照
三式戦一型(キ61-I)
1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示した[5][23]。キ60の設計は1940年2月から、キ61の設計は12月から開始された[24]。設計は両機ともに土井武夫が担当した。キ60はBf109Eと互角以上の性能を示したものの[* 2]、他に合同試験された二式単座戦闘機の方が有望であり、なによりキ61の方が良好な性能を発揮していたため、制式化は見送られている。
キ61の設計コンセプトは、「航空兵器研究方針」における重戦・軽戦のカテゴリにこだわらない万能戦闘機で、「中戦(中戦闘機)」とも呼ばれた。当時の陸軍は、軽単座戦闘機に旋回力と上昇力を求め、さらに12.7mm機関砲の搭載も要求したことから、必然的に陸軍内の議論が発生したともされる[26]。副主任の大和田が「戦闘機は総合性能で敵に勝っておらねばならず、軽戦・重戦で分けるのは不合理だ」と語り、またこれが川崎の開発チーム共通の理念であったともしている[27]。そもそも開発チームが「中戦」と呼んでいたとする文献もある[28]など、川崎側が発祥であるともされる。
土井自身は陸軍の「軽戦闘機」思想にこだわらず、キ61を理想的な戦闘機にまとめあげようとしたと語っている[29][7][28]。またこの考えの裏には、かつて土井が設計を担当し、高速性を追求した軽戦闘機キ28が、1939年の競争試作で旋回性が劣るとしてキ27(九七式戦闘機)に敗れた経緯も影響したと指摘する説もある[30]。土井は自信作であったキ28について「当時の陸軍が一撃離脱戦法を知っていれば」と述べている[31][* 3]また、その反動からか、一度は95式戦闘機の改良版とも言える降着装置を引き込み式とし最大速度480km/hに達する高速の複葉機を計画したこともあった[30]。しかしこれはその後廃案になり、「三式戦闘機」案に変更されている。1940年9月頃には細部設計が開始された[28]。なお開発初期の1940年5月頃に、土井はこの時期からキ61を空冷エンジン搭載機とする可能性に言及したとする文献もある[33]。
木型審査は1941年6月に行われ[34]、試作機は1941年12月に完成し初飛行を行った[35]。キ61はキ60と同系統のエンジンを使用しており、陸軍側もあまり期待していなかったとする資料もあるが[36]、この審査ではキ60やBf109Eの速度を30km/h上回る590km/hを発揮した。これは設計者の土井すらも全く予想外の高性能だった[7][37]。なおこの時期の陸軍戦闘機は、軽戦闘機である一式戦闘機は495km/h乃至515km/h[38]、重戦闘機である二式単座戦闘機(制式採用前)でも580km/hの最高速度しかもたなかった[39]。このため1942年10月には毎日航空賞が、1943年12月には陸軍技術有功賞が、土井と大和田に贈られた[* 4]。
エンジン
1936年、ドイツで液冷1000馬力級航空エンジン、DB601が開発・生産された。これは過給器に流体継手を採用し、キャブレターではなく燃料噴射装置を採用するなど先進的な機構を備えたエンジンであった[41]。日本陸海軍はこのエンジンに興味を示し、海軍側は愛知時計電機(のちに愛知航空機と呼ばれる企業)が、また1939年1月には川崎航空機が、各々50万円でライセンスを購入し、日本国内での生産を行うこととなった[41]
一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき / いちしき - )は大日本帝国海軍の陸上攻撃機である。略称は一式陸攻(いっしき / いちしきりくこう、- りっこう)。日本海軍の呼び名は中型攻撃機の略の、中攻。連合国側のコードネームは「Betty」(ベティー)。(Betty bomberが、一式陸攻の米軍側の名称)三菱重工業株式会社(改称前は三菱内燃機株式会社)の設計・製造。日中戦争・太平洋戦争で日本海軍の主力攻撃機として使用された。
特徴
本土上空を飛行する一式陸攻。
大直径の胴体内部に爆弾や魚雷を搭載し、胴体下の機体外部に搭載していた九六式陸攻よりも攻撃時の空気抵抗を大きく削減した。エンジンは大馬力の火星を装備した。主翼内をインテグラルタンクとし、4,000km以上に達する大航続力を得た。空気力学的洗練により、大型双発機としては軽快な運動性を得た。尾部に20mm旋回機銃を装備するなど、九六式に比べて防御火器を充実しているが、搭乗員や燃料タンクの防護は不十分だった。
機体設計
搭乗員
通常7人〜8人乗り。主操縦員、副操縦員、搭乗整備員、射爆員、主偵察員、副偵察員、電信員。機長は主偵察員。必要に応じて編隊指揮官が搭乗する。それぞれが機銃や電信などを兼任することができた。
第一回一式陸攻打ち合わせ会で、本庄季郎技師(三菱)から「防備が不十分。小型で航続距離求めれば燃料タンクに被弾しやすいため、四発機にして搭載量、空力性能、兵儀装要求を満たし増えた二発馬力で防弾鋼板と燃料タンクの防弾、消火装置を備える」と提案があったものの、和田操(航空技術廠長)から「用兵については軍が決める。三菱は黙って軍の仕様通り作ればいい」と議論なく棄却された[16]。
1939年10月、一号機が完成[17]。初飛行は1939年(昭和14年)10月23日、パイロットは志摩勝三。1941年(昭和16年)4月1日、「一式陸上攻撃機」として制式採用された[18]。 このG4M1爆撃機が量産に入る以前に、重護衛戦闘機型を制作することが試みられた[19]。この爆撃機の量産は1940年に開始され、量産1号機は1941年4月に生産ラインを離れた。
太平洋戦争開時、九六式陸攻と協同して台湾からフィリピンのアメリカ陸軍航空基地を攻撃し、B-17爆撃機を含む爆撃機兵力を壊滅させている。また、やはり九六式陸攻と協同して、マレー沖でイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈する(マレー沖海戦)など、太平洋戦争初期に活躍した。
情勢の変化に適応できた特殊潜航艇(甲標的)
−攻撃兵器から防御兵器へ−
中 村 秀 樹
http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200503/05.pdf
はじめに
あては外れるものである。日本海軍が米海軍に対抗し得るはずだった唯一絶対の漸減邀
撃艦隊決戦構想は、日本海軍自らが実証した航空兵力の優越性によって崩壊した。
ハワイ、マレー沖で航空機の優位を見ても、戦艦中心の考えの抜けきらなかった日本海
軍に対し1、真珠湾で太平洋艦隊の戦艦全てを撃沈破された米海軍は、やむを得ず残った空
母と潜水艦を活用した。それは日本海軍同様、戦前の艦隊決戦主義とは違った用法であっ
たが、絶大な効果を上げ、今日空母と潜水艦が海軍の主力となる基礎となった。機に臨み
変に応じることなく、既存の用兵思想を払拭できないまま頽勢に陥った日本海軍とは対
伊四百型潜水艦
ページ
ノート
その他
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊400型潜水艦
I400 2.jpg
艦級概観
艦種 一等潜水艦
艦名 イ400、イ401、イ402
前級
次級
性能諸元
排水量 基準:3,530トン 常備:5,223トン
水中:6,560トン
全長 122m
全幅 12.0m
吃水 7.02m
機関 艦本式22号10型ディーゼル1,925馬力4基2軸
水上:7,700馬力
1,200馬力モーター2基
水中:2,400馬力
速力 水上:18.7kt
水中:6.5kt
航続距離 水上:14ktで37,500海里
水中:3ktで60海里
燃料 重油:1,750トン
乗員 157名
兵装 40口径14cm単装砲1門
25mm3連装機銃3基
同単装1挺
53cm魚雷発射管 艦首8門
魚雷20本
航空機 特殊攻撃機『晴嵐』3機
(四式一号一〇型射出機 1基)
備考 22号電探1基、13号1基
安全潜航深度:100m
連続行動時間:約4ヶ月
アメリカ本土に回航されて技術調査中の伊四百潜水艦。本型は軽巡洋艦なみの14cm主砲を後部甲板に装備していた。向かって右に伊十四潜水艦、左に伊四百一潜水艦も写っている。
M6A 晴嵐
伊四百型潜水艦の飛行機格納筒
格納筒の前で撮影された伊四百の士官
伊四百型潜水艦[1](いよんひゃくがたせんすいかん)は、太平洋戦争中の大日本帝国海軍の潜水艦の艦級。特殊攻撃機「晴嵐」3機を搭載し、「潜水空母」とも俗称される。別名潜特型(せんとくがた)とも呼ばれる。なお、本型の計画縮小の補填として、巡潜甲型を改造した伊十三型潜水艦があり外形が似ている。
概要
3機の特殊攻撃機『晴嵐』が搭載可能であり、潜水空母(せんすいくうぼ)とも俗称される。第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で最大で、その全長はアメリカ海軍のガトー級を27メートル上回る。通常動力型潜水艦としては、2012年に竣工した中国人民解放軍海軍の032型潜水艦(水上排水量3,797t、水中排水量6,628t)に抜かれるまでは世界最大であった。
理論的には、地球を1周半航行可能という長大な航続距離を誇り[2]、日本の内地から地球上のどこへでも任意に攻撃を行い、そのまま日本へ帰投可能であった。大柄な船体(排水量3,350tは軽巡洋艦夕張と比較してなお大きい)を持つが水中性能は良好であった。急速潜航に要する時間は1分である。
同型艦3隻が就航したが、いずれも大きな戦果をあげる前に終戦を迎え、連合国は日本の降伏までその存在を知らなかった[3]。終戦直後にアメリカ軍が接収する際、その大きさにアメリカ軍士官が驚愕したという逸話が残っている。
伊四百、及び伊四百一はアメリカ軍による調査の後、自軍で使用することも検討していたが[2]、ソビエト政府代表からの検分の要請があった直後、ソビエトへの情報漏洩を恐れて[4]ハワイ沖で魚雷によって海没処分となった。
処分後、その詳しい位置は記録されていなかったが、アメリカの調査家による10年来の海底調査により[2]、2005年3月に伊四百一が、2013年8月に伊四百が発見され、海上保安庁により2015年8月に伊四百二[5]が海底から発見された。
専門家によれば、伊四百型潜水艦はそれまで対艦兵器としか見なされていなかった潜水艦の用途を一変させ、第二次大戦後の潜水艦の設計・運用姿勢に大きな影響を与えた結果、核の時代の弾道ミサイル発射能力を持った潜水艦に行き着いたという[6]。実際、戦後にアメリカ軍が浮上後の潜水艦からパルスジェットミサイルの発射実験を行った潜水艦が酷似した形をしていた[4]。
経緯
航空機搭載可能潜水艦
第一次世界大戦後、日本海軍はドイツが制作した小型水上偵察機をもとに横廠式一号水上偵察機(潜水艦搭載偵察機)を開発した[7]。昭和初期、日本海軍は「潜水艦を敵艦隊監視、追揮躡触接に用いる」という用法をおおむね確立[7]。
潜水艦への小型水偵搭載は、潜水艦の偵察能力強化(監視能力強化)につながっていた[7]。 これら航空機搭載可能潜水艦(伊号第五潜水艦、伊号第十二潜水艦など)に搭載する機体は九六式小型偵察機や零式小型水上偵察機といった、通常の潜水艦作戦における索敵用のものであった[7]。
一方、特型潜水艦(後述)に求められたのは当初には彗星艦爆の搭載であり、それが実際的でないとされたため、特殊攻撃機晴嵐を新たに開発することになった。設計当初、晴嵐はフロートを装着せず非水上機として運用される予定だった(この場合、機体の回収は不可能になり、使い捨てとなる)。純爆撃・攻撃用途の飛行機を戦略的に運用することを計画上の主目的とした点で、従来の専用小型水偵を偵察目的として搭載した潜水艦とは、完全に一線を画している。
開発
太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)1月、鈴木義尾軍令部第2部長から艦政本部に対し「新型潜水艦」について照会があった[8]。同年5月、水上攻撃機2機(昭和19年初頭、3機に改訂)・航続距離三・三万浬・連続行動可能期間四ヶ月以上という特型潜水艦の艦型が決定した[8]。この特型潜水艦が伊四百型潜水艦であり、水上攻撃機が晴嵐である[8]。後日、黒島亀人軍令部第二部長(昭和17年当時は聯合艦隊先任参謀)が藤森康男中佐(軍令部部員)に語ったところによれば、構想そのものは山本五十六(太平洋戦争前半の聯合艦隊司令長官)に依る[8]。山本はアメリカ東海岸での作戦に伊四百型を投入することを企図しており、戦史叢書「潜水艦史」では『常に、米国に直接脅威を与えるような作戦を考えていた山本長官の戦略思想からみれば、あり得ることであろう。』としている[8]。
ミッドウェー海戦後の同年6月20日、聯合艦隊司令部(旗艦大和)において関係者の研究会がおこなわれ、従来の既定計画軍戦備を根本的に修正することになった[9]。これが改D計画である[9]。同計画では潜水艦139隻建造することになったが、この中に特型潜水艦(基準排水量3,530トン、速力19.6ノット)18隻の建造が含まれていた[10]。(設計番号はS50)。計画隻数18隻中、2隻は旗艦設備を、2隻は予備旗艦設備を持つ[8]。搭載魚雷数は、旗艦18本、通常型は22本[8]。だが、戦局の移行と共に計画は次第に縮小される。1943年(昭和18年)10月15日附の軍令部商議により、特型潜水艦(伊四百型)は5隻に減らされた[11]。最終的に3隻(伊400、伊401、伊402)が完成した[10]。
完成
建造計画の縮小を補うため、1隻当たりの搭載機数が3機に増加されたうえ、建造途中の甲型潜水艦を晴嵐2機搭載可能な潜水空母に改造した(伊十三型潜水艦:伊十三、伊十四)。
伊四百型の建造目的は、元々はアメリカ本土攻撃である[2]。立案は山本五十六であり南アメリカ南端を通過してアメリカ東海岸を攻撃目標としていた[2]。スミソニアン航空宇宙博物館の近代軍用機担当学芸員ディック・ダーソは、「アメリカ東海岸を隠密裏に攻撃するよう特殊設計されており、おそらくワシントンD.C.やニューヨーク市を標的としていたものと考えられる」としている。そのため、建造要綱として33000海里の航続距離が要求された。長大な航続距離は船体の大型化に拍車をかけた[2]。当初は『晴嵐』の搭載数は2機であったが、伊四百型の建造数が当初の18隻から10隻に削減されたことより(後で更に建造数は削減された)、急遽3機に変更要請された。すでに伊400においては建造が開始されていたため、格納筒を後部へ10m延長するとともに『晴嵐』の仕様を一部変更する、格納扉にくぼみを設ける、弾薬庫と対空火器の位置を変更する、などの設計変更で3機の搭載を可能とした[2]。
しかし、1945年5月にドイツが降伏したことで大西洋方面の英米艦隊が太平洋に移動してくることが予想されたため、攻撃目標はアメリカ東海岸からパナマ運河のゲートに変更された。運河のゲートを破壊することによってガトゥン湖の水を溢れさせようという計画であったため、『晴嵐』には魚雷の装備が要求された。伊400完成後、パナマ運河を念頭においた訓練が開始された[2]。『晴嵐』の組み立ては、飛行機に不慣れな乗員が行っていたため、3機の『晴嵐』を発射するのに当初は半日近くかかったが[2]、訓練後には15-20分程度で3機の射出が完了するようになった。しかし、その頃には既に大半の英米艦艇は太平洋に移動済みであり、今さらパナマ運河を破壊しても戦略的意義が無いということで、再び攻撃目標が変更されて最終的にはウルシー泊地への特攻計画となった(『晴嵐』を体当たり特攻機として使用し、回収しない計画)[2]。
構造
晴嵐
ページ
ノート
その他
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
愛知 M6A 晴嵐
M6A1.jpg
用途:攻撃機
分類:特殊攻撃機
設計者:尾崎紀男
製造者:愛知航空機
運用者:大日本帝国の旗 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1943年
生産数:28機
運用状況:戦闘前に終戦
表示
晴嵐(せいらん)は、大日本帝国海軍が第二次世界大戦中に開発した水上攻撃機。設計生産は愛知航空機、略符号はM6A1[1]。
伊四百型潜水艦による戦略爆撃の目的で開発された、小型軽量の急降下爆撃が可能な潜水艦搭載用の水上攻撃機(海軍での分類は特殊攻撃機)。昭和18年(1943年)11月に初号機完成。だが1944年9月でも実験飛行の段階だった[2]。第六三一海軍航空隊(1944年12月15日編制)で運用された[3]。
概要
開発経緯
第一次世界大戦以降、日本海軍は小型水上偵察機を搭載した潜水艦を建造した(潜水艦搭載偵察機)[4]。昭和初期、日本海軍は「潜水艦を敵艦隊監視、追揮躡触接に用いる」という用法をおおむね確立[4]。潜水艦への小型水偵搭載は、潜水艦の偵察能力強化(監視能力強化)につながっていた[4]。
太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)1月、鈴木義尾軍令部第2部長から艦政本部に対し「新型潜水艦」について照会があった[5]。同年5月、水上攻撃機2機(昭和19年初頭、3機に改訂)・航続距離三・三万浬・連続行動可能期間四ヶ月以上という「特型潜水艦」の艦型が決定した[5]。この特型潜水艦が伊四百型潜水艦であり、水上攻撃機が晴嵐である[5]。米国東海岸で作戦を意図しており、黒島亀人軍令部第2部長が語ったところによれば、構想そのものは山本五十六(当時、聯合艦隊司令長官)に依る[5]。 同年6月30日の改D計画で特型潜水艦(基準排水量3,530トン、速力19.6ノット)18隻の建造が含まれていた[6]。だが戦局の悪化にともない1943年(昭和18年)10月15日附の軍令部商議により、特型潜水艦(伊四百型)の建造隻数は5隻に減少[7]。最終的に竣工した特型(伊四百型)は3隻(伊400、伊401、伊402)だけだった[6]。 太平洋戦争後半、伊四百型に搭載する晴嵐の機数は、2機から3機に増やされた[5]。同時に、伊十三型潜水艦も搭載機を「偵察機1」から「攻撃機2」に変更することになり、改造計画を実施した[8]。
試製晴嵐
晴嵐は伊四百型潜水艦(のちに伊十三型潜水艦をも加える)を母艦として、浮上した潜水艦からカタパルトで射出され、戦略的な目的での攻撃に使用されるために計画された特殊攻撃機である[5]。最大速度時速474km(250ノット)・フロート投棄時560km、低翼単葉双浮舟、複座、航続距離166ノットで642浬、兵装は13mm旋回機銃1と250kg爆弾1[5]。
「潜水空母」伊四百型潜水艦に搭載するため、愛知航空機において母艦と同時期に開発に着手され、昭和18年11月に試作第一号機が完成した。九一式魚雷改三による雷撃、または250キロ爆弾(4個まで搭載可能)、または800キロ爆弾による水平および急降下爆撃が可能であった。
実戦における攻撃時には、エンジン出力の関係から大型爆弾の場合はフロートを装着しない仕様になっており、攻撃後は艦近くの海面に着水、又は搭乗員を落下傘降下させ乗員のみを収容する予定だった。この場合の機体の回収は無論不可能である。一方、潜水艦には予備魚雷と予備爆弾が装備され、状態によって再出撃も可能であった。ただし、唯一にして最後の出撃時は特攻が予定されていた(後述)。
折り畳み図
晴嵐は伊四百型の飛行機格納筒に納めるため、主翼はピン1本外すと前縁を下に90度回転して後方に(鳥が歩行時に羽を胴につけているイメージ)・水平尾翼は下方に、垂直尾翼上端は右横に折りたためる[9]。フロートは取り外されているが、機体近くに置かれており短時間で装着できるようになっている。また、暖機のかわりに、加温した潤滑油・冷却水を注入できるなどの工夫で、作業開始後約3分以内で発進可能と言われている。伊四百型は晴嵐を3機搭載でき、潜水艦搭載時には既に雷装、爆装していた[10]。ただし、飛行機格納筒の一番奥に収納された3番機は潜水艦甲板上での整備スペースが限られているため、1番機・2番機の整備および射出完了後に、発進諸準備を開始する[10]。このため2番機発進後、20分後に射出予定だった[10]。 また(1番機)3分で発艦可能と言っても、実際には搭乗員・整備士の技量による。搭乗員の淺村敦によると、最初のうちは3機発進完了まで20分以上かかっていたが、最終的には十数分に縮められたとの事。特に母艦自体が上下に動振しているため発艦のタイミングが難しく(艦首が下を向いている時に発艦すると、機体が海面に突っ込む事となる)、射出指揮官が慎重に判断した。このように発艦には危険が伴ったので、搭乗員には1回の発艦訓練につき6円の危険手当が加算された。当時の大卒の初任給は60円である。
潜水艦搭載のための折りたたみ構造と高性能を両立させ、またその任務により世界中で(極端な話、北極や南極でも)使用を可能にするためジャイロスコープを装備するなど、非常に『凝った』造りの機体であった上に製造数も少なかったため1機あたりのコストも高く、零戦50機分に相当すると言われた。後述のとおり、本機が海軍の兵器として制式採用されたことを積極的に立証できる法令は存在しない。
南山
試製晴嵐改 (南山)
試製晴嵐を陸上機化した機体も製造され、これを「試製晴嵐改」[法令 1]または「南山」(M6A1-K) という名称で呼んでいた[11]。南山は高速性能に優れるかわり、滑走距離が長かったという[11]。1944年10月、南山は高橋の操縦により魚雷発射実験に成功した[12]。これにより高橋は、晴嵐が雷撃に向いた航空機であると確信したという[13]。晴嵐及び南山は合わせて28機が製造された。計画段階では36機以上生産予定だったが訓練用の機体すら確保できず、空技廠から零式小型水上機2機を借りて六三一空隊員の訓練をおこなった。搭乗員からは「オモチャみたいな飛行機で訓練するのか」と不満が出た[14]。そこで六三四空から瑞雲を借りて訓練を行った[15]。
制式化の状況
航空機を兵器として制式採用するかどうかについて、海軍省では法令の一つである内令兵で命名して施行し周知しているが、晴嵐と晴嵐改はいずれも「試製」の冠称がついた実験機[法令 1]としての扱いに変化が無いまま敗戦を迎えており、実施部隊の認識はともかく省としては兵器に採用する法令を施行していない。
また、1945年(昭和20年)7月に海軍航空本部が調製した「海軍現用機性能要目表」においても、それぞれ「試製晴嵐」「試製晴嵐改」の機名が記されていたとされる[16]。
なお、六三一空で晴嵐テストパイロットを勤めた高橋は、1944年(昭和19年)11月24日に領収(受領)飛行を行い制式採用されたと述べている[17]ほか、終戦後の第六三一海軍航空隊の武器引渡し目録には、「晴嵐一一型」8機、そのうち3機破損と記載されている[18]が、目録上の兵器名表記はいずれも海軍省が施行した内令兵に準拠したものではない。
兵器が制式採用前に実施部隊へ引き渡され運用されるのは二式艦上偵察機[法令 2]、雷電[法令 3]、桜花[法令 4]らの例もあり、晴嵐や晴嵐改が特殊なわけではない。
要目(M6A1)
Aichi M6A1 Seiran 3-view line drawing.svg
乗員: 2名
双フロート式
全長: 10.64 m
全幅: 12.26 m
全高: 4.58 m
主翼面積: 27.0m2
動力: アツタ32型 水冷V12エンジン
出力: 1,400 HP
全備重量: 4,250 kg
最大速度: 474 km/h(フロート未装着時560km/h)
航続距離: 1,540 km
実用上昇限度: 9,640 m
上昇率: 5,000/8'00"
武装: 機関銃 13.0mm旋回機銃×1/800kg爆弾×1(250kg爆弾は4発まで)。または45cm魚雷×1
運用
晴嵐の航空隊は、1944年(昭和19年)12月15日に第六三一海軍航空隊(第六艦隊附属)として開設された[19][20]。さらに、晴嵐は伊号第四百潜水艦(定数3機)、伊号第四百一潜水艦(定数3機)、伊号第十三潜水艦(定数2機)、伊号第十四潜水艦(定数2機)を中核とする第一潜水隊(有泉龍之助大佐)に配備された[21][22]。 有泉大佐は第六三一海軍航空隊司令を兼ねる[21]。潜水艦航空機運用の経験があるのは高橋少尉と鷹野末夫少尉のみで[21]、潜水艦の艦長歴が長い有泉司令は航空戦の経験がなく、福永飛行長は航空・潜水双方の実戦経歴がなく、浅村分隊長は潜水艦経験がなく、山本分隊長は実戦経験がなく、隊の錬度には問題があった[23]。さらに晴嵐の製造メーカーである愛知航空機製作所は、東南海地震、三河地震、B-29による空襲被害で甚大な被害を受けており、晴嵐の定数補充は困難であった[24]。2月の時点で、第631空の戦力は晴嵐6機、瑞雲5機でしかない[25]。
1945年1月、有泉司令は魚雷によるパナマ運河攻撃の研究を命じた[26]。3月下旬から4月上旬にかけて、作戦の検討が進む[27]。呉潜水艦基地隊で、軍令部、第六艦隊参謀を交えた図上演習を実施[27]。4月25日、士官に対し第一潜水戦隊全艦・晴嵐10機(雷撃2、爆撃8)によるパナマ運河夜間攻撃計画が公表された[28]。この段階では通常攻撃だったが、福永飛行長は「飛行機総特攻の時に晴嵐部隊だけ通常攻撃はありえない。全機特攻」と主張し、投下器から爆弾が落ちないよう工作を命じた[29]。結局、全機800kg爆弾を装備した上での特別攻撃隊となった[13]。 しかし戦局の悪化によりパナマ運河攻撃は中止となり、ウルシー環礁の米軍在泊艦船攻撃に目的変更となる[20][30]。6月25日、小沢治三郎海軍総司令長官は、第六艦隊第一潜水隊(先遣部隊)に以下の作戦を発令した[30][31]。
トラックに対する高速偵察機「彩雲」輸送 (光作戦)
使用兵力、伊十三、伊十四。
輸送物件、彩雲4機。7月下旬トラック着を目標に行動。
ウルシー奇襲作戦 (嵐作戦)
使用兵力、伊四百、伊四百一、晴嵐6機。
攻撃時期、7月下旬より8月上旬。次期作戦準備としてシンガポールに晴嵐10機を空輸すべし。
部隊は「神龍特別攻撃隊」と命名された[32][33]。出撃前の壮行会で第六艦隊司令長官醍醐忠重中将は、飛行機搭乗員に短刀を贈っている[33]。この短刀は特別攻撃隊を意味していた[33]。南部(伊四百一潜水艦長)は「有泉司令も私(南部艦長)もこの作戦を特攻であると正式に命じたことはなく、少なくとも私は最後まで生還の手段を講ずるつもりであった。しかし、飛行機搭乗員はどうであったろうか。」と回想している[33]。 また晴嵐には戦時国際法違反を承知で米軍の星マークがつけられ、米軍機と同じ銀色に塗装されていた[34][法令 5]。伊四百搭載晴嵐1号機の高橋は「誰の入れ知恵だかわからなかったが、卑怯で情けない」と評している[34]。7月20日、伊四百と伊四百一は舞鶴を出港し[32][33]、21日[35]もしくは22日に大湊入港[36]。7月23日、大湊を出撃し[35]、8月17日を攻撃予定日として航海を続けた[37]。伊四百一(有泉司令)はマーシャル諸島東を通過する迂回コースをとった[36][38]。 8月14日、伊四百は伊四百一との合流地点に到達したが発見できず、8月15日も待機した[39][40]。一方の伊四百一も僚艦を発見できず、会合地点で待機、8月15日を過ごした[41]。このすれ違いは、有泉司令(伊四百一)が発信した会合地点変更の電信を伊四百が受信せず(南部艦長は伊四百一から電報発信の記憶なし)、伊四百は作戦計画どおりの会合地点に先行していたからであった[40]。 この時点で「神龍特別攻撃隊」は終戦を迎えた[40]。8月16日、第六艦隊司令長官[42]および海上総隊司令長官から作戦中止命令が出る[43]。「晴嵐」が特攻に出撃することはなかった。晴嵐は、エンジン始動状態、翼を折りたたんだまま無人で射出され、洋上廃棄された[44]。伊四百では、3機をわずか10分で組み立てたという[44]。その際に搭乗員のたっての希望により、星マークが塗りつぶされ日の丸が塗装されたとされる。伊四百一では、8月26日に晴嵐・弾薬・秘密書類等を投棄した[45]。有泉司令は艦内で自決した[20]。
現存する機体
修復された機体
戦後に愛知県の工廠にあった機体がアメリカ軍に鹵獲され、性能などの調査の上で、スミソニアン博物館に修繕を施された状態で1機が保存されている。
なお、海軍省では法令上、試製晴嵐を「特殊機(潜水艦用)(AE1P発動機装備/アツタ発動機32型装備)」[法令 6][法令 1]、試製晴嵐改を「試製晴嵐ヲ陸上機トナセルモノ」[法令 1]と明記して周知しており、本機の用途等に関して特に厳しく秘匿していたわけではない。
震電
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
J7W1 震電
連合国軍の命令により外観のみ修復した試作1号機 試作二号機(1945年撮影)
用途:戦闘機
分類:局地戦闘機
製造者:九州飛行機、海軍航空技術廠
運用者:日本海軍
初飛行:1945年8月3日
生産数:1機
運用状況:試作のみ
表示
震電(しんでん)は、第二次世界大戦末期に日本海軍が試作した局地戦闘機である。前翼型の独特な機体形状を持つ、そのため「異端の翼」と呼ばれた。最高速度400ノット(約740km/h)以上の高速戦闘機の計画で、1945年(昭和20年)6月に試作機が完成、同年8月に試験飛行を行い終戦を迎えた。略符号はJ7W1。
歴史
研究開発
機体の3D完成予想図
1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)頃、海軍航空技術廠(空技廠)飛行機部の鶴野正敬大尉は従来型戦闘機の限界性能を大幅に上回る革新的な戦闘機の開発を目指し、前翼型戦闘機を構想し、研究を行っていた[1]。また、1943年(昭和18年)、軍令部参謀に着任した源田実中佐は、零戦が既に敵から十分研究されているであろうと考え、零戦とは別に異なる画期的な戦闘機を求めて高速戦闘機を模索していたが、技術的に提案する知識がなかった。しかし、同じ考えを持つ鶴野正敬技術大尉の存在によって、震電の開発が動き出した[2]。
前翼型飛行機とは、水平尾翼を廃し主翼の前に水平小翼を設置した形態の飛行機である。従来型戦闘機ではエンジン、プロペラ、武装の配置が機体の前方に集中しており、操縦席後部から尾翼にかけての部位が無駄なスペースとなっていた。これに対し前翼機では武装を前方、エンジン及びプロペラを後方に配置することで機体容積を有効に活用でき、前翼自体も揚力を発生させることから(通常機の水平尾翼は下向きに揚力を発生させる)、
主翼をコンパクトにすることが出来、全体的に機体をより小型にすることが可能となる。従って機体が受ける空気抵抗も減少し、従来型戦闘機の限界速度を超えることが可能となる、というのがその基本理論であった[注釈 1]。現実にはライトフライヤー号を始め初期の航空機の多くは推進式であったが、プロペラ同調装置が実用化されると戦闘機でのメリットは薄くなり、牽引式が主流となっていた。
初となる前翼型戦闘機の試みであったが、陸軍は1943年に満州飛行機に対し九九式襲撃機の後継機となる推進式を採用したキ98の試作指示を行っていた。ただしキ98は双胴であり空戦より襲撃機(攻撃機)としての能力が重視され、研究機としての性格も強かった。後に試作機整理の対象となり計画は中止された。
当時は各国でも前翼機の試作は行われていた。代表的な例としてイタリアのアンブロシーニ SS.4(英語版)、アメリカのXP-55 アセンダー、イギリスのマイルズ・リベルラ等が挙げられるが、いずれも実運用に至ったものはなかった。震電の開発に当たっても中には「自然界に無い様な形状のものには何かしらの欠点があるはずだ。鶴野はそれに気づいていないのだ。」という様な意見をもつ者もあった[注釈 2]。しかし、欧米の新型機への対抗という課題の中にあって、原理的に間違いのないものであるならと大方の賛同を得ていた[注釈 1]。
実験用小型滑空機MXY6
1943年(昭和18年)8月、空技廠にて風洞実験が行われる。1944年(昭和19年)1月末、実験用小型滑空機(MXY6)を用いて高度およそ1000m程からの滑空試験に成功し基礎研究を終えた[注釈 3]。既に高高度爆撃機の本土来襲を予測していた海軍は、翌2月には試作機の開発を内定。実施設計及び製造を行う共同開発会社として、当時、陸上哨戒機「東海」の開発が完了し、他の航空機会社に比べ手空きであった九州飛行機が選定され、空技廠からは鶴野大尉らが技術指導のため同社へ出向した。
要求性能を決定する際、用兵者側から空戦フラップの装備を要求する声があったが、航空技術廠飛行機部、科学部はその効果を疑問視して巴戦を避け、アメリカ軍のP-51やP-38と同じく高速性を生かした一撃離脱戦法をとる意見であった。軍令部参謀の源田実中佐からも「400ノット以上の高速戦闘機が欲しいからこれをやるのであり、あまり付帯要求を出しすぎて速度が落ちるようなことがあってはならぬ」という指導的意見があり、鶴野正敬は要求性能をまとめられた[3]。
海軍では1943年に雷電が初飛行していたが一部の問題が解決されておらず生産数は少なかった。このほかに1939年頃から雷電の後継機として、ハ43を採用した推進式の局地戦闘機閃電の計画が存在し三菱重工業で開発が行われていた。閃電は最高速度 750 km/h以上、上昇力は高度 8,000 mまで10分、武装は機関銃を30 mm ×1と20 mm×2、爆弾を二個搭載という要求を満たすため、機体形状はスウェーデンのサーブ 21のような単発中翼双胴を予定していた。三菱にとって開発経験の無い機体だったことから問題対処に時間がかかっている間に震電の計画に見通しが付いたため、機種整理の対象となり1944年7月に試作中止となった。
試作
1944年(昭和19年)5月、の連合軍の大型爆撃機の迎撃を最大の目的として、十八試局地戦闘機震電が正式に試作発令される。当初、海軍の要求は1944年の4月から製図に取り掛かり、同年末には機体を完成させよというものだった。このため、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島、種子島、熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員し体制を整えた。その数は最盛期には5万人を超え、量産に移った際には月間300機の生産を可能とする目算が立っていた。また資材については、将来的に比較的余裕のある鉄で作る事を考えよとの要求もあった[注釈 4]。
1944年6月16日未明、本土北九州方面八幡に初のアメリカ軍のボーイングB-29来襲。開発班は撃墜機を実地見学。
1944年11月、技術者を集結させた九州飛行機は通常1年半は掛かる製図作業をわずか半年で完了。約6000枚の図面を書き上げる。同月ヘンシェル社のドイツ人技師、フランツポールが訪問。指導により大量生産を考慮した改造図面の作成に着手。
1944年12月から1945年(昭和20年)1月にかけて、震電への搭載が予定されていた「ハ四三」四二型発動機の開発にあたっていた三菱重工の名古屋工場が、断続的に行われたアメリカ軍のB-29の空爆により再起不能の壊滅的な被害を受ける。開発の大幅な遅延に繋がる。
1945年3月、大刀洗飛行場へのアメリカ軍のB-29の空爆爆撃を受けて、現在の筑紫野市原田へと九州飛行機は工場の疎開を決定。部品の運搬は牛車で夜中に行われた。
1945年6月、1号機が完成し蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運搬。翌7月完工式。鶴野自身による滑走試験中、機首を上げ過ぎたために、プロペラ端が地面に接触して先端が曲がってしまう。この後、プロペラを試作2号機用の物と交換、機首上げ時にプロペラが接触しないよう側翼の下に機上作業練習機白菊の車輪が付けられた。(量産機では主脚の接地位置をうしろにずらし、垂直尾翼の下に車輪は付けない予定であった)
1945年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し三菱重工へ連絡をとって部品を取り寄せている最中に終戦となった。
特徴
後部のプロペラ
最大速度400ノット(約740km/h)以上目標として開発されたため、機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した前翼型(エンテ型)[注釈 5]の設計とするなど、速度性能を追求した設計となった。
酸素魚雷(さんそぎょらい)
とは燃料の酸化剤として空気の代わりに、空気中濃度以上の酸素混合気体もしくは純酸素を用いた魚雷である。
日本において単に酸素魚雷といった場合、第二次世界大戦中、唯一実用化され運用された大日本帝国海軍の九三式魚雷もしくは九五式魚雷を指すことが多い。本項では、大日本帝国海軍の酸素魚雷を主題として述べる。
ロング・ランス(Long Lance、長槍)という愛称も知られているが、これは戦後にサミュエル・モリソンがつけた物である。
概要
第一次世界大戦以後の魚雷の推進動力は、燃料と酸化剤である圧縮空気を搭載してエンジンを回す内燃機関型(熱走式)と、電池による電気モーター型(電気式)に大別される。前者は高速かつ長射程(航続力大)だが、多量の排気ガスの気泡が魚雷の航跡に明瞭な白線(雷跡)となって浮かび上がり、魚雷の存在も、撃ってきた方位も露見しやすい欠点がある。後者は雷跡が無いが、熱走式に比して出力が低く速力・射程とも劣ると、一長一短がある。(大戦時ドイツのG7の経緯なども参照)
酸素魚雷は熱走式で圧縮空気に替えて純酸素を使用したものである。これにより排気ガスの成分はほぼ炭酸ガスと水蒸気のみとなる。蒸気は言うに及ばず炭酸ガスも海水によく溶けるため、酸素魚雷は雷跡をほぼ引かないという、電気式に準じる隠密性が特徴である。また、通常の熱走式よりも燃焼効率が大きく向上したことで速力(雷速)・航続力もさらにパワーアップした。純酸素の使用で多くの利点が得られることは広く知られていたが、激しい燃焼反応のため機関始動時などに容易に爆発するという技術上の問題点が立ちふさがっていた。
そうした中、日本は1933年(昭和8年)、世界に先駆け酸素魚雷の開発に成功。以降、大戦を通じて唯一の酸素魚雷運用国となった。実用化にこぎつけたのは日本以外ではイギリスのみであった。そのイギリスも、純酸素ではなく、酸素を増加した、空気魚雷と酸素魚雷の中間のようなものである[注 1]。
酸素魚雷は当時の他国魚雷の水準に比して、雷速と炸薬量で優り、射程は数倍、加えて航跡の視認が困難という高性能なもので、それによって戦争で連合軍の艦艇は多くの損害を被り、1943年に鹵獲されるまで連合軍は魚雷について知らなかった。一方で、酸素魚雷の整備性は良好とはいえず誤爆を防ぐために充分なメンテナンスを要し、また、速すぎる雷速の為、船底爆破用の磁気式の信管が使用できず、接触式信管を採用せざるをえないなどの短所もあった。後に日独技術交換により大日本帝国海軍からドイツ海軍へも試験供与されたが、戦略的位置付けの違い[注 2]もあり、整備性の悪さなどからUボートでの使用には適さないと判断され、採用されていない。
考)日本海軍の使用した通常魚雷、及び各国の魚雷の性能は以下の通り
通常魚雷各型の要目
名 国 全長 直径 重量 名 射程 弾道重量 備考
九〇式空気式魚雷
(艦艇用) 日本 8.5m 61p 2,500s 10,000m(42Kt時)
7,000m(46kt時) 400s 睦月型から初春型までの駆逐艦以下の艦艇に搭載
九一式魚雷改二
(航空用) 5.47m 45p 838s 2,000m(42Kt時) 204s 主力航空魚雷 改二は1939年以降のモデル
九一式魚雷改五
(航空用) 5.27m 848s 1,500m(41Kt時) 235s 1943年から量産された最終モデル
21インチ・マーク[
(潜水艦用) イギリス 6.579m 53.3p 1,566s 13,700m(35Kt時)
10,000m(41Kt時) Torpex 365 kg
21インチ・マーク\
(艦艇用) 5.27m 1,693s 13,700m(35Kt時)
10,050m(41Kt時)
18インチ・マークXV
(航空用) 5.251m 45p 817s 3,200m(33Kt時)
2,290m(40Kt時) Torpex 247 kg
Mk10(潜水艦用)
アメリカ 4.953m 53.3p 1,005s 3,200m(36Kt時) TNT 225 kg
or Torpex 220 kg
Mk12(艦艇用) 6.88m 1,590s 13,700m(27.5Kt時)
9,144m(35.5kt時)
6,400m(44kt時) TNT 226.8 kg
Mk13(航空用) 4.191m 56.9p 1,005s 3,660m(33.5Kt時) TNT 274 kg
or TPX 275 kg
or HBX 272 kg
Mk14(潜水艦用) 6.25m 53.3p 1,490s 8,200m(31Kt時)
4,100m(46kt時) TPX 303 kg
陸軍機動艇
陸軍機動艇について
http://www.tokusetsukansen.jpn.org/J/A111/index.htm
陸軍機動艇にはSS艇とSB艇があります。昭和20年5月現在の区分は「輸送用舟艇」で主体類別は「一類」、取扱区分は「秘密」でした。(JACAR: C01007870400)
SS艇は陸軍が開発した揚陸艦で試作艇「蛟龍」が昭和17年1月26日株式會社播磨造船所で進水、次いでこれを改良した「蟠龍」が昭和18年5月17日に進水しました。この「蟠龍」をタイプシップとして第三船「海龍」以降20隻が建造されました。これらは計画造船の中でE型戦時標準船として組み込まれたためES船と呼ばれることもありました。この他に香港で4隻が建造されましたがいずれも建造中止となりました。「蛟龍」は当初船舶扱いであったらしく「蛟龍丸」として船舶番号と信号符字が付与されております。
SB艇は海軍の二等輸送艦と同じものです。
昭和19年6月1日付で24隻、同年9月5日付で11隻、合計35隻の特設輸送艦が陸軍に配分されました。このうち2隻は終戦までに完成しませんでした。また、昭和19年9月5日付で10隻、昭和20年1月25日付で3隻が海軍に移管され二等輸送艦となりました。第1547号艦は竣工と同時、第1510〜1515号艦は竣工前に海軍に移管されたため陸軍機動艇としては就役しておりません。従って、合計26隻のSB艇が大東亜戦争中に就役していたことになります。残念ながら現在のところ特設輸送艦の艦名と機動艇の艇名の対応は一部を除き不明です。また、SB101など数隻は同名艇があり、SB120などの欠番もあるので注意が必要です。
陸軍機動艇の諸元
ここをクリックして下さい。
第2次戦時標準船
増大する船舶被害に造船が追いつかなくなり、建造期間の短縮および資材の節約を目的として第2次戦時標準船が建造されることとなった。
ブロック工法も用いて約1ヶ月で建造が可能な2E型が東京造船所・播磨松の浦・三菱若松・川南深堀の 4造船所を中心に471隻生産された。 二重底や隔壁の廃止、簡略化のため抵抗が大きく、速力や燃費の面で不利な船型、故障しやすい低出力の機関により、カタログスペック上でも7から8ノット程度しか出ない上に、燃料の粗悪によりそれ以下の低速しか発揮できないことも多く、潮流の早いところでは流されて座礁することすらあり[注 2]、粗悪な鉄板が使われるなど、粗製濫造といわざるを得なかった。
第2次以降に建造された戦時標準船の耐用年数は、すぐに撃沈されるだろうという想定から「機関1年・船体3年」とされ、鋼材の質の低下や舷側鋼板の薄肉化により強度が低下し、座礁しただけで大破沈没した船舶[注 3]や、ボイラーの爆発[5]など重大事故を起こした船舶もある。「轟沈型」とのあだ名さえあった。なお、これらの第2次戦時標準船は終戦時に残存していた船舶のおよそ4分の3を占めていたが、あまりの粗製乱造ぶりに驚いたGHQによって運用を禁止され、一部の大型船[注 4]を除いて、戦後の復員輸送には一切使われなかった。残った船の中にも、煙突や上構を全て撤去して新造し、機関を換装する[注 5]などの改装が施された。
2A型(6,600トン、三連成レシプロor蒸気タービン、レシプロ9.0ノット・タービン10.0ノット、13.0ノット)
1A型と1B型を統合したものとして三菱重工業長崎造船所で設計。95隻が計画され、90隻が建造された。
2D型(2,300トン、レシプロor蒸気タービン、9.0ノット、11.0ノット)
1C型と1D型を統合したものとして日本鋼管鶴見造船所で設計。116隻が計画され、104隻が起工。戦後に完成したものや、箕面等海軍籍の2隻を含めて98隻が竣工した。1D型と同様に、30tデリックを1基、5基の5tデリックを搭載している[3][4]。
2E型(870トン、ディーゼルor焼玉orレシプロ、ディーゼルor焼玉8.0ノット・レシプロ7.5ノット、ディーゼルor焼玉9.0ノット・レシプロ8.8ノット)
1E型と1F型を統合したもので、新設の小造船所でも量産できる海上トラックとして浦賀船渠で設計。3E型や戦後に完成したものを含む496隻が計画され、468隻が起工。463隻が竣工した他、戦後に建造続行船として8隻が建造された。専用の建造造船所まで作られ、デリックの有無、機関の違いにより複数のバリエーションがある。
2TL型(10,100トン、蒸気タービン、13.0ノット、15.0ノット)
1TL型と1TM型を統合したもので、三菱重工業長崎造船所で設計。36隻が計画され、34隻が起工。29隻が完成した。うち、特2TL型へ2隻が計画変更された。輸送効率の観点から1TL型と同じ大きさとなったが、造機能力の不足により速力が低下したため、艦隊随伴給油用としては考慮されなかった。
2TM型(2,820トン、蒸気タービン、9.5ノット、11.5ノット)
1TS型の後身、パレンバンとシンガポールの間の油輸送を目的として三菱重工業横浜造船所で設計。47隻が計画され、42隻が起工。戦後に完成したものを含め40隻が竣工した。
2AT型(6,600トン、三連成レシプロor蒸気タービン、レシプロ9.0ノット・タービン10.0ノット、13.0ノット)
タンカーの不足により2A型を転用した応急タンカーで、三菱重工業長崎造船所で設計され、35隻が建造された。
2ET型(870トン、ディーゼル、7.0ノット、9.6ノット)
2TM型の生産が追いつかないため、2E型を転用した応急タンカーで、播磨造船所で設計。戦後に完成したものを含めて138隻が建造された。うち初期に建造された32隻は2E型として建造中の物を改造転用したもので、こちらは改E型油槽船と呼ばれる。
奮龍 (ミサイル)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
奮龍
種類 地対空ミサイル
原開発国 大日本帝国の旗 大日本帝国
運用史
配備先 大日本帝国の旗 大日本帝国
開発史
製造業者 海軍技術研究所
諸元
重量 二型:370 kg
四型:1900 kg
全長 二型:2.4 m
四型:4.0 m
直径 二型:30 cm
四型:60 cm
信管 近接信管
エンジン 二型:固体燃料ロケット
四型:特呂二号原動機
推進剤 二型:ダブルベース火薬
四型:80%過酸化水素と80%水化ヒドラジンとメタノール
誘導方式
二型:手動指令照準線一致誘導方式
四型:Track-via-missile(英語版)
テンプレートを表示
奮龍(ふんりゅう)は、1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)にかけて、大日本帝国海軍が開発していた地対空ミサイルである。
開発
1944年(昭和19年)初め、高度10,000 mを飛行可能なアメリカのB-29に対抗するために、海軍艦政本部第四部(造船部、船体設計担当)の吉田技術少佐が発案した。7月2日に、第四部首脳陣に対する「自動追尾噴進弾」の説明会が行われた。第一部(砲、火薬担当)の協力を得ることは困難だったため、第四部は艦政本部の研究機関である海軍技術研究所に吉田少佐が通う許可を与え、本格的に開発が始まった[2]。
わずか10ヵ月後の1945年(昭和20年)4月25日には、高松宮宣仁親王臨席の元、浅間山で特型噴進弾二型の最初の発射実験が行われた[3]。
この時は無誘導で発射され、飛行特性が調べられた[4]。2回目以降は無線操縦装置を備えて実施され、二型は、目視による無線操縦により左右旋回を繰り返した後に目標地点に20m離れた場所に着弾し、命中しなかったものの2回目の試験は成功と看做された[2]。その後、十数基の試作弾が試験され、6月中旬には宣仁親王の裁可によって、特型噴進弾四型に「奮龍」の愛称が付けられた[3]。
7月の試験でも無線操縦に沿って良好な機動性を示したが、速度が遅く左右へ振動する欠点が指摘された[3]。四型は伊豆半島の施設で三菱と空技廠の技術者によって設計され、より先進的な誘導装置を備え、ロケットエンジンは、長崎兵器製作所で桜花に搭載する予定で開発されて不採用となった液体燃料ロケットエンジン「特呂二号原動機」を流用し、燃焼室を改良することで実用化の目途をつけた[2]。他の部品の完成を待って、8月16日に四型の最初の発射実験(エンジンの地上試験という説もある)が計画されたが、8月15日の終戦までに液体ロケットエンジンは組み立て場に届かず、試作は中止。一切の資料は焼却処分された[2]。
設計
誘導装置の予備実験として「特型噴進弾二型」(奮龍二型)を製作し、本命の「特型噴進弾四型」(奮龍四型)を実用化する予定であった[2]。
二型と四型の誘導装置の研究開発には、「テレビの父」高柳健次郎と、日本放送協会が関わっている[5]。この時のVHFによる誘導ビーコン送受信技術が、後のテレビジョン実用化へと?がっている。また、後に日本電子を設立する風戸健二達も開発に参加していた[5]。
奮龍一型
地対艦誘導弾の「特型噴進弾一型」(奮龍一型)が計画され、誘導装置は手動指令照準線一致誘導方式だった。弾頭は882 lb (400 kg)で一式陸上攻撃機からの投下試験が実施された。
奮龍二型
「特型噴進弾二型」(奮龍二型)はダブルベース火薬の固体燃料ロケットで、全長2.4 m、本体直径30 cm、全重量370 kg、最高速度525 mph (845 km/h)、到達高度は5,000 mであった[6][7][8]。風洞実験の結果、選定された機体形状は円筒で中央にエレボンを備えた4枚の木製の主翼があり、後部にも4枚の安定翼を備える[9]。80°の角度で発射され、エンジンの推力は240 kgf (2.4 kN)で3.5秒間作動する[4]。誘導装置は、弾頭の後部にジャイロスコープ2基とサーボ機構を搭載し、サーボモータに連動する十字翼で飛行中の誤差を自動修正するようになっていた[3][4]。
奮龍三型
「特型噴進弾三型」(奮龍三型)は二型を基に液体燃料ロケットエンジンを備えた対空誘導弾で構想のみで実機は製造されなかった。
奮龍四型
「特型噴進弾四型」(奮龍四型)は80%過酸化水素と80%水化ヒドラジンとメタノールを推進剤に用いる推力1,500 kgf (15 kN)で120秒間作動する特呂二号原動機を備える液体燃料ロケットで全長13.1 ft (4.0 m)、本体直径24 in (61 cm)、全重量4,190 lb (1,900 kg)、最高速度l,099km/h、到達高度は15,000mであった[7]。四型では誘導装置としてビームライディングの一種であるTVM式誘導装置が搭載され、1,000MHz帯の5チャンネルが使用され、4チャンネルはピッチ軸とロール軸の制御で第5チャンネルは指令爆破用だった[4][10]。四型も二型と同様に弾頭の後部にジャイロスコープ2基とサーボ機構を搭載した。エレボンを備えた2枚の主翼と2枚の安定翼はサーボモータに連動して飛行中の誤差を自動修正するようになっていた[3][4]。エンジンの推力が計算上不足していたので45°の角度で発射され、空気力学的な効果で揚力を発生するようになっていた[4]。
仕様
型式 奮龍二型 奮龍四型
全高 2.4 m 4.0 m
直径 0.3 m 0.6 m
重量 370 kg 1900 kg
推進剤 ダブルベース火薬 80%過酸化水素
80%水化ヒドラジン
メタノール
最大速度 240m/秒 305m/秒
エンジン 固体燃料ロケット 特呂二号原動機
推力 2,400 kgf (24 kN) 1,500 kgf (15 kN)
エンジン
作動時間 3.5秒 120秒
到達高度 5,000 m 15,000 m
射程 ? 30,000 m
弾頭 50kg 200 kg
ロケット砲
四式二〇糎噴進砲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
四式二十糎噴進砲
Japanese Type 4 20 cm Rocket Mortar with a 20 cm shell.jpg
靖国神社の展示[1]
種類 ロケット砲
原開発国 大日本帝国
運用史
配備期間 1944-1945
配備先 War flag of the Imperial Japanese Army.svg大日本帝国陸軍
関連戦争・紛争 第二次世界大戦
諸元
重量 227.6kg
銃身長 1.923m
砲弾 83.7kg
口径 203 mm
仰角 40° ? +65°
初速 175 m/秒
最大射程 2,500m
テンプレートを表示
四式二十糎噴進砲(よんしき20せんちふんしんほう)とは、大日本帝国陸軍が1944年(皇紀2604年)に制式化し、第二次世界大戦末期に使用した口径203mmの噴進砲(ロケット砲)である。硫黄島の戦いや沖縄戦で使用され、簡易な造りで敵に大きな被害を与えられることから本土決戦の切り札としても期待されていた。
開発経緯
陸軍では昭和18年(1943年)7月に中迫撃砲以上の通過が困難な地形における急襲兵器として噴進砲の研究を開始した[2]。砲弾は第7陸軍技術研究所が7月に試作した二十糎噴進榴弾を使用し、発射機は船舶搭載用と合わせて設計を開始した。発射機は高射角・低射角の2種類を試作して射程を比較することとし、8月に大阪陸軍造兵廠に試作注文した。9月には噴進榴弾の秘匿名称として「ろ弾」という名称が与えられ、開発中の発射機の名称も試製二十糎ろ弾発射機I型と変更した。同時に船載用のものはII型として陸上用と区別された。試験は10月より開始し、発射機として高射角のものを採用することが決定した。更に操作を容易にするために装填板を廃止し上蓋式に改め、砲身の接続はねじ式とする等の改修を行った。12月に修正機能の抗堪試験と射表の編纂試験を実施し、実用性が十分であると認められた。また同時に実施された砲身を接続しない短砲身の状態での試験では噴進炎(バックブラスト)により水平器や照準眼鏡を破損するなど影響が大きく、また駄載が困難であることから不採用とした。昭和19年(1944年)1月に陸軍野戦砲兵学校に試験を委託し、実用に適するとの判決を得た。なお「ろ弾発射機」なる名称では部隊編成に不都合であることから名称を「噴進砲」に改め、本砲を以後「試製四式二十糎噴進砲」と呼称することとなった。この後若干の修正を加え、2月21日に陸軍研究所による研究報告が提出された。
構造
本砲のI型発射機は砲身・二脚・連結架・床板及び照準具から成り、外見は大型迫撃砲に類似する。砲身は発射時の後方噴流を逃がすために前後が開放されており、中央で前後に分割することが可能である。砲身はライフリングが刻まれていない滑腔砲身である。砲身後方には蝶番で開閉する装填用の蓋が付随する。発火方式は摩擦門管牽引式であり、砲身後端に引手を掛ける滑車託架を有する。脚は開脚式で、高低照準機及び水平規正用具を有する。高低射界は45度〜65度、水平射界は射角45度で左右150ミルである。連結架は二脚と砲身を接続し、方向照準機及び眼鏡託架を有する。試験では発射機の組立所要時間は約1分40秒であった。なお実戦で主に使用されたタイプはこれとは異なり、三脚構造で木製、このうちの一脚が二枚の板で噴進弾を挟む形の発射レールで、破損するまで十数発が発射可能な簡易なものであった。噴進弾は支給されるが、発射台は交付された図面をもとに板材で現地で自作すべしと通達されていた。また同時期に開発された四式四〇糎噴進砲の発射架も同じく木製発射台を用いるようになっており、現地部隊が独自に三連装にしたものもあった。
また、船載用のII型発射機は基筒に装備し、噴進炎を防ぐために防炎庇・防盾・尾筒を有する。防炎庇は砲口に装着されるラッパの口を逆さにした様な覆いであり、砲口より飛び出た砲弾の後方噴流を周囲に逸らす機能を有する。防盾は後方噴流から射手を防御し、照準孔を有する。尾筒は砲身後方に装着される上方向に湾曲した筒状の装置であり、砲尾から噴出する噴進炎を砲の後部上方向に逃がす機能を有する。昭和19年(1944年)1月に伊良湖試験場で実施された試験ではウサギを使って各射角での射撃を実施した結果、これらの装置によって砲手は発射時の噴進炎から相当防御されるものとされた。なお防炎庇・尾筒を装着しなかった場合では「兎ノ毛ハ黒焦ゲトナレリ」と書かれている[3]。この試験では防炎庇と尾筒による防炎は十分であるために防盾はより軽易なもので十分なこと、湾曲した尾筒には発射時のガスによる強い負荷が掛かるために砲架の強度を増す必要があること、尾筒装着時の弾道性には更に研究を要すること、発火方式には電気門管の使用が適当であることが挙げられた。
砲弾
本砲弾は噴進薬の燃焼ガス噴出の反動を用いて飛翔するロケット弾であり、一般の砲弾とはその原理が異なる。砲弾は弾頭と弾尾からなり、両者はねじ式に結合する。砲弾には飛翔に際しての安定翼の様なものは無く、代わりに弾底にある6個の噴射口個々に角度を付けてライフル弾のように回転することによって飛行を安定させる「旋動(=スピン)安定式」という方式を採用している[4]。信管には一〇〇式二働信管「迫」を使用し、切替装置によって瞬発と短延期(0.1秒)を選択できる。薬量は185gで信管は弾頭に装着する。門管は約40gで、安全のため弾尾の門管孔への装着は砲弾の装填後に行われる。炸薬量は16.5kgで瞬発信管を用いた場合の効力半径[5]は31m、短延期信管を用いた場合砂地において深さ1.5m、直径6mの漏斗状の着弾孔を生ずる。装薬量は1号9.6kg・2号8.9kg・3号8.2kgの3種類であり、1号装薬の状態で支給されるために2号もしくは3号装薬を用いるには砲弾から火薬抜を用いて噴進薬を取り出す必要がある[6]。1号装薬使用時で燃焼時間は約2秒、飛翔速度は発射機前方175mで約175m/秒となる。射程は最大で1号装薬を使用し射角45度で2,500m、最短は3号装薬を使用し射角65度で1,400mである。発射の際は噴進炎による危害を避けるために発射機から5m以上遠ざかること、特に後方は土砂等が飛散するために注意することとされた。
運用
本砲は発射機の簡便な特性から奇襲的に使用し、人馬の殺傷と敵を精神的に震撼させることを目的としていた。また多数の集中発射によりある程度の野戦陣地の破壊を見込めるとされていた[7]。本砲は戦争末期の激戦地である硫黄島、沖縄に投入された。特に硫黄島では本砲を含め噴進砲70門が投入され、慢性的な火砲不足に悩む帝国陸軍にとって大いに助けとなり、また同様に簡易かつ大威力で既に前々から制式・配備されていた九八式臼砲と共にアメリカ軍に大きな損害を与え、畏怖の対象とされた。但し弾数が50発/門しか用意されていなかったため、あっという間に撃ち尽くされてしまった。また、ロケットの噴射炎と煙によって敵に位置を知られるため、撃ち尽くす前に制圧射撃を受けて破壊される恐れも大きかった。同時期により大型の四式四十糎噴進砲も開発され、噴進弾500発が生産されているが離島などへの輸送の便の関係上小型の二十糎型のみが南方で実戦使用された。海軍でも二十糎噴進砲を参考に重巡洋艦用主砲弾の在庫を流用した三種類の20cmロケット砲(実際の口径は210mm)を製作し、最後の型は鋼管製発射器を載せた簡易な砲架に車輪付きの形状あった。この砲は硫黄島で米軍に鹵獲されている。
レーダーの開発
伊藤庸二
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊藤 庸二
いとう ようじ
Yoji photo.jpg
生誕 1901年3月5日
千葉県夷隅郡御宿村(現・御宿町)
死没 1955年5月9日(54歳没)
国籍 日本の旗 日本
教育 ドレスデン工科大学(博士号)
東京帝国大学(工学博士号)
親 伊藤 鬼一郎
業績
専門分野 無線通信、電気工学
所属機関 大日本帝国海軍
光電社
光電製作所
プロジェクト レーダー開発
受賞歴 海軍技術有功章
伊藤 庸二(いとうようじ、1901年3月5日 - 1955年5月9日)は、日本の元大日本帝国海軍技術官、無線技術者である。
生涯
生い立ちから海軍技術研究所の初期まで
1901年(明治34年)3月5日、千葉県夷隅郡御宿村(現・御宿町)に、御宿尋常高等小学校長伊藤鬼一郎の次男として誕生[1][2][3]。伊藤家は御宿郷の名主の家系だった[1]。旧制第一高等学校を卒業後[3]、東京帝国大学の1年生の時に海軍委託学生になり、1924年(大正13年)3月、同大学工学部電気工学科を卒業[4][5]。翌月、海軍造兵中尉(技術科士官第13期)に任官する。当時、欧米で電波技術が顕著に発展していたことから海外に技術者を留学させることとなり、1926年8月、箕原勉の推薦によりその候補に選ばれた[6]。1926年11月にドイツ入りし、ドイツ語の習得後、1927年(昭和2年)4月、ドレスデン工科大学にてハインリッヒ・バルクハウゼン教授の下で学ぶ[6]。なお、留学先については八木秀次に相談して決めたという[6]。同大学にて無線用真空管の研究をし、卒業論文「二極真空管理論並びに超低周波発生」[7]をまとめ、1929年7月に博士号を取得[8][5]。1929年8月に飛行船ツェッペリンで同乗したことをきっかけに草鹿龍之介と交流を持ち、その後、草鹿の相談に応じて助言をしていたという[9]。伊藤は、電波技術を索敵・攻撃兵器に応用すべきと早くから訴えていた[9]。
帰国後は海軍技術研究所電気研究部の技術官となり、振極管の研究を行う[10]。この研究成果は後に論文「磁電管の研究」として1936年に東京帝国大学に提出し、同年12月に工学博士号が授与される[11][10]。また、電離層の研究にも取り組んだ。地上から発した電波が電離層で屈折反射するフェージング現象が課題となり、1932年にパルス波を用いた独自の測定装置を作成した[12]。本機を用いた電離層の定期観測は国内初のもので、1932-1933年の第2回国際極年では学術研究会議電波研究委員会を通じて測定結果が全世界に発表された[12]。また、伊藤の測定した記録は、万国無線科学協会(URSI)の事業として、毎週1回、1941年12月まで全世界に放送された[12]。
電波伝播の研究を進め、この観測研究が軍事用短波通信の波長選択に不可欠なものであると理解され始める[13]。1937年には関係者により波長選択の図表が完成し、1942年8月に伊藤はこれへの貢献から海軍技術有功章を授与される[13]。
ヨーロッパ出張
1937年春、ヨーロッパ出張の際、「ドイツ海軍が電波を使用して距離を測れる装置の開発に成功した」との未確認情報をドイツで聞き、また、イタリアでも短波を使った兵器開発の可能性について話を聞いたところであった[14]。伊藤はドイツ大使館経由で軍中央に報告したが、この情報は握りつぶされたという[14]。
伊藤研究室にて1933年から続けていたマグネトロン(磁電管)の研究が進み、1937年末には八分割陽極マグネトロンの最初の試作品を作成[15]。これを基に橘型、菊型のセンチ波マグネトロンの開発に成功する[15]。1939年初頭、マグネトロンの研究成果の一部を日本無線に公開し、その出力増加・量産化を委ねた[16]。橘型マグネトロンを使って暗中測距装置の共同研究を開始し、1940年秋には試作機を完成させ、同年10月10日に鶴見沖で空母「赤城」を対象に実験を行い、成功させた。ただし、海軍はマイクロ波技術は即戦力にならないと判断し、開発を中止させてしまった。一方、ほぼ同じ頃にイギリスでも同じ方式のマグネトロンが開発され、アメリカにこれが提供された後、マイクロ波レーダーとして開発され、戦争で活用されている[17]。
1939年春、大和田受信所(のち大和田通信所)の初代所長の和智恒蔵より、アメリカ軍太平洋艦隊の発する電波の解析について相談を受け、協力することとした。密かに作業を進め、望ましい結果を得るための状態や、その場合の受信地の場所などの助言をまとめた報告書を作成。この結果、太平洋艦隊は週初めに基地を出て、ラハイナ・ロードという海域で訓練をし、週末に真珠湾に帰投して休養を取るという行動様式を確認[18]。後に真珠湾攻撃の日時を決めるのに役立ったとみられる。
1941年2月下旬から6月にかけて、ドイツ視察に同行し、パルス変調を使った航空機検出装置を見学し[19]、海軍本部へ報告する。同じ頃、ロンドン駐在の浜崎造兵中佐からもレーダーに関する情報が報告され、日本でもレーダー(電探)の開発が進められる[20]。その後に完成した対空用の二号一型電探と、対水上警戒用の一〇三号電探(後の二号二型電探)を戦艦「日向」に搭載した実験で、「一〇三号については撤去すべき。」と判断された際、「目的が異なるものを同じ装置で行うことは困難。」と伊藤は異論を唱え[21]、マイクロ波電探の必要性を訴えた[22]。
日米開戦後
また、アメリカとの戦争が始まってから、その前途に不安を感じたのか[23]、1942年2月の連合艦隊による図上演習後、「ドイツや英米では原子力爆弾の研究が進められており、警戒が必要。」と発言[24]。これがきっかけとなり、伊藤の呼びかけで調査機関設立のための準備委員会が設置される。その後、原爆製造のための可能性を検討する「物理懇談会」(仁科芳雄委員長)が1942年7月に発足。同会は1943年3月まで開催され、「原爆製造は可能だが、ウラン鉱石が不足し、長時間の研究が必要となり、この戦争には間に合いそうもない。」との結論に至った[23]。電波研究の中心である伊藤が別の研究に時間を浪費しているとの批判もあり、同会は解散した。
「日本の原子爆弾開発」も参照
1942年10月のサボ島沖海戦ではアメリカ軍のレーダーが活躍し、日本でも射撃用レーダーの重要性がわかり始め、センチ波電波探信儀の開発が認められた。ただし、前回の戦艦「日向」での試験結果を勘案し、対潜水艦用に限定された。一〇三号電探を改良し、二号二型電探を作成。1942年末に駆潜艇装備実験が行われ、量産に入った[25]。
前述の物理懇談会では、複数の委員から「マグネトロンを使った電波兵器の方が実現する可能性が高い。」との意見があり、伊藤は上層部を説得して大出力磁電管の研究許可を得る。1942年10月から日本無線本社工場内に技研三鷹分室を設けて、研究に着手[26]。1944年6月に開設した技研島田実験所で実用研究を行った。初期研究は順調に進み、約5mでウサギを殺す実験は成功したが、殺人光線、飛行機撃墜用の強力電波といった本来の目的である応用研究は一向に捗らなかった。大出力のマグネトロンが作れなかったためである。高性能なマグネトロンは作れるようになったが、発振理論が解明されず、応用機器が作れなかったという[27]。
終戦後
終戦後、戦争関係資料の焼却とともに技術資料が無くなることが惜しい、また、後の復興に資料が役立つと感じたため、海軍の技術史を残すことを決心。高松宮宣仁親王に相談をし、元軍令部の富岡定俊と共に史実調査の仕事をすることとなった。史実調査の資金捻出とともに地元の農漁業の電化による振興のため、1946年春に光電社を設立。1947年には船舶機器の専門メーカー「光電製作所」を設立する[28]。
1952年、電波監理局から陸上用方向探知機を作る話を打診され、1953年に試作機を作成。アメリカ陸軍のものよりも使いやすく、長時間使用が可能であったので、各地の電波監理局で採用されるとともに、輸出機運が盛り上がった[29]。海軍での親友、藤村義朗を介して日系貿易商を紹介され、アメリカに渡航するきっかけを得た。せっかくの外国出張なので、ヨーロッパでバルクハウゼン博士と再会した後、旧海軍の研究成果をアメリカに持ち込み、日米共同研究をするという計画を立てた。しかし、渡航資格が無いので悩んでいたところ、アメリカの極東空軍幹部から賓客として招待するので渡米するようにとの話を得る。史料調査会の富岡に相談し、近々発足予定の防衛技術研究所嘱託の資格を得られるよう取り計らってもらい、渡航資格を得た。1954年4月下旬に欧米に出張。欧米でバルクハウゼン博士を含む知己や友人と会った後、アメリカで空軍研究長官のバット将軍と会い、「現在のように完成品の提供だけでなく、日本に研究課題と開発資金を与え、日本との友好関係を育んでほしい。」との旨で日米共同開発を訴え、パット将軍からは「伊藤がそれをしてはどうか」と逆提案があった[30]。ただ、後に日本の大学に呼び掛けたところ、大多数の大学は、研究費は欲しいが米軍からの「ひも付き研究」では左翼勢力に睨まれるのが怖いと拒否反応を起こしたという[31]。
帰国後、アメリカで見た世界初の電子計算機「ENIAC」の真空管が切れやすかったことから、後藤英一が開発した「パラメトロン素子」を基に電子計算機を作ることを検討。規模の小さい光電製作所では実現は困難であったため、パラメトロン電算機の開発は、国際電電、電通研、東大高橋秀俊研究室の三者で共同開発する方針が決定し、光電製作所は国際電電の指導の下、素子の開発を手伝うことになった[32]。
その後、緒方竹虎副総理から防衛技術研究所の初代所長に就任してほしいとの依頼があり、伊藤も国のために2年間奉公するかもしれないと周囲に話していたが、その2か月後の1955年5月9日、光電製作所で指導中に急に倒れて死去した[33]。
戦時期日本のレーダー開発に関する
最近の調査研究動向
河村 豊
2.『日本無線史』(1951 年刊行)
さらに,未刊行の原稿が史料調査会に所蔵
されている.編集の目的は,開発担当者によ
る戦訓の収集と思われる.その内容は,記憶
に基づく記述や,担当した部分だけに限定し
た記述が多いために全体像がつかみづらい
が,レーダー開発の過程を知る資料として,
今後も利用する価値は十分にあろう.
また,開発の担当者であった元海軍技術大
佐 伊藤庸二は,敗戦時に焼却せずに残した
技術資料などから,レーダー開発の技術史を
まとめ上げようといる計画をもっていたよう
だが,本人の急逝により実現せずに終わった.
以上,資料の概要を紹介した.資料につい
ての詳しい内容は,現在準備中の論文
目指すは通常の3倍!
水中の速さ追求した旧海軍の高速潜水艦、開発経緯とコトの顛末
2019.03.25
https://trafficnews.jp/post/84620
ミリタリー, 艦艇(軍艦), 潜水艦, 潜高型, 旧日本海軍
第2次世界大戦も中盤になると、アメリカの対潜水艦戦闘は技量が向上し、日本側の被害が増えてきます。そこで日本海軍が目を付けたのは水中速度の向上。狙われても逃げ切れればよいのです。どこまで、どのように実現できたのでしょうか。
水上航行に最適化されていた当時の潜水艦
実験艦を除いた戦後の通常動力型潜水艦において、水中速力25ノット(約46km/h)を達成した例はありません。2018年10月に進水した海上自衛隊の最新鋭潜水艦「おうりゅう」でも、水中速力は20ノット(約37km/h)とされています。ところが80年も前に、旧日本海軍は水中速力25ノットを目指した潜水艦を作っていました。
Large 190319 sentaka 01
拡大画像
1945年2月に呉で撮影された潜高型2番艦の伊二百二。マストにじょうご形の22号電探(レーダー)が見える。
第2次世界大戦期の潜水艦は、通常は水上航行しており、戦闘時のみ必要に応じて潜水するという運用方法が一般的でした。反撃される可能性が少ない敵商船や小型艦艇を攻撃する際には、「家1軒の値段」といわれた高価な魚雷を節約するため、浮上したまま大砲で攻撃することも、ままあったのです。艦も水上航行に最適なように設計されたため、水中速度は水上速度より遅くなるのが普通で、日本海軍の、ほとんどの潜水艦の水中最高速力は8ノット(約14.8km/h)程度であり、これは他国の潜水艦でも同じようなものでした。
太平洋戦争の中盤以降、アメリカ軍の対潜水艦能力が向上し、日本の潜水艦の損害が増えていきます。そこで1943(昭和18)年に、日本海軍は水中速力25ノットという潜水艦「潜高型」を構想します。これが実現できれば、敵からも上手く逃げおおせられるはずです。
通常の3倍速いという、とてつもない要求にも見えますが、1934(昭和9)年に建造された実験艇「A標的」が水中速力24ノット(約44.4km/h)、1938(昭和13)年には高速実験潜水艦「第71号艦」が水中速力21.3ノット(約40km/h)を達成しており、実用化の目途は立っていました。
目指すは通常の3倍! 水中の速さ追求した旧海軍の高速潜水艦、開発経緯とコトの顛末
2019.03.25 月刊PANZER編集部
コメント 1 保存 お気に入り
tags: ミリタリー, 艦艇(軍艦), 潜水艦, 潜高型, 旧日本海軍
水中25ノットを目指して
通常動力型といわれる潜水艦は、水上ではディーゼルエンジンでスクリューを回します。潜水すると給排気ができないので、ディーゼルエンジンを止め電力でモーターを回し、推進力を得ます。電力は、浮上しているときにディーゼルエンジンで発電し、電池に充電しておいたものです。
理科の授業でも習いましたが、複数の電池を並列に繋ぐと、電球は比較的明るくはありませんが、長く光り続けます。一方、電池を直列に繋げば、電球は目に見えて明るく光りますが、電池は比較的早く切れてしまいます。潜高型は、とにかく水中で高速を出そうと、電池をたくさん直列に並べる方法を採用しました。
潜高型1番艦「伊二百一」では「特D型」という小型超大容量電池を、当時の標準的な潜水艦であれば数百個単位のところを2088個も搭載、これを36群にまとめて直列配置します。特D型電池はもともと、水中排水量約40トンの実験艇「A標的」のような小型艇用のものでした。これを無理やり大量に、水中排水量1450トンの潜高型に載せたのです。
Large 190319 sentaka 02 Large 190319 sentaka 03 Large 190319 sentaka 04
拡大画像
第71号艦(画像:アメリカ海軍)。
1945年6月30日撮影の舞鶴港。下のドッグに3隻並んだ右端が伊二百一(画像:アメリカ海軍)。
日本降伏後1945年10月に呉で撮影された伊二百一(画像:アメリカ海軍)。
機関は、1本のスクリュー推進軸に1375馬力のディーゼルエンジンと1250馬力モーター2基を直結した軸を2本、搭載します。水中馬力は、1250馬力モーター×4基=5000馬力が発揮できるはずでした。これは、当時の標準的な潜水艦の2倍の馬力になります。
船体も、水上より水中抵抗を最小にする形状で、大きな抵抗になる大砲は搭載されず、機銃も格納式でした。一方でレーダーやシュノーケル(浅い深度なら水中に潜ったままエンジンを動かして充電できる)が追加されて抵抗が増え、結果、水中速力は計画値で19ノット(約35q/h)まで下がることになりましたが、それでも標準的な潜水艦の、2倍の速度を実現したので
現代につながる技術の継承
潜高型の1番艦、伊二百一は1944(昭和19)年3月1日に起工され、7月22日に進水、1945(昭和20)年2月2日に竣工するという短工期で建造されました。1942(昭和17)年の海大型潜水艦が、起工から竣工まで約1.5年を要していましたので、1年未満での竣工は画期的です。工期を短くできたのは、船体をいくつかのブロックに分けて同時に製造し、最後に全溶接でつなぎ合わせる「ブロック建造方式」を、潜水艦で初めて採用したからでした。
こうして期待の高速潜水艦、潜高型は1945(昭和20)年6月までに、伊二百一、伊二百二、伊二百三の3隻が完成し、早速、訓練が開始されました。ところが、水中での20ノット近い速度は不安定で、操艦は難しかったようです。また積み重ねて配置された2000個以上もある電池は、温度差が生じ性能は不安定、メンテナンスに莫大な手間が掛かる、80回しか再充電できない(一般的な一号十四型蓄電池なら400回)と問題山積で、さらにショートしやすい危険な代物であり、伊二百二はバッテリー火災事故も起こしています。エンジンは馬力不足で、充電能力も不十分、そして実際の水中速度は17ノット程度だったといわれます。結局、期待の高速潜水艦も訓練と故障修理、不具合個所の対策改造を繰り返しているあいだに終戦となりました。
富嶽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 「富嶽」のその他の用法については「富嶽 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
富嶽(ふがく)は、大東亜戦争中に日本軍が計画した、アメリカ本土爆撃を目的にした6発の超大型戦略爆撃機である。名は富士山の別名にちなむ。
富嶽による米本土爆撃計画
1942年(昭和17年)、アメリカ軍による初の日本本土空襲(ドーリットル空襲)と、日本軍による初のアメリカ本土空襲が行われた。この年、中島飛行機の創始者である中島知久平が立案した『必勝防空計画』に書かれていた、アメリカ合衆国本土を空襲した後にそのままヨーロッパまで飛行し、同盟国であったナチス・ドイツまたはその占領地に着陸することが可能な大型長距離戦略爆撃機「Z飛行機」構想が、のちの富嶽である。同年8月15日、大本営陸軍部は「世界戦争完遂ノ為ノ決戦兵器ノ考案」を陸軍省に要望した[1]。その中に「超遠距離飛行機」「特殊気球(フ号装置)ノ能力増大」という項目があった[1]。
アメリカ本土爆撃を視野に入れ、日本を飛び立ち太平洋を横断してアメリカ本土を爆撃、そのまま大西洋を横断してドイツに寄り補給を受け、再び逆のコースでアメリカを再攻撃しながら戻ってくるか、またはソ連を爆撃しつつ世界を一周すると言う壮大な計画であった。全長45 m(米軍が太平洋戦争で実戦投入した4発戦略爆撃機ボーイングB-29の1.5倍)、全幅65 m(B-29の1.5倍)、爆弾搭載量20トン(B-29の2.2倍)、航続距離は19,400 km(B-29の3倍)、6発エンジンを目指した。
中島飛行機が設計にかかわる。1943年(昭和18年)5月31日、中島は軍令部官邸での夕食会で本機(富嶽)の構想を説明する[2]。昭和20年にはB-29大型爆撃機が大量配備され「要スルニ現状デハ日本ノ軍需工場ハ全滅シテ戦力ヲ失フノハ明カデアルカラ、大型機ヲ急速ニ設計、生産ニ着手セネバナラヌ」と指摘し、B-29に対抗するには「其ノ飛行場ヲ使用不能ニスル事ガ考エラレル」と述べた[3]。中島は、東條英機首相をはじめ、陸海軍大臣や関係者にも構想を訴えていたという[4]。
このあと陸海軍共同の計画委員会によって計画が承認され、これに軍需省も加わった体制で開発が進められた。しかし陸海軍の要求性能が大幅に異なったため調整に苦労を強いられ、かつ軍需省は途中で独自に川西航空機に設計案を作らせ、しかも陸海軍や他社はおろか中島飛行機内部にさえ根強い反対論があるなど、開発体制には多くの問題があった。第一次案では、下記の仕様のごとくハ54×6基であったが、空冷四重星型という新形式の開発に手間取り[注釈 1]、応急案としてハ44(空冷二重星型18気筒、2,450馬力/2,800 rpm)やハ50(空冷二重星型22気筒、3,100馬力/2,400 rpm)6基装備で暫定的に計画を進めた。この影響で爆弾搭載量も20 tから15 tに減らされた。
当時の日本はおろか戦後すぐのアメリカにおいてすらも、その技術力・工業力では手にあまると思える空前のスケールの機体(1946年に初飛行したアメリカ製の超大型爆撃機B-36ピースメーカーも推力不足に悩まされ、当時としては最新鋭の装備であったジェットエンジンをやむなく追加した)であったため、実現までに解決せねばならない諸問題が山積し、与圧キャビンの研究、新式降着装置の開発も行われた。
1943年(昭和18年)より中島飛行機三鷹研究所構内に組み立て工場の建設が開始された。しかし1944年(昭和19年)4月28日、日本軍は陸海軍当事者、軍需省、関係製作会社を集めて超重爆撃機「富嶽」の研究を続行するかを検討した[1]。富嶽を予定どおり生産した場合、日本陸軍の四式戦闘機(疾風)の943機減産、海軍の陸上爆撃機銀河235機の減産を招く見通しとなった[1]。資材、工作機械、技術研究の観点から、富嶽の研究は「遺憾ながら中止せざるを得ない」との結論に至った[1]。日本軍は同年6月下旬のマリアナ沖海戦に敗北[5]、絶対国防圏の東の鎖ともいうべきサイパンも7月6日に陥落[6]、最大の支援者であった東條首相は周囲からの排斥によって7月18日に辞職した[7]。本土防空戦のための戦闘機開発優先・開発機種削減方針により、「この戦争に間に合わない」と判断された富嶽開発は中止となった。
現存物
羽田空港拡張工事中に見つかった、富嶽のものとされるハ50エンジンが、成田国際空港に隣接する千葉県芝山町の航空科学博物館で展示されていた。(現在、外部へ貸出中)
2016年、「富嶽を飛ばそう会」[注釈 2]によって設計図から1/12のラジコンで復元され飛行が成功した[8][9]。
富嶽計画参加者
田中清史:エンジン主担当
中村良夫:のちのホンダ四輪開発責任者。
中島に就職したばかりで従軍し、立川陸軍航空技術研究所第二研究所(陸軍航二研・航空発動機)に属しており、構想を実体化するタイミングでチームが編成され、一員として参加。中村は「それまでの日本最大の爆撃機は海軍の四発連山であり、日本の航空産業が持てる経験技術をはるかに逸脱した無謀なプラン」と評している。自身の関与したエンジンに関しては「開発を終わっていた「ハ219」をベースとするものであったため、エンジン自体の構造強度と性能は、まあなんとかメドがつけられそうであった」と
、想定される技術範囲内であったとする一方、エンジンの冷却に関しては複列型であればバッフルにより前後のバランスをとれるが、四列では一列から四列までを均等に冷却することがうまくできなかったことが基本的問題点であり、このため三菱で開発中だった空冷複式22気筒「ハ50」を高出力化しようという代替案も出たが、これは基本仕様ですでに能力不足だったという[10]。
関連計画
「Z飛行機」を陸軍と海軍の要求に合うように、すり合わせる中で産まれた設計の一つがこの「富嶽」である。
他にアメリカ本土を長距離爆撃する機体として、陸軍のキ74とキ91の開発が進められたが、キ91は開発中止、キ74は審査中に終戦を迎えた。また、海軍も富嶽と競作する形でTBの開発を進めていたが、富嶽に敗れ開発中止となっている。
旅客機や輸送機へ転用する計画もあった。旅客機型は爆撃機型より一回り小さい全長33.5m、全幅50m、定員は4席x25列の100人。輸送機型は全幅を72mに拡大[11]。この他にも爆撃用の装備を撤去し、機体下部に九七式七粍七固定機銃や九九式二〇ミリ機銃を搭載した掃射機型の計画も存在した[12]。
アメリカがほぼ同時期に開発を開始した、ほぼ同サイズの戦略爆撃機B-36は、推進型に配置された6発のレシプロエンジンと、翼端にさらに2基ずつのジェットエンジンの計10基の発動機を推進機関とした上で、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)8月8日に初飛行を行い、1948年(昭和23年)に配備開始された。しかし1950年に勃発した朝鮮戦争においては、アメリカでさえ持て余す運用の困難さと高価さゆえに温存され活躍の機会を得られず、また時代は既にB-36のようなレシプロエンジン機の速力では通用しないと考えられた。アメリカにおいて兵器として成功する大型の戦略爆撃機は、B-52ストラトフォートレスまで待つことになる。
計画仕様
型式
注:予定である。
六発
中翼単葉
直線テーパー翼
全金属製
応力外皮構造
引き込み脚、主輪数4(外側2輪は重量軽減のため離陸後投下)
前輪式
機体仕様
注:全て計画値であり、これ以外にもいくつもの計画案があった。
全長:46.00 m
全幅:63.00 m
全高:8.80 m
主翼面積:330.00 m2
発動機:中島ハ54空冷式4列星型36気筒(ハ219複列星型18気筒を2台串型置) 6,000馬力(3725 kW)6発
プロペラ:VDM定速6翅・8翅・二重反転4翅(いずれかで計画)
プロペラ直径:4.5 - 4.8 m
自重:42 t
全備重量:122 t
最大速度:780 km/h(高度:10,000 m)
実用上昇限度:15,000 m 以上
航続距離:19,400 km 以上
武装
注:あくまで計画である。
20 mm 機関砲 4門
最大20 t までの爆弾
航空魚雷20本(雷撃仕様機)
登場作品
研究書
碇義朗『さらば空中戦艦富嶽-幻のアメリカ本土大空襲』光人社
前間孝則『富嶽-米本土を爆撃せよ』
『3DCGシリーズ54 日本軍試作機のすべて』双葉社
前間孝則:「富嶽 上: 幻の超大型米本土爆撃機」、草思社文庫、ISBN 978-4794224484(2020年4月6日)。
前間孝則:「富嶽 下: 幻の超大型米本土爆撃機」、草思社文庫、ISBN 978-4794224491(2020年4月6日)。
ドキュメンタリー番組
土曜スペシャル『さらば空中戦艦富嶽 幻のアメリカ本土空襲』(1979年大映映像製作、NNN系列局)
ベースは前述の碇『さらば空中戦艦富嶽 - 幻のアメリカ本土大空襲』。司会役は水野晴郎。中島知久平役にハナ肇、東條英機役に内田朝雄、近衛文麿役に久米明を当てた再現ドラマや、ミニチュア撮影と操演特撮技術を駆使したニューヨークマンハッタン地区に林立する摩天楼の戦略爆撃映像も交え、開発計画の全貌を解説する構成がとられた。巨大な機体を有す高高度重爆撃機を敵艦隊への低空の雷撃に使用する、味方の被害が全くなく敵のP51迎撃機編隊を一方的に撃墜するなどの想定戦闘シーンが放映された[13]。一回のみテレビ放映され、その後は2013年12月7日に日本映画専門チャンネルで放送されるまで、再放送もビデオ化・DVD化も一切されなかった。
『日本の極秘軍用機』(2007年ヒストリーチャンネル製作・放映、原題:Secret Japanese Aircraft of World War II)
富嶽の他、秋水、橘花、景雲を紹介・解説。
創作
架空戦記各作品
史実より日本の国力が大きかったり、太平洋戦争下で開発に成功して戦局を有利にしたりする設定で登場する。檜山良昭『大逆転!幻の超重爆撃機』シリーズ、横山信義『巡洋戦艦「浅間」』シリーズ、佐藤大輔『レッドサンブラッククロス』『仮想・太平洋戦史 目標、砲戦距離四万』など。
『機神兵団』(1992年のOVA)
『荒野のコトブキ飛行隊』(2019年のTVアニメ)
第10話にて自由博愛連合所属の爆撃機として登場し、ラハマを爆撃敢行したがコトブキ飛行隊及びナサリン飛行隊とラハマ自警団らの活躍により阻止されている。
世にも奇妙な物語'01春の特別編『太平洋は燃えているか?』(2001年4月2日放送、フジテレビ系列局)
『雷神』という名で登場。
大東亜戦争(太平洋戦争)日本の英雄
→