iso14001環境ISO生命に満ちた青い地球を守ろう

画期的 0円 で環境ISO認証取得!!

生命に満ちた青い地球を護ろう!利益を上げて


アジアの歴史




  • 千年に一度のチャンス
    天が我々に与えた試練だ


  • iso14001,環境ISO 汚染の予防


    超反日小説『ムクゲの花が咲きました』続編【書籍】
    ムクゲの全盛時代は他でもない日帝強制占領期〜カン・ヒョバック慶煕大教授
    『花に偽装した戦犯旗-ムクゲ』出版予定[08/25] [蚯蚓φ★]



    ナチスドイツはユダヤ人を600万人殺した
    戦前日本は朝鮮人を1200万人、増やした
    許されざる罪である



    李氏朝鮮では、中国からの勅使に対し、王がソウルの郊外、”迎恩門”に出向き、自ら三跪九叩頭の礼で迎えていた


    朝鮮土民の奇習を禁止した日帝の蛮行
    【試し腹】.【シバジ】【嘗糞】【病身舞】【乳出しチョゴリ】
    ..



    「三田渡の盟約」
    朝鮮は清国に対し、臣としての礼清国に対して牛馬3000頭、美女3000人を毎年上納すること



    朝鮮国民に教育を実施し、就学率を61%まで高めた(1944)
    (ハングルを整備し体系化させ、漢字、日本語と共に普及させた
    識字率 3-8% → 80%


    原爆被爆者の平均寿命は平均日本人より長い。男1年、女2年、寿命が長い。


    南京戦はあったが南京大虐殺はなかった。南京学会

    環境ISO,iso14001News
    iso14001,環境ISO News
    大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史

    英国の歴史家、アーノルド・トインビーは、 日本の近代史についてこんな分析をしました。 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 0

    朝日の慰安婦捏造問題を世界に発信するため、 かなり正確に伝えている英語での解説記事 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 2

    環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 3

    米政府の慰安婦問題調査で奴隷化の証拠発見されず no proof war crimes with "disappointment" comfort woman 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 4

    「侵略戦争」は連合国の宣伝、日本は植民地アジアを解放した 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 5

    徹底検証!「従軍慰安婦」問題は朝日新聞の捏造から始まった 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史6

    Report No. 49: Japanese Prisoners of War Interrogation on Prostitution

    従軍慰安婦に関する米軍調査報告:戦場売春婦の実態調査結果ビルマ

    Report No. 49:

    「文玉珠さん」という(自称)従軍慰安婦女性は、平成4年に日本の郵便局を訪れ 2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしています 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 7



    ヒラリーの私用メールが暴いた外務省の赤っ恥 国益の毀損と責任感の欠如がもはや伝統に

    環境ISO,iso14001
    汚染の予防、歴史 8


    神風特攻隊が残した戦果は、実はすごかった。

    環境ISO,iso14001
    汚染の予防、歴史 9


    フーバー大統領の回想録 には、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な記録が含まれている。
    環境ISO,iso14001
    汚染の予防、歴史 10





    サンフランシスコで慰安婦碑反対運動で頑張っている有志からご協力のお願いです。
    計画されている慰安婦碑のとんでもない内容の碑文が1月18日に承認されました。
    来る2月6日の芸術委員会でその慰安婦碑の設置が承認されようとしています。
    環境ISO,iso14001
    汚染の予防、歴史 11

    “カナダ有志の会”よりお願い
    中国系州議員やアルファという反日組織の工作により、
    カナダ・オンタリオ州の立法議会が南京大虐殺記念日の制定を審議中です。
    ↓ Bill 79, Nanjing Massacre Commemorative Day ↓
    SnapCrab_NoName_2017-2-2_7-50-52_No-00
    抗議のメールを、オンタリオ立法議会メンバーに送っていただけましたら幸いです。

    南京大虐殺は捏造だった証拠集

    韓国、韓国人慰安婦をドラム缶に入れて米軍らに供給、政府が米軍向けに売春管理



    国連も一蹴した中国の政治宣伝 自民党が明らかにした南京の捏造





    やはり あの戦争は、アジア開放のための聖戦だった



    ライダ イハンは3万人もいるのに、なぜか韓国には日本軍人との混血児は一人も出てこない不思議… 20万の 朝鮮売春婦相手になぜ一人も出てこないんだ?



    韓国を「ホワイト国」から除外しよう



    南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状
    環境ISO,iso14001
    自己紹介







    南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状

    原爆被爆者の平均寿命は平均日本人より長い。男1年、女2年、寿命が長い。



    http://www.sdh-fact.com/CL02_3/19_S1.pdf

    胡錦濤国家主席閣下への公開質問状 このたび中華人民共和国国家主席胡錦濤閣下のご訪日に当たって、日中両国の 友好を願う者として心より歓迎申し上げます。



    反日種族主義




    iso14001環境ISO生命に満ちた青い地球を守ろう




    大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言


    太平洋戦争におけるわが国の戦争被害

    「世界から恐れられた7人の日本人」





    「大東亜戦争の英雄の日本人1」


    「大東亜戦争の英雄の日本人2」


    「大東亜戦争の英雄の日本人6」


    「大東亜戦争の英雄の日本人3」空の要塞B29撃破とB29撃墜王


    「大東亜戦争の英雄の日本人4」陸軍エースパイロット撃墜数


    「大東亜戦争の英雄の日本人5」海軍エースパイロット撃墜数


    「大東亜戦争技術者」


    「大東亜戦争技術者2」


    「大東亜戦争石油」





    日米開戦前日米交渉(アメリカが日本に実質的最後通牒(日本の南部仏印撤退などの譲歩案に))





    「大東亜戦争の英雄の日本人1」







    「大東亜戦争の英雄の日本人2」






    13.ひめゆり学徒隊、戦争末期、沖縄戦。日本の存亡を賭けた他戦いに、立ち上がった、看護部隊。10高女等。靖国神社に祭られている。



    ひめゆり学徒隊が勤務した病院壕跡(南風原町の沖縄陸軍病院南風原壕)

    ひめゆり学徒隊が勤務した病院壕跡(南風原町の沖縄陸軍病院南風原壕)



    ひめゆりの塔(2018年)

    ひめゆりの塔(2018年

    14.アッツ島玉砕

    アッツ島の戦いは、大東亜戦争アリューシャン列島、アッツ島で1943年5月29日、孤立無援のもとで、玉砕した。







    15.金光少佐など拉孟・騰越の戦い
    米英の中国支援ルート(援軍蒋介石)を死守。1対30の戦い。1250人の要塞で4万5千人と激闘。敵将、蒋介石の逆感状。『我が将校以下は、日本軍の拉孟守備隊、騰越守備隊あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命令を全うしある現状を範とすべし。日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し。』

     これが有名な敵将、中国、蒋介石の逆感状である。





    16.パラオ、ペリリュー島。玉砕禁止。持久死守。
    米軍は3日で落とせると考えたが、何と攻略に2か月。それも米軍最強の海兵隊、4万2千。日本軍は約1万。驚異的な奮闘を指揮したのが、中川州男。天皇陛下から何回も感謝状。



    17.栗林忠道陸軍中将
    硫黄島の戦い。サイパンからB29の日本空襲の中間にある硫黄島。B29護衛戦闘機基地として、必修。米軍は1週間で落すと計画したが、反撃厳しく、攻略に1か月以上を要した。米軍の死傷が日本軍を上回った唯一の戦場。



    18.妻を後部座席に乗せソ連軍へ特攻〜
    『妻と飛んだ特攻兵』終戦4日後8月19日。満洲でソ連軍戦車に。





    19.船坂弘曹長、
    一生のうちで7生報告をやった男。
    アンガウル島の戦い、玉砕を超えた死闘。
    実際にいた、日本の「ランボー」まず彼を一言で言うならば壮絶。個人として唯一戦史に刻まれた男“不死身の分隊長”舩坂弘――日本軍1400VS米軍2万2000の圧倒的不利な状況で戦い抜いた豪傑。アンガウル島はパラオ、ペリリュー島の南10km



    20.キスカ島撤退作戦

    は、アッツ島玉砕後、 第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が収容部隊を指揮した。同艦隊がキスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の5600名の撤収に見事に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる



    21.大陸打通作戦は、
    大東亜戦争中1944年(昭和19年)4月17日から12月10日にかけて、日本陸軍により中国大陸で行われた作戦。これが成功し、シンガポールから朝鮮の釜山まで資源の鉄道輸送が可能になった。この戦いの結果、大敗北の中国、蒋介石は、日本との和平を模索、提案し、繆斌工作を開始し、ソ連の満州侵入前に戦争を終結させようとした。 小磯國昭首相も賛成・期待していた 外相の重光は、外務当局を通さない、という外交官の本能で、強硬に反対した。この結果、 天皇や重臣の支持が得られず逆に小磯内閣の総辞職を招いた。



    22.「義号部隊」とは、「義烈空挺隊」のことで、占領下の沖縄、飛行場に強行着陸をして 敵陣を撹乱する特別攻撃隊(特攻隊)のことである。奥山道郎大尉以下約一五〇人の義烈空挺隊は、九七式重爆撃機一二機に分乗して沖縄、北、中飛行場へ向かった。 、滑走路沿いにならんでいる米軍機に手榴弾を投げつけた。コルセア二機、C―54型輸送機四機、プライベティアー一機を撃破した。その他、リベレーター爆撃機一機、ヘルキャット三機、コルセア二十二機、合計二十六機を撃破した。



    23.メナドには「黄色い天使が空から助けに降りてくる」との伝説があり、そのままだった。
    激戦を語る部隊長
    白傘に弾痕八十四 敵前五米・弾雨に躍込む『神兵』
    帝団海軍がセレペス島メナド上陸に日本軍初の落下傘部隊の 奇襲作戦を敢行したのは昨年一月十一日であった。 フハリと大空に咲いた純白の落下傘はあでやかでさへあるが、 傘の一つ一つに全員戦死を賭した決死隊員があったのだ。



    24.インド独立させた F機関‐特務機関長 藤原岩市 とインド国民軍チャンドラ・ポーズ
    イギリス首相としてインドの独立を承認したクレメント・アトリーは、




    1956年にインドのカルカッタを訪問し、その当時の西ベンガル州知事P.B.チャクラボーティ判事と会談を行った。チャクラボーティ判事は、「1942年に国民会議によって開始された 『Quit India』(インドから出ていけ) 運動は完全に潰され、1944年までには完全に消滅していたのに、英国はなぜ戦後、あれほどの焦りの中でインドを独立させ、離れたのか?」と質問したところ、

    アトリーは「それはスバス・ボースのINA(インド国民軍)と、それが英国インド軍で引き起こした反乱のせいだ」と答えた。

    続けて判事が「インド独立の承認においてマハトマ・ガンジーの『インドから出ていけ』運動はどのような役割を果たしたのでしょうか?」と鋭く質問した。判事によれば、アトリーは皮肉な笑みを浮かべながら「ほとんど何も無かった」と明言したという[11]。 F機関‐アジア解放を夢みた特務機関長 藤原岩市

    大東亜共栄の夢を愚直に信じ、中野学校出身者、ハリマオなど少数の精鋭を率いてマレイ、スマトラの民族解放工作に奔走、のみならずインド国民軍を創設しインド独立運動の巨魁チャンドラ・ボースを迎えるという驚くべき成果を あげた藤原少佐とF(藤原)機関。 その栄光と挫折の軌跡をF機関長藤原少佐が自ら詳細に綴った貴重な手記。 シンガポール陥落で捕虜5万人から4万人のインド国民軍を組織した。





    25人間魚雷回天
    黒木博司大尉と仁科関夫中尉、目を持った魚雷、米海軍が最も恐れた兵器
    吉田俊雄(海軍中佐、参謀)は、終戦時ダグラス・マッカーサー司令部のリチャード・サザーランド参謀長が「回天搭載の潜水艦が行動中かどうか」について質問され、行動中と聞くと動揺したというエピソードを紹介





    「大東亜戦争の英雄の日本人1へ戻る」








    大陸打通作戦(たいりくだつうさくせん)

    は、支那事変中の1944年(昭和19年)4月17日から12月10日にかけて、日本陸軍により中国大陸で行われた作戦。正式名称(日本側作戦名)は一号作戦(英語: Operation Ichi-Go)。その結果発生した戦闘についての中国側呼称は豫湘桂会戦。前半の京漢作戦(コ号作戦)と後半の湘桂作戦(ト号作戦)に大きく分けられる。

    日本軍の目的は、当時日本海軍の艦船や台湾を攻撃していた爆撃機を阻止するために、中国内陸部の連合国軍の航空基地を占領することと、日本の勢力下にあるフランス領インドシナへの陸路を開くことであった。日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦で、日本陸軍が建軍以来行った中で史上最大規模の作戦であった。

    計画通りに日本軍が連合国軍の航空基地の占領に成功し勝利を収めた

    日本軍は無事に桂林・柳州の連合軍基地を占領したかに見えたが、このような事態になることを恐れたアメリカ軍は、日本軍の侵攻に先立つ10月に航空基地を爆破した上で撤収していた。なおこの際に、連合国東南アジア軍副最高司令官のジョセフ・スティルウェルは、フランクリン・D・ルーズベルト大統領により罷免され帰国させられている。後任にはアルバート・ウェデマイヤーが就任した。

    7月にルーズベルトは?介石に書簡を送り、在華米軍、国民党軍、共産軍を統合した最高指揮官にスティルウェル将軍を任命するよう提案したが、蒋介石はこれを拒絶している。スティルウェルはその日記に次のように記述している[22]。

    他方で、日本軍は作戦目的地の占領には成功したものの、戦略的にはあまり利益を受けることができなかったという見方もある。地図上では朝鮮半島の釜山から、泰緬鉄道を経て、日本軍の勢力下にあるビルマのラングーンまで鉄道で往復できることになった

    大陸打通作戦は第二次世界大戦最大の大攻勢、かつ日本陸軍最後の大攻勢であり、これにより国民党軍は大打撃を受けて国共内戦時に影響を受けた。しかし一方でアメリカは、蒋介石に対し内戦回避のため、双十協定締結の仲介も行っている。

    バーバラ・W・タックマンの研究によれば、この作戦の結果は日本側の想像以上にその後の戦況に重大な影響(好影響)を及ぼし、かつ日本の命運にも決定的な影響(好影響)を与えたという[25]。それによるとフランクリン・ルーズベルトは、開戦以来一貫して蒋介石を強く信頼しかつ支持しており、カイロ会談の際に、?介石を日本との単独講和で連合国から脱落しないよう、対日戦争で激励し期待をかけたが、本作戦により?介石の戦線が総崩れになった事でその考え方を改めたという。実際、これ以降?介石が連合国の重要会議(「ヤルタ会談」と「ポツダム会談」)に招かれる事はなくなった。

    スティルウェル文書によると、「中国は勝てるか」と述べたルーズベルトに対し、スティルウェルは「?介石を排除するしかない」と述べ、1944年の衡陽会戦に際しては夜も眠れず、2回も自殺を考えたと言う。アメリカ側も?介石の暗殺を計画し、「毒殺」、「航空機事件」、「自殺に見せかける」という三方法が検討されたが、1944年ビルマ等の国際状況の変化で中止した。アメリカが想定していた後継者は孫科だという[26]。

    中国国民党軍はドイツ式やアメリカ式の装備と訓練を受けた一部の中央軍(?介石直属の軍)の部隊を除けばゲリラと軍閥の寄せ集めのような集団であり士気は低く1943年頃に中国は将軍18名、高級将校70名、兵士50万人が日本軍に投降していた。逃亡を防ぐための督戦隊もあった。

    1945年2月の米英ソのヤルタ会談は中国代表の参加が認められず、ルーズベルトはスターリンに対して?介石の承諾なしにソ連の対日参戦や満州の利権確保を認め、朝鮮の南北分割まで取り決めた。これを伝え聞いた蒋介石は独自に日中の二ヶ国間和平交渉である繆斌工作を開始し、ソ連の満州侵入前に戦争を終結させようとした。これには日本側の小磯國昭首相も賛成・期待していたが天皇や重臣の支持が得られず逆に小磯内閣の総辞職を招いた。

    繆斌工作は日中和平の絶好の機会であった、条件も満州国承認を暗示していた。しかし外相の重光衛、外交当局を通じていないとして大反対した。

    、 1945年になっても中国には支那派遣軍を弱体化させる事は出来ず、1945年のポツダム宣言受諾の際に支那派遣軍総司令官の岡村寧次は「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり」と無条件降伏に反対した




    「大東亜戦争の英雄の日本人1へ戻る」








    “不死身の分隊長”舩坂弘

    個人として唯一戦史に刻まれた男“不死身の分隊長”舩坂弘――日本軍1400VS米軍2万2000の圧倒的不利な状況で戦い抜いた豪傑伝説を解説 2022年6月22日 (水) 21:30

    https://originalnews.nico/167741

     「生きている英霊」と呼ばれた舩坂弘という人物をご存知でしょうか?

    第二次世界大戦のパラオ=マリアナ戦役の最後の戦いであるアンガウルの戦いで活躍した旧日本軍(大日本帝国陸軍)の元軍人です。戦中は「不死身の分隊長」と呼ばれた舩坂弘は、銃剣を用いた白兵戦闘において、彼に並ぶ攻撃力や生命力を持った生物はいないとまで言われるほどの強者でした。個人名としては唯一日本の公式な戦史である『戦史叢書』に名前が載っています。

     今回紹介する、いつかやる社長さんが投稿した『【ゆっくり解説】世界の奇人・変人・偉人紹介【舩坂弘】』という動画では、最終兵器戦士・舩坂弘の生い立ちから、伝説とも言うべき壮絶な戦いについて解説を行っています。

    舩坂弘

    (画像はWikipediaより) 投稿者をフォローして新着動画をチェック!

    強者の才能を持っていた舩坂弘は優秀な軍人だった

    左からベルサ、ユスタ。

    ユスタ:
     まず彼を一言で言うならば壮絶。ネットでは米軍相手に無双した軍人として有名だけど、彼が実際に戦った戦場はまさに地獄を絵に描いたような凄惨な物だったわ。
     舩坂は1920年、栃木県に生まれる。農家の家に三男として生まれ、幼少の頃から非常に体が頑丈で性格も負けん気が強く、その強靭な肉体で柔道や剣道でも多くの好成績を残す等、言わば強者の才能を持っていたわ。
    ベルサ:
     強者力がヤバい。
    ユスタ:
     そんな舩坂が20才の時に軍に入隊すると、その屈強さから精鋭部隊である第36師団へ配属され、更にその中でもエリートだけを集めた第1大隊に配属されたわ。
    ベルサ:
     めちゃくちゃ優秀な人じゃん。
    ユスタ:
     その後は隊長まで昇進し、満州で軍務についていたのだけど、それと同時期、日本は大きな転機を迎えていた。1941年、真珠湾攻撃により日米の太平洋戦争が勃発。この戦争で舩坂はある地獄の戦場へと送られたわ。
     エリートだけを集めた第1大隊に配属に配属された舩坂弘。コメント欄では、「いろいろレベル高い部隊だな」「その第一大隊ってまさかこんな超人がわんさかいるの‥?」といったコメントが寄せられました。
    地獄の戦場・アンガウル島での戦い
    ベルサ:
     地獄の戦場?
    ユスタ:
     そこは後に玉砕島と言われ、多くの兵士が壮絶な最期を遂げたアンガウル島だったわ。
    ベルサ:
     アンガウル島?
    ユスタ:
     パラオにある島の一つよ。日米が凄まじい死闘を繰り広げたペリリュー島から10km南にある島だったわ。
     このペリリューとアンガウルがアメリカの手に渡れば、日本そのものがアメリカの爆撃射程に入ってしまうの。
    ベルサ:
     パラオ取られたら日本負けちゃうじゃん!
    ユスタ:
     そう、それだけ重要な場所だからこそアメリカは、日本の防衛力を完全に粉砕するほどの戦力を用意していたわ。
    ベルサ:
     どのくらいの差があったの?
    ユスタ:
     敵はアンガウル攻略のために特殊訓練を施され、その素早い機動性から山猫部隊と呼ばれた、アメリカ軍第81歩兵師団22000人。
    ベルサ:
     山猫!
    ユスタ:
     更に戦車50両、戦艦10隻以上、空母を1隻、航空機100機以上水陸両用車を多数持ち、おまけに島全土に爆撃まで可能だった。
    ベルサ:
     ゴジラとでも戦うのかよ!
    ユスタ:
     対する日本の兵力は兵士1200人……だったわ。
    ベルサ:
     ん?
    ユスタ:
     兵士1200人だったわ。
    ベルサ:
     いやいやいや、戦車は? 戦闘機は? ユスタ:
     無かったわ。
    ベルサ:
     ええー! 何でさ!?
    ユスタ:
     日本は数少ない戦力のほとんどをペリリュー島に配備していたからよ。
    ベルサ:
     どないせいちゅーねん。
    ユスタ:
     この戦いの目的はアメリカ軍を倒す事ではない。命続く限り敵の基地建設をその身で阻止する事。つまり生きて帰る事の出来ない戦いだったのよ。
     そして1944年9月11日、遂にアメリカ軍の攻撃が開始。三日間にも及ぶ艦砲射撃と空爆の後に、遂にアメリカ軍は島の西から上陸を開始。
    ベルサ:
     ああ! 始まった!
    ユスタ:
     これに日本は敵に背後を突かれない為に、崖を背に決死の覚悟で迎え撃ったわ。そして激しい銃撃戦が始まったのだけど、日本はすぐにある異変に気がついた。
    ベルサ:
     ある異変?
    ユスタ:  敵の攻撃が西からだけでなく、崖であるはずの背後からも来ていたのよ。
    ベルサ:  うええええ! 何で!?
    ユスタ:  これこそアメリカの奇襲作戦だったわ。アメリカ軍はこの島の崖を膨大な砲撃で削り取り崖を平地に変え、そこから奇襲をしてきたの。
    ベルサ:  アメリカ化け物かよ!
    ユスタ:  そう、もはや力の差は歴然、壊滅は時間の問題だった。それでも日本、そして舩坂は動けなくなるまで戦い続けたわ。敵に一撃を与えるために激闘を繰り広げた舩坂の伝説とも言うべき戦いが始まるわ。
     アメリカのチート級の戦力に対し、日本はたったの1200人の戦力。生きて帰る事の出来ない戦いがアンガウル島で始まりました。コメント欄では、「捨て駒やん」「こんな無茶苦茶な戦いばっかな日本軍末期」「史上最悪のブラック職場」「あの世のへの片道切符(特急)だからな」といったコメントが寄せられました。
    次のページ ≫ 伝説とも言われる舩坂弘の壮絶な戦いとは?
    個人として唯一戦史に刻まれた男“不死身の分隊長”舩坂弘――日本軍1400VS米軍2万2000の圧倒的不利な状況で戦い抜いた豪傑伝説を解説 2022年6月22日 (水) 21:30
    伝説とも言われる舩坂弘の壮絶な戦いとは?
    ユスタ:  敵の奇襲に舩坂はすぐに擲弾筒で応戦。人が吹き飛ぶのが見える程の最前線で戦い、アメリカ軍数十人を吹き飛ばし、第一波目を撃退させるも、すぐに大量の戦車が襲い掛かってきた。
     その破壊力は凄まじく洞窟陣地まで後退し、ゲリラ戦でアメリカ軍に対抗。当然敵の集中砲火を浴び、舩坂は多くの傷を残したわ。最初に敵の至近弾が炸裂し、左足の太腿が抉れ、それでも戦い続ければ今度は迫撃の破片が左腕数か所に穴をあける。
     片手、片足がやられ擲弾筒が撃てなくなれば、唯一使える右手で直接砲弾を投げ戦うも重い砲弾のせいで今度は右腕まで捻挫。
    ベルサ:  ボロボロじゃないですかー!
    ユスタ:  激痛でもはや歩く事すら出来ない状態にも関わらず、負傷した部下を担ぎ洞窟陣地まで這って帰還していたわ。
    ベルサ:  どんだけタフなのさ!
    ユスタ:  更に帰還の途中で敵兵3人を見つけると、ケガの治療もせずに戦闘開始。一人を射殺すると、銃剣を持って叫びながら突進しもう一人を刺し、残った一人が銃底で舩坂の頭を殴打するも気を失う前にとっさに銃剣を投げ倒しているわ。
    ベルサ:  不死身かよ!
    ユスタ:  しかし舩坂の負傷はひどく、軍医が足のケガを見た時には何も言わず自決用の手榴弾を手渡されるほどだったわ。
    ベルサ:  見捨てられてるじゃん!
    ユスタ:  いえ、軍医も当然助けようとしたのだけど、連日の砲撃で日本の医療施設や貯蔵庫は全て破壊されており、助けようにも治療器具はおろか布の一切れも無かったの。
    ベルサ:  そんなに物が無かったの!?
    ユスタ:  舩坂のいた洞窟では多くの負傷者が水を求めながら死に、蝙蝠やムカデを見つければ数十人で分けて食べ、中にはもう助からないからと腕を切り落とし、自分の血液を仲間に渡し死んでいく者までいたわ。
    ベルサ:  まさに地獄絵図……。
    ユスタ:  舩坂はそんな死にゆく仲間にせめて水だけでも飲まそうと、重症の身体で単身水を汲みに行くのだけど、海の近くで敵に発見され集中砲火を浴び、その一発が舩坂の腹部を貫通してしまうの。
     戦場において腹部への銃創は死を意味していたわ。なんとか敵から隠れる事が出来たものの生き地獄のような耐え難い激痛が襲ってくる。もはやここが限界だった。
     舩坂は自決を決意し、軍医に渡された手榴弾を手にすると、心の中で家族に最後の言葉を残し、手榴弾の信管を叩き胸に抱いた。数秒後にこの地獄から解放される。舩坂の戦いはここで終わるはずだった。
    ベルサ:  ん?
    ユスタ:  それは粗悪品だったのか、運命のいたずらなのか。舩坂の持つ手榴弾は爆発しなかった。
    ベルサ:  ええ!
    ユスタ:  彼は死ねない事に絶望するのだけど、同時にこう考えたわ。「自分にはまだ死ぬ条件が揃っていない」「ならば最期に一矢報いて死のう」と。
     そして彼はアメリカに一撃を与えるためある計画を立てたわ。
    ベルサ:  どんな計画?
    ユスタ:  司令部への自爆攻撃よ。舩坂は手榴弾を6つ体に括り付けると、もはや立つ事も出来ない身体で這いながら司令部を目指したわ。
    ベルサ:  もう十分戦ったよ!
    ユスタ:  飲まず食わずでその体を引きずりながら進み崖を這い、岩礁で傷を負いながら前哨基地を抜け、ついに4日目司令部から20mの位置にたどり着いた。既に意識は朦朧で両目はほとんど見えなくなっていた。
    ベルサ:  なんという執念。
    ユスタ:  そして最後の気力を振り絞って走り出すも、そのスピードはもはや歩くより遅く、すぐに敵に発見され銃撃が飛んできたわ。それでも足を止めずに走り続けた。
     司令部は目前、後は手榴弾を起爆させるだけ。しかし、敵の方が早かった。アメリカ兵の放った銃弾の一発が舩坂の首に命中してしまう。彼は手榴弾を握りしめたままその場に崩れ落ちた。
    ベルサ:  終わった……。
    ユスタ:  アメリカの軍医は舩坂を病院に搬送すると兵士たちに「これが腹切りだ、日本の侍だけが出来る勇敢な死に方だ」「日本人はみな最後は狂人となって我々を殺しに来る」と語っていたそうよ。
    ベルサ:  まさに壮絶な終わりだね。
    ユスタ:  そう、首の銃撃は致命傷だった。しかし三日後に病院で蘇生したわ。
    ベルサ:  ええええええええ! 不死身じゃないですか!
    ユスタ:  目を覚ました舩坂は、敵に情けを掛けられたと怒り、病院の器具を破壊し、尋問でも偽情報を伝えたり、捕虜になっても飛行場を爆破しようと計画していたわ。
    ベルサ:  どこまで戦うのさ!
     どれだけ負傷しても生きて戦い続けた、不死身の分隊長・舩坂弘。コメント欄では、「人型最終決戦兵器」「壮絶すぎて言葉にならない」「チートすぎる」「事象すら死ぬことを許さないとかリアル異能生存体だコレ!」「ほんと訳が分からない、小説の登場人物って言われたほうが説得力ある」といったコメントが寄せられました。
    舩坂弘の戦いの終わりは?
    ユスタ:  しかしそんな舩坂の戦いを終わらせた人物がいたわ。
     それがクレンショーという軍医だったわ。クレンショーは自分を犠牲にしても戦い続ける舩坂に「貴方がいなくなれば誰が日本の復興をするのか?」「生きて日本を再建してください」と説得。
    ベルサ:  か……漢や……。
    ユスタ:  この言葉を舩坂は受け入れ、こうして壮絶な戦いは終わりを迎えたの。終戦後は戦争の体験を本にして出版し、そのお金でアンガウル、ペリリュー、グアム等、日本の激戦地に慰霊碑を立て、生涯、各島で戦死した兵士の遺骨を拾い続け、2006年、85才で戦い続けた人生に幕を下ろした。
     戦争を戦い抜き、戦死した仲間を思い続けた彼は亡くなる前にこう残しているわ。  「まだ島には数多くの遺骨が眠っている。私はそれを収骨しなければ、私はまだ……死ねない」
    ベルサ:  本当に壮絶な人だったね。
    ユスタ:  ただ活躍しただけでは無い。多くの苦しみや悲しみを負っているの。そうした所も知る必要だってあるのよ。
     アメリカ軍医に「生きて日本を再建してください」と言われ、舩坂弘の壮絶な戦いは終わりました。終戦後は日本の激戦地に慰霊碑を立て、生涯、各島で戦死した兵士の遺骨を拾い続け、2006年に亡くなる前に「収骨が終わるまでまだ死ねない」と人生の最後まで戦い続けました。コメント欄では、「まさに英霊」「大往生じゃねえか」「素晴らしい生き様でした・・・あとはごゆるりとお過ごしください」「かっけー」といったコメントが寄せられました。


    19.淵田 美津雄 真珠湾奇襲 攻撃隊長
    開戦劈頭真珠湾奇襲。本人は2次3次の攻撃を要望したが、南雲司令官が却下。

    太平洋戦争

    第一航空艦隊

    1941年8月25日、第一航空艦隊の赤城飛行長に着任した。淵田と海兵同期の航空参謀源田実中佐の希望であった。指名理由は極秘で準備していた真珠湾攻撃を成功させるため、優れた統率力、戦術眼を持ち源田と通じる同期生で偵察席に座り作戦の指揮に集中できる空中指揮官として淵田が必要だったからである[3]。淵田によれば源田とは親友の関係にあったためまたともに仕事ができると喜んだという[4]。異例の降格人事であったが、南雲忠一長官から「艦隊幕僚事務補佐」の肩書を与えられる[5]。また他の隊長とは格が違うため、攻撃隊員らは淵田に「総隊長」の称号を奉った[6]。草鹿龍之介参謀長は源田が案画し淵田が実行する好取組みと二人を評価し彼らの献策を入れて見守った[7]。源田参謀により航空隊の訓練と指揮が空中指揮官にまとめられたため、淵田は一航艦全空母の航空隊を統一訓練指導した[5]。1941年10月、海軍中佐。

    1941年12月、ハワイ作戦に参加。8日、真珠湾攻撃における空襲部隊の総指揮官で第1次攻撃隊を指揮し、「ト・ト・ト」(全軍突撃せよ)及び「トラトラトラ」(奇襲ニ成功セリ)が淵田中佐機から打電された。真珠湾攻撃の戦果は戦艦4隻が大破着底戦艦2隻が大・中破するなど、米太平洋艦隊戦艦部隊を行動不能にする大戦果をあげた。攻撃後に淵田は源田とともに数日付近にとどまり留守だった敵空母を撃滅する案を進言したが受け入れられなかった[8]。12月26日、第一次攻撃隊指揮官淵田と第二次攻撃隊指揮官嶋崎重和少佐は直接昭和天皇への真珠湾攻撃軍状奏上が許される。佐官による軍状奏上は初のことであった。

    生涯

    1902年12月3日、奈良県北葛城郡磐城村(現・葛城市)で教師の父・弥蔵と母・シカの三男として生まれる。旧制奈良県立畝傍中学校を経て、1921年(大正10年)、海軍兵学校に海兵52期として入学する。同期に源田実、高松宮宣仁親王らがいる。1924年7月24日、海軍兵学校を卒業、少尉候補生。



    4. マレー沖海戦 【日本海軍】

    ■指揮官 「松永貞市少将」

    マレー沖海戦は、太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)初期、真珠湾攻撃に続いてマレー半島沖で決行された航空作戦である。シンガポール防衛のため出撃したイギリス海軍東洋艦隊に、大日本帝国海軍の航空機群が突如として襲いかかった。このマレー沖海戦によって、それまでの世界の常識であった大艦巨砲主義が終わりを告げることとなる。

    http://xn--ww2-523es33s4hr4hk.jp/kantaisen00a.htm

    マレー沖海戦での各国の参加艦船 【日本海軍】

    ■指揮官 「松永貞市少将」

    ▼第十一航空艦隊:第二十二航空戦隊

    ・元山海軍航空隊

    ・美幌海軍航空隊

    ・鹿屋海軍航空隊

    ▼航空機:85機

    ▽九六式陸上攻撃機 ▽一式陸上攻撃機

     VS 【イギリス海軍】

    ■指揮官 「トーマス・フィリップス大将」

    ▼戦艦:1隻 『プリンス・オブ・ウェールズ』

    ▼巡洋戦艦:1隻 『レパルス』

    ▼駆逐艦:3隻 『エレクトラ』『エクスプレス』『テネドス』

    【オーストラリア海軍】

    ▼駆逐艦:1隻 『ヴァンパイア』

    マレー沖海戦・両軍出撃

    マレー沖海戦が生起する2日前の12月8日、大日本帝国軍がマレー半島北東部コタバルに上陸開始。この日本軍輸送船団を撃破するため、新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』を筆頭とするイギリス海軍東洋艦隊が出撃した。

    当時は大艦巨砲主義、いわゆる大きな艦ほど強いとされる思想が中心で、作戦行動中の戦艦が航空機によって沈められることはないと考えられていた。さらに、イギリス軍は日本軍航空機を過小評価しており、また、イギリス空軍司令部がコタバル飛行場から撤退したこともあり、この時イギリス海軍東洋艦隊には上空支援は一切ない状態であった。

    一方、大日本帝国海軍は、新鋭戦艦を主力とするイギリス東洋艦隊の動きを察知していた。しかしこの方面を担当していた艦隊は、主力となる戦艦『金剛』『榛名』が老朽艦であったことから、艦隊戦は避ける方針で対応が進められた。

    12月9日、潜水艦『伊65』『伊58』がイギリス艦隊を発見し、10日早朝にかけて追跡するも、途中で見失ってしまう。12月10日6時25分、索敵と攻撃を兼ね、松永貞市少将が指揮する海軍第二十二航空戦隊(計85機)がサイゴン、ツドゥム基地から出撃した。

    11時45分、先導する索敵機がイギリス艦隊を発見し、後世にも伝えられることとなるマレー沖海戦が開始された。航空機のみで、あえて行動中の戦艦を沈めることを狙いとした、常識を打ち破る海戦である。

    プリンス・オブ・ウェールズ撃沈

    12月10日12時45分、対空砲火をかいくぐった「九六式陸上攻撃機」が次々に爆弾を投下し、巡洋戦艦『レパルス』が被弾した。命中した1発の爆弾は居住区を貫通し下甲板で爆発。『レパルス』の艦内が激しい炎に包まれる。

    イギリス東洋艦隊司令官トーマス・フィリップス大将は、日本軍航空機が雷撃できるとさえ思っておらず、空軍に掩護を求める気配もない。この時、シンガポールではイギリス空軍の戦闘機がただただ待機し続けていたという。

    13時14分、そんなトーマス・フィリップス大将が座乗する『プリンス・オブ・ウェールズ』に2本の魚雷が命中。隔壁が破壊された『プリンス・オブ・ウェールズ』はいきなり傾斜し始めた。

    一方、『レパルス』は、初弾以降は、巧みな操艦で日本海軍第二十二航空戦隊の攻撃を全て避け切っていた。しかし防戦一方であるこの状況を鑑みた『レパルス』のテナント艦長は、独断で無線封止を破り空軍に掩護を要請した。

    13時37分、さらに「一式陸上攻撃機」26機がイギリス艦隊上空に到達、猛攻を開始する。回避し切れなくなった『レパルス』は魚雷を立て続けに受け、14時03分、ついに沈没。同様に被弾し続けた『プリンス・オブ・ウェールズ』は14時50分に転覆、艦尾から沈んでいった。この際、トーマス・フィリップス大将は戦死、テナント艦長は駆逐艦『ヴァンパイア』に救助された。

    マレー沖海戦終了後、日本国内では、その戦果を発表するニュースと同時に、「英国東洋艦隊潰滅」という軍歌も流された。真珠湾攻撃に続いて常識を打ち破った戦術に世界が驚愕し、また、このマレー沖海戦によって、イギリスに支配され植民地化されていた東南アジア各国では独立の機運が高まることとなった。

    マレー沖海戦での各国の被害状況 日本海軍>>

    ▽航空機:損失6機

    イギリス海軍>>

    【沈没】:『プリンス・オブ・ウェールズ』『レパルス』





    3.空の神兵(そらのしんぺい)

    とは、大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊(空挺部隊・挺進部隊)、落下傘兵

    空の神兵(そらのしんぺい)

    とは、大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊(空挺部隊・挺進部隊)、落下傘兵(空挺兵・挺進兵)に対する愛称。および、それら落下傘部隊を描いた日本の軍歌(戦時歌謡)、ならびに陸軍落下傘部隊を描いた映画作品のタイトル。

    日本軍落下傘部隊

    「真白き薔薇の花模様」と謳われた落下傘。パレンバンに降下する帝国陸軍第1挺進団 詳細は「挺進連隊」、「第1挺進集団」、および「日本海軍空挺部隊」を参照 太平洋戦争(大東亜戦争)蘭印作戦中の1942年(昭和17年)1月11日、海軍の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊がセレベス島メナドに、同年2月14日に陸軍の第1挺進団(挺進第2連隊)がスマトラ島パレンバン(パレンバン空挺作戦)に対し敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。作戦は成功しオランダ軍他が守備する飛行場(メナド・パレンバン)や、大油田・製油所(ともにパレンバン)を制圧した。これらの活躍から日本軍落下傘部隊に対し「空の神兵」の愛称が付けられた。

    陸上自衛隊

    この『空の神兵』は、帝国陸軍落下傘部隊(第1挺進集団)の事実上の後身である陸上自衛隊第1空挺団にも継承されている。

    第1空挺団は衣笠駿雄元陸軍少佐[4]に率いられた第1次研究員20名によって創設されたものであるが、この第1次研究員20名こそが太平洋戦争末期に帝国陸軍落下傘部隊において教育途中であった元挺進兵であった。そのため帝国陸軍落下傘部隊の歴史は陸上自衛隊落下傘部隊の歴史とされ、その伝統を堂々と継承している第1空挺団の事実上の隊歌として使用、かつ「降下訓練始め」では歌唱付きの『空の神兵』がそのまま場内で放送されている。このほか、 富士総合火力演習や駐屯地祭・基地祭などでの降下展示の際に、音楽隊により演奏またはBGMが流される場合がある。





    3.坂井三郎 

    ガダルカナル上空で被弾し片目を失いながら1000kM操縦しラバウルに帰還したエースパイロット

    負傷

    負傷して戦闘から帰還した直後に撮影した写真

    1942年(昭和17年)8月7日、ガダルカナル攻撃に参加。アメリカ海軍のジェームズ・“パグ”・サザーランドのF4Fワイルドキャットとの戦闘があった。坂井三郎曰く、はぐれた列機、柿本円次と羽藤一志が一機のグラマンに追われていたので助けに入り、単機巴戦の末撃墜したとのこと[18]。しかし、サザーランド曰く、陸攻との戦闘で被弾した結果、グラマンは黒煙を吹き、機銃も故障した状態で零戦4機に追われる中火災が発生したので落下傘で脱出したとのこと[19]。戦後このグラマンを調べた結果、機銃の故障などサザーランドの証言と一致した。日本の戦闘詳報では、坂井三郎と列機の羽藤、そして別隊の山崎市郎平による共同撃墜となっている[20]。

    この戦闘からの帰路、ガダルカナル島の上空において、坂井はSBDドーントレス艦上(偵察)爆撃機の編隊を油断して直線飛行しているF4Fの編隊と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びた。坂井は右前頭部を挫傷して左半身が麻痺し、加えて右目も負傷。(左目の視力も大きく低下)計器すら満足に見えないという重傷を負った。

    坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。一時は負傷の状態から帰還は無理と考えて体当たりを画策するが敵艦を発見できず、帰還を決意。まず止血を行い出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした。正常な着陸操作ができる状態ではなかったため、降下角と進入速度のみをコントロールし、椰子の木と同じ高さに来た時、エンジンを足で切って惰性で着陸するという方法を取った。周回をあと1回行っていたら、燃料切れで墜落していたと言われるほど際どいものであったと語っている。丹羽文雄が重巡洋艦鳥海からびっくりするほど低空を飛行している零戦を目撃したと記しているが、これは日時が違い坂井ではない[21]。

    坂井が受けた傷はラバウルの軍医では治療できず、内地に送還。坂井は、笹井醇一から「貴様と別れるのは、貴様よりもつらいぞ」と言われ、虎は千里を行って千里を帰るという縁起から坂井がまた帰って来るように、笹井が父からもらった虎のベルトバックルを渡されたという。その後笹井は戦死したが、がっかりするだろうからという理由で坂井には半年間知らされず、知ったときは自分がついていたら死なせなかったのにと地団太踏む思いがしたという[22]。

    横須賀海軍病院で手術を受けたが、右目の視力をほぼ失い左も0.7にまで落ち、左半身は痺れた状態だった。右目の視力を失ったことにより、搭乗員はもちろん軍人としてさえ勤務はできないであろうから軍人を辞めるように宣告された。市中での生計手段として指圧師や按摩師の道を勧められ、研修も受けていたが、転職する前に転院することになった[23]。佐世保病院に移されたときに、ラバウルより帰国して再編成中の251空(改称後の台南空)に行った坂井は、司令になっていた小園安名中佐に対して「片目でも空戦経験の少ない戦闘機乗りよりも、私は使えると思う」と説得した。軍医は反対したが、小園も訓練を見てみて具合が悪くて飛べなくても教官にすると言ったことから、坂井は航空隊に留まることになった[24]。台南空が内地で訓練する間、坂井が後輩たちをバットで殴る指導もあった。坂井はラバウルでは10月になると死者が出て、内地で教える時間がないからまずい戦いをしたやつは殴った、殴ると反省するから効果があったと語っている[25]。

    1942年10月、飛行兵曹長に昇進。1943年(昭和18年)2月、豊橋航空隊で搭乗員に復帰して訓練を行ったが、ラバウル進出直前の1943年(昭和18年)4月、大村航空隊に異動、教官に配属される[26]。

    硫黄島

    1944年(昭和19年)4月13日、横須賀海軍航空隊に配属。台南空の上官だった中島正少佐によって、大村空で教官をしていた坂井は横須賀空へ呼び寄せられた。

    坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年8月26日 - 2000年9月22日)は、日本の海軍軍人。ポツダム進級により最終階級は海軍中尉。太平洋戦争におけるエース・パイロット。著書『大空のサムライ』で有名。撃墜数は自称64機だが、後述のように公認撃墜数は28機である。

    経歴

    1916年(大正5年)8月26日、佐賀県佐賀郡西与賀村大字厘外1523番地(現在の佐賀市西与賀町大字厘外)で農家の三男だった父・坂井晴市と母ヒデの次男として生まれる。名前は祖父の勝三郎に由来している。坂井が5歳のときに一家は祖父の家から夜逃げ同然で出奔して貧しい生活を送った。





    5.加藤隼戦闘隊(かとうはやぶさせんとうたい、)

    とは、大東亜戦争初期に活躍した加藤建夫陸軍中佐

    加藤隼戦闘隊(かとうはやぶさせんとうたい、旧字体: 加藤隼戰鬪隊)とは、大東亜戦争初期に活躍した加藤建夫陸軍中佐(戦死後、陸軍少将)率いる大日本帝国陸軍の飛行戦隊、飛行第64戦隊(飛行第六十四戦隊。

    南方作戦

    1942年初頭、第64戦隊のピスト(フランス語に由来する空中勤務者控所を意味する陸軍用語)にて第3中隊長安間克巳大尉らと談笑する加藤建夫戦隊長

    詳細は「一式戦闘機#南方作戦」を参照 第7飛行団に所属する第64戦隊は、12月7日より対米英戦争(太平洋戦争)開戦にむけて、マレー作戦の主力第25軍(司令官・山下奉文中将)を乗せた上陸部隊輸送船団の海上空中護衛を、加藤少佐機以下7機が実施。夜間・洋上・悪天候・長時間という特に単座戦闘機にとっては最悪の条件にもかかわらずこれを成し遂げた(悪天候により高橋三郎大尉・中道格蔵少尉・都築昌義准尉3機未帰還)

    なかでも蘭印作戦における1942年(昭和17年)2月14日のパレンバン空挺作戦では、第59戦隊とともに、加藤の統一指揮のもとスマトラ島パレンバン油田に落下傘降下する陸軍空挺部隊「空の神兵」こと第1挺進団(一〇〇式輸送機・ロ式輸送機)を護衛・掩護。第64戦隊はハリケーン15機と交戦するも、マクナマラ少尉機・マッカロック少尉機の2機を撃墜し残機も撃退(内撃墜1機は加藤の戦果。さらにもう2機が燃料切れで不時着し英軍損失は計4機)[7]、かつ「隼」および降下前輸送機に損害もなく一方的に勝利している。南方資源地帯掌握のため始められた太平洋戦争において、東南アジア屈指の大油田地帯であるパレンバンは戦略上の最重要攻略目標であり、その確保に大貢献した「隼」と第64戦隊の働きは相当なものであった。

    第64戦隊は終戦までに計7枚(うち1枚は戦隊長加藤少将の個人感状、飛行第2大隊時代を含めると計9枚)と日本陸海軍最多数の感状を拝受しているが、うち3枚はマレー上陸作戦・パレンバン空挺作戦・ジャワ上陸作戦の活躍によるものであった。

    以下一連の一式戦の戦果は、戦史家梅本弘が日本軍の戦果記録を連合軍の損害記録たる一次史料と照会した「確認が出来た最小限で確実な数字たる戦果」である[8]。第64戦隊・第59戦隊の一式戦は太平洋戦争緒戦の空戦において実質約4倍の数を、対戦闘機戦では約3倍の数の敵機を撃墜した。





    6. ラバウル航空隊(ラバウルこうくうたい)

    とは、第二次世界大戦時、ニューブリテン島(現在のパプアニューギニア)のラバウル基地に集結してこの空域に展開して戦闘に参加した、日本海軍・陸軍の各航空隊(航空部隊)の総称である。

    1942年(昭和17年)1月から、日本軍は南方作戦の一環としてオーストラリア委任統治領であるニューブリテン島を制圧(ラバウルの戦い)。同時に、日本海軍航空隊は南太平洋諸島の確保、トラック諸島の海軍根拠地の防衛、機動部隊の支援を目的にラバウルに進出。同年末には日本陸軍航空部隊も進出し、重要拠点化された。

    航空隊は作戦に呼応してアメリカ陸軍・オーストラリア軍に対する東部ニューギニア、およびアメリカ海軍・海兵隊・ニュージーランド軍に対するソロモン方面の各基地を移動転戦したが、戦局の悪化とともに重要性が減り、少数の残存者・航空機を除き1944年(昭和19年)2月にラバウルから撤退したものの、その後も残存者や航空機が終戦に至るまで偵察などの活動を続けた。

    歴史 1942年

    日本の進出

    日本は内南洋方面の守りを固める目的で、陸海軍でオーストラリアの委任統治領であったラバウルとカビエンを攻略することを決めた[1]。ラバウル航空隊は、中村忍大佐が指揮する水上機母艦「聖川丸」(第四艦隊所属)の水上機隊から始まった[2]。1942年1月20-22日、日本海軍の第一航空艦隊がラバウルを空襲により制圧し、23日攻略に成功する[3]。翌24日、「聖川丸」がラバウルに進出し、水上機基地を開設した。25日、横浜海軍航空隊の九七式飛行艇の一部が派遣されたが、敵機による被害を避けるために即日出発してニューアイルランド島の南東方にあるグリーン島に基地を移し、戦闘機隊の進出を待って2月4日にラバウルに基地を開設した[4]。

    1942年1月24日、千歳海軍航空隊の副長山中龍太郎中佐は飛行艇に便乗してラバウルに出発、陸軍の協力を得てラバウルの飛行場整備を行い小型機の離着陸の見込みがつき、岡本晴年大尉の指揮する九六式艦上戦闘機18機の進出が命じられた。慎重を期して航空母艦で輸送されることになったが、同隊は空母の経験者が少なく、25日、空母翔鶴・瑞鶴母艦飛行機隊の操縦員によって着艦収容された。26日、千歳空の操縦員によって発艦したが、天候不良で一度引き返して着艦未経験者を含む全機無事成功した。27日、再度発艦してカルビエンの飛行場に着陸したが、整備が不十分で2機が着陸時破損。整備員不在、燃料不足、天候不良の問題で同隊がラバウル進出を完了したのは31日のことであった[5]。

    2月10日、千歳空分遣隊と高雄海軍航空隊陸攻隊で第四海軍航空隊(森玉司令)を新編。1942年2月14日、第二十四航空戦隊司令部が進出し、いわゆる「ラバウル航空隊」の誕生となった。20日、ラバウル南方の最初の航空戦は、接近する米機動部隊に対し4空の一式陸上攻撃機17機が攻撃に向かったが、帰還機はわずか2機と開戦以来の最大の被害となった(ニューギニア沖海戦)[6]。23日、第一航空隊陸攻隊(中攻隊)がラバウルに着任[7]。24日からニューギニア島東南部、ポートモレスビー基地攻撃を開始。3月7日、陸軍南海支隊の一部のサラモア上陸、海軍陸戦隊のラエ上陸で終戦まで続くニューギニアの戦いが開始。3月8日、ラエ・サラモア攻略作戦に成功。その後、ソロモンは搭乗員の墓場といわれるほど激しい戦闘となり、5月3日のツラギ攻略で終結した。ラエ占領後のポートモレスビーは一進一退の攻防に終始し、ラバウルは零式艦上戦闘機の活躍により保持されていた[8]。一方で3月31日、先のフィリピン攻略戦初期の爆撃行時に不時着、抗日ゲリラの捕虜となるも陸軍部隊に救出され復帰した1空の原田機(九六式陸上攻撃機)乗組員一同に対し、その処分に困じた海軍上層部がモレスビー基地陣地への攻撃・自爆命令を発している(一空事件)[9]。

    4月1日、第二十五航空戦隊が新編される。25航戦は編制上第十一航空艦隊の隷下だが、連合艦隊は軍隊区分で南洋部隊に配属させた。24航戦は開戦以来南洋部隊基地航空隊として南洋群島、南東の航空作戦に任じてきたが、25航戦の新編でマーシャル方面基地航空部隊となった。25航戦がラバウル方面となり、24航戦の西方空襲部隊任務を引き継いだ[10]。25航戦に台南海軍航空隊、四空、横浜空が、24航戦に千歳空、1空、14空が編入された。台南空は、ラバウルおよびラエ方面で作戦中だった4空の戦闘機隊の人員、機材の大部分を吸収し、バリ島およびクーパンに展開中だった台南空本隊もラバウルに進出した[11]。10日、1空は後退し本土木更津で再建に入る[12]。5月3日、浜空(横浜海軍航空隊)飛行艇隊はガダルカナル島ルンガ泊地北東対岸に位置するフロリダ島南端小島のツラギに進出する。





    7.ガダルカナル島撤収作戦(がだるかなるとうてっしゅうさくせん)

    は第二次世界大戦中に行われた日本軍の撤退作戦。作戦呼称は「ケ号作戦」。由来は捲土重来(けんどちょうらい)による[要出典]。

    概要

    ケ号作戦は、1943年(昭和18年)1月下旬から2月上旬にかけて日本軍が実施したガダルカナル島からの撤退作戦。

    1942年(昭和17年)12月31日開催の御前会議で昭和天皇がガダルカナル島からの撤退と東北部ニューギニアへの作戦重点変換を裁可した[2]ことを受けて1月4日にガ島撤退の大命が下り、日本軍は正式に撤退準備を開始した[3]。日本陸軍はラバウルの第八方面軍(司令官今村均陸軍中将)[1]とガダルカナル島現地の第17軍(司令官百武晴吉陸軍中将)、日本海軍は山本五十六連合艦隊司令長官の総指揮下で[1]、南東方面部隊(指揮官草鹿任一南東方面艦隊司令長官、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)および隷下の外南洋部隊増援部隊(第三水雷戦隊司令官橋本信太郎海軍少将、第十戦隊司令官小柳冨次海軍少将)が作戦を担当した。

    各方面(大本営陸海軍、現地陸海軍部隊)とも悲観的見通しをもってケ号作戦を発動した[4][5]。作戦は、基地航空隊による航空撃滅戦を実施して制空権を確保したあと(この航空作戦でレンネル島沖海戦が生起)[6]、水雷戦隊によって撤収作戦がおこなわれた[7]。 撤退は3回次に分けて行われ、沈没艦は駆逐艦1隻、損傷は駆逐艦3隻のみで、2月8日をもって日本軍の撤退は成功した[注 4][注 5][9]。撤退中に発生した戦闘についてはイサベル島沖海戦と呼称されることが多い。撤退により救出された日本軍は1万2千名余りだった[10]。





    20.キスカ島撤退作戦

    は、アッツ島玉砕後、 第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が収容部隊を指揮した。同艦隊がキスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の5600名の撤収に見事に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる

    キスカ島撤退作戦(キスカとうてったいさくせん)

    は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)5月27日から7月29日に行われた、日本軍のキスカ島(アメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島内)からの守備隊撤収作戦のことである。

    正式名称はケ号作戦。北方部隊指揮官河瀬四郎第五艦隊司令長官が総指揮を取った。 第一期撤収作戦は、5月下旬から潜水艦による作戦が実施された。しかし成果の割には損害が多く、また効率も悪かったため6月下旬をもって打ち切られ[1]、水上艦艇による撤退作戦に切り替えることとなった[2]。

    第二期撤収作戦は、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が収容部隊を指揮した。同艦隊がキスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に見事に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる。

    アッツ島が陥落した状態ではアッツ島とアメリカ軍飛行場のあったアムチトカ島に挟まれ、制海・制空権を完全にアメリカ軍に握られた戦域に孤立無援となっていた[8]。日本軍守備隊は、退くに退けず、待つのは死か降伏かという状態になってしまった[5]。

    キスカ島守備隊

    陸軍北海守備隊司令官 峯木十一郎少将(陸士28期)2,700名

    陸軍北方軍司令官 樋口季一郎中将(陸士21期) 麾下 海軍五十一根拠地隊司令官 秋山勝三少将(海兵40期)2,800名

    大本営でもこの状況は把握していたが、アッツ島にアメリカ軍が上陸した時点で増援を送ることは地理的にも兵力的にもほぼ不可能に近かった。アッツ島守備隊が戦っていた5月21日、大本営はアリューシャン方面の放棄を決定した[9]。まだ敵軍が上陸していなかったキスカ島は守備隊を撤退させることになった[9]。アッツ島も守備隊の撤退が提案はされたが、陸海軍間で調整がつかず結局海軍の反対で断念、代わりにキスカ島の守備隊撤退に重点を絞って作戦計画が練られることとなった。

    作戦名は「ケ」号作戦であった(「ケ」は「乾坤一擲」を意味する)[5]。





    21.大陸打通作戦は、

    大東亜戦争中1944年(昭和19年)4月17日から12月10日にかけて、日本陸軍により中国大陸で行われた作戦。これが成功し、シンガポールから朝鮮の釜山まで資源の鉄道輸送が可能になった。この戦いの結果、蒋介石は、日本との和平を模索、提案してきた。

    中国戦争目的 蒋介石中國の大陸支配の維持。

    この作戦の結果蒋介石国府軍は弱体化し、のちの共産党軍に大陸から台湾に追い落とされることになった。

    大陸打通作戦(たいりくだつうさくせん)は、支那事変中の1944年(昭和19年)4月17日から12月10日にかけて、日本陸軍により中国大陸で行われた作戦。正式名称(日本側作戦名)は一号作戦(英語: Operation Ichi-Go)。その結果発生した戦闘についての中国側呼称は豫湘桂会戦。前半の京漢作戦(コ号作戦)と後半の湘桂作戦(ト号作戦)に大きく分けられる。

    日本軍の目的は、当時日本海軍の艦船や台湾を攻撃していた爆撃機を阻止するために、中国内陸部の連合国軍の航空基地を占領することと、日本の勢力下にあるフランス領インドシナへの陸路を開くことであった。日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦で、日本陸軍が建軍以来行った中で史上最大規模の作戦であった。

    計画通りに日本軍が連合国軍の航空基地の占領に成功し勝利を収めたが、その後連合国軍が航空基地をさらに内陸部に移動させたことや、作戦中にアメリカ軍によりマリアナ諸島が陥落し、本州がボーイングB-29の作戦範囲内になったことから戦略目的は十分には実現できなかった。

    蒋介石にとって、

    中国国民党軍はドイツ式やアメリカ式の装備と訓練を受けた一部の中央軍(?介石直属の軍)の部隊を除けばゲリラと軍閥の寄せ集めのような集団であり士気は低く1943年頃に中国は将軍18名、高級将校70名、兵士50万人が日本軍に投降していた。逃亡を防ぐための督戦隊もあった。

    1945年1月のレド公路の打通まで中国側の軍事物資がヒマラヤ越えという不利な点を考慮すれば、日本と単独講和で休戦して連合国の戦線から離脱する事が蒋介石政権崩壊を防ぐための得策であった。[29]

    1945年2月の米英ソのヤルタ会談は中国代表の参加が認められず、

    ルーズベルトはスターリンに対して蒋介石の承諾なしにソ連の対日参戦や満州の利権確保を認め、朝鮮の南北分割まで取り決めた。これを伝え聞いた

    蒋介石は独自に日中の二ヶ国間和平交渉である繆斌工作を開始し、ソ連の満州侵入前に戦争を終結させようとした。

    これには日本側の小磯國昭首相も賛成・期待していた

    当初、仲介役の緒方竹虎の説得により、陸軍大臣も海軍大臣も賛成した。しかし外相の重光衛は、外務当局を通さない、という外交官の本能で、強硬に反対した。この結果、

    天皇や重臣の支持が得られず逆に小磯内閣の総辞職を招いた。

    1945年になっても中国には支那派遣軍を弱体化させる事は出来ず、1945年のポツダム宣言受諾の際に支那派遣軍総司令官の岡村寧次は「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり」と無条件降伏に反対した



    22.「義号部隊」とは、「義烈空挺隊」のことで、占領下の沖縄、飛行場に強行着陸をして

    敵陣を撹乱する特別攻撃隊(特攻隊)のことである。奥山道郎大尉以下約一五〇人の義烈空挺隊は、九七式重爆撃機一二機に分乗して沖縄、北、中飛行場へ向かった。 、滑走路沿いにならんでいる米軍機に手榴弾を投げつけた。コルセア二機、C―54型輸送機四機、プライベティアー一機を撃破した。その他、リベレーター爆撃機一機、ヘルキャット三機、コルセア二十二機、合計二十六機を撃破した。

    「義号部隊」とは、「義烈空挺隊」のことで、飛行場に強行着陸をして

    敵陣を撹乱(かくらん)する特別攻撃隊(特攻隊)のことである。奥山道郎大尉以下約一五〇人の義烈空挺隊は、九七式重爆撃機一二機に分乗して北、中飛行場へ向かった。

    、滑走路沿いにならんでいる米軍機に手榴弾を投げつけた。コルセア二機、C―54型輸送機四機、プライベティアー一機を撃破した。その他、リベレーター爆撃機一機、ヘルキャット三機、コルセア二十二機、合計二十六機が撃破された

    第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦 義烈空挺隊の北、中飛行場攻撃 玉城裕美子

    https://yomitan-sonsi.jp/sonsi/vol05b/chap03/content/docu022.html <-前頁 次頁->

    はじめに

     日本軍は、一九四三年(昭和十八)夏、村中央部に北飛行場(総面積七三万坪)の建設を開始した。北飛行場は、日本軍指導のもと沖縄県民の労働力を駆使した人海戦術によって、夜に日を接ぐ突貫工事で、一九四四年十月初めにはほぼ完成した。

    しかし、一九四五年(昭和二十)四月一日、読谷〜北谷に至る西海岸から上陸した米軍は、すぐに北飛行場を占領し、三日には使用を開始していた。

     一九四五年五月二十四日、日本軍は米軍が使用していた北飛行場及び中(嘉手納)飛行場を、義号作戦にのっとり奇襲攻撃した。

    義号作戦とは、一九四五年五月上旬、陸軍第六航空軍が海軍とも協議して策定したもので、作戦方針は「義号部隊ヲ以テ沖縄北、中飛行場ニ挺進シ敵航空基地ヲ制圧シ其ノ機ニ乗シ陸海軍航空兵力ヲ以テ沖縄附近敵艦船ニ対シ総攻撃ヲ実施ス」(『沖縄方面陸軍作戦』五四〇頁)であった。

     「義号部隊」とは、「義烈空挺隊」のことで、飛行場に強行着陸をして敵陣を撹乱(かくらん)する特別攻撃隊(特攻隊)のことである。奥山道郎大尉以下約一五〇人の義烈空挺隊は、九七式重爆撃機一二機に分乗して北、中飛行場へ向かった。

     以下に掲載する義烈空挺隊の「攻撃計画」には、この計画の「方針」「攻撃実施」「連絡」「給養」「衛生」「編成装備搭乗区分」などが記されている。「攻撃実施」は第一期攻撃と第二期攻撃とに分かれており、まず北、中飛行場及びその周辺を攻撃した後、二二〇高地(読谷山岳)東側に集結し、遊撃戦闘に移行して後方撹乱の作戦を展開し、敵の補給を困難にすることを目的としている。「給養」では、基地において服用するものが「熱地戦力源一錠、撃滅錠一箇、防吐ドロップ五箇」の栄養剤等になっている。また補給食が海苔巻寿司や稲荷寿司などと豪華で、飛行機上(残部は作戦地)では羊羹(ようかん)やキャラメル、果実などの給食があったことがわかる。また「衛生」で「沃度丁幾」とあるのは消毒薬のヨードチンキのことで、幹部用携行として「ビタカンファー」と「ハブ用特効薬」が記されている。「ビタカンファー」とは、強心剤の一種で呼吸中枢興奮剤のことである。

     『沖縄方面陸軍作戦』には義烈空挺隊について「五月二十四日一八五〇義号作戦部隊の搭乗機一二機は熊本飛行場を離陸し(中略)二二一一飛行場突入の無電あり、北飛行場六機、中飛行場二機着陸成功(中略)四機が目的地に達し得ないで引き返した」(五四二頁)とある。

     「義烈空挺隊」の目的達成のため、陸軍中野学校出身者(一〇名)が指揮官や隊員として配属され、また隊員として沖縄出身者二人が搭乗していた。吉浜忍氏からの情報によると、それは山城金栄准尉(九番機に搭乗し中飛行場で戦死)と比嘉春弘伍長(ひき返した十一番機に搭乗、生還)である。また八原博通著『沖縄決戦』には、生き残りの一人が敵中を突破して昭和二十年六月十二日に軍司令部に報告したとの記述がある。

     一方、『沖縄 日米最後の戦闘』(米国陸軍省編 外間正四郎訳 光人社NF文庫)では、

     「義烈空挺隊の双発爆撃機五機が、夜十時半ころ伊江島の方向から低空で飛んできた。対空砲がただちに火を吐き、読谷飛行場の上空で炎上墜落、だが、他の一機は砲火をくぐって読谷飛行場の滑走路に胴体着陸し、およそ八人の完全武装の軍人が機から八方につっ走り、滑走路沿いにならんでいる米軍機に手榴弾を投げつけた。コルセア二機、C―54型輸送機四機、プライベティアー一機を撃破した。その他、リベレーター爆撃機一機、ヘルキャット三機、コルセア二十二機、合計二十六機が撃破された。

     この日本軍空挺隊の胴体着陸の騒ぎのなかで、米軍は二人が戦死し、十八人が負傷した。その日の夜十一時三十分、飛行場の米軍部隊の増援として、また、もし日本軍の空挺部隊がひきつづいて着陸する場合にそなえて、新たな米軍部隊が読谷に送りこまれてきた。

     米軍は合計三十三機が撃破、破損をこうむったうえに七万ガロンのガソリンが入っているドラム罐六百本が爆破炎上させられた。

     最終に調査が行なわれたとき、日本軍は読谷で十人が戦死、十三人が飛行機のなかで戦死したまま発見された。これは明らかに飛行中、米軍の対空砲火にやられたものと思われる。  義烈空挺隊の他の四機には、各機とも十四人ずつ乗り組んでおり、全員とも火を吹いて撃墜された機のなかでそのまま死んでいた。死体は六十九体をかぞえた。つぎの日に残波岬でやられた兵が日本軍空挺隊最後の一人となった。

     読谷飛行場は滑走路に残骸が散乱し、五月二十五日午前八時までは使用不能になったが、これを最後に日本軍はふたたび空挺隊を着陸させようとはしなかった」(三九七〜三九八頁) と記されている。  現在(二〇〇四年三月)、読谷村役場新庁舎前の道路(旧誘導路)を隔てて向かい側には、関係者によって建てられたと思われる「義烈空挺隊玉砕之地」碑が立っている。

     以下の資料は義烈空挺隊の『攻撃計画』と『電報綴 南西諸島』(共に「防衛庁資料」より)の中にある一九四五年(昭和二十)五月二十五日、小禄航空基地発信の電報文である。文中には、北飛行場が五月二十四日二十一時四十八分より二分間炎上し、その後ドラム缶らしき爆発を認めたことや、二十一時五十五分から二十二時四十八分の間に、海上に火柱を合計一八望見したこと、二十二時十分頃の火柱は爆発音を伴い黒煙をあげ、二十二時四十分頃の火柱は明らかに一隻が炎上していた、などの内容が打電されている。

    『攻撃計畫』 義烈空挺隊攻撃計畫



    10. 沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ

     県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ

    自決前、大田中将が海軍次官にあてた電文(全文) 知る戦争 2021年8月11日 12時00分 Facebookでシェアする Twitterでシェアする list noteで書く はてなブックマークでシェアする メールでシェアする 印刷する 写真・図版 沖縄の海軍司令官だった大田実氏(中央)一家の家族写真=板垣愛子さん提供 [PR]  76年前の1945年6月、沖縄の地下に掘られた洞穴で、一人の軍人が自ら命を絶ちました。海軍司令官の大田実海軍中将。自決直前に海軍次官にあてた電文では、沖縄戦の惨状と沖縄県民の献身をつづり、「後世特別の配慮を」と訴えました。 大田司令官の自死「貧困のどん底」 海を渡った娘の願い 大田実司令官が出した電文 (旧海軍司令部壕ホームページより) 《原文》 062016番電  発 沖縄根拠地隊司令官

     宛 海軍次官

     左ノ電■■次官ニ御通報方取計(とりはからい)ヲ得度(えたし)

     沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ 県ニハ既ニ通信力ナク 三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非(あら)ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之(これ)ニ代ツテ緊急御通知申上グ

     沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ 殆(ほとん)ド 顧(かえり)ミルニ 暇(いとま)ナカリキ

     然(しか)レドモ本職ノ知レル範囲ニ於(おい)テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅(わずか)ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支(さしつかえ)ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚砲爆撃下■■■風雨ニ曝(さら)サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

     而(しか)モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊(ほうすい)婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身(ていしん)斬込隊スラ申出ルモノアリ

     所詮(しょせん) 敵来リナバ老人子供ハ殺サレルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ

     看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ■■ 真面目ニテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ

     更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終止一貫  勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ■■ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管(ひたすら)日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ■■■■与ヘ■コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形■■■■■■

     一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂(い)フ 沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ

     県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ

    (■は判読できず)

    《現代語訳》

    昭和20年6月6日 20時16分

     次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。

     沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。

     沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘に専念し、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。

     しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。

     看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。

     これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。

     沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。

     沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。

    大田司令官の自死「貧困のどん底」 海を渡った娘の願い      ◇

     おおた・みのる 1891年、千葉県生まれ。海軍の中でも

    9.キスカ島撤退作戦(キスカとうてったいさくせん)

    は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)5月27日から7月29日に行われた、日本軍のキスカ島(アメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島内)からの守備隊撤収作戦のことである。





    14.アッツ島玉砕

    アッツ島の戦いは、大東亜戦争アリューシャン列島、アッツ島で1943年5月29日、孤立無援のもとで、玉砕した。

    アッツ島玉砕

    アッツ島の戦い(アッツとうのたたかい、

    Battle of Attu)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島で、アメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である[1]。

    概要

    第二次世界大戦におけるアリューシャン方面の戦いにともない1943年(昭和18年)5月中旬から下旬にかけてアッツ島でおこなわれた戦闘。1942年6月以来日本軍が占領していたアッツ島の奪回を目指し、1943年5月12日にアメリカ軍が上陸を開始した[2][3]。

    山崎保代陸軍大佐指揮下の日本陸軍がアッツ島(当時の日本側呼称は熱田島)を防衛していたが、兵力も防御施設も不十分であった[注 1]。

    北方方面を担当する日本海軍の第五艦隊もアメリカ艦隊に対し有効な反撃を行えず[5]、またアッツ島への補給や救援に失敗した[6]。島を包囲するアメリカ艦隊を攻撃した潜水艦1隻が撃沈された[7]。連合艦隊は空母機動部隊[8]や大和型戦艦を含む主力艦部隊[9]を本州横須賀方面に集結させたが、反撃には出なかった[10][11]。

    大本営はアッツ島増援を検討したものの[12]、この島を守る意味に欠ける日本軍は、最終的には西部アリューシャン(アッツ島、キスカ島)の確保を断念する[13][14]。5月20日、アッツ島の放棄と、キスカ島からの撤退を発令した[15][16]。アッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、5月29日に玉砕した[17]。太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いである。

    本記事では、アッツ島攻防戦に至る経緯、アッツ島地上戦闘の様相、日本軍が西部アリューシャン(アッツ島、キスカ島)の放棄を決定するに至った経緯を記述する。





    15.金光少佐など拉孟・騰越の戦い
    米英の中国支援ルート(援軍蒋介石)を死守。1対30の戦い。1250人の要塞で4万5千人と激闘。敵将、蒋介石の逆感状。『我が将校以下は、日本軍の拉孟守備隊、騰越守備隊あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命令を全うしある現状を範とすべし。日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し。』

    拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)

    は、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で行われた、日本軍と中国国民党軍・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。

    すでに南部を占領していた日本の部隊は援?ルートの遮断のために派遣された小規模なもので、進出した当初の1942年頃は中国軍に対して優位に立っていたが、援?ルート遮断後もアメリカ軍の空輸によって中国軍への支援が継続されたため、連合軍の指導によって近代的な装備を身につけた中国軍が1944年より反撃に転じ、日本軍は補給路を断たれ孤立し、拉孟守備隊および騰越守備隊は最終的に玉砕した。硫黄島などの孤島において玉砕したケースは多いが、この戦いは大陸において玉砕した珍しいケースとして知られる。しかし、中国軍も陣地に立てこもる日本軍の防御戦闘により部隊比では日本より死傷者を出した。

    経緯

    拉孟、騰越の戦い

    https://blog.goo.ne.jp/kitasan999_555/e/2129583bcd02de72e3d323057bd6974f

     民の琴線に触れる戦いがある。特に10倍を超す敵に囲まれ最後の一兵まで戦った場合には、その記憶は千年の時を超す。ユダヤ人は2千年前(紀元70〜73年)のマサダの戦いを、団結の象徴として昨年のことのように話す。

     紀元66年のユダヤ戦争。ローマ帝国からの独立を目指して立ち上がったユダヤ人は、エルサレムで敗れ追い詰められて967人の女子供を含む集団が、急峻なマサダの砦に立て籠もった。1万5千人のローマ軍兵士が砦のある丘を包囲したが、周囲は断崖絶壁で唯一の登攀路を塞がれて手が出せない。そこでローマ軍は2年の歳月をかけて大規模な土木工事を行い、角となる木材と大量の土砂を運んで絶壁の一方向を埋め立てた。古代の土木技術は侮りがたい。ついに絶壁にゆるやかなスロープを作り出した。満を持したローマ軍が砦に突入するが、予想された抵抗はなかった。中にいたユダヤ人は集団自殺を遂げていたのだ。生き残ったのは、穴に隠れていた2人の女と5人の子供だけだった。

     アメリカ人にとって心を熱くする戦いはアラモ砦の防衛戦だろう。こちらは1836年2/23〜3/6の13日間包囲されたが、総攻撃により一日で砦は陥落し、守備隊は全滅した。砦に籠ったのはテキサス分離独立派、当時のテキサスはメキシコ領だった。トラヴィス隊長のもと、西部で名高いジム・ボウイとデイヴィー・クロケットが参戦し183〜250人の男達が戦った。

     攻めるのはサンタ・アナ率いるメキシコ共和国軍4,5千人だが、総攻撃の時には1,600人で攻め3〜400人のメキシコ兵が戦死した。アラモ砦の犠牲により貴重な時を稼ぎ結束したテキサス独立軍は、「リメンバー・アラモ」を合言葉にメキシコ軍を打ち破りサンタ・アナを捕虜にする。

     日本軍は太平洋の島々や沖縄で米軍と死闘を繰り広げるが、自分の琴線に触れる戦いはビルマと中国雲南省の国境付近で行われた。拉孟(ラモー)・騰越(トウエツ)の戦いには心を揺さぶられる。平静ではいられず、心が高ぶるのだ。拉孟は怒川の西岸、恵通橋を見下ろす海抜2,000mの山上にある廃村を基にした陣地で、周囲を山と渓谷に囲まれ西方のみが龍陵に通じている。四季の変化に富み特に秋は美しい所だそうだ。一方騰越は、最前線の拉孟から北東に60km、平野の中央にある人口4万の城郭都市で、東は山脈を縦走して保山、昆明へと続く。

     日本軍は何故このような山奥に攻め入り、陣地を築いたのか。それは連合軍の援蒋ルートを断つのが目的である。太平洋戦争が始まる前の5年間、日本と中国は激しく戦っていた。個々の会戦では常に日本軍が勝利を収めていたが、倒しても倒しても新手の中国軍が現れる。前線が進むにつれ、占領地である後方の物資集積所、小規模駐屯地、鉄道や輸送隊等が襲撃される。後方の防衛を固めようとすると、守備に限りなく人員が必要になる。前線は先に進み占領地は増え、守備部隊を増やしてもその中で手薄な所や輸送隊が襲われる。日本は徴兵を進めついに100万の兵力を中国に送り込んだ。

     南方へ行き、太平洋戦争で米英蘭軍と戦った日本軍は、中国に張り付いた兵力の1/4〜1/5に過ぎない。日本陸軍は8年間、もしくはそれ以上の期間中国に居続けた。その日本軍と対峙していたのが200万を超す中国軍である。蒋介石を負かせてはならない。100万の戦慣れした日本兵を他の戦場へ向かわせたら恐ろしいことになる。連合軍、特に米国は太平洋戦争以前、ビルマのラングーンに大量の軍需物資を陸揚げしてビルマから中国、雲南省を経由して重慶にいる蒋介石のもとに送った。この援蒋ルートを断ち切るのが日本軍の狙いだった。アメリカは陸路が封鎖された後は、ヒマラヤ超えの危険な空輸で蒋を支えた。今でもヒマラヤ山脈から中国の奥地には、大戦中の大型輸送機の残骸が散らばっているはずだ。

     蒋介石の元にはアメリカから派遣されたジョセフ・スティルウェル大将がいて、米軍の援助物資を装備した中国軍を訓練していた。近代装備を持ち訓練された新編師団(雲南遠征軍)が満を持してビルマに進入してきた。中国人指揮官、衛立煌の率いる20万人で、装備は日本軍よりも遥かに近代的だ。英印軍だけでも手一杯の所に新規の20万とは。最前線基地の拉孟はたちまち包囲された。

     拉孟守備隊は当初2,800名の兵力だったが、指揮官の松山大佐は命を受け、兵を割いて出撃し侵入してきた雲南軍の一部を撃退した。その後松山隊はミイトキーナ南方に降下した英軍空挺部隊の掃討等に転戦し、6月5日騰越に入った。拉孟に残された守備隊は1,280名で、その内300名は負傷兵であった。拉孟を包囲した中国軍は4万8千名で、残りの雲南軍は騰越、龍陵、平戛に向かった。

     1944年6月2日午後、雲南遠征軍の砲撃が始まった。この日から9月7日に陣地が陥落するまでの66日間、拉孟守備隊は攻撃を再三防ぎ、敵二個師団を壊滅させ戦死4千、負傷3,774人の損害を与えた。雲南軍司令官衛立煌大将は、日本軍の強さに舌を巻きこう語った。『火砲の力を入れると、こちらは日本軍の十倍以上の戦力である。それが千五百そこそこの日本軍に軽くあしらわれてしまったのである。何という強い日本兵なのだ。』

     敵将があきれるほどの勇戦を指揮した金光少佐(死後大佐)は小学校しか出ていない。貧農の子で村では神童と言われていたが、一兵卒からたたき上げ伍長、軍曹を経て幹部候補となり将校にまでなった。元が貴族社会の英国ではほぼあり得ない昇進だ。さんざん悪く言われる帝国陸軍だが、このような将校を生みだすところは素敵だ。金光少佐は常に温厚で部下思い、自ら率先して事を成すタイプで、部下からはこの人の下でなら死ねる、と慕われていた。拉孟守備隊は、限られた資材を使って陣地を複合的に設営し、死角を無くしてどこからでも十字砲火を浴びせて敵に出血を強いる構造を効果的に作り上げた。度重なる砲撃による破損は、夜間に不断に補修を行った。

     6/7、雲南軍の攻撃を迎撃し、敵の将軍を戦死させた。6/14、別師団による北方からの攻撃。6/20、敵主力2個連隊が再攻撃、これを粉砕するも砲撃戦で守備隊の弾薬庫が被弾破裂した。これは大きな痛手となった。砲弾が残っていたら、雲南軍の犠牲はもっと大きかったに違いない。6月末、2年前に日本軍の急追を逃れるために自ら爆破した恵通橋を復旧。これにより雲南軍の補給物資がトラック輸送により、陸続と戦場に運び込まれた。

     6/28、日本陸軍機10機飛来、上空より空中補給。その後も度々飛来。7/4〜15、雲南遠征軍第2次総攻撃。ロケット砲と火炎放射器が加わり、守備隊は大きく兵を失った。残存兵力は500を切り、生き残った兵も多くは傷ついていた。守備隊の砲弾は欠乏して撃ち返すことが出来なくなった。天候は雨季に入って壕内は膝までぬかるみと化し、守備兵は脚気とマラリアに苦しめられた。

     守備隊は夜になると数名づつ陣地の前面に出て、雲南軍の死体の山から武器・弾薬・食糧を拾い集めた。ビルマ方面軍は、連合軍によって新たに築かれつつある補給ルートを遮断し、同時に拉孟・騰越守備隊を救援するという「断作戦」を発令した。救援部隊を9月上旬に拉孟に送ると約束し、拉孟守備隊は希望を持ったが、実は最前線の拉孟は最初から見捨てられていた。戦略的にも無意味なインパール作戦によって、虎の子の精強な3個師団と1旅団を失い、日本軍と英印軍の戦力対比が最大1:10となり、制空権も失っていた。本土から派遣されてきた京都の師団は弱兵で役にたたない。かろうじてミートキーナ(現ミッチーナ)から一部の部隊が撤退出来たのが精一杯であった。ミートキーナから退却出来たのは10人に1人に過ぎないが、拉孟と騰越で敵を引きつけて時を稼いでくれたから全滅せずにすんだ。当初ミートキーナにも死守命令が出ていたが、わずかな兵を率いて救援に赴いた水上少将が自決をして名目的に死守命令を守り、部下を撤退させた。

     7/20、第3次総攻撃。この攻撃は昆明から呼び寄せた新しい部隊によって行われ、拉孟陣地には一日当り7〜8,000発の砲爆撃がなされた。攻撃部隊が陣前に肉薄して投げ込む手榴弾を、守兵が拾って投げ返す。陣内に突入してきた敵兵は、得意の白兵戦で刺し殺し殴り殺す。7/25頃には兵力は300名に減少した。砲弾は最後の一発を残して既に無く、歩兵弾薬は欠乏し食糧庫を焼かれ、8月以降は乾パン一袋を2日に食い延ばすようになった。

     7/27、ビルマ方面軍司令官より、拉孟守備隊の勇戦に対し感状が届く。翌日第33軍司令官からも感状。8/2、複数ある陣地のうち、本部陣地が陥落。8/12、挺身破壊班を編成、4名1組の破壊班を7組送り出して雲南軍を奇襲。破壊班は民間人に変装して遠征軍の包囲をすり抜け、火砲5門その他を破壊し、戦利品を持って帰還。損害は戦死2名であった。この攻撃で守備隊の士気はあがった。

     さて拉孟陣地に空輸に来た陸軍機だが、速力の早い一式戦・隼なので狭い陣地にピンポイントで投下するのは困難で、半分は敵の手に渡ってしまった。また地上からの砲火に加え、敵戦闘機が待ち伏せるようになって撃墜される機が出始めた。しかしちぎれんばかりに手を振る守備兵を見たパイロットは、再出撃、再々出撃を進言した。これに対し金光少佐が無線で司令部に告げた。『今日も空投を感謝す。手榴弾100発、小銃弾2,000発受領。将兵は1発1発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり。』『我が飛行隊が勇敢なる低空飛行を実施し、これが為敵火を被るは、守備将兵の真に心痛に堪えざるところなり。余り無理なきようお願いす。』それを聞いた隼隊は出撃を志願したが、7月中旬になると陣地はさらに小さくなり、手を振る守備兵は負傷して包帯を巻いた負傷兵ばかりで、投下しても陣地内の日本兵にはほとんど渡らなかった。実際最後の数百名は、片手片足、失明した兵が幽鬼のように敵に立ち向かっていた。

     雲南軍は、これまでの中国戦線の中国軍とは思えないほど勇敢に戦った。殺すのを一瞬ためらう程の少年兵が多かったという。しかし初陣の彼らは真っ正直に正面から戦い過ぎた。老練な日本軍の仕掛けたトラップに嵌り、犠牲を重ねた。日本軍にとっては、効果的に限られた武器で最大の効果をあげたと言える。中国軍は何度か降伏勧告を行ったが、鼻で笑われてしまった。

     8月中下旬の雲南軍の攻撃は中央付近の関山陣地に集中し、地上攻撃と併せて陣地直下まで掘り進んだ坑道による地中3ヶ所からの爆破により、8/19ついに陣地を奪われた。しかし8/20夜間、なけなしの兵を集めて夜襲を敢行して奪還。翌日再び奪取されるも8/22未明、逆襲して再奪取。しかし兵力が尽き、確保を続けることは出来なかった。

     9/5、決別電報を打ち、無線機を破壊し重要書類を焼却。9/6、金光少佐戦死。迫撃砲弾により腹部と大腿部を粉砕されていた。

    金光隊長は真鍋副官に後事を託しつぶやいた。『皆、よくやってくれた---』享年48歳。翌9/7未明、真鍋大尉、砲兵掩蓋内にて軍旗奉焼。早朝より激しい集中砲火を受け松山陣地陥落。午後真鍋大尉敵中に切り込み戦死(死後、少佐に進級)。18時全ての陣地が陥落し戦闘終結。突然戦場に静寂が広がった。

     真鍋大尉の命を受け、中尉ら数名が脱出し地元民に変装して戦線を突破し、日本軍の司令部に辿りついた。将校の生還者がいたことで、拉孟守備隊の最期の様子は比較的よく分かっている。騰越では一人の生存者もいない為、戦闘の詳細が今一つ不明である。

     拉孟守備隊の陥落した陣地跡に自決した15名の日本人慰安婦が横たわっていた。5名の朝鮮人慰安婦は雲南軍に投降した。降り注ぐ砲弾の雨の中で、守備隊が一番安全な場所に女達を匿っていたことが伺える。また最期の時に日本人慰安婦のお姉さんが、朝鮮人の女の子に降伏を勧めたのだろう。雲南軍は女がこの激戦の戦場にいたことに驚き、従軍看護婦として丁重に埋葬した。

     拉孟には軍属によって酒保(売店)と慰安所が出来ていた。女達は攻撃が近づいた時に引き上げることも出来たのだが、何故か残留を望んだ。長い間暮らしを共にした兵隊と女達の間には、家族愛のような絆が生まれていた。戦闘の最中に、一人の兵隊がなじみの女との結婚を申し出て許可された、という話しがある。しかし勇者として名誉の戦死を遂げた兵士に較べ、名もなく闇に葬られた死を遂げた女達があわれだ。彼女達も共に戦い、弾丸を運び炊事に従事し傷ついた兵を手当てし看護し、勇敢に死を選んだのに。

     金光隊長が9/5、師団司令部に送った決別電文は以下の通り。

    『通信の途絶を顧慮して、予め状況を申し上げたし。---周囲の状況急迫し此までの戦況報告の如く全員弾薬食糧欠乏し。如何とも致し難く最後の時迫る。将兵一同死生を超越し命令を厳守確行、全力を揮ってよく勇戦し死守敢闘せるも、小官の指揮拙劣と無力の為御期待に沿うまで死守し得ず。まことに申し訳なし。謹みて聖寿の無窮、皇運の隆昌と兵団長閣下はじめ御一同の御武運長久を祈る。』

     騰越は城郭都市で、城壁は周囲4km正方形で高さ5m、幅2m、外側は石で内側は積土で固められていた。周囲の高地からは見下ろす位置にあるため、これらの高地も防衛する必要があったが、それには最低でも3個連隊、7千名の兵が必要だ。騰越守備隊長は水上少将であったが、少将はミイトキーナ救援に向かったので、蔵重大佐以下2,800名が雲南軍49,600名を迎えうった。守備隊は全滅、雲南軍は戦死9,168名、負傷10,200名の損害を出した。

     戦闘が始まる直前、師団司令部から1大隊の抽出を命ぜられた。そのため実際に騰越で戦ったのは2,800名ではなく2,025名であった。6/27、雲南遠征軍の砲撃開始。7/27、外郭陣地を放棄し城内に後退。8/13早朝、戦爆連合の24機が騰越城を空爆、その一弾が防空壕を直撃して蔵重大佐以下32名が戦死。以後太田大尉(28歳)が指揮をとった。この時点で守備兵は800名になっていた。連合軍の空爆は激しかった。  しかし騰越守備隊の凄まじい抵抗はむしろここから始まる。組織的防戦から死に物狂いの抵抗へ。空爆で崩れた城壁からなだれ込んできた5千を超す雲南軍と壮絶な市街戦を繰り広げる。昼間奪われた地域は夜襲で奪い返す。8/21、残存640名。9/1〜5、残存350以下。9/7、追い詰められた守備隊は太田大尉以下70名。9/11、守備隊の弾薬、手榴弾が尽きる。9/12、最後の無電。

    9/13、太田大尉の指揮下、生き残った数十名が軍刀と銃剣により敵陣地に突入して全員戦死。太田大尉の決別電は以下の通り。

     『現状ヨリスルニ、一週間以内ノ持久ハ困難ナルヲ以テ、兵団ノ状況ニ依リテハ、十三日、連隊長ノ命日ヲ期シ、最後ノ突撃ヲ敢行シ、怒江作戦以来ノ鬱憤ヲ晴ラシ、武人ノ最後ヲ飾ラントス。敵火砲ノ絶対火制下ニアリテ、敵ノ傍若無人ヲ甘受スルニ忍ビズ、将兵ノ心情ヲ諒トセラレタシ。』



     9月9日、敵将蒋介石は、雲南軍司令部に与えた訓示の中で次のように述べた。

     『戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。我が将校以下は、日本軍の拉孟守備隊、騰越守備隊あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命令を全うしある現状を範とすべし。日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し。』

     これが有名な蒋介石の逆感状である。日本軍の出す美辞麗句を並べた陳腐な感状に較べ、敵から範とすべしと言わしめたのだ。これ程価値のある(逆)感状はない。蒋介石は毀誉褒貶の多い人物だが、敵の勇気に感動する度量のある人だった。このことだけでも結構好きだな。拉孟・騰越の勇者がもし生きていてこのことを聞いたなら、一番うれしい一言だったに違いない。







     もう一つは、9月9日、中華民国総統の蒋介石が、部下将兵に与えた訓示である。これこそは、敵側が如何に拉孟守備隊の勇戦に苦しめられたかを明確に示す証拠であり、蒋介石から拉孟の将兵に手向けた逆感状とも言えるであろう。

    「松山陣地(拉孟陣地と同義)は9月7日、我が軍において攻占するところとなり、欣快に堪えず。(中略)戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。(中略)

     諸子はビルマの日本軍を模範とせよ。拉孟において、騰越において、ミートキーナにおいて、日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し」





    16.パラオ、ペリリュー島。玉砕禁止。持久死守。
    米軍は3日で落とせると考えたが、何と攻略に2か月。それも米軍最強の海兵隊、4万2千。日本軍は約1万。驚異的な奮闘を指揮したのが、中川州男。天皇陛下から何回も感謝状。

    中川州男とペリリュー島の戦い〜

    バンザイ突撃の禁止、 相次ぐ御嘉賞と将兵の奮闘

    https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7798

    Twitter シェア LINEで送る linkedin 2020年07月27日 公開 2020年08月05日 更新

    早坂隆(ノンフィクション作家) ペリリュー島に残る大砲 南洋の島、ペリリュー島。

    約1万の日本軍守備隊に対し、米軍の総兵力はおよそ4万2千人。

    その中核は、米軍最強と謳われた第一海兵師団である。

    彼我の戦力差は明らかであったが、日本軍は島じゅうに張り巡らせた地下壕を駆使し、徹底抗戦を試みる。

    驚異的な奮闘を指揮したのが、中川州男(なかがわくにお)大佐であった。

    ※本稿は、歴史街道編集部編『太平洋戦争の名将たち』より、一部を抜粋編集したものです。



    パラオの発展に尽力した日本

    西太平洋上に位置するパラオ共和国は、珊瑚礁に囲まれた美しい島嶼国家である。しかし、この「楽園」のような小さな島々にも苦渋の歴史がある。19世紀後半以降、パラオはスペインとドイツに相次いで植民地とされ、島民たちは搾取と愚民化政策の対象とされた。

    転機となったのは第一次世界大戦後である。大正9年(1920)、国際連盟の正式な決定によって、パラオは日本の委任統治領となった。以降、日本はインフラ整備や産業振興、学校制度の導入など、様々な政策を実行。その結果、島民の生活レベルや識字率は大きく向上した。

    しかし、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると、パラオは米軍の標的となった。フィリピン方面への攻撃拠点を求める米軍にとって、パラオ南端のペリリュー島にある大規模な飛行場は格好の存在であった。昭和19年(1944)、米軍はペリリュー島への上陸計画を策定した。

    これに対して日本軍は、ペリリュー島におけるそれまでの防備を根本から見直し、強力な迎撃態勢の構築を急いだ。

    その指揮をとった現地司令官が、歩兵第二連隊長・中川州男大佐である。

    中川は明治31年(1898)1月23日、熊本県の玉名郡で生まれた。一家は累代の熊本藩士という由緒ある家系だったが、明治になって武士の時代が終焉するとその生活は一変。中川の祖父や父は、学校や塾で国学や漢学などを教える教育者に転じた。ちなみに中川の父親である文次郎は、西郷隆盛率いる薩摩軍と共に戦った熊本隊の一員として西南戦争に参戦し、新政府軍と干戈を交えた経歴を持つ。文次郎はこの戦闘に敗れた後に、教育を生業とする道を歩むようになった。

    そんな家風の影響であろう、中川の二人の兄も教育畑へと進んでいる。すなわち、中川家とは筋金入りの「教育一家」であった。中川も世が世なら素晴らしい教育者になったのではないか。

    そのような環境で生まれ育った中川は、文武両道を地で行くような青年となった。口数は少ないが正義感が強く、純粋な性格であったと伝わる。地元の名門・玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)に進学した中川は剣道部に所属し、多くの学友たちと共に汗を流した。学科では漢学が得意であったという。

    そんな中川が卒業後に選んだのは、教師ではなく陸軍将校への道であった。成績優秀だった中川は、「陸軍を担う将校」を育成するための専門機関である陸軍士官学校に合格。熊本を出て上京し、同校で学ぶことになった。時は第一次世界大戦下であり、日本も国防の重要性が改めて意識された時期であった。また、元藩士といえども当時の中川家は経済的に困窮しており、そんな家族の生活を憂う心境もあって、学費のかからない同校に進んだとも言われている。同校では軍事学はもちろん、幅広い高等教育が実施された。

    大正7年(1918)、同校を卒業した中川は、福岡県久留米市の歩兵第四十八連隊で本格的な軍隊生活に入った。大いなる希望を持って入営した中川であったが、その後は学校の配属将校といった「閑職」に回された時期も長かった。エリート校である陸軍士官学校の卒業者とは言え、中川の軍人人生は順風満帆だったわけではない。

    そんな中川の生涯において大きな分岐点となったのが日中戦争(支那事変)であった。中川は第二十師団歩兵第七十九連隊の大隊長として華北戦線に出征。この時の一連の戦闘において中川は冷静かつ巧みな指導力を発揮し、上層部から高い評価を得た。その結果、中川は連隊長の推薦によって、陸軍大学校専科への進学を許されたのである。

    こうした経歴を見ると、中川という軍人は「挫折を知る」「現場からのたたき上げ」であったと言える。

    陸大専科で学んだ中川はその後、独立混成第五旅団参謀などを経て、栄職である歩兵第二連隊長を拝命。茨城県の水戸を編成地とする同連隊は当時、「陸軍の精鋭」と呼ばれた部隊であった。

    同連隊は満洲北端の嫩江(のんこう)に「対ソ戦の備え」として駐屯していた。中川も嫩江で一年ほど過ごしたが、昭和19年(1944)3月、南方への転出が決まった。悪化の一途を辿る太平洋戦線において、米軍と雌雄を決するためである。日本軍は虎の子の「切り札」を、満洲から太平洋へ振り分けたことになる。

    中川は「二度と戻れない」という覚悟をもって、南洋へと向かった。

    歩兵第二連隊の行き先は、パラオ・ペリリュー島であった。



    17.栗林忠道陸軍中将
    硫黄島の戦い。サイパンからB29の日本空襲の中間にある硫黄島。B29護衛戦闘機基地として、必修。米軍は1週間で落すと計画したが、反撃厳しく、攻略に1か月以上を要した。米軍の死傷が日本軍を上回った唯一の戦場。

    硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい

    、いおうじまのたたかい[注 1]、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 栗林忠道陸軍中将

    1945年3月26日)は、第二次世界大戦末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation Detachment)。

    概要

    硫黄島遠景(2007年)。

    『硫黄島の星条旗』をかたどった合衆国海兵隊戦争記念碑 1944年8月時点での連合軍の戦略では、日本本土侵攻の準備段階として台湾に進攻する計画であった[10]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦については「コーズウェイ作戦」 (土手道作戦) としてに具体的な検討が進められたが、その後に陸海軍内で議論があり、1944年10月にはアメリカ統合参謀本部が台湾攻略の計画を放棄して、小笠原諸島を攻略後に沖縄に侵攻することが決定された[11]。作戦名は「デタッチメント作戦(分断作戦)」と名付けられたが、のちに「海兵隊史上最も野蛮で高価な戦い」と呼ばれることにもなった[12]。

    作戦は、ダグラス・マッカーサーによるレイテ島の戦いやルソン島の戦いが計画より遅延したことで2回の延期を経て[13]、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援を受けて開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍中将(戦死認定後陸軍大将)を最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊(小笠原兵団)の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は同島をほぼ制圧。3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。アメリカ軍の当初の計画では硫黄島を5日で攻略する予定であったが、最終的に1ヶ月以上を要することとなり、アメリカ軍の作戦計画を大きく狂わせることとなっ



    戦力 日本

    20,933[1]

    陸軍13,586

    海軍7,347



    損害

    戦死 17,845-19,900[1]

    捕虜 1,033(軍属76を含む)[1]

    戦車23輌[3]


    米軍 上陸部隊111,308

    海軍・支援部隊を含めた合計250,000[2]

    航空母艦16隻

    艦載機1,200機

    戦艦8隻

    巡洋艦15隻

    駆逐艦77隻

    他艦艇含め合計800隻[2]

    損害

    戦死 6,821[4]

    戦傷 19,217[4]

    戦闘ストレス反応 2,648[4]

    護衛空母1隻[5]

    正規空母1隻を含む30隻大破[6]

    航空機239機(168機作戦損失、71機特攻による空母艦上での損失)[6][7]

    戦車137輌[8]





    1945年8月17日、占守島…ソ連の日本を分断から救った男たち #樋口季一郎中将

    https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2637 Twitter シェア LINEで送る linkedin 2015年11月25日 公開 2022年08月25日 更新 早坂隆(ノンフィクション作家) 占守島

    終戦後の「忘れられた戦い」  日本は昭和20年(1945)の何月何日に戦争を終えたのか――。この問いに「8月15日」と答えない日本人はまずいないと思います。一方、大東亜戦争(太平洋戦争)における「地上戦が行なわれた日本の領土」といえば、多くの方が「沖縄」を連想することでしょう。

     しかし、「終戦の日」の2日後、昭和20年8月17日の深夜、紛れもない日本の領土で始まった戦いが存在したことについては、知る人が少ないように思えます。日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきたソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」です。現在の北方領土問題へとつながる出来事でもありました。

     かく言う私も、占守島の戦いについてある程度の知識はあったものの、「どのような戦いだったか」「どんな意義があったのか」を詳しく知ったのはここ数年のことです。関心を抱いたきっかけは、樋口季一郎中将でした。

     樋口は昭和13年(1938)、杉原千畝よりも前にナチスからユダヤ人を救った人物で、占守島の戦いでは北方を守る第五方面軍の司令官としてソ連軍への反撃を命じました。そんな樋口の手記を入口に、私は占守島の戦いについて調べ始めたのです。

    運命の、昭和20年8月17日深夜

     最も印象的なのが、樋口の孫・隆一さんから伺った逸話です。隆一さんは、季一郎から次のような話を聞かされたと教えてくれました。

     「日本の歴史家は、あの戦争の負け戦ばかりを伝えている。しかし、中には占守島の戦いのような勝ち戦もあったし、だからこそ今の日本の秩序や形が守られている。

     負け戦を語ることも大事だが、その一方で、重要な勝ち戦があったことについても、しっかりと語り継いでほしい……」

     自らの功を、公に喋るような人物では断じてない。取材を通じて樋口に抱いた印象です。そんな樋口が、占守島の戦いを「語り継いでほしい」と漏らしたのは、なぜなのか。樋口の胸の裡は、あの戦いの「意義」を知ればおのずと見えてきます。

     占守島は今もなお、ロシアに実効支配されており、その存在すら学校の授業でも教えられることはありません。

     占守島は千島列島の北東端に位置し、戦争当時は日本の領土でした。なお、国際法上、占守島だけでなく全千島列島と、南樺太も日本領として認められていました。

     昭和20年当時、日本の北東の国境の最前線にあたる占守島には、約8,000の日本陸海軍将兵がいたとされます。ソ連と国境を接していますが、「日ソ中立条約」を結んでいたため、あくまでもアメリカ軍への備えです。

     しかし――8月17日深夜、占守島に攻め込んできたのは、相互不可侵を約していたはずのソ連軍でした。ソ連は中立条約を一方的に破棄するという明らかな国際法違反を犯し、日本を「騙し討ち」したのです。

     ソ連軍は8月9日にすでに満洲に侵攻していましたが、そこで行なわれたのは戦闘行為ですらありません。殺人、略奪、家屋侵入、そして強姦……。彼らは同じような手法で、千島列島の他、南樺太までも攻略しようと企みました。

    北海道までを狙うソ連の野望  発端は、同年2月のヤルタ密約にまで遡ります。アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンが会談を行ない、ソ連が対日参戦を条件に千島列島や南樺太を獲得することを秘密協定で認めたのです。

     しかし、スターリンはやがて、北海道の北半分の領有までも主張し始めました。対するアメリカはこれを拒否。後の冷戦構造の萌芽ですが、遺憾にも真っ先に巻き込まれたのが日本でした。

     ソ連は終戦近しと見るや、千島列島や南樺太への侵攻を開始。どさくさに紛れて日本領を少しでも掠め取ろうとしたのです。あのスターリンならば、千島列島、北海道を獲った後、勢いに乗じて本州の東北地方の占領までをも窺ったであろうことは想像に難くありません。

     結果、日本は戦後のドイツや朝鮮半島と同じような分断国家になっていたかもしれないのです。なお、日本側は当初、そんなソ連に和平の仲介役を期待していました。そんな史実も、あの戦争の一側面として知っておくべきでしょう。

     陸軍きってのロシア通だった樋口は、「ソ連軍、来襲」の報に接した瞬間、ソ連の野望と日本が直面した未曾有の危機を鋭敏に察しました。戦後、樋口が「占守島の戦いが今の日本の秩序や形を守った」と指摘したのはそのためです。

     樋口は誰よりも占守島の戦いの意義を知るからこそ、占守島で敢然と起ち上がり、肉弾と散った部下たちの姿を後世の日本人にも知って欲しいという「本音」を孫の隆一さんに語ったのでしょう。

    次のページ 故郷に帰る夢を脇に置いて > ← 1 2 3 →

    18.妻を後部座席に乗せソ連軍へ特攻〜
    『妻と飛んだ特攻兵』終戦4日後8月19日。満洲でソ連軍戦車に。

    妻を後部座席に乗せソ連軍へ特攻〜『妻と飛んだ特攻兵』に涙

    2022/08/18 https://bushoojapan.com/historybook/2022/08/18/3604

    日本初の歴史戦国ポータルサイト

    BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

    8月15日は終戦記念日。

    その終戦から4日後の8月19日、戦闘機でソ連軍に特攻した夫婦がいました。

    戦闘機に、ワンピースの黒髪の女性が乗っているという「絵」はジブリ映画にでもありそうですが、これが本当に起きた史実だったのです。

    ノンフィクション作家の豊田正義氏が刊行した『妻と飛んだ特攻兵(→amazon)』で初めて明らかにされました。

    後にドラマ放送もされ、成宮寛貴さんと堀北真希さんが演じられておりましたが、一体どんな史実だったのか。

    書評を兼ねて確認してみたいと思います。 ※ドラマはAmazonプライム・ビデオで視聴できます(→amazon)

    お好きな項目に飛べる目次 [とじる] 1ページ目

    艶やかな光を湛えて風になびく黒髪が 元会津藩士の子孫と北海道出身の少尉

    2ページ目 ソ連の虐殺に耐えかね特攻を決意する

    艶やかな光を湛えて風になびく黒髪が ときは昭和20年8月19日――。

    満州の飛行場を11機の九七式戦闘機(を改造した訓練機)が飛ぼうとしていました。 この時点日本はすでに降伏しています。

    ソ連に対して飛行機を受け渡すためのフライトでした。

    11人の操縦士を見守る多くの日本人。 操縦士の近くには、その家族でしょうか。

    白いワンピースに日傘を差した2人の女性がいました。 誰もが見送りと思ったその女性たちは、自分の夫の飛行機の後部座席に乗り込むのです(一人は愛人でした)。

    11人は、命令に反し、満州で日本人の虐殺を続けるソ連軍に一矢報いるため、特攻を密かに計画していたのです。

    夫の覚悟についていこうと決めた2人の若い女性。 女性を乗せた2機が滑走路を走り出したとき、群衆たちはようやく異変に気付きました。

    「艶やかな光を湛えて風になびく黒髪が目撃されたのだ」(306頁)

    元会津藩士の子孫と北海道出身の少尉 「神州不滅特攻隊」を名乗った11人(+2人)は、

    「戦い得ずして戦わざる空の勇士十一名 生きて捕虜の汚辱を受けるを忍び難し」 との遺書を残していました。

    九七式戦闘機/wikipediaより引用 10機(1機は離陸直後にエンジン不調で墜落)の行方は分かりません。 特攻が成功したのか否か。 それは歴史の闇に消えました。

    戦後、関係者の間で、「女性を特攻機に乗せた」ことが軍規違反とされ、彼らが「英霊」から外されたり、その後、仲間たちが名誉回復をしたりと、元軍関係者の間では密かに知られておりましたが、世間に出されるのは本書が初めてとのことです。

    ひと組は夫婦で、青森出身の谷藤徹夫・朝子夫妻。

    谷藤家は、元会津藩士の子孫(戊辰戦争後に下北半島に移住した末裔)だそうです。

    斗南藩 斗南藩の生き地獄〜元会津藩士が追いやられた御家復興という名の流刑 続きを見る もうひと組は、北海道出身の少尉と現地で恋愛関係にあった宿の女中さんでした。 惜しいのは、取材に応じたのが11人のうち「谷藤家」関係者だけだったことです。

    ※続きは【次のページへ】をclick!





    13.ひめゆり学徒隊、戦争末期、沖縄戦。日本の存亡を賭けた他戦いに、立ち上がった、看護部隊。

    10高女等。靖国神社に祭られている。

    ひめゆり学徒隊(ひめゆりがくとたい)

    とは、1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって作られた女子学徒隊

    のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成されたものの名称である。通称としてひめゆり部隊やひめゆり隊[1]と呼ばれることもある。(一般的にはひめゆり学徒隊)他に白梅学徒隊・なごらん学徒隊・瑞泉学徒隊・積徳学徒隊・悌梧学徒隊・宮古高女学徒隊・八重山高女学徒隊・八重農学徒隊の8つの学徒隊が存在した。



    沖縄師範学校男子部(師範鉄血勤皇隊)
    沖縄県立第一中学校(一中鉄血勤皇隊・一中通信隊)
    沖縄県立第二中学校(二中鉄血勤皇隊・二中通信隊)
    沖縄県立第三中学校(三中鉄血勤皇隊・三中通信隊)
    沖縄県立農林学校(農林鉄血勤皇隊)
    沖縄県立水産学校(水産鉄血勤皇隊・水産通信隊)
    沖縄県立工業学校(工業鉄血勤皇隊・工業通信隊)
    那覇市立商工学校(商工鉄血勤皇隊・商工通信隊)
    開南中学校(開南鉄血勤皇隊・開南通信隊)
    沖縄県立宮古中学校(宮古中鉄血勤皇隊)
    沖縄県立八重山農学校(八重農鉄血勤皇隊・八重農(女子)学徒隊)
    沖縄県立八重山中学校(八重山中鉄血勤皇隊)
    沖縄師範学校女子部(ひめゆり学徒隊)
    沖縄県立第一高等女学校(ひめゆり学徒隊)
    沖縄県立第二高等女学校(白梅学徒隊)
    沖縄県立第三高等女学校(なごらん学徒隊)
    沖縄県立首里高等女学校(瑞泉学徒隊)
    沖縄積徳高等女学校(積徳学徒隊)
    昭和高等女学校(梯梧学徒隊)
    沖縄県立宮古高等女学校(宮古高女学徒隊)
    沖縄県立八重山高等女学校(八重山高女学徒隊)
    ◇2021.1.14 県民広場前案内板のQRコードのエラーについて、正常に更新しましたのでお知らせします。



    由来

    那覇市大道小学校の脇に設置された「ひめゆり学園跡」を示すモニュメント。大道小学校は沖縄師範学校女子部の付属小学校だった。

    母体となった沖縄県女子師範学校(女師/1943年4月に師範学校教育令の改正に伴って沖縄師範学校女子部へ改組)と沖縄県立第一高等女学校(一高女)は、設立当時の沖縄県の財政事情から併設校とされ、校長および一部の教師は兼任であった(西岡一義師範学校女子部長は一高校長)[2]。そのため、校名は異なるものの、実質的には一つの学校に近いものであったという。

    名前の「ひめゆり」とは花の「ひめゆり」ではなく、沖縄県立第一高等女学校(一高女)の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合」という名称が由来である。学徒隊の名称は「ひめゆり学徒隊」である。

    元々は安里川にかかる粗末な橋から転落死した一高女生徒を悼み、昭和初期に安全な橋に掛け替えられた橋に「姫百合橋」と名付けたことが起源で[3]、1940年代には女師および一高女の学舎が「ひめゆり学舎」と呼ばれるなど、両校の通称として「姫百合」の名が定着していたようである。

    国のため尽くした彼女達は、哀れみと感謝を込めて゛悲劇の少女たち゛と呼ばれている。

    経緯

    ひめゆり学徒隊が勤務した病院壕跡(南風原町の沖縄陸軍病院南風原壕)

    ひめゆりの塔(2018年)

    米軍の沖縄上陸を目前に控えた1945年3月23日、両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は、沖縄陸軍病院(通称・南風原陸軍病院)に看護要員として動員された。沖縄陸軍病院は沖縄守備軍(第32軍)の直轄で、本部、内科、外科、伝染病科に分かれており、40近くの横穴壕の土壁に2段ベッドを備え付けて患者を収容した。米軍が上陸して前線の負傷兵が増加するのに伴い、内科は第二外科に、伝染病科は第三外科に変更され、那覇近郊の一日橋、識名、知念半島近くの糸数に分室がおかれた。学徒隊は全員が分散配置された[2]。

    しかし、敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出され、翌日の6月19日をはじめとする約1週間の間に多数の犠牲を出した(死亡者のうち実に80%がこの間に集中している)。最終的には教師・学徒240人のうち136人が死亡。そのうちの10人(教師の平良松四郎と9名の生徒)は荒崎海岸で集団自決している(自決の強制性については論争あり。当該項目を参照)。また隣の洞窟でも米軍の銃乱射で3名が死亡、3名が重傷を負った。

    戦後、最大の犠牲を出した伊原第三外科壕跡に慰霊塔である「ひめゆりの塔」が建立された[4]。これは、ひめゆり学徒隊を祀り、平和を願うものである。

    なお、敷地の入口近くに建つ「ひめゆりの塔の記」では、動員数を297名、合祀した戦没者を224名としている。一方、ひめゆり平和祈念資料館が刊行している資料ではひめゆり学徒隊の動員数を240名、うち戦没者を136名としている(それ以外の戦没者が90名・戦没者の合計は226名)。

    この相違は、「ひめゆりの塔の記」では学徒隊以外の戦没者数を含んでいることによる。また、以前に戦没者の合計が219名とされていた時期もあったが、これは2003年7月の調査で判明した7名を含んでいないため。なお、「その他の戦没者」には沖縄戦開始以前の死者[5]が含まれているが、これはいずれも「原因が戦争に関連している」との判断によるものだという。なお靖国神社に、彼女たちの御霊が合祀されている。

    犠牲者の詳細

    2022年現在、沖縄戦で亡くなった女師・一高女の人数の内訳は以下のとおりとされている。なお、<その他>は沖縄戦開始後に陸軍病院動員以外で亡くなった人(他の部隊に協力中、学徒隊への参加途上、家族と共に避難中など)を指す。

    理由 人数 累計

    沖縄陸軍病院動員 136 136

    対馬丸事件 1 137

    弾薬輸送列車で爆死 2 139

    その他 80 219

    対馬丸事件[注釈 1] 1 220

    その他[注釈 1] 6 227





    挺進連隊(ていしんれんたい、挺進聯隊)

    とは、大日本帝国陸軍の部隊編制(連隊)の一つで、空挺作戦用の空挺部隊(落下傘部隊)である。第二次世界大戦時に創設されパレンバン空挺作戦(パレンバン降下作戦)などを行った。通称は挺進部隊、陸軍落下傘部隊、陸軍空挺部隊など。愛称は空の神兵。

    挺進連隊は、複数個連隊や支援部隊を合わせた旅団に相当する団である挺進団(ていしんだん)を構成し戦闘序列に編入され、大戦後期には更なる上級部隊として師団に相当する集団である挺進集団(ていしんしゅうだん)が編成された。帝国陸軍における挺進連隊の軍隊符号はRi、挺進団はRB、挺進集団はRD。

    パレンバン空挺作戦

    パレンバンに降下する挺進部隊

    「蘭印作戦#パレンバン空挺作戦」も参照 1942年、パレンバン空挺作戦には挺進第1連隊が投入される予定であったが、移動途中で輸送船「明光丸」が発火事故を起こして沈没し装備を失ったうえ、パラチフスが隊内に流行したため、挺進第2連隊が交代した[17]。2月14日、挺進飛行戦隊、第12輸送飛行中隊、飛行第98戦隊(物資投下担当)、飛行第64戦隊・飛行第59戦隊(戦闘機による直掩・間掩。戦闘機隊の総指揮官は第64戦隊長加藤建夫)の支援で、挺進第2連隊からなる第1挺進団・約400名が降下しオランダ軍守備隊と戦闘、結果、パレンバン大油田とロイヤル・ダッチ・シェルの製油所、および飛行場2箇所をほぼ無傷で制圧した。

    原油を中心とする「資源地帯の確保」は日本の太平洋戦争開戦理由のひとつであり、陸海軍の南方作戦における最重要攻略目標(最重要戦略目標)である、東アジア屈指の産油地パレンバン油田と製油所を確保した挺進連隊の活躍は目覚しいものであり、日本国内においてその戦果は翌日の大本営発表第192号にて以下のように発表された。



    「大本営発表、2月15日午後5時10分。強力なる帝国陸軍落下傘部隊は、2月14日午前11時26分、蘭印最大の油田地たる、スマトラ島パレンバンに対する奇襲降下に成功し、敵を撃破して、飛行場その他の要地を占領確保するとともに、更に戦果を拡張中なり。陸軍航空部隊は本作戦に密接に協力するとともに、すでにその一部は本15日午前同地飛行場に躍進せり。終わり」 これはマスメディアなどでも大々的に宣伝され、またのちに公開・発表された映画・軍歌と合わせ、空の神兵・陸軍落下傘部隊として国民に広く知られるようになった。



    映画・軍歌・絵画 「空の神兵」の興奮覚めやらぬ1942年、教導挺進連隊にて志願兵達が一人前の挺進兵になるまでの訓練の様子を記録した、ドキュメンタリー映画(記録映画)である『空の神兵 陸軍落下傘部隊訓練の記録』が公開された。さらに同作の同名主題歌である『空の神兵』(梅木三郎作詞・高木東六作曲)は日本軍落下傘部隊、特に挺進部隊を謳った軍歌として大ヒットし、戦後は事実上の後身である陸上自衛隊空挺部隊である第1空挺団に受け継がれている。また、同年には鶴田吾郎の『神兵パレンバンに降下す』を筆頭に数多の戦争絵画が描かれ発表されている。

    軍歌(戦時歌謡)ではこのほか『陸軍落下傘部隊の歌』(陸軍航空本部選詞・山田耕筰作曲)、『大東亜戦争陸軍の歌』(朝日新聞社選定、佐藤惣之助作詞・古関裕而作曲)で挺進部隊およびパレンバン空挺作戦が謳われている。

    特筆に価する点としては、1944年公開の加藤建夫中佐率飛行第64戦隊を描いたセミ・ドキュメンタリー映画『加藤隼戦闘隊』では、パレンバン空挺作戦の模様が実際に教導挺進連隊・教導挺進飛行戦隊協力のもとに撮影されている。戦後は1963年(昭和38年)公開の映画『パレンバン奇襲作戦』、1969年(昭和44年)公開の映画『あゝ陸軍隼戦闘隊』などで挺進部隊が描かれている。なお、史実のパレンバン空挺作戦では主力輸送機である一〇〇輸と一式貨輸が投入されていたが、『加藤隼戦闘隊』では後方の教導部隊を利用しているため代わって訓練機たる九七輸が用いられている。

    絵画では1945年(昭和20年)に日本画家の吉岡堅二が『高千穂降下部隊レイテ敵飛行場を攻撃す』を製作した。この戦争画は戦後、軍国主義的であるとしてGHQに没収。1970年(昭和45年)、アメリカ合衆国から無期限貸与の形で他の作品とともに返還され東京国立近代美術館に収蔵されている[23][24]。

    挺進部隊の訓練用九七輸(映画『加藤隼戦闘隊』) 九七輸から降下する挺進兵(映画『加藤隼戦闘隊』)

    記念碑等

    歴戦で散った英霊を祀る「挺進神社」が1944年(昭和19年)、宮崎県唐瀬原(現:川南町)の陸軍挺身練習部構内に設置されたが、戦後GHQにより焼失[5]。1949年(昭和24年)、練兵場跡地に建立された川南護国神社に合祀された[5]

    。 1971年(昭和56年)、第1空挺団が駐屯する習志野駐屯地内に全日本空挺同志会により「空の神兵之像」が建立された。

    1963年(昭和38年)、川南護国神社境内に「空挺落下傘部隊発祥之地」碑を建立、1991年(平成2年)、後世に記憶を残すため、空挺戦友会、全日本空挺同志会、遺族により、「川南護國神社に空挺部隊一万有余の英霊合祀の由来」碑が建立された[5]。

    このほか、第1挺進飛行団司令部跡である、新田原基地敷地内には「空挺歌碑」の碑がある[25]。



    セレベス島( 現スラウェシ島 )メナドに、海軍落下傘部隊が降下

    明日はメナド奇襲の日 激戦を語る部隊長

    2021-09-02 11:04:25

    テーマ:新聞報道

    セレベス島( 現スラウェシ島 )メナドに、海軍落下傘部隊が降下した日から、1周年となる日の前日、昭和18年1月10日の朝日新聞記事です。

    https://ameblo.jp/navy-paratroop/entry-12695615976.html 資料が古すぎて、読めない箇所もございます。

    誤字脱字あるかと思いますが、ご参考まで。

    【明日はメナド奇襲の日】 激戦を語る部隊長

    白傘に弾痕八十四 敵前五米・弾雨に躍込む『神兵』 帝団海軍がセレペス島メナド上陸に日本軍初の落下傘部隊の 奇襲作戦を敢行したのは昨年一月十一日であった。

    フハリと大空に咲いた純白の落下傘はあでやかでさへあるが、 傘の一つ一つに全員戦死を賭した決死隊員があったのだ。



    降下用意−降下−猛烈な敵弾−敵前着陸、激戦、死闘、 肉弾−敵陣地脱取−かくてわが軍初の落下傘部隊は、 銃後一億がわが軍にひそかに予想した興味に答へるに 十分な輝かしい戦果をあげた。

    回り来た一周年を前に、メナド落下傘部隊の部隊長として 一番機から第一番に降下して、 敵陣に殺到した○○部隊長に武勲の陰の労苦と心労を聴く。

    部隊長は「部下にも武勲を話すなといってきたが、 敵のゐないところに降下したのだらうなどといふ誤傳もあり あの激戦に殉国の英霊となった勇士に対する禮だと信ずるに 至ったので、敢えて当時の模様を率直に語ることにした」と語り出した。  

     自信満々戦場へ

    海軍落下傘部隊は身命を賭した懸命な猛訓練を経て 十分な自信をもって戦いに臨んだ。

    某基地を出発しようという数日間は連日細雨で 傘を乾かすのに苦心したが、出発の際は、 からりと日本晴の上に無風の申し分ない天候だった。 勇躍壮途についたが、やがて、一番苦手の雨がやって来た。



    私の乗っている一番機から二番機が見えないくらゐ 猛烈なスコールとなり、その上風も出て、 しまひには自分の翼端さへ見えなくなった。 飛行機にはどこからともなく雨がもってくる。 傘がぬれはせぬかと何よりこれを心配した。

    豪雨中の飛行一時間それが次第に晴れかヽるころ、 飛行機はいつか水面すれすれに飛んでいた。 陽光を見たうれしさは忘れない。

     弾丸の中に降下

    大編隊の輸送飛行機隊は翼を輝かして 目的地に勇躍快翔また快翔を続けた。 降下地点はメナド市から約七十キロ南方のランゴアンの カラビワン飛行場である。 椰子畑を切り開いて出来た余り大きくない飛行場だ。

    降下高度は僅か○○メートルである。 世間の人の予想してゐるほどの高度はとてもない。 海軍では初めから予備傘を持たない。

    一つの傘でしかも飛び降りた振動がまだ十分止りきら ないうちにもう着陸せねばならない。 しかも狭い飛行場に全員はみ出さぬやう効果的に降下する。 が、かうしなければ瞬時に着陸はできない。

    一秒置きどころか間断なく鉄砲の弾丸の如く飛び出す。 地上には無数の拒馬がある。 そのうち身辺へ雨のやうに敵弾が注がれてきた。 あとで傘にあたった弾丸を調べると、 一番多いのが八十四個で、普通でも二、三十は当たっていた。

     額も上げ得ぬ弾雨

    傘をあやつりつヽ拒馬や竹槍を避けて着陸した。 散弾は何処からともなくピユンピユン飛んで来る。 自分の落下したのは敵のトーチカから約五米といふ近距離。 鉄兜の紐をしめ直したいと思ったが、 手を出せばその手がやられる。 それほど弾丸は近くまた多かった。

    顔を地にぴったりつけて鉄兜で地を一厘きざみに掘った。 右や左が見たかったがそれすら出来ない。 弾丸の音を長年聴いている経験で、 今は一切身動きはできないぞ、と直観した。

    しかし何時までもぢつとしてをれば味方全員戦死だ。 地べたに顔を押しつけたままで、左の方をやつとの思ひで覗いた。 そこに二番機の先頭に飛び下りた副官の染谷秀雄少佐がをった 。

     壮烈!死の肉弾

    染谷は兵学校の時の生徒で今は副官だ。 二人で眼で合図しようとした必死の一瞬、 染谷の頭部に敵弾があたった。

    僅かにゆがんだ声で『部隊長残念です。しっかりやつて下さい』といふ。 『うん、やるぞ、しつかりしろ』と返事をすると 『部隊長弾丸が少なくなった。突撃しませう』といふので 『もう少し待て』といったがそのとき既に彼は意識不明だった。

    意識が消えて行くにつれ敵弾が少なくなってきたと思ったのであろう、 彼は猛然立ち上り、近くに降下した弾薬箱によろめきながら近づいていった。 染谷に向かつ敵の掃射は峻烈を極めた。 弾丸がどれほど染谷にくひ込んだか知れない。 弾薬箱にたどりつく前に染谷はばったり倒れた。

    死んで染谷の手は弾薬箱にとどいた。 しかしそのとき染谷はもう何をする気力もなかった。 壮烈鬼神も泣く戦死−

     遂にトーチカ奪取

    かかる間にも、あとからあとから部下が降りてくるのが僅かに見える。 力強くもあったが危険だなあと思った。 このとき横の道路に装甲車が来た。 帝國海軍初戦の落下傘部隊に汚点をつけてなるものかと、 厳粛な気持ちに胸がひきしめられた。

    右方では米原中尉が悲壮な面持ちで、 突撃に移らうと機をうかがってゐる。 俊敏な中尉は地ならしの十分でない地点を見つけ、 その低いところに跳び込み、 さらに機を見て私たちをねらひ撃ってゐた 一番近いトーチカへ飛鳥の如く躍り込んだ。

    これをきっかけに、飛行機のぐるりにあった 八つのトーチカの奪取に成功したのである。 この米原中尉は頭をぶち抜かれていた。 トーチカに跳び込みざま戦死だ。 死してトーチカを占領してゐたのだ。

     美し日本の兵士

    着陸直後の激戦中には実に美しい話が多い。 負傷してゐる部下に傷口を傘でしばれといふと、 『傘でしばるですか』と反間した。 日ごろ落下傘を命より大切にしてゐたので、 こんな言葉が出たのだと思ふ。

    二等兵が戦死した一等兵の握って離さぬ銃を借りるとき、 弾丸雨飛のなかで丁寧に「敬礼」をしてゐたのも嬉しかった。 自分は『全滅する積もりだつたのに、何んだ、これ位の戦死で』と 心で感謝しつつ口を気にしていた。

     全く天祐の思ひ 敵はかねて落下傘部隊に備え、

    飛行場へ向けて八つのトーチカを作り、 三百の拒馬、さらに無数の竹槍を天に向けて立てヽをり、 奪取したトーチカ内にはいづれも三万発以上の弾丸を打った 空の薬莢があった。 「天祐神助」とは言葉のあやぐらゐに思ってゐたが この戦争の結果天祐といふことを思はざるを得なくなった。

    以上です。








    3.人間魚雷回天
    黒木博司大尉と仁科関夫中尉、目を持った魚雷、米海軍が最も恐れた兵器

    人間魚雷回天
    黒木博司大尉と仁科関夫中尉 黒木博司大尉と仁科関夫中尉

    も、P基地(倉橋島の大浦崎)で人間魚雷の構想を進めていた[14]。2人は九三式酸素魚雷を改造した人間魚雷(回天の原型)を試作する[6]

    回天(かいてん)は、太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり[1]、日本軍初の特攻兵器である[2]。

    1944年(昭和19年)7月に2機の試作機が完成し、11月20日のウルシー環礁奇襲で初めて実戦に投入された[7]。終戦までに420基が生産された[8]。兵器としての採用は1945年(昭和20年)5月28日のことだった[1][9]。

    搭乗員

    大津島にある回天記念館

    海軍兵学校、海軍機関学校出身者は加賀谷武大尉(兵71)、帖佐裕大尉(兵71)、久住宏中尉(兵72)、河合不死男中尉(兵72)、村上克巴中尉(機53)、福田斉中尉(機53)、都所静世中尉(機53)、豊住和寿中尉(機53)、川崎順二中尉(機53)が、潜水学校11期卒業と同時に志願して回天隊に参加。以上は黒木、仁科が最初に何らかの形で接触をはかった者と思われる[要出典]。上別府宜紀大尉(兵70)、樋口孝大尉(兵70)は特四内火艇で竜巻作戦中止の後、回天作戦に参加。近江誠大尉(兵70)、三谷與司夫大尉(兵71)、橋口寛中尉(兵72)も回天と同様の特攻兵器の意見書を提出後、参加。それ以外は指名による(本人の配属希望を考慮し選考)。

    予備士官、予科練出身者は募集。ただし、作戦は奇襲で、軍機密事項の段階であったため、敵への情報流出を防ぐ必要から、兵器に関する具体的な事柄には一切触れられなかった。募集要綱には「右特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの」、「選抜せられたる者はおおむね三月及至六月間別に定められたる部隊において教育訓練を受けたる上直に第一線に進出する予定なり」とある。それ以上の説明は口頭でなされた。土浦海軍航空隊の予科練習生の場合、応募者2千余名の中から、身体健康で意志強固な者、攻撃精神旺盛で責任感の強い者、家庭的に後顧の憂いのない者を基準に100名が選抜された。

    なお、最初期に着任した搭乗員は以下の34名である。

    アメリカ軍は回天を過大評価しており、菊水隊によるウルシー攻撃の際にウルシーに滞在していた第38.3空母群司令フレデリック・C・シャーマン少将は「我々は一日終日、そして次の日も、今にも爆発するかもしれない火薬庫の上に座っている様なものだった。」と、当時のアメリカ軍の回天への警戒ぶりを率直に述べており[91]、また、8月12日に回天と最後の戦闘をした駆逐艦トマス・F・ニッケルの艦長C・S・ファーマー少佐は、回天による巧みな戦闘ぶりに、母艦が回天をソナーの捜索範囲外からコントロールしているものと信じて疑わなかった。沖縄戦時に第1戦艦戦隊司令官であったジェシー・B・オルデンドルフ中将は、回天との戦闘経過の報告を受けて「戦いを継続していく上で回天は最大の脅威となっていた」と考えた[92]。

    戦果

    参考文献[72][73][74][75][76][77][78][79][80][81][82][83][84][85][86][87][88][89]

    回天による攻撃(発進49基=搭乗員)

    吉田俊雄(海軍中佐、参謀)は、終戦時ダグラス・マッカーサー司令部のリチャード・サザーランド参謀長が「回天搭載の潜水艦が行動中かどうか」について質問され、行動中と聞くと動揺したというエピソードを紹介し、

    アメリカ軍をこれだけ恐れさせた回天であるのに戦果が少ないので、アメリカ軍が意図的に戦果を隠蔽しているのではと疑問視している旧軍の回天関係者(隊員や潜水艦長、参謀)がいると指摘している[93]。アメリカ軍の全ての文書が公開対象となっておらず、民間輸送船に関してはアメリカ軍での記録がないため、上記戦果はあくまで現在確認されているもの。

    なお、一回目の出撃である1944年11月20日に戦艦ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38) を撃沈しているとの報告が日米双方に存在したが、実際にペンシルベニアが受けた被害は1945年(昭和20年)8月12日の夜間雷撃によるものだった。ペンシルベニアは戦後のビキニ原爆実験における二度の核爆発に耐えたのち、1948年2月10日に沈没した。

    1943年(昭和18年)末、甲標的搭乗員の黒木博司大尉と仁科関夫中尉も、P基地(倉橋島の大浦崎)で人間魚雷の構想を進めていた[14]。2人は九三式酸素魚雷を改造した人間魚雷(回天の原型)を試作する[6]。山田薫に対して進言するも、省部との交渉が不十分だと判断して自ら中央に血書で請願を行った。これを受けたのは、海軍省軍務局第一課の吉松田守中佐と軍令部作戦課潜水艦部員藤森康男だった。同年12月28日に藤森から永野修身軍令部総長へこの人間魚雷が上申されるが、「それはいかんな」と明言されて却下された[2]。

    1944年(昭和19年)2月、黒木は再度上京して吉松中佐に採用を懇願する[6]。黒木はこの時、全面血書の請願書を提出した。2月17日[17]、日本海軍はトラック島空襲で大打撃を受ける[18]。 2月26日[19]、吉松中佐は山本善雄大佐(当時、軍務局第一課長)と協議し、呉海軍工廠魚雷実験部に対して、黒木・仁科両者が考案した人間魚雷の試作を命じた[6]。マル6兵器(○の中に6だが、環境依存文字のため「マル6」と表記)と仮称され、魚雷設計の権威であった渡辺清水技術大佐のもと試作に着手した[6]。最初は脱出装置(乗員の海中放出)が条件にあった[20]。だが脱出装置の設計は遅々として進まず、開発者2人(黒木、仁科)の主張により同年5月に断念された[6]。

    同年4月4日、黒島亀人軍令部第2部長の作成した「作戦上急速実現を要望する兵力」の中で[21]、大威力魚雷として人間魚雷が提案された。この後、人間魚雷に「○6(マルロク)」の仮名称が付き、艦政本部で担当主務部が定められて特殊緊急実験が開始された[22]。

    1944年7月初旬、試作兵器三基が完成する[6]。同月上旬、サイパン島地上戦で同島守備隊は玉砕、潜水艦戦を行う第六艦隊司令部も地上戦に巻き込まれ、司令長官高木武雄中将が戦死した[23][24]。 7月10日[25]、日本海軍は三輪茂義中将を第六艦隊司令長官に任命する[24]。 同日附で、特殊潜航艇と人間魚雷(回天)の訓練研究・乗員養成を目的とする第一特別基地隊を編成[25](司令官長井満少将)[26][27]。回天開発の第一人者、仁科関夫中尉[28]や黒木博司大尉[29]も第一特別基地隊に配属された。 嶋田繁太郎軍令部総長は、第一特別基地隊設立の経緯を昭和天皇に上奏した[注釈 1]。回天部隊は第一特別基地隊司令官の指揮下で訓練に従事する[26]。潜水艦に搭載されて出撃する場合は、母艦(潜水艦)と回天で「回天特別攻撃隊」が編成され、先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官三輪茂義中将)の指揮下に入った[26]。 7月25日、回天試作機の試験が大入発射場で行われる。第一特別基地隊司令部では、兵器として採用するか否かの審議が行われた[6]。指摘の主なものは「酸素エンジンのため、冷走や筒内爆発の危険がある」「魚雷改造の艇のため後進ができない」「舵が推進器の前にあるので旋回半径が大きく、航行艦襲撃が困難」「試作兵器は潜航深度が最大80mしかない。母艦の大型潜水艦の安全潜航深度は100mである。試作兵器の耐圧深度を増大すべき」などが挙げられた[6]。

    同時期、マリアナ沖海戦(あ号作戦)における潜水艦の被害が判明し、潜水艦戦は続行困難とみなされた[4]。同時に特攻への気運が高まっていった[4]。 1944年8月1日、米内光政海軍大臣の決裁によってマル6は正式に兵器として採用された。試験で挙げられた3つの問題点は、終戦まで解決されなかった。 8月2日と3日に呉で行われた潜水艦関係者の研究会では、若手潜水艦長達は特攻作戦の採用を主張、会議の空気も同調した[4]。 8月15日、大森から「この兵器(回天)を使用するべきか否かを判断する時期に達した」という発言があった[30]。そして同月、大森によって明治維新の船名から「回天」と命名される[3]。

    運用開始

    回天搭乗員は甲標的要員と同居していたが、教育訓練等に支障が生じ、移動することになった[26]。9月1日、山口県大津島に板倉光馬少佐、黒木博司、仁科関夫が中心となって基地が開隊され、同月5日より全国から志願して集まった搭乗員達による本格的な訓練が開始された。 訓練初日の9月6日、提唱者の黒木と同乗した樋口が殉職する事故が起きる[26]。黒木の操縦する回天は荒波によって海底に沈挫、同乗の樋口大尉と共に艇内で窒息死するまで事故報告書と遺書、辞世などを残した[31]。この出来事は「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高め、搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、技術を習得した優秀な者から順次出撃していった。

    9月12日[32]、大本営海軍部(軍令部)は軍令部総長官邸で奇襲作戦の研究をおこない、丹作戦(敵艦隊所在の泊地に対する航空特攻)と玄作戦(回天攻撃)を検討した[33]。当初の計画では大型潜水艦8隻(予備2隻含む)、潜水艦1隻あたり回天4基(可能なら5基)計32基用意、投入時期は10月下旬から11月上旬、目標はマーシャル諸島各地(メジュロ環礁、クェゼリン環礁、ブラウン環礁)の敵機動部隊となった[33]。 この時点で、回天は水漬け実験をまだ行っていなかった[34]。 9月27日、藤森中佐(軍令部部員)は中澤佑軍令部第一部長に、回天作戦の準備状況を報告する[34]。回天については「回天命中確度75%(と考えられる)。冷走の原因除去に努力している。」[35]と述べた。





    大東亜戦争は日本が勝った -英国人ジャーナリスト ヘンリー・ストークスが語る「世界史の中の日本」 単行本 - 2017/4/17 ヘンリー・S・ストークス (著), 藤田 裕行 (翻訳)

    5つ星のうち4.5 128個の評価 単行本 ¥1,760 獲得ポイント: 80pt ¥250 より 38 中古品¥1,760 より 29 新品¥3,520 より 1 コレクター商品 普及版 大東亜戦争は日本が勝った ¥1,320 (128) 残り12点(入荷予定あり) ________________________________________



    「太平洋戦争」はアメリカの洗脳だった この書は日本のプロパガンダではない。史実である。

    日本よ 呪縛から解放されよ! ヘンリー・S・ストークス 来日50年の総集編

    世界史を俯瞰して明らかになった 大東亜戦争の真実

    共産党などの左翼は、大東亜戦争は「侵略戦争」であったと言う。

    そうであろうか? 史実を検証すると、そこには明らかに「アジア解放戦争」の側面が見て取れる。 アメリカの侵略戦争や、大英帝国の植民地支配での戦争とは、明らかに違った姿を現じている。 私は、大東亜戦争を日本がなぜ戦ったのか、その結果、何が世界に起こったのかは、 世界文明史的な俯瞰をもってしてはじめて、明らかになるものだと、そう思い始めた。

    世界文明史の中で、大東亜戦争を位置づけようというような野心的な試みは、一冊の本で果たせるものでもないが、

    その第一歩を英国人ジャーナリストの私が切り開くことで、世界中に多くの賛同者が出てくると、 そう確信している。(本文より)

    1章 日本が戦ったのは「太平洋戦争」ではない!

    2章 「太平洋戦争」史観で洗脳される日本

    3章 日本は「和」の国である

    4章 世界に冠たる日本の歴史

    5章 オリエントにあった世界の文明と帝国

    6章 侵略され侵略するイギリスの歴史

    7章 アメリカの「マニフェスト・デスティニー」

    8章 白人キリスト教徒による太平洋侵略

    9章 マッカーサー親子によるフィリピン侵略

    10章 大日本帝国と西欧列強の帝国主義の違い

    11章 大日本帝国は「植民地支配」などしていない!

    12章 日本は中国を侵略していない

    13章 アメリカによる先制攻撃の「共同謀議」

    14章 大統領がアメリカ国民を欺いた日

    15章 大英帝国を滅ぼしたのは日本だった!





    「世界から恐れられた7人の日本人」上巻

    世界世界 せ ※下巻は、上巻購入後、次のページでご案内しております

    1人目:日本軍 20 万に匹敵する男    −明石元二郎陸軍大佐

    ○帝政ロシアを揺るがし、 日露戦争を勝利へ導く

    ○明石を支援した日本陸軍のスパイマスターたち

    ○ジェームス・ボンドも明石の味方に! ?


    2人目:米国務長官が欲しがった男     ―岩畔豪雄陸軍少将

    ○「世界基準の戦い方」をプランニングし、遂行する
    ○アメリカとの戦争回避に奔走
    ○インドの独立運動にも大きく貢献


    3人目:日本のスパイマスタ―    ―秋草俊陸軍少将
    ○インテリジェンス教育の総本山「中野学校」を創設
    ○猛者ぞろいの中野学校出身者
    ○謀略から特攻まで、 ただ目標完遂のために


    4人目:インドを独立に導いた謀略の素人    ―藤原岩市陸軍少佐
    ○5万ものインド人捕虜の心を一瞬にしてつかむ
    ○曲解され悪魔化される日本のナショナリストたち
    5人目:日本版アラビアのロレンス    ― 鈴木敬司陸軍大佐 


    ○親日ミャンマーの原点は鈴木大佐にあり
    ○「アジアはアジア人の手に」を願い共に戦った野田毅陸軍大尉
    ○日本が掲げた理想、そして誠の心がアジア諸国を動かした
    6人目:アメリカ軍の動きを的確に予測した情報のプロ    ―堀栄三陸軍少佐


    ○株価の動きでアメリカ軍の動きを予測
    ○その情報は、 陸軍大本営の参謀によって握りつぶされた
    ○米軍戦法の研究書を執筆し、日本軍の戦いに貢献
    ○アメリカ軍を壊滅状態に追い込んだ堀の教え
    7人目:MI5が徹底監視した唯一の日本人    ―小野寺信陸軍少将


    ○各国のスパイマスターたちに引けを取らない諜報力
    ○握りつぶされた「ヤルタ会談の密約」情報
    世界を変えてきた比類なき日本のインテリジェンス


    あとがき:ウィズコロナ時代だからこそ、先人のインテリジェンスに学べ
    著者プロフィール




    大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)


    大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)は、1943年(昭和18年)11月6日に大東亜会議にて採択された共同宣言。大東亜宣言とも。

    概要

    東京・帝国議事堂で同年11月に開催されたアジア地域の首脳会議の2日目に満場一致で採択された。採択後にビルマ国代表のバー・モウ内閣総理大臣が「自由インドなければ自由アジアなし」とインド独立を支持する意見を述べ、陪席者(オブザーバー)として出席した自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班が自由インドの確立を表明した[1]。次いで日本の東條英機内閣総理大臣が自由インドへの強い支援を会議で表明、大東亜会議は閉会した。

    参加国

    日本 : 東條英機内閣総理大臣、外務省・大東亜省などの各大臣、総裁、書記官など

    中国 : 汪兆銘国民政府行政院長、行政院副院長、外交部部長など

    タイ : ワンワイタヤーコーン親王(首相代理)、外務省など

    満洲 : 張景恵国務総理大臣、外交部大臣、特命全権大使など。

    フィリピン : ホセ・ラウレル大統領、外務大臣、大統領秘書など

    ビルマ : バー・モウ内閣総理大臣、特命全権大使、外務次官など

    インド:チャンドラ・ボース(首班)、最高司令部参謀長など

    宣言全文

    原文

    大東亞共同宣言

    抑?世界各國ガ各其ノ所??ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平??和確立ノ根本要義ナリ 然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽??クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望??ヲ逞ウシ遂??ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス 大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂??シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平??和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

    一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道??義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス

    一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊??重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス

    一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊??重シ各民族ノ創造??性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス

    一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ攝i??ス

    一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進??ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進??運??ニ貢獻ス

    口語訳

    そもそも世界各国がそれぞれその所を得、互いに頼り合い助け合ってすべての国家がともに栄える喜びをともにすることは、世界平和確立の根本です。

    しかし米英は、自国の繁栄のためには、他の国や民族を抑圧し、特に大東亜(東アジア全般)に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、大東亜を隷属化する野望をむきだしにし、ついには大東亜の安定を根底から覆(くつがえ)そうとしました。大東亜戦争の原因はここにあります。

    大東亜の各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、大東亜諸国を米英の手かせ足かせから解放し、その自存自衞を確保し、次の綱領にもとづいて大東亜を建設し、これによって世界の平和の確立に寄与することを期待しています。

    大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

    大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。

    大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。

    大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。

    大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。

    作成の経緯

    本文の5項目に関しては、1943年(昭和18年)8月初旬には外務省内「戦争目的研究会」で大西洋憲章(1941年)なども大いに参考にするかたちで文案作成がはじまり、同10月には完成したものとみられる[2]。これと別途並行して大東亜省は大川周明[3][4]や矢部貞治に宣言案を作成させており、それは前文として追加されることになった。大西洋憲章を参考にした本文が普遍的な真理を提唱するのに対し、大東亜省の前文は「米英支配の打破」という時事的な記述に偏っており、論理の接続が悪い所以とされる。

    日本を除く大東亜会議参加国は、会議2週間前になりようやく意見聴取の場を得たが、修正意見は日本側にことごとく拒絶され、結局一字一句の変更もなされずこの文面のまま全会一致で採択された。



    http://www.kojinsha.co.jp/nf006.html