iso14001環境ISO生命に満ちた青い地球を守ろう

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アジアの歴史




  • 千年に一度のチャンス
    天が我々に与えた試練だ


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    超反日小説『ムクゲの花が咲きました』続編【書籍】
    ムクゲの全盛時代は他でもない日帝強制占領期〜カン・ヒョバック慶煕大教授
    『花に偽装した戦犯旗-ムクゲ』出版予定[08/25] [蚯蚓φ★]



    ナチスドイツはユダヤ人を600万人殺した
    戦前日本は朝鮮人を1200万人、増やした
    許されざる罪である



    李氏朝鮮では、中国からの勅使に対し、王がソウルの郊外、”迎恩門”に出向き、自ら三跪九叩頭の礼で迎えていた


    朝鮮土民の奇習を禁止した日帝の蛮行
    【試し腹】.【シバジ】【嘗糞】【病身舞】【乳出しチョゴリ】
    ..



    「三田渡の盟約」
    朝鮮は清国に対し、臣としての礼清国に対して牛馬3000頭、美女3000人を毎年上納すること



    朝鮮国民に教育を実施し、就学率を61%まで高めた(1944)
    (ハングルを整備し体系化させ、漢字、日本語と共に普及させた
    識字率 3-8% → 80%


    原爆被爆者の平均寿命は平均日本人より長い。男1年、女2年、寿命が長い。


    南京戦はあったが南京大虐殺はなかった。南京学会

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    大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史

    英国の歴史家、アーノルド・トインビーは、 日本の近代史についてこんな分析をしました。 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 0

    朝日の慰安婦捏造問題を世界に発信するため、 かなり正確に伝えている英語での解説記事 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 2

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    米政府の慰安婦問題調査で奴隷化の証拠発見されず no proof war crimes with "disappointment" comfort woman 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 4

    「侵略戦争」は連合国の宣伝、日本は植民地アジアを解放した 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 5

    徹底検証!「従軍慰安婦」問題は朝日新聞の捏造から始まった 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史6

    Report No. 49: Japanese Prisoners of War Interrogation on Prostitution

    従軍慰安婦に関する米軍調査報告:戦場売春婦の実態調査結果ビルマ

    Report No. 49:

    「文玉珠さん」という(自称)従軍慰安婦女性は、平成4年に日本の郵便局を訪れ 2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしています 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 7



    ヒラリーの私用メールが暴いた外務省の赤っ恥 国益の毀損と責任感の欠如がもはや伝統に

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    神風特攻隊が残した戦果は、実はすごかった。

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    フーバー大統領の回想録 には、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な記録が含まれている。
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    サンフランシスコで慰安婦碑反対運動で頑張っている有志からご協力のお願いです。
    計画されている慰安婦碑のとんでもない内容の碑文が1月18日に承認されました。
    来る2月6日の芸術委員会でその慰安婦碑の設置が承認されようとしています。
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    “カナダ有志の会”よりお願い
    中国系州議員やアルファという反日組織の工作により、
    カナダ・オンタリオ州の立法議会が南京大虐殺記念日の制定を審議中です。
    ↓ Bill 79, Nanjing Massacre Commemorative Day ↓
    SnapCrab_NoName_2017-2-2_7-50-52_No-00
    抗議のメールを、オンタリオ立法議会メンバーに送っていただけましたら幸いです。

    南京大虐殺は捏造だった証拠集

    韓国、韓国人慰安婦をドラム缶に入れて米軍らに供給、政府が米軍向けに売春管理



    国連も一蹴した中国の政治宣伝 自民党が明らかにした南京の捏造





    やはり あの戦争は、アジア開放のための聖戦だった



    ライダ イハンは3万人もいるのに、なぜか韓国には日本軍人との混血児は一人も出てこない不思議… 20万の 朝鮮売春婦相手になぜ一人も出てこないんだ?



    韓国を「ホワイト国」から除外しよう



    南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状
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    自己紹介







    南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状

    原爆被爆者の平均寿命は平均日本人より長い。男1年、女2年、寿命が長い。



    http://www.sdh-fact.com/CL02_3/19_S1.pdf

    胡錦濤国家主席閣下への公開質問状 このたび中華人民共和国国家主席胡錦濤閣下のご訪日に当たって、日中両国の 友好を願う者として心より歓迎申し上げます。



    反日種族主義




    iso14001環境ISO生命に満ちた青い地球を守ろう




    大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言


    太平洋戦争におけるわが国の戦争被害

    「世界から恐れられた7人の日本人」





    「大東亜戦争の英雄の日本人1」


    「大東亜戦争の英雄の日本人2」


    「大東亜戦争の英雄の日本人6」


    「大東亜戦争の英雄の日本人3」空の要塞B29撃破とB29撃墜王


    「大東亜戦争の英雄の日本人4」陸軍エースパイロット撃墜数


    「大東亜戦争の英雄の日本人5」海軍エースパイロット撃墜数


    「大東亜戦争技術者」


    「大東亜戦争技術者2」


    「大東亜戦争石油」





    日米開戦前日米交渉(アメリカが日本に実質的最後通牒(日本の南部仏印撤退などの譲歩案に))


    「大東亜戦争技術者」



    アジアを解放した大東亜戦争

    連合軍は東亜大陸では大敗していた

    安濃豊



    連合軍は東亜大陸では大敗していた<br><br>
安濃豊



    2.1.ミッドウエー作戦はフィリッピン独立のための囮作戦だった

    2.2.ガダルカナル戦のころビルマが独立

    2. 3.カイロ宣言は実現せず、大東亜宣言は実現

    2.4.マリアナ沖海戦のころ、インド独立は決定的となっていた

    2.5.米国サイパン戦の勝利のころ、支那、シナ大陸では大陸打通作戦に大敗北

    2.6.硫黄島での戦いのおころ、インドシナ3国がフランスから独立

    2.7.対日戦勝を祝っていたころ、インドネシアが独立

    3.1.ミッドウエーで負けたのはアメリカ海軍

    3.3.神風特攻が日本本土上陸作戦を諦めさせた

    4.米国にとって、欧州が主戦場だったという捏造

    5.戦ったのは日本軍だけでなくアジア合同軍

    6.太平洋島嶼戦はアジア解放のための囮作戦

    8.アジアの独立は戦時中

    11.日系人部隊がドイツのユダヤ人ダッハウ強制収容所を解放

    12.B29は無敵ではなかった

    13.戦前の日本軍は米軍を恐れていない

    15.沖縄戦で敗北したのは米軍

    誰が戦争に勝ったか,負けたか

    戦争目的

    戦争目的アメリカ 中國支配及び白人の植民地保全。

    戦争目的日本 大東亜戦争。自存自衛のための戦争。白人植民地の解放。ABCD包囲門打破、大東亜共栄圏、自給自足圏の設立

    戦争目的 イギリス 大英植民地帝国の維持。インド、ビルマ、マレー、ボルネオ。アフリカ

    戦争目的 中国、蒋介石 中国大陸の政権維持。

    大東亜戦争中独立国

    1.タイ王国    日本軍進駐以前から独立国

    2.ビルマ国    昭和18年8月1日 英国より独立 首班は バー・モウ

    3.フィリピン共和国 昭和18年 10月14日 米国からドクリツ首班は ホセ・ラウエル

    4.自由インド仮政府  昭和18年10月21日 英国より独立 首班は  チャンドラ・ポーズ

    5.ベトナム帝国  昭和20年3月9日 フランスより独立   首班は  バオ・ダイ

    6.カンボジア王国  昭和20年3月12日 フランスより独立 首班はノロドム・シアヌーク

    7.ラオス王国  昭和20年4月8日 フランスからドクリツ 首班は  シーサワーン・ウオーン

    8.インドネシア共和国  昭和20年8月17日オランダから独立宣言 首班は スカルノ



    東亜植民地の解放は対日経済封鎖への対抗策

    米軍は太平洋では勝利するも東亜大陸では惨敗



    1.ミッドウエー作戦はフィリッピン独立のための囮作戦だった



    最初に戻る。アジアを解放した大東亜戦争

    ミッドウエーで米軍が勝った勝ったと騒いでいた頃フィリピンの米軍が日本軍に降伏した。

    ミッドウエーの戦い、昭和17年6月5-6日。

    フィリピン、パターン半島、コレヒドール島要塞陥落、昭和17年6月9日。フィリピン米軍は日本軍に全面降伏。

    フィリピン侵攻作戦日米軍損害

            日本軍    米軍

    戦死者     4,130    25,000

    戦傷者     6,800    21,000

    いくえ不明   287     不明

    捕虜      1,225    83,631

    合計     12,450    129,631

    なぜアメリカ軍はミッドウエーよりもフィリピン救援に行かなかったのだろうか。

    大戦後、パターンの死の行進ということで米軍が糾弾しているが、それは120kmの道のりを3日で歩行させたものである。

    1日素手で米兵捕虜は歩き、日本兵は横を重武装で歩いた。これが米兵にとって死の行進であれば、日本兵にとってはさらに酷な行進ではないか。

    一人で500人の捕虜を監視する日本兵もいた。なお、日本軍は捕虜の輸送に投降下米軍のトラックを使いたかったが、米軍は投降前にすべてのトラック等を破壊していた。

    米軍はマニラ湾内のコレヒドール島に6か月も立てこもったのである。

    食料も医薬も尽き投降したとき病人続出だった。日本軍のガダルカナルの戦いとよく似ている。日本軍はガダルカナルで投降せず、海軍艦船で撤退した。

    パターン半島陥落の1か月前、敵将マッカーサー将軍は幕僚を連れてオーストラリアに敵前逃亡した。残された兵は指揮系統も不明になり哀れであった。

    マッカーサーは戦後,おのれの敵前逃亡の恥を隠すために、パターン「死の行軍」をでっち上げた。この「戦争犯罪」をでっち上げることにかけては、マッカサーの右に出るものはいない。

    マッカサーの得意科目は「敵前逃亡」と「戦犯捏造」だった。

    部下を捨てて「敵前逃亡した前例」には南京陥落の時の、蒋介石の部下がいる。

        フィリピン米軍は日本軍に全面降伏。ミッドウエー作戦はフィリッピン独立のための囮作戦だった
安濃豊

        ミッドウエー作戦はフィリッピン独立のための囮作戦だった<br><br>
安濃豊

    ミッドウエー作戦はフィリッピン独立のための囮作戦だった



    ミッドウエー作戦はフィリッピン独立のための囮作戦だった
安濃豊

    フィリピンは1943年10月14日独立した。第二共和国大統領ホセ・ラウレル
    独立に協力した、鈴木達三陸軍大佐

    ミッドウエー作戦はフィリッピン独立のための囮作戦だった<br><br>
安濃豊





    2.ガダルカナル戦のころビルマが独立



    最初に戻る。アジアを解放した大東亜戦争

    ガダルカナル島には海軍が飛行場を建設していた。明日にも航空隊が進駐する前日、米軍が強硬上陸した。 ガダルカナルの戦いは米軍が1942年8月7日の同島への上陸から1943年2月1日、日本軍が海軍艦船で撤退するまでです。ガダルカナルの戦いではアメリカ軍が2倍布陣しながら、日米両軍は互角の戦いを演じ戦死者の数も互角である。

    ガダルカナルの戦い。しかも日本軍は1942年1月から2月初めに無血撤退した。米軍は撤退に気づかなっかった。

    なお、日本軍の死屍累々の写真はたくさん出回り、いかにも日本軍が惨敗したかのように見えるが、米軍の戦死者数は同等なのである。

    日本陸軍司令官はフィリピンのアメリカ軍のように部下を置いて敵前逃亡などしなかった。日本軍は玉砕するときは長官以下玉砕するが、救援があるときは、全軍が救援されている。 日米軍損害比較表

                       日本軍         米軍              備考

    布陣数    36,200(地上部隊)      60,000人以上(地上部隊)    米軍2倍 戦死者    19,200(うち戦闘による死者8,500)    7,100     戦死は同等  

    戦傷者     数十        7,789             

    捕虜      1,000          4             

    撤退     10,652                  米軍取り逃がし      

    艦船損失     38隻         29隻           同等     

    航空機損失   683機         615機           同等      

    米軍は1942年10月29日の南太平洋海戦でミッドウエーで残った、

    二隻の空母のうち、ホーネットが沈没、エンタープライズが大破、太平洋における稼働空母のすべてを失った。



    ガダルカナル戦のころビルマが独立
安濃豊

    アウン・サン・スーティーの父

    アウン・サンは最終的に日本に亡命して、30人の同志たちと日本で軍事訓練 を受けます。彼等がビルマ独立義勇軍の中核となって、日本軍とともに進軍し たわけです。彼等と日本軍の行くところ、民衆は協力し、ビルマ独立義勇軍は 膨れ上がり、蜂起とゲリラ活動が広まり、英軍は敗退し、英国の植民地支配は 瓦解したわけです。

    そして、ビルマが独立したのは、昭和18年8月でした。首相はバーモゥで、 アウン・サンは国防大臣です。

    ビルマ国旗 ビルマ独立 1943年8月1日

    ガダルカナル戦のころビルマが独立<br><br>
安濃豊

    初代ビルマ首相 バー・モウ

    ガダルカナル戦のころビルマが独立<br><br>
安濃豊



    ガダルカナル戦のころビルマが独立<br><br>
安濃豊

    ガダルカナル戦のころビルマが独立<br><br>
安濃豊

    バーモ首相

    ビルマ国は直ちに米英に対し宣戦を布告

    長き歴史あるビルマ。たとえ近く50年の間、暴戻イギリスに屈服せりとはいえ、 ビルマ国民の総意に基づき、今再びここに独立を宣言。 ビルマ国は直ちに米英に対し宣戦を布告。

    バーモ首相の毅然(きぜん)たる声は、 ラジオを通じて全世界に放送されました。 決戦下、かくのごとき大東亜建設の成果が、 如実に示されたることはまことに力強き限りであります。 今また比島独立、近きにあるの時、 いまだイギリスの圧制に反抗しえぬインドはもとより、 敵国に与える影響は甚大なるものがあります。



    バー・モウ 『ビルマの夜明け』

    「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、 1943年8月1日に行われたのであって、 真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、 東条大将と大日本帝国政府であった」

    大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言 初代ビルマ首相バー・モウの「日本讃辞」 テーマ:歴史 ビルマ ミャンマー 「歴史的に見るならば、 日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。」



    3.カイロ宣言は実現せず、大東亜宣言は実現



    最初に戻る。アジアを解放した大東亜戦争

    写真上は大東亜共栄圏宣言時の首脳。 左から、ビルマ、バー・モー首相、張・景恵、満洲国総理大臣、汪兆銘、シナ南京政府行政院長、東條英樹、ナラー・チップ・プラバン、タイ首相、ホセ・ラウレル、フィリピン大統領、チャンドラ・ポーズ自由インド代表 写真下、カイロ会談。蒋介石、ルーズベルト、チャーチル

    カイロ宣言は実現せず、大東亜宣言は実現<br><br>
安濃豊

    カイロ宣言  昭和18年11月22日から26日

    1.各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ。

    三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ。

    2.三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス

    3.右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ

    4.日本国ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ

    5.前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス

    6.右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ



    カイロ宣言は実現せず

    1項、「日本に陸海空軍で仮借ない弾圧を加える」としているが、この後に起きた日本軍の「大陸打通作戦」により、蒋介石中国軍と在中米軍は大敗した。このため以後蒋介石中国は日本との単独和平を模索し始めた。

    2項。「三国は領土拡張をするものではない。」領土拡張どころか領土維持にも失敗した。大英帝国はマレー、シンガポール、ビルマ、インドを喪失し大英帝国は解体された。アメリカは己のフィリピン植民地を喪失し、白人植民地、オランダ領インドネシア、大英帝国植民地を保全できなかった。

    3項.蒋介石は、大陸を共産党に奪われ、台湾に追い落とされた。

    4項.「日本国は他の地域より駆逐されるべし。」  日本は他の地域(欧米植民地)、例えばニューギニア、ラバウル、から撤退したがそこはみな独立した。

    5項 「 朝鮮は適当な時に自由、独立を与える。」ヤルタ協定秘密文書で、朝鮮は南北に分断され、朝鮮戦争まで生じ、いまだに分断されたままである。

    6項.「日本国の無条件降伏」日本は無条件降伏していない。米英が要求した、「ポツダム宣言という条件」下での降伏である。ポツダム宣言では「日本軍」の武装解除は条件に入っているが「日本の降伏」には言及していない。これはドイツの無条件降伏都は全然異なる。

    ドイツの場合国土が蹂躙され他に術がなかった。日本はまだ東亜大陸、日本本土は自国の管理下にあった。



    大東亞共同宣言   昭和18年11月6日

    口語訳

    1.そもそも世界各国がそれぞれその所を得、互いに頼り合い助け合ってすべての国家がともに栄える喜びをともにすることは、世界平和確立の根本です。

    しかし米英は、自国の繁栄のためには、他の国や民族を抑圧し、特に大東亜(東アジア全般)に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、大東亜を隷属化する野望をむきだしにし、ついには大東亜の安定を根底から覆(くつがえ)そうとしました。大東亜戦争の原因はここにあります。

    大東亜の各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、大東亜諸国を米英の手かせ足かせから解放し、その自存自衞を確保し、次の綱領にもとづいて大東亜を建設し、これによって世界の平和の確立に寄与することを期待しています。

    2.大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

    3.大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。

    4.大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。

    5.大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。

    6.大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。



    上記大東亜宣言は実現した

    1.1961年に、タイ、フィリピン、マラヤ連邦(現マレーシア)3か国が結成した東南アジア連合を前身としてASEANが1967年に結成され、同時に発せられた「バンコク宣言」によって、大東亜共同宣言はすべて実現された。 2.から6項はすべて実現しています。



    最初に戻る。アジアを解放した大東亜戦争

    ちなみに

    大東亜戦争敗戦後アジア諸国の首脳発言の一部

    701 :タイの元・首相ククリッド・プラモード:2011/08/16(火) 09:05:53.03 タイの元・首相ククリッド・プラモードは

    、新聞にこんな一文を載せています。  「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。 日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、 生まれた子どもはすくすくと育っている。 今日、東南アジアの諸国民が、 アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、 いったい誰のおかげであるか

    http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi01.htm

    アジア・アフリカバンドン会議

    1955年(昭和30年)になると、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ二十九カ国が集まって、国際会議が開かれた。

    「この会議の主催者から、出席の案内が来た。日本政府は参加を躊躇していた。アメリカへの気兼ねもあったが、何分現地には反日感情が強いに違いない、と覆っていた。私は強く出席を勧めて遂に参加が実現した。

    出てみるとアフリカからもアジアの各国も『よく来てくれた』『日本のおかげだ』と大歓迎を受けた。

    日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。

    それにあの時出した『大東亜共同宣言』がよかった。

    大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。『アジア民族のための日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く』と大変なもて方であった。

    やっぱり出席してよかった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ。

     ところがこのように評価されている大東亜戦争の勇戦や、大東亜会議の意義だが、日本のマスコミや学会では取り上げられない。この辺にも日本の歴史認識や外交の未熟さがあるように思われてならない」  この話は平成十九年に無くなった名越二荒之助氏の「昭和の戦争記念館第5巻」(展転社)に掲載されているものだ。





    4.マリアナ沖海戦のころ、インド独立は決定的となっていた



    最初に戻る。アジアを解放した大東亜戦争



    インド国民軍総帥の地位につき、 自由インド仮政府を作って、英米に宣戦布告したチャンドラ・ボース

    インパール作戦の一面

    インド国民軍総帥の地位につき、

    自由インド仮政府を作って、英米に宣戦布告したチャンドラ・ボース

    チャンドラボースはインドを英国から独立させるためにナチスドイツに協力を求めましたが拒否された

    ヒトラーは「インドはイギリス人が統治すべきだ。イギリス人がいなくなるとインドは崩壊するだろう」と言っていた。

    チャンドラ・ボースがヒトラーにインド独立への協力を求めた時"インド独立は150年早い"と回答した。

    インドのオールドデリー市街、 チャンドラ・ボース公園の 「インド独立義勇軍(INA)と日本兵たち」の像(日の丸に注目)。 日本兵はインド兵と共に戦い、それがインド独立の基礎、起爆剤となった。



    インパールの戦い、アジア合同軍と英軍の比較

           アジア合同軍(日本軍、インド国民軍)    英軍

    参加兵力    92.000        150,000

    戦死傷者    26,000         17,500

    戦病      30,000以上       47,000(第33軍団のみで)



    インパール作戦が大失敗だったというのは、戦後にGHQと反日マスコミがでっち上げた捏造である。 インパールで敗けたのは大英帝国である。なぜならインド独立を阻止できなかったからである。当時インドのGDPは大英帝国のGDPの30%を占めていた。

    「インド独立義勇軍(INA)と日本兵たち」の像(日の丸に注目)インパール戦争でのインド国民軍と日本兵マリアナ沖海戦のころ、インド独立は決定的となっていた<br><br>
豊

    インド国民軍 シンガポール占領の時 

    f機関、藤原岩一の説得に応じインド独立を目指す、インド国民軍となったインド兵捕虜  

    下段、上はシンガポールの山下将軍とパーシバル将軍の降伏交渉

    インド国民軍



    インパール戦争でのインド国民軍と日本兵マリアナ沖海戦のころ、インド独立は決定的となっていた<br><br>
安濃豊

    INA(インド国民軍)が独立の起爆

    イギリス首相としてインドの独立を承認したクレメント・アトリーは、

    1956年にインドのカルカッタを訪問し、その当時の西ベンガル州知事P.B.チャクラボーティ判事と会談を行った。チャクラボーティ判事は、「1942年に国民会議によって開始された 『Quit India』(インドから出ていけ) 運動は完全に潰され、1944年までには完全に消滅していたのに、英国はなぜ戦後、あれほどの焦りの中でインドを離れたのか?」と質問したところ、

    アトリーは「それはスバス・ボースのINA(インド国民軍)と、それが英国インド軍で引き起こした反乱のせいだ」と答えた。

    続けて判事が「インド独立の承認においてマハトマ・ガンジーの『インドから出ていけ』運動はどのような役割を果たしたのでしょうか?」と鋭く質問した。判事によれば、アトリーは皮肉な笑みを浮かべながら「ほとんど何も無かった」と明言したという

    インド国民軍と日本兵マリアナ沖海戦のころ、インド独立は決定的となっていた<br><br>
安濃豊



    インド自由仮政府独立宣言マリアナ沖海戦のころ、インド独立は決定的となっていた<br><br>
安濃豊

    大英植民地帝国、地球の4分の1を支配した

    大英植民地帝国
安濃豊

    大英植民地帝国は解体した
安濃豊



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    インド法曹界の長老、パラバイ・デサイ博士はこう語りました。

     「インドはまもなく独立する。

    この独立の機会を与えてくれたのは日本である。 インドの独立は日本のおかげで、30年も早まった。



    INA(インド国民軍)が独立の起爆

    イギリス首相としてインドの独立を承認したクレメント・アトリー



    インド国民軍裁判と大暴動によるインド独立

    「en:Indian National Army trials」も参照

    終戦後、イギリスは元インド国民軍将兵約20,000人を、

    イギリス国王に対する反逆罪で裁こうとした(11月5日の発表では起訴の対象は約400名)

    。 しかし、この裁判を機にインド民衆の間に独立の気運が一気に高まった。次々とゼネストや暴動が起きる中、国民会議派も「インド国民軍将兵はインド独立のために戦った愛国者」として即時釈放を要求、

    1946年2月には英印軍の水兵たちも反乱を起こし、ボンベイ、カラチ、カルカッタで数十隻の艦艇を占拠し「インド国民軍海軍」を名乗った。水兵たちは市民に混じって官憲と市街戦を展開、英印軍の将兵たちはイギリス人上官の発砲命令を拒否した。

    また、人々はイギリスの植民地政府による日本への戦勝記念日に弔旗を掲げて抗議の気持ちを表している。

    これらインド国民軍将兵の裁判によって起こった一連の事件はイギリスが統治権を放棄しなければいけない状態になり、インドが独立を勝ち取る大きなきっかけとなった[2][3][9]。



    ポーズとネルー

    ポーズとネルー
安濃豊



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    インド独立の過程については、ガンディーやジャワハルラール・ネルーに代表されるインド国内における大衆運動が有名だが、チャンドラ・ボースやビハーリー・ボース、A.M.ナイルらインド国民軍とその関係者が独立に果たした役割も非常に大きな評価を受けている。

    実際にインドにおけるチャンドラ・ボースの位置づけはガンディーと同等で、ネルーより上位であり、国会での写真の飾り方はチャンドラ・ボースが最上部になっている[10]。なお1947年8月にインドが独立を獲得すると、インド政府は元インド国民軍将兵たちを表彰して年金も給付した。





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    723 :インド国民軍将兵は、インド独立のために戦:2011/08/17(水) 17:56:15.29

    ■4.インド独立■

     日本の敗戦後、イギリスはインド国民軍に参加した約2万名の将 兵を、反逆罪で軍事裁判にかけようとしたが、ガンジー、ネルー率 いる国民会議派は、「インド国民軍将兵は、インド独立のために戦 った愛国者である」として、インド全土での反英運動を展開した。

     イギリスは約2年間、弾圧を続け、数千の死傷者を出したが、つ いにインドの独立を認めた。その際に、「インドの独立は、日本の お陰で30年早まった」と、藤原は感謝されている。

    「日本無罪論」

    東京裁判でも、インド代 表のパール判事

     こうした経緯から、インドは戦後の日本に対してきわめて好意的 であった。戦争賠償の請求を放棄し、また東京裁判でも、インド代 表のパール判事が、ただひとり「日本無罪論」を唱えた。さらに復 興後の日本の国連入りをネルー首相は強力にバックアップしてくれ た。





    5.米国サイパン戦の勝利のころ、支那、シナ大陸では大陸打通作戦に大敗北



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    日本軍はインパールの戦いとほぼ同時期にシナ大陸では大陸打通作戦をやった。

    大陸打通作戦はシンガポールから釜山まで鉄道を開通させることだった。

    南方の資源、石油など、を輸送船によらずに日本に運ぶのが大きな目的だった。もう一つ中国大陸からB29の破壊及びB29による爆撃の基地を破壊することだった。

    さらに同じ時期にアメリカ支援蒋介石中国軍が中国への支援ルート復活を目指し援助ルート)

    上二つ要塞戦、拉孟(らもう)の戦い、騰越(とうえつ)の戦いを仕掛けてきた。

    米国サイパン戦の勝利のころ、支那、シナ大陸では大陸打通作戦に大敗北<br><br>

安濃豊



    大陸打通作戦参加兵力と損害の比較表

    大陸打通作戦 1944年4月17日から12月10日

              日本軍    連合軍(蒋介石軍、米軍)

    参加戦力                              

    1.兵員      500,000         1,000,000        

    2.火砲       1,500          XXX         

    3.戦車        800          XXX         

    4.自動車      12,000          XXX         

    5.馬       70,000          XXX         

    損害                                 

    1.戦死、線描、死者 100,000      750,000          

    2.捕虜                 40,598            

    3.損失火砲                6,723          

    4.損失航空機                190          





    援蒋ルート(米英のインドから中国への援助ルート)

    上二つ要塞戦、拉孟(らもう)の戦い、騰越(とうえつ)の戦い参加兵力と損害の比較表   中国雲南省

    拉孟の戦い    1944年6月2日から1944年9月7日                 

              日本軍    連合軍(蒋介石軍、米軍)           

    参加戦力                                       

    1.兵員      1,300(うち傷病兵300)       50,000           

    損害                                         

    1.戦死、     1,300      4,000                        

    2.戦傷                 3,774                 

    日本兵一人当たりの敵兵殺傷数      6.0人                





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    拉孟(らもう)の戦い米国サイパン戦の勝利のころ、支那、シナ大陸では大陸打通作戦に大敗北

安濃豊

    騰越の戦い     1944年6月27日から1944年9月13 日                                     

              日本軍    連合軍(蒋介石軍、米軍)         

    参加戦力                                  

    1.兵員      2,025        49,600               

    損害                                    

    1.戦死、 2,025      9,168                     

    2.戦傷                 10,200               

    日本兵一人当たりの敵兵殺傷数      6.9人               



    この拉孟・騰越の戦い戦いによる中国遠征軍の損害は、総勢21万2500人中 死傷6万3000人(全滅した二個師団を含む数個師団が戦力喪失)であった。

    中国軍は日本軍の数倍の戦死者を出した。

    拉孟の戦いについて9月9日に蒋介石は次のような"逆感状"をもって雲南軍を叱咤激励した。

    わが将校以下は、日本軍の松山守備隊あるいはミイトキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命を完うしある現状を範とすべし

    防衛庁防衛研修所戦史室 編、『イラワジ会戦 ビルマ防衛の破綻』 朝雲新聞社〈戦史叢書25〉、

    1969年 p285 拉孟が陥落する直前の6日、真鍋大尉は戦闘詳細報告のために木下昌己中尉ら3人の部下を脱出させていた(別にほか一名が脱出)。

    彼らは地元民に変装し16日に無事、第33軍本部のある芒市に辿り着き、第49師団の第168連隊(連隊長:吉田四郎大佐)と会い、翌17日に33軍司令部へと向かい、道中、松井大佐と出会った。松井大佐はそこで拉孟守備隊の悲壮な末路を聞き、涙したという。

    その後

    拉孟・騰越の戦いの結果、中国軍は怒江対岸に進出することができた。一方で雲南省の日本軍は龍陵などで抗戦を続けた。

    ビルマ・インドの連合国軍が雲南省の中国軍と陸路で合流するのは1945年のことである。

    大陸だ通作戦の大敗北により蒋介石中国政府は和平の道を探り始めた。

    在支米軍の指揮官であった、ジョセフ・ステルウエル将軍は中国軍のあまりの弱さをトルーマン大統領に報告している。

    結果として蒋介石、中国政府は1945年2月のヤルタ会談に招待されなかった。

    この会談では中国に不利になる取り決めが多く盛り込まれた、秘密議定書として。このため蒋介石中国政府は和平の道を探り始めた。

    この秘密議定書の結果、日本の敗戦後、蒋介石中国はソ連に後押しされた、中国共産党との内戦に敗れ大陸を失い、台湾に落ち延びるのである。





    6.硫黄島での戦いのおころ、インドシナ3国がフランスから独立



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    ベトナム、カンボジア、ラオスがそれぞれ1945年3月から4月に独立した。

    ベトナム、カンボジア、ラオス硫黄島での戦いのおころ、インドシナ3国がフランスから独立<br><br>

安濃豊



    ベトナム、カンボジア、ラオス硫黄島での戦いのおころ、インドシナ3国がフランスから独立<br><br>

安濃豊

    だが、旧宗主国フランスは独立を認めづ、日本の敗戦後再度植民地化を目指し、この三国に侵攻した。 いわゆるベトナム戦争の始まりである。



    7.対日戦勝を祝っていたころ、インドネシアが独立



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    インドネシア独立宣言対日戦勝を祝っていたころ、インドネシアが独立<br><br>

安濃豊



    インドネシア独立宣言書
    1945年8月16日深夜、前田精海軍少将宅において起草されたインドネシア独立宣言書の原本

    インドネシア独立宣言書対日戦勝を祝っていたころ、インドネシアが独立<br><br>

安濃豊

    1945年8月17日インドネシア独立宣言。日つけは05年8月17日。となっている。05年とは日本歴皇紀2605年の下2桁。 独立宣言をしても、オランダが認めるはずもなかった。すぐオランダと英軍が 再度植民地の復活を目指して侵攻。独立戦争となった。以後1949年12月の独立まで4年半の戦争が続いた。元日本将兵3000人が独立戦争に身を投じ1000人が戦死した。

    スカルノとハッタ対日戦勝を祝っていたころ、インドネシアが独立<br><br>

安濃豊

    インドネシア郷土防衛軍設立1942年

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    対日戦勝を祝っていたころ、インドネシアが独立<br><br>

安濃豊



    対日戦勝を祝っていたころ、インドネシアが独立<br><br>

安濃豊

    オランダの植民地インドネシア独立。300年間支配したオランダの東方の真珠の植民地を喪失した。

    オランダの植民地インドネシア独立
安濃豊

    スカルノ(初代大統領)インドネシア

    「我々がオランダから独立を勝ち得たのは、日本があれだけ戦ったのに、同じ有色人種の我々に同じことができないわけがないと発奮したからである」



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    モハメッド・ハッタ(初代副大統領、スカルノと並ぶ独立の父)

    日本の戦いは8月15日に終わった。我々の戦いは8月17日に始まった。 

    サンパス (元復員軍人省長官)

    「特にインドネシアが感謝することは戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。 日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。それ以上のものを彼ら日本人は我々に与えてくれた。」

    アラムシャ (元第3副首相)

    「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの狡知なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。 それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である。」

             (日本軍はインドネシアのオランダ軍を9日間で降伏させた)

    アラムシャ(インドネシア陸軍大将) 日本に後5年頑張って欲しかった。 そうすれば中東とアフリカはもっと早く独立出来た筈だ。 そして中東もアフリカもこんなに苦しまずに済んだ筈だ。

    ブン・トモ 元情報相

     われわれアジア・アフリカの有色人種は、 ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが全部失敗した。 インドネシアの場合は、350年間も失敗が続いた。

    それなのに日本軍が米・英・蘭・仏をわれわれの面前で 徹底的に打ちのめしてくれた われわれは白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った。一度手にした自信は決して失われることはない。

    そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、 我々がやらねばならなかった戦争だった。

    そして実は我々の力でやりたかった。 それなのに全てを日本に背負わせて、 日本を滅亡寸前にまで追い込んで仕舞った。 申し訳ない。

                        (昭和32年の来日の際の発言)



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    モハメッド・ナチール 元首相

    「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。」

    モハメッド・ハッタ(初代副大統領、スカルノと並ぶ独立の父)

    日本の戦いは8月15日に終わった。我々の戦いは8月17日に始まった。  インドネシアの独立記念碑には 「皇紀2605年」8月17日と記されている。。(皇紀2605年は1945年、日本歴)

    郷土防衛義勇軍(きょうど ぼうえい ぎゆうぐん、Tentara Pembela Tanah Air、略称PETA「ペタ」)

    とは、太平洋戦争期、1943年10月、日本軍政下におかれた東インド(現在のインドネシア)のジャワで、民族軍として結成された軍事組織である。同様の組織は、バリ島、スマトラ島、マレー半島でも結成された。

    組織・訓練・人材

    ペタ設立の正式決定後、その編成の中心メンバー「助教」となったのは、ジャカルタ近郊のタンゲランにあった、1942年の末から設立されていた

    「青年道場」(インドネシア特殊要員養成隊、隊長:柳川宗成中尉)のインドネシア人青年たちだった[1]。「青年道場」に入る資格は、愛国心と宗教(イスラム教)心があることと、中学校を卒業したインドネシア人であることであった[1]。

    この青年道場は日本の中野学校出身の情報士官らによって設立された機関で、インドネシア人青年にゲリラ戦や情報戦の技術を教育していた。ペタ設立の決定後、この青年たちをボゴールに設立された幹部養成学校(義勇軍錬成隊)に所属させて各種訓練を実施した。そして、この学校の卒業生が中心となって、彼らのそれぞれの故郷で、約500名規模のペタの大団を結成させた。この大団の下に、中団、小団、分団が組織された。

    こうした大団は、1943年末には35大団、1944年8月には20大団、同年11月にはさらに11大団が追加編成された。終戦時には、66大団、約3万6千人の規模となっていた[5]。このなかには、蘭印軍(オランダ東インド軍)軍曹の前歴を隠したまま入隊[6]して小団長に任命されたスハルト(後のインドネシア第2代大統領)も居た。スハルトはその後、中団長に昇進し、インドネシア人士官らの訓練にもあたった。

    こうして設立された民族軍ではあっても、占領期間中は日本軍の指揮下に置かれ、軍事訓練等は日本軍の指導の下に実施された。訓練はすべて日本軍の歩兵操典を基準にしておこなわれた。訓練はきびしく、訓練兵のなかには病気になったり死亡したりする例もあった[7]。軍事訓練とともに重視されたのは精神教育であり、そこでは日本軍の軍人勅諭が用いられ、祖国のための自己犠牲の尊さ、闘う勇気などについて、インドネシア人青年は徹底的に教え込まれた[8]。

    この青年道場の体験者でのちにインドネシア陸軍情報部長を務めたズルキフリ・ルビスは、当時について以下のように述懐している[1]。

    ここ(青年道場)に入る資格は、第一が愛国心、第二が宗教(イスラム教)心の篤い男で、第三が中学校を卒業したインドネシア人であることだった。50人の青年が選抜されて、この道場に入った。…一年後、ボゴールに創設されたPETAの「助教」に任命された。われわれは「自覚せよ。勇敢であれ。忠誠心をもて。訓練せよ」という厳しい教育を受けたが、「独立の時来たる」という強い自覚を持って、一生懸命がんばった[9]。… 日本軍政の特徴は、魂を持ってきてくれたことです。われわれと苦楽を共にし、農作業や各種技術の初歩を教えてくれ、軍事訓練まで施してくれました[10]。 ??ズルキフリ・ルビス元陸軍情報部長[1]

    4. 第3章 米国を強く見せるため戦後に捏造された虚構

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    1.ミッドウエーで負けたのはアメリカ海軍



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    ミッドウエーで負けたのはアメリカ海軍

安濃豊

    2.近衛文麿こそアジア解放の英雄



    3.神風特攻が日本本土上陸作戦を諦めさせた



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    神風特攻で撃沈された米軍艦艇は、五十五隻、損傷を受けた艦船は三百六十二隻に上り、 特攻による米軍の戦死者は六千八、九千九百二十三名が負傷した。

    これを見ると被害は甚大なりと言わざるを得ない。もし米軍が日本本土に上陸した場合被害はこの数倍になると予想される。進駐軍(米軍)の戦後の調査で 終戦時日本国内には一万五千六百機の特攻機が温存され、ていた。

    燃料も各機が五回以上出撃できる分量が温存されていた。二千余機の特攻機で先述の被害を米海軍が受けるなら、その五倍の被害を、米海軍は受けかねない。沈没275隻(5*55)損傷3610隻(5*362)に上がると単純計算される。

    さらに 沖縄という九州から550KMという遠距離への特攻ではなく九州上陸でも、関東上陸でもすぐそばの艦船への特攻となる。命中率が上がることは必至である。されば、米海軍全滅の事態もありうると考えられる。



    神風特攻隊が残した戦果は、実はすごかった。

    神風特攻隊が残した戦果は、実はすごかった。

    環境ISO,iso14001
    汚染の予防、歴史 9





    沖縄戦は史上最大の戦闘だった。ノルマンジー上陸作戦の1.5倍の規模であった。



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    ノルマンディー上陸作戦を含む多くのヨーロッパ戦線の激戦に従軍し、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルは沖縄攻略部隊の陣容を「我々は太平洋航海史上、最大・最強の軍隊だ」「海軍力・兵力・戦闘力の点でアメリカがヨーロッパに投入した全兵力に匹敵する規模だ」と記述している[123]。

    実際に、攻撃初日に投入された陸戦兵力は182,000名であり、これは史上最大の作戦といわれたノルマンディー上陸作戦のD-デイに投入された兵力を75,000名も上回っていた[124]。

    アメリカ軍情報部は沖縄本島の日本軍の兵力を55,000人〜65,000人、大口径火砲198門と推定しており、沖縄攻略作戦は1カ月前後の短期作戦と想定していたが、この戦力推定は大きく誤っており、迅速な勝利の希望はたちまちしぼんでいった[125]。

    アメリカ軍は太平洋戦争で最大規模の水陸両用作戦を準備した。

    沖縄攻略の為の統合遠征部隊は艦船1,213隻と支援艦載機564機で編成されていた。

    この部隊を第58任務部隊の高速空母部隊82隻、艦載機919機とイギリス太平洋艦隊22隻、艦載機244機が支援した。他にも第21爆撃集団と極東航空軍も直接支援を行った[121]。

    アメリカ軍連合国軍

    548,000人
    うち上陸部隊当初183,000人[2]
    延べ陸軍190,300人
    海兵隊88,500人
    合計278,800人[3]

    人的損害

    総死者20,195人[8][9][10](内戦死者[注 1]12,520人[13]〜14,006人[14])
    戦傷者 55,162人[15]
    戦闘外傷病者26,211人[16]

    合計 101,568

    物的損害
    駆逐艦16[17][18]
    その他艦艇20[19][18]
    海軍艦艇368損傷[20][21]
    航空機768機[22]
    戦車272輌(陸軍221輌[23]海兵隊51輌[24])
    イギリスの旗イギリス
    人的損害
    死者85人[25]
    戦傷者82名[26]
    物的損害
    空母5隻損傷[27]
    航空機98機[28][29][30]


    沖縄戦での特別攻撃隊 「菊水作戦」も参照

    特攻で大破した空母バンカーヒル



    沖縄戦には陸海軍計1,900機の特攻機が投入された。写真は陸軍特別攻撃隊第72振武隊の操縦者達(中央・荒木幸雄伍長)。

    沖縄戦には陸海軍計1,900機の特攻機が投入された。写真は陸軍特別攻撃隊第72振武隊の操縦者達(中央・荒木幸雄伍長)。撮影の翌日、5月27日に隊長・佐藤睦夫中尉以下九九式襲撃機10機の第72振武隊は万世飛行場を出撃、その内2機が金武湾上においてアメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦「ブレイン」に突入し大破の戦果をあげた。



    アメリカ海軍は4月23日に太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将が第10軍司令官バックナー中将に特攻対策の為の進撃督戦した以降も、日本軍の特攻に苦しめられており、この頃にニミッツはワシントンの海軍上層部に「もう持ち堪えられない」という弱気な報告を打電している[287]。

    前線での苦戦の報告を受けた海軍省長官ジェームズ・フォレスタルは5月17日の記者会見で、海軍の死傷者が4,702名に達していることを明かし「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償を伴うものであることをアメリカ国民の皆様に理解して頂きたい」と訴えたが、この会見にはバックナーへの非難の意味もこめられていたと言われている[288]。

    この後、バックナーは首里防衛線を攻撃する各軍団長へ、苛立ちを隠そうともせずに進撃スピードの加速を指示しているが、このバックナーを見て第10軍の海兵隊副参謀長のオリバー・P・スミス大将は「バックナーには、沖縄近海に展開している海軍が、甚大な損害に耐えている間に進撃を加速させろという大きなプレッシャーが加えられていた。」と語っている[289]。





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    なお沖縄戦の特徴を表す端的な表現として戦後長らく「国内唯一の地上戦」が使われてきたが、正確な表現ではないため現在は使われなくなってきている。

    交戦時は日本領で日本本国(当時の表現での「内地」)であった北海道占守郡における「占守島の戦い」や樺太庁全域における「樺太の戦い」があり、また現在も日本領である東京都硫黄島村(現・小笠原村)の硫黄島における「硫黄島の戦い」もあるからである。

    このため2010年、日本政府は国会質問への答弁書をつくる際、「唯一の地上戦」という認識が「必ずしも正確ではない」と閣議決定している[46]。

    沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。海軍大田少将

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    沖縄根拠地隊司令官大田実少将が自決した海軍司令部壕

    戦果

    『国史大辞典』によれば、全期間での特攻戦死者数は約4400人、命中率は16.5%だった[84]。

    社会学者青木秀男の研究論文いわく、特攻の定義や用いられた資料により、出撃回数・出撃機数・帰還機数・戦果といった算定は変わる[85]。

    服部省吾の算定[注 3]:

    「出撃総数は約3,300機、敵艦船への命中率11.6%、至近突入5.7%、命中32隻、損傷368隻」[85]。
    生田惇の算定[注 4]:
    「出撃機数2,483機、奏功率16.5%、被害敵艦数358隻」[85]。 「特攻で損害を受けた艦船の一覧」も参照



    関行男大尉(戦死後、中佐へ2階級特進)


    空母エセックスに突入を試みる神風特攻隊の特攻機


    神風特攻隊の特攻機命中後、消火作業が行われているエンタープライズ (CV-6)
    1945年4月16日、特攻機の命中で炎上する正規空母イントレピッドを見守るアメリカ軍駆逐艦
    ひめゆり部隊の女生徒多数が死亡した地下壕(第三外科壕)に建立された慰霊碑「ひめゆりの塔」、奥は犠牲者の名を刻んだ慰霊碑(納骨堂)



    ■ダグラス・マッカーサー陸軍元帥

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    「沖縄では、大部分が特攻機から成る日本軍の攻撃で、  米側は、艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失800機の損害をだした。

    これらの数字は、 南太平洋艦隊がメルボルンから東京までの間にだした 米側の損害の総計を超えているものである。」

    ■アーネスト・J・キング海軍元帥 

    「四月六日からはじまった日本機の攻撃は、いままで嘗てなかった激烈なものだった。この特攻戦は凄惨を極めた。 (略)海上では戦死行方不明4907名、戦傷4824名であった。  艦船は沈没36隻、損傷368隻であり、飛行機の喪失は763機であった。」



    ■チェスター・W・ニミッツ海軍元帥



    「我が海軍がこうむった損害は、戦争中のどの海域よりも、はるかに大きかった。  沈没30隻、損傷300隻以上、9000人以上が死亡、行方不明または負傷した。 この大損害は、主として日本の航空攻撃、とくに特攻攻撃によるものであった」



    ■第五艦隊司令官スプルーアンス大将



    「敵軍の自殺航空攻撃の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能な、あらゆる手段を採用すべきである。 第20航空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する。」



    ■第3艦隊司令長官ハルゼー大将



    「神風攻撃は、日本海軍の敗戦にもかかわらず、大変面倒なものになった」



    ■第38任務部隊司令官ミッチャー中将 「神風特攻阻止には空母機動部隊群の増強が必要で、海兵隊の戦闘機隊を空母に搭載すべき」 イメージ 1



    ■RLウェアマイスター海軍中尉



    「神風は米艦隊の撃滅には成功しなかったが、多大の損害を与えた。 在来の戦法ではとてもこんな成果を上げられなかったであろう。



    日本の飛行機に関する数字が正しいものならば、 日本が失った飛行機の12%で、 米損傷艦艇の約77%、 米海軍人員の死傷者中約80%をやっつけたことになる。 すばらしい戦果といえよう。 また神風の特攻があったため、多数の米高速空母がハリツケになったことも、大きな成果のひとつである。 もしも神風攻撃がなかったら、 これらの空母は、 自由に日本本土の基地や工場を破壊することができたはずである。」



    ■マルカム・ハーバート・マックガン大尉(護衛空母「サンガモン」乗組パイロット)



     炎上中の特攻機を海中に投棄するのを手伝ったマックガンは、ずっとのちになって、日本軍パイロットを賞賛して、 「わが艦の飛行甲板を突き抜けたあの男は、私より立派だ。私には、あんなことはやれなかっただろう」と語った。



    ■ハンソン W・ボールドウィン(米国の従軍記者)





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    「4月末になっても、菊水特攻隊の作戦は衰えをみせなかった。この恐るべき死闘は、なお2ヶ月間も続くのである。 ・・・4月以降になると、これほどの艦船の沈没、損傷の危険は二度と無かった。



    5,6月両月を通じて、沖縄の戦いは徐々に爆弾対艦艇の戦闘から人間対人間の意志と耐久力の試練に変わっていた。 毎日が絶え間ない警報の連続だった。ぶっつづけに40日間も毎日毎日、空襲があった。そのあとやっと、悪天候のおかげで、短期間ながらほっと一息入れたのである。ぐっすり眠る。これがだれもの憧れになり、夢となった。頭は照準器の上にいつしか垂れ、 神経はすりきれ、だれもが怒りっぽくなっていた。艦長たちの眼は真っ赤となり、恐ろしいほど面やつれした。」



    ■アルバート・カフ(UP通信社)



    「カミカゼ特攻隊は、確かに大きな損害を米軍に与えた。そしてカミカゼのパイロットたちが、 勇敢な人たちであったことは疑いがない。 そしてアメリカ兵が"カミカゼ"を恐れ、怖がったことは否定できない。 実際、パニックが起こりかけていた」 ☆マルカム・ハーバート・マックガン大尉(護衛空母「サンガモン」乗組パイロット)  炎上中の特攻機を海中に投棄するのを手伝ったマックガンは、ずっとのちになって、日本軍パイロットを賞賛して、 「わが艦の飛行甲板を突き抜けたあの男は、私より立派だ。私には、あんなことはやれなかっただろう」 と語った。



    ■アンドレ・マルロー(フランス 元文化相)





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    「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわりに何ものにも替え難いものを得た。 それは、世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊である。スターリン主義者たちにせよ、ナチ党員にせよ、結局は権力を手に入れるための行動だった。 日本の特別攻撃隊たちは、ファナチックだっただろうか。断じて違う。彼らには、権勢欲とか名誉欲など、かけらもなかった。祖国を憂える尊い情熱があるだけだった。 代償を求めない純粋な行為、そこには真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間は、いつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」



    ☆アンドレ・マルロー(フランス 元文化相)



    a181a359 「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわりに何ものにも替え難いものを得た。それは、世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊である。



    スターリン主義者たちにせよ、ナチ党員にせよ、結局は権力を手に入れるための行動だった。



    日本の特別攻撃隊たちは、ファナチックだっただろうか。断じて違う。彼らには、権勢欲とか名誉欲など、かけらもなかった。祖国を憂える尊い情熱があるだけだった。 代償を求めない純粋な行為、そこには真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは 根本的に異質である。人間は、いつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」



    海外「神風とテロは違う!」 メディアの自爆テロの表現に仏人から怒りの声も http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-1732.html



    記事のタイトルや見出しにも多く使われているくらいですので、カミカゼは自爆テロを表現する言葉として定着していると言えるようですが、 そのことに違和感を覚えるフランス人の方も少なくないようで、表記の変更を求める声や、メディアの認識に対する非難の声なども散見されました。



    ・ どうしてメディアは、一般市民を狙う自爆テロをカミカゼって呼ぶの?    ■ 単純にそういう用語として定着しちゃってるんだと思う。 ・ 俺もカミカゼって表現には違和感を覚えた……。  ・ 単純に、自爆テロと本来のカミカゼの意味合いとはまったく関係がない。 ・ メディアは自爆テロをカミカゼって呼ばないで欲しい。   カミカゼはテロリストとして知られていたわけじゃないから!!!! +3    ■ 俺も記事を読んでておかしいと思ったわ。    ■ 僕もメディアに属する人間として君の意見を取り入れたいけど、大手メディアが一般人の声に耳を傾けることはないだろう。 +1    ■ テロリストたちは、ただの犯罪者だからね。     ■ 僕もあなたの意見に完全に同意します。 +2    ■ 天国に行く事しか興味がない人と一緒にしてはいけないね。



    ・ テロをカミカゼって表現するのは唐突な印象を受けるな。 +1    ■ 俺は別物だとはまったく思わないけど。    ■ 俺もテロリストとカミカゼの違いが分からない! 



    ・ (※神風特攻隊と自爆テロの違いを説明する日本の方のコメントに対して)   自爆行為はカミカゼと同義に考えられてしまうんだろうね……。 ・ 説明をちゃんと聞けば、確かに自爆テロとカミカゼは違うようだ。



    海外「神風とテロは違う!」 メディアの自爆テロの表現に仏人から怒りの声も http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-1732.html



    記事のタイトルや見出しにも多く使われているくらいですので、カミカゼは自爆テロを表現する言葉として定着していると言えるようですが、 そのことに違和感を覚えるフランス人の方も少なくないようで、表記の変更を求める声や、メディアの認識に対する非難の声なども散見されました。





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    ・ カミカゼは戦時中にあった大日本帝国の特殊部隊だったんだよ。自爆テロとは意味合いが違う……。    「日本の英雄達に敬意を」 神風特攻隊を写した写真に外国人感銘 http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-1065.html



    ■ そうなんだね。教えてくれてどうもありがとう。  ■ だけど、自分の命と引き換えに相手の命を奪う攻撃を表現する、   他のボキャブラリーがいまだに存在しないのも確かなんだよ。 +1  ■ 結局スーサイドアタックってことで一緒くたにされちゃうんでしょ…。 ■ カミカゼが攻撃するのは軍艦とかだけだったからね!



    ・ ル・モンドよ、頼むからカミカゼと自爆テロを一緒にしないでくれ。   ・ ちょっと!!! カミカゼと自爆テロは違うでしょ!! +1 ・ 自爆テロとかカミカゼとか、呼び方はどうでもいい。とにかく犯罪者は絶対に許しちゃいけない。それだけ。 ・ カミカゼは「敵」を標的にした攻撃であり、一般市民を標的にした攻撃ではないぞ。 ・ カミカゼは太平洋で行われた戦いの中で、特別なミッションを抱えていた部隊。あの部隊の中に「テロリスト」なんかいないぞ。 +1



    ■ そんな事をわざわざここで言って何になるんだよ。 



    ■ アメリカはカミカゼじゃなくてスーサイドアタックって呼んでたね。 いずれにせよ、ここでのカミカゼの使われ方は正しくないな。  ・ 俺からすれば、自爆テロはカミカゼではない。祖国の為に命をかけた行為ではないから(怒) :( +1 ・ カミカゼはアメリカ軍をターゲットにした日本の部隊だよ……。   無防備な一般市民を狙う卑怯者と一緒にしてはいけない……。 +1



    http://www.sankei.com/west/news/151117/wst1511170080-n1.html 2015.11.17 20:55 パリで起きた同時多発テロ事件で、現地メディアが自爆テロ実行犯を「kamikaze」(カミカズ)=カミカゼの仏語風発音=と表現していることに、 語源となった神風特攻隊の元隊員から憤りの声が上がっている。 命をなげうち、祖国を守ろうとした特攻と、無辜(むこ)の民間人を犠牲にするテロを同一視するような報道に、 元隊員は「国のために戦死した仲間は、テロリストとは全く異なる」と反発している。 「日本をなんとか救おうと、愛国心の一念から仲間は飛び立ち、命をささげた。テロと特攻を一緒にするのは戦友に対する侮辱であり、残念至極だ」 福岡県豊前市の末吉初男さん(88)は17日、産経新聞の取材にこう語った。 末吉さんは16歳で陸軍少年飛行兵に応募し、昭和18年に陸軍飛行学校に入校した。18歳だった20年4月28日、特攻隊として、 4機5人と台湾の飛行場から飛び立ったが、約1時間後、隊長機にトラブルが起きて沖縄・石垣島に全機不時着した。再出撃の命令は出ず、そのまま終戦を迎えた。 末吉さんは、爆弾を積んだ小型ボートで敵艦隊に突入する特攻に旧海軍が「神風」という言葉を用い始め、国内に広がったと記憶している。 鎌倉時代の元寇の際に暴風が起きたことから、「日本が最悪の状況に陥ったときには神風が吹く、国を守るために神様が加勢してくれると信じさせてくれる言葉だった」と振り返る。 戦後70年、亡くなった戦友のことは片時も忘れず、冥福を祈り続けた。 今回、パリの事件を報道で知り、「無差別に人を狙う、こんな恐ろしいことが起こる世の中になった」と残念な思いでいた。 ところが、そんなテロの代名詞に「カミカゼ」が、誤って用いられている。



    特攻の攻撃対象は敵艦であり、乗っているのは軍人だ。無差別に一般市民を巻き添えにすることは決してなかった。 末吉さんも、敵艦を攻撃するために特殊教育を受けた。 航空母艦を標的とする際、鉄板の甲板に突っ込んでも空母は沈まない。 格納している航空機の昇降口を狙うなど、課せられた任務を遂行するために、むやみな突入をしないことは絶対だった。



    「戦友は上司の命令に従い、国を守るため、天皇陛下のためと死んだ。特攻とテロが一緒にされるとは心外でたまらない。戦友に対して申し訳なく、はがゆい思いでいっぱいだ」 自爆テロやテロリストを「カミカゼ」と表現する報道は、2001年9月の米中枢同時テロ以降、見られるようになった。 今回テロ事件が起きたフランスでは、「3人の『カミカズ』のうち、1人がフランス人だ」「『カミカズ』が競技場に侵入しようとしていた」などの文言で報じられ、 捜査を担当するパリの検事も記者会見で「カミカズ」と口にしている。 末吉さんは、これまで生き残ったことを申し訳なく思う気持ちから、戦争体験をほとんど語ってこなかった。だが、戦後70年を迎え、ようやく今年、生き証人として自らの経験を語り始めた。 「話を聞く若い世代の中には、これから政治家や指導者になる人もいるだろう。ひとりでも多くの人に、真実を知ってもらいたい」と強調した。



    1=2015/11/17(火) 22:27:11.21 前=http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1447843227/ 引用元: http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1447866601/



    神風特攻が日本本土上陸作戦を諦めさせた

安濃豊





    4.米国にとって、欧州が主戦場だったという捏造



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    米軍のフィリピンを含む太平洋で投入された将兵の数は235万人。

    一方欧州での投入兵力は米英合わせて、175万人。米軍の身では131万人である。

    この数値が正しいとすれば第二次世界大戦で投入された米軍陸上兵力の3分の2が太平洋に投入されている。全兵力の3分の2を投入して、3年8か月対日戦をやっても勝利を得られず、結局原爆投下に頼らざるを得なかったのがアメリカである。

    海軍はどうか。米海軍のほとんどは太平洋に投入されたのは明らかである。

    欧州の敵国ドイツは潜水艦作戦しか実施していない。

    このドイツの潜水艦への対抗は英海軍が実施したからである。

    米軍は欧州戦線に1943年7月10日のシシリー島への上陸から本格的に参戦した。

    昭和16年12月8日の真珠湾攻撃から昭和18年7月までの1年8か月間、米陸軍は太平洋戦線のみに投入された

    米陸軍がドイツとたたかったのは1943年7月から1945年4月までの1年9か月に過ぎない。

    対日戦闘期間は3年8か月である。戦死者数を比較すると、米軍の戦死者数は太平洋戦線が16万人に対し対ドイツ戦が25万人で、対ドイツ戦のほうが多い。

    この原因は太平島嶼に布陣した日本軍が少なかったからである。

    太平洋島嶼に布陣した日本軍は27万人に過ぎず、

    フィリピンでも53万人それにしても太平洋島嶼に布陣した日本軍27万人(戦死24万人)である。これに対し、米軍戦死者24万人は多すぎる。

    米軍にとって、太平洋戦線は主戦場だったため欧州戦線異状の兵員を配置したが、日本軍の主戦場は大東亜大陸であり、島嶼戦は囮に過ぎず、

    この間に大東亜6か国を白人の植民地から独立させたのである。なぜ隊ドイツ戦を主戦場都市、対日戦を従とアメリカは偽装したのか。それは簡単である。白人国家のドイツよりもアジア人の日本にてこずった。という話は、白人優越主義の立場から、認められなかったのである。大東亜戦争が人種間戦争であったことを認めず「米国の「勝ったふり」作戦だったのである。



    米国にとって、欧州が主戦場だったという捏造

安濃豊





    5.戦ったのは日本軍だけでなくアジア合同軍



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    日本と同盟して戦ったのは、
    タイ王国。
    満州国。
    中華民国(汪兆銘政府)。
    蒙古連合自治政府。
    ビルマ国。
    自由インド仮政府(チャンドラ・ポーズ)
    の6か国である。



    日本軍に協力した武装勢力は次のとおりである。
    フィリピン人義勇軍。
    フィリピン、ラウエル大統領府親衛隊。
    郷土防衛義勇軍(PETA) インドネシア。
    インド国民軍(チャンドラ・ポーズ)。
    マレー義勇隊。
    越南青年先方隊(ベトナム)。
    ビルマ国民軍
    石家荘白系ロシア軍義勇軍   中国大陸
    皇協維新軍   中国大陸
    中華民国臨時政府軍   中国大陸
    皇協新中華維新軍    中国大陸
    満洲イスラム教徒騎兵団   満洲。

    まるで日本軍の単独犯のごとく宣伝してきた、

    米国と特亜3国。日教組、日本共産党、NHK,東大左派歴史学閥。朝日新聞。であったがここで嘘がばれてしまった。

    侵略者で悪党であったはずの日本軍にはアジア全域からなる共犯者たる友軍が存在していたのである。



    。 日本軍に協力した武装勢力



    類型 国

    戦闘参加国・政府 大日本帝国、タイ王国 (1942-1945年)、満州国[注 3]、中華民国南京国民政府(汪兆銘政権)、蒙古自治邦政府、ビルマ国(ビルマ独立義勇軍)

    協力・支援国

    日本による支援・指導を受けた組織

    自由インド仮政府[注 6](インド国民軍)、ビルマ防衛軍、郷土防衛義勇軍(インドネシア)、スマトラ義勇軍、ボルネオ義勇軍、ジャワ防衛義勇軍、マレー義勇軍、マレー義勇隊、越南青年先鋒隊(ベトナム)、フィリピン人義勇軍〈マカピリ〉、比島ラウエル大統領付親衛隊、石家荘白系ロシア人義勇軍(中国)、浅野部隊(中国)、皇協維新軍(中国)、中華民国臨時政府軍、皇協新中華救国民軍、満洲イスラム教徒騎兵団、高砂義勇隊(台湾)、間島特設隊(朝鮮・満州)



    https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89_%E9%96%A2%E4%B8%8E%E3%81%97%E3%81%9F%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%83%BB%E5%8B%A2%E5%8A%9B

    マライ義勇軍

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    。 マライ義勇軍(マライぎゆうぐん)、マラヤの郷土防衛義勇軍(Pembela Tanah Air. Peta.)は、太平洋戦争中の1944年1月、日本軍の占領下にあったマレー半島で、

    。日本軍がマレー人を動員して郷土防衛のために結成させた予備軍組織[1]。単に義勇軍[2]とも呼ばれる。

    。隊長はイブラヒム・ヤーコブ義勇軍中佐[2]。義勇軍の補助組織として義勇隊が組織され[2]、1945年1月には義勇軍の補助役として兵補が組織された[2]。1945年8月15日の日本軍降伏後に解体された[2][3]。



    。 :マレーシアの上院議員ラジャー・ノンチック: 日本軍はマレー人を一人も殺さなかった

    マレーシアの上院議員ラジャー・ノンチック マレーシアの上院議員ラジャー・ノンチック  じつはこのノンチック議員は、かつて マレーシアの独立に半生をかけた人です。

     マレー半島は、かつて150年もの間、 イギリスの植民地支配に苦しんでいました。

    マレー半島だけではありません。 当時アジア諸国において、独立国は日本とタイだけであり、 他のほとんどは欧米列強の植民地と化していたのです。

    http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi01.htm

    戦ったのは日本軍だけでなくアジア合同軍

安濃豊

    戦ったのは日本軍だけでなくアジア合同軍国名

安濃豊

    戦ったのは日本軍だけでなくアジア合同軍

安濃豊





    6.太平洋島嶼戦はアジア解放のための囮作戦



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    米国にとって、欧州が主戦場だったという捏造

安濃豊



    フィリピン、太平洋島嶼地域における日米両軍の布陣参加兵力と損害の比較表   

    フィリピン戦域                                   

              日本軍          米軍                 

    参加戦力      529,802         1,250,000               

    太平洋島嶼地域                                    

              日本軍          米軍                 

    1.アングル島   1,250          21,000                 

    2.キスカ島          0      34,426                 

    3.エニウエトク  2,812          10,367                 

    4.クエゼリン   8,782          41,426                 

    5.ガダルカナル島 36,204          60,000                 

    6.アッツ島     2,650         11,000                 

    7.タラワ島     2,600         35,000                 

    8.マキン島     353          6,470                

    9.サイパン島   31,369         66,779                     

    10.テニアン島  8,500         54,000                   

    11.グアム島   22,554        55,000                    

    12.ペリリュー島 10,950        47,561                   

    13.硫黄島    22,780        110,000                   

    14.沖縄    116,400        548,000                   

    小計       267,420        1,101,079                  

     

    フィリピン、太平洋島嶼地域における日米両軍の布陣参加兵力比較表           

    フィリピン戦域                                   

              日本軍          米軍                 

    参加戦力      529,802         1,250,000               

    太平洋島嶼地域                                   

              日本軍          米軍                 

    小計       267,420        1,101,079                  

      参加全戦力    797,222        2,351,049                







    終戦時にも強力な日本軍がアジア大陸に健在

安濃豊

    終戦時における日本軍の布陣                          

                   陸軍          海軍                 

    1.千島・樺太       88,000          3,000                 

    2.朝鮮北部        94,000          8,400                 

    3.朝鮮南部        200,200         33,300                 

    4.台湾          128,100          62,400              

    5.満洲         664,000           1,500              

    6.中国(含香港)   1,057,00          69,200              

    7.ミャンマー(含インド) 70,400          1,100              

    8.タイ        106,000          1,500             

    9.仏領インドシナ    90,400         7,800              

    10.マレー・シンガポール 84,800         49,900              

    11.インドネシア    235,800        55,500                

    12.フィリピン     97,300         29,900              

    13.太平洋諸島     48,600         58,300                

    計       2,963,300           381,800               

     





    太平洋島嶼に米軍は戦力集中米国にとって、欧州が主戦場だったという捏造

安濃豊

    日本軍、軍人、軍属地域別戦死者数(1934-45)                        

                                           

    1.フィリピン           498,600                     

    2.中国              455,700                     

    3.太平洋諸島            247,200                     

    4.ミャンマー(含インド)      166,900                     

    5.ニューギニア           127,000                     

    6.ビスマルク、ソロモン諸島     118,700                     

       (含ガダルカナル)                                

    7.日本本土             103,900                   

    8.スマトラ、ジャワ、ボルネオ     90,600                       

    9.沖縄諸島              89,400                 

    10.シベリア             52,700                  

    11.満洲               46,700                   

    12.台湾               39,100                  

    13.朝鮮               26,500                    

    14.小笠原諸島            15,200                       

    15.仏領インドシナ          12,400                       

    16.樺太、千島            11,400                      

    17.マレー半島、シンガポール     11,400                      

    18.タイ               7,000                      

       合計                                      





    7.勝敗の分岐点は広島

    8.アジアの独立は戦時中

    9.タイ王国は緩衝地帯として植民地化を免れていたわけではない

    10.罠にはめられているのに暗号解読の成功に意味はない





    11.日系人部隊がドイツのユダヤ人ダッハウ強制収容所を解放



    最初に戻る。アジアを解放した大東亜戦争



    日系人部隊がドイツ国内のユダヤ人強制収容所を最初に解放した。

    この事実は平成4年まで明らかにされることがなかった。 米国白人にとって、事実上の収容所囚人とされた、

    有色囚人、日系人が、ナチスに強制収容された、白人囚人を解放したのである。皮肉な出来事である。

    ハリウッド映画では、白人部隊がヒーローよろしく解放したことになっている。

    ダッハウ強制収容所

    日系人部隊がドイツのユダヤ人ダッハウ強制収容所を解放

安濃豊



    日系人強制収容所

    米国在住すべての日系人が全財産を没収され、

    赤ん坊から老人まで、着の身着のままで強制収容された。

    日系人強制収容所

安濃豊

    パターンでの捕虜虐待!が行われていたころ、米、加、豪では日系人が強制収容所に収容された。 その数米国12万人、カナダ2万人、豪州4000人であった。合計14.4万人に上る。収容されたのは日系人だけであり、同じく敵国であった、ドイツ系、イタリア系米国人は収容されなかった。日系人は有色人種だから収容されたわけである。

    収容所の日系青年たちにより半ば強制的に米陸軍第442戦闘団が開設された。この部隊が対独戦争末期にダッハウ強制収容所を解放し、ユダヤ人などを解放した。

    この事実は平成4年になって初めて明らかにされた。

    米国にとってダッハウ強制収容所の解放こそは、米国の正当性を確証する出来事として、ハリウッド映画では、白人部隊がヒーローよろしく解放したことになっている。

    しかし、実際に開放したのは第442戦闘団522野砲兵部隊である。522野砲兵大隊はフランス戦後、ドイツ国内に侵攻、ドイツ軍との戦闘の末、ミュンヘン近郊の ダッハウ強制収容所の解放を行った。

    この事実は平成4年まで明らかにされることがなかった。 米国白人にとって、事実上の収容所囚人とされた、有色囚人が、ナチスに強制収容された、白人囚人を解放したのである。皮肉な出来事である。

    ダッハウ強制収容所

    日系人部隊がドイツのユダヤ人ダッハウ強制収容所を解放

安濃豊

    概要

    全部で30以上の国々から20万人が送り込まれ、

    その内の3分の1近くがユダヤ人であった[5][出典無効]。32,099人が収容所内で死亡し、

    他に約1万人が主に疾病、栄養失調、自殺によりダッハウの支所で死亡した[6]。1945年初頭にナチスの撤退後にチフスが流行し、体の弱っていた囚人の多くが死亡した。

    ダッハウより大きいアウシュヴィッツ同様、ダッハウは多くの人にとってナチス強制収容所の象徴になっている。西側諸国がナチスの蛮行に直に接した最初の場所の一つであった[注釈 1]。

    当初、解放したアメリカ軍はダッハウでガス室による大量虐殺が行なわれていたと発表した。実際に1942年7月末にナチスはガス室を設置するようダッハウに命令を下しており、ダッハウに偽装シャワー室のガス室がつくられている。しかし、ダッハウでガス室が実際に稼働した事実を証明する資料はない。ダッハウでは絞首刑や銃殺による処刑も他のナチ強制収容所と比べるとかなり少なかった[7]。

    収容所は1945年4月29日にアメリカ第7軍第42歩兵師団により解放されたということになっていたが、場所や存在は知られていなかった。この部隊は命令もなく他の部隊から准将として入隊することを拒否されたフェリックス・L・スパークス中佐が指揮していた。スパークスは告発され、逮捕されたが、告発はジョージ・パットン将軍が退けた(スパークスは本当に第45歩兵師団第157歩兵連隊に加わっていた。第42師団や第45師団という部隊は、実際にダッハウに一番乗りしたことについて不和の間柄であった)。パットンは吐き気をもよおすような収容所の状況に衝撃を受けたといわれる。

    なお、実際には日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団所属の第522野戦砲兵大隊が収容所周辺における掃討作戦の中心的存在となっていたが、このことは1992年(ジョージ・H・W・ブッシュ政権下)まで公開されなかった。



    ダッハウ強制収容所

    日系人部隊がドイツのユダヤ人ダッハウ強制収容所を解放

安濃豊

    ダッハウ強制収容所

    日系人部隊がドイツのユダヤ人ダッハウ強制収容所を解放

安濃豊



    ダッハウ強制収容所

    日系人部隊がドイツのユダヤ人ダッハウ強制収容所を解放

安濃豊



    ダッハウ強制収容所

    日系人部隊がドイツのユダヤ人ダッハウ強制収容所を解放

安濃豊



    ダッハウ強制収容所

    日系人部隊がドイツのユダヤ人ダッハウ強制収容所を解放

安濃豊

    ウイキペディア







    12.B29は無敵ではなかった



    最初に戻る。アジアを解放した大東亜戦争

    空の要塞、B29 撃墜

    出撃してきた3万3000機のうち2700機に損害を与えた。

    B29・一機の損失は駆逐艦一隻の損失と同じである

    。 なおB29はドイツ攻撃には不使用。

    B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。

    B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」という手紙を出し司令官のハンセルを叱咤している[290]。

    損害=撃墜+破損 3192  損害率=9.6% 日本本土を爆撃したB-29

    延べ出撃機数 33,401機

    作戦中の総損失機数 485機

    延べ出撃機数に対する損失率 1.45%

    作戦中の破損機数 2,707機

    破損率 8.1% 損害=撃墜+破損 3192  損害率=9.6% 日本軍の高射砲が直撃し墜落するB-29 B-29の損失数は資料によって異なり、日本の戦後の統計では損失合計714機[262](延べ数での出撃した全数は33,000機)で、延べ出撃数に対する損失率は2.2%程度という読売の資料がある。

    乗員の死亡は特攻隊員の死亡よりも多い。





    13.戦前の日本軍は米軍を恐れていない



    最初に戻る。アジアを解放した大東亜戦争

    終戦時にも強力な日本軍がアジア大陸に健在、米軍は攻撃できなかった

    終戦時にも強力な日本軍がアジア大陸に健在

安濃豊

    14.戦前の日本は軍国主義だったという捏造

    太平洋島嶼に米軍は戦力集中

    最初に戻る。アジアを解放した大東亜戦争



    太平洋島嶼に米軍は戦力集中米国にとって、欧州が主戦場だったという捏造

安濃豊





    15.沖縄戦で敗北したのは米軍



    最初に戻る。アジアを解放した大東亜戦争

    沖縄の戦い     1945年3月から1945年6月22 日                                     

              日本軍             米軍                  

    損害                                           

    1.戦死(県外出身者,行方不明含む)、 65,908                         

    2.戦死、(県内出身者,行方不明含む) 28,228                          

    合計戦死、(県内出身者,行方不明含む) 94,136    20.195 12,520-14,006                      

    3.戦傷者                       25,162                

      4.民間人死者(米軍戦争犯罪)  94,000                           

    物的被害                                        

    1.戦艦      1                                   

    2.軽巡洋艦    1                                   

    3. 駆逐艦      5          16                       

    4.そのた艦艇              20                        

    5.艦艇損傷              368                        

    6.航空機                  768                       

    7.戦車     27          272(陸軍 221 海兵隊 51)        

        8.特攻機    1895                               

    9.そのた航空機 1112                               

                                        

    ウイキペディアより



    第4章 大日本帝国こそ、大なる特攻隊だった

    1.大日本帝国建国の目的は白人帝国主義の打倒



    最初に戻る。アジアを解放した大東亜戦争

    大東亜戦争中独立国

    1.タイ王国    日本軍進駐以前から独立国

    2.ビルマ国    昭和18年8月1日 英国より独立 首班は バー・モウ

    3.フィリピン共和国 昭和18年 10月14日 米国からドクリツ首班は ホセ・ラウエル

    4.自由インド仮政府  昭和18年10月21日 英国より独立 首班は  チャンドラ・ポーズ

    5.ベトナム帝国  昭和20年3月9日 フランスより独立   首班は  バオ・ダイ

    6.カンボジア王国  昭和20年3月12日 フランスより独立 首班はノロドム・シアヌーク

    7.ラオス王国  昭和20年4月8日 フランスからドクリツ 首班は  シーサワーン・ウオーン

    8.インドネシア共和国  昭和20年8月17日オランダから独立宣言 首班は スカルノ



    大東亜戦争中独立国

安濃豊

    米国を強く見せるため戦後に捏造された虚構

    大日本帝国こそ大なる特攻隊だった



    最初に戻る。アジアを解放した大東亜戦争



    ダッハウ強制収容所

    米国を強く見せるため戦後に捏造された虚構
安濃豊









    6.鶴野正敬技術大尉
    震電、究極のプロペラ機、プロペラが主翼より後ろ。B29撃墜用。鶴野正敬技術大尉



    7. 酸素魚雷、
    英米の普通魚雷より2倍の射程、魚雷の航跡を残さないためかわし難い、日本独自の魚雷。



    8.大量短納期で造船
    1か月という短工期、標準船、「SB艇」。、



    9. 海軍ミサイル、
    「奮龍」海軍が開発したミサイル。試験発射で終戦。、



    10. 陸軍ロケット砲
    「噴進弾」、陸軍が開発したロケット弾。硫黄島の激戦で活躍。



    11. 日本のレーダー開発。
    日本もレーダーを開発実用化していた。伊藤大佐、



    12. 「水中高速潜水艦」目指すは通常の3倍!


    13.富嶽(ふがく)
    は、大東亜戦争中に日本軍が計画した、アメリカ本土爆撃を目的にした6発の超大型戦略爆撃機である。名は富士山の別名にちなむ。 、






    1.堀越二郎は、日本の航空機技術者で零式艦上戦闘機の設計主任として有名

    2. 小山悌(こやま やすし、1900年(明治33年) - 1982年(昭和57年)8月25日)は、 大日本帝国陸軍(陸軍航空部隊)の九七式戦闘機・一式戦闘機「隼」・二式戦闘機「鍾馗」・四式戦闘機「疾風」の設計主務者であり、戦前日本を代表する航空機技術者であった。

    3. 飛燕   三式戦一型(キ61-I) 1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示した[5][23]。キ60の設計は1940年2月から、キ61の設計は12月から開始された[24]。設計は両機ともに土井武夫が担当した。

    4. 一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき / いちしき - )は大日本帝国海軍の陸上攻撃機であ



    人物事典風雲伝 時代を駆け抜けた英雄・偉人たちの人物伝 jpreki.com

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    明治・大正・昭和風立ちぬ 堀越二郎 ゼロ戦の設計者

    風立ちぬ 堀越二郎 ゼロ戦の設計者

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    堀越二郎は、日本の航空機技術者で零式艦上戦闘機の設計主任として有名。

    1903年6月22日生まれで群馬県藤岡市出身。1903年と言えば、ライト兄弟の飛行機が初めて空を飛んだ年だ。 藤岡中学校、第一高等学校、東京帝国大学工学部航空学科と進学し、それぞれ「首席」で卒業している。 就職は、三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。 三菱は支度金四百圓(現在の約100万円相当)を堀越二郎に渡し、航空機の最先端技術を学ばせるため、彼をヨーロッパ、アメリカにと1年半派遣した。

    大変几帳面な性格だったようで、自分が乗った客船の食堂のメニューを集めて保管しておく、領収証も一枚一枚保存、布団を敷くときには必ず部屋の壁と平行になるように敷くなど、と言ったエピソードがある。

    日本に戻った堀越二郎は、その優秀な設計者ゆえ、この時代には最新の技術が必要とされる「戦闘機」の開発に携わることになった。 日本の航空機はそれまで外国機のコピーと言った感じだったが、時代がそのように堀越二郎を必要としたのであろう。 この当時の日本はどうしてもエンジン出力が弱い。その欠点を、堀越二郎らの航空機設計技術により補ったと言えよう。

    堀越二郎が設計主務者として担当した最初の設計機は「7試艦上戦闘機」で進歩的な低翼単葉を採用したが、ライバルの中島飛行機設計機ともども、正式採用はされなかった。  その後、1935年(昭和10年)に完成した試作機「9試戦闘機」は上昇力など戦闘機に不可欠なもののみに重点をおき、試作1号機は逆ガル型の主翼を設計した。

    堀越二郎によるこの9試の設計が基礎となり、のちの三菱九六式艦上戦闘機の設計に於いて日本独自の革新的な設計が施され、日本海軍初の全金属単葉戦闘機が誕生したのだ。 日本はエンジン性能が低いと言う欠点があるなか、その欠点を機体設計で補い、96式艦上戦闘機は固定脚機としては驚異的なスピードである最高速度400km/時を超え、当時の世界水準を超える優秀な戦闘機となった。

    しかし、96式艦上戦闘機は航続距離が1200kmと短く、中国内陸部での作戦に支障が出た為、日本海軍は、速度500km以上、高い航続距離、20mm機関砲の重装備と言った厳しい性能を要求した新機種開発に着手。 三菱のライバルだった、中島飛行機は途中で開発を断念するくらい厳しい条件だったが、三菱の堀越二郎技師は3000枚に及ぶ設計図をチェックし、設計主務者として開発に取り組んだ。

    その結果、航続距離2222km、最高速度533kmと高い運動性能、20mm機関砲2門の重武装を持ち、太平洋戦争の緒戦では無敵とも言える活躍し、述べ10000機が生産された「零式艦上戦闘機(A6M2b)」が、堀越二郎の手により誕生した。 ちなみに、ゼロ戦の半数以上は、中島飛行機でライセンス生産されている。 このように、堀越二郎は日本の航空機水準を世界一にまで高めた優秀な設計者だ。

    堀越二郎は大学での成績がよかったので、三菱内燃機製造株式会社(現・三菱重工)から声がかかったとの事。 あまり知られてないが、当時、三菱は恐慌の影響で業績が悪く、帝大出の優秀な人材を獲得、育成して挽回を図ろうとし、それが堀越を成長させた。 堀越二郎の最も強いこだわりは、機体の美しさと機能を両立させることだ。堀越二郎が考案した、ねじり下げ、沈頭鋲といった技術は、現在でも世界のほとんどの航空機で採用されている。 堀越二郎が(三菱のライバルである)中島飛行機に入っていたら、ゼロ戦は生まれなかっただろう とまで言われている。

    ゼロ戦は防御面が欠点だと言う事実は良く知られるが、設計段階で防御面は海軍からも要求はなく、徹底した軽量化により高い旋回性能を持つ事で敵機の攻撃を回避できると言う考えから、機体が重くなる防弾装備は当初不要との判断だった。

    実際問題、日本はエンジン出力が低く、スピードを上げるには機体を軽くするしかなかった。その反面、アメリカは優秀なエンジンを開発し、ゼロ戦よりスピードが速い戦闘機をアメリカが持つ事で、ゼロ戦の優位性が崩れたのだ。

    雷電、烈風と続けて設計を手掛け、疎開先の長野県松本市でも開発を目指したというが終戦。

    戦後は木村秀政らとともにYS-11の設計に参加した。

    三菱重工業は戦後分割されたため、それにともない発足した中日本重工業(のちの新三菱重工業)に勤務。 新三菱重工業では参与を務めた。 新三菱重工業を退社した後は、教育・研究機関で教鞭を執った。

    1963年〜1965年にかけて、東京大学の宇宙航空研究所(現、宇宙航空研究開発機構=JAXAを構成する宇宙科学研究所)にて講師を務めた。

    1965年「人の操縦する飛行機の飛行性の改善に関する研究 :昇降だ操縦系統の剛性低下方式」と操縦装置の基本理論で東大工学博士。 1965年〜1969年には防衛大学校教授。 1972年〜1973年は、日本大学生産工学部教授。 1982年1月11日死去。享年78。



    小山悌(こやま やすし、1900年(明治33年) - 1982年(昭和57年)8月25日)は、日本の航空機・林業機器技術者、実業家。第二次世界大戦中は中島飛行機技師長・取締役、中島飛行機三鷹研究所長・黒沢尻製作所長(第1軍需工廠第21製造廠長)、戦後は岩手富士産業(中島の後身富士重工業系、現・イワフジ工業)取締役。

    大日本帝国陸軍(陸軍航空部隊)の九七式戦闘機・一式戦闘機「隼」・二式戦闘機「鍾馗」・四式戦闘機「疾風」の設計主務者であり、戦前日本を代表する航空機技術者であった。

    概要

    九一戦

    四式戦「疾風」

    第二高等学校を経て、1922年(大正11年)4月に東北帝国大学工学部機械科進学。卒業後は理学部助手を務め、1925年(大正14年)12月に一年志願兵(学歴と財力を持つ者を対象に短期間の現役期間の後に予備役幹部に登用する制度、のちの幹部候補生制度)として帝国陸軍の電信部隊(在中野)に入営する[1]。

    なお、当初小山は航空機設計に対し興味は特に無かったが、一年志願兵時代に休日外出で訪れる叔父宅(在蒲田)にて、中島飛行機創業者・中島知久平と海軍機関学校同期であった叔父の度重なる勧めを受けて満期除隊後の中島入社を決意している[2]。

    1926年(昭和元年)12月28日、25歳の小山は中島飛行機製作所(のち中島飛行機株式会社)に入社。航空先進国であるフランスの航空機産業に学んでいた当時の日本航空機産業(およびフランス陸軍航空部隊(フランス空軍)を師としている日本軍航空部隊)にとって、

    学生時代よりフランス語に堪能であった小山の存在は貴重なものであり、ニューポールやブレゲーの資料を翻訳する傍ら設計技術を磨いた。その様な状況で翌1927年(昭和2年)4月、早くも小山は当時の甲式四型戦闘機に代わる陸軍次期主力戦闘機の開発に関与する[3]。ニューポールの招聘技師アンドレ・マリーを設計主務者(および助手ロバン)に、小山と同僚の大和田繁次郎[4]が補助して設計された試作機・中島NCは、三菱重工業のIMF2「隼」や川崎航空機のKDA-3を抑え陸軍に採用、1931年(昭和6年)12月に九一式戦闘機として制式制定された。

    こののち、航空機設計の才能を開花させた小山は陸軍機を中心に数々の機体開発に携わり、特に1936年(昭和11年)に全金属製低翼単葉戦闘機である九七式戦闘機(キ27)を、1937年(昭和12年)末以降には著名な一式戦闘機「隼」(キ43)、重単座戦闘機たる二式戦闘機「鍾馗」、さらに太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)末以降はそれらの集大成として、「日本軍最優秀戦闘機」と謳われる四式戦闘機「疾風」(キ84)の開発を設計主務者として手がけた。なお、小山は機体設計部門における中島の重鎮であるためこの他多数の機体にも関係している。

    敗戦を工場疎開先の中島飛行機黒沢尻製作所長(第1軍需工廠第21製造廠長)として迎えた小山は、軍用機開発の要職にあったことから公職追放にかかり林業機器の技術者となる。1952年(昭和27年)に追放解除となると、旧中島飛行機の後身である富士産業(富士重工業の前身)系である岩手富士産業(旧・中島飛行機黒沢尻製作所、現・イワフジ工業)の取締役に就任。しかし、小山は他多数の航空機技術者と異なり戦後の航空機産業に復職することや、自動車産業・鉄道産業に移ることは拒み続け、以降1974年(昭和49年)に引退するまで20年以上に渡り岩手富士産業にて林業機器の技術者として過ごした。このことに関して小山は「日本の国力回復の基は、まず山林の開発であると思ったのです。また、私自身、そうした仕事が好きだったここともあるのでしょうが……」と語っている[5]。1962年(昭和37年)には林業関係の東京大学学位論文で「農学」博士[6]。

    さらに小山はその責任から戦後は多くを語ることは無く、メディアへの露出も極めて少なく[7]回顧録なども残さなかった。そのため、小山は国産機創成期の九一戦から一式戦「隼」を経た集大成たる四式戦「疾風」に深く携わった、戦前日本の航空機産業を代表する大物でありながら、戦後の知名度は航空機産業に復職しメディアへの露出も積極的に行い己の業績を誇っていた三菱の堀越二郎(零式艦上戦闘機等の設計主務者)、川崎の土井武夫(三式戦闘機「飛燕」等の設計主務者)等と異なり極めて低い。



    三式戦闘機

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    川崎 キ61 三式戦闘機「飛燕」

    台湾・松山飛行場駐屯の第37教育飛行隊所属の 三式戦一型甲(キ61-I甲、1944年3月撮影) 台湾・松山飛行場駐屯の第37教育飛行隊所属の 三式戦一型甲(キ61-I甲、1944年3月撮影)

    用途:戦闘機 分類:戦闘機

    設計者:土井武夫

    製造者:川崎航空機

    運用者:大日本帝国の旗 大日本帝国(陸軍) 初飛行:1941年12月

    生産数:1,919- 生産開始:1942年 運用状況:退役 表示

    三式戦闘機(さんしきせんとうき)「飛燕」(ひえん)は第二次世界大戦時に大日本帝国陸軍が開発し、1943年(昭和18年)に制式採用された戦闘機である。開発・製造は川崎航空機により行われた。設計主務者は土井武夫、副主任は大和田信である[1]。

    当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機であり、ドイツの液冷航空エンジンDB601を国産化したハ40を搭載した。防弾装備のない試作機は最高速度590km/hを発揮した。主翼より後部の機体下部にラジエーター・ダクトを搭載し、機体の空気抵抗低下と冷却効率の両立を図った[2]。

    また基礎工業力の低かった当時の日本にとって不慣れな液冷エンジンハ40は生産・整備ともに苦労が多く、常に故障に悩まされた戦闘機としても知られる。ハ40の性能向上型であるハ140のエンジン生産はさらに困難であり、これを装備する予定であった三式戦闘機二型はわずか99機しかエンジンが搭載できず、工場内に首無しの三式戦闘機が大量に並ぶ異常事態が発生した。

    この事態に対処するために星型空冷エンジンハ112-IIを急遽搭載した五式戦闘機[* 1]が生産された。

    概要

    開発の経緯と機体内部構造 「DB 601」、「ハ40」、および「キ60」も参照

    三式戦一型(キ61-I)

    1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示した[5][23]。キ60の設計は1940年2月から、キ61の設計は12月から開始された[24]。設計は両機ともに土井武夫が担当した。キ60はBf109Eと互角以上の性能を示したものの[* 2]、他に合同試験された二式単座戦闘機の方が有望であり、なによりキ61の方が良好な性能を発揮していたため、制式化は見送られている。

    キ61の設計コンセプトは、「航空兵器研究方針」における重戦・軽戦のカテゴリにこだわらない万能戦闘機で、「中戦(中戦闘機)」とも呼ばれた。当時の陸軍は、軽単座戦闘機に旋回力と上昇力を求め、さらに12.7mm機関砲の搭載も要求したことから、必然的に陸軍内の議論が発生したともされる[26]。副主任の大和田が「戦闘機は総合性能で敵に勝っておらねばならず、軽戦・重戦で分けるのは不合理だ」と語り、またこれが川崎の開発チーム共通の理念であったともしている[27]。そもそも開発チームが「中戦」と呼んでいたとする文献もある[28]など、川崎側が発祥であるともされる。

    土井自身は陸軍の「軽戦闘機」思想にこだわらず、キ61を理想的な戦闘機にまとめあげようとしたと語っている[29][7][28]。またこの考えの裏には、かつて土井が設計を担当し、高速性を追求した軽戦闘機キ28が、1939年の競争試作で旋回性が劣るとしてキ27(九七式戦闘機)に敗れた経緯も影響したと指摘する説もある[30]。土井は自信作であったキ28について「当時の陸軍が一撃離脱戦法を知っていれば」と述べている[31][* 3]また、その反動からか、一度は95式戦闘機の改良版とも言える降着装置を引き込み式とし最大速度480km/hに達する高速の複葉機を計画したこともあった[30]。しかしこれはその後廃案になり、「三式戦闘機」案に変更されている。1940年9月頃には細部設計が開始された[28]。なお開発初期の1940年5月頃に、土井はこの時期からキ61を空冷エンジン搭載機とする可能性に言及したとする文献もある[33]。

    木型審査は1941年6月に行われ[34]、試作機は1941年12月に完成し初飛行を行った[35]。キ61はキ60と同系統のエンジンを使用しており、陸軍側もあまり期待していなかったとする資料もあるが[36]、この審査ではキ60やBf109Eの速度を30km/h上回る590km/hを発揮した。これは設計者の土井すらも全く予想外の高性能だった[7][37]。なおこの時期の陸軍戦闘機は、軽戦闘機である一式戦闘機は495km/h乃至515km/h[38]、重戦闘機である二式単座戦闘機(制式採用前)でも580km/hの最高速度しかもたなかった[39]。このため1942年10月には毎日航空賞が、1943年12月には陸軍技術有功賞が、土井と大和田に贈られた[* 4]。

    エンジン

    1936年、ドイツで液冷1000馬力級航空エンジン、DB601が開発・生産された。これは過給器に流体継手を採用し、キャブレターではなく燃料噴射装置を採用するなど先進的な機構を備えたエンジンであった[41]。日本陸海軍はこのエンジンに興味を示し、海軍側は愛知時計電機(のちに愛知航空機と呼ばれる企業)が、また1939年1月には川崎航空機が、各々50万円でライセンスを購入し、日本国内での生産を行うこととなった[41]



    一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき / いちしき - )は大日本帝国海軍の陸上攻撃機である。略称は一式陸攻(いっしき / いちしきりくこう、- りっこう)。日本海軍の呼び名は中型攻撃機の略の、中攻。連合国側のコードネームは「Betty」(ベティー)。(Betty bomberが、一式陸攻の米軍側の名称)三菱重工業株式会社(改称前は三菱内燃機株式会社)の設計・製造。日中戦争・太平洋戦争で日本海軍の主力攻撃機として使用された。

    特徴

    本土上空を飛行する一式陸攻。

    大直径の胴体内部に爆弾や魚雷を搭載し、胴体下の機体外部に搭載していた九六式陸攻よりも攻撃時の空気抵抗を大きく削減した。エンジンは大馬力の火星を装備した。主翼内をインテグラルタンクとし、4,000km以上に達する大航続力を得た。空気力学的洗練により、大型双発機としては軽快な運動性を得た。尾部に20mm旋回機銃を装備するなど、九六式に比べて防御火器を充実しているが、搭乗員や燃料タンクの防護は不十分だった。

    機体設計

    搭乗員

    通常7人〜8人乗り。主操縦員、副操縦員、搭乗整備員、射爆員、主偵察員、副偵察員、電信員。機長は主偵察員。必要に応じて編隊指揮官が搭乗する。それぞれが機銃や電信などを兼任することができた。

    第一回一式陸攻打ち合わせ会で、本庄季郎技師(三菱)から「防備が不十分。小型で航続距離求めれば燃料タンクに被弾しやすいため、四発機にして搭載量、空力性能、兵儀装要求を満たし増えた二発馬力で防弾鋼板と燃料タンクの防弾、消火装置を備える」と提案があったものの、和田操(航空技術廠長)から「用兵については軍が決める。三菱は黙って軍の仕様通り作ればいい」と議論なく棄却された[16]。

    1939年10月、一号機が完成[17]。初飛行は1939年(昭和14年)10月23日、パイロットは志摩勝三。1941年(昭和16年)4月1日、「一式陸上攻撃機」として制式採用された[18]。 このG4M1爆撃機が量産に入る以前に、重護衛戦闘機型を制作することが試みられた[19]。この爆撃機の量産は1940年に開始され、量産1号機は1941年4月に生産ラインを離れた。

    太平洋戦争開時、九六式陸攻と協同して台湾からフィリピンのアメリカ陸軍航空基地を攻撃し、B-17爆撃機を含む爆撃機兵力を壊滅させている。また、やはり九六式陸攻と協同して、マレー沖でイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈する(マレー沖海戦)など、太平洋戦争初期に活躍した。

    情勢の変化に適応できた特殊潜航艇(甲標的) −攻撃兵器から防御兵器へ− 中 村 秀 樹 http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200503/05.pdf はじめに あては外れるものである。日本海軍が米海軍に対抗し得るはずだった唯一絶対の漸減邀 撃艦隊決戦構想は、日本海軍自らが実証した航空兵力の優越性によって崩壊した。 ハワイ、マレー沖で航空機の優位を見ても、戦艦中心の考えの抜けきらなかった日本海 軍に対し1、真珠湾で太平洋艦隊の戦艦全てを撃沈破された米海軍は、やむを得ず残った空 母と潜水艦を活用した。それは日本海軍同様、戦前の艦隊決戦主義とは違った用法であっ たが、絶大な効果を上げ、今日空母と潜水艦が海軍の主力となる基礎となった。機に臨み 変に応じることなく、既存の用兵思想を払拭できないまま頽勢に陥った日本海軍とは対 伊四百型潜水艦 ページ ノート その他 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 伊400型潜水艦 I400 2.jpg 艦級概観 艦種 一等潜水艦 艦名 イ400、イ401、イ402 前級 次級 性能諸元 排水量 基準:3,530トン 常備:5,223トン 水中:6,560トン 全長 122m 全幅 12.0m 吃水 7.02m 機関 艦本式22号10型ディーゼル1,925馬力4基2軸 水上:7,700馬力 1,200馬力モーター2基 水中:2,400馬力 速力 水上:18.7kt 水中:6.5kt 航続距離 水上:14ktで37,500海里 水中:3ktで60海里 燃料 重油:1,750トン 乗員 157名 兵装 40口径14cm単装砲1門 25mm3連装機銃3基 同単装1挺 53cm魚雷発射管 艦首8門 魚雷20本 航空機 特殊攻撃機『晴嵐』3機 (四式一号一〇型射出機 1基) 備考 22号電探1基、13号1基 安全潜航深度:100m 連続行動時間:約4ヶ月 アメリカ本土に回航されて技術調査中の伊四百潜水艦。本型は軽巡洋艦なみの14cm主砲を後部甲板に装備していた。向かって右に伊十四潜水艦、左に伊四百一潜水艦も写っている。 M6A 晴嵐 伊四百型潜水艦の飛行機格納筒 格納筒の前で撮影された伊四百の士官 伊四百型潜水艦[1](いよんひゃくがたせんすいかん)は、太平洋戦争中の大日本帝国海軍の潜水艦の艦級。特殊攻撃機「晴嵐」3機を搭載し、「潜水空母」とも俗称される。別名潜特型(せんとくがた)とも呼ばれる。なお、本型の計画縮小の補填として、巡潜甲型を改造した伊十三型潜水艦があり外形が似ている。 概要 3機の特殊攻撃機『晴嵐』が搭載可能であり、潜水空母(せんすいくうぼ)とも俗称される。第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で最大で、その全長はアメリカ海軍のガトー級を27メートル上回る。通常動力型潜水艦としては、2012年に竣工した中国人民解放軍海軍の032型潜水艦(水上排水量3,797t、水中排水量6,628t)に抜かれるまでは世界最大であった。 理論的には、地球を1周半航行可能という長大な航続距離を誇り[2]、日本の内地から地球上のどこへでも任意に攻撃を行い、そのまま日本へ帰投可能であった。大柄な船体(排水量3,350tは軽巡洋艦夕張と比較してなお大きい)を持つが水中性能は良好であった。急速潜航に要する時間は1分である。 同型艦3隻が就航したが、いずれも大きな戦果をあげる前に終戦を迎え、連合国は日本の降伏までその存在を知らなかった[3]。終戦直後にアメリカ軍が接収する際、その大きさにアメリカ軍士官が驚愕したという逸話が残っている。 伊四百、及び伊四百一はアメリカ軍による調査の後、自軍で使用することも検討していたが[2]、ソビエト政府代表からの検分の要請があった直後、ソビエトへの情報漏洩を恐れて[4]ハワイ沖で魚雷によって海没処分となった。 処分後、その詳しい位置は記録されていなかったが、アメリカの調査家による10年来の海底調査により[2]、2005年3月に伊四百一が、2013年8月に伊四百が発見され、海上保安庁により2015年8月に伊四百二[5]が海底から発見された。 専門家によれば、伊四百型潜水艦はそれまで対艦兵器としか見なされていなかった潜水艦の用途を一変させ、第二次大戦後の潜水艦の設計・運用姿勢に大きな影響を与えた結果、核の時代の弾道ミサイル発射能力を持った潜水艦に行き着いたという[6]。実際、戦後にアメリカ軍が浮上後の潜水艦からパルスジェットミサイルの発射実験を行った潜水艦が酷似した形をしていた[4]。 経緯 航空機搭載可能潜水艦 第一次世界大戦後、日本海軍はドイツが制作した小型水上偵察機をもとに横廠式一号水上偵察機(潜水艦搭載偵察機)を開発した[7]。昭和初期、日本海軍は「潜水艦を敵艦隊監視、追揮躡触接に用いる」という用法をおおむね確立[7]。 潜水艦への小型水偵搭載は、潜水艦の偵察能力強化(監視能力強化)につながっていた[7]。 これら航空機搭載可能潜水艦(伊号第五潜水艦、伊号第十二潜水艦など)に搭載する機体は九六式小型偵察機や零式小型水上偵察機といった、通常の潜水艦作戦における索敵用のものであった[7]。 一方、特型潜水艦(後述)に求められたのは当初には彗星艦爆の搭載であり、それが実際的でないとされたため、特殊攻撃機晴嵐を新たに開発することになった。設計当初、晴嵐はフロートを装着せず非水上機として運用される予定だった(この場合、機体の回収は不可能になり、使い捨てとなる)。純爆撃・攻撃用途の飛行機を戦略的に運用することを計画上の主目的とした点で、従来の専用小型水偵を偵察目的として搭載した潜水艦とは、完全に一線を画している。 開発 太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)1月、鈴木義尾軍令部第2部長から艦政本部に対し「新型潜水艦」について照会があった[8]。同年5月、水上攻撃機2機(昭和19年初頭、3機に改訂)・航続距離三・三万浬・連続行動可能期間四ヶ月以上という特型潜水艦の艦型が決定した[8]。この特型潜水艦が伊四百型潜水艦であり、水上攻撃機が晴嵐である[8]。後日、黒島亀人軍令部第二部長(昭和17年当時は聯合艦隊先任参謀)が藤森康男中佐(軍令部部員)に語ったところによれば、構想そのものは山本五十六(太平洋戦争前半の聯合艦隊司令長官)に依る[8]。山本はアメリカ東海岸での作戦に伊四百型を投入することを企図しており、戦史叢書「潜水艦史」では『常に、米国に直接脅威を与えるような作戦を考えていた山本長官の戦略思想からみれば、あり得ることであろう。』としている[8]。 ミッドウェー海戦後の同年6月20日、聯合艦隊司令部(旗艦大和)において関係者の研究会がおこなわれ、従来の既定計画軍戦備を根本的に修正することになった[9]。これが改D計画である[9]。同計画では潜水艦139隻建造することになったが、この中に特型潜水艦(基準排水量3,530トン、速力19.6ノット)18隻の建造が含まれていた[10]。(設計番号はS50)。計画隻数18隻中、2隻は旗艦設備を、2隻は予備旗艦設備を持つ[8]。搭載魚雷数は、旗艦18本、通常型は22本[8]。だが、戦局の移行と共に計画は次第に縮小される。1943年(昭和18年)10月15日附の軍令部商議により、特型潜水艦(伊四百型)は5隻に減らされた[11]。最終的に3隻(伊400、伊401、伊402)が完成した[10]。 完成 建造計画の縮小を補うため、1隻当たりの搭載機数が3機に増加されたうえ、建造途中の甲型潜水艦を晴嵐2機搭載可能な潜水空母に改造した(伊十三型潜水艦:伊十三、伊十四)。 伊四百型の建造目的は、元々はアメリカ本土攻撃である[2]。立案は山本五十六であり南アメリカ南端を通過してアメリカ東海岸を攻撃目標としていた[2]。スミソニアン航空宇宙博物館の近代軍用機担当学芸員ディック・ダーソは、「アメリカ東海岸を隠密裏に攻撃するよう特殊設計されており、おそらくワシントンD.C.やニューヨーク市を標的としていたものと考えられる」としている。そのため、建造要綱として33000海里の航続距離が要求された。長大な航続距離は船体の大型化に拍車をかけた[2]。当初は『晴嵐』の搭載数は2機であったが、伊四百型の建造数が当初の18隻から10隻に削減されたことより(後で更に建造数は削減された)、急遽3機に変更要請された。すでに伊400においては建造が開始されていたため、格納筒を後部へ10m延長するとともに『晴嵐』の仕様を一部変更する、格納扉にくぼみを設ける、弾薬庫と対空火器の位置を変更する、などの設計変更で3機の搭載を可能とした[2]。 しかし、1945年5月にドイツが降伏したことで大西洋方面の英米艦隊が太平洋に移動してくることが予想されたため、攻撃目標はアメリカ東海岸からパナマ運河のゲートに変更された。運河のゲートを破壊することによってガトゥン湖の水を溢れさせようという計画であったため、『晴嵐』には魚雷の装備が要求された。伊400完成後、パナマ運河を念頭においた訓練が開始された[2]。『晴嵐』の組み立ては、飛行機に不慣れな乗員が行っていたため、3機の『晴嵐』を発射するのに当初は半日近くかかったが[2]、訓練後には15-20分程度で3機の射出が完了するようになった。しかし、その頃には既に大半の英米艦艇は太平洋に移動済みであり、今さらパナマ運河を破壊しても戦略的意義が無いということで、再び攻撃目標が変更されて最終的にはウルシー泊地への特攻計画となった(『晴嵐』を体当たり特攻機として使用し、回収しない計画)[2]。 構造 晴嵐 ページ ノート その他 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 愛知 M6A 晴嵐 M6A1.jpg 用途:攻撃機 分類:特殊攻撃機 設計者:尾崎紀男 製造者:愛知航空機 運用者:大日本帝国の旗 大日本帝国(日本海軍) 初飛行:1943年 生産数:28機 運用状況:戦闘前に終戦 表示 晴嵐(せいらん)は、大日本帝国海軍が第二次世界大戦中に開発した水上攻撃機。設計生産は愛知航空機、略符号はM6A1[1]。 伊四百型潜水艦による戦略爆撃の目的で開発された、小型軽量の急降下爆撃が可能な潜水艦搭載用の水上攻撃機(海軍での分類は特殊攻撃機)。昭和18年(1943年)11月に初号機完成。だが1944年9月でも実験飛行の段階だった[2]。第六三一海軍航空隊(1944年12月15日編制)で運用された[3]。 概要 開発経緯 第一次世界大戦以降、日本海軍は小型水上偵察機を搭載した潜水艦を建造した(潜水艦搭載偵察機)[4]。昭和初期、日本海軍は「潜水艦を敵艦隊監視、追揮躡触接に用いる」という用法をおおむね確立[4]。潜水艦への小型水偵搭載は、潜水艦の偵察能力強化(監視能力強化)につながっていた[4]。 太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)1月、鈴木義尾軍令部第2部長から艦政本部に対し「新型潜水艦」について照会があった[5]。同年5月、水上攻撃機2機(昭和19年初頭、3機に改訂)・航続距離三・三万浬・連続行動可能期間四ヶ月以上という「特型潜水艦」の艦型が決定した[5]。この特型潜水艦が伊四百型潜水艦であり、水上攻撃機が晴嵐である[5]。米国東海岸で作戦を意図しており、黒島亀人軍令部第2部長が語ったところによれば、構想そのものは山本五十六(当時、聯合艦隊司令長官)に依る[5]。 同年6月30日の改D計画で特型潜水艦(基準排水量3,530トン、速力19.6ノット)18隻の建造が含まれていた[6]。だが戦局の悪化にともない1943年(昭和18年)10月15日附の軍令部商議により、特型潜水艦(伊四百型)の建造隻数は5隻に減少[7]。最終的に竣工した特型(伊四百型)は3隻(伊400、伊401、伊402)だけだった[6]。 太平洋戦争後半、伊四百型に搭載する晴嵐の機数は、2機から3機に増やされた[5]。同時に、伊十三型潜水艦も搭載機を「偵察機1」から「攻撃機2」に変更することになり、改造計画を実施した[8]。 試製晴嵐 晴嵐は伊四百型潜水艦(のちに伊十三型潜水艦をも加える)を母艦として、浮上した潜水艦からカタパルトで射出され、戦略的な目的での攻撃に使用されるために計画された特殊攻撃機である[5]。最大速度時速474km(250ノット)・フロート投棄時560km、低翼単葉双浮舟、複座、航続距離166ノットで642浬、兵装は13mm旋回機銃1と250kg爆弾1[5]。 「潜水空母」伊四百型潜水艦に搭載するため、愛知航空機において母艦と同時期に開発に着手され、昭和18年11月に試作第一号機が完成した。九一式魚雷改三による雷撃、または250キロ爆弾(4個まで搭載可能)、または800キロ爆弾による水平および急降下爆撃が可能であった。 実戦における攻撃時には、エンジン出力の関係から大型爆弾の場合はフロートを装着しない仕様になっており、攻撃後は艦近くの海面に着水、又は搭乗員を落下傘降下させ乗員のみを収容する予定だった。この場合の機体の回収は無論不可能である。一方、潜水艦には予備魚雷と予備爆弾が装備され、状態によって再出撃も可能であった。ただし、唯一にして最後の出撃時は特攻が予定されていた(後述)。 折り畳み図 晴嵐は伊四百型の飛行機格納筒に納めるため、主翼はピン1本外すと前縁を下に90度回転して後方に(鳥が歩行時に羽を胴につけているイメージ)・水平尾翼は下方に、垂直尾翼上端は右横に折りたためる[9]。フロートは取り外されているが、機体近くに置かれており短時間で装着できるようになっている。また、暖機のかわりに、加温した潤滑油・冷却水を注入できるなどの工夫で、作業開始後約3分以内で発進可能と言われている。伊四百型は晴嵐を3機搭載でき、潜水艦搭載時には既に雷装、爆装していた[10]。ただし、飛行機格納筒の一番奥に収納された3番機は潜水艦甲板上での整備スペースが限られているため、1番機・2番機の整備および射出完了後に、発進諸準備を開始する[10]。このため2番機発進後、20分後に射出予定だった[10]。 また(1番機)3分で発艦可能と言っても、実際には搭乗員・整備士の技量による。搭乗員の淺村敦によると、最初のうちは3機発進完了まで20分以上かかっていたが、最終的には十数分に縮められたとの事。特に母艦自体が上下に動振しているため発艦のタイミングが難しく(艦首が下を向いている時に発艦すると、機体が海面に突っ込む事となる)、射出指揮官が慎重に判断した。このように発艦には危険が伴ったので、搭乗員には1回の発艦訓練につき6円の危険手当が加算された。当時の大卒の初任給は60円である。 潜水艦搭載のための折りたたみ構造と高性能を両立させ、またその任務により世界中で(極端な話、北極や南極でも)使用を可能にするためジャイロスコープを装備するなど、非常に『凝った』造りの機体であった上に製造数も少なかったため1機あたりのコストも高く、零戦50機分に相当すると言われた。後述のとおり、本機が海軍の兵器として制式採用されたことを積極的に立証できる法令は存在しない。 南山 試製晴嵐改 (南山) 試製晴嵐を陸上機化した機体も製造され、これを「試製晴嵐改」[法令 1]または「南山」(M6A1-K) という名称で呼んでいた[11]。南山は高速性能に優れるかわり、滑走距離が長かったという[11]。1944年10月、南山は高橋の操縦により魚雷発射実験に成功した[12]。これにより高橋は、晴嵐が雷撃に向いた航空機であると確信したという[13]。晴嵐及び南山は合わせて28機が製造された。計画段階では36機以上生産予定だったが訓練用の機体すら確保できず、空技廠から零式小型水上機2機を借りて六三一空隊員の訓練をおこなった。搭乗員からは「オモチャみたいな飛行機で訓練するのか」と不満が出た[14]。そこで六三四空から瑞雲を借りて訓練を行った[15]。 制式化の状況 航空機を兵器として制式採用するかどうかについて、海軍省では法令の一つである内令兵で命名して施行し周知しているが、晴嵐と晴嵐改はいずれも「試製」の冠称がついた実験機[法令 1]としての扱いに変化が無いまま敗戦を迎えており、実施部隊の認識はともかく省としては兵器に採用する法令を施行していない。 また、1945年(昭和20年)7月に海軍航空本部が調製した「海軍現用機性能要目表」においても、それぞれ「試製晴嵐」「試製晴嵐改」の機名が記されていたとされる[16]。 なお、六三一空で晴嵐テストパイロットを勤めた高橋は、1944年(昭和19年)11月24日に領収(受領)飛行を行い制式採用されたと述べている[17]ほか、終戦後の第六三一海軍航空隊の武器引渡し目録には、「晴嵐一一型」8機、そのうち3機破損と記載されている[18]が、目録上の兵器名表記はいずれも海軍省が施行した内令兵に準拠したものではない。 兵器が制式採用前に実施部隊へ引き渡され運用されるのは二式艦上偵察機[法令 2]、雷電[法令 3]、桜花[法令 4]らの例もあり、晴嵐や晴嵐改が特殊なわけではない。 要目(M6A1) Aichi M6A1 Seiran 3-view line drawing.svg 乗員: 2名 双フロート式 全長: 10.64 m 全幅: 12.26 m 全高: 4.58 m 主翼面積: 27.0m2 動力: アツタ32型 水冷V12エンジン 出力: 1,400 HP 全備重量: 4,250 kg 最大速度: 474 km/h(フロート未装着時560km/h) 航続距離: 1,540 km 実用上昇限度: 9,640 m 上昇率: 5,000/8'00" 武装: 機関銃 13.0mm旋回機銃×1/800kg爆弾×1(250kg爆弾は4発まで)。または45cm魚雷×1 運用 晴嵐の航空隊は、1944年(昭和19年)12月15日に第六三一海軍航空隊(第六艦隊附属)として開設された[19][20]。さらに、晴嵐は伊号第四百潜水艦(定数3機)、伊号第四百一潜水艦(定数3機)、伊号第十三潜水艦(定数2機)、伊号第十四潜水艦(定数2機)を中核とする第一潜水隊(有泉龍之助大佐)に配備された[21][22]。 有泉大佐は第六三一海軍航空隊司令を兼ねる[21]。潜水艦航空機運用の経験があるのは高橋少尉と鷹野末夫少尉のみで[21]、潜水艦の艦長歴が長い有泉司令は航空戦の経験がなく、福永飛行長は航空・潜水双方の実戦経歴がなく、浅村分隊長は潜水艦経験がなく、山本分隊長は実戦経験がなく、隊の錬度には問題があった[23]。さらに晴嵐の製造メーカーである愛知航空機製作所は、東南海地震、三河地震、B-29による空襲被害で甚大な被害を受けており、晴嵐の定数補充は困難であった[24]。2月の時点で、第631空の戦力は晴嵐6機、瑞雲5機でしかない[25]。 1945年1月、有泉司令は魚雷によるパナマ運河攻撃の研究を命じた[26]。3月下旬から4月上旬にかけて、作戦の検討が進む[27]。呉潜水艦基地隊で、軍令部、第六艦隊参謀を交えた図上演習を実施[27]。4月25日、士官に対し第一潜水戦隊全艦・晴嵐10機(雷撃2、爆撃8)によるパナマ運河夜間攻撃計画が公表された[28]。この段階では通常攻撃だったが、福永飛行長は「飛行機総特攻の時に晴嵐部隊だけ通常攻撃はありえない。全機特攻」と主張し、投下器から爆弾が落ちないよう工作を命じた[29]。結局、全機800kg爆弾を装備した上での特別攻撃隊となった[13]。 しかし戦局の悪化によりパナマ運河攻撃は中止となり、ウルシー環礁の米軍在泊艦船攻撃に目的変更となる[20][30]。6月25日、小沢治三郎海軍総司令長官は、第六艦隊第一潜水隊(先遣部隊)に以下の作戦を発令した[30][31]。 トラックに対する高速偵察機「彩雲」輸送 (光作戦) 使用兵力、伊十三、伊十四。 輸送物件、彩雲4機。7月下旬トラック着を目標に行動。 ウルシー奇襲作戦 (嵐作戦) 使用兵力、伊四百、伊四百一、晴嵐6機。 攻撃時期、7月下旬より8月上旬。次期作戦準備としてシンガポールに晴嵐10機を空輸すべし。 部隊は「神龍特別攻撃隊」と命名された[32][33]。出撃前の壮行会で第六艦隊司令長官醍醐忠重中将は、飛行機搭乗員に短刀を贈っている[33]。この短刀は特別攻撃隊を意味していた[33]。南部(伊四百一潜水艦長)は「有泉司令も私(南部艦長)もこの作戦を特攻であると正式に命じたことはなく、少なくとも私は最後まで生還の手段を講ずるつもりであった。しかし、飛行機搭乗員はどうであったろうか。」と回想している[33]。 また晴嵐には戦時国際法違反を承知で米軍の星マークがつけられ、米軍機と同じ銀色に塗装されていた[34][法令 5]。伊四百搭載晴嵐1号機の高橋は「誰の入れ知恵だかわからなかったが、卑怯で情けない」と評している[34]。7月20日、伊四百と伊四百一は舞鶴を出港し[32][33]、21日[35]もしくは22日に大湊入港[36]。7月23日、大湊を出撃し[35]、8月17日を攻撃予定日として航海を続けた[37]。伊四百一(有泉司令)はマーシャル諸島東を通過する迂回コースをとった[36][38]。 8月14日、伊四百は伊四百一との合流地点に到達したが発見できず、8月15日も待機した[39][40]。一方の伊四百一も僚艦を発見できず、会合地点で待機、8月15日を過ごした[41]。このすれ違いは、有泉司令(伊四百一)が発信した会合地点変更の電信を伊四百が受信せず(南部艦長は伊四百一から電報発信の記憶なし)、伊四百は作戦計画どおりの会合地点に先行していたからであった[40]。 この時点で「神龍特別攻撃隊」は終戦を迎えた[40]。8月16日、第六艦隊司令長官[42]および海上総隊司令長官から作戦中止命令が出る[43]。「晴嵐」が特攻に出撃することはなかった。晴嵐は、エンジン始動状態、翼を折りたたんだまま無人で射出され、洋上廃棄された[44]。伊四百では、3機をわずか10分で組み立てたという[44]。その際に搭乗員のたっての希望により、星マークが塗りつぶされ日の丸が塗装されたとされる。伊四百一では、8月26日に晴嵐・弾薬・秘密書類等を投棄した[45]。有泉司令は艦内で自決した[20]。 現存する機体 修復された機体 戦後に愛知県の工廠にあった機体がアメリカ軍に鹵獲され、性能などの調査の上で、スミソニアン博物館に修繕を施された状態で1機が保存されている。 なお、海軍省では法令上、試製晴嵐を「特殊機(潜水艦用)(AE1P発動機装備/アツタ発動機32型装備)」[法令 6][法令 1]、試製晴嵐改を「試製晴嵐ヲ陸上機トナセルモノ」[法令 1]と明記して周知しており、本機の用途等に関して特に厳しく秘匿していたわけではない。



    震電

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 J7W1 震電

     連合国軍の命令により外観のみ修復した試作1号機 試作二号機(1945年撮影)  

    用途:戦闘機 分類:局地戦闘機

    製造者:九州飛行機、海軍航空技術廠

    運用者:日本海軍

    初飛行:1945年8月3日 生産数:1機

    運用状況:試作のみ

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    震電(しんでん)は、第二次世界大戦末期に日本海軍が試作した局地戦闘機である。前翼型の独特な機体形状を持つ、そのため「異端の翼」と呼ばれた。最高速度400ノット(約740km/h)以上の高速戦闘機の計画で、1945年(昭和20年)6月に試作機が完成、同年8月に試験飛行を行い終戦を迎えた。略符号はJ7W1。

    歴史 研究開発

    機体の3D完成予想図 1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)頃、海軍航空技術廠(空技廠)飛行機部の鶴野正敬大尉は従来型戦闘機の限界性能を大幅に上回る革新的な戦闘機の開発を目指し、前翼型戦闘機を構想し、研究を行っていた[1]。また、1943年(昭和18年)、軍令部参謀に着任した源田実中佐は、零戦が既に敵から十分研究されているであろうと考え、零戦とは別に異なる画期的な戦闘機を求めて高速戦闘機を模索していたが、技術的に提案する知識がなかった。しかし、同じ考えを持つ鶴野正敬技術大尉の存在によって、震電の開発が動き出した[2]。

    前翼型飛行機とは、水平尾翼を廃し主翼の前に水平小翼を設置した形態の飛行機である。従来型戦闘機ではエンジン、プロペラ、武装の配置が機体の前方に集中しており、操縦席後部から尾翼にかけての部位が無駄なスペースとなっていた。これに対し前翼機では武装を前方、エンジン及びプロペラを後方に配置することで機体容積を有効に活用でき、前翼自体も揚力を発生させることから(通常機の水平尾翼は下向きに揚力を発生させる)、

    主翼をコンパクトにすることが出来、全体的に機体をより小型にすることが可能となる。従って機体が受ける空気抵抗も減少し、従来型戦闘機の限界速度を超えることが可能となる、というのがその基本理論であった[注釈 1]。現実にはライトフライヤー号を始め初期の航空機の多くは推進式であったが、プロペラ同調装置が実用化されると戦闘機でのメリットは薄くなり、牽引式が主流となっていた。

    初となる前翼型戦闘機の試みであったが、陸軍は1943年に満州飛行機に対し九九式襲撃機の後継機となる推進式を採用したキ98の試作指示を行っていた。ただしキ98は双胴であり空戦より襲撃機(攻撃機)としての能力が重視され、研究機としての性格も強かった。後に試作機整理の対象となり計画は中止された。

    当時は各国でも前翼機の試作は行われていた。代表的な例としてイタリアのアンブロシーニ SS.4(英語版)、アメリカのXP-55 アセンダー、イギリスのマイルズ・リベルラ等が挙げられるが、いずれも実運用に至ったものはなかった。震電の開発に当たっても中には「自然界に無い様な形状のものには何かしらの欠点があるはずだ。鶴野はそれに気づいていないのだ。」という様な意見をもつ者もあった[注釈 2]。しかし、欧米の新型機への対抗という課題の中にあって、原理的に間違いのないものであるならと大方の賛同を得ていた[注釈 1]。

    実験用小型滑空機MXY6

    1943年(昭和18年)8月、空技廠にて風洞実験が行われる。1944年(昭和19年)1月末、実験用小型滑空機(MXY6)を用いて高度およそ1000m程からの滑空試験に成功し基礎研究を終えた[注釈 3]。既に高高度爆撃機の本土来襲を予測していた海軍は、翌2月には試作機の開発を内定。実施設計及び製造を行う共同開発会社として、当時、陸上哨戒機「東海」の開発が完了し、他の航空機会社に比べ手空きであった九州飛行機が選定され、空技廠からは鶴野大尉らが技術指導のため同社へ出向した。

    要求性能を決定する際、用兵者側から空戦フラップの装備を要求する声があったが、航空技術廠飛行機部、科学部はその効果を疑問視して巴戦を避け、アメリカ軍のP-51やP-38と同じく高速性を生かした一撃離脱戦法をとる意見であった。軍令部参謀の源田実中佐からも「400ノット以上の高速戦闘機が欲しいからこれをやるのであり、あまり付帯要求を出しすぎて速度が落ちるようなことがあってはならぬ」という指導的意見があり、鶴野正敬は要求性能をまとめられた[3]。

    海軍では1943年に雷電が初飛行していたが一部の問題が解決されておらず生産数は少なかった。このほかに1939年頃から雷電の後継機として、ハ43を採用した推進式の局地戦闘機閃電の計画が存在し三菱重工業で開発が行われていた。閃電は最高速度 750 km/h以上、上昇力は高度 8,000 mまで10分、武装は機関銃を30 mm ×1と20 mm×2、爆弾を二個搭載という要求を満たすため、機体形状はスウェーデンのサーブ 21のような単発中翼双胴を予定していた。三菱にとって開発経験の無い機体だったことから問題対処に時間がかかっている間に震電の計画に見通しが付いたため、機種整理の対象となり1944年7月に試作中止となった。

    試作

    1944年(昭和19年)5月、の連合軍の大型爆撃機の迎撃を最大の目的として、十八試局地戦闘機震電が正式に試作発令される。当初、海軍の要求は1944年の4月から製図に取り掛かり、同年末には機体を完成させよというものだった。このため、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島、種子島、熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員し体制を整えた。その数は最盛期には5万人を超え、量産に移った際には月間300機の生産を可能とする目算が立っていた。また資材については、将来的に比較的余裕のある鉄で作る事を考えよとの要求もあった[注釈 4]。

    1944年6月16日未明、本土北九州方面八幡に初のアメリカ軍のボーイングB-29来襲。開発班は撃墜機を実地見学。

    1944年11月、技術者を集結させた九州飛行機は通常1年半は掛かる製図作業をわずか半年で完了。約6000枚の図面を書き上げる。同月ヘンシェル社のドイツ人技師、フランツポールが訪問。指導により大量生産を考慮した改造図面の作成に着手。

    1944年12月から1945年(昭和20年)1月にかけて、震電への搭載が予定されていた「ハ四三」四二型発動機の開発にあたっていた三菱重工の名古屋工場が、断続的に行われたアメリカ軍のB-29の空爆により再起不能の壊滅的な被害を受ける。開発の大幅な遅延に繋がる。

    1945年3月、大刀洗飛行場へのアメリカ軍のB-29の空爆爆撃を受けて、現在の筑紫野市原田へと九州飛行機は工場の疎開を決定。部品の運搬は牛車で夜中に行われた。

    1945年6月、1号機が完成し蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運搬。翌7月完工式。鶴野自身による滑走試験中、機首を上げ過ぎたために、プロペラ端が地面に接触して先端が曲がってしまう。この後、プロペラを試作2号機用の物と交換、機首上げ時にプロペラが接触しないよう側翼の下に機上作業練習機白菊の車輪が付けられた。(量産機では主脚の接地位置をうしろにずらし、垂直尾翼の下に車輪は付けない予定であった)

    1945年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し三菱重工へ連絡をとって部品を取り寄せている最中に終戦となった。

    特徴

    後部のプロペラ 最大速度400ノット(約740km/h)以上目標として開発されたため、機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した前翼型(エンテ型)[注釈 5]の設計とするなど、速度性能を追求した設計となった。





    酸素魚雷(さんそぎょらい)

    とは燃料の酸化剤として空気の代わりに、空気中濃度以上の酸素混合気体もしくは純酸素を用いた魚雷である。

    日本において単に酸素魚雷といった場合、第二次世界大戦中、唯一実用化され運用された大日本帝国海軍の九三式魚雷もしくは九五式魚雷を指すことが多い。本項では、大日本帝国海軍の酸素魚雷を主題として述べる。

    ロング・ランス(Long Lance、長槍)という愛称も知られているが、これは戦後にサミュエル・モリソンがつけた物である。

    概要

    第一次世界大戦以後の魚雷の推進動力は、燃料と酸化剤である圧縮空気を搭載してエンジンを回す内燃機関型(熱走式)と、電池による電気モーター型(電気式)に大別される。前者は高速かつ長射程(航続力大)だが、多量の排気ガスの気泡が魚雷の航跡に明瞭な白線(雷跡)となって浮かび上がり、魚雷の存在も、撃ってきた方位も露見しやすい欠点がある。後者は雷跡が無いが、熱走式に比して出力が低く速力・射程とも劣ると、一長一短がある。(大戦時ドイツのG7の経緯なども参照)

    酸素魚雷は熱走式で圧縮空気に替えて純酸素を使用したものである。これにより排気ガスの成分はほぼ炭酸ガスと水蒸気のみとなる。蒸気は言うに及ばず炭酸ガスも海水によく溶けるため、酸素魚雷は雷跡をほぼ引かないという、電気式に準じる隠密性が特徴である。また、通常の熱走式よりも燃焼効率が大きく向上したことで速力(雷速)・航続力もさらにパワーアップした。純酸素の使用で多くの利点が得られることは広く知られていたが、激しい燃焼反応のため機関始動時などに容易に爆発するという技術上の問題点が立ちふさがっていた。

    そうした中、日本は1933年(昭和8年)、世界に先駆け酸素魚雷の開発に成功。以降、大戦を通じて唯一の酸素魚雷運用国となった。実用化にこぎつけたのは日本以外ではイギリスのみであった。そのイギリスも、純酸素ではなく、酸素を増加した、空気魚雷と酸素魚雷の中間のようなものである[注 1]。

    酸素魚雷は当時の他国魚雷の水準に比して、雷速と炸薬量で優り、射程は数倍、加えて航跡の視認が困難という高性能なもので、それによって戦争で連合軍の艦艇は多くの損害を被り、1943年に鹵獲されるまで連合軍は魚雷について知らなかった。一方で、酸素魚雷の整備性は良好とはいえず誤爆を防ぐために充分なメンテナンスを要し、また、速すぎる雷速の為、船底爆破用の磁気式の信管が使用できず、接触式信管を採用せざるをえないなどの短所もあった。後に日独技術交換により大日本帝国海軍からドイツ海軍へも試験供与されたが、戦略的位置付けの違い[注 2]もあり、整備性の悪さなどからUボートでの使用には適さないと判断され、採用されていない。

    考)日本海軍の使用した通常魚雷、及び各国の魚雷の性能は以下の通り

    通常魚雷各型の要目

    名 国 全長 直径 重量 名 射程 弾道重量 備考

    九〇式空気式魚雷

    (艦艇用) 日本 8.5m 61p 2,500s 10,000m(42Kt時) 7,000m(46kt時) 400s 睦月型から初春型までの駆逐艦以下の艦艇に搭載

    九一式魚雷改二

    (航空用) 5.47m 45p 838s 2,000m(42Kt時) 204s 主力航空魚雷 改二は1939年以降のモデル

    九一式魚雷改五 (航空用) 5.27m 848s 1,500m(41Kt時) 235s 1943年から量産された最終モデル 21インチ・マーク[

    (潜水艦用) イギリス 6.579m 53.3p 1,566s 13,700m(35Kt時) 10,000m(41Kt時) Torpex 365 kg 21インチ・マーク\

    (艦艇用) 5.27m 1,693s 13,700m(35Kt時) 10,050m(41Kt時)

    18インチ・マークXV (航空用) 5.251m 45p 817s 3,200m(33Kt時) 2,290m(40Kt時) Torpex 247 kg Mk10(潜水艦用)

    アメリカ 4.953m 53.3p 1,005s 3,200m(36Kt時) TNT 225 kg or Torpex 220 kg Mk12(艦艇用) 6.88m 1,590s 13,700m(27.5Kt時) 9,144m(35.5kt時) 6,400m(44kt時) TNT 226.8 kg  

    Mk13(航空用) 4.191m 56.9p 1,005s 3,660m(33.5Kt時) TNT 274 kg or TPX 275 kg or HBX 272 kg  

    Mk14(潜水艦用) 6.25m 53.3p 1,490s 8,200m(31Kt時) 4,100m(46kt時) TPX 303 kg  









    陸軍機動艇 陸軍機動艇について

    http://www.tokusetsukansen.jpn.org/J/A111/index.htm

    陸軍機動艇にはSS艇とSB艇があります。昭和20年5月現在の区分は「輸送用舟艇」で主体類別は「一類」、取扱区分は「秘密」でした。(JACAR: C01007870400)

    SS艇は陸軍が開発した揚陸艦で試作艇「蛟龍」が昭和17年1月26日株式會社播磨造船所で進水、次いでこれを改良した「蟠龍」が昭和18年5月17日に進水しました。この「蟠龍」をタイプシップとして第三船「海龍」以降20隻が建造されました。これらは計画造船の中でE型戦時標準船として組み込まれたためES船と呼ばれることもありました。この他に香港で4隻が建造されましたがいずれも建造中止となりました。「蛟龍」は当初船舶扱いであったらしく「蛟龍丸」として船舶番号と信号符字が付与されております。

    SB艇は海軍の二等輸送艦と同じものです。

    昭和19年6月1日付で24隻、同年9月5日付で11隻、合計35隻の特設輸送艦が陸軍に配分されました。このうち2隻は終戦までに完成しませんでした。また、昭和19年9月5日付で10隻、昭和20年1月25日付で3隻が海軍に移管され二等輸送艦となりました。第1547号艦は竣工と同時、第1510〜1515号艦は竣工前に海軍に移管されたため陸軍機動艇としては就役しておりません。従って、合計26隻のSB艇が大東亜戦争中に就役していたことになります。残念ながら現在のところ特設輸送艦の艦名と機動艇の艇名の対応は一部を除き不明です。また、SB101など数隻は同名艇があり、SB120などの欠番もあるので注意が必要です。

    陸軍機動艇の諸元 ここをクリックして下さい。



    第2次戦時標準船

    増大する船舶被害に造船が追いつかなくなり、建造期間の短縮および資材の節約を目的として第2次戦時標準船が建造されることとなった。

    ブロック工法も用いて約1ヶ月で建造が可能な2E型が東京造船所・播磨松の浦・三菱若松・川南深堀の 4造船所を中心に471隻生産された。 二重底や隔壁の廃止、簡略化のため抵抗が大きく、速力や燃費の面で不利な船型、故障しやすい低出力の機関により、カタログスペック上でも7から8ノット程度しか出ない上に、燃料の粗悪によりそれ以下の低速しか発揮できないことも多く、潮流の早いところでは流されて座礁することすらあり[注 2]、粗悪な鉄板が使われるなど、粗製濫造といわざるを得なかった。

    第2次以降に建造された戦時標準船の耐用年数は、すぐに撃沈されるだろうという想定から「機関1年・船体3年」とされ、鋼材の質の低下や舷側鋼板の薄肉化により強度が低下し、座礁しただけで大破沈没した船舶[注 3]や、ボイラーの爆発[5]など重大事故を起こした船舶もある。「轟沈型」とのあだ名さえあった。なお、これらの第2次戦時標準船は終戦時に残存していた船舶のおよそ4分の3を占めていたが、あまりの粗製乱造ぶりに驚いたGHQによって運用を禁止され、一部の大型船[注 4]を除いて、戦後の復員輸送には一切使われなかった。残った船の中にも、煙突や上構を全て撤去して新造し、機関を換装する[注 5]などの改装が施された。

    2A型(6,600トン、三連成レシプロor蒸気タービン、レシプロ9.0ノット・タービン10.0ノット、13.0ノット)

    1A型と1B型を統合したものとして三菱重工業長崎造船所で設計。95隻が計画され、90隻が建造された。

    2D型(2,300トン、レシプロor蒸気タービン、9.0ノット、11.0ノット)

    1C型と1D型を統合したものとして日本鋼管鶴見造船所で設計。116隻が計画され、104隻が起工。戦後に完成したものや、箕面等海軍籍の2隻を含めて98隻が竣工した。1D型と同様に、30tデリックを1基、5基の5tデリックを搭載している[3][4]。

    2E型(870トン、ディーゼルor焼玉orレシプロ、ディーゼルor焼玉8.0ノット・レシプロ7.5ノット、ディーゼルor焼玉9.0ノット・レシプロ8.8ノット) 1E型と1F型を統合したもので、新設の小造船所でも量産できる海上トラックとして浦賀船渠で設計。3E型や戦後に完成したものを含む496隻が計画され、468隻が起工。463隻が竣工した他、戦後に建造続行船として8隻が建造された。専用の建造造船所まで作られ、デリックの有無、機関の違いにより複数のバリエーションがある。

    2TL型(10,100トン、蒸気タービン、13.0ノット、15.0ノット) 1TL型と1TM型を統合したもので、三菱重工業長崎造船所で設計。36隻が計画され、34隻が起工。29隻が完成した。うち、特2TL型へ2隻が計画変更された。輸送効率の観点から1TL型と同じ大きさとなったが、造機能力の不足により速力が低下したため、艦隊随伴給油用としては考慮されなかった。 2TM型(2,820トン、蒸気タービン、9.5ノット、11.5ノット) 1TS型の後身、パレンバンとシンガポールの間の油輸送を目的として三菱重工業横浜造船所で設計。47隻が計画され、42隻が起工。戦後に完成したものを含め40隻が竣工した。 2AT型(6,600トン、三連成レシプロor蒸気タービン、レシプロ9.0ノット・タービン10.0ノット、13.0ノット)

    タンカーの不足により2A型を転用した応急タンカーで、三菱重工業長崎造船所で設計され、35隻が建造された。

    2ET型(870トン、ディーゼル、7.0ノット、9.6ノット) 2TM型の生産が追いつかないため、2E型を転用した応急タンカーで、播磨造船所で設計。戦後に完成したものを含めて138隻が建造された。うち初期に建造された32隻は2E型として建造中の物を改造転用したもので、こちらは改E型油槽船と呼ばれる。



    奮龍 (ミサイル)



    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 奮龍 種類 地対空ミサイル

    原開発国 大日本帝国の旗 大日本帝国

    運用史

    配備先 大日本帝国の旗 大日本帝国

    開発史

    製造業者 海軍技術研究所 諸元

    重量 二型:370 kg 四型:1900 kg 全長 二型:2.4 m 四型:4.0 m 直径 二型:30 cm 四型:60 cm 信管 近接信管 エンジン 二型:固体燃料ロケット 四型:特呂二号原動機 推進剤 二型:ダブルベース火薬 四型:80%過酸化水素と80%水化ヒドラジンとメタノール 誘導方式 二型:手動指令照準線一致誘導方式 四型:Track-via-missile(英語版) テンプレートを表示

    奮龍(ふんりゅう)は、1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)にかけて、大日本帝国海軍が開発していた地対空ミサイルである。

    開発

    1944年(昭和19年)初め、高度10,000 mを飛行可能なアメリカのB-29に対抗するために、海軍艦政本部第四部(造船部、船体設計担当)の吉田技術少佐が発案した。7月2日に、第四部首脳陣に対する「自動追尾噴進弾」の説明会が行われた。第一部(砲、火薬担当)の協力を得ることは困難だったため、第四部は艦政本部の研究機関である海軍技術研究所に吉田少佐が通う許可を与え、本格的に開発が始まった[2]。

    わずか10ヵ月後の1945年(昭和20年)4月25日には、高松宮宣仁親王臨席の元、浅間山で特型噴進弾二型の最初の発射実験が行われた[3]。

    この時は無誘導で発射され、飛行特性が調べられた[4]。2回目以降は無線操縦装置を備えて実施され、二型は、目視による無線操縦により左右旋回を繰り返した後に目標地点に20m離れた場所に着弾し、命中しなかったものの2回目の試験は成功と看做された[2]。その後、十数基の試作弾が試験され、6月中旬には宣仁親王の裁可によって、特型噴進弾四型に「奮龍」の愛称が付けられた[3]。

    7月の試験でも無線操縦に沿って良好な機動性を示したが、速度が遅く左右へ振動する欠点が指摘された[3]。四型は伊豆半島の施設で三菱と空技廠の技術者によって設計され、より先進的な誘導装置を備え、ロケットエンジンは、長崎兵器製作所で桜花に搭載する予定で開発されて不採用となった液体燃料ロケットエンジン「特呂二号原動機」を流用し、燃焼室を改良することで実用化の目途をつけた[2]。他の部品の完成を待って、8月16日に四型の最初の発射実験(エンジンの地上試験という説もある)が計画されたが、8月15日の終戦までに液体ロケットエンジンは組み立て場に届かず、試作は中止。一切の資料は焼却処分された[2]。

    設計

    誘導装置の予備実験として「特型噴進弾二型」(奮龍二型)を製作し、本命の「特型噴進弾四型」(奮龍四型)を実用化する予定であった[2]。

    二型と四型の誘導装置の研究開発には、「テレビの父」高柳健次郎と、日本放送協会が関わっている[5]。この時のVHFによる誘導ビーコン送受信技術が、後のテレビジョン実用化へと?がっている。また、後に日本電子を設立する風戸健二達も開発に参加していた[5]。

    奮龍一型

    地対艦誘導弾の「特型噴進弾一型」(奮龍一型)が計画され、誘導装置は手動指令照準線一致誘導方式だった。弾頭は882 lb (400 kg)で一式陸上攻撃機からの投下試験が実施された。

    奮龍二型

    「特型噴進弾二型」(奮龍二型)はダブルベース火薬の固体燃料ロケットで、全長2.4 m、本体直径30 cm、全重量370 kg、最高速度525 mph (845 km/h)、到達高度は5,000 mであった[6][7][8]。風洞実験の結果、選定された機体形状は円筒で中央にエレボンを備えた4枚の木製の主翼があり、後部にも4枚の安定翼を備える[9]。80°の角度で発射され、エンジンの推力は240 kgf (2.4 kN)で3.5秒間作動する[4]。誘導装置は、弾頭の後部にジャイロスコープ2基とサーボ機構を搭載し、サーボモータに連動する十字翼で飛行中の誤差を自動修正するようになっていた[3][4]。

    奮龍三型

    「特型噴進弾三型」(奮龍三型)は二型を基に液体燃料ロケットエンジンを備えた対空誘導弾で構想のみで実機は製造されなかった。

    奮龍四型

    「特型噴進弾四型」(奮龍四型)は80%過酸化水素と80%水化ヒドラジンとメタノールを推進剤に用いる推力1,500 kgf (15 kN)で120秒間作動する特呂二号原動機を備える液体燃料ロケットで全長13.1 ft (4.0 m)、本体直径24 in (61 cm)、全重量4,190 lb (1,900 kg)、最高速度l,099km/h、到達高度は15,000mであった[7]。四型では誘導装置としてビームライディングの一種であるTVM式誘導装置が搭載され、1,000MHz帯の5チャンネルが使用され、4チャンネルはピッチ軸とロール軸の制御で第5チャンネルは指令爆破用だった[4][10]。四型も二型と同様に弾頭の後部にジャイロスコープ2基とサーボ機構を搭載した。エレボンを備えた2枚の主翼と2枚の安定翼はサーボモータに連動して飛行中の誤差を自動修正するようになっていた[3][4]。エンジンの推力が計算上不足していたので45°の角度で発射され、空気力学的な効果で揚力を発生するようになっていた[4]。

    仕様

    型式 奮龍二型 奮龍四型 全高 2.4 m 4.0 m 直径 0.3 m 0.6 m 重量 370 kg 1900 kg

    推進剤 ダブルベース火薬 80%過酸化水素 80%水化ヒドラジン メタノール

    最大速度 240m/秒 305m/秒 エンジン 固体燃料ロケット 特呂二号原動機 推力 2,400 kgf (24 kN) 1,500 kgf (15 kN)

    エンジン 作動時間 3.5秒 120秒 到達高度 5,000 m 15,000 m 射程 ? 30,000 m 弾頭 50kg 200 kg







    ロケット砲

    四式二〇糎噴進砲

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 四式二十糎噴進砲 Japanese Type 4 20 cm Rocket Mortar with a 20 cm shell.jpg 靖国神社の展示[1] 種類 ロケット砲 原開発国 大日本帝国 運用史 配備期間 1944-1945

    配備先 War flag of the Imperial Japanese Army.svg大日本帝国陸軍 関連戦争・紛争 第二次世界大戦

    諸元 重量 227.6kg 銃身長 1.923m 砲弾 83.7kg 口径 203 mm 仰角 40° ? +65° 初速 175 m/秒 最大射程 2,500m テンプレートを表示

    四式二十糎噴進砲(よんしき20せんちふんしんほう)とは、大日本帝国陸軍が1944年(皇紀2604年)に制式化し、第二次世界大戦末期に使用した口径203mmの噴進砲(ロケット砲)である。硫黄島の戦いや沖縄戦で使用され、簡易な造りで敵に大きな被害を与えられることから本土決戦の切り札としても期待されていた。

    開発経緯

    陸軍では昭和18年(1943年)7月に中迫撃砲以上の通過が困難な地形における急襲兵器として噴進砲の研究を開始した[2]。砲弾は第7陸軍技術研究所が7月に試作した二十糎噴進榴弾を使用し、発射機は船舶搭載用と合わせて設計を開始した。発射機は高射角・低射角の2種類を試作して射程を比較することとし、8月に大阪陸軍造兵廠に試作注文した。9月には噴進榴弾の秘匿名称として「ろ弾」という名称が与えられ、開発中の発射機の名称も試製二十糎ろ弾発射機I型と変更した。同時に船載用のものはII型として陸上用と区別された。試験は10月より開始し、発射機として高射角のものを採用することが決定した。更に操作を容易にするために装填板を廃止し上蓋式に改め、砲身の接続はねじ式とする等の改修を行った。12月に修正機能の抗堪試験と射表の編纂試験を実施し、実用性が十分であると認められた。また同時に実施された砲身を接続しない短砲身の状態での試験では噴進炎(バックブラスト)により水平器や照準眼鏡を破損するなど影響が大きく、また駄載が困難であることから不採用とした。昭和19年(1944年)1月に陸軍野戦砲兵学校に試験を委託し、実用に適するとの判決を得た。なお「ろ弾発射機」なる名称では部隊編成に不都合であることから名称を「噴進砲」に改め、本砲を以後「試製四式二十糎噴進砲」と呼称することとなった。この後若干の修正を加え、2月21日に陸軍研究所による研究報告が提出された。

    構造

    本砲のI型発射機は砲身・二脚・連結架・床板及び照準具から成り、外見は大型迫撃砲に類似する。砲身は発射時の後方噴流を逃がすために前後が開放されており、中央で前後に分割することが可能である。砲身はライフリングが刻まれていない滑腔砲身である。砲身後方には蝶番で開閉する装填用の蓋が付随する。発火方式は摩擦門管牽引式であり、砲身後端に引手を掛ける滑車託架を有する。脚は開脚式で、高低照準機及び水平規正用具を有する。高低射界は45度〜65度、水平射界は射角45度で左右150ミルである。連結架は二脚と砲身を接続し、方向照準機及び眼鏡託架を有する。試験では発射機の組立所要時間は約1分40秒であった。なお実戦で主に使用されたタイプはこれとは異なり、三脚構造で木製、このうちの一脚が二枚の板で噴進弾を挟む形の発射レールで、破損するまで十数発が発射可能な簡易なものであった。噴進弾は支給されるが、発射台は交付された図面をもとに板材で現地で自作すべしと通達されていた。また同時期に開発された四式四〇糎噴進砲の発射架も同じく木製発射台を用いるようになっており、現地部隊が独自に三連装にしたものもあった。

    また、船載用のII型発射機は基筒に装備し、噴進炎を防ぐために防炎庇・防盾・尾筒を有する。防炎庇は砲口に装着されるラッパの口を逆さにした様な覆いであり、砲口より飛び出た砲弾の後方噴流を周囲に逸らす機能を有する。防盾は後方噴流から射手を防御し、照準孔を有する。尾筒は砲身後方に装着される上方向に湾曲した筒状の装置であり、砲尾から噴出する噴進炎を砲の後部上方向に逃がす機能を有する。昭和19年(1944年)1月に伊良湖試験場で実施された試験ではウサギを使って各射角での射撃を実施した結果、これらの装置によって砲手は発射時の噴進炎から相当防御されるものとされた。なお防炎庇・尾筒を装着しなかった場合では「兎ノ毛ハ黒焦ゲトナレリ」と書かれている[3]。この試験では防炎庇と尾筒による防炎は十分であるために防盾はより軽易なもので十分なこと、湾曲した尾筒には発射時のガスによる強い負荷が掛かるために砲架の強度を増す必要があること、尾筒装着時の弾道性には更に研究を要すること、発火方式には電気門管の使用が適当であることが挙げられた。

    砲弾

    本砲弾は噴進薬の燃焼ガス噴出の反動を用いて飛翔するロケット弾であり、一般の砲弾とはその原理が異なる。砲弾は弾頭と弾尾からなり、両者はねじ式に結合する。砲弾には飛翔に際しての安定翼の様なものは無く、代わりに弾底にある6個の噴射口個々に角度を付けてライフル弾のように回転することによって飛行を安定させる「旋動(=スピン)安定式」という方式を採用している[4]。信管には一〇〇式二働信管「迫」を使用し、切替装置によって瞬発と短延期(0.1秒)を選択できる。薬量は185gで信管は弾頭に装着する。門管は約40gで、安全のため弾尾の門管孔への装着は砲弾の装填後に行われる。炸薬量は16.5kgで瞬発信管を用いた場合の効力半径[5]は31m、短延期信管を用いた場合砂地において深さ1.5m、直径6mの漏斗状の着弾孔を生ずる。装薬量は1号9.6kg・2号8.9kg・3号8.2kgの3種類であり、1号装薬の状態で支給されるために2号もしくは3号装薬を用いるには砲弾から火薬抜を用いて噴進薬を取り出す必要がある[6]。1号装薬使用時で燃焼時間は約2秒、飛翔速度は発射機前方175mで約175m/秒となる。射程は最大で1号装薬を使用し射角45度で2,500m、最短は3号装薬を使用し射角65度で1,400mである。発射の際は噴進炎による危害を避けるために発射機から5m以上遠ざかること、特に後方は土砂等が飛散するために注意することとされた。

    運用

    本砲は発射機の簡便な特性から奇襲的に使用し、人馬の殺傷と敵を精神的に震撼させることを目的としていた。また多数の集中発射によりある程度の野戦陣地の破壊を見込めるとされていた[7]。本砲は戦争末期の激戦地である硫黄島、沖縄に投入された。特に硫黄島では本砲を含め噴進砲70門が投入され、慢性的な火砲不足に悩む帝国陸軍にとって大いに助けとなり、また同様に簡易かつ大威力で既に前々から制式・配備されていた九八式臼砲と共にアメリカ軍に大きな損害を与え、畏怖の対象とされた。但し弾数が50発/門しか用意されていなかったため、あっという間に撃ち尽くされてしまった。また、ロケットの噴射炎と煙によって敵に位置を知られるため、撃ち尽くす前に制圧射撃を受けて破壊される恐れも大きかった。同時期により大型の四式四十糎噴進砲も開発され、噴進弾500発が生産されているが離島などへの輸送の便の関係上小型の二十糎型のみが南方で実戦使用された。海軍でも二十糎噴進砲を参考に重巡洋艦用主砲弾の在庫を流用した三種類の20cmロケット砲(実際の口径は210mm)を製作し、最後の型は鋼管製発射器を載せた簡易な砲架に車輪付きの形状あった。この砲は硫黄島で米軍に鹵獲されている。





    レーダーの開発 伊藤庸二

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 伊藤 庸二 いとう ようじ Yoji photo.jpg 生誕 1901年3月5日 千葉県夷隅郡御宿村(現・御宿町) 死没 1955年5月9日(54歳没) 国籍 日本の旗 日本 教育 ドレスデン工科大学(博士号) 東京帝国大学(工学博士号) 親 伊藤 鬼一郎 業績 専門分野 無線通信、電気工学 所属機関 大日本帝国海軍 光電社 光電製作所

    プロジェクト レーダー開発

    受賞歴 海軍技術有功章

    伊藤 庸二(いとうようじ、1901年3月5日 - 1955年5月9日)は、日本の元大日本帝国海軍技術官、無線技術者である。

    生涯

    生い立ちから海軍技術研究所の初期まで 1901年(明治34年)3月5日、千葉県夷隅郡御宿村(現・御宿町)に、御宿尋常高等小学校長伊藤鬼一郎の次男として誕生[1][2][3]。伊藤家は御宿郷の名主の家系だった[1]。旧制第一高等学校を卒業後[3]、東京帝国大学の1年生の時に海軍委託学生になり、1924年(大正13年)3月、同大学工学部電気工学科を卒業[4][5]。翌月、海軍造兵中尉(技術科士官第13期)に任官する。当時、欧米で電波技術が顕著に発展していたことから海外に技術者を留学させることとなり、1926年8月、箕原勉の推薦によりその候補に選ばれた[6]。1926年11月にドイツ入りし、ドイツ語の習得後、1927年(昭和2年)4月、ドレスデン工科大学にてハインリッヒ・バルクハウゼン教授の下で学ぶ[6]。なお、留学先については八木秀次に相談して決めたという[6]。同大学にて無線用真空管の研究をし、卒業論文「二極真空管理論並びに超低周波発生」[7]をまとめ、1929年7月に博士号を取得[8][5]。1929年8月に飛行船ツェッペリンで同乗したことをきっかけに草鹿龍之介と交流を持ち、その後、草鹿の相談に応じて助言をしていたという[9]。伊藤は、電波技術を索敵・攻撃兵器に応用すべきと早くから訴えていた[9]。

    帰国後は海軍技術研究所電気研究部の技術官となり、振極管の研究を行う[10]。この研究成果は後に論文「磁電管の研究」として1936年に東京帝国大学に提出し、同年12月に工学博士号が授与される[11][10]。また、電離層の研究にも取り組んだ。地上から発した電波が電離層で屈折反射するフェージング現象が課題となり、1932年にパルス波を用いた独自の測定装置を作成した[12]。本機を用いた電離層の定期観測は国内初のもので、1932-1933年の第2回国際極年では学術研究会議電波研究委員会を通じて測定結果が全世界に発表された[12]。また、伊藤の測定した記録は、万国無線科学協会(URSI)の事業として、毎週1回、1941年12月まで全世界に放送された[12]。

    電波伝播の研究を進め、この観測研究が軍事用短波通信の波長選択に不可欠なものであると理解され始める[13]。1937年には関係者により波長選択の図表が完成し、1942年8月に伊藤はこれへの貢献から海軍技術有功章を授与される[13]。

    ヨーロッパ出張

    1937年春、ヨーロッパ出張の際、「ドイツ海軍が電波を使用して距離を測れる装置の開発に成功した」との未確認情報をドイツで聞き、また、イタリアでも短波を使った兵器開発の可能性について話を聞いたところであった[14]。伊藤はドイツ大使館経由で軍中央に報告したが、この情報は握りつぶされたという[14]。

    伊藤研究室にて1933年から続けていたマグネトロン(磁電管)の研究が進み、1937年末には八分割陽極マグネトロンの最初の試作品を作成[15]。これを基に橘型、菊型のセンチ波マグネトロンの開発に成功する[15]。1939年初頭、マグネトロンの研究成果の一部を日本無線に公開し、その出力増加・量産化を委ねた[16]。橘型マグネトロンを使って暗中測距装置の共同研究を開始し、1940年秋には試作機を完成させ、同年10月10日に鶴見沖で空母「赤城」を対象に実験を行い、成功させた。ただし、海軍はマイクロ波技術は即戦力にならないと判断し、開発を中止させてしまった。一方、ほぼ同じ頃にイギリスでも同じ方式のマグネトロンが開発され、アメリカにこれが提供された後、マイクロ波レーダーとして開発され、戦争で活用されている[17]。

    1939年春、大和田受信所(のち大和田通信所)の初代所長の和智恒蔵より、アメリカ軍太平洋艦隊の発する電波の解析について相談を受け、協力することとした。密かに作業を進め、望ましい結果を得るための状態や、その場合の受信地の場所などの助言をまとめた報告書を作成。この結果、太平洋艦隊は週初めに基地を出て、ラハイナ・ロードという海域で訓練をし、週末に真珠湾に帰投して休養を取るという行動様式を確認[18]。後に真珠湾攻撃の日時を決めるのに役立ったとみられる。

    1941年2月下旬から6月にかけて、ドイツ視察に同行し、パルス変調を使った航空機検出装置を見学し[19]、海軍本部へ報告する。同じ頃、ロンドン駐在の浜崎造兵中佐からもレーダーに関する情報が報告され、日本でもレーダー(電探)の開発が進められる[20]。その後に完成した対空用の二号一型電探と、対水上警戒用の一〇三号電探(後の二号二型電探)を戦艦「日向」に搭載した実験で、「一〇三号については撤去すべき。」と判断された際、「目的が異なるものを同じ装置で行うことは困難。」と伊藤は異論を唱え[21]、マイクロ波電探の必要性を訴えた[22]。

    日米開戦後

    また、アメリカとの戦争が始まってから、その前途に不安を感じたのか[23]、1942年2月の連合艦隊による図上演習後、「ドイツや英米では原子力爆弾の研究が進められており、警戒が必要。」と発言[24]。これがきっかけとなり、伊藤の呼びかけで調査機関設立のための準備委員会が設置される。その後、原爆製造のための可能性を検討する「物理懇談会」(仁科芳雄委員長)が1942年7月に発足。同会は1943年3月まで開催され、「原爆製造は可能だが、ウラン鉱石が不足し、長時間の研究が必要となり、この戦争には間に合いそうもない。」との結論に至った[23]。電波研究の中心である伊藤が別の研究に時間を浪費しているとの批判もあり、同会は解散した。

    「日本の原子爆弾開発」も参照

    1942年10月のサボ島沖海戦ではアメリカ軍のレーダーが活躍し、日本でも射撃用レーダーの重要性がわかり始め、センチ波電波探信儀の開発が認められた。ただし、前回の戦艦「日向」での試験結果を勘案し、対潜水艦用に限定された。一〇三号電探を改良し、二号二型電探を作成。1942年末に駆潜艇装備実験が行われ、量産に入った[25]。

    前述の物理懇談会では、複数の委員から「マグネトロンを使った電波兵器の方が実現する可能性が高い。」との意見があり、伊藤は上層部を説得して大出力磁電管の研究許可を得る。1942年10月から日本無線本社工場内に技研三鷹分室を設けて、研究に着手[26]。1944年6月に開設した技研島田実験所で実用研究を行った。初期研究は順調に進み、約5mでウサギを殺す実験は成功したが、殺人光線、飛行機撃墜用の強力電波といった本来の目的である応用研究は一向に捗らなかった。大出力のマグネトロンが作れなかったためである。高性能なマグネトロンは作れるようになったが、発振理論が解明されず、応用機器が作れなかったという[27]。

    終戦後

    終戦後、戦争関係資料の焼却とともに技術資料が無くなることが惜しい、また、後の復興に資料が役立つと感じたため、海軍の技術史を残すことを決心。高松宮宣仁親王に相談をし、元軍令部の富岡定俊と共に史実調査の仕事をすることとなった。史実調査の資金捻出とともに地元の農漁業の電化による振興のため、1946年春に光電社を設立。1947年には船舶機器の専門メーカー「光電製作所」を設立する[28]。

    1952年、電波監理局から陸上用方向探知機を作る話を打診され、1953年に試作機を作成。アメリカ陸軍のものよりも使いやすく、長時間使用が可能であったので、各地の電波監理局で採用されるとともに、輸出機運が盛り上がった[29]。海軍での親友、藤村義朗を介して日系貿易商を紹介され、アメリカに渡航するきっかけを得た。せっかくの外国出張なので、ヨーロッパでバルクハウゼン博士と再会した後、旧海軍の研究成果をアメリカに持ち込み、日米共同研究をするという計画を立てた。しかし、渡航資格が無いので悩んでいたところ、アメリカの極東空軍幹部から賓客として招待するので渡米するようにとの話を得る。史料調査会の富岡に相談し、近々発足予定の防衛技術研究所嘱託の資格を得られるよう取り計らってもらい、渡航資格を得た。1954年4月下旬に欧米に出張。欧米でバルクハウゼン博士を含む知己や友人と会った後、アメリカで空軍研究長官のバット将軍と会い、「現在のように完成品の提供だけでなく、日本に研究課題と開発資金を与え、日本との友好関係を育んでほしい。」との旨で日米共同開発を訴え、パット将軍からは「伊藤がそれをしてはどうか」と逆提案があった[30]。ただ、後に日本の大学に呼び掛けたところ、大多数の大学は、研究費は欲しいが米軍からの「ひも付き研究」では左翼勢力に睨まれるのが怖いと拒否反応を起こしたという[31]。

    帰国後、アメリカで見た世界初の電子計算機「ENIAC」の真空管が切れやすかったことから、後藤英一が開発した「パラメトロン素子」を基に電子計算機を作ることを検討。規模の小さい光電製作所では実現は困難であったため、パラメトロン電算機の開発は、国際電電、電通研、東大高橋秀俊研究室の三者で共同開発する方針が決定し、光電製作所は国際電電の指導の下、素子の開発を手伝うことになった[32]。

    その後、緒方竹虎副総理から防衛技術研究所の初代所長に就任してほしいとの依頼があり、伊藤も国のために2年間奉公するかもしれないと周囲に話していたが、その2か月後の1955年5月9日、光電製作所で指導中に急に倒れて死去した[33]。

    戦時期日本のレーダー開発に関する 最近の調査研究動向 河村 豊

    2.『日本無線史』(1951 年刊行) さらに,未刊行の原稿が史料調査会に所蔵 されている.編集の目的は,開発担当者によ る戦訓の収集と思われる.その内容は,記憶 に基づく記述や,担当した部分だけに限定し た記述が多いために全体像がつかみづらい が,レーダー開発の過程を知る資料として, 今後も利用する価値は十分にあろう. また,開発の担当者であった元海軍技術大 佐 伊藤庸二は,敗戦時に焼却せずに残した 技術資料などから,レーダー開発の技術史を まとめ上げようといる計画をもっていたよう だが,本人の急逝により実現せずに終わった. 以上,資料の概要を紹介した.資料につい ての詳しい内容は,現在準備中の論文





    目指すは通常の3倍!

    水中の速さ追求した旧海軍の高速潜水艦、開発経緯とコトの顛末 2019.03.25

    https://trafficnews.jp/post/84620

    ミリタリー, 艦艇(軍艦), 潜水艦, 潜高型, 旧日本海軍

    第2次世界大戦も中盤になると、アメリカの対潜水艦戦闘は技量が向上し、日本側の被害が増えてきます。そこで日本海軍が目を付けたのは水中速度の向上。狙われても逃げ切れればよいのです。どこまで、どのように実現できたのでしょうか。

    水上航行に最適化されていた当時の潜水艦

     実験艦を除いた戦後の通常動力型潜水艦において、水中速力25ノット(約46km/h)を達成した例はありません。2018年10月に進水した海上自衛隊の最新鋭潜水艦「おうりゅう」でも、水中速力は20ノット(約37km/h)とされています。ところが80年も前に、旧日本海軍は水中速力25ノットを目指した潜水艦を作っていました。

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    1945年2月に呉で撮影された潜高型2番艦の伊二百二。マストにじょうご形の22号電探(レーダー)が見える。

     第2次世界大戦期の潜水艦は、通常は水上航行しており、戦闘時のみ必要に応じて潜水するという運用方法が一般的でした。反撃される可能性が少ない敵商船や小型艦艇を攻撃する際には、「家1軒の値段」といわれた高価な魚雷を節約するため、浮上したまま大砲で攻撃することも、ままあったのです。艦も水上航行に最適なように設計されたため、水中速度は水上速度より遅くなるのが普通で、日本海軍の、ほとんどの潜水艦の水中最高速力は8ノット(約14.8km/h)程度であり、これは他国の潜水艦でも同じようなものでした。

     太平洋戦争の中盤以降、アメリカ軍の対潜水艦能力が向上し、日本の潜水艦の損害が増えていきます。そこで1943(昭和18)年に、日本海軍は水中速力25ノットという潜水艦「潜高型」を構想します。これが実現できれば、敵からも上手く逃げおおせられるはずです。

     通常の3倍速いという、とてつもない要求にも見えますが、1934(昭和9)年に建造された実験艇「A標的」が水中速力24ノット(約44.4km/h)、1938(昭和13)年には高速実験潜水艦「第71号艦」が水中速力21.3ノット(約40km/h)を達成しており、実用化の目途は立っていました。

    目指すは通常の3倍! 水中の速さ追求した旧海軍の高速潜水艦、開発経緯とコトの顛末 2019.03.25 月刊PANZER編集部

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    水中25ノットを目指して

     通常動力型といわれる潜水艦は、水上ではディーゼルエンジンでスクリューを回します。潜水すると給排気ができないので、ディーゼルエンジンを止め電力でモーターを回し、推進力を得ます。電力は、浮上しているときにディーゼルエンジンで発電し、電池に充電しておいたものです。

     理科の授業でも習いましたが、複数の電池を並列に繋ぐと、電球は比較的明るくはありませんが、長く光り続けます。一方、電池を直列に繋げば、電球は目に見えて明るく光りますが、電池は比較的早く切れてしまいます。潜高型は、とにかく水中で高速を出そうと、電池をたくさん直列に並べる方法を採用しました。

     潜高型1番艦「伊二百一」では「特D型」という小型超大容量電池を、当時の標準的な潜水艦であれば数百個単位のところを2088個も搭載、これを36群にまとめて直列配置します。特D型電池はもともと、水中排水量約40トンの実験艇「A標的」のような小型艇用のものでした。これを無理やり大量に、水中排水量1450トンの潜高型に載せたのです。

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    第71号艦(画像:アメリカ海軍)。

    1945年6月30日撮影の舞鶴港。下のドッグに3隻並んだ右端が伊二百一(画像:アメリカ海軍)。 日本降伏後1945年10月に呉で撮影された伊二百一(画像:アメリカ海軍)。

     機関は、1本のスクリュー推進軸に1375馬力のディーゼルエンジンと1250馬力モーター2基を直結した軸を2本、搭載します。水中馬力は、1250馬力モーター×4基=5000馬力が発揮できるはずでした。これは、当時の標準的な潜水艦の2倍の馬力になります。

     船体も、水上より水中抵抗を最小にする形状で、大きな抵抗になる大砲は搭載されず、機銃も格納式でした。一方でレーダーやシュノーケル(浅い深度なら水中に潜ったままエンジンを動かして充電できる)が追加されて抵抗が増え、結果、水中速力は計画値で19ノット(約35q/h)まで下がることになりましたが、それでも標準的な潜水艦の、2倍の速度を実現したので

    現代につながる技術の継承

     潜高型の1番艦、伊二百一は1944(昭和19)年3月1日に起工され、7月22日に進水、1945(昭和20)年2月2日に竣工するという短工期で建造されました。1942(昭和17)年の海大型潜水艦が、起工から竣工まで約1.5年を要していましたので、1年未満での竣工は画期的です。工期を短くできたのは、船体をいくつかのブロックに分けて同時に製造し、最後に全溶接でつなぎ合わせる「ブロック建造方式」を、潜水艦で初めて採用したからでした。

     こうして期待の高速潜水艦、潜高型は1945(昭和20)年6月までに、伊二百一、伊二百二、伊二百三の3隻が完成し、早速、訓練が開始されました。ところが、水中での20ノット近い速度は不安定で、操艦は難しかったようです。また積み重ねて配置された2000個以上もある電池は、温度差が生じ性能は不安定、メンテナンスに莫大な手間が掛かる、80回しか再充電できない(一般的な一号十四型蓄電池なら400回)と問題山積で、さらにショートしやすい危険な代物であり、伊二百二はバッテリー火災事故も起こしています。エンジンは馬力不足で、充電能力も不十分、そして実際の水中速度は17ノット程度だったといわれます。結局、期待の高速潜水艦も訓練と故障修理、不具合個所の対策改造を繰り返しているあいだに終戦となりました。





    富嶽

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    曖昧さ回避 「富嶽」のその他の用法については「富嶽 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

    富嶽(ふがく)は、大東亜戦争中に日本軍が計画した、アメリカ本土爆撃を目的にした6発の超大型戦略爆撃機である。名は富士山の別名にちなむ。

    富嶽による米本土爆撃計画

    1942年(昭和17年)、アメリカ軍による初の日本本土空襲(ドーリットル空襲)と、日本軍による初のアメリカ本土空襲が行われた。この年、中島飛行機の創始者である中島知久平が立案した『必勝防空計画』に書かれていた、アメリカ合衆国本土を空襲した後にそのままヨーロッパまで飛行し、同盟国であったナチス・ドイツまたはその占領地に着陸することが可能な大型長距離戦略爆撃機「Z飛行機」構想が、のちの富嶽である。同年8月15日、大本営陸軍部は「世界戦争完遂ノ為ノ決戦兵器ノ考案」を陸軍省に要望した[1]。その中に「超遠距離飛行機」「特殊気球(フ号装置)ノ能力増大」という項目があった[1]。

    アメリカ本土爆撃を視野に入れ、日本を飛び立ち太平洋を横断してアメリカ本土を爆撃、そのまま大西洋を横断してドイツに寄り補給を受け、再び逆のコースでアメリカを再攻撃しながら戻ってくるか、またはソ連を爆撃しつつ世界を一周すると言う壮大な計画であった。全長45 m(米軍が太平洋戦争で実戦投入した4発戦略爆撃機ボーイングB-29の1.5倍)、全幅65 m(B-29の1.5倍)、爆弾搭載量20トン(B-29の2.2倍)、航続距離は19,400 km(B-29の3倍)、6発エンジンを目指した。

    中島飛行機が設計にかかわる。1943年(昭和18年)5月31日、中島は軍令部官邸での夕食会で本機(富嶽)の構想を説明する[2]。昭和20年にはB-29大型爆撃機が大量配備され「要スルニ現状デハ日本ノ軍需工場ハ全滅シテ戦力ヲ失フノハ明カデアルカラ、大型機ヲ急速ニ設計、生産ニ着手セネバナラヌ」と指摘し、B-29に対抗するには「其ノ飛行場ヲ使用不能ニスル事ガ考エラレル」と述べた[3]。中島は、東條英機首相をはじめ、陸海軍大臣や関係者にも構想を訴えていたという[4]。

    このあと陸海軍共同の計画委員会によって計画が承認され、これに軍需省も加わった体制で開発が進められた。しかし陸海軍の要求性能が大幅に異なったため調整に苦労を強いられ、かつ軍需省は途中で独自に川西航空機に設計案を作らせ、しかも陸海軍や他社はおろか中島飛行機内部にさえ根強い反対論があるなど、開発体制には多くの問題があった。第一次案では、下記の仕様のごとくハ54×6基であったが、空冷四重星型という新形式の開発に手間取り[注釈 1]、応急案としてハ44(空冷二重星型18気筒、2,450馬力/2,800 rpm)やハ50(空冷二重星型22気筒、3,100馬力/2,400 rpm)6基装備で暫定的に計画を進めた。この影響で爆弾搭載量も20 tから15 tに減らされた。

    当時の日本はおろか戦後すぐのアメリカにおいてすらも、その技術力・工業力では手にあまると思える空前のスケールの機体(1946年に初飛行したアメリカ製の超大型爆撃機B-36ピースメーカーも推力不足に悩まされ、当時としては最新鋭の装備であったジェットエンジンをやむなく追加した)であったため、実現までに解決せねばならない諸問題が山積し、与圧キャビンの研究、新式降着装置の開発も行われた。

    1943年(昭和18年)より中島飛行機三鷹研究所構内に組み立て工場の建設が開始された。しかし1944年(昭和19年)4月28日、日本軍は陸海軍当事者、軍需省、関係製作会社を集めて超重爆撃機「富嶽」の研究を続行するかを検討した[1]。富嶽を予定どおり生産した場合、日本陸軍の四式戦闘機(疾風)の943機減産、海軍の陸上爆撃機銀河235機の減産を招く見通しとなった[1]。資材、工作機械、技術研究の観点から、富嶽の研究は「遺憾ながら中止せざるを得ない」との結論に至った[1]。日本軍は同年6月下旬のマリアナ沖海戦に敗北[5]、絶対国防圏の東の鎖ともいうべきサイパンも7月6日に陥落[6]、最大の支援者であった東條首相は周囲からの排斥によって7月18日に辞職した[7]。本土防空戦のための戦闘機開発優先・開発機種削減方針により、「この戦争に間に合わない」と判断された富嶽開発は中止となった。

    現存物

    羽田空港拡張工事中に見つかった、富嶽のものとされるハ50エンジンが、成田国際空港に隣接する千葉県芝山町の航空科学博物館で展示されていた。(現在、外部へ貸出中)

    2016年、「富嶽を飛ばそう会」[注釈 2]によって設計図から1/12のラジコンで復元され飛行が成功した[8][9]。

    富嶽計画参加者

    田中清史:エンジン主担当

    中村良夫:のちのホンダ四輪開発責任者。

    中島に就職したばかりで従軍し、立川陸軍航空技術研究所第二研究所(陸軍航二研・航空発動機)に属しており、構想を実体化するタイミングでチームが編成され、一員として参加。中村は「それまでの日本最大の爆撃機は海軍の四発連山であり、日本の航空産業が持てる経験技術をはるかに逸脱した無謀なプラン」と評している。自身の関与したエンジンに関しては「開発を終わっていた「ハ219」をベースとするものであったため、エンジン自体の構造強度と性能は、まあなんとかメドがつけられそうであった」と

    、想定される技術範囲内であったとする一方、エンジンの冷却に関しては複列型であればバッフルにより前後のバランスをとれるが、四列では一列から四列までを均等に冷却することがうまくできなかったことが基本的問題点であり、このため三菱で開発中だった空冷複式22気筒「ハ50」を高出力化しようという代替案も出たが、これは基本仕様ですでに能力不足だったという[10]。

    関連計画

    「Z飛行機」を陸軍と海軍の要求に合うように、すり合わせる中で産まれた設計の一つがこの「富嶽」である。

    他にアメリカ本土を長距離爆撃する機体として、陸軍のキ74とキ91の開発が進められたが、キ91は開発中止、キ74は審査中に終戦を迎えた。また、海軍も富嶽と競作する形でTBの開発を進めていたが、富嶽に敗れ開発中止となっている。

    旅客機や輸送機へ転用する計画もあった。旅客機型は爆撃機型より一回り小さい全長33.5m、全幅50m、定員は4席x25列の100人。輸送機型は全幅を72mに拡大[11]。この他にも爆撃用の装備を撤去し、機体下部に九七式七粍七固定機銃や九九式二〇ミリ機銃を搭載した掃射機型の計画も存在した[12]。

    アメリカがほぼ同時期に開発を開始した、ほぼ同サイズの戦略爆撃機B-36は、推進型に配置された6発のレシプロエンジンと、翼端にさらに2基ずつのジェットエンジンの計10基の発動機を推進機関とした上で、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)8月8日に初飛行を行い、1948年(昭和23年)に配備開始された。しかし1950年に勃発した朝鮮戦争においては、アメリカでさえ持て余す運用の困難さと高価さゆえに温存され活躍の機会を得られず、また時代は既にB-36のようなレシプロエンジン機の速力では通用しないと考えられた。アメリカにおいて兵器として成功する大型の戦略爆撃機は、B-52ストラトフォートレスまで待つことになる。

    計画仕様

    型式 注:予定である。

    六発 中翼単葉 直線テーパー翼 全金属製 応力外皮構造 引き込み脚、主輪数4(外側2輪は重量軽減のため離陸後投下) 前輪式

    機体仕様

    注:全て計画値であり、これ以外にもいくつもの計画案があった。

    全長:46.00 m 全幅:63.00 m 全高:8.80 m 主翼面積:330.00 m2

    発動機:中島ハ54空冷式4列星型36気筒(ハ219複列星型18気筒を2台串型置) 6,000馬力(3725 kW)6発

    プロペラ:VDM定速6翅・8翅・二重反転4翅(いずれかで計画) プロペラ直径:4.5 - 4.8 m

    自重:42 t

    全備重量:122 t

    最大速度:780 km/h(高度:10,000 m) 実用上昇限度:15,000 m 以上 航続距離:19,400 km 以上

    武装

    注:あくまで計画である。

    20 mm 機関砲 4門 最大20 t までの爆弾 航空魚雷20本(雷撃仕様機)

    登場作品

    研究書

    碇義朗『さらば空中戦艦富嶽-幻のアメリカ本土大空襲』光人社 前間孝則『富嶽-米本土を爆撃せよ』

    『3DCGシリーズ54 日本軍試作機のすべて』双葉社 前間孝則:「富嶽 上: 幻の超大型米本土爆撃機」、草思社文庫、ISBN 978-4794224484(2020年4月6日)。 前間孝則:「富嶽 下: 幻の超大型米本土爆撃機」、草思社文庫、ISBN 978-4794224491(2020年4月6日)。

    ドキュメンタリー番組 土曜スペシャル『さらば空中戦艦富嶽 幻のアメリカ本土空襲』(1979年大映映像製作、NNN系列局) ベースは前述の碇『さらば空中戦艦富嶽 - 幻のアメリカ本土大空襲』。司会役は水野晴郎。中島知久平役にハナ肇、東條英機役に内田朝雄、近衛文麿役に久米明を当てた再現ドラマや、ミニチュア撮影と操演特撮技術を駆使したニューヨークマンハッタン地区に林立する摩天楼の戦略爆撃映像も交え、開発計画の全貌を解説する構成がとられた。巨大な機体を有す高高度重爆撃機を敵艦隊への低空の雷撃に使用する、味方の被害が全くなく敵のP51迎撃機編隊を一方的に撃墜するなどの想定戦闘シーンが放映された[13]。一回のみテレビ放映され、その後は2013年12月7日に日本映画専門チャンネルで放送されるまで、再放送もビデオ化・DVD化も一切されなかった。

    『日本の極秘軍用機』(2007年ヒストリーチャンネル製作・放映、原題:Secret Japanese Aircraft of World War II)

    富嶽の他、秋水、橘花、景雲を紹介・解説。

    創作 架空戦記各作品 史実より日本の国力が大きかったり、太平洋戦争下で開発に成功して戦局を有利にしたりする設定で登場する。檜山良昭『大逆転!幻の超重爆撃機』シリーズ、横山信義『巡洋戦艦「浅間」』シリーズ、佐藤大輔『レッドサンブラッククロス』『仮想・太平洋戦史 目標、砲戦距離四万』など。

    『機神兵団』(1992年のOVA) 『荒野のコトブキ飛行隊』(2019年のTVアニメ) 第10話にて自由博愛連合所属の爆撃機として登場し、ラハマを爆撃敢行したがコトブキ飛行隊及びナサリン飛行隊とラハマ自警団らの活躍により阻止されている。 世にも奇妙な物語'01春の特別編『太平洋は燃えているか?』(2001年4月2日放送、フジテレビ系列局)

    『雷神』という名で登場。

    大東亜戦争(太平洋戦争)日本の英雄