iso14001環境ISO生命に満ちた青い地球を守ろう

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アジアの歴史




  • 千年に一度のチャンス
    天が我々に与えた試練だ


  • iso14001,環境ISO 汚染の予防


    超反日小説『ムクゲの花が咲きました』続編【書籍】
    ムクゲの全盛時代は他でもない日帝強制占領期〜カン・ヒョバック慶煕大教授
    『花に偽装した戦犯旗-ムクゲ』出版予定[08/25] [蚯蚓φ★]



    ナチスドイツはユダヤ人を600万人殺した
    戦前日本は朝鮮人を1200万人、増やした
    許されざる罪である



    李氏朝鮮では、中国からの勅使に対し、王がソウルの郊外、”迎恩門”に出向き、自ら三跪九叩頭の礼で迎えていた


    朝鮮土民の奇習を禁止した日帝の蛮行
    【試し腹】.【シバジ】【嘗糞】【病身舞】【乳出しチョゴリ】
    ..



    「三田渡の盟約」
    朝鮮は清国に対し、臣としての礼清国に対して牛馬3000頭、美女3000人を毎年上納すること



    朝鮮国民に教育を実施し、就学率を61%まで高めた(1944)
    (ハングルを整備し体系化させ、漢字、日本語と共に普及させた
    識字率 3-8% → 80%


    原爆被爆者の平均寿命は平均日本人より長い。男1年、女2年、寿命が長い。


    南京戦はあったが南京大虐殺はなかった。南京学会

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    大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史

    英国の歴史家、アーノルド・トインビーは、 日本の近代史についてこんな分析をしました。 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 0

    朝日の慰安婦捏造問題を世界に発信するため、 かなり正確に伝えている英語での解説記事 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 2

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    米政府の慰安婦問題調査で奴隷化の証拠発見されず no proof war crimes with "disappointment" comfort woman 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 4

    「侵略戦争」は連合国の宣伝、日本は植民地アジアを解放した 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 5

    徹底検証!「従軍慰安婦」問題は朝日新聞の捏造から始まった 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史6

    Report No. 49: Japanese Prisoners of War Interrogation on Prostitution

    従軍慰安婦に関する米軍調査報告:戦場売春婦の実態調査結果ビルマ

    Report No. 49:

    「文玉珠さん」という(自称)従軍慰安婦女性は、平成4年に日本の郵便局を訪れ 2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしています 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 7



    ヒラリーの私用メールが暴いた外務省の赤っ恥 国益の毀損と責任感の欠如がもはや伝統に

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    神風特攻隊が残した戦果は、実はすごかった。

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    フーバー大統領の回想録 には、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な記録が含まれている。
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    サンフランシスコで慰安婦碑反対運動で頑張っている有志からご協力のお願いです。
    計画されている慰安婦碑のとんでもない内容の碑文が1月18日に承認されました。
    来る2月6日の芸術委員会でその慰安婦碑の設置が承認されようとしています。
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    “カナダ有志の会”よりお願い
    中国系州議員やアルファという反日組織の工作により、
    カナダ・オンタリオ州の立法議会が南京大虐殺記念日の制定を審議中です。
    ↓ Bill 79, Nanjing Massacre Commemorative Day ↓
    SnapCrab_NoName_2017-2-2_7-50-52_No-00
    抗議のメールを、オンタリオ立法議会メンバーに送っていただけましたら幸いです。

    南京大虐殺は捏造だった証拠集

    韓国、韓国人慰安婦をドラム缶に入れて米軍らに供給、政府が米軍向けに売春管理



    国連も一蹴した中国の政治宣伝 自民党が明らかにした南京の捏造





    やはり あの戦争は、アジア開放のための聖戦だった



    ライダ イハンは3万人もいるのに、なぜか韓国には日本軍人との混血児は一人も出てこない不思議… 20万の 朝鮮売春婦相手になぜ一人も出てこないんだ?



    韓国を「ホワイト国」から除外しよう



    南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状
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    自己紹介







    南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状

    原爆被爆者の平均寿命は平均日本人より長い。男1年、女2年、寿命が長い。



    http://www.sdh-fact.com/CL02_3/19_S1.pdf

    胡錦濤国家主席閣下への公開質問状 このたび中華人民共和国国家主席胡錦濤閣下のご訪日に当たって、日中両国の 友好を願う者として心より歓迎申し上げます。



    反日種族主義




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    大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言


    太平洋戦争におけるわが国の戦争被害

    「世界から恐れられた7人の日本人」





    「大東亜戦争の英雄の日本人1」


    「大東亜戦争の英雄の日本人2」


    「大東亜戦争の英雄の日本人6」


    「大東亜戦争の英雄の日本人3」空の要塞B29撃破とB29撃墜王


    「大東亜戦争の英雄の日本人4」陸軍エースパイロット撃墜数


    「大東亜戦争の英雄の日本人5」海軍エースパイロット撃墜数


    「大東亜戦争技術者」


    「大東亜戦争技術者2」


    「大東亜戦争石油」





    日米開戦前日米交渉(アメリカが日本に実質的最後通牒(日本の南部仏印撤退などの譲歩案に))





    「大東亜戦争の英雄の日本人1」







    「大東亜戦争の英雄の日本人2」






    ビルマを独立させた南機関、鈴木大佐。

    アウンサンスーチーの父、アウン・サンンら30人を訓練し、1943年8月1日ビルマを独立させた。



    フィリッピンを独立させた。

    台湾総督府参謀だった原偵は軍をやめ、同志5人と義勇隊を組織、フィリッピンにわたり、独立派リーダー、アギナルド将軍に協力し、1943年、フィリッピンをアメリカから、独立させた。



    柳川宗成大尉及びインドネシア独立戦争に参加した3000人の日本兵。1000人戦死

    インドネシアを独立に協力した、日本軍と、インドネシア独立軍となったPETA を訓練した、柳川宗成大尉及びインドネシア独立戦争に参加した3000人の日本兵。





    看護婦の派遣地 従軍看護婦

    北は樺太から南はジャワまで、また東はニューブリテン島(現在のパプアニューギニア)のラバウル、西はビルマ(現ミャンマー)までと広い範囲にわたった。内地が666個班と最も多く、続いて中華民国の114個班、満州の55個班であった。



    勇敢に戦争に参加し、死んでいった日本人。

    【日本軍兵士】日本人犠牲者310万人、アジア・太平洋戦争の 日本人死者は、310万人(軍人・軍属が230万人、民間人が80万人)に達し



    女子挺身隊(じょしていしんたい)

    は、大日本帝国が大東亜戦中に創設した勤労奉仕団体のひとつで、主に未婚女性によって構成されていた。戦時日本の労働力が逼迫する中で国家総動員法下の国民総動員体制の補助



    ああ、堂々の輸送船
    輸送船推定、1941年保有650万トン、開戦3年目に年、0!!に。南方からの資源輸送にも前線への兵器の輸送に絶望的な状況で開戦に踏み切った。 輸送船を作っても作っても、米海軍に撃沈され、輸送船推定、1941,650万トン、開戦3年目に年、0!!にという予測。ああ、堂々の輸送船 これらを総合すると開戦するなら早期開戦しか道はなかった。1941年末までが条件だった。







    鈴木敬司

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 鈴木 敬司

    Keiji Suzuki.jpg

    鈴木敬司大佐

    生誕 1897年2月6日

    鈴木 敬司(すずき けいじ、1897年〈明治30年〉2月6日 - 1967年〈昭和42年〉9月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。1941年から1942年にかけて存在したビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とする日本軍の特務機関「南機関」の機関長。この経歴から「日本版アラビアのロレンス」と称される。

    経歴 静岡県出身。鈴木房蔵の長男として生まれる。浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、翌月、近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。

    1931年(昭和6年)3月、参謀本部付勤務となる。以後、参謀本部員、参謀本部付仰付(フィリピン潜入)を務める。1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に昇進。陸大教官を経て、1937年(昭和12年)8月、歩兵中佐に進級し参謀本部員に就任。1939年(昭和14年)1月、大本営第10課長を兼務し、同年8月、歩兵大佐に昇進。同年12月、参謀本部付として蘭印駐在となった。

    1940年(昭和15年)6月から10月まで、「南益世」名でビルマに出張した。1941年(昭和16年)2月、南機関長となりバンコクに駐在し、同年11月、南方軍総司令部付としてビルマ工作に従事。1942年(昭和17年)6月、留守近衛師団司令部付に発令され、翌月、ラングーンを離れた。同年8月、第7師団参謀長に就任。アウンサンを始め30人の若者を選抜して密かにビルマを脱出させ、日本占領下の海南島へ集結させた後、陸軍中野学校で徹底的に軍事訓練を施した[1]。これが後の30人の志士となる。

    1943年(昭和18年)6月、陸軍運輸部付(東京出張所長)となる。同年8月、陸軍少将に進級。以後、第2船舶輸送地区隊長、第27軍参謀長を歴任。1945年(昭和20年)2月、第5船舶輸送司令官に就任。同年4月、札幌地区鉄道司令官を兼務し終戦を迎えた。同年12月、予備役に編入された。敗戦後、英軍からBC級戦犯に指定され、ビルマに連行されたが、アウンサン将軍の抗議により釈放された。

    ミャンマー政府は1981年4月、ミャンマー独立に貢献した鈴木ら旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」を授与している(鈴木の未亡人の節子が勲章を受け取った)[2]。



    https://ameblo.jp/hakamaira/entry-12005029511.html



    日本は民心を回復するために、1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国の独立を認めた。 日本はラウレル政権と同盟条約を締結し、形式面では日本の軍政期が終わった。 ラウレル大統領は11月に東京で開催された大東亜会議に出席している。

    黄文雄 大日本帝国の真実p301

    原禎(はら・てい)

    2015-03-23 10:08:53

    元台湾総督府、陸軍参謀本部に所属した陸軍大尉

    長野県出身、別名で近藤五郎とも

    孫文の革命支援を行った日本人の一人、

    フィリピン独立の影に日本あり。今も語り継がれる涙の友好物語

    https://www.mag2.com ? news

    2016/10/06 ? 大東亜戦争が始まるとフィリピン独立の約束を取り付けた後、日本軍とともに75歳の老躯を駆って、祖国への再上陸を果たした。1943(昭和18)年10月14日、 .

    .. フィリピン独立の影に日本あり。今も語り継がれる涙の友好物語

    国際2016.10.06 623 by 伊勢雅臣『Japan on the Globe−国際派日本人養成講座』

      対米独立戦争での支援

    リサールが銃殺された2年後の1898年、スペインとアメリカとの間で米西戦争が勃発し、この機に乗じて革命指導者の1人エミリオ・アギナルドがフィリピン独立を宣言し、自ら初代大統領に就任した。しかしスペインを打ち破ったアメリカは、新たな宗主国として居座ってしまう。フィリピン革命政府はこんどは米国との戦いを始め、日本にもマリヤノ・ポンセ駐日外交代表を日本に送って、支援を求めた。

    明治政府はフィリピンに同情的だったが、日清戦争後で国力が弱っており、またロシアの南下が迫る中で、アメリカと事を構える余裕はなかった。それでも日本国内有志が300トンもの武器弾薬を送ったり、5人の陸軍予備役将校やフィリピン在住日本人約300人が義勇軍として、独立戦争に加担した。

    革命軍の指導者リカルテ将軍はアメリカに鎮圧されて一時、囚われの身になったが、脱獄して日本に亡命。大東亜戦争が始まるとフィリピン独立の約束を取り付けた後、日本軍とともに75歳の老躯を駆って、祖国への再上陸を果たした。1943(昭和18)年10月14日、日本軍の軍政が撤廃され、「フィリピン共和国」として独立の日を迎えたが、その後、日本軍の敗退と共に逃避行軍を続け、80歳にして亡くなった。

    リカルテ将軍の副官として永く公私の交わりを続けた太田兼四朗氏は、遺言にしたがって、遺骨の一部を第2の故郷である日本に持ち帰り、東京多摩の太田家の墓所に納めた。昭和46年には、将軍が亡命中に住んだ横浜市の山下公園に「リカルテ将軍」記念碑が建立されている。

    ラウレル大統領と大東亜共栄圏の理想

    日本軍政下からの独立は、現在のフィリピンの教科書でも「第2共和国」とされ、大統領となったホセ・ラウレルも、マラカニアン宮殿で第3代大統領として肖像画が飾られている。

    11月5日、東京で大東亜会議が開かれ、満洲国、タイ、ビルマ、インドなどの代表が集まり、ラウレル大統領もフィリピン代表として参加した。

    歓迎会に入った時、私の両眼からは涙があふれ出た。そして私は勇気づけられ、鼓舞され、自らに誓った。10億のアジア人、10億の大東亜諸民族――どうして彼らが、しかもその大部分が、特に米英に支配されてきたのか。 (バー・モー「ビルマの夜明け」より)

    大東亜共栄圏の理想をラウレルは心底から支持したが、日本の国力で英米を駆逐できるとは、信じられなかった。いずれ日本は敗退するだろうが、しかし現時点では日本から独立を与えられ、弱小国として日本と米国の狭間で、とにかく民族が生き残れるように導いていくことを自らの義務と考えた。昭和19年10月には、日本の敗戦必至と判断して、次のような遺書を書いた。

    兼ねて言う通り、日本が負け比島(フィリピン)が再び米国の制圧下に入るも、此(この)大東亜戦争の影響は必ず将来の東亜に於ける子孫に及ぼし、亜細亜人の亜細亜なる思想は、到底撲滅せらるべきものにあらず、必ず自分らの衣鉢を継いで立つものあるを確信しおれり。

    ラウレル大統領と親交を結んだのが、駐比日本大使でフィリピン派遣軍の最高顧問だった村田省蔵だった。敗色濃厚となった1945年6月、弾丸雨飛の中を村田大使に率いられて、ラウレル大統領、アキノ国会議長やその家族などは日本に亡命し、奈良ホテルに滞留した。

    戦後、ラウレルは一時米軍に逮捕されていたが、帰国して上院議員として政界に復帰し、日本との賠償会議の首席全権を務めた。この時、奇しくも日本側代表となった村田省蔵と渡り合い、ともに日比国交回復に貢献した。亡命中に滞在した奈良ホテルには、「ホセ・P・ラウレル博士―比共和国第二代大統領」と刻まれた胸像が残されている。 フィリッピンのアギナルド将軍から孫文に要請があったフィリッピン独立支援に平山周らと参加。

    布引丸事件に遭遇するが、これは中村弥六の裏切りによって起きたもの。

    (*Wikipediaでは当初、中村弥六はフィリッピン独立を援けたと記されていたが、後に削除された)

    フィリッピン独立は失敗するが、これをリカルデが引き継ぐ。

    フィリピン独立運動と日本の対応 - J-Stagehttps://www.jstage.jst.go.jp ? asianstudies ? _pdf ? -char が対スペイン武力蜂起した際、台湾総督府は蜂起直後軍務局陸軍第一課長楠瀬幸彦中佐を ... そして条約によりアギナルドは総督府側から代償金を得たうえで、独立軍幹部 ...

    近現代日本のアジア主義に関する一考察

    http://rp-kumakendai.pu-kumamoto.ac.jp ? dspace PDF 高埜健 著 ・ 2020 ? どうしてもやりたいなら、やはり進歩党議員の「背水将軍」こと中村弥六を紹介するから訪ねろ ... その中には平山周の他、近藤五郎こと原禎(台湾総督府幕僚・. 31 ページ





    日本人とインドネシア独立戦争



    インドネシア+日本義勇兵VSオランダ+大英帝国+華僑


    日本軍の敗北から1947年5月の全日本人引き揚げまでのあいだに、日本軍の死者は1078人を数え、この人数は日本軍の蘭印侵攻時の戦死255名、負傷702名を上回るものだった[4]。この死者数は、武器・弾薬譲渡をめぐる独立派からの襲撃によるもの(陸輸総局勤務の婦女子を含む70名余りの無抵抗の日本兵が殺害された)や[4][注釈 9]、連合国側の進駐軍が現地の治安確保のために日本軍部隊に出動を命じて戦闘になったこと、などによるものだった[注釈 10]。

    一方で、独立派が武器を奪っていくのを、現地日本人が見てみぬふりをする形で、穏便に解決すると同時に、旧日本軍が独立派に事実上武器を譲渡するような例もあった。

    また、日本の敗戦後、インドネシア側の武装勢力に身を投じて独立戦争に参加した日本人がいた[注釈 11]。彼らが独立戦争に参加した動機はさまざまである。

    戦前・戦中、日本が大東亜共栄圏、東亜新秩序を打ち出していたことから、

    欧米からのインドネシア解放・独立の為にインドネシアの独立戦争に参加し、インドネシア人と「共に生き、共に死す」を誓いあった者や、日本に帰国したら戦犯として裁かれることを恐れたためにインドネシアに残留した者、また日本軍政期に各地で結成された郷土防衛義勇軍[注釈 12]の教官としてインドネシア人青年の訓練にあたった者の中には、その教え子たちに請われて武装組織に参加した者もいる[注釈 13]。

    これらの「現地逃亡日本兵」の独立勢力への参加については、連合国側はきびしく禁じており、日本軍の現地指導部でも、在留日本人の引揚げに悪影響を与え、ひいては日本の国体護持や天皇の地位にまで悪影響を与えるとして、対応に苦慮した[注釈 14]。

    インドネシアの独立達成後、1958年1月20日に日本とインドネシアの平和条約、賠償協定が締結され、1960年代に日本企業のインドネシア進出が本格化する頃、両国間の橋渡しの役割を果たしたのは、これらの元日本兵たちであった[29]。

    独立戦争で命を落とした元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ、各地の英雄墓地に葬られ、戦後生き残った元日本兵も、インドネシア国籍を与えられたインドネシア人として、これらの墓地に埋葬される予定である。

    1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表し、独立戦争で特に貢献した市来龍夫と吉住留五郎に対し感謝の言葉を送った。 市来龍夫君と吉住留五郎君へ。独立は一民族のものならず全人類のものなり。1958年8月15日東京にて。スカルノ その石碑が東京青松寺に建てられている。

    1987年の訪日の際、アラムシャ第三副首相は、日本占領時に創設されたPETAでの人材育成に感謝し、連合軍に敗戦後もインドネシアに残留し独立戦争に参加した日本兵らについても語っている[30][4]。

    日本軍の軍政は良かった。…行政官の教育は徹底したものだった。原田熊吉ジャワ派遣軍司令官の熱烈な応援により、PETAが創設された。PETAは義勇軍と士官学校を合併したような機関で、38,000名の将校を養成した。兵補と警察隊も編成され、猛烈な訓練をしてくれたばかりでなく、インドネシア人が熱望する武器をすぐに供与してくれた。…(日本が連合軍に)無条件降伏した後も、多数の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加してくれた。…経験豊かでしかも勇猛果敢な日本軍将兵の参加が、独立戦争を、我々に有利な方向に導いたか計り知れない。数百年来インドネシアに住む、数百万の中国人の大部分はオランダ側に加担して、インドネシア軍に銃を向けた。 ??アラムシャ第三副首相、1987年[4]

    またスハルトは、1988年8月17日の独立記念日に、インドネシア独立に尽力した金子智一・稲嶺一郎の2名の日本人に国家最高の栄誉「ナラリア勲章(独立名誉勲章)」を授与している[31]。それ以前には、1976年に前田精、その後に高杉晋一、清水斉、小笠公詔の4名が既に受章していた。

    「インドネシアと日本軍政」についての研究は[注釈 15]、1950年代から欧米諸国ではじめられ、日本軍政がインドネシア社会に大きな政治的インパクトを与え、現地のナショナリズムを刺激し、脱植民地化を加速させたとの評価が一般的となった[32]。

    ジョージ・S・カナヘレは著書『日本軍政とインドネシア独立』の中で、「日本軍政は、インドネシア語の公用化を徹底させたが、このことを通し、インドネシアは国民的自覚の連帯意識を強化せしめることができた」とし、以下のように分析している[33][4]。

    日本軍政は、オランダ時代には知らなかった広い地域の大衆をインドネシアという国家形態に組織した。…日本軍政は、ジャワ、バリ、スマトラに、現地人による常備軍(ペタ)を設けて訓練した。オランダ復帰に抵抗して闘ったこの革命軍将校と数万の兵士の組織と訓練、そして日本軍があたえた大量の兵器なしに、インドネシア革命はあり得なかった。

    ??ジョージ・S・カナヘレ『日本軍政とインドネシア独立』[4] インドネシア独立戦争を題材とした作品 『ゲリラの家族 Keluarga Gerilya 』 - インドネシアの作家、プラムディヤ・アナンタ・トゥールの長編小説。独立戦争下のジャワで生きる庶民の姿を描いた作品[34]。

    『ムルデカ17805』 - インドネシア独立戦争に参加した日本兵を描いた日本・インドネシア合作映画。藤由紀夫監督。2001年に制作され、日本とインドネシアの両国で上映された。 脚注

    Wikipedia 検索 個人用ツール インドネシア独立戦争





    戦争で動員された看護婦 昭和12(1937)年に日中戦争が始まり、昭和16(1941)年には真珠湾攻撃を皮切りに、太平洋戦争に突入した。戦争は思った以上に長引き、日本は防衛しきれないほどに戦線を拡大した。政府は昭和20(1945)年に敗戦するまでの間、あらゆる手立てを講じて、国民を動員し、戦争を遂行しようとした。 看護にも多大な協力が求められた。日赤の看護婦しか記録は残っていないが、延べ3万3,156人が動員された。そのほとんどが10〜20代の女性であった。戦時救護を主たる目的とする日赤の看護婦が動員されるのは当然であったが、それだけでは不足したため日赤以外の養成所を卒業した看護婦も、果ては高等女学校の卒業生や生徒までもが動員された。その正確な人数はわからない。 満州事変時、実際の戦闘場面ではなく、軍隊との共同訓練を撮影したものと思われる(1931年9月)。Bundesarchiv, Bild 102-12301 / CC-BY-SA 3.0 看護婦の派遣地 図1は昭和20(1945)年時点における日本赤十字社救護班の派遣先である。北は樺太から南はジャワまで、また東はニューブリテン島(現在のパプアニューギニア)のラバウル、西はビルマ(現ミャンマー)までと広い範囲にわたった。内地が666個班と最も多く、続いて中華民国の114個班、満州の55個班であった。 ? 図1 救護班の派遣状況(数字は班数/1945年時点) 当時の軍隊においては、前線で傷病兵が発生した場合、まず隊付の包帯所で応急処置が行われ、必要に応じて前線の野戦病院から中間施設である兵站(へいたん)病院、最後方の陸軍病院に送られた。傷病兵はなるべく前線の野戦病院で回復させ、原隊復帰させるが、それが難しい場合には兵站病院、さらに特殊な治療が必要な場合は陸軍病院に送られるシステムになっていた。 看護婦には、日赤の看護婦、陸海軍の看護婦、そして軍隊に属さず、個人や集団で救護に参加した看護婦もいた。看護婦は女性であるため、特別に認められた場合を除いては前線では勤務しないことになっていた。日赤の看護婦は原則として兵站病院までの衛生施設で勤務すること、陸海軍の看護婦は後方の陸海軍病院で勤務することが定められていた。それより前線に設けられる野戦病院は軍の衛生部隊が担当した。 戦況が有利に働いている間は、看護婦は比較的安全に活動できた。しかし後方であっても決して安全とは言えなかった。満州の一部の地域では、日本軍に抵抗する現地民による来襲があり、看護婦は病院の外には出られなかった。南方のフィリピンやビルマにおいては、日本軍が侵攻した当初から連合軍による空爆が行われていた。戦況が悪化するにつれ病院も爆撃の対象となり、看護婦は患者とともに防空壕や洞窟へ避難する日々が続いた。最後は看護婦も敗残兵とともに飢餓とマラリアに苦しみながら、ジャングルのなか白骨街道を行軍した。 国内でも敗戦が近づくにつれ陸海軍病院が空襲による被害を受けた。避難中の防空壕が爆撃を受け、全員が死亡した救護班がある。沖縄戦では戦闘の真っ只中に、ひめゆり学徒隊などが動員され、多数の犠牲者を出した。広島や長崎に投下された原爆で亡くなった看護婦や看護婦生徒もいた。 動員のための方略 戦時における看護の需要を満たすため、多くの若い女性が看護婦として動員された。それまで日本赤十字社が準備する救護班の数は、陸海軍との協議によって決められていた。救護班は、班長である医師1名、救護看護婦長1、救護看護婦20名、書記、使丁各1名で構成された。ただし戦中は医師不足のため、班長は書記もしくは救護看護婦長が務めた。他に病院船、病院列車のための救護班組織があり、それぞれ人数構成は異なった。 昭和12(1937)年の日中戦争開始時における日赤救護班の準備数は117個班であった。その後、戦時の需要に応じてつぎつぎと救護班を編成することになり、最終的にはその数は960個班に達した。なんと当初の準備数の8倍以上を編成して派遣したことになる。 看護婦の不足を補うために日赤が採った方略はいくかある。まず従来の救護看護婦を「甲種」救護看護婦とし、新たに「乙種」救護看護婦と「臨時」救護看護婦を設けた。甲種救護看護婦は、高等女学校を卒業した年齢17歳以上25歳までの者を生徒の採用条件とし、3年間の教育課程を修了した者とした。 ? 救護員は、日本赤十字社より救護班編成の通知を受けた支部から写真のような召集状を受け取り、国内をはじめ中国大陸、東南アジア、南太平洋諸島などの軍病院、病院船などに派遣された(日本赤十字看護大学蔵)。 新たに導入された乙種救護看護婦は、高等小学校卒業または高等女学校2年以上の課程を修了した年齢14歳以上20歳までの者を生徒の採用条件とし、2年の教育課程を修了した者とした。臨時救護看護婦は、日赤以外の養成所を卒業した後、日赤病院で3か月の講習を受けた者とした。看護婦不足を補うために救護看護婦生徒の就学期間の短縮(甲種3年課程を2年で実施)や繰り上げ卒業も行われた。 内地の陸軍病院や海軍病院によって採用された者は、陸軍看護婦、海軍看護婦と呼ばれた。これらの軍病院にはさまざまな養成所を卒業した看護婦が採用され、勤務したと考えられる。彼女たちは転属というかたちで外地の軍病院にも派遣された。海軍では大正8(1919)年から海軍看護婦の養成を行っており、陸軍も戦争末期の昭和19(1944)年10月より陸軍看護婦の養成を開始した。 卒業した看護婦が次々と動員されたため、国内の病院においては看護婦生徒が主力となり看護を担っていた。それでも看護婦は不足し、昭和18(1943)年には一定以上看護を学んだ高等女学校卒業生に、無試験で看護婦免許を与えることにした。このなかに戦場となった沖縄の那覇女子師範女学校と第一高等女学校の卒業生がいる。彼女らはひめゆり学徒隊として動員され、多くが戦死あるいは自決に追い込まれた。 戦時における急激な医療の需要は、看護の質の明らかな低下をもたらした。看護婦はやがて、若くて経験が少ない者ばかりとなった。 日支事変に際し、神社の祠の前で出発の水杯を交わす第2救護班要員。現在の日本赤十字社医療センター(渋谷区広尾)にあった看護婦教養所の屋上にて。(1937年8月、日本赤十字看護大学蔵) ● ● > ? 川原 由佳里 かわはら・ゆかり 日本赤十字看護大学准教授。1998年日本赤十字看護大学大学院看護学研究科博士後期課程修了、博士号(看護学)取得。2011年國學院大學大学院文学研究科博士後期課程修了、博士号(歴史学)取得。著書(共著)に、第二次大戦で救護活動を行った看護婦(当時)の体験を記録した『戦争と看護婦』(2016年、国書刊行会)などがある。

    【日本軍兵士】日本人犠牲者310万人、アジア・太平洋戦争の真実 2019/8/13 まるで預言者のように、今を生きる上で知っておくべき重要な真実を紹介する連載「The Prophet」。 今回登場するのは、『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)がロングセラーを続ける一橋大学大学院特任教授、吉田裕氏だ。 日本近現代政治史、日本近現代軍事史の専門家である吉田氏は、膨大な資料に基づき、「兵士の目線・立ち位置」から、無残なアジア・太平洋戦争の現実に迫った。 日本人死者は、310万人(軍人・軍属が230万人、民間人が80万人)に達し、その9割が1944年以降の戦争末期に集中して亡くなったと推算される。 そのほとんどは戦闘で「名誉の戦死」をしたのではない。30万人を超える海没死、異常に高い餓死・戦病死、そして特攻──。 なぜ日本軍は、このような形での大量の無残な死を招いてしまったのか。 終戦記念日を前に、3日連続で、英霊たちが体験した壮絶な現実に思いを馳せたい。 吉田 裕(よしだ・ゆたか)/ 一橋大学大学院社会学研究科特任教授 1954(昭和29)年生まれ。77年東京教育大学文学部卒。83年一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。83年一橋大学社会学部助手、助教授を経て、96年より一橋大学社会学部教授。2000年より一橋大学院社会学研究科教授。08年より現職。専攻・日本近現代軍事史。日本近現代政治史。著書『日本軍兵士──アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)、『現代歴史学と軍事史研究』(校倉書房)、『兵士たちの戦後史』(岩波書店)など多数。 縦割り組織の弊害 ──吉田さんは著書『日本軍兵士』で、310万人に及ぶアジア・太平洋戦争の日本人の戦没者の9割以上が1944年以降の「絶望的抗戦期」に集中している、と指摘しています。なぜ、大本営など意思決定者は、無謀な戦争を長引かせ、大量の戦没者を出してしまったのでしょうか。 吉田 理由は大きく2つあります。





    女子挺身隊(じょしていしんたい)

    は、大日本帝国が第二次世界大戦中に創設した勤労奉仕団体のひとつで、主に未婚女性によって構成されていた。戦時日本の労働力が逼迫する中で、強制的に職場を配置換えする国家総動員法下の国民総動員体制の補助として行われ、工場などでの勤労労働に従事した[1]。1944年8月の女子挺身勤労令によって12歳?40歳の内地(日本)の女性が動員された[2]。日本統治下の朝鮮の女性への適用は検討されたが、適用されることはなかった[2]。1945年の国民勤労動員令によって女子挺身隊は国民義勇隊として改組され、消滅した。

    名称

    女子挺身隊は女子勤労挺身隊、略して挺身隊ともいう[3]。

    日本統治下の朝鮮での官斡旋の募集による挺身隊は朝鮮女子勤勞挺身隊(ko:?????????)または半島女子勤労挺身隊とも呼ばれた[3]。 「挺身隊」という表現

    挺身という言葉は「自ら進み出ること、自分の身を投げ出して物事をすること」を指し[4]、挺身隊とは「任務を遂行するために身を投げうって物事をする組織」のことである[5]。この挺身隊という表現の使用例としては、

    1922年4月23日-5月11日の大阪時事新報で連載された「人物伝記張作霖(六)」で「日本軍の別働隊となり、蒙古の地域に進出して、我挺身隊を助けた功労は少くなかった」[6]。 1933年8.13-9.3の大阪朝日新聞「報道権本社独占熱河探検記」では「さながら学術の挺身隊が科学の…」という表現[7]

    同年11.28-12.7の大阪時事新報記事「誂え向の大連 一衣帯水の北支へ― 条件すべて“O・K” ジャンク貿易」では「貿易『挺身隊』なる面目」「海の挺身隊」という表現[8] 1933年(昭和8年)内務省警保局の資料では「救国埼玉青年挺身隊事件」という用例[9] 1935年(昭和10年)2月26日の神戸新聞では「ボルネオの処女密林めざし伐材挺身隊出発」記事が掲載[10]、1941年5月30日大阪毎日新聞には「農業報国挺身隊」[11]

    これらのほか「独挺身隊米本土に潜入」としてドイツの「挺身隊」という表現もあった[12]。 尹明淑は「挺身隊という用語は、男女の区別なく用いられ、特定団体を示す語ではなかった。」としている[13]。朝鮮での「挺身隊」の初出は毎日新報1940年11月13日の農村挺身隊結成記事とされる[13]。このほか婦人農業挺身隊、医師や看護婦を対象にした仁術報国挺身隊、漁業挺身隊、文化、商工、報道、運輸、金融、産業などの32団体で結成された半島功報挺身隊など様々な動員に対する呼称表現が使用されていた[13]。朝鮮(韓国)では、未婚女性を挺身隊として勤労動員することは、「処女供出」とも呼ばれた。尹明淑によれば朝鮮語の「処女」とは未婚女性や若い女性を指す総称であるという[14]

    こうした「挺身隊」という表現を女性を対象とした動員に正式に適用された「女子挺身隊」が日本内地で結成されたのは1944年8月の女子挺身勤労令においてである。それ以前には1941年の国民勤労報国協力令で「勤労報国隊」が結成され[15]、1943年9月13日の次官会議「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」において「女子勤労挺身隊」が自主的に結成されるようになった[3]。

    朝鮮では官斡旋による募集はあったが、女子挺身勤労令が正式に発令されることはなかった[2]。

    挺身隊と慰安婦

    日本統治下の朝鮮では「挺身隊になると慰安婦にされる」という噂 が広まっていた[16][17][13]。また韓国では朝鮮戦争時の韓国軍慰安婦を「挺身隊」と呼んだ[18]。

    さらに1960年代の朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』や塩田庄兵衛などの著作をはじめ[19]、日本や韓国で挺身隊を「慰安婦」と同一視し、混同することが繰り返された[16][17][20][13]。韓国では慰安婦を挺身隊と呼ぶことが一般に定着している[20][21][13]

    。 背景

    女性部隊だったイギリス陸軍補助地方義勇軍(ATS)のポスター

    テレタイプ端末を操作するアメリカ合衆国婦人陸軍部隊(WAC)

    女性の戦時動員

    「動員」、「総力戦」、および「国家総動員法」を参照

    第一次世界大戦では資源、人員が大量に消費されるようになり、第二次世界大戦では国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる国家総力戦が本格的に各国で展開した。国家総力戦となった第二次世界大戦において、アメリカ・イギリスなどの連合国は日本に先んじて既に女性を軍需工場などに動員していた[22]。日本も戦局の悪化で徴兵が拡大して男性労働力が不足すると女性の労働力を無視できなくなり、昭和18年10月6日の『写真週報』では連合国の女性勤労写真を引用して「敵アメリカの女さへこんなに動員されている」と紹介するまでに至った[23]。

    また、女性は後方支援だけでなく、兵士として前線に立つ場合もあった[24]。イギリスでは、第一次世界大戦時の1917年に志願陸軍婦人部隊 (Women’s Army Auxiliary Corps,WAAC)が、1918年には王立婦人空軍が編制された。1938年にはイギリス軍予備役の国防義勇軍や婦人軍(Women's Legion)などに所属していた女性兵士を集合して新たに補助地方義勇軍(Auxiliary Territorial Service, ATS)として設立し、飛翔体計測装置・射撃管制装置で計測を行い、高射砲による防空任務にあたった。当時10代後半であったイギリス王族のエリザベス2世(現イギリス連邦王国女王)は女性兵士として補助地方義勇軍}に入隊し軍車両の整備などイギリス軍の後方支援を行っている。1939年には婦人補助空軍(Women's Auxiliary Air Force,WAAF)が組織された[24]。戦後1949年に王立婦人陸軍(?1992年)、王立婦人空軍(?1994年)が編制された。

    アメリカ合衆国でも1942年に婦人陸軍部隊(Women's Army Corps, WAC)や海軍婦人義勇部隊(Women’s Accepted for Volunteer Emergency Service、WAVES)などが編制された[24]。

    このほか、ロシアでも第一次世界大戦時には婦人志願兵の募集が組織的に行われた[24]。ソ連でも第46親衛夜間爆撃航空連隊が女性空軍部隊として活躍した。

    ドイツ、デンマーク、ノルウェー、フィンランドなどでも女性兵の活躍があった[24]。

    中国では1911年の辛亥革命の際に、女子北伐敢死隊などの女子軍が組織され、1926年からは武漢中央軍事政治学校で女生隊が組織された[25]。

    沿革

    日本で戦時動員は1938年に国家総動員法が制定されてから本格的にはじまった[3]。1939年(昭和14年)7月、国民徴用令施行。7月4日に閣議決定された「昭和十四年度労務動員実施計画綱領」では「女子無業者」や新規小学校卒業者、移住朝鮮人(在日朝鮮人)などを「給源」と書かれた[26][27][3]。

    勤労報国隊の結成

    1941年(昭和16年)9月の「昭和十六年度労務動員実施計画ニ関スル件」では、未婚女子の動員を強化すると定められた[3]。11月22日に公布された国民勤労報国協力令では14-40歳の男子以外に、14歳以上25歳未満の独身女性を対象とした勤労報国隊が編成され、原則年間30日の奉仕が要求された[15]。太平洋戦争開戦後、国民徴用令が実施されたが、女性への適用は見送られた[3]。

    女子勤労挺身隊の結成

    1943年(昭和18年)6月、国民勤労報国協力令が改正されると勤労報国隊は常時組織化され、無職の未婚女子に対して3-6ヶ月の勤労奉仕を要求した(強制力なし)[3]。7月には厚生省や大政翼賛会中央協力会議では女子徴用論がおこったが、実現はされなかった[3]。

    9月13日、次官会議「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」において14歳以上の未婚者女性を動員の対象とし、女子勤労挺身隊が自主的に結成されるようになった[3]。航空工場・政府作業庁・男子の就業が制限されている分野(たとえば、保母(現・保育士)や看護婦(現・看護師))などで女性の就業拡大を図った[3]。新規女学校卒業者は同窓会単位、その他の女性は部落会、婦人会単位で工場に出動させるもので、これは「徴用=強制によらずに女子勤労挺身隊の名で自主的な女子の動員」が図られたものであった[3]。

    10月6日、厚生省は「無業の一般女子はなるべく挺身隊に出動すること」を地方長官宛に養成した[3]。

    10月中旬、女子学習院同窓生が「常盤会勤労挺身隊」を結成し、最初の女子勤労挺身隊が結成された[3]。最初に動員されたのは山脇高女卒業生挺身隊であり小西六(コニカ)に入社した[3]。大阪では11月30日に挺身隊が動員された[3]。

    朝鮮でも総督府機関紙毎日新報が「有閑女子積極動員」などと報道するようになり[28]、内地とおなじく女学校出身者のうち家事従事者を「実業方面」へ動員することなどが考えられていると報じられた[3]。

    11月24日、厚生省は学校単位で女子勤労挺身隊が結成させると発表した[3]。

    1944年1月23日、東條英機首相は「余裕のある女性の勤労逃れは許されない」と発言するとともに「女性の徴用を行わない」と発言した[3]。写真週報2月23日号では東條発言を引用して「その信頼と親心にあなた方は背いてはならない」と説明された[3]

    朝鮮総督府は1943年12月には労務課を設置し、「女子も決戦態勢で増産戦士として工場で働かせる」方針を決定し、1944年(昭和19年)1月17日、京城府龍山で女子挺身隊または「特別女子青年挺身隊」が結成されたが、これは勤労挺身隊ではなかったとされる[3]。

    1944年(昭和19年)2月、国民職業能力申告令の改正によって12歳以上が労働力とみなされるようになる。当時の義務教育は初等教育の小学6年までで、その後の就職はよくあることであった。

    1944年3月18日、閣議は女子挺身隊制度強化方策要綱[29]を決定し、校長や女子青年団長、婦人会長によって挺身隊結成を強化することが確認された[3]。労働省は「必要に応じ挺身隊組織により必要業務に協力すべきことを命じ得ることとした[3]。

    1944年3月20日、朝鮮で平壌女子勤労挺身隊が軍需工場に2ヶ月間の期間限定で出動した[3]。なお、朝鮮ではそれまでも、官斡旋の「女子(勤勞)挺身隊」が徴募されている。

    1944年4月 には、朝鮮の慶尚南道隊100名が初めて日本(内地)に派遣され、静岡の東麻沼津工場に出動した[3]。

    1944年8月8日、内地に限定されていた国民徴用令が免除されていた外地の朝鮮の男子にも適用するとする「半島人労務者ノ移入ニ関スル件」の閣議決定がなされた[30]。

    女子挺身勤労令発令

    1944年8月22日、日本内地において12歳から40歳までの日本人未婚女子を対象に[31]軍需工場などへ強制動員する勅令第519号「女子挺身勤労令」が公布され[32]、即日施行された[3]。学徒動員令も同時施行された(中等学校二年以上)[33]。この法令によって12歳から40歳までの女性によってなる女子挺身隊は、勤労奉仕(雇用関係無し)から集団就職(雇用関係有り)という形に移行し、健康保険法や厚生年金保険法などの法定扶助を受けることができることとなった[34]。写真週報1944年9月13日号には「これまで上流階級に多いなどといわれていたいわゆる挺身隊のがれ」を「一掃」すると書かれ、さらに「適格者と認めた者に挺身勤労令書を交付する。これは男子の徴用令書と同様であり」、出動しない者があれば就業命令が発動され、違反した場合は国家総動員法によって1年以下の懲役また千円以下の罰金が処せられると書かれ、これは初めての罰則規定であった[3]。

    1944年8月26、27日の毎日新報では女子挺身勤労令が朝鮮でも実施されると報道された[3]。

    朝鮮では1944年9月に国民徴用令が女子を除いて施行されたが[35]、1944年10月に朝鮮総督府が「国民徴用の解説」で女子挺身勤労令を発動しないと答弁し、朝鮮で女子挺身勤労令が発令されることはなかった[2]。

    1945年3月には同令が国民勤労動員令によって吸収され、女子挺身隊も国民義勇隊として改組された。





    ああ、堂々の輸送船
    輸送船推定、1941年保有650万トン、開戦3年目に年、0!!に。南方からの資源輸送にも前線への兵器の輸送に絶望的な状況で開戦に踏み切った。

    輸送船を作っても作っても、米海軍に撃沈され、輸送船推定、1941,650万トン、開戦3年目に年、0!!にという予測。ああ、堂々の輸送船 これらを総合すると開戦するなら早期開戦しか道はなかった。1941年末までが条件だった。



    〇 日本商船隊壊滅の背景と要因

     予想をはるかに上回り、わが国の商船を中心とする輸送船団が崩壊していった背景と要因には、米国とわが国(海軍)の海上輸送の護衛に対する、180度異なる考えと対応があったと言われている。  米国は、勝利への道が日本の海上輸送路を破壊することだと考え、開戦前からそのための対策を十分に整えていた。

     これに対しわが国海軍は、日露戦争以来、伝統としてきた大艦巨砲主義の艦隊決戦を作戦の中心にし、輸送船の護衛には殆ど目を向けていなかった。

    1 米国は開戦に備え、自国輸送船団護衛のために巡洋艦、駆逐艦、空母などからなる約200隻を超える艦船を準備していた。

    また、日本商船攻撃のための潜水艦も備え、真珠湾奇襲攻撃の3時間後には、51隻の潜水艦を西太平洋全域に配備し、民間商船も総べて攻撃の対象とする 「無制限潜水艦作戦」 の実施を大統領は命令している。 なお、これ等潜水艦はその後200隻に増え、西南太平洋全域で思うままにわが国商船や漁船、機帆船を攻撃し撃沈している。

    2 これに対してわが国海軍は、開戦時輸送船を護衛する海防艦は僅か4隻という、無きに等しい実態であった。

    このような中で、陸海軍の作戦行動に参加した徴用船は海軍の艦船によって護衛されたが、資源の輸送に当たった輸送船は護衛のない単独輸送を強いられた。 その後、輸送は船団方式を取り入れ、護衛船を付けることにしたが、護衛船は緊急建造の海防艦か水雷艇程度で、これは米国潜水艦の敵ではなかった。

    3 米国潜水艦の攻撃戦法に 「狼群作戦」 と言うのがある。 この戦法は、数隻の潜水艦が同時に船団を襲撃するというものである。敵は先ず護衛艦を標的にし、これを撃沈し船団の行動が乱れて輸送船がバラバラになった後、敵潜は次々に無防備の輸送船を攻撃し撃沈する、という戦法である。

    ミッドウェー海戦の敗北で、制海・制空権を敵に奪われ、航空機から敵潜を発見し攻撃するという 「電波兵器」 の開発が遅れた日本軍は、敵潜を攻撃撃沈することが殆どできず、無残にもわが国輸送船団は敵潜の思うがままに次々と撃沈されていった。 また、戦争の半ばからは、空母や奪還された南方基地から発進する敵航空機によって、商船はもとより機帆船や漁船が攻撃され、撃沈されていった。







    岩本徹三 日本 大日本帝国海軍 202(単独80機以上) 「零戦虎徹」。202機は本人の手記による。この他中国戦線で14機を撃墜。戦果の大半はラバウルで、4発重爆を含む確実141機を報告している。

    西沢広義 日本 大日本帝国海軍 143 (単独87機とも36機とも) 数字は公認記録。通称「ラバウルの魔王」。

    福本繁夫 日本 大日本帝国海軍 72

    杉田庄一 日本 大日本帝国海軍 70 通称「闘魂の塊」。 「海軍甲事件」における6機の護衛戦闘機搭乗員のひとり。

    奥村武雄 日本 大日本帝国海軍 54

    大原亮治 日本 大日本帝国海軍 48

    藤田怡与蔵 日本 大日本帝国海軍 39 ミッドウェイ海戦において一日で10機を撃墜した記録を持つ。

    太田敏夫 日本 大日本帝国海軍 34

    杉野計雄 日本 大日本帝国海軍 32

    武藤金義 日本 大日本帝国海軍 30 通称「空の宮本武蔵」。愛称は「ムトキンさん」

    。 坂井三郎 日本 大日本帝国海軍 28 数字は公認記録。アメリカで出版された「SAMURAI」の共同著者が宮本武蔵の故事から創作した64の撃墜数も知られている。坂井自身は20機から80機ぐらいと答えている。

    笹井醇一 日本 大日本帝国海軍 27 数字は公認記録。共同撃墜は187機。通称「軍鶏」「ラバウルの貴公子」「ラバウルのリヒトホーフェン」。戦死直前に実家に宛てて送った手紙の中では54機撃墜と記す。

    赤松貞明 日本 大日本帝国海軍 27 愛称「松ちゃん」。酒に酔った際には「350機墜とした」、素面の時は「260機墜とした」と言い続けた。

    荻谷信男 日本 大日本帝国海軍 26

    菅野直 日本 大日本帝国海軍 25 通称「ブルドッグ」。協同戦果や撃破を含めた数は72機。

    伊藤清 日本 大日本帝国海軍 23

    岩井勉 日本 大日本帝国海軍 22 重慶での零戦初空戦に参加。通称「ゼロファイターゴッド」。

    日高義巳 日本 大日本帝国海軍 20 「海軍甲事件」における6機の護衛戦闘機搭乗員のひとり。

    羽藤一志 日本 大日本帝国海軍 19 通称「ポッポ」。

    松場秋夫 日本 大日本帝国海軍 18

    小町定 日本 大日本帝国海軍 18 32機撃墜説あり。

    谷水竹雄 日本 大日本帝国海軍 18 「アメリカ軍機の国籍標識に矢」という撃墜マークで戦後有名に。実際の撃墜数は32機ともいわれる。

    塩川照成 日本 大日本帝国海軍 18 被撃墜2回、生還

    。 本田稔 日本 大日本帝国海軍 17 2021年没

    増山正男 日本 大日本帝国海軍 17

    甲木清実 日本 大日本帝国海軍 16 水上機で体当たり1機を含む5機〜7機を撃墜。零観、二式水戦など多くの機種を乗りこなした。

    宮野善治郎 日本 大日本帝国海軍 16

    渡辺秀夫 日本 大日本帝国海軍 16

    南義美 日本 大日本帝国海軍 15

    遠藤桝秋 日本 大日本帝国海軍 14

    羽切松雄 日本 大日本帝国海軍 13 通称「ヒゲの羽切」。

    古賀清澄 日本 大日本帝国海軍 13 海軍航空隊最初のエース・パイロット。

    樫村寛一 日本 大日本帝国海軍 13 「片翼帰還の樫村」の二つ名で有名。公認記録は10機。

    小高登貫 日本 大日本帝国海軍 13 通称「トッカン兵曹」。協同撃墜を含めた総合戦果は105機といわれる。

    半田亘理 日本 大日本帝国海軍 13

    宮崎勇 日本 大日本帝国海軍 13

    磯崎千利 日本 大日本帝国海軍 12

    角田和男 日本 大日本帝国海軍 12 他に日中戦争で1機。 佐々木原正夫 日本 大日本帝国海軍 12 日高初男 日本 大日本帝国海軍 11

    山下小四郎 日本 大日本帝国海軍 11 重慶における零戦初空戦において一挙5機を撃墜。

    山本一郎 日本 大日本帝国海軍 11

    相生高秀 日本 大日本帝国海軍 10

    笠井智一 日本 大日本帝国海軍 10 杉田庄一の僚機を務めていたことでも知られる。2021年没

    望月勇 日本 大日本帝国海軍 10 空中戦における「ひねりこみ戦法」の開発者。

    森貢 日本 大日本帝国海軍 9+

    白根斐夫 日本 大日本帝国海軍 9 白根竹介の息子。 小田喜一 日本 大日本帝国海軍 9

    原田要 日本 大日本帝国海軍 9

    福井義男 日本 大日本帝国海軍 9 日中戦争では2機撃墜。

    柳谷謙治 日本 大日本帝国海軍 8 「海軍甲事件」における6機の護衛戦闘機搭乗員のうち、唯一終戦まで生き残った。

    蝶野仁郎 日本 大日本帝国海軍 7

    鴛淵孝 日本 大日本帝国海軍 6

    黒鳥四朗 日本 大日本帝国海軍 6 撃墜は全てB-29である。昭和20年5月25日、一夜にしてB-29を5機撃墜。

    柿本円次 日本 大日本帝国海軍 5 開戦後豪州軍の捕虜となり、カウラ事件指導者の一人となる。

    兼子正 日本 大日本帝国海軍 5 日中戦争での撃墜数を含めれば生涯撃墜数14機。

    鈴木實 日本 大日本帝国海軍 5 日中戦争でも3機を撃墜。

    森岡寛 日本 大日本帝国海軍 5 「義手の撃墜王」 。本土防空戦で左手を失うも義手を装着し戦闘に復帰。1945年8月15日に5機目の撃墜戦果を挙げ、海軍最後の撃墜王となった。

    林喜重 日本 大日本帝国海軍 5









    岩本 徹三(いわもと てつぞう、

    1916年6月14日 - 1955年5月20日)は、日本海軍の軍人。支那事変、太平洋戦争における撃墜王。最終階級は海軍中尉。

    経歴

    1916年(大正5年)6月14日、樺太の国境近くで警察官の父親の元に三男一女の兄弟の三男として生まれた[1]。[注釈 1]小学生の頃、父親が北海道札幌市の署長に転勤し、スキーで登校することもあった。13歳のとき、父親が退官して父の故郷である島根県益田へ移る。

    県立益田農林学校高等科2年に転入する。

    数学と幾何は優で、学校のクラブ活動ではラッパ隊に入部した。趣味は読書と園芸であった。幼少時から腕白ですばしっこく勉強より体を動かすことを好み、地引網で魚の群れを追い込む浜辺の漁師を手伝ったりする反面、一本気の頑固な正義感の持ち主で教師を辟易させることもあった。魚突きをして捕らえることが得意であった。1935年益田農林学校を卒業後、「若いときは勉強のため大学受験し、大学卒業後都会からもどらないつもりの長男や亡くなった次男の代わりに、

    家に残ってほしい」という父親の意に反して、大学受験と偽って海軍の志願兵試験(予科練習生予定者)を受験して合格、航空科を選択する。海兵団に入団する際に「自分は三男に生まれたのだから、お国のためにこの命を捧げます。」と両親に告げた。

    1934年(昭和9年)6月1日、呉海兵団に四等航空兵として入団。1934年11月15日三等航空兵。1935年第31期普通科整備術練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。同年8月20日三等整備兵、航空母艦龍驤の艦上整備員。同年11月2日二等整備兵。次いで操縦員を志望して認められ、1936年(昭和11年)4月28日、第34期操縦練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。射撃の成績が抜群であり、

    自習にも励み、消灯のあとでも教本を持って外に出て街灯の光でおそくまで勉強したこともあった。霞ヶ浦友部分遣隊では、大宅秀平、磯崎千利たちから教えを受けていた。1936年12月26日第34期操縦練習生卒業、一等航空兵、佐伯海軍航空隊勤務。1937年6月1日普通善行章一線付与。1937年7月大村航空隊勤務。

    支那事変

    1937年8月に勃発した支那事変のため、1938年2月第十三航空隊付となり、黒岩利雄一空曹に率いられて南京に着任した。同航空隊の田中国義は「あの頃はすごいパイロットがそろっていた。先任搭乗員黒岩利雄、次席が赤松貞明、3席が虎熊正。私や武藤金義、あとから来た岩本徹三なんか食卓番ですよ。この頃の古い人たちはそれぞれ操縦もうまく名人ぞろいだった」と回想している。

    1938年2月25日、岩本の初陣となる南昌空襲に出撃。岩本の所属は一中隊(田熊繁雄大尉指揮)三小隊で、一番機 黒岩利雄一空曹、二番機楠次郎吉二空曹、三番機が岩本だった。岩本の戦果は、I-15 4機(うち1機不確実)、I-16 1機撃墜という目覚しい戦果をあげた[2]。1938年4月30日、漢口空襲につき所属部隊に感状授与。1938年5月1日三等航空兵曹。岩本は支那事変において半年の間に日本軍最多数撃墜数14機を公認されている。

    1939年11月1日善行章第二線付与、二等航空兵曹。1940年(昭和15年)に支那事変の論功行賞で生存者金鵄勲章の最後となる叙勲申請の栄誉をうけ、1942年(昭和17年)8月1日感状の授与、また勲七等に叙され、功5級金鵄勲章(下士官の生存者のうち武功抜群相当)を叙勲された。[注釈 2]

    大東亜戦争

    空母「瑞鶴」

    1940年4月連合艦隊第1艦隊所属第1航空戦隊、「龍驤」で艦隊訓練を開始、予備艦になって整備中だった「龍驤」を使っての母艦訓練に参加した。訓練内容は、離艦・着艦、母艦へ夜間着艦訓練、編隊空戦の連携訓練、洋上航法、夜間航法、無線兵器の電信での母艦との通信連絡および電波航法(フェアチャイルド社製クルシー方位探知機での)による帰投などであった。[注釈 3]

    詳細は「第一航空艦隊」を参照

    1941年(昭和16年)4月第1航空艦隊(1航艦)創設にともない、岩本たちは前年度からの母艦「龍驤」での訓練で選抜された中堅搭乗員として、第1航空艦隊所属の第3航空戦隊である「瑞鳳」戦闘機隊に配属。1941年5月1日海軍一等航空兵曹(6月1日海軍一等飛行兵曹に改称)。1941年秋、最新型の高速大型空母「翔鶴」、「瑞鶴」が就役し、第5航空戦隊が創設された。10月4日、3航戦の岩本たち瑞鳳戦闘機隊隊員たちは第5航戦に編入し、二手に分かれて「瑞鶴」および「翔鶴」に着任した。 一航艦は日米開戦の劈頭に行う真珠湾攻撃のために極秘で準備されていたが、岩本たち下級搭乗員は知らされないまま、九州各基地に搭乗機種、艦ごとに集合して、当時世界3大海軍国の米国、英国を飛行技量でしのぐ最高の艦隊搭乗員実力を目指して連日、日夜激しい訓練がつづけられていた。岩本の回想録には、以後の太平洋戦線での様々な実戦局面で、幸運や勘ではなく、この時期に艦隊戦闘機隊訓練で体得した技術を洋上、夜間の飛行操縦術へ科学的に応用活用し、確率を上げて生き抜いた描写が記述されている。

    1941年12月大東亜戦争開戦。劈頭の真珠湾奇襲作戦に参加。第一航空艦隊所属の航空母艦「瑞鶴」戦闘機隊員[3]で、真珠湾攻撃時は艦隊の上空直衛任務に就き戦果はなかった。1941年12月24日感状授与。

    1942年4月インド洋作戦で4月5日機動部隊に接触してきたコンソリーデーテッドPBY飛行艇を撃墜し、太平洋戦争における岩本の初撃墜の戦果を得た。

    詳細は「珊瑚海海戦」を参照 1942年5月MO作戦のため、5航戦は一航艦から第4艦隊指揮下に入り、珊瑚海海戦に「瑞鶴」上空直掩で参加。1942年5月8日、瑞鶴の岩本の瑞鶴直衛隊の戦闘機3機と翔鶴隊3機は上空警戒に上がっていたものの、残りの13機は事前に偵察機から「敵三十機味方主力方向に向かう」との報告を受けながら至近距離までせまってから緊急発艦であり、艦隊の邀撃体勢は後手となった。先行して上がっていた岩本小隊3機は、高度7500メートルで、30キロメートル先の米攻撃隊を発見し、優位の高度からウォーレス・C・ショート大尉率いる17機に攻撃をかけて米軍急降下爆撃機 を攻撃して投弾を妨害した。ショート大尉は「急降下前、急降下中、引き起こし後、いたるところで零戦の妨害にあった」と報告している。この攻撃で低空に下がった岩本小隊は、上昇中に瑞鶴後方で味方戦闘機を攻撃中の米F4F戦闘機隊を発見し、これに対して攻撃を加え岩本は1機を撃墜した。岩本隊はこの戦闘後、敵の攻撃を避けるためスコールへ退避中で激しくゆれる瑞鶴に着艦し補給を行った。

    米軍の第二次攻撃迎撃の為に他の小隊と共に発艦し、岩本隊他は概ね高度6500メートルまで上昇の後、母艦から4.50キロメートルの海域で、高度5000メートルを飛行中のレキシントンからのF4F戦闘機に護衛されたSBD爆撃機を捕捉した。このうち岩本らは空母護衛の日本軍巡洋艦に向かった急降下爆撃機に攻撃を加えた。岩本は追撃に熱中する列機に対し中止を命じ、後続する筈の敵雷撃機の攻撃を予想して、スコールの雨雲の上の指揮官機に集まるよう信号を送り、1,2中隊12機で上空哨戒についた。瑞鶴がスコールに退避して無事を確認したが、翔鶴は航行に支障はなかったが爆撃で飛行機の発着が不能となったことに岩本は気がついた。予想通りTBDデバステーターが現れ、岩本は空母10km先で気づき7kmの地点でTBD雷撃機を攻撃した。TBD機は遠距離から魚雷を投下したため両空母に被害はなかった。岩本は後にこの雷撃機に対して「日本機なら攻撃されても射点での攻撃を敢行しただろう」と回想している。追撃のチャンスだったが高度4000メートルで哨戒、10分後に味方戦闘機を高位より攻撃準備中の敵F4F戦闘機を発見し救援援護した。瑞鶴は相変わらずスコールに隠れていたが、翔鶴は集中攻撃を受けレキシントン隊オールト中佐のSBD4機が放った500ポンド爆弾の1発が艦橋後方に命中した。第二次攻撃隊が去ったと判断した岩本は、今はスコールの外を航行中の瑞鶴に燃料と弾薬の補給の許可を求めたが容れられず、暫く高度5000mで直衛哨戒を続けたが燃料切れ間近となったので母艦に着艦要請を出し翔鶴隊と共に着艦。岩本は補給後に指揮官として7機を指揮し上空直衛に上った。しばらく後に、米空母を攻撃した日本軍機が帰還し、翔鶴が着艦不能なために全て瑞鶴に収容されたが、その後も1時間ほど直衛についた。

    珊瑚海海戦は目的を達成できず撤退するが、母艦瑞鶴と岩本らの直衛隊は1名の戦死もなく無傷であったが、攻撃隊の多くの搭乗員を失った岩本は「さびしい。涙がにじむ。このように一度に多数の戦友を失ったのははじめてだ。」「優秀な搭乗員を多数なくして、これからさき、いかにして闘ってゆくつもりだろう」と心境を後につづっている。米軍邀撃機は空母レーダーから日本軍機の位置の指示を受けて時々刻々の対応ができ、日本軍は母艦から簡単な敵情程度しか知らされないその中で岩本は母艦「瑞鶴」をよく護ったと戦闘中に艦長と飛行長よりの賞賛を受けた。

    1942年6月15日、「瑞鶴」はアリューシャン攻撃部隊支援として出撃するが、悪天候のため戦闘機隊に活躍の場は無かった。8月、岩本は、搭乗員の教育要員として大村空に転属。その後、横空に転属。1942年11月1日、上等飛行兵曹。1943年(昭和18年)2月上旬に追浜空所属機に搭乗し、芦ノ湖上空で木村泰熊上整曹たちとともに快晴の富士山上空を飛翔する、標識番号「オヒ-101」の零戦21型の写真を残している。

    ラバウル方面

    1943年3月、岩本は281空の開隊とともに配属となった。1943年4月1日海軍飛行兵曹長、分隊士。5月に対アリューシャン方面の最前線である幌筵島武蔵基地に進出。幌莚時代には勤務の間に同僚後輩を連れ立って、遡上してきた鮭を大量に捕らえ酒宴を開いたとのエピソードがある[4]。

    1943年11月、岩本ら281空の16名は一大航空戦が展開されていたラバウルに派遣され、第二〇一航空隊に編入。ラバウル到着から一週間後に爆撃を受け迎撃のため出撃した岩本は同じ中隊9名に損害を出さず7機を撃墜報告。隊全体で敵52機を撃墜する大戦果を報告した。また岩本が先行し部下がそれにならって3号爆弾で敵14機編隊を一度に撃墜と報告したこともあった[5]。当時の海軍戦闘機隊搭乗員は二直交代勤務に就くことが多かったが、岩本は直長として編隊指揮を執った。機数は稼動機数の関係で上下したが、概ね20機弱から40機前後だった。日本海軍の空中指揮は階級に依存したが、岩本は搭乗士官(飛曹長=准士官)として空中指揮を担当した。

    1943年12月第二〇四海軍航空隊へ異動。ブーゲンビル島のタロキナ飛行場への攻撃任務では、単機で出撃して超低空侵入で奇襲に成功し、20機以上の米軍機を銃撃で破壊と報告。飛行場手前で急上昇して、滑走路に並んだ列線に一撃、切り返してもう一撃、そのまま低空を突っ走って帰ってきた。そして、現地の陸軍からは「敵飛行場は火の海になっている。」との電報が入ってきた。このときの出撃は、先任飛曹長が出撃を拒絶してしまったため、その状況を見かねて岩本自らが志願したと述懐している。

    12月以降、敵戦爆連合のラバウル空襲は猛烈で「爆撃機を1週間のべ1,000機平均(ニミッツの太平洋戦記)」、「陸・海・海兵隊と連合国空軍によるラバウル総攻撃(グレゴリー・ボイントン)」という空前の規模で数ヶ月間、圧倒的機数で連日行われた。日本軍は約20?30機の零戦で粘り強く対抗しつづけた。実際はこの少数であった日本軍の兵力をアメリカ軍は過剰に見誤り、日本軍は約1000機をもってアメリカ軍に対抗していると考えていた。このためアメリカ本国に増援を求める報告を発信している。

    ラバウル航空隊69対0勝利の記録フィルム[1]、日本ニュース映画「ラバウル」「南海決戦場」はこの時期の撮影であり、地上員からも撃墜50機以上を数えたことが目撃されている。また1月7日の多数機撃墜戦果は翌日奏上され御嘉賞されたことが知られている。岩本の活躍は郷里の益田にもニュース映画を通して知られ、岩本が搭乗したゼロ戦のプロペラが益田小学校に展示された。この頃、ニュース映画を見て「益田の岩本さん」を知ったある女学生が、戦後岩本とお見合いで知り合い、岩本夫人となった。

    当時のラバウルは、マッカーサーの南西太平洋方面軍のフィリピンへの進路にあって米陸海軍が圧倒的な戦力で重点的に攻撃を集中していた。岩本は1943年12月4日ラバウルで邀撃後、多くの日本軍戦闘機を撃墜したアメリカ軍機の基地帰還時を狙って待ち伏せ攻撃で奇襲撃墜し、「送り狼」と呼ばれる戦法をとった。このように、攻撃を終えて帰還中の敵を攻撃する「敵攻撃の直接的阻止」を目的に置かない「送り狼」戦法について、「我々の今やっている戦法は長い間の実戦の経験から体得されたもので、今来たばかりの部隊にはとうてい理解できないところがある」と岩本自身も述べている。1943年12月15日感状授与。

    1944年(昭和19年)1月、204空のトラック島撤退に伴い、機材人材を引き継いだ二五三空に異動となる。1943年末から1944年2月まで、岩本飛曹長の搭乗した253航空隊の102号機は零戦二二型根拠・出典は?で、撃墜数を表す桜のマークが60?70個も描かれており、遠目からは機体後部がピンク色に見えた。もちろん、この機体は上空でも敵の目を惹いたが、岩本は敵機をことごとく返り討ちにしていった。

    岩本らラバウル航空隊では、敵爆撃機の編隊に対して1000?2000m上空から敵の進行方向と正対する様に飛行し、緩降下して敵編隊長機との直線距離が3?5000m程度になった時に背面飛行に入り射撃角度を調整しながら急降下し、

    敵機との距離が150m以内に近づいた時に20mm機関砲と7.7mm機銃を直上から爆撃機の操縦席を狙って1?2秒の間に発射し高速で下方向に離脱、再度上昇して反復攻撃する攻撃法を採用していた。

    岩本らは繰り返しこの戦法でB-24撃墜の戦果を報告していた。この戦法のメリットは敵編隊の機銃の数が制限されること、自機の機速と敵の機動により照準がつけにくいことであり、デメリットは高度な飛行テクニックと計算力、射撃能力が要求される。岩本は「この攻撃方法は1秒でも時間を誤れば失敗するが操作時期さえ良ければ十中八九成功する」が「若い搭乗員にはそんな難しい攻撃法はとても無理である」と述べている[6]。

    後に岩本は大隅半島上空でこの攻撃法によりB-29を一撃で撃墜したと報告している。この攻撃方法を応用して、岩本飛曹長、小町定上飛曹、熊谷鉄太郎飛曹長らにより、三号爆弾(三号特爆)による対編隊爆撃が行なわれた。背面で機銃攻撃に入る代わりに爆弾を投下して、敵編隊から降下速度を利用してその後方に抜ける戦法である。戦後の回想録および複数の目撃証言でその詳細が明らかにされた。三号弾は1942(昭和17)年後半に導入され、当初は飛行場襲撃に使用されていた。1943年12月9日の岩本らの小隊による試用攻撃で、帰途集結旋回中の編隊26機を一気に撃墜を報告、その後機会があるごとに熟達し、一撃で艦爆14機、トラック基地B-24迎撃戦では余裕のある接敵さえ適えばほぼ確実に命中できる域にまで達したという。

    三号爆弾について岩本自身は「(長年の経験による)カンで投弾したので、あれこれ口で説明するのはなかなか難しい」と最初の投弾についての報告について回想している。トラック島253空電信員加藤茂は「丁度、敵機が真上をすぎたときである。電信員がかぶっているレシーバーから、なにやら訳の分からない英語の叫び声が防空壕電信室一杯に響き渡った。あまりの近距離と、敵機の電信機の出力が大きいせいであろう。と、その時叫び声が泣き声のように変わる。明らかに絶望的な叫び声がつんざいた。これこそおそらくは我が零戦隊の岩本飛曹長らが投じた3号爆弾が敵編隊に命中したものであろう。壕から出て敵機を見ると、数条の白煙を吐いたB24がまさに夏島の山かげに消えて行くところであった。」と回想する。僚機でもあった小町定は「三号爆弾を落とす時は、人によって、また場合によってやり方は異なりますが、約千メートルの高度差をもって敵編隊と同航し、その前方に出てちょうど自分の翼のつけ根の後ろあたりに敵が見えた時、切り返して背面ダイブで垂直になって突っ込むんです。しかし大型機はなかなか、ガソリンを引くことはあってもその場で落ちることは少なかったですね。岩本先輩とはラバウル、トラックでは私は腕を競い合う仲にありました。地上の運動は何をやってもできるし、空戦の腕も達者でしたが、口も達者で、いつも大風呂敷をひろげていました。」と語っている。[注釈 4]

    1944年2月、米機動艦隊により大損害を受けたトラック島の防御を固めるため二五三空はラバウルより撤収しトラック島に移動。岩本も以後トラック島にて防空戦に従事した。ところがそれ以来部隊はほとんど機材も人員も補充を受けることが出来ず[7]、テニアンの一航艦司令部からの三号爆弾の要領指導の派遣を「一名の余裕もなし」と断るほど逼迫した状況だった。飛行可能機が搭乗員の1/3となった二五三空は1944年6月、機材を自力で補充するべく岩本ら空輸要員4名を内地に派遣帰還させた。ところが、内地到着後に始まったサイパン島の戦いにより、機材受領後に再びトラック島へ戻るための主要空路を遮断されてしまったため、トラック復帰は取り止めとなり、

    岩本はしばらく木更津空にとどまったあと、1944年8月、三三二空に異動。この時期までに飛行時間は8,000時間を超え、離着陸回数 13,400 回を超えた[注釈 5]。

    二五二空

    1944年(昭和19年)9月第252海軍航空隊戦闘三一六飛行隊。予科練出身の252空所属若年搭乗員の回想には「優しい人柄で決して乱暴はせず、むしろそれほどエライ方といった印象は受けなかった」と記述している。10月台湾沖航空戦、フィリピン沖海戦に参加。

    1944(昭和19)年9月、千葉県茂原基地で二五二空戦闘第三〇二飛行隊の角田和男少尉が謹慎していたとき、二五二空から岩本徹三、斎藤三郎が、二〇三空から西沢広義、長田延義、尾関行治が訪れた。そこで岩本が「敵が来る時は退いて敵の引き際に落とすんだ。つまり上空で待機してて離脱して帰ろうとする奴を一撃必墜するんだ。すでに里心ついた敵は反撃の意思がないから楽に落とせるよ。1回の空戦で5機まで落としたことあるな。」と言ったことに対し、西沢は「岩本さんそりゃずるいよ。私らが一生懸命ぐるぐる回りながらやっているのを見物してるなんて(岩本は1943年11月にラバウル着任、西沢は43年10月に内地帰還しているので実際にラバウルでこういう場面があったわけではない)。

    途中で帰る奴なんか、被弾したか、臆病風に吹かれた奴でしょう。それでは(他機との)協同撃墜じゃないですか。」と言った。それに対し岩本は「でも、俺が落とさなくちゃ、奴ら基地まで帰るだろ?しかしいつもこうしてばかりもいられない。敵の数が多すぎて勝ち目の無い時は目をつむって真正面から機銃撃ちっぱなしにして操縦桿をぐりぐり回しながら突っ込んで離脱する時もあるよ。」と言った。角田によれば、中でも西沢は岩本に並ぶ日本海軍エースで、彼らの話はやがてラバウルでの航空戦になり、皆は岩本と西沢のこの話に聞き入ったという[8]。

    この夜から一ヶ月も経たないうちに西沢は輸送機に便乗移動中にミンドロ島で、尾関はルソン島上空で戦死、斎藤は負傷、長田も翌年沖縄沖で戦死した。岩本は「我々には伊達に特務の2字がついているんじゃない。日露戦争の杉野兵曹長の昔から、兵学校出の士官にもできない、下士官にもできないことをするのが我々特准なんだ。がんばろうぜ!」この時、謹慎中の角田を励ました。

    岩本に指導を受けた後輩の印象では、「西沢広義飛曹長は長身で目つきが鋭くて眉も太い精悍な顔つきから、なるほどあれが撃墜数150機の撃墜王だと感じた。一方で、小柄の体でやさしい風貌の岩本少尉には、どこにそのような力があるのだろうかと感じた。」と述懐している。

    1944年10月末、第二航空艦隊で行われた第二神風特別攻撃隊の志願者募集の際、岩本は「死んでは戦争は終わりだ。われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、敵を一機でも多く叩き落としていくのが任務じゃないか。一度きりの体当たりで死んでたまるか。俺は否だ。」と言って志願しなかった[9]。 特攻に関して岩本は「この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。神ならぬ身、生きる道あってこそ兵の士気は上がる。表向きは作ったような元気を装っているが、影では泣いている。」「命ある限り戦ってこそ、戦闘機乗りです。」 「こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった[10]。」と回想している。

    岩本は二五二空で後にサイパン銃撃隊(第一御盾隊)隊員となる若年搭乗員達を訓練していた。第1御楯特別攻撃襲撃隊大村中尉以下の活躍について「短期訓練で、あれだけ困難な任務をよくもやりとげたもものだと、強い感銘を受けた」という。回想録では、近接護衛戦闘機として数十機の特攻機の突入を目の当たりにして、数刻前まで共に存在していた人々が消えてしまったことに「髪の毛が逆立つ思いであった。」「せめて彼らの最後と、その戦果を、詳細に見届けておこうと、私は何時までも上空を旋回していた」としている。戦争末期の飛行機の搭乗員に対して「訓練しては前線に送り、一作戦で全滅させて、またもや訓練の繰り返しである。実戦に役立つ戦力に達するには程遠い。しかし、前線では搭乗員が不足しているのだ」と述べている。

    1944年11月1日 海軍少尉。1944年11月第二五二海軍航空隊戦闘三一一飛行隊。1945年2月16日、米軍のジャンボリー作戦に対する関東地区迎撃戦に参加。

    二〇三空

    1945年(昭和20年)3月末二〇三空戦闘三〇三飛行隊。沖縄戦開始の米軍上陸地点を最初に確認した夜間単機強行偵察。沖縄戦開始初頭の夜間強行偵察では、岩本が単機で慶良間諸島で上陸作業中の米軍艦艇を銃撃し、大損害を与えたことが、慶良間海洋文化館の記録と、岩本の手記とで一致している。4月?6月半ばまで数次にわたる特攻作戦の直掩。4月7日坊ノ岬沖海戦の事後迎撃。鹿屋航空基地上空でのB-29編隊単機撃墜を報告。

    土方敏夫中尉の沖縄戦での回想には岩本から受けた指導が残されている。上空からグラマンの不意打ちを食って全機が下方に避退したことについて「あんなときは、全機が降下するのではなく誰かが上昇するようでなければ駄目なんだ。これは責任感の問題だ。」と岩本がその日の空中戦について地上で話し合ったとき力説していたという。この日の空戦は岩本も足の指に負傷するほどの激戦で、着陸後しばらくの間、岩本は操縦席の中で動くことすらできなくなっていた。

    岩本は経験未熟な若年の土方敏夫中尉が配属されたとき「初陣で弾を撃ってはいけません。私がまず敵を落として見せるから離れずついてきて見ていればいいです。最初から敵を落とそうなどと考えては一人前になれません。もし着陸してから調べてみて弾が出ているようなら私は貴方を軽蔑しますよ。」と話した。しかし乱戦となり、自らの上官を見失い着陸後に再会して、上官に対して「申し訳なかった。」と泣いていた。また、岩本の戦いぶりを地上で見ていたときは「岩本さんは被弾して帰ってくることが多かった。あるときは、機体じゅうに被弾してよく墜ちなかったなあと思った。」という。

    土方中尉の編隊が場外飛行に向かう途中、天候不良で岩国に引き返してきたとき、岩本は土方中尉に「無理をしてはいけないですよ。よく引き返しましたね。」とその判断を褒め、褒められた土方中尉は「あの恐ろしいと思っていた岩本少尉が褒めてくれたのは、何よりも嬉しいことであった。」と感じたという。

    「岩本少尉は、救命胴衣の背面には通常は所属部隊と姓名官職を書くところ、救命胴衣の背中に「零戦虎徹」(「虎徹」の二文字は新選組局長・近藤勇の佩刀としても有名な刀工長曾彌虎徹興里になぞらえたもの)、「天下の浪人」など大書していました。この「天下の浪人虎徹」の文字はよく目立ち、名前を聞かずとも岩本少尉であるとすぐわかりました。岩本少尉の普段は、見たところ田舎のじいさんのような格好をしていましたが、一旦車輪をしまって飛び上がれば、向かうところ敵なしでたいてい撃墜して帰ってきました。」と回想している。

    零戦を名刀虎徹に準えたことについて、二五二空時代の同僚斎藤三郎少尉は「古書に曰く、兵は稜なりと。スピードがあるので、相互の攻守位置が瞬間に逆転する。敵の隙を見落とした瞬間、逆にわが態勢は崩れ去るのが普通だった。その意味で所詮空戦もまた白刃場裡を一歩も出るものでなかった。いかに正宗、虎徹のごとき名刀をたばさんでいても、機会を逸すれば鈍刀にも劣る。」[11]と解説している。

    第203航空隊の安部正治上飛曹の手記によると、岩本先輩は支那事変からの古強者で、海兵団出身者には親しみを感じられていました。岩本先輩は小柄で物静かでしたが、強い殺気を感じさせるものがあり、さながら昔の剣客といった印象でした。彼の放った射弾は垂直降下中でも、どの方向からでも敵機に吸い込まれていきました。昭和20年5月4日、安部上飛曹は沖永良部上空で空戦に入り、F4Uを撃墜した。基地に帰投後岩本分隊士から「どうや?やったか?」と質問され「はい。1機やりました!」と答えると「うん。よっしゃ!よっしゃ!」と元気な声で戦果を集計された。その姿はピンピン跳ね返るような嬉しさに満ち、まさに撃墜が戦闘機乗りの最高の生きがいであると言わんばかりであった。岩本自身「この撃墜の瞬間の気持ちは、なんとも言えない。命をまとに闘っている戦闘機乗りにだけ許された至境であろう。」とラバウルでの戦闘で述べている[12]。

    1945年6月二〇三空補充部隊として岩国で、B-29の編隊に対して零戦で自爆特攻をする「天雷特別攻撃隊」の教官として教育・指導を行う[13]。

    1945年8月15日終戦を迎える。喪失感のあまり3日ほど抜け殻のようになったと述べている。終戦から数日後、搭乗員解散命令で、写真など全部の所持品を焼いて、ウイスキー1本を軍用自転車に積んで、岩国から益田まで帰郷した。ポツダム進級によって1945年9月5日海軍中尉、予備役編入。

    戦後

    戦後は東京のGHQに2度呼び出されラバウルなどの戦闘の様子について尋問された。戦犯には問われなかったが、公職追放となった[14]。岩本は日本開拓公社に入社し、昭和22年2月11日、同郷の幸子夫人と見合い結婚するが、結婚3日後に北海道の開拓に単身出発した。しかしながら1年半で心臓を病み帰郷。このとき夫人と再会した岩本は、夫人の顔を忘れていたようである。その後の生活は不遇であり、空の生活から地上の生活になじめず、また軍隊気分も抜けず、戦後の世相への適応も簡単ではなかった。そして次第に心のはけ口をアルコールに依存していった。

    しかし、近所の人たちには戦時中の話をして喜ばせ、隣家で結核患者が病死した際、感染を恐れて誰も遺体に近づかない状況をみかねて、岩本は鼻の穴に綿をつめて一人淡々と遺体を葬った、との逸話が残っている。

    益田土木事務所をはじめ、畑仕事、鶏の飼育、駅前の菓子問屋などの職をかわった。2人の子を持つ父親としての岩本は、手先が器用だったので、子供のおもちゃは自分で作っていた。

    トタン、ブリキを買ってきては、自動車を作って色を塗り、時計、電蓄、バイク、自動車などよく自分で修理した。自動車は近所のポンコツでも立派に動きだすので夫人に感心されていた。

    1952年(昭和27年)、GHQ統治支配が終わり益田大和紡績会社に職を得てようやく落ち着いたが、1953年(昭和28年)、盲腸炎を腸炎と誤診され腹部を大手術すること3回、さらに入院中に戦傷を受けた背中が痛みだし4,5回の手術を行い、最後は麻酔をかけずに脇の下を30cmくらい切開して肋骨を2本取り出した。最後は敗血症により、原発の病名も不明のまま1955年(昭和30年)5月12日、7歳と5歳の男の子を残して逝去。

    享年38。病床にあっても「元気になったらまた飛行機に乗りたい」と語っていた。

    204空時代の司令柴田武雄は岩本の葬式で、「岩本は、戦闘機乗りになるために生まれてきたような男でした」と語っている。

    夫人は、未公開の回想録を後世に伝えた功労者の一人。彼がラバウルで活躍していた頃は郷里の女学生であり日本海軍のエースパイロットとして報道映画で紹介された彼を見たのが初めてであった。戦後山陰の郷里にもどった彼と平凡な見合いで結婚し、生き残って苦しい生活の続いた彼を助けた。

    彼は不運にも早世してしまい、海軍時代を詳細に記した大学ノート3冊の回想録は日の目をみることなく死後10数年間夫人の下に保管されたままになっていた。

    今日の話題社の中村正利はこの遺稿の存在を知り、作家秦郁彦が監修協力して「零戦撃墜王」と題し出版された。単行本の出版に際し、戦記画家の高荷義之が挿画・装丁図、新装本ではさらに零戦の武装系統図と動作解説を追加、全面的に担当した。戦後20年を経て、彼自身の詳細な回想録が世に出るに至った。岩本の次男は航空自衛隊に入隊している。

    戦法

    撃墜数は、戦後の自己申告である202機のほか、戦後調べでは撃墜報告80機とする文献もある。(日本海軍では1942年末以降、個人撃墜数を記録していないため、正式な数は不明)

    岩本は編隊による優位位置からの一撃離脱戦法を多用していた。1943年末日本は4機編隊構成を採用していたが、岩本は機上無線機のモールス電信を活用し連携を心がけ、基地司令部との交信で来襲情報を受信し、迎撃隊を有利な位置に導いて戦闘指揮した。また格闘戦にも絶対的な自信を持っていた。ある日の空中戦では、岩本単機対F6F戦闘機4機で空戦に入り、そのことごとくを撃墜したことが地上監視所から報告されている。この頃の岩本は「5倍や10倍の敵など恐くはない。ただし、エンジントラブルだけはどうしようもない。」と戦場で活躍する零戦の現実を記している。

    空中戦では常に一番に敵を発見していたが、視力検査をすると彼の視力は日本海軍パイロットとしては良い方ではなかった。敵機の索敵方法について教えを請われると「敵機は目でみるんじゃありゃんせん、感じるもんです。」と言いつつ、戦場の経験から敵編隊群の進攻方向を想定し、プロペラが太陽の光を反射する輝きを察知してゆく彼の索敵方法を教えていった。

    また、会敵までの敵距離の予測を、米軍機の機上電話(短波無線)を傍受しその強弱によって、敵との遠近を推測する彼独自の電子戦を実施していた。

    岩本は「媚(こ)びず、諂(へつら)わず、とらわれず。」という武士道的な言葉を常々自身に言い聞かせていた。堀建二2飛曹は岩本から「どんな場合でも、実戦で墜されるのは不注意による。まず第一は見張りだ。真剣に見張りをやって最初にこちらから敵を発見する。そして、その敵がかかってきたら、機銃弾の軸線を外す。そうすれば墜されることはまずない。地上砲火による場合。これは、どうにもならん。避けようがないからな。その場合は潔くあきらめるさ!」と指導を受けたという。

    著書

    遺稿の空戦ノート(未公開の大学ノート3冊) 零戦撃墜王初出版(今日の話題社, ISBN なし)昭和47年7月10日発行 零戦撃墜王新装版(今日の話題社, ISBN 4-87565-121-X)昭和61年2月25日発行 零戦撃墜王 (光人社NF文庫, ISBN 476982050X) 遺稿空戦ノート(零戦撃墜王新装版の巻末に掲載されたオリジナルノート沖縄戦1ページ写真より) 原文は横書き、各行約40?42文字程度にそろえ、1ページ28行である。 空戦機種、機数は文章中に直接は記入されていない、別欄に分けられている。 空中指揮官(准士官以上)の現認証明、行動調書に似た記述形式で、論文のように読まれることを意識した、細かいが各行大きさを揃えた読みやすい字で丁寧にびっしりと、詳細な戦況報告図とともに書きこまれている。 精神的にきちんとした真面目な性格の人の筆跡、文体である。小説家原稿のようなかきなぐった荒れた字体や修正はない。

    「ラバウルで142機」は遺稿ノート中の各戦闘結果集計(「零戦撃墜王」新装版・今日の話題社に一部掲載)に基づくものである。戦後暫くして判明した事実に基づく内容の擦り合わせ修正はなく、日付を1ヶ月程ずらした(陰暦日付に近い)個所が数ヶ所あるが、搭乗員の日記は防諜のため日付を隠して書くことは他にも例があり、また戦後はGHQの統治支配が昭和27年春まで続き多数戦犯の外地拘置所や処刑、シベリア抑留も続いていた時代であり、どのような理由によるかは今日では確かめようがない。なお、光人社NF文庫では細部に修正あり、写真のコメント文は強い口調になった。



    西澤 廣義/西沢 広義(にしざわ ひろよし、

    1920年1月27日 - 1944年10月26日)は、日本の海軍軍人。第二次世界大戦のエースパイロット。戦死による二階級特進で最終階級は海軍中尉。撃墜数は自称143機だが、後述のように公認撃墜数は87機である。



    経歴

    1920年(大正9年)1月27日、長野県上水内郡南小川村で退役軍人の父のもとに4男1女の三男として生まれる。実家の家業は農業、養蚕業であった[1]。1934年(昭和9年)3月、南小川小学校高等科を卒業。4月、父の勧めで岡谷の生糸工場に就職[2]。

    海軍飛行予科練習生の募集広告を見て受験し、1936年(昭和11年)6月1日、横須賀航空隊の乙種飛行予科練習生第7期(204名)を拝命、海軍四等航空兵に任官[3]。1938年8月15日、霞ケ浦空付。飛行練習生陸上機班を71名中16位で卒業し、戦闘機専修者20名の一人として1939年3月、大分海軍航空隊で教育を受ける[4]。大分空での教員は武藤金義一空曹(支那事変の撃墜王)で九五式艦上戦闘機と九六式艦上戦闘機で学んだ[5]。1940年12月、鈴鹿海軍航空隊(偵察専修者練習航空隊)に配属。偵察専修者を乗せた練習機を操縦する操縦教員を務めた[6]。



    ラバウル方面

    ソロモン諸島上空を飛行する西沢広義の零式艦上戦闘機 (A6M3)(1943年) ソロモン海域上空を飛ぶ、零式戦闘機22型。西沢広義搭乗機だとする文献もあるが撮影者の吉田一によれば誰かわかっていない。(1943年5月7日)

    1941年(昭和16年)10月1日千歳海軍航空隊に配属。日米開戦に備えて訓練を受ける。サイパン、ルオットと移動し、1942年(昭和17年)2月、トラック島からラバウルに進出。2月3日夜、新月という視界が悪い中、九六式艦上戦闘機で双発飛行艇を迎撃、初めての撃墜を報告する[7]。しかし、豪空軍の記録によれば、この PBY カタリナ飛行艇は被弾しながらも基地に帰投している[8]。

    2月10日、第四航空隊に配属。戦闘を重ねて単独撃墜7機、協同撃墜5機を報告している。1942年4月1日、台南海軍航空隊(台南空)に配属。第25航空戦隊が新編され、四空の戦闘機隊の人員、機材が台南空に吸収された。1942年5月1日、モレスビー攻撃で戦闘機一機撃墜を報告。7日、戦闘機二機撃墜を報告。その後も戦闘を重ねる。5月27日、モレスビー攻撃で戦闘機一機撃墜を報告。

    戦後、坂井三郎は、当時太田敏夫と西沢広義とともに台南空の三羽烏と呼ばれ、この時に3人で中隊から離脱し、無断でポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて3人で三回連続編隊宙返りを行って他から遅れて帰還したという話を紹介している。しかし、戦闘行動調書によれば、坂井の主張する5月27日はモレスビー上空で交戦後、11時30分に全機がラエに帰着しており、坂井が他の著作で主張した6月25日には太田が出撃していない。その他の日も合わせて日本でも連合軍でも坂井たちが別行動をとった記録はない[9]。1942年8月7日、西沢はガダルカナル島攻撃に参加。西澤は撃墜6機を報告。同戦闘で負傷した坂井三郎が内地に帰還したため、西沢が先任下士官となる[10]。1942年10月21日、西沢は撃墜30機を全軍布告された[11]。

    1942年11月1日、台南空は第251海軍航空隊と改称。部隊損耗が大きく再建のために豊橋に帰還。生還した搭乗者は西沢を含め十数名だった。1943年(昭和18年)5月10日、ラバウルに再進出。西沢は鴛淵孝中尉の戦闘教育を任せられる。6月からルッセル島周辺の作戦に従事するも、6月末に連合軍はレンドバ島に上陸したため、251空はラバウル、ブインの基地から出撃して消耗していった。8月1日、レンドバ島上空の二度にわたる空戦で八機を共同撃墜を報告[12]。また、西沢を小隊長とする4機はF4Uコルセア4機と交戦、西沢単独で3機撃墜、部下が1機撃墜を報告している。ラバウル離任時に岡本晴年に「86機撃墜」と語っている[13]。

    1943年9月1日、253空に転属。同月、航空艦隊司令長官草鹿任一より100機撃墜記念の感状と「武功抜群」と書かれたのし紙が巻かれた白鞘の軍刀を授与される[14]。10月、内地帰還。

    1943年11月1日、大分空に配属。飛行学生教官を務める。教え子には厳しかったが自分の武功を自慢することはなかった[15]。

    二〇三空

    1944年3月1日、203空に配属。7月10日、戦闘第303飛行隊に所属。北千島方面の防衛にあたる。ベテランが次々死んでいくため経験の浅い者の指揮を心配し軍紀のあり方についての論文を提出する。

    1944年(昭和19年)9月下旬、千葉県茂原基地の角田和男飛曹長の部屋に、南東方面の激戦を経験したエース・パイロット、西澤、岩本徹三、長田延義、尾関行治、斎藤三朗らが集まる機会があった。この際、西沢は撃墜数を120機以上と語っている。また、岩本徹三が「敵が来る時は退いて敵の引き際に落とすんだ。つまり上空で待機してて離脱して帰ろうとする奴を一撃必墜するんだ。すでに里心ついた敵は反撃の意思がないから楽に落とせるよ。一回の空戦で五機まで落としたことがあるな」「敵の数が多すぎて勝ち目の無い時は目をつむって真正面から機銃撃ちっぱなしにして操縦桿をぐりぐり回しながら突っ込んで離脱する時もあるよ」と語ると、西沢は「途中で帰る奴なんか、被弾したか、臆病風に吹かれた奴でしょう。それでは(他機との)協同撃墜じゃないですか」と反論している[16]。

    1944年(昭和19年)10月、捷号作戦参加のためフィリピンへ進出。10月25日、関行男大尉率いる神風特別攻撃隊敷島隊の直掩を務め戦果を確認する。10月26日、乗機をセブ基地の特別攻撃隊に引渡し、新しい飛行機受領のため、マバラカット基地へ輸送機に便乗して移動する。その途中、輸送機がミンドロ島北端上空に達したところで、ハロルド・P・ニュウェル中尉のグラマンF6Fの攻撃を受けて撃墜され、西沢は戦死した。ニュウェル中尉は百式重爆撃機だったとするが、1021空の河野光揚によれば、一式陸攻ではないかという[17]。

    1945年8月15日終戦時、連合艦隊告示172号で、「戦闘機隊の中堅幹部として終始勇戦敢闘し敵機に対する協同戦果429機撃墜49機撃破内単独36機撃墜2機撃破の稀に見る赫々たる武勲を奉し」と全軍布告された。この他の撃墜数に、家族への手紙に記載された143機、戦死時の新聞報道に記載された150機がある。

    戦後、太平洋戦争における日米両軍を通じたトップエースの一人として知られ、アメリカ合衆国の国防総省とスミソニアン博物館に杉田庄一と並んで肖像が飾られている[18]。美男子であり身長は180センチ以上あった[15]。戦後書かれた戦記では「ラバウルの魔王」と評された。







    上坊 良太郎(じょうぼう りょうたろう、

    1916年(大正5年) - 2012年(平成24年)8月13日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者でエース・パイロット。最終階級は陸軍大尉。少年飛行兵第1期生。滋賀県出身。






    正確には、黒鳥四「朗」ですね。