大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害
「世界から恐れられた7人の日本人」
「大東亜戦争の英雄の日本人1」
「大東亜戦争の英雄の日本人2」
「大東亜戦争の英雄の日本人6」
「大東亜戦争の英雄の日本人3」空の要塞B29撃破とB29撃墜王
「大東亜戦争の英雄の日本人4」陸軍エースパイロット撃墜数
「大東亜戦争の英雄の日本人5」海軍エースパイロット撃墜数
「大東亜戦争技術者」
「大東亜戦争技術者2」
「大東亜戦争石油」
日米開戦前日米交渉(アメリカが日本に実質的最後通牒(日本の南部仏印撤退などの譲歩案に))
「世界から恐れられた7人の日本人」上巻
世界世界
せ
※下巻は、上巻購入後、次のページでご案内しております
1人目:日本軍 20 万に匹敵する男 −明石元二郎陸軍大佐
○帝政ロシアを揺るがし、 日露戦争を勝利へ導く
○明石を支援した日本陸軍のスパイマスターたち
○ジェームス・ボンドも明石の味方に! ?
2人目:米国務長官が欲しがった男 ―岩畔豪雄陸軍少将
○「世界基準の戦い方」をプランニングし、遂行する
○アメリカとの戦争回避に奔走
○インドの独立運動にも大きく貢献
3人目:日本のスパイマスタ― ―秋草俊陸軍少将
○インテリジェンス教育の総本山「中野学校」を創設
○猛者ぞろいの中野学校出身者
○謀略から特攻まで、 ただ目標完遂のために
4人目:インドを独立に導いた謀略の素人 ―藤原岩市陸軍少佐
○5万ものインド人捕虜の心を一瞬にしてつかむ
○曲解され悪魔化される日本のナショナリストたち
5人目:日本版アラビアのロレンス ― 鈴木敬司陸軍大佐
○親日ミャンマーの原点は鈴木大佐にあり
○「アジアはアジア人の手に」を願い共に戦った野田毅陸軍大尉
○日本が掲げた理想、そして誠の心がアジア諸国を動かした
6人目:アメリカ軍の動きを的確に予測した情報のプロ ―堀栄三陸軍少佐
○株価の動きでアメリカ軍の動きを予測
○その情報は、 陸軍大本営の参謀によって握りつぶされた
○米軍戦法の研究書を執筆し、日本軍の戦いに貢献
○アメリカ軍を壊滅状態に追い込んだ堀の教え
7人目:MI5が徹底監視した唯一の日本人 ―小野寺信陸軍少将
○各国のスパイマスターたちに引けを取らない諜報力
○握りつぶされた「ヤルタ会談の密約」情報
世界を変えてきた比類なき日本のインテリジェンス
1人目:日本軍 20 万に匹敵する男 −明石元二郎陸軍大佐
明石元二郎
日露戦争での諜報活動
明治37年(1904年)、日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館は中立国スウェーデンのストックホルムに移り、明石(当時の階級は大佐)は以後この地を本拠として活動する。
開戦直前の1月、参謀本部次長児玉源太郎は開戦後もロシア国内の情況を把握するため、明石に対し「ペテルブルク、モスクワ、オデッサに非ロシア人の外国人を情報提供者として2名ずつ配置」するよう指令電報を発した。さらに明石は日露開戦と同時に参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という臨時職に就き、ストックホルムに移った際にも児玉から、「お前を信じているぞ」という趣旨の激励の電報が届いた[9]
日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献することを意図した明石の活動は、後に、明石自身が著した『落花流水』などを通じて巷にも日本陸軍最大の謀略戦と称えられるようになった。参謀次長長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もある[12]。成果の度合いや後述するレーニンとの会見の有無については別にしても、これら明石の謀略活動の意図に関しては研究者の間でもほぼ見解は一致している。
なお、前述した『落花流水』や司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』において、以下のような粗筋がベースになって描かれている。
明治37年(1904年)、明石はジュネーヴにあったレーニン自宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であると言って拒否したが、明石は「タタール人の君がタタールを支配しているロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。
福岡藩士・明石助九郎貞儀[2]の次男として元治元年(1864年)に福岡藩・福岡城下の大名町に生まれる[3]。明石家の家格は「大組」(福岡藩黒田家の家中で、最上位の家格「中老」に次ぐ2番目の家格[4]。)であり、1300石の大身であった[5][6]。
1877年(明治10年)6月に陸軍士官学校幼年生徒となった[2]。
2人目:米国務長官が欲しがった男 ―岩畔豪雄陸軍少将
岩畔 豪雄(いわくろ ひでお[1]、
1897年10月10日 - 1970年11月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。陸軍中野学校(設立時の名称は防諜研究所)設立者であり、インド国民軍(INA)及び自由インド仮政府の樹立に中心的に関わった。戦後は京都産業大学設立者として理事を務めた[1][2]。
諜報謀略機関
軍人による経済面への強権発動の訓練を満州で積んだ岩畔は1934年(昭和9年)東京に呼びもどされ再度、整備局の課員になる。1936年(昭和11年)8月、二・二六事件の勃発により陸軍省兵務局課員へ異動、事件終息後の軍法会議を担当した[3]。また外国大使館の盗聴や郵便検閲、偽札製造の研究など諜報活動に従事。
1937年(昭和12年)、「諜報、謀略の科学化」という意見書を参謀本部に提出。日本陸軍は情報に対する関心を著しく強くし、初めて秘密戦業務推進が命ぜられた。
同年8月、歩兵中佐に昇進し、同年11月、防諜・謀略活動を目的として新設された参謀本部第8課へ異動。影佐禎昭大佐を課長とし、別名を謀略課と称した同課の主任として秘密裡に進められた汪兆銘樹立計画に関与[7]。
同年、兵務課内に陸軍省・参謀本部内でさえ、存在を秘匿されたといわれる地下機関「秘匿名警務連絡班」を創設。班長秋草俊とし秘匿名を「山」と称しCIAのような機関を目標とした[8]。
陸軍中野学校
1938年(昭和13年)には秋草俊、福本亀治と共に日本初のスパイ学校、後方勤務要員養成所(のちの陸軍中野学校)を設立[9][10][11]。ここでは尾行、変装術、錠前の開錠術、柔術などスパイ養成のための講義と並び、岡正雄を招いて民族政策の講義なども行われた[12]。同年3月、陸軍省の中枢・軍務局軍事課へ異動、高級課員に補任され国防国策の設定業務を管掌主導[1]。軍事課は省内でも、官制上の統制課ともいわれ、特殊な地位を持っており、金の問題でも物の問題でも、軍関係のことは、ここを通さないと何一つ処理できない程の力を持っていた[13]。
生い立ち
広島県安芸郡倉橋島(現・呉市)出身。倉橋島は海軍兵学校があった江田島の隣の島である。広島中学校(現広島県立国泰寺高校)から名古屋陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。
3人目:日本のスパイマスタ― ―秋草俊陸軍少将
秋草 俊(あきくさ しゅん、1894年(明治27年)4月6日 - 1949年(昭和24年)3月22日)は、昭和期の日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。陸軍士官学校(26期)卒。陸軍中野学校校長(初代)を務めた。
経歴
1894年(明治27年)4月6日、秋草直右衛門の4男として栃木県足利市に生まれ、幼くして東京の同族・秋草晃の養子となる。陸軍依託学生として東京外語学校に学び、後にハルピンに留学。参謀本部付、関東軍特務機関に務めるなどして、1933年(昭和8年)、ハルピン特務機関の補佐官となり、諜報活動で活躍し対ソ諜報の第一人者となる。
1936年(昭和11年)9月、 阿南惟幾兵務局長によって「科学的防諜機関」設立が発案されると準備委員の一人として立ち上げに関わり、1938年(昭和13年)4月に後方勤務要員養成所(陸軍中野学校)として設立されると初代校長に就任した[1]。敗戦後は逃亡を勧める部下の進言を断りソ連軍に投降、連行され抑留を経験[1]。1949年(昭和24年)3月22日、モスクワ州ウラジーミルのウラジーミル監獄(ロシア語版)で死去した。享年56(満54歳没)。墓地は、ウラジーミル監獄に隣接する市民墓地で、加藤泊治郎中将と共に葬られている。
経歴
1894年(明治27年)4月6日、秋草直右衛門の4男として栃木県足利市に生まれ、幼くして東京の同族・秋草晃の養子となる。陸軍依託学生として東京外語学校に学び、後にハルピンに留学。
4人目:インドを独立に導いた謀略の素人 ―藤原岩市陸軍少佐
藤原 岩市(ふじわら いわいち、1908年(明治41年)3月1日 - 1986年(昭和61年)2月24日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。F機関を成功させた。
戦中
藤原はもともとは情報畑の人間ではなかった。1939年、服部卓四郎によって中国から呼ばれて参謀本部入りし、作戦参謀となる予定だったが、当時藤原がチフスを患っていたことで、そのころは皇族も在籍していた作戦課ではまずいということになった。それで謀略・宣伝を担当する別の課(第8課)に配属されることになったという。
陸軍中野学校の教官も兼務しながら、任務の性格について勉強していたが、南方作戦の実施が参謀本部の中で本決まりになってくると、8課では現地における宣伝戦について調査企画することを藤原に命じ、藤原は嘱託の民間人十数名を集めて調査研究を開始した。日本における現地情報の不足に直面した藤原は、自ら偽装身分で現地に入って情報と資料を集めた。また、民間の作家、記者、芸術家などを進軍先に連れて行って思想戦に資することを提案し、認められた。いわゆる報道班員である。
右の、立って両手を後ろに回しているのが藤原。机の上に両腕を置いてイギリス側を睨んでいるのが山下奉文将軍。
1941年10月、駐バンコク大使館武官室勤務として開戦に先駆けて当地に入った藤原は、南方軍参謀を兼ねる特務機関の長として、心理戦を行った。若干十名程度、増強を受けても三十人ぐらいの部下だけで、藤原はかなり幅広い任務を与えられた。その内容は、極端に言えば、マレー人、インド人、華僑等を味方にすることである。その一環として福岡県筑紫郡出身で2歳からマレーシアに暮らす谷豊を諜報要員として起用したのもF機関であった。谷は死後、「マレーの虎(ハリマオ)」として日本で英雄視されることになる。
F機関と藤原の最も大きな功績は、インド国民軍の創設である。当時タイに潜伏していた亡命インド人のグループと接触して、彼らを仲介役として藤原は英印軍兵士の懐柔を図った。藤原は、降伏したインド人兵士をイギリスやオーストラリアの兵士たちから切り離して集め、通訳を通して彼等の民族心に訴える演説を行った。
この演説は(日本についての歴史的評価がどうであれ)インド史の一つのトピックである(w:The Farrer Park address)。インド国民軍は最終的に5万人規模となった。
期待以上に大きくなったインド国民軍は、一少佐の手に余るものであり、F機関を発展解消して岩畔豪雄を長とする岩畔機関を作った。岩畔は中国における工作活動の経験豊かな人物だったが、インド事情には精通していなかった(それは藤原も同じだったが)。日本軍とインド国民軍の間で、またインド国民軍の内部で、トラブルが頻発し、インド国民軍のトップを誰にするかで大問題となった。彼らをまとめられる人物としてインド人の推挙に従いスバス・チャンドラ・ボースを呼び寄せることになるが、インド国民軍初期の統率者であったモーハン・シンは任を解かれて怒り、藤原は彼を宥めなければならなかった。両軍とも大小さまざまなトラブルに悩まされつつ終戦まで一緒にやっていくことになるが、藤原は後年、自分が岩畔の幕僚として残ればもっとインド人たちとうまくやっていけたかもしれないと後悔している。
スマトラ島での同種の活動の後、藤原はビルマ方面軍の参謀を経て内地でも参謀業務を行っている。
藤原為蔵の二男として兵庫県多可郡津万村(現在の西脇市)に生まれる。柏原中学校を卒業し、陸軍予科士官学校を経て、1931年7月、陸軍士官学校(43期)を卒業
戦後
5人目:日本版アラビアのロレンス ― 鈴木敬司陸軍大佐
鈴木 敬司(すずき けいじ、1897年(明治30年)2月6日 - 1967年(昭和42年)9月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。1941年から1942年にかけて存在した、ビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とする、日本軍の特務機関「南機関」の機関長。この経歴から「日本版アラビアのロレンス」と称される。
1939年(昭和14年)1月、大本営第10課長を兼務し、同年8月、歩兵大佐に昇進。同年12月、参謀本部付として蘭印駐在となった。
1940年(昭和15年)6月から10月まで、「南益世」名でビルマに出張した。1941年(昭和16年)2月、南機関長となりバンコクに駐在し、同年11月、南方軍総司令部付としてビルマ工作に従事。1942年(昭和17年)6月、留守近衛師団司令部付に発令され、翌月、ラングーンを離れた。同年8月、第7師団参謀長に就任。アウンサンを始め30人の若者を選抜して密かにビルマを脱出させ、日本占領下の海南島へ集結させた後、陸軍中野学校で徹底的に軍事訓練を施した[1]。これが後の30人の志士となる。
敗戦後、英軍からBC級戦犯に指定され、ビルマに連行されたが、アウンサン将軍の抗議により釈放された。
ミャンマー政府は1981年4月、ミャンマー独立に貢献した鈴木ら旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」を授与している(鈴木の未亡人の節子が勲章を受け取った)
経歴
静岡県出身。鈴木房蔵の長男として生まれる。浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。
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6人目:アメリカ軍の動きを的確に予測した情報のプロ ―堀栄三陸軍少佐
堀栄三陸軍少佐
堀 栄三(ほり えいぞう、1913年〈大正2年〉10月16日 - 1995年〈平成7年〉6月5日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。階級は陸軍中佐、陸将補。
正確な情報の収集とその分析という過程を軽視する大本営にあって、情報分析によって米軍の侵攻パターンを的確に予測したため、「マッカーサー参謀」とあだ名された。戦中の山下奉文陸軍大将、そして戦後海外の戦史研究家にもその能力を高く評価されている。
なお、この陸軍士官学校時代に、上海戦の陣地突破のケーススタディーより物量の前には精神主義が役に立たないという教訓を得、後の情報分析の基本的な考えとなった[2]。
1943年(昭和18年)4月から陸軍士官学校戦術教官。10月1日から大本営陸軍部第2部参謀として勤務。ドイツ課とソ連課を経て(それぞれの課では両極端な分析方法を採用しており、それが後の分析手法に役立ったとの記録を残している)、欧米課に勤務。そこで、米軍戦法の研究に取り組み、その上陸作戦行動を科学的に分析して
1944年(昭和19年)6月に『敵軍戦法早わかり』を完成させ、米軍への水際での突撃や夜間の銃剣突撃は自滅するので行わないようにという内容を伝達した。(内容自体の伝達は、同年3月16日から始めている。)
戦時中の活動
『敵軍早わかり』を最初に伝達し、ペリリュー島の戦いにおいて、米軍2個師団を相手に1個連隊を基幹とする約5千名で、2ヶ月以上奮戦した中川州男大佐がいた。
堀は、中川連隊やその他の諸処の戦場での勇戦奮闘と殉国の精神を讃える一方、戦略の失敗を戦術や戦闘でひっくり返すことは出来なかったと述べている。太平洋という戦場の特性を情報の視点から究明し、戦争の10年以上も前に「軍の主兵は航空なり」「鉄量にもって鉄量をもってする」という戦略を提唱していた。
堀は、著書で『国破れ企業破れて反省しても遅い、敗れ去る前に自ら襟を正すべきであるが、その中でも情報を重視し、正確な情報的視点から物事の深層を見つめて、施策を立てることが緊要となってくる。』と述べている[3]。
なお、この『敵軍戦法早わかり』が伝達されるまでは、中国戦線での戦訓に基づいて米軍との戦いを行っており、士気が非常に低く突撃によって逃げ出す相手に対する戦い方をとる事で日本軍の損害が非常に増えていた側面もある。この資料の完成後は、硫黄島の戦い及び沖縄戦に代表されるように米軍の被害は増加することになる。なお、サイパンの戦いには内容の教授が間に合わなかったと記録に残している[4]。
なお、『敵軍戦法早わかり』以降、大本営内部で意見の調整が行われ、各師団に軍事作戦(戦略)を説明するときに同時に現地情勢及び相手の戦闘方法の情報についても伝達するように切り替わった[5]。
航空戦が怪しい
『敵軍戦法早わかり』完成の約1年前。堀を中心とする米軍戦法研究グループは、各種の統計を取っているうち1943年(昭和18年)11月5日〜17日にわたって行われたブーゲンビル島沖航空戦と、11月21日から29日にわたって行われたギルバート諸島沖航空戦の戦果に注目していた。大本営海軍部の発表を総合すると、米艦隊はすべて撃沈されたことになっていた。しかし実際には、一隻もいなくなったはずの米海軍の反撃は却ってピッチを上げ、奇襲から強襲に変わっていった。
堀たちのグループが抱いた疑問の第一が、なぜゼロになった米機動部隊が大規模な艦砲射撃を強行できるかということであった。
「第一線の航空部隊では、各飛行機の報告をどのように審査しているのだろうか?」
これを調べなければ正確なことはわからない。この疑問が後の台湾沖航空戦の戦果の判定に繋がっていく。
台湾沖航空戦での戦果判定
1944年(昭和19年)10月13日、『敵軍戦法早わかり』の内容を前線部隊であるフィリピンの第14方面軍に知らせるため、汽車で新田原飛行場に移動したが、折りしも台湾沖航空戦が発生しており、汽車の中でも乗客達はその大戦果の話で持ちきりであった。
新田原では空襲警報が発令されていることを理由に便乗を断られたが、堀はいままでの戦法研究で疑問が払拭できなかった航空戦を直に確認するため、参謀の威令を発揮し、九州鹿屋の海軍飛行場まで連絡機で移動した。鹿屋の海軍飛行場脇の大型ピストの前では、大勢の兵士が慌ただしく行き来し数人の幕僚達に戦果を報告していた。黒板には戦果が次々と書き込まれ、報告のたびに歓声が上がった。戦法研究中から堀の脳裏を離れなかった「航空戦が怪しい」と考えていたものが目の前で展開されていた。
堀は、戦果の報告を終え、ピストから出てきたパイロット達に矢継ぎ早に質問をした。
「どうして撃沈とわかった?」「どうしてアリゾナとわかった?」「アリゾナはどんな艦型をしていた?」「どうして自分の爆弾でやったと確信していえるのか?」「戦果確認機のパイロットは誰だ?」
堀の質問にパイロット達の答えがだんだん怪しくなってくる。米軍研究の結果、米軍艦の識別は頭の中にたたき込まれていたため、堀にはパイロットたちの返事の曖昧さがよくわかった。
『戦果はこんなに大きくない。誰がこの戦果を確認してきたのだ。誰がこれを審査しているのだ。やはりこれが幻の戦果の実体だったのだ。』堀はそう直感した。ブーゲンビル沖航空戦では、後になってみると大本営発表の十分の一にも足りない戦果だった。
堀は、10月13日19時、大本営陸軍部第二部長(有末精三中将、堀の所属長)宛に「この成果は信用出来ない。いかに多くても2、3隻、それも航空母艦かどうかも疑問」と緊急電報を打った[6]。
後年の堀は、「堀が大本営陸軍部第二部長に打った緊急電報を、大本営陸軍部では承知していたと想像されるが、これが握り潰されたと判明するのは戦後の1958年(昭和33年)夏だから、不思議この上ないことである。しかし大本営陸軍部の中のある一部に、今(1989年(平成元年))もって誰も覗いていない密室のような奥の院があったやに想像される」と記している[7]。
瀬島龍三がこの情報を握りつぶしたのは瀬島がシベリヤ抑留から帰国した昭和33年、瀬島が堀を虎ノ門共済会館の地下食堂に呼び出して、「あの時君の電報を握りつぶした。これがフィリピン防衛戦構想を根本的に誤らせた。」といった。堀は情報が握りつぶされたことをこの時初めて知った。という。
瀬島はもう一つ、あまりに重大な、ヤルタ会談(1945年2月米英蘇3巨頭会談。ドイツ敗戦後3か月以内にソ連の対日参戦など含む。)の秘密情報の電報も握りつぶしている。ヤルタ会談の秘密情報はアメリカ、ルーズベルト大統領の急死により大統領となったトルーマン当時副大統領も、同年7月のポツダム会談までソ連の対日参戦密約を知らなかった極超秘密情報だった。この電報はスエーデン駐在大使館武官の、小野寺信陸軍少将からだった。
この情報の握り潰しは、日本に計り知れない影響をもたらした。
日本はこの対日ソ連参戦との情報を知らないがゆえに、あろうことか、ソ連に、和平仲介の愚を8月のソ連参戦まで続けた。ソ連の善意を期待し、満洲防備を放棄し、日本人の悲惨さを招いた。
小野寺信陸軍少将はこの情報をヤルタ会談の直後に得て、大本営に打電している。
大東亜戦争中の最大のインテリジェンス
活動の一つである。小野寺はこの情報をポーランドのロンドン亡命政府から得たとしている。
保阪正康は、この緊急電報が、当時、大本営の作戦参謀であった瀬島龍三少佐によって握り潰された可能性を指摘している[8]。真相は不明だが、現在もこの電報の現物が行方不明なのは事実である。ただし、当該電報の後(15日20時)に堀が打った“特緊(特別緊急)電報”は現存している[9]。15日、鹿屋からマニラへの移動中機体は台北飛行場上空を通過したが、堀は飛行場施設の損害を間近で確認し、上陸に先立って周辺地域の航空基地を念入りに叩く米軍の戦法に違いない旨確信を抱いた。実際、米軍はレイテ島上陸を目的としたキングII作戦を3段階に区分し、第2段階まではそのような目的の空襲として計画していたのである。
台湾沖航空戦の大戦果発表を鵜呑みにした陸軍は急遽作戦計画を変更し、レイテ決戦を行うことになる。それはまさに地獄への引導のようものだった。その深層には、陸軍と海軍が双方とも何の連絡もなく勝手に戦果を発表していたため、陸軍は海軍の発表を鵜呑みにするしかないという日本最高統帥部の組織的欠陥があった。
堀は、10月15日にマニラに到着後、17日に南方総軍司令部第2課で台湾沖航空戦の戦果に再検討を加え、米軍の健在な空母を12隻と計算し、第14方面軍司令官の山下奉文大将、参謀副長の西村敏雄少将に報告した。報告時、折りしも米軍艦載機によるマニラ空襲が行われており、山下大将と西村少将は堀の報告を信じた[10]。
同月19日には、憲兵隊から、撃墜した米軍艦載機のパイロットを尋問した結果、ルソン島を空襲中の米軍正規空母が12隻であること、その艦名が全て判明したことが報じられた。大本営海軍部(陸軍部にあらず)の発表した台湾沖航空戦の戦果は全くの誤りで、堀が大本営陸軍部第二部長に打電し、山下大将に説明した通りであったことが明らかになった[11]。
次に述べる第14方面軍時代もそうだったが、結果として堀の予想は正確であることが多かった。しかし、世の中には堀がどうしてそのような正確な予想が出来たのか、著述物だけでは納得しない研究者がいる。戦史叢書の編纂経験がある近藤新治[注釈 1]は奈良県の堀宅を訪ね、この点について突っ込んだ質問を行い[注釈 2]、次のような答えを得た。
堀さんがなぜ当てたんだろうという疑問を持ちまして、ところが 『回想録』 なんかには全然そういうものは載ってないんですね。(中略)それでインタビューでずばりいったんです。どうしてあれだけの的確性というか、正確性が出たんですかといったら、堀さんは、そんなことはわけないことなんだというんです。
十四方面軍の情報部に下士官だけで十名ぐらいいて、将校が三名かな、毎日毎日、ともかく基礎的な情報をざーっと書かして、積み上げていった。例えば台湾沖航空戦の戦果判定についても、すぐに堀さんは疑問を出すんです。山下奉文と武藤章に対して、危ないですよという。そんなことをおっしゃったのは、何を根拠にといったら、こういうことをいっていました。
直後の空襲で捕まえた各米軍のパイロットの尋問をして、発艦した母艦名を尋問をして並べてみたら、全部そろったというわけですね[注釈 3]。これはおかしいじゃないか。ピンピンしているじゃないかということで(中略)果たして、マッカーサーの回し者ではなかったんで、まさに正攻法でやった方でございましたね。
近藤新治「太平洋戦史研究部会第二回セッション コースト・ウォッチャーズ」『太平洋学会誌』1987年(昭和62年)1月、20頁
第14方面軍情報部への配置転換
陸軍軍人として
奈良県吉野郡西吉野村(現五條市)出身。伊藤祐一郎の子に生まれる。陸軍航空本部長、第1師団長や留守航空兵団司令官を務めた陸軍中将堀丈夫(士官候補生13期)の養子となる。明倫中学から1927年(昭和2年)4月、東京陸軍幼年学校に入り、1930年(昭和5年)3月から陸軍士官学校に進む。
7人目:MI5が徹底監視した唯一の日本人 ―小野寺信陸軍少将
小野寺 信(おのでら まこと、1897年9月19日 - 1987年8月17日)は、日本の陸軍軍人、翻訳家。最終階級は陸軍少将。
1938年(昭和13年)6月、参謀本部ロシア課に復帰。その直後に発生した張鼓峰事件の対処にあたった後、同年10月、中支那派遣軍司令部附として上海に派遣される。当時中国大陸で進行中であった日華事変の収束策として、参謀本部の支那課は汪兆銘政権の樹立による和平交渉を検討していたが、ロシア課は対ソ防衛のためには事変を早期終結させるべきと考えており、小野寺は武漢に籠る?介石との直接の交渉を企図する。小野寺は市内のアスターハウスホテルに事務所を置き、自前の特務機関を構えた。メンバーには軍人は一人も含まれず、共産党転向者を中心に20人ほど採用した。1939年(昭和14年)5月、香港において板垣征四郎陸相と国民党の呉開先組織部副部長との直接会談を行う根回しを行うが、汪兆銘工作を進めていた影佐禎昭の巻き返しにあい、通らなかった。6月には本国へ戻された上で陸大教官に就任、事実上の左遷となった。同年8月、陸軍歩兵大佐に進級した[6]。
1942年12月、ドイツ陸軍上級大将(第21軍司令官ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト、左端)以下、独陸海空軍の将校らと写る小野寺(中央)
1940年(昭和15年)11月、スウェーデン公使館附武官に発令され、翌41年1月、ストックホルムに着任、12月に太平洋戦争(大東亜戦争)を迎えた。諜報活動の他、クリプトテクニク社(現・クリプトA.G.)から最新の暗号機械を買いつけたり、ピアノ線とボールベアリングを調達し、ドイツ経由で本国に送っている。1943年(昭和18年)8月、陸軍少将に進む。この頃からSD国外諜報局長であるヴァルター・シェレンベルクと共に和平工作に従事する。
小野寺の送った機密情報は「ブ情報」と呼ばれ、海外からの貴重な情報源となった。「ブ情報」の「ブ」は、「ペーター・イワーノフ」ことポーランド人諜報部員ミハウ・リビコフスキ (Micha? Rybikowski) の上官ブジェスクフィンスキの頭文字である。
大戦最末期にはヤルタ会談での密約につき、ドイツ降伏から約3ヶ月後にソ連が日ソ中立条約を破棄、対日参戦するとの最高機密情報を日本に打電している。陸軍中枢はその情報を信じず、アメリカとの和平の仲介をソ連に期待し続けた。
実は上の情報は陸軍上層部には伝わっていない。参謀本部の瀬島龍三が電報を握りつぶした。
瀬島はもう一つ、あまりに重大な、ヤルタ会談(1945年2月米英蘇3巨頭会談。ドイツ敗戦後3か月以内にソ連の対日参戦など含む。)の秘密情報の電報も握りつぶしている。ヤルタ会談の秘密情報はアメリカ、ルーズベルト大統領の急死により大統領となったトルーマン当時副大統領も、同年7月のポツダム会談までソ連の対日参戦密約を知らなかった極超秘密情報だった。この電報はスエーデン駐在大使館武官の、小野寺信陸軍少将からだった。
この情報の握り潰しは、日本に計り知れない影響をもたらした。
日本はこの対日ソ連参戦との情報を知らないがゆえに、あろうことか、ソ連に、和平仲介の愚を8月のソ連参戦まで続けた。ソ連の善意を期待し、満洲防備を放棄し、日本人の悲惨さを招いた。
小野寺信陸軍少将はこの情報をヤルタ会談の直後に得て、大本営に打電している。
大東亜戦争中の最大のインテリジェンス
活動の一つである。小野寺はこの情報をポーランドのロンドン亡命政府から得たとしている。
敗戦後の1946年(昭和21年)3月に日本に帰国復員したが、同年7月まで戦争犯罪人として巣鴨プリズンに拘留された。
戦後は妻百合子とともに、主にスウェーデン語の翻訳業に従事する傍ら、スウェーデンの文化普及活動に努めた。最晩年に『NHK特集 日米開戦不可ナリ ?ストックホルム・小野寺大佐発至急電?』で取材インタビューが行われ、1985年(昭和60年)12月に放映された。この番組は第12回放送文化基金賞を受賞し、小野寺の大戦中の活動に照明が当てられた。
経歴
1897年、岩手県胆沢郡前沢町(現在の奥州市)において町役場助役・小野寺熊彦の長男として生まれる。12歳の時に熊彦が病死し、本家筋の農家・小野寺三治の養子となる。遠野中学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校を卒業(31期、歩兵科。歩兵科5位で恩賜の銀時計を拝受[1])、見習士官(陸軍歩兵曹長)となる。
大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)
大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)は、1943年(昭和18年)11月6日に大東亜会議にて採択された共同宣言。大東亜宣言とも。
概要
東京・帝国議事堂で同年11月に開催されたアジア地域の首脳会議の2日目に満場一致で採択された。採択後にビルマ国代表のバー・モウ内閣総理大臣が「自由インドなければ自由アジアなし」とインド独立を支持する意見を述べ、陪席者(オブザーバー)として出席した自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班が自由インドの確立を表明した[1]。次いで日本の東條英機内閣総理大臣が自由インドへの強い支援を会議で表明、大東亜会議は閉会した。
参加国
日本 : 東條英機内閣総理大臣、外務省・大東亜省などの各大臣、総裁、書記官など
中国 : 汪兆銘国民政府行政院長、行政院副院長、外交部部長など
タイ : ワンワイタヤーコーン親王(首相代理)、外務省など
満洲 : 張景恵国務総理大臣、外交部大臣、特命全権大使など。
フィリピン : ホセ・ラウレル大統領、外務大臣、大統領秘書など
ビルマ : バー・モウ内閣総理大臣、特命全権大使、外務次官など
インド:チャンドラ・ボース(首班)、最高司令部参謀長など
宣言全文
原文
大東亞共同宣言
抑?世界各國ガ各其ノ所??ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平??和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽??クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望??ヲ逞ウシ遂??ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂??シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平??和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス
一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道??義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス
一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊??重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス
一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊??重シ各民族ノ創造??性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス
一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ攝i??ス
一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進??ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進??運??ニ貢獻ス
口語訳
そもそも世界各国がそれぞれその所を得、互いに頼り合い助け合ってすべての国家がともに栄える喜びをともにすることは、世界平和確立の根本です。
しかし米英は、自国の繁栄のためには、他の国や民族を抑圧し、特に大東亜(東アジア全般)に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、大東亜を隷属化する野望をむきだしにし、ついには大東亜の安定を根底から覆(くつがえ)そうとしました。大東亜戦争の原因はここにあります。
大東亜の各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、大東亜諸国を米英の手かせ足かせから解放し、その自存自衞を確保し、次の綱領にもとづいて大東亜を建設し、これによって世界の平和の確立に寄与することを期待しています。
大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。
大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。
大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。
大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。
大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。
作成の経緯
本文の5項目に関しては、1943年(昭和18年)8月初旬には外務省内「戦争目的研究会」で大西洋憲章(1941年)なども大いに参考にするかたちで文案作成がはじまり、同10月には完成したものとみられる[2]。これと別途並行して大東亜省は大川周明[3][4]や矢部貞治に宣言案を作成させており、それは前文として追加されることになった。大西洋憲章を参考にした本文が普遍的な真理を提唱するのに対し、大東亜省の前文は「米英支配の打破」という時事的な記述に偏っており、論理の接続が悪い所以とされる。
日本を除く大東亜会議参加国は、会議2週間前になりようやく意見聴取の場を得たが、修正意見は日本側にことごとく拒絶され、結局一字一句の変更もなされずこの文面のまま全会一致で採択された。