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アジアの歴史




  • 千年に一度のチャンス
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    超反日小説『ムクゲの花が咲きました』続編【書籍】
    ムクゲの全盛時代は他でもない日帝強制占領期〜カン・ヒョバック慶煕大教授
    『花に偽装した戦犯旗-ムクゲ』出版予定[08/25] [蚯蚓φ★]



    ナチスドイツはユダヤ人を600万人殺した
    戦前日本は朝鮮人を1200万人、増やした
    許されざる罪である



    李氏朝鮮では、中国からの勅使に対し、王がソウルの郊外、”迎恩門”に出向き、自ら三跪九叩頭の礼で迎えていた


    朝鮮土民の奇習を禁止した日帝の蛮行
    【試し腹】.【シバジ】【嘗糞】【病身舞】【乳出しチョゴリ】
    ..



    「三田渡の盟約」
    朝鮮は清国に対し、臣としての礼清国に対して牛馬3000頭、美女3000人を毎年上納すること



    朝鮮国民に教育を実施し、就学率を61%まで高めた(1944)
    (ハングルを整備し体系化させ、漢字、日本語と共に普及させた
    識字率 3-8% → 80%


    原爆被爆者の平均寿命は平均日本人より長い。男1年、女2年、寿命が長い。


    南京戦はあったが南京大虐殺はなかった。南京学会

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    大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史

    英国の歴史家、アーノルド・トインビーは、 日本の近代史についてこんな分析をしました。 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 0

    朝日の慰安婦捏造問題を世界に発信するため、 かなり正確に伝えている英語での解説記事 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 2

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    米政府の慰安婦問題調査で奴隷化の証拠発見されず no proof war crimes with "disappointment" comfort woman 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 4

    「侵略戦争」は連合国の宣伝、日本は植民地アジアを解放した 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 5

    徹底検証!「従軍慰安婦」問題は朝日新聞の捏造から始まった 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史6

    Report No. 49: Japanese Prisoners of War Interrogation on Prostitution

    従軍慰安婦に関する米軍調査報告:戦場売春婦の実態調査結果ビルマ

    Report No. 49:

    「文玉珠さん」という(自称)従軍慰安婦女性は、平成4年に日本の郵便局を訪れ 2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしています 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 7



    ヒラリーの私用メールが暴いた外務省の赤っ恥 国益の毀損と責任感の欠如がもはや伝統に

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    神風特攻隊が残した戦果は、実はすごかった。

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    フーバー大統領の回想録 には、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な記録が含まれている。
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    汚染の予防、歴史 10





    サンフランシスコで慰安婦碑反対運動で頑張っている有志からご協力のお願いです。
    計画されている慰安婦碑のとんでもない内容の碑文が1月18日に承認されました。
    来る2月6日の芸術委員会でその慰安婦碑の設置が承認されようとしています。
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    汚染の予防、歴史 11

    “カナダ有志の会”よりお願い
    中国系州議員やアルファという反日組織の工作により、
    カナダ・オンタリオ州の立法議会が南京大虐殺記念日の制定を審議中です。
    ↓ Bill 79, Nanjing Massacre Commemorative Day ↓
    SnapCrab_NoName_2017-2-2_7-50-52_No-00
    抗議のメールを、オンタリオ立法議会メンバーに送っていただけましたら幸いです。

    南京大虐殺は捏造だった証拠集

    韓国、韓国人慰安婦をドラム缶に入れて米軍らに供給、政府が米軍向けに売春管理



    国連も一蹴した中国の政治宣伝 自民党が明らかにした南京の捏造





    やはり あの戦争は、アジア開放のための聖戦だった



    ライダ イハンは3万人もいるのに、なぜか韓国には日本軍人との混血児は一人も出てこない不思議… 20万の 朝鮮売春婦相手になぜ一人も出てこないんだ?



    韓国を「ホワイト国」から除外しよう



    南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状
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    自己紹介







    南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状

    原爆被爆者の平均寿命は平均日本人より長い。男1年、女2年、寿命が長い。



    http://www.sdh-fact.com/CL02_3/19_S1.pdf

    胡錦濤国家主席閣下への公開質問状 このたび中華人民共和国国家主席胡錦濤閣下のご訪日に当たって、日中両国の 友好を願う者として心より歓迎申し上げます。



    反日種族主義




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    大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言


    太平洋戦争におけるわが国の戦争被害


    「世界から恐れられた7人の日本人」





    「大東亜戦争の英雄の日本人1」


    「大東亜戦争の英雄の日本人2」


    「大東亜戦争の英雄の日本人6」


    「大東亜戦争の英雄の日本人3」空の要塞B29撃破とB29撃墜王


    「大東亜戦争の英雄の日本人4」陸軍エースパイロット撃墜数


    「大東亜戦争の英雄の日本人5」海軍エースパイロット撃墜数


    「大東亜戦争技術者」


    「大東亜戦争技術者2」



    「アジアを解放した大東亜戦争  安濃 豊 令和2年」


    大東亜戦争で日本は世界をいかに変えたか。 加瀬 英明 2015


    大日本帝国の真実。黄文雄 2005



    慰安婦の真実。マイケル・ヨン 2018



    「大東亜戦争石油」





    日米開戦前日米交渉(アメリカが日本に実質的最後通牒(日本の南部仏印撤退などの譲歩案に))


    「大東亜戦争技術者」






    慰安婦の真実。マイケル・ヨン 2018



    慰安婦の真実<br><br>
マイケル・ヨン 2018

    本書は2014年から2018年にかけてフェイスブックに投稿の記事をもとに編集したものです。

    マイケル・ヨン

    1964年アメリカフロリダ州生まれ
    1980年代にアメリカ陸軍特殊部隊(グリーンベレー)に所属。
    2004年からイラク戦争、アフガニスタン紛争に従軍記者として参加。世界75か国をめぐりレポート。
    2008年に刊行した著書「Moment of Truth in Iraq」(イラクの真実の時)は全米ベストセラーを記録。
    慰安婦問題では長く埋もれていたアメリカ政府の調査報告書「IWGレポート」を再発見し、「慰安婦問題」の真実を調査し続けている。
    現在は、ジャーナリスト、写真家、ブロガーとして幅広く活躍し世界の主要メディアから注目されている。



    *慰安婦を推し進める中国

    *「従軍慰安婦を作り出した千田夏光



    *「米国への警告



    *日本を嫌っているのはどこの国か



    *韓国の「慰安婦」研究に中國が参加



    *第二次世界大戦から70年ーー韓国政府と慰安婦



    *慰安婦像の撤去を要求する



    *反日慰安婦のペテンが加速する



    *慰安婦のペテンの目的は何か



    *韓国軍の強姦行為



    *軍事上の必需品



    *日本は韓国・中国と慰安婦問題について交渉するべきではない



    *韓国の新興宗教



    *子供たちに「慰安婦」を教えることについての論争



    *性奴隷の嘘に対して真実を語るサイト



    *韓国の男たちとその子供たちは臆病だったのか



    *フェイスブックのパワーで慰安婦のストーリーが崩れ落ちていく



    *情報戦としての慰安婦



    *南京ーーある本



    *神風とメダル表彰者



    *神風とイスラム自爆テロリストとの違い



    *フィリピンでの日本軍



    *歴史を直視し、軍国主義と一線を画すべきでは.中国



    *ビルマでの日本軍



    *慰安婦問題を啓発することを目的とする美術展



    *日本とアメリカの医学実験



    *南京大虐殺の映画の数字に日中双方からクレーム



    *朝鮮人の戦争犯罪



    *日本生まれの北朝鮮人ーーー非常に憂慮すべき問題



    *アメリカの大学生との対話



    2.日本が戦争犯罪に関して正当化を主張することに対して、今日アメリカが無関心であるのは、日本の積極的な情報提供がないからでしょうか、あるいはアメリカの政治的判断なのでしょうか?



    3.歴史観が対立していても、日米両国は友好的な関係を保てるでしょうか?それとも双方の間で、もっとコンセンサスが必要でしょうか?

    3.歴史観が対立していても、日米両国は友好的な関係を保てるでしょうか?それとも双方の間で、もっとコンセンサスが必要でしょうか?

    4.フランクリン・ルーズベルトによる、JB355(日本本土爆撃計画)、蒋介石軍への、アメリカ人パイロットや戦闘機提供は、戦争行為だと思いますか?

    5.日本は自前の軍と装備を開発するべきでしょうか?あるいは独仏両国が、EUと協力しているように、同盟諸国と協力して、兵器を開発すべきでしょうか?

    5.日本は自前の軍と装備を開発するべきでしょうか?あるいは独仏両国が、EUと協力しているように、同盟諸国と協力して、兵器を開発すべきでしょうか?

    6.アメリカは、日本に核兵器の保有を許すべきでしょうか?中国等からの強い反対があってもそれは可能と思いますか?

    6.アメリカは、日本に核兵器の保有を許すべきでしょうか?中国等からの強い反対があってもそれは可能と思いますか?

    7.アジア諸国に対して、戦争犯罪を直接謝罪することは長期的にみて、日本の利益になるでしょうか?
    それとも日本の権益を弱めるでしょうか?

    7.アジア諸国に対して、戦争犯罪を直接謝罪することは長期的にみて、日本の利益になるでしょうか?
    それとも日本の権益を弱めるでしょうか?


    8.日本は戦争犯罪に対して、今、どのような道筋をとるのが最善でしょうか?

    8.日本は戦争犯罪に対して、今、どのような道筋をとるのが最善でしょうか??

    第一章 慰安婦問題

    *慰安婦を推し進める中国
    *「従軍慰安婦を作り出した千田夏光
    *かってって米軍に接客していた売春婦が弁論の機会を与えられる
    *日本を嫌っているのはどこの国か
    *韓国の「慰安婦」研究に中國が参加
    *第二次世界大戦から70年ーー韓国政府と慰安婦
    *慰安婦像の撤去を要求する
    *反日慰安婦のペテンが加速する
    *慰安婦のペテンの目的は何か
    *韓国軍の強姦行為
    *軍事上の必需品
    *日本は韓国・中国と慰安婦問題について交渉するべきではない
    *韓国の新興宗教
    *子供たちに「慰安婦」を教えることについての論争
    *性奴隷の嘘に対して真実を語るサイト
    *ミンディ・カトラー”差別主義”の名言集
    *韓国の男たちとその子供たちは臆病だったのか
    *フェイスブックのパワーで慰安婦のストーリーが崩れ落ちていく
    *慰安婦像、豪州ストラスフイールドへ
    *情報戦としての慰安婦
    *慰安婦像、米国ジョージアへ
    *”どうか暴力はやめてください
    ” *米国の捏造された歴史教科書
    *タイの年長者たちの記憶
    *中国が仕掛ける情報戦
    *嘘の天才・中国
    *中国のエージェントだったアイリス・チャン
    *ソウル日本大使館前の慰安婦像
    *韓国のナヌムの家とフッカーズヒル
    *慰安婦のペテンは続く
    *作り話には裏がある
    *韓国人慰安婦がトランプ大統領にハグを迫る理由
    *安倍首相の友好外交に効果はあるのか
    *韓国教会に立つ慰安婦像
    *米国、日本、韓国、ベトナムへの警告
    *慰安婦カルトのテロ活動




    第二章 第二次世界大戦

    *南京ーーある本
    *神風とメダル表彰者
    *神風とイスラム自爆テロリストとの違い
    *フィリピンでの日本軍
    *歴史を直視し、軍国主義と一線を画すべきでは
    *ビルマでの日本軍
    *平手打ちーーJap Slap
    *マレーシア、ペナン島の反日プロパガンダ
    *中国共産党が画策する、ペナン島、反日プロパガンダ
    *慰安婦問題を啓発することを目的とする美術展
    *日本とアメリカの医学実験
    *南京大虐殺の映画の数字に日中双方からクレーム
    *朝鮮人の戦争犯罪
    *日本生まれの北朝鮮人ーーー非常に憂慮すべき問題
    *ベトナム戦争での韓国人
    *アメリカの大学生との対話
    *求む真実!  賞金2万ドルを進呈します
    *真珠湾攻撃から七十五年
    *千九百四十一年から続く改ちゅうと陰謀ーーパール・ハーバー
    *ダグラス・マッカサー元帥の証言
    *日本人収容施設
    *インドネシアに眠る日本兵
    *ビルマで行方不明となった日本兵
    *済州島の「四・三平和記念館」
    *日本と中国の歴史ーーー読者からの質問
    *日本だけが悪者なのか




    第三章  世界情勢の中で

    *朝日新聞のとんだへま
    *朝日新聞社に対しての訴訟
    *アムネスティ・インターナショナル、日本とタイを攻撃
    *バチカンの中国接近政策
    *韓国、旭日旗の曲解


    * *

    ソウルの慰安婦像<br><br>
マイケル・ヨン 2018



    テニアンで朝鮮人虐殺はなかった<br><br>
マイケル・ヨン 2018



    テニアンで朝鮮人虐殺はなかった<br><br>
マイケル・ヨン 2018



    ハワイの新聞には週末ハワイ攻撃が報道されていた<br><br>
マイケル・ヨン 2018



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マイケル・ヨン 2018



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マイケル・ヨン 2018



    アメリカ人は食人種<br><br>
マイケル・ヨン 2018


    アメリカ人は食人種<br><br>
マイケル・ヨン 2018


    米軍は旭日旗に敬意<br><br>
マイケル・ヨン 2018


    米軍は旭日旗に敬意<br><br>
マイケル・ヨン 2018






    *慰安婦を推し進める中国

    我々アメリカ人は普通中国のいっていることを、そのまま信じることはありません。ただそれも例外があります。中国が日本を批判しているときは別で、我々欧米人は、いとも簡単に、その話を額面道理に信じてしまいます。
    慰安婦について、あるいは「ザ・レイプ・オブ・南京」そして中国が推し進める、情緒的な話題の大木は、実は人道とは、何の関係もありません。もともと中国は人権擁護の立場をとっておらず、地球上で最大の人権侵害が横行している国です。





    *「従軍慰安婦を作り出した千田夏光

    千田夏光は「従軍慰安婦」の中で日本が二千万人の中国人を性奴隷にしたと非難しています。
    しかも韓国人が主張する、二十万人から四十万人の韓国人はその数に入っていません。千田葉「戦時中性奴隷は、い1日に300人以上を相手にしていたと証言しています。
    記事は女性一人が1日300人にサービスしていたと伝えています。ちょっと考えてみましょう。
    彼女は1日に休みなしで20時間、猛スピードで仕事をこなすことができるとします。
    男性一人当たり、4分のサービスで20時間です。当時二千万人もの性奴隷がいたのなら、どうして一人が300人の男性にサービスしなければならないのでしょうか



    *かって米軍に接客していた売春婦が弁論の機会を与えられる

    米国への警告

    我々の中でほんの少数しか慰安婦問題に注意を向け、巨大な陰謀と知井坂策略に気が付いています。実際のところ、米国では、誰もその陰謀に気づいていません。
    韓国政府は日本政府から金を巻き上げ、一方では日本に対する県を間を醸成するために、陰で「慰安婦産業」に援助してきました。
    これまでずーっと長い間、韓国は世界で最も精力的に、売春婦を輸出してきた国の一つです。





    *日本を嫌っているのはどこの国か

    これまで私はアジア25か国、アジア以外の75か国を訪ね約20年にわたって海外に住んで旅をしてきました。
    メディアは日本は嫌われている。と主張しています。
    しかし実際は、日本の評価は最高レベルです。
    日本を嫌っているのはたった二か国です。中国と韓国だけです。韓国の日本嫌いは度を越しています。日本と仲良くなるくらいなら、核で脅しつける北朝鮮の傘下になるほうが好きです。





    *韓国の「慰安婦」研究に中國が参加

    これではまるで、二匹の狼が一匹の羊を研究するようなものです。
    韓国では今百二十二人の韓国人娼婦たちが、韓国政府を訴えています。
    娼婦たちが、米国に権利を主張してくる日が来ます。そうすると、アメリカ合衆国下院の121号決議、オバマとヒラリーの生命が我々アメリカ人にブーメランし復讐してくるでしょう。






    *第二次世界大戦から70年ーー韓国政府と慰安婦

    韓国政府の客引きが、第二次世界大戦にぶつぶつ不平を言っています。
    驚くべきことに、第二次世界大戦中、韓国は最も甚大な被害を受け過酷な被害を受けたと思っているようです。
    たとえてみれば、膝に擦り傷を負ったようなものです。70年たっても罠にかかったウサギのように泣き叫んでいます。
    韓国政府は駐留米軍への韓国人売春婦の客引きとして、長い歴史があります。今122人の娼婦が韓国政府に賠償を要求しています。
    韓国政府は日本が「二十万人もの女性をさらった」と言っています。
    全く荒唐無稽です。歴史的文書でどこにもそんな、文書、証拠はありません。






    *慰安婦像の撤去を要求する

    ニュージャージー州のユニオンシティー、カリフォールニア州のグレンデールの慰安婦像は、撤去して、ごみ箱に捨てるべきです。
    慰安婦像に熱中しているのは韓国だけです。
    この情報操作がアメリカ人と反日の人々にに対し非常にうまくいっているのを見て中国はもみ手をして笑っています。






    *反日慰安婦のペテンが加速する

    「米国の大学の研究者らが慰安婦の歴史を修正しようとしているとした、日本政府を非難する」
    これは「ワシントンポスト」の記事です。
    このペテンは過去数十年にわたって作り上げて来たものです。
    日本政府が先手を打って反論しない限り、間もなく爆発的に広まるでしょう。
    その結果に満足して中国は静かに笑うでしょう。
    中国は膨大な資金を使って、この情報操作を進行させています。

    いろいろな国の影響力のある人物が、私の書いている記事を読んでくれています。
    それは別に私を好きだからというわけではありません。私が、現地に行って、本物の仕事をしていることを知っているからです。
    性奴隷の県はでっち上げです。米国市民と政府高官は、中国の”毒餌”を呑み込もうとしています。
    これは日米の同盟関係を分断するための大きなまやかしです。
    それもこれも、中国が同盟関係を分断し、アジアの周辺地域を征服するためです。






    *慰安婦のペテンの目的は何か

    調べれば調べるほど、言って見れば「性奴隷」は大きなペテンであることが明らかになった。この詐欺の第一の目的は日本からお金を引き出すこと、及び、日本に憎悪を煽ることです。
    第二の目的は、日本を米国などの同盟国から引き離すことです。(実際、日米間に摩擦を引き起こしています) 究極の目的は日本を可能な限り弱体化させ、南シナ海における中国の領有権を確立することです。
    この件について調べるためにフィリピンに行ってきました。
    慰安婦がいたことは確かです。
    他の国と同様韓国でも慰安婦はもてはやされています。
    問題なのは彼女らが集団で、誘拐されたかどうかです。そんなことはありません。彼女らはただの売春婦です。






    *韓国軍の強姦行為
    ベトナム人は正義を求めています。韓国の嘘は思いがけないところからほころびはじめています。いかに韓国軍兵士によって、乱暴された、ベトナム人女性のビデオ証言を引用します。
    ・・・・・
    悲しいことですが、私の話は何も特別なものではありません。
    ベトナム戦争当時、何千人ものベトナム人女性が、私のようにレイプされました。
    それなのに、韓国政府はベトナム戦争中の韓国兵の組織的な、暴虐行為に対して、謝罪どころか、認めようともしません。

    韓国軍のベトナム民間人虐殺「一切なかった」 国防相 [きつねうどん★]

    1きつねうどん ★2023/02/18(土) 16:59:02.54ID:PcNlIFJI>>6
    https://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/6/b/810wm/img_6bc91fcc8744f0c90dc41c865c3dfc28145845.jpg

    【2月18日 AFP】韓国のソウル中央地裁が先週、ベトナム戦争(Vietnam War)での韓国軍による民間人虐殺について同国政府の責任を認める判決を出したのを受け、李鍾燮(イ・ジョンソプ、Lee Jong-sup)国防相は17日、民間人虐殺は「一切なかった」と主張し、上訴する意向を示した。
     原告のベトナム人女性は、韓国海兵隊が1968年2月に民間人約70人を殺害したとして提訴。地裁は、韓国軍が加害者だと証明するのは困難だとの政府側の主張を退け、政府に約3000万ウォン(約310万円)の賠償の支払いを命じた。
     しかし、李氏は議会の委員会で、国防省は「韓国兵による虐殺は一切なかった」と確信していると主張。判決を不服として上訴する意向を示した。
     さらに、ベトナム戦争の戦況は「極めて複雑」で、原告女性の主張を立証するのは不可能に近いとし、「韓国兵以外の人物が韓国の軍服を着ているケースも非常に多かった」と述べた。(c)AFP

    https://www.afpbb.com/articles/-/3451942?act=all







    *軍事上の必需品

    「植民地時代のマニラにおける売春婦」
    アメリカの植民地支配により、フィリピンの売春婦問題は一層悪化した。
    1899年フィリピンとアメリカが戦争となり、戦闘部隊の焦土作戦により、多くの人が財産を失い極貧生活となった。マニラには多くの売春宿ができた。米軍兵士のための売春婦の役割は、「軍事上の必需品」であると、アメリカフィリピン総督、タフトは認識していた。
    アメリカ軍は1901年赤線区域を定めた。(アメリカの皆さん)ここに誰か清廉潔白な人がいますか?






    *日本は韓国・中国と慰安婦問題について交渉するべきではない

    韓国と中国は、いつものように嘘をついています。
    慰安婦は存在したし、今でも、世界中に存在します。
    米国や他の国々でも同じですが、日本の慰安婦制度において、女性は性病検査を受けていました。ですが,旧日本軍が20万人から40万にの女性を拉致した等とはお笑い種です。
    彼女らのほとんどは売春婦でした。
    私は、調査すべきと思われる、8か国のうち。6か国に行って調べました。(2015年時点)調査して分かったことは、戦時中に日本軍と接触した、80代後半から90代の人たちの多くは日本軍に好意を持っていたことです。大多数の人たちは日本人が好きだといいます。

    日本人が私たちを「兄弟姉妹」のように扱ってくれたといいます。
    アジアのうち25か国を旅行した経験では、「日本は憎まれている」という通説とは全く逆で日本人は高く評価されています。日本人を憎んでいるのは、「中国、韓国、そして日本」の3か国だけです。
    売春は世界中で大金が動いています。タイのバンコクの繁華街には売春婦があふれています。






    *韓国の新興宗教

    現在もアメリカのジョージア州で売春婦像の設立が進んでいます。
    韓国のカトリック教会すらこの新しい「売春婦像」を信仰の対象にしています。この「新しい神」にひざまずいています。慰安婦像崇拝者は反米・反日の確信犯です。






    *子供たちに「慰安婦」を教えることについての論争

    日本軍は売春婦に対して「慰安婦システム」を構築しました。
    当時売春婦は完全に合法でさらってくる必要などありませんでした。
    慰安婦のほとんどは日本人でした。
    当時、朝鮮は日本の一部で、数十万人の朝鮮人が日本の軍人であったことも覚えておいてください。
    数十万人の朝鮮人が日本の市民として、日本軍の兵士であったことは性奴隷の嘘自体をぶち壊しにするものであります。
    誰も指摘しませんが、つまり朝鮮人が朝鮮人を非難しているのと同じことであります。
    韓国人と朝鮮人は日本人がアジア中で嫌われているといい降らしていますが、そんなことはありません。
    私はアジアの25か国で何年も過ごしてきましたが、何所でも日本人は尊敬されています。(一般に北欧の人々及びアメリカ人も好まれています。)
    アジアでは韓国人や中国人よりも日本人はずっと人気があるのです。
    軋轢の種になるような嘘を、米国の学校で教えてはいけません。彼ら(朝鮮と中国)は日米の中を引き裂こうとしているのです。






    *性奴隷の嘘に対して真実を語るサイト

    http://www.eagerexec.com
    (East Asian GeopoliticalExecutive Response 慰安婦についての解説)は信頼おけます。

    ここに述べられていることは正確で我々とのちゅおうさ結果とも一致しています。 インドネシアでは当時も今も日本は植民地から解放してくれた、とされています。2015年初めに現地に行って、戦時中の日本について調査しました。ジャカルタバンのアーリントン墓地(米国の国立墓地で、多くの戦死軍人や政府高官が埋葬されている。35代大統領だったジョン・F・ケネディもここに埋葬されている)、に行ってみればわかります。そこにはインドネシアをオランダから独立させるために戦った日本兵も埋葬されています。中国や韓国は、日本を悪辣な国だと思わせようとしていますが日本はインドネシアで感謝され尊敬されているのです。私はこれまで8か国を調査し、(2015年現在)資金が調えばさらに他の国々も調べるつもりです。日本軍が20万人から40万人も誘拐したという証拠は全くないにもかかわらず、これまでマスコミはあたかも事実化のように報道してきました。いずれにせよ、それだけ自国の女性が、拉致されるのに、韓国人や中国人が、何の反撃もしなかったとしたら、とんだ臆病者です。


    *ミンディ・カトラー”差別主義”の名言集







    *韓国の男たちとその子供たちは臆病だったのか

    第二次世界大戦中、韓国の男たちは臆病だったのでしょうか?日本帝国陸軍が、20万人もの韓国女性を強制連行して「性奴隷(慰安婦)」にしたという疑惑について、裏付けのない主張が現在も拡大しています。
    慰安婦たちの主張を裏付ける、証拠を求めて、米国政府は、三千万ドル(30億円)の費用をかけて、調査を行いました。
    約七年の歳月をかけて、大勢の米政府職員や、歴史学者が、過去の公文書を徹底的に調査した結果、有力な証拠は何一つ見つからず、結局三千万ドルが、無駄に費やされました。

    IWGの最終報告書(Naz i Warand Japanese Imperial GovermnentRecords Interagency Working Group: ナチス戦争犯罪と日本帝国政府記録についての米国各省庁に残る文書を調査・点検してまとめられた報告書)は2007年に米国議会に提出され発表されました。
    この報告書を最初から最後まで読むことなく、誰も慰安婦問題について書いたり語ったりする資格はありません。

    韓国は日本が数十万人の韓国女性を性奴隷にするために強制連行したといいます。しかし、韓国人男性が、日本軍の行為に反抗して、戦ったという証拠は何一つありません。

    戦争中、韓国の人口は二千三百万人でした。
    現在テキサス州の人口は二千六百万人です。テキサス州の女性二十万人強制連行しようとしたら、何が起こるでしょうか。
    きっとあたりは血の海に染まることでしょう。
    その目的に動員された軍隊は何千人もの兵士を失うことになるでしょう。
    戦闘と虐殺の証拠は、写真、動画、戦闘の痕跡等山ほど残っているでしょう。
    テキサスで二十万人の女性を奪ってレイプしたら、あたりは間違いなく血の海になるでしょう。しかし韓国にはそのような痕跡はありません。
    つまり韓国政府は戦時中、韓国男性は臆病者の集団だといっているのです。
    日本軍の中には数十万の韓国人兵がいました。
    数十万の武器を持った、韓国人兵は自分たちと同じくらいの年齢の数十万人の若い女性が強制連行されるのに抵抗しない臆病者だったのでしょうか?







    *フェイスブックのパワーで慰安婦のストーリーが崩れ落ちていく


    明かになった点

    2014年のはじめ朝日新聞は吉田清治の「慰安婦を強制的に奴隷とした」という証言を確かめもせずに報道してしまったことを謝罪しました。

    ニューヨークタイムズは朝日の記事を丸飲みしてきていました。

    「ニューヨークタイムズ」が触れていない第一次情報源として
    IWGの最終報告書(Naz i Warand Japanese Imperial GovermnentRecords Interagency Working Group: ナチス戦争犯罪と日本帝国政府記録についての米国各省庁に残る文書を調査・点検してまとめられた報告書)をあげることができます。

    これは2007年に米国議会に提出されました。ナチスと帝国日本の戦争犯罪を暴こうという運動のもと、、総額さん線万ドルもの経費をかけ、総計八百五十万もの書類を調べた結果が、一般に公開されました。しかしながら、当時の日本政府や、日本軍による、売春の強要の証拠は何一つ見つけることができませんでした。

    IWGレポートではそのような証拠を待ちわびていたとみられるある団体に対して、謝罪まで述べています。

    IWG2007。慰安婦は売春婦。米議会日本軍性奴隷調査結果

    米軍は旭日旗に敬意<br><br>
マイケル・ヨン 2018

    1944年に米国戦争情報局(OWI)が発表したレポート49

    には20人の韓国人慰安婦への聞き取り調査の結果が掲載されています。
    彼女らは性奴隷ではなく、賃金が支払われていた売春婦であり、

    日常的に将校や軍人たちとスポーツイベントやピクニック、エンターテイメント、ディナーをしていたと書かれています。この第一次情報源では売春婦は高級売春婦であることが明確に述べられています。

    興味深いことに最近韓国に駐留する、米国軍の慰安婦であった、韓国の女性グループが、韓国政府を訴えました。

    米国のメディアは即座に彼女らは売春婦だとして報道したにもかかわらず、

    同じ米国のメディアが日本軍の「慰安婦」の場合は「性奴隷」と言い続けています。
    日本軍と米軍の基地はそれぞれの時期にそれぞれの「慰安婦所」を持っていて、娼婦にお金を払っていたのです。おかしなことに日本軍にサービスすると同じ「娼婦」が「性奴隷」になってしまうのです。

    、 *慰安婦像、豪州ストラスフイールドへ







    *情報戦としての慰安婦


    韓国が日本を非難することは、時刻や、ベトナム等でのおびただしい、数の戦争犯罪を想起させます。今日でも売春婦ビジネスは韓国のGDPの四パーセントを占めます。

    売春は韓国では巨大ビジネスです。売春婦は韓国の巨大輸出産業でもあります。

    第二章 第二次世界大戦






    *南京ーーある本

    [南京にて  ジョン・らーべの日記」(南京の真実)

    らーべは日本の侵攻から多くの中国人を救ったといわれています。多くの出来事が、彼の日記に帰されています。

    中国人が他の中国人に残忍出ること。本来軍や武器と葉無縁の安全区。安全区では日本人が住む代わりに中国軍の侵入や、武器の所有の禁止が合意されていました。
    ラーべによれば、中国軍はその約束を破り、日本の攻撃を防ぐために、あるいは日本人を攻撃するために、安全区内の市民に紛れていました。実際中国軍の兵士の多くが制服を脱ぎました。いうまでもなく制服を脱ぎ市民に紛れることは惨劇を招くものです。らーべが言っていることの引用です。






    *神風とメダル表彰者

    フィリピンの神風記念館。
    神風パイロットが酷くさげすまれ、同様なことをしたと思われる、米軍の兵士が、称えられていることの二重性。
    1944年、海軍一等兵、リチャード・アンダーソンの死後
    彼に授与された名誉勲章に刻まれた文言。

    「海軍一等兵、アンダーソンは勇敢にも自己犠牲を選んだ。
    手投げ弾の上に自ら覆いかぶさり、爆発の衝撃を、すべてその体で受け止めて、仲間を救った。市に直面しての、彼の勇敢さと、そのたぐいまれな愛国心は 米国海軍の気高い伝統にかなったものである。」







    *神風とイスラム自爆テロリストとの違い

    パリのフランスのルモンド紙がパリの自殺テロリストと「神風」を比較しました。
    神風とイスラムの自爆攻撃者は大きく異なります。イスラムの自爆攻撃者は彼らのやっていることはすべて犯罪です。
    パリの自爆攻撃者は軍服を傷、民間人に紛れて、民間人を攻撃しました。民間人が主要なターゲットでした。 神風の場合は全く異なります。彼らは何の犯罪もしていません。宣言された戦争において、神風は法的に戦闘に従事しました。

    別の話ですがもしも神風が米軍の飛行士だったならば、彼ら全員に、米国の最高名誉賞が授与されていたでしょう。






    *フィリピンでの日本軍

    フィリピン、ルソン島のクラーク空軍基地近くで

    84歳の戦争目撃者ダニエル・ディソンから興味深い話を聞きました。

    インタービューは2時間以上に及びました。ディソン氏は侵入者である日本人を微妙なニュアンスを込めて説明しました。・・・

    先ごろインタビューした他の戦争目撃者もどうような見解を述べていました。彼らは日本軍に肯定的であったこと。

    彼らは、「日本軍は米軍よりも、子供に対して友好的であった」と言っているのです。

    「日本軍は子供たちに対し、自分の子供や兄弟姉妹のように接していた」と述べています。

    ディソン氏に慰安婦について聞きました。

    彼はもともと米軍が売春宿を運営していたといいました。

    日本軍が侵攻してきたとき、彼らは自前の売春宿を持っていたようです
    (彼によると彼女らは性奴隷などではなかったそうです)

    書いておきたいことがあります。二晩ほど前エンジェルス市を歩いていた時、そこにいた売春婦に出会いました。そこにはたくさんの売春婦がいました。






    *歴史を直視し、軍国主義と一線を画すべきでは  中国

    「日本は歴史を直視し軍国主義と一線を画すべきだ」と中国が述べた

    第二次世界大戦ののち!に五千万人以上の自国民を殺害、餓死、または処刑した中国がそう言っています。

    チベットを侵略し、国を奪った中国がそう言っています。
    ウイグル族を叩きのめし、ベトナムを脅し、香港、台湾を脅し、フィリピンを脅し、自国民に堕胎を強要する中国がです。

    皆の知的財産を盗んでいる中国がです。「お前は偽善者だ」都の商標をつけるべきでしょう。






    *ビルマでの日本軍

    83歳の男性と76歳の彼の妻にインタビューしました。

    ビルマにて第二次世界大戦中の日本軍についての話を聞いて回っています。

    年配の人々に日本人についての記憶を訪ね第二次世界大戦中の日本人と今の日本人についてどう感じるか聞きまわっています。

    私がフィリピン、タイ、ミャンマーで見出したことは

    驚くことに多くの場合、、年配者たちは日本軍について良い印象を持っているということです。

    私は教えられてきました。

    韓国と中国が毎日繰り返しているように、それらの国々で、多くの女性が日本兵の犠牲になったと。

    しかしながら大々的な虐待についての証拠は全くありません。

    ミャンマーでも何も見つけることはできませんでした。・・・・・・

    戦争時のレイプや犯罪について聞いてみました。

    彼らはそんなことは聞いたこともないといいました。日本人はよくしてくれたし、子供たち(当時は子供でした)にも良くしてくれたといいました。

    この言葉はミャンマーのシッタンや他で聞いたことを思い出します。日本兵は彼らの家を訪ね昼食や夕食を共にしたそうです。シッタンで聞いたことと全く同様です。

    *平手打ちーーJap Slap
    *マレーシア、ペナン島の反日プロパガンダ
    *中国共産党が画策する、ペナン島、反日プロパガンダ







    *慰安婦問題を啓発することを目的とする美術展

    印象操作する見出し
    「インドネシアで慰安婦問題を啓発するための美術展を開催」

    インドネシアは様々の意味で親日国です。

    残酷なオランダ帝国主義二より何世紀も支配されていましたが、オランダからの独立に日本人が手を貸しました。

    日本軍はオランダ軍を汚れた絨毯のホコリをはたきだすようにインドネシアから追い出しました。
    オランダは第二次世界大戦後にもインドネシアで虐殺を行っています。

    日本兵はインドネシアのジャカルタにある国立墓地にイスラム教徒とともに埋葬されています。

    イスラム教徒は異教徒と同じ墓地に埋葬されることを嫌います。
    しかも日本兵にはクリスチャンもいました。しかしながら日本兵は彼らの英雄だったのでその国立墓地に埋葬されています。






    *日本とアメリカの医学実験

    我々が第二次世界大戦中の性奴隷物語についてどんどん真実を明らかにしていくにつれ、一部の人はまだ人種偏見を引きずり

    日本人の首根っこをつかむ何かを見つけようとします。

    彼らは「でもパターンの死の行進についてはどうなのだ」
    私は2015年の1月にパターンに滞在しましたが
    程度の差こそあれ、戦争犯罪が起こったことは事実でしょうと答えます。

    我々だって「(アメリカ先住民強制移住の)涙の道」で同じことをしています。

    そうすると彼らは「(東南アジアで連合軍捕虜を使った)死の鉄道建設はどうなんだ?」といいます。いいでしょう。これも実際に起こったことです。

    しかしだからと言って我々がかって奴隷を保持したり、1950年代まで黒人をバスの奥に座らせたり、黒人をリンチしたりしていたのと同じです。

    すると今度は「ザ・レイプ・オブ・南京はどうなんだ?」と言ってきます。日本人に関するこれらの告発はほとんどの場合、全く信用できない中国が発信元です。

    「ザ・レイプ・オブ・南京の著者は中国系アメリカ人で精神を病んでいました。彼女は後に拳銃自殺しました。 拳銃を咥えて自殺することによって、話に疑いが増すというよりも信頼性が増すと考えるとしたら正気の沙汰ではありません。

    「南京大虐殺」と呼ばれる事件を調査した歴史学者たちはその詳細について大きな疑いの余地を見つけています。

    例えば殺されたとされる人々の人数が当時の南京の住人よりも圧倒的に多いことなどです。

    アメリカ人たちも「ダスキギー梅毒実験」において、生きている黒人に対して医学的犯罪に関与しました。 これらの実験は1932年から1972年にかけて実行されました。被験者は貧しい黒人男性でより良い社会を作るという名目のもとに実行されました。

    中国と韓国が日本の歴史について何か言おうと出しゃばれば出しゃばれるほど

    中国が人類史上最大の人類虐殺を犯していることを我々は思い起こします。
    これらの大虐殺がすべて第二次世界大戦後に起こったことですが、班員の多くはいまだに政権の中枢に居座っています。

    韓国の歴史を見れわ見るほど思います。

    正義はフェアな心と事実を必要とします。我々は世界に拡散した、性奴隷制度なる物語について地道に調査を続けます。すでに 性奴隷の物語はフィクションであると分かっています。






    *南京大虐殺の映画の数字に日中双方からクレーム

    テーマは30万人です。
    南京戦争記念館は、中国人による、中国人への戦争犯罪を無視する一方で、日本への憎しみを駆り立てるために、作られたものです。バスを連ねてやってきた中億陣が入り口に殺到しています。中国語だけが聞こえました。日本語やタイ語は聞こえませんでした。入場は無料です。

    「悪鬼日本がレイプと人殺しをするためにやってきた。」と書かれた石碑。 しかしながら同じ戦いでの中国人の大量虐殺には一切触れません。

    30万人という数字が石に刻まれ、表示板に表示され、ライトアップされ、何所を見ても30万という数字が出てきます。

    すべての展示品が写真撮影を許可されています。

    館内には集団墓地のように、ヒトの骸骨が おかれています。本物の骸骨のように見えました。少なくともよくできたレプリカです。このように人骨を宣伝に利用している例をカンボジアで見たことがあります。

    、 しかしいわゆる「南京大虐殺」で30万人が殺されたという証拠は一つもありません。 証拠はゼロです。

    フェースブックやツイッターも情報統制されています。禁止や東征されているものの多いことは驚くほどです。 南京事件について中国側のストーリーに意義を唱えるものは「極右日本の国家主義者」都レッテルを張られます。

    米国民は、中国政府が息を吐くように嘘をつくことを知っています。それならばなぜ「南京大虐殺」のことになると急に、中国政府が真実を言っていると思うのでしょうか。
    米国の当時のプロパガンダでは三万という数字でした。その数字の大部分は、中国人が中国人と戦って死んだ数字だということを米国は知っています。






    *朝鮮人の戦争犯罪

    ここ25年から30年の間、韓国人は、自分たちは、日本の占領と残虐行為に痛めつけられた、罪なき犠牲者だ、というのろしを上げ続けています。しかし、それは嘘です。特に最近10年間は信じられないほどの悪辣さで嘘をつき続けています。

    真相はこうです。
    日本は朝鮮を侵略して、占領したのではありません、日本は1854年まで鎖国をしていましたが、アメリカの砲艦外交で開国しました。

    ・・・・
    最終的には1910年日本は朝鮮の同意のうえで、朝鮮を併合しました。我々がハワイを併合したより、ずっと文明的でした。数十万人の、朝鮮人が日本軍に加わりました。朝鮮人の士官もいました。警察官や官吏、日本の国会議員になった、朝鮮人もいました。今日、朝鮮人は当時のことを話題にするとき、日本からいかにむごい扱いを受けたかと嘘をついています。

    第二次世界大戦中、「ジャップ」によってなされた同盟軍兵士に対する残虐行為と呼ばれるものの実際は朝鮮人によるものが大半でした。信頼度や戦闘意欲に問題があったため、朝鮮人は看守にされることが多かったのです。

    看守の中でも朝鮮人は、特に残忍でした。アメリカ人は日本人と朝鮮人の遅配が分からないので彼らをひとくくりに「ジャップ」だと思っていました。

    オーストラリア人、イギリス人、オランダ人そのたは日本人と朝鮮人を区別できたので、朝鮮人を嫌っていました。

    このオーストラリア人の戦争記録文書を読んでください。

    「かっての戦争捕虜たちが看守の戦争犯罪人の人定めをしているところです」

    「1945年9月、タイ国サラブリ。日本帝国陸軍の朝鮮人看守を並ばせて、戦争犯罪人の特定をしている。朝鮮人看守は、タイメン鉄道工事の労役に従事していた連合軍兵士の捕虜に対し、最も残忍であった。日本の降伏後、日本兵の戦争犯罪人を特定するための首実検、がかっての戦争捕虜によってなされているところ。(ドナー・B・セオボールド)






    *日本生まれの北朝鮮人ーーー非常に憂慮すべき問題

    1945年8月、戦争が終わり、一部の朝鮮人は日本に残りました。

    第二次世界大戦で日本はほぼ破壊されましたが、朝鮮はいわば脛に少しひっかき傷を作った程度です。

    朝鮮人の話を聞くと、まるで日本が朝鮮人を何百万人も虐殺した。と思ってしまうかもしれません。そんなことはありません。多くの朝鮮人が殺されたのは第二次世界大戦後の朝鮮戦争の時です。日本軍は無関係です。 第二次世界大戦の時に、朝鮮のどこが爆撃され、何所が侵略されたか、を朝鮮人に聞いてみてください。怒り出すでしょう。彼らは答えられませんから。

    ・・・・ 慰安婦についていえば、当時売春は完璧に合法でした。韓国人は売春業で有名です。今日でも韓国そのものが巨大な売春宿として知られています。2017年の現在でも韓国の街角では老女は春を鬻いでいるのです(売春している)。

    *ベトナム戦争での韓国人






    *アメリカの大学生との対話

    サンフランシスコ州立大学で日米関係を学んでいる学生から8項目の質問が来ました。

    1.あなたの背景情報を簡単に教えてください。






    2.日本が戦争犯罪に関して正当化を主張することに対して、今日アメリカが無関心であるのは、日本の積極的な情報提供がないからでしょうか、あるいはアメリカの政治的判断なのでしょうか?

    A.両方です。そしてそれ以上です。

    「マーケッティングが問題の要です。日本は、真実と純粋な意図で十分と信じており、真実を話せば人々はーー純粋な意図を持っている限りーーーそれを信じてくれるのが当然だ、と考えます。

    しかし、西側諸国では、それは通用しません。そのアイデアも商品と同じように、「マーケッティング」して売り込まねばならないのです。日本は、自分の物語を、真剣にプレゼンテーションしているようには見えません。中国、韓国は両国とも、自身の歴史観のマーケッティングに非常に長けています。

    多くのアメリカ人が好意を持っているイスラエルさえ、中東の出来事、イスラム過激派の主張と戦うため自分たちの主張を「売り込まねばなりません」

    それに日本は、中国、韓国からの宣伝だけでなく、アメリカがどう見ているかについても対処しなければならないのです。

    先の太平洋での対戦を太平洋諸国への圧政からの解放のためにアメリカは戦った、と信じられている見解に意義を申し立てることは、アメリカ人の気持からすれば大問題です。

    太平洋戦争の現実は我々(米国)が戦った、他のどんな戦争とも同じ、地政学的理由によるものでした。我々はただ、プロパガンダに長けていた。これが決定的でした。

    日本は中国、韓国のプロパガンダに負けています。






    3.歴史観が対立していても、日米両国は友好的な関係を保てるでしょうか?それとも双方の間で、もっとコンセンサスが必要でしょうか?

    A.安倍首相は先日のアメリカ議会の演説で、硫黄島の戦いの両当事者、アメリカのスノーデン大将、栗林中将の子孫を紹介しました。

    旧敵との和解を示すため対象は、他の退役軍人とともにその場にいたのです。歴史には必ず、見解の違いがあります。
    日本はもっと、真剣に、歴史の、論理的、感情的なプレゼンテーションを行うべきです。






    4.フランクリン・ルーズベルトによる、JB355(日本本土爆撃計画)、蒋介石軍への、アメリカ人パイロットや戦闘機提供は、戦争行為だと思いますか?

    A.開戦に先立ってアメリカは、中国国民党支援のために、多くのことをやりました。

    飛行機燃料だけで無く、中国航空機製造会社顧問、
    公的あるいは民間人による暗号解読支援。強力な諜報艦もそうです。

    アメリカ海軍は10年以上、対日本戦争演習をやり、日本から抗議 を受けましたが無視しました。

    アメリカはB17 爆撃機、空の要塞、をフィリピンに真珠湾に艦隊を配置し、日本領土(台湾)に対する初期攻撃能力を備えました。

    ソ連がキューバにミサイルを持ち込んだ時の、キューバ危機と事情は同じです。

    この時ケネディ大統領は第三次世界大戦を覚悟して、キューバ海上封鎖を実施しました。日本にとってもフィリピンにB17重爆撃機が導入されたのは事情は同じでした。






    5.日本は自前の軍と装備を開発するべきでしょうか?あるいは独仏両国が、EUと協力しているように、同盟諸国と協力して、兵器を開発すべきでしょうか?

    A.日本は他の同盟諸国と、良い関係にあります。

    日本は検討すべきです。






    6.アメリカは、日本に核兵器の保有を許すべきでしょうか?中国等からの強い反対があってもそれは可能と思いますか?

    A.中国は日本が何をしようと、常に文句をつけてきます。

    屈服し、属国にならない限りは。

    日本の指導者と報道陣はこのことを、理解し、国際的報道陣にこのことを言うべきです。

    中国は北朝鮮、パキスタン、イラン、の核武装化に協力しているではないか。






    7.アジア諸国に対して、戦争犯罪を直接謝罪することは長期的にみて、日本の利益になるでしょうか?
    それとも日本の権益を弱めるでしょうか?

    A.日本はすでに謝罪しています。中国は日本が属国にならない限り、謝罪を受け入れないでしょう。

    韓国はもう一世代立たないと成熟国家とならず、自国の本当の歴史を理解しないでしょう。

    だからいつも文句ばかり言っているのです。謝罪と賠償はもうとっくの昔に住んでいます。

    中国は1930年代から今日まで、大躍進、文化革命、天安門事件、チベット、ウイグル、満洲、内蒙古、ベトナム、インド等等数百万人のアジア人に対して行ってきた、大量殺戮と与えた苦しみを謝罪するべきです。






    8.日本は戦争犯罪に対して、今、どのような道筋をとるのが最善でしょうか?

    A.日本はすでに戦争犯罪に対して、何度も支払いを済ませています。加害者たちは絞首刑となりました。

    中国は死人を墓から掘り起こし、再度処刑せよと毎年のように言うのです。自分の意図と人権抑圧から、世界の目をそらすためです。

    安倍首相は連邦議会で素晴らしく振舞いました。首相はアメリカの退役軍人に謝罪しました。

    過去をたどれば、戦争犯罪から免れる国はありません。

    *求む真実!  賞金2万ドルを進呈します

    「1944年に、ティニアン島で、日本軍が、五千人の朝鮮人を殺害した」というローラ・ヒレンプランドの主張を立証できた方には二万ドル を進呈します。



    テニアンで朝鮮人虐殺はなかった<br><br>
マイケル・ヨン 2018



    テニアンで朝鮮人虐殺はなかった<br><br>
マイケル・ヨン 2018

    *真珠湾攻撃から七十五年

    当時わが国(アメリカ)の為政者と軍の指導者は真珠湾に駐留していた、部隊を見殺しにしました。非常に悲しむべきことです。

    日本の攻撃が差し迫っていることは世界中が、知っていました。新聞は攻撃が近いことを報道していました。

    真珠湾が卑怯な急襲でなかったことが知らされると、アメリカ人の多くは「日本が真珠湾を攻撃するとは思はなかった」と以前とは違った理由で日本を非難しようとします。

    しかしこれは奇妙なことです。なぜなら添付した、秘密指令文書で、真珠湾攻撃のちょうど1週間前に、日本のカリフォールニア攻撃を予測し、それに対して、準備していたことが明らかです。
    カリフォールニアへの攻撃は準備し、ハワイやフィリピンへの攻撃にはなんの準備もしなかったというのでしょうか。

    他によくある非難の理由としては、「日本の宣戦布告が少し遅れた」というものです。
    そんなことをだれが気にするでしょう?

    我々は攻撃が差し迫っていることを、「知っていた」のです。攻撃が近いことは新聞の見出しにも大きく載っています。

    1941年12月7日以降、アメリカは何時、宣戦布告したでしょうか。真珠湾攻撃の数日後に、ドイツトイタリア、数か月後に、ハンガリーとブルガリア。1942年6月5日にルーマニアに宣戦布告したのが最後です。

    すなわち、第二次世界大戦後、に我々が戦ってきた、戦争及び今も戦っている数々の戦争では宣戦布告は一切されていないのです。あれから一体いくつの戦争を戦ってきたのでしょうか。

    朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争・・・・・ ・・・・・

    真珠湾奇襲について調べれべ調べるほど、その時なくなった、わが軍の兵士たち、は。米国政府が日本を小突き回しちょっかいをかけ、首を絞めたのち、その日本をおびき寄せる生餌として犠牲になったと気づくのです。

    米国は実際何年にもわたって、日本を攻撃していました。おそらく九十九・九九九パーセントのアメリカ人は、真珠湾攻撃の前に米国が日本人を殺していたことに気づいていません。学校で教えられていませんから。 秘密文書の第一弾を見るとこうあります。

    「日本の敵愾心を取り除くことができないならば、日本が最初に明確な攻撃をしてくることが望ましい。」
    米国は日本の敵愾心を取り除くことを何一つしませんでした。

    ハワイの新聞には週末ハワイ攻撃が報道されていた。カリフォールニアでは攻撃にアクションをとれとの命令。ハワイでは何の防御準備もなし

    ハワイの新聞には週末ハワイ攻撃が報道されていた<br><br>
マイケル・ヨン 2018

    ハワイの新聞には週末ハワイ攻撃が報道されていた。カリフォールニアでは攻撃にアクションをとれとの命令。ハワイでは何の防御準備もなし

    ハワイの新聞には週末ハワイ攻撃が報道されていた<br><br>
マイケル・ヨン 2018

    ハワイの新聞には週末ハワイ攻撃が報道されていた。カリフォールニアでは攻撃にアクションをとれとの命令。ハワイでは何の防御準備もなし

    ハワイの新聞には週末ハワイ攻撃が報道されていた<br><br>
マイケル・ヨン 2018

    *千九百四十一年から続く改ちゅうと陰謀ーーパール・ハーバー

    1941年12月7日にいわれなき奇襲攻撃を受けた、というルーズベルトの陰謀と改ざんですが、いまだに何千万ものアメリカ人がそのことを疑わないのが驚きです。

    ルーズベルトの作り話を信じるのは「月面着陸は嘘だった」とか「世界貿易センタービルへの攻撃はアメリカ政府の手によるもの」といった陰謀を信じるのと同じです。

    真珠湾攻撃の前から、アメリカは日本に爆薬で攻撃しました。1932年ロバート・ショートの空爆や1938年に台湾をソ連、シナ軍とともに爆撃したなどがあります。

    *ダグラス・マッカサー元帥の証言

    *日本人収容施設

    *インドネシアに眠る日本兵
    *ビルマで行方不明となった日本兵

    ソウルの慰安婦像

    ソウルの慰安婦像<br><br>
マイケル・ヨン 2018

    *済州島の「四・三平和記念館」

    慰安婦ペテンについて調査するため、済州島にいきました。そこで
    済州島の「四・三平和記念館」(「四・三」は1948年4月3日に発生した武装蜂起にちなみます)で一日を過ごしました。

    「四・三平和記念館」は中国の「南京戦争記念博物館」を連想させました。どちらの施設も「洗脳の日」を過ごす子供たちでいっぱいでした。

    この記念館は韓国人が韓国人を虐殺した歴史の事実を教えるのではなく、

    米国人に対する憎しみを韓国人に教える社であることがわかるでしょう。

    いずれにせよ韓国人は互いを虐殺し始めました。今日彼らは済州島で三万人が虐殺されたといっています。



    アメリカ人は食人種<br><br>
マイケル・ヨン 2018

    パンフレットの1ページ。中ほどに 我々アメリカ人は「アメリカ人食人種(American canniibels)と記されているのに気づきましたか


    アメリカ人は食人種<br><br>
マイケル・ヨン 2018

    パンフレットの1ページ。中ほどに 我々アメリカ人は「アメリカ人食人種(American canniibels)と記されているのに気づきましたか


    朝鮮人はアメリカの敵であり、我々と戦いました。1945年に米国と日本/朝鮮との戦争は終わりました。

    戦争によって日本はその国土を大規模に破壊されましたが、韓国は事実上何も被害を受けませんでした。しかしながら今日韓国人に聞くと、韓国が第二次世界大戦で、どの国よりも被害を受けた科のように言います。実際には何も被害を受けていません。朝鮮には侵攻や、爆撃作戦は行われず、鳥やコオロギが鳴いているだけでした。

    1983年、日本人の共産主義者である、吉田清治が「日本軍が済州島で朝鮮人女性を、性奴隷にするために、約二百人拉致した」との慰安婦のペテン(後に嘘だったと本人が認めた)を始めるまで慰安婦問題は存在しませんでした。

    性奴隷のペテン話を作ったのは一人の日本人共産主義者だったのです。今、慰安婦はふくれあがって、200人から1000人そして2万人、40万人まで膨れ上がりました。

    だが40万人は膨れ上がりと悟ったらしく今は20万人といっています。

    それから済州島の、情報戦士たちは「四・三平和記念館」というとんでもないものを建てました。済州島の「虐殺博物館」で買った、別のパンフレットの一ページです。

    我々アメリカ人は「アメリカ人食人種(American canniibels)と記されているのに気づきましたか


    米軍は旭日旗に敬意。米陸軍、海軍旭日旗デザイン

    米軍は旭日旗に敬意<br><br>
マイケル・ヨン 2018

    情報戦の真実マイケル・ヨン 2020

    米軍は旭日旗に敬意<br><br>
マイケル・ヨン 2018

    *日本と中国の歴史ーーー読者からの質問
    *日本だけが悪者なのか




    第5章大日本帝国のアジア解放思想

    3.侵略主義の対極に立っていた「大陸浪人」の真実

    4.中国人の裏切りと満蒙独立運動

    5.第アジア主義が生んだ満州国

    6.アジア解放のための国内改造運動

    第6章超大国に戦争を挑み続けた大日本帝国

    1.東アジア主導権をかけた日清戦争

    2.日本の「檜舞台となった「北清事変」

    3.世界の予想を裏切った日露戦争の勝利

    4.日本を追い詰めた超大国群の挑発

    5.日本の最終攘夷戦争としての大東亜戦争

    第7章大日本帝国の大東亜共栄圏の精神

    1.英米主導体制への隠忍自重の限界

    2.東亜新秩序のあい路であり続けた中国

    3.アジアの共存共栄を理念とした新世界秩序建設

    4.大東亜共栄圏の東アジア史における画期的意義

    5.世界に受け継がれた「八紘一宇」の神道精神

    6.大東亜共栄圏構想の優越性

    第8章「君民一体」を原動力とした大日本帝国

    1.維新を支えた超伝統的存在としての天皇

    2.近代日本の支柱となった天皇の神聖観

    3.「統帥権独立」派国を破滅に導いたか

    第9章文明史の中での大日本帝国

    1.なぜ近代国民国家への転生に成功したか

    2.中華文明を克服した大日本帝国

    第10章大日本帝国の世界史的な大貢献

    1.西欧列強の地球分割を阻止した日本

    2.アジア独立を達成させた日本人の解放理念

    (1)現代の中韓の歴史教育ではいかにも自国民が反日抗日、反帝反米闘争を闘った

    ように教えているがそれは嘘八百の創作である。これらの国では異民族の軍隊たいていは解放者として歓迎し激しい抵抗などは例外なのだ。朝鮮ではモンゴル人や満洲人による「胡乱」も日本人による「和乱」も民衆からは歓迎され、「義兵」の闘争などまれだった。

    、、 (2)白人植民地からの東アジアの解放

    大東亜戦争中、日本軍の占領下で独立を達成したのは、ビルマ、フィリッピン、そして自由インド仮政府である。仏印のベトナム、カンボジア、ラオスも1945年3月、フランスから独立を宣言した。

    ビルマはアウンサンスー・チー以下30名の「志士」が1943年独立式典を行った。フィリッピンは1942年8月に日本軍が独立運動の指導者、パルガスを長官とする、行政府を作り、1943年10勝ち、ホセ・ラウレルを大統領とする、フィリッピン共和国が、誕生した。

    自由インド政府は1943年10月、チャンドラ・ポーズを首班として、シンガポールで発足した。ポーズはこの時インド国民軍(英軍インド兵の捕虜で編成)の司令官に就任し、後、日本軍とともにインパール作戦に参加した。

    戦後インド国民軍の将兵はインドでイギリス軍に反乱の罪で裁かれた。これに激高したインド国民は、二年間にわたって反乱を起こし、その結果1947年にインドは独立した。

    1943年3月日本軍は仏印のフランス軍を武装解除した。フランス総督府の反日姿勢、及び日本外務省の「アジアの解放を貫徹したい」という強い意向が反映された。

    これにより、ベトナムはグエン邑生町最後の皇帝、パオ・ダイが安南帝国の独立を宣言した。次いでカンボジアでは、ノロドム・シアヌーク王がフランスとの保護条約の破棄を宣言し、よく4月にはラオス王シサヴァン盆が独立宣言を行った。

    インドネシアにおいては1943年にはすでに日本軍の指導下でPETA(郷土防衛義勇軍)が編成され四万名近い将兵が養成されていたが、個々での石油やゴム等の資源を確実に確保したい日本陸軍の戦争遂行上の都合によりインドネシアはマレーとともに「帝国領土」に組み込まれた。

    しかしそれでも1944年9月小磯内閣はインドネシアの独立を約束し、終戦直前の1945年8月9日には鈴木内閣も独立許可を再確認している。

    そして終戦の良く翌日8月17日、スカルノは独立を宣言した。

    マレーシアでは、日本の軍政下で興亜訓練所が設置され、あるいは若い留学生が南方特別留学生として日本に派遣され、このように養成された人材が戦後、

    マレーシアを独立させ、国の中核となった。

    日本軍はアジアの各地でこのように、それまでの白人支配者の奴隷状態にあった、諸民族を独立させた。もちろん独立に先立ち、以上のように、新国家経営の人材も養成したのだった。

    (3)日本軍による華僑粛正の歴史的背景

    こうした中でさらに良く見落とされる日本軍の東南アジアへの貢献がある。

    それはマレー半島などにおける華僑に対する「粛清」だ。マレー半島ではイギリスがスズ鉱山などの労働力として、導入した中国人が急速に増え、

    マレーシアの人口は1940年にはマレー人228万人に対し中国人(華僑)235万人に達していた。その華僑は、支那事変以来、重慶政府に通じそして抗日ゲリラ活動も開始したため同半島を占領した日本軍は、これを抗日分子とみなし、粛清を行ったのだった。この時とらえられた華僑は、日本軍により、「大虐殺」されたとして、今日では日本のアジア侵略の代名詞の一つまでなっている。

    イギリス植民地時代の南洋華僑は常に植民地統治者の側にあり、そのばんとう、仲介人となっていた。

    政治を白人がつかさどるなら、経済は華僑が牛耳り、マレー人に対し、白人以上に、搾取者収奪者になっていた。

    そもそも白人の植民地支配は、代替代理統治する人種を設定するもので、アジアではインド洋からアフリカが印僑、ビルマから東は華僑が代理支配を務めた。

    このように東南アジア諸民族と南洋華僑の対立は経済的文化的なものを超え、民族的対立まで昂進だから政治的変動の旅に華僑には襲撃が加えられるのであった。

    戦後も華僑への反感は消えていない。ベトナムは華僑の追放を行い中越戦争を起こした。インドネシアでも近年華僑排斥暴動が発生したことは記憶に新しい。

    ・・・・・・ 日本フンの華僑粛正はこのような民族間の緊張のもとで行われた。日本軍の進軍が東南アジア諸民族から歓迎されたのは、支配者である白人を駆逐したからだけでなく、その代理支配を担当していた華僑を粛清したからである。

    ・・・・

    マレーシアにおける華僑の粛正と、マレー人の人材育成は今日のマレーシアの基礎を築いた華僑を追放しない限り、マレーシアの解放はあり得なかったのである。

    インドネシアの独立運動の歴史は長いが、それは華僑の経済的搾取に対する反抗運動でもあった。イスラム同盟の運動は直接的には華僑排斥運動であった。ここでもまた華僑はオランダ人以上に過酷な搾取を行っていた。

    一昔前には東南アジアの反日デモがしばしば報じられたが、それを主導してきたのは華僑勢力と何らかの意図がある日本のマスコミであることに注意しなければならない。華僑は日本政府の謝罪表明を喜んで受け入れるだろうが、諸民族はそれを逆に、日本の東南アジアへの敵対行為とみるはずである。



    (4)アジアとの共存共生の道を選んだ日本の精神

    a.フィリピン等

    ではスペイン、アメリカの植民地植民地支配に反抗する、独立闘争が行われたが、台湾総督府の参謀の原偵は「フィリピンの独立を救援しなければアメリカは必ずこの地を占領し東亜の自由と発展を阻害するだろう。」として、軍籍を退き五人の民間人と義勇隊を組織して戦地に駆け付けた。かららは独立軍のリーダー、アギナルドの歓迎を受けその軍事顧問となった。この時フィリピン在住日本人300人も独立軍に加わった。

    b.ビルマの繁栄独立運動は、

    二十世紀初頭日ロ戦争に触発された仏教青年会のオッタマ僧正と仏教団体総協議会のウ・ソーテンの二人によってはじめられた。大東亜戦争勃発の年である、1941年2月、鈴木啓司大差を機関長とする南機関が、ビルマ独立支援のために設立された南機関はアウン・サンら30人のビルマ青年を、海南島においてビルマ独立戦争要因として、訓練した。

    日本軍がバンコックに進駐すると、アウン・サンを中心とする、ビルマ独立義勇軍(BIA)が南機関によって編成された。そしてBIRAへは日本軍のビルマ進撃とともに志願者が増え、

    ラングーン陥落時には、四万人まで達していた。その後、鈴木大佐は、早期のビルマ独立を求めて参謀本部と意見対立し、北海道への転属を命じられ、南機関は解散した。

    これを嘆いたBIAは「我々は独立軍の父、ビルマ独立の庇護者、ビルマ独立の恩人のことを忘れない」との感謝状を鈴木大佐に贈っている。

    また、鈴木はB級戦犯として戦後ラングーンの 軍事裁判にかけられたが、BIAの元将兵らが抗議し、無罪になっている。



    c.インドネシアの独立運動

    今村均中将率いる日本軍の第十六軍はわずか十日かんでインドネシア全域を制圧、獄中から解放されたスカルノらは今村中将に日本の軍政に協力することを約束した。

    やがて開戦一周年を記念してブートら運動が始まった。これは民間の総力を結集して、防衛に当たるというもので、

    五十六万人者青年を団員とする大組織が出来上がった。

    さらに軍事訓練を受けた、団員によって、インドネシア郷土防衛義勇軍(PETA)が編成された。

    PETAの教育は柳川宗成大尉が中心に進められ、、日本軍式スパルタ教育が行われた。

    日本の敗戦でPETAは解散したが、その四万の兵力は、戦後の独立運動の主力となる。独立戦争は日本の敗戦、二日後の独立宣言とともに開始された。この年九月、英印軍の進駐から、

    49年12月のハーグ協定による独立承認まで、実に四年半に及ぶ、戦いが展開されたのである。 日本軍は連合軍から、独立運動の弾圧を命令されたものの、それに反して、大量の武器弾薬を独立軍に渡したほか、多くの将兵が軍を脱走し、独立軍に身を投じた。

    スマトラで約く500人、ジャワでは約270人がインドネシア人との共生同死を誓い、そして多くが戦死した。ハワイ出身の日本軍政研究家ジョージ・s・カナヘレは著書「日本軍政とインドネシア独立」の中でこう記している。

    「日本はインドネシア語の公用語化を徹底的に推進し、インドネシア国民としての連帯感を人々に植え付け広域の太秋を、インドネシア国家の国民として組織した。特に若者に民族意識を植え付け、革命の戦闘的情緒と雰囲気を盛り上げた。またPETAの革命における意義は大きく、これなくしてインドネシア革命はあり得なかった。

    d.マレーでも日本軍の進撃は歓呼の声で迎えられた。

    戦後、外相を務めたラジャー・ダト・ノンチェック氏は「新国家、マラヤ連邦の建国の基本策と具体策は、冬至のマレー人青年の日本グループによって進められたといって過言でない。

    あの当時の国家計画庁本部は湘南、マラヤの両興亜訓練所や、日本に留学した、南方特別留学生の同窓会の雰囲気だった」と語っている。

    マラヤ大学の副学長だったウンク・アジス氏は「日本軍がもたらした「大和魂」のような考え方を持つことは独立のためにどうしても必要だった。

    日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏したのち、英国人が踊ってきて、植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき人々は立ち上がったのだ」と証言している。



    インド独立の英雄、チャンドラ・ポーズは、1941年、ヒトラーに

    独立支援を要請し、「ドイツがモスクワにまで攻め込むなら、ついでに、インドにも来てほしい」と頼んだというが

    ヒトラーは「インドが独立政府を持つに状況に至るにはあと少なくとも百五十年かかる」

    と冷たく断った。そこでポーズはドイツの潜水艦に乗り、マダガスカル島沖で日本軍の潜水艦に乗り換え、シンガポールに来た。

    日本はポーズの後押しを決定し、シンガポールで彼を迎えた。そして,英印軍の捕虜、五万五千中、一万三千人を選抜しインド国民軍(INA)を編成し、ポーズを同軍の司令官に据えたのである。それと同時にポーズは自由インド仮政府首班に就任し、米英に宣戦布告を子なった。

    日本軍はすでに占領していた、インド領、アンダマンとニコバルの両諸島を、その領土に帰属させた。そして、日本、ドイツ、タイ、等7か国がこの政府を承認した。

    日本敗戦後、インド国民軍の将兵は、国家反逆罪で軍事裁判にかけられた。この軍事裁判において、首席弁護人でインド法曹界の長老グラバイ・デサイ博士は「インド国民軍将兵はインド独立のために戦った愛国者であり、即刻釈放すべきだ」。

    「インドはまもなく独立する。この独立の機会を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで、三十年も早くなった。インドだけではない。ビルマもインドネシアもベトナムも東アジア民族は皆同じである。インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興に惜しみなく協力しよう」と演説した。

    e.日本が与えた「自信」が戦後アジアを繁栄させた

    アメリカのJ・C・れブラ教授は著書

    「東南アジアの解放と日本の遺産」の中で「日本による占領下で 民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったことを、イギリス、オランダは知ることとなる」と日本の占領下で各民族が自信をつけたことを述べている。

    イギリスの歴史学者H・G・ウエルスは終戦直後、「大東亜戦争は大植民地主義に終止ふを打ち、白人と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の基礎を築いた」と評した。

    f.明治維新の世界史的意義ー−−ポール・リシャルの日本賛歌

    フランスの哲学・神学者で高名な詩人であったポール・リシャルの日本賛歌がある。・・・・

    文明論者A・J・トインビーは

    「日本人が歴史に残した業績はアジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去二百年間考えられてきたような不敗の半神でないことを明らかにしたことである。イギリス人もフランス人もアメリカ人も皆バタバタとドミノ倒しのようにやられてしまった。そしてアメリカ人だけが何とか軍事上の栄誉を保ち続けたが他の二国は不面目な敗北を喫した」(「オブザーバー」1956年10月28日)

    インドネシアの政治学者アリフィン・ペイ

    「日本が戦争に敗れ、日本軍が引き上げたのち、アジア諸国に残っていたのは、ほかならぬ、日本の、精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次世界大戦後に新たに起こった東南アジアの民族独立運動にどれだけ貢献したか認めなければならない」



    3.非西洋近代化のモデルとなった日本

    大東亜共栄圏の夢は日本の敗戦とともに消えたが理想だけは残った。

    戦前の軍国主義のノウハウと、戦後の経済主義のノウハウとはそれほど変わらない。



    4.台湾・朝鮮・満洲の近代化ー−ヒガシアジアでの第二第三の維新5・近代駐奥建設への日本の献身的協力



    日本の近代化が生んだ現代の中国語。



    「中華人民共和国」も人民、も共和国も日本製。社会主義の社会、も主義も。「四個現代化」の現代も個も。「改革開放」の改革も解放も。共産党の常用区である「革命」「解放」「闘争」「運動」「進歩」「民主」「思想」「同志」「理論」「階級」「批評」「計画」「右派」等皆そうだ。「天安門広場」の「ヒロバ」に至っては日本語そのままだ。

    実際今日の中国語も、日本語からの「借り物」であふれている。例えば思いつくままに、

    「基準」「「基地」「「石油」「現金」「支配」国際」「代表」「学校」「学生」保険」「出版」「電波」「業務」「警察」「伝統」「侵略」「拝啓」「論文」「建築」「作用」「意識」「現実」「常識」「進化」「理想」「「工業」「促進」「体操」「展覧会」「農産物」図書館」「炭鉱本」「高利貸」「生産手段」がそれだ。

    その他「中国式」の式「優越感」「好感」の間感「新型」「流線型」の型「必要性」「可能性」の性「出発点」の点「「文学界」の界「想像力」「生産力」の「力」「使用率」「効率」の率「客観」「価値観」「人生観」の観とうとう。

    このほか数詞の「噸」「吋」「糎」「粍」「哩」。「入口」「出口」「市場」「広場」「取消」「手続」「場合」「見習」「大型」「但書」「大熊座」「倶楽部」「瓦斯」「浪漫」といった例。などなどたくさんの日本製漢字が使われている。





    東南アジアの華僑問題 - 中国人の考えでは - J-Stagehttps://www.jstage.jst.go.jp ? asianstudies ? _pdf ? -char 東南アジアの華僑問題. 社会ピラミッド構造の尖端のヨーロッパ人支配者層と基底部の原住民農民層との中間に在って両者のいずれにも奉仕. するものとして、原住民より ... (4)アジアとの共存共生を選んだ日本の精神 3.非西欧近代化のモデルとなった日本

    4.台湾・朝鮮・満洲の近代化ー東アジアでの第2、第3の維新

    5.近代中国建設への日本の献身的協力

    6.日本における清国留学生の文化運動と革命運動

    7.「赤化」からアジアを防衛し続けた日本

    8.東アジアを支える日本の遺産

    5. 大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか

    加瀬 英明



    第1章

    日本が敗れるまで

    第2章仕組まれた対米戦争の罠

    第3章

    大東亜会議と人種平等の理想

    1.屈辱的な不平等条約の撤廃

    2.白人が拒絶した人種差別撤廃

    3.有色人種の光だった日本軍の侵攻

    4.有色人種のリーダーが集まった大東亜会議

    6.インド人から感謝される日本

    7.大東亜会議は世界史の転換点

    日本軍に協力した現地人

    第4章

    アジア諸民族を鼓舞した気高い精神

    1.インパール作戦がもたらしたインドの独立

    2.戦争未亡人からの手紙

    3.皇紀による年号が刻まれたジャカルタの独立記念碑

    「ムルデカ17805」 4.若者の心を打った「プライド運命の瞬間」

    5.字損自衛の精神を復元する

    6.シアヌーク国王が演じた日本兵

    「ボコールの薔薇」 7.対日協力者は民族の功労者

    日本の敗戦後中国では数千人の中国人は「漢奸」の名のもとに処刑された。南京政府、汪兆銘政府関係者だった。しかしフィリピンからインドに至るまで、裁判にかけられた、日本協力者はいなかったし、彼らは民族の英雄とみなされた。フィリッピンでは初代のラ売れる大統領の長男が日本の陸軍士官学校を卒業し他が。戦後日本駐在大使となった。秋の大統領の一家が対日協力者であったように、このようなことは枚挙にいとまがない。 第5章

    白人による人種差別からの解放

    4.164の独立国が誕生

    5.差別なき日本の統治

    6.日本統治下の朝鮮人は協力的だった

    7.白人にとってのインディアン

    8.馬小屋に閉じ込められた日系アメリカ人

    9.人間扱いされなかった日本兵

    アメリカ軍は日本兵の投降を許さなかった。捕虜にしなかった。投降してきても撃ち殺した。 大西洋単独飛行横断で有名な英雄リンドバーグは大佐として日本軍とたたかった。 「孤高の鷲ー−リンドバーグ第二次世界大戦参戦記」学研M文庫 10.トルーマンもマッカサーも人種差別主義者

    11.日本民族を絶滅させるべきかという質問

    12.ニュールンベルグ法より過酷な黒人差別

    ナチスはユダヤ人の判定にユダヤ人の血が1/5以上入っているとユダヤ人とした。アメリカでは戦後まで、黒人の定義を黒人の地が1/8以上入っていると黒人と認定者他。 13.差別主義的なアメリカが民主主義国といえるか

    第6章

    日本軍の「精神第一主義」

    第7章

    特攻隊はなぜ称えられるのか

    1.ソ連の自爆機とどいつの特攻隊

    2.世界で読まれる「神風・日本の特攻神」

    「神風・日本の特攻神」は世界でよく読まれている 3.「ばんだ隊」と「冨獄隊」

    4.特攻隊に見る至純な愛国心

    5.教養高き日本の庶民

    米軍将校だったパッシング少尉、ハーバード大学教授

    大宰府で

    月夜よし川音清けしいざここにいくもいか無もも遊びていかむ

    万葉集

    6.日本が実現した人種平等の世界

    7.世界で称賛される特攻隊

    8.東京大空襲は大虐殺

    9. 第8章 アメリカと日本の原爆 6.ドイツ人と日本人の扱いの違い 7.「ポツダム宣言」は日本の無条件降伏ではない 8.アメリカを恐れさせた日本軍 9.特攻隊な無駄死にではなかった 10.軍歌が愛唱される日本 第9章歴史を歪められた国 1.GHQが仕掛けた歴史戦 2. 3.歴史を歪めるアメリカ 4. 5.自虐史観を蔓延させるおころ内日本人 6.愛国心は罪なのか 7.独立国としての気概 第10章 日本が成し遂げたこと 1.日本が人類史に果たした役割 2.日本人の心は壊れない 3.「無条件降伏」へのすり替え 4.「国際連合」は「連合国」 5.言葉の呼び変えによる誤魔化し 6. 10.特攻隊に現れた感謝の心 11.感性を尺度にした日本人 12.神々も人民も平等な社会 アジアを解放した大東亜戦争 連合軍は東亜大陸では大敗していた 安濃豊

    東亜植民地の解放は対日経済封鎖への対抗策 米軍は太平洋では勝利するも東亜大陸では惨敗 1.ミッドウエー作戦はフィリッピン独立のための囮作戦だった 2.ガダルカナル戦のころビルマが独立 3.カイロ宣言は実現せず、大東亜宣言は実現 4.マリアナ沖海戦のころ、インド独立は決定的となっていた 5.米国サイパン線の勝利のころ、シナ大陸では大陸打通作戦に大敗北 6.硫黄島での戦いのおころ、インドシナ3国がフランスから独立 7.対日戦勝を祝っていたころ、インドネシアが独立 4. 第3章 1.ミッドウエーで負けたのはアメリカ海軍 2.近衛文麿こそアジア解放の英雄 3.神風特攻が日本本土上陸作戦を諦めさせた 4.米国にとって、欧州が主戦場だったという捏造 5.戦ったのは日本軍だけでなくアジア合同軍 6.太平洋当初戦はアジア解放のための囮作戦 7.勝敗の分岐点は広島 8.アジアの独立は戦時中 9.タイ王国は緩衝地帯として植民地化を免れていたわけではない 10.罠にはめられているのに暗号解読の成功に意味はない 11.日系人部隊がダッハウ強制収容所を解放 12.B29は無敵ではなかった 13.戦前の日本軍は米軍を恐れていない 14.戦前の日本は軍国主義だったという捏造 15.沖縄戦で敗北したのは米軍 第4章 大日本帝国こそ、大なる特攻隊だった 1.大日本帝国建国の目的は白人帝国主義の打倒 米国を強く見せるため戦後に捏造された虚構 大日本帝国こそ大なる特攻隊だった 6.鶴野正敬技術大尉
    震電、究極のプロペラ機、プロペラが主翼より後ろ。B29撃墜用。鶴野正敬技術大尉



    7. 酸素魚雷、
    英米の普通魚雷より2倍の射程、魚雷の航跡を残さないためかわし難い、日本独自の魚雷。



    8.大量短納期で造船
    1か月という短工期、標準船、「SB艇」。、



    9. 海軍ミサイル、
    「奮龍」海軍が開発したミサイル。試験発射で終戦。、



    10. 陸軍ロケット砲
    「噴進弾」、陸軍が開発したロケット弾。硫黄島の激戦で活躍。



    11. 日本のレーダー開発。
    日本もレーダーを開発実用化していた。伊藤大佐、



    12. 「水中高速潜水艦」目指すは通常の3倍!


    13.富嶽(ふがく)
    は、大東亜戦争中に日本軍が計画した、アメリカ本土爆撃を目的にした6発の超大型戦略爆撃機である。名は富士山の別名にちなむ。 、






    1.堀越二郎は、日本の航空機技術者で零式艦上戦闘機の設計主任として有名

    2. 小山悌(こやま やすし、1900年(明治33年) - 1982年(昭和57年)8月25日)は、 大日本帝国陸軍(陸軍航空部隊)の九七式戦闘機・一式戦闘機「隼」・二式戦闘機「鍾馗」・四式戦闘機「疾風」の設計主務者であり、戦前日本を代表する航空機技術者であった。

    3. 飛燕   三式戦一型(キ61-I) 1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示した[5][23]。キ60の設計は1940年2月から、キ61の設計は12月から開始された[24]。設計は両機ともに土井武夫が担当した。

    4. 一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき / いちしき - )は大日本帝国海軍の陸上攻撃機であ



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    明治・大正・昭和風立ちぬ 堀越二郎 ゼロ戦の設計者

    風立ちぬ 堀越二郎 ゼロ戦の設計者

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    堀越二郎は、日本の航空機技術者で零式艦上戦闘機の設計主任として有名。

    1903年6月22日生まれで群馬県藤岡市出身。1903年と言えば、ライト兄弟の飛行機が初めて空を飛んだ年だ。 藤岡中学校、第一高等学校、東京帝国大学工学部航空学科と進学し、それぞれ「首席」で卒業している。 就職は、三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。 三菱は支度金四百圓(現在の約100万円相当)を堀越二郎に渡し、航空機の最先端技術を学ばせるため、彼をヨーロッパ、アメリカにと1年半派遣した。

    大変几帳面な性格だったようで、自分が乗った客船の食堂のメニューを集めて保管しておく、領収証も一枚一枚保存、布団を敷くときには必ず部屋の壁と平行になるように敷くなど、と言ったエピソードがある。

    日本に戻った堀越二郎は、その優秀な設計者ゆえ、この時代には最新の技術が必要とされる「戦闘機」の開発に携わることになった。 日本の航空機はそれまで外国機のコピーと言った感じだったが、時代がそのように堀越二郎を必要としたのであろう。 この当時の日本はどうしてもエンジン出力が弱い。その欠点を、堀越二郎らの航空機設計技術により補ったと言えよう。

    堀越二郎が設計主務者として担当した最初の設計機は「7試艦上戦闘機」で進歩的な低翼単葉を採用したが、ライバルの中島飛行機設計機ともども、正式採用はされなかった。  その後、1935年(昭和10年)に完成した試作機「9試戦闘機」は上昇力など戦闘機に不可欠なもののみに重点をおき、試作1号機は逆ガル型の主翼を設計した。

    堀越二郎によるこの9試の設計が基礎となり、のちの三菱九六式艦上戦闘機の設計に於いて日本独自の革新的な設計が施され、日本海軍初の全金属単葉戦闘機が誕生したのだ。 日本はエンジン性能が低いと言う欠点があるなか、その欠点を機体設計で補い、96式艦上戦闘機は固定脚機としては驚異的なスピードである最高速度400km/時を超え、当時の世界水準を超える優秀な戦闘機となった。

    しかし、96式艦上戦闘機は航続距離が1200kmと短く、中国内陸部での作戦に支障が出た為、日本海軍は、速度500km以上、高い航続距離、20mm機関砲の重装備と言った厳しい性能を要求した新機種開発に着手。 三菱のライバルだった、中島飛行機は途中で開発を断念するくらい厳しい条件だったが、三菱の堀越二郎技師は3000枚に及ぶ設計図をチェックし、設計主務者として開発に取り組んだ。

    その結果、航続距離2222km、最高速度533kmと高い運動性能、20mm機関砲2門の重武装を持ち、太平洋戦争の緒戦では無敵とも言える活躍し、述べ10000機が生産された「零式艦上戦闘機(A6M2b)」が、堀越二郎の手により誕生した。 ちなみに、ゼロ戦の半数以上は、中島飛行機でライセンス生産されている。 このように、堀越二郎は日本の航空機水準を世界一にまで高めた優秀な設計者だ。

    堀越二郎は大学での成績がよかったので、三菱内燃機製造株式会社(現・三菱重工)から声がかかったとの事。 あまり知られてないが、当時、三菱は恐慌の影響で業績が悪く、帝大出の優秀な人材を獲得、育成して挽回を図ろうとし、それが堀越を成長させた。 堀越二郎の最も強いこだわりは、機体の美しさと機能を両立させることだ。堀越二郎が考案した、ねじり下げ、沈頭鋲といった技術は、現在でも世界のほとんどの航空機で採用されている。 堀越二郎が(三菱のライバルである)中島飛行機に入っていたら、ゼロ戦は生まれなかっただろう とまで言われている。

    ゼロ戦は防御面が欠点だと言う事実は良く知られるが、設計段階で防御面は海軍からも要求はなく、徹底した軽量化により高い旋回性能を持つ事で敵機の攻撃を回避できると言う考えから、機体が重くなる防弾装備は当初不要との判断だった。

    実際問題、日本はエンジン出力が低く、スピードを上げるには機体を軽くするしかなかった。その反面、アメリカは優秀なエンジンを開発し、ゼロ戦よりスピードが速い戦闘機をアメリカが持つ事で、ゼロ戦の優位性が崩れたのだ。

    雷電、烈風と続けて設計を手掛け、疎開先の長野県松本市でも開発を目指したというが終戦。

    戦後は木村秀政らとともにYS-11の設計に参加した。

    三菱重工業は戦後分割されたため、それにともない発足した中日本重工業(のちの新三菱重工業)に勤務。 新三菱重工業では参与を務めた。 新三菱重工業を退社した後は、教育・研究機関で教鞭を執った。

    1963年〜1965年にかけて、東京大学の宇宙航空研究所(現、宇宙航空研究開発機構=JAXAを構成する宇宙科学研究所)にて講師を務めた。

    1965年「人の操縦する飛行機の飛行性の改善に関する研究 :昇降だ操縦系統の剛性低下方式」と操縦装置の基本理論で東大工学博士。 1965年〜1969年には防衛大学校教授。 1972年〜1973年は、日本大学生産工学部教授。 1982年1月11日死去。享年78。



    小山悌(こやま やすし、1900年(明治33年) - 1982年(昭和57年)8月25日)は、日本の航空機・林業機器技術者、実業家。第二次世界大戦中は中島飛行機技師長・取締役、中島飛行機三鷹研究所長・黒沢尻製作所長(第1軍需工廠第21製造廠長)、戦後は岩手富士産業(中島の後身富士重工業系、現・イワフジ工業)取締役。

    大日本帝国陸軍(陸軍航空部隊)の九七式戦闘機・一式戦闘機「隼」・二式戦闘機「鍾馗」・四式戦闘機「疾風」の設計主務者であり、戦前日本を代表する航空機技術者であった。

    概要

    九一戦

    四式戦「疾風」

    第二高等学校を経て、1922年(大正11年)4月に東北帝国大学工学部機械科進学。卒業後は理学部助手を務め、1925年(大正14年)12月に一年志願兵(学歴と財力を持つ者を対象に短期間の現役期間の後に予備役幹部に登用する制度、のちの幹部候補生制度)として帝国陸軍の電信部隊(在中野)に入営する[1]。

    なお、当初小山は航空機設計に対し興味は特に無かったが、一年志願兵時代に休日外出で訪れる叔父宅(在蒲田)にて、中島飛行機創業者・中島知久平と海軍機関学校同期であった叔父の度重なる勧めを受けて満期除隊後の中島入社を決意している[2]。

    1926年(昭和元年)12月28日、25歳の小山は中島飛行機製作所(のち中島飛行機株式会社)に入社。航空先進国であるフランスの航空機産業に学んでいた当時の日本航空機産業(およびフランス陸軍航空部隊(フランス空軍)を師としている日本軍航空部隊)にとって、

    学生時代よりフランス語に堪能であった小山の存在は貴重なものであり、ニューポールやブレゲーの資料を翻訳する傍ら設計技術を磨いた。その様な状況で翌1927年(昭和2年)4月、早くも小山は当時の甲式四型戦闘機に代わる陸軍次期主力戦闘機の開発に関与する[3]。ニューポールの招聘技師アンドレ・マリーを設計主務者(および助手ロバン)に、小山と同僚の大和田繁次郎[4]が補助して設計された試作機・中島NCは、三菱重工業のIMF2「隼」や川崎航空機のKDA-3を抑え陸軍に採用、1931年(昭和6年)12月に九一式戦闘機として制式制定された。

    こののち、航空機設計の才能を開花させた小山は陸軍機を中心に数々の機体開発に携わり、特に1936年(昭和11年)に全金属製低翼単葉戦闘機である九七式戦闘機(キ27)を、1937年(昭和12年)末以降には著名な一式戦闘機「隼」(キ43)、重単座戦闘機たる二式戦闘機「鍾馗」、さらに太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)末以降はそれらの集大成として、「日本軍最優秀戦闘機」と謳われる四式戦闘機「疾風」(キ84)の開発を設計主務者として手がけた。なお、小山は機体設計部門における中島の重鎮であるためこの他多数の機体にも関係している。

    敗戦を工場疎開先の中島飛行機黒沢尻製作所長(第1軍需工廠第21製造廠長)として迎えた小山は、軍用機開発の要職にあったことから公職追放にかかり林業機器の技術者となる。1952年(昭和27年)に追放解除となると、旧中島飛行機の後身である富士産業(富士重工業の前身)系である岩手富士産業(旧・中島飛行機黒沢尻製作所、現・イワフジ工業)の取締役に就任。しかし、小山は他多数の航空機技術者と異なり戦後の航空機産業に復職することや、自動車産業・鉄道産業に移ることは拒み続け、以降1974年(昭和49年)に引退するまで20年以上に渡り岩手富士産業にて林業機器の技術者として過ごした。このことに関して小山は「日本の国力回復の基は、まず山林の開発であると思ったのです。また、私自身、そうした仕事が好きだったここともあるのでしょうが……」と語っている[5]。1962年(昭和37年)には林業関係の東京大学学位論文で「農学」博士[6]。

    さらに小山はその責任から戦後は多くを語ることは無く、メディアへの露出も極めて少なく[7]回顧録なども残さなかった。そのため、小山は国産機創成期の九一戦から一式戦「隼」を経た集大成たる四式戦「疾風」に深く携わった、戦前日本の航空機産業を代表する大物でありながら、戦後の知名度は航空機産業に復職しメディアへの露出も積極的に行い己の業績を誇っていた三菱の堀越二郎(零式艦上戦闘機等の設計主務者)、川崎の土井武夫(三式戦闘機「飛燕」等の設計主務者)等と異なり極めて低い。



    三式戦闘機

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    川崎 キ61 三式戦闘機「飛燕」

    台湾・松山飛行場駐屯の第37教育飛行隊所属の 三式戦一型甲(キ61-I甲、1944年3月撮影) 台湾・松山飛行場駐屯の第37教育飛行隊所属の 三式戦一型甲(キ61-I甲、1944年3月撮影)

    用途:戦闘機 分類:戦闘機

    設計者:土井武夫

    製造者:川崎航空機

    運用者:大日本帝国の旗 大日本帝国(陸軍) 初飛行:1941年12月

    生産数:1,919- 生産開始:1942年 運用状況:退役 表示

    三式戦闘機(さんしきせんとうき)「飛燕」(ひえん)は第二次世界大戦時に大日本帝国陸軍が開発し、1943年(昭和18年)に制式採用された戦闘機である。開発・製造は川崎航空機により行われた。設計主務者は土井武夫、副主任は大和田信である[1]。

    当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機であり、ドイツの液冷航空エンジンDB601を国産化したハ40を搭載した。防弾装備のない試作機は最高速度590km/hを発揮した。主翼より後部の機体下部にラジエーター・ダクトを搭載し、機体の空気抵抗低下と冷却効率の両立を図った[2]。

    また基礎工業力の低かった当時の日本にとって不慣れな液冷エンジンハ40は生産・整備ともに苦労が多く、常に故障に悩まされた戦闘機としても知られる。ハ40の性能向上型であるハ140のエンジン生産はさらに困難であり、これを装備する予定であった三式戦闘機二型はわずか99機しかエンジンが搭載できず、工場内に首無しの三式戦闘機が大量に並ぶ異常事態が発生した。

    この事態に対処するために星型空冷エンジンハ112-IIを急遽搭載した五式戦闘機[* 1]が生産された。

    概要

    開発の経緯と機体内部構造 「DB 601」、「ハ40」、および「キ60」も参照

    三式戦一型(キ61-I)

    1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示した[5][23]。キ60の設計は1940年2月から、キ61の設計は12月から開始された[24]。設計は両機ともに土井武夫が担当した。キ60はBf109Eと互角以上の性能を示したものの[* 2]、他に合同試験された二式単座戦闘機の方が有望であり、なによりキ61の方が良好な性能を発揮していたため、制式化は見送られている。

    キ61の設計コンセプトは、「航空兵器研究方針」における重戦・軽戦のカテゴリにこだわらない万能戦闘機で、「中戦(中戦闘機)」とも呼ばれた。当時の陸軍は、軽単座戦闘機に旋回力と上昇力を求め、さらに12.7mm機関砲の搭載も要求したことから、必然的に陸軍内の議論が発生したともされる[26]。副主任の大和田が「戦闘機は総合性能で敵に勝っておらねばならず、軽戦・重戦で分けるのは不合理だ」と語り、またこれが川崎の開発チーム共通の理念であったともしている[27]。そもそも開発チームが「中戦」と呼んでいたとする文献もある[28]など、川崎側が発祥であるともされる。

    土井自身は陸軍の「軽戦闘機」思想にこだわらず、キ61を理想的な戦闘機にまとめあげようとしたと語っている[29][7][28]。またこの考えの裏には、かつて土井が設計を担当し、高速性を追求した軽戦闘機キ28が、1939年の競争試作で旋回性が劣るとしてキ27(九七式戦闘機)に敗れた経緯も影響したと指摘する説もある[30]。土井は自信作であったキ28について「当時の陸軍が一撃離脱戦法を知っていれば」と述べている[31][* 3]また、その反動からか、一度は95式戦闘機の改良版とも言える降着装置を引き込み式とし最大速度480km/hに達する高速の複葉機を計画したこともあった[30]。しかしこれはその後廃案になり、「三式戦闘機」案に変更されている。1940年9月頃には細部設計が開始された[28]。なお開発初期の1940年5月頃に、土井はこの時期からキ61を空冷エンジン搭載機とする可能性に言及したとする文献もある[33]。

    木型審査は1941年6月に行われ[34]、試作機は1941年12月に完成し初飛行を行った[35]。キ61はキ60と同系統のエンジンを使用しており、陸軍側もあまり期待していなかったとする資料もあるが[36]、この審査ではキ60やBf109Eの速度を30km/h上回る590km/hを発揮した。これは設計者の土井すらも全く予想外の高性能だった[7][37]。なおこの時期の陸軍戦闘機は、軽戦闘機である一式戦闘機は495km/h乃至515km/h[38]、重戦闘機である二式単座戦闘機(制式採用前)でも580km/hの最高速度しかもたなかった[39]。このため1942年10月には毎日航空賞が、1943年12月には陸軍技術有功賞が、土井と大和田に贈られた[* 4]。

    エンジン

    1936年、ドイツで液冷1000馬力級航空エンジン、DB601が開発・生産された。これは過給器に流体継手を採用し、キャブレターではなく燃料噴射装置を採用するなど先進的な機構を備えたエンジンであった[41]。日本陸海軍はこのエンジンに興味を示し、海軍側は愛知時計電機(のちに愛知航空機と呼ばれる企業)が、また1939年1月には川崎航空機が、各々50万円でライセンスを購入し、日本国内での生産を行うこととなった[41]



    一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき / いちしき - )は大日本帝国海軍の陸上攻撃機である。略称は一式陸攻(いっしき / いちしきりくこう、- りっこう)。日本海軍の呼び名は中型攻撃機の略の、中攻。連合国側のコードネームは「Betty」(ベティー)。(Betty bomberが、一式陸攻の米軍側の名称)三菱重工業株式会社(改称前は三菱内燃機株式会社)の設計・製造。日中戦争・太平洋戦争で日本海軍の主力攻撃機として使用された。

    特徴

    本土上空を飛行する一式陸攻。

    大直径の胴体内部に爆弾や魚雷を搭載し、胴体下の機体外部に搭載していた九六式陸攻よりも攻撃時の空気抵抗を大きく削減した。エンジンは大馬力の火星を装備した。主翼内をインテグラルタンクとし、4,000km以上に達する大航続力を得た。空気力学的洗練により、大型双発機としては軽快な運動性を得た。尾部に20mm旋回機銃を装備するなど、九六式に比べて防御火器を充実しているが、搭乗員や燃料タンクの防護は不十分だった。

    機体設計

    搭乗員

    通常7人〜8人乗り。主操縦員、副操縦員、搭乗整備員、射爆員、主偵察員、副偵察員、電信員。機長は主偵察員。必要に応じて編隊指揮官が搭乗する。それぞれが機銃や電信などを兼任することができた。

    第一回一式陸攻打ち合わせ会で、本庄季郎技師(三菱)から「防備が不十分。小型で航続距離求めれば燃料タンクに被弾しやすいため、四発機にして搭載量、空力性能、兵儀装要求を満たし増えた二発馬力で防弾鋼板と燃料タンクの防弾、消火装置を備える」と提案があったものの、和田操(航空技術廠長)から「用兵については軍が決める。三菱は黙って軍の仕様通り作ればいい」と議論なく棄却された[16]。

    1939年10月、一号機が完成[17]。初飛行は1939年(昭和14年)10月23日、パイロットは志摩勝三。1941年(昭和16年)4月1日、「一式陸上攻撃機」として制式採用された[18]。 このG4M1爆撃機が量産に入る以前に、重護衛戦闘機型を制作することが試みられた[19]。この爆撃機の量産は1940年に開始され、量産1号機は1941年4月に生産ラインを離れた。

    太平洋戦争開時、九六式陸攻と協同して台湾からフィリピンのアメリカ陸軍航空基地を攻撃し、B-17爆撃機を含む爆撃機兵力を壊滅させている。また、やはり九六式陸攻と協同して、マレー沖でイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈する(マレー沖海戦)など、太平洋戦争初期に活躍した。

    情勢の変化に適応できた特殊潜航艇(甲標的) −攻撃兵器から防御兵器へ− 中 村 秀 樹 http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200503/05.pdf はじめに あては外れるものである。日本海軍が米海軍に対抗し得るはずだった唯一絶対の漸減邀 撃艦隊決戦構想は、日本海軍自らが実証した航空兵力の優越性によって崩壊した。 ハワイ、マレー沖で航空機の優位を見ても、戦艦中心の考えの抜けきらなかった日本海 軍に対し1、真珠湾で太平洋艦隊の戦艦全てを撃沈破された米海軍は、やむを得ず残った空 母と潜水艦を活用した。それは日本海軍同様、戦前の艦隊決戦主義とは違った用法であっ たが、絶大な効果を上げ、今日空母と潜水艦が海軍の主力となる基礎となった。機に臨み 変に応じることなく、既存の用兵思想を払拭できないまま頽勢に陥った日本海軍とは対 伊四百型潜水艦 ページ ノート その他 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 伊400型潜水艦 I400 2.jpg 艦級概観 艦種 一等潜水艦 艦名 イ400、イ401、イ402 前級 次級 性能諸元 排水量 基準:3,530トン 常備:5,223トン 水中:6,560トン 全長 122m 全幅 12.0m 吃水 7.02m 機関 艦本式22号10型ディーゼル1,925馬力4基2軸 水上:7,700馬力 1,200馬力モーター2基 水中:2,400馬力 速力 水上:18.7kt 水中:6.5kt 航続距離 水上:14ktで37,500海里 水中:3ktで60海里 燃料 重油:1,750トン 乗員 157名 兵装 40口径14cm単装砲1門 25mm3連装機銃3基 同単装1挺 53cm魚雷発射管 艦首8門 魚雷20本 航空機 特殊攻撃機『晴嵐』3機 (四式一号一〇型射出機 1基) 備考 22号電探1基、13号1基 安全潜航深度:100m 連続行動時間:約4ヶ月 アメリカ本土に回航されて技術調査中の伊四百潜水艦。本型は軽巡洋艦なみの14cm主砲を後部甲板に装備していた。向かって右に伊十四潜水艦、左に伊四百一潜水艦も写っている。 M6A 晴嵐 伊四百型潜水艦の飛行機格納筒 格納筒の前で撮影された伊四百の士官 伊四百型潜水艦[1](いよんひゃくがたせんすいかん)は、太平洋戦争中の大日本帝国海軍の潜水艦の艦級。特殊攻撃機「晴嵐」3機を搭載し、「潜水空母」とも俗称される。別名潜特型(せんとくがた)とも呼ばれる。なお、本型の計画縮小の補填として、巡潜甲型を改造した伊十三型潜水艦があり外形が似ている。 概要 3機の特殊攻撃機『晴嵐』が搭載可能であり、潜水空母(せんすいくうぼ)とも俗称される。第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で最大で、その全長はアメリカ海軍のガトー級を27メートル上回る。通常動力型潜水艦としては、2012年に竣工した中国人民解放軍海軍の032型潜水艦(水上排水量3,797t、水中排水量6,628t)に抜かれるまでは世界最大であった。 理論的には、地球を1周半航行可能という長大な航続距離を誇り[2]、日本の内地から地球上のどこへでも任意に攻撃を行い、そのまま日本へ帰投可能であった。大柄な船体(排水量3,350tは軽巡洋艦夕張と比較してなお大きい)を持つが水中性能は良好であった。急速潜航に要する時間は1分である。 同型艦3隻が就航したが、いずれも大きな戦果をあげる前に終戦を迎え、連合国は日本の降伏までその存在を知らなかった[3]。終戦直後にアメリカ軍が接収する際、その大きさにアメリカ軍士官が驚愕したという逸話が残っている。 伊四百、及び伊四百一はアメリカ軍による調査の後、自軍で使用することも検討していたが[2]、ソビエト政府代表からの検分の要請があった直後、ソビエトへの情報漏洩を恐れて[4]ハワイ沖で魚雷によって海没処分となった。 処分後、その詳しい位置は記録されていなかったが、アメリカの調査家による10年来の海底調査により[2]、2005年3月に伊四百一が、2013年8月に伊四百が発見され、海上保安庁により2015年8月に伊四百二[5]が海底から発見された。 専門家によれば、伊四百型潜水艦はそれまで対艦兵器としか見なされていなかった潜水艦の用途を一変させ、第二次大戦後の潜水艦の設計・運用姿勢に大きな影響を与えた結果、核の時代の弾道ミサイル発射能力を持った潜水艦に行き着いたという[6]。実際、戦後にアメリカ軍が浮上後の潜水艦からパルスジェットミサイルの発射実験を行った潜水艦が酷似した形をしていた[4]。 経緯 航空機搭載可能潜水艦 第一次世界大戦後、日本海軍はドイツが制作した小型水上偵察機をもとに横廠式一号水上偵察機(潜水艦搭載偵察機)を開発した[7]。昭和初期、日本海軍は「潜水艦を敵艦隊監視、追揮躡触接に用いる」という用法をおおむね確立[7]。 潜水艦への小型水偵搭載は、潜水艦の偵察能力強化(監視能力強化)につながっていた[7]。 これら航空機搭載可能潜水艦(伊号第五潜水艦、伊号第十二潜水艦など)に搭載する機体は九六式小型偵察機や零式小型水上偵察機といった、通常の潜水艦作戦における索敵用のものであった[7]。 一方、特型潜水艦(後述)に求められたのは当初には彗星艦爆の搭載であり、それが実際的でないとされたため、特殊攻撃機晴嵐を新たに開発することになった。設計当初、晴嵐はフロートを装着せず非水上機として運用される予定だった(この場合、機体の回収は不可能になり、使い捨てとなる)。純爆撃・攻撃用途の飛行機を戦略的に運用することを計画上の主目的とした点で、従来の専用小型水偵を偵察目的として搭載した潜水艦とは、完全に一線を画している。 開発 太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)1月、鈴木義尾軍令部第2部長から艦政本部に対し「新型潜水艦」について照会があった[8]。同年5月、水上攻撃機2機(昭和19年初頭、3機に改訂)・航続距離三・三万浬・連続行動可能期間四ヶ月以上という特型潜水艦の艦型が決定した[8]。この特型潜水艦が伊四百型潜水艦であり、水上攻撃機が晴嵐である[8]。後日、黒島亀人軍令部第二部長(昭和17年当時は聯合艦隊先任参謀)が藤森康男中佐(軍令部部員)に語ったところによれば、構想そのものは山本五十六(太平洋戦争前半の聯合艦隊司令長官)に依る[8]。山本はアメリカ東海岸での作戦に伊四百型を投入することを企図しており、戦史叢書「潜水艦史」では『常に、米国に直接脅威を与えるような作戦を考えていた山本長官の戦略思想からみれば、あり得ることであろう。』としている[8]。 ミッドウェー海戦後の同年6月20日、聯合艦隊司令部(旗艦大和)において関係者の研究会がおこなわれ、従来の既定計画軍戦備を根本的に修正することになった[9]。これが改D計画である[9]。同計画では潜水艦139隻建造することになったが、この中に特型潜水艦(基準排水量3,530トン、速力19.6ノット)18隻の建造が含まれていた[10]。(設計番号はS50)。計画隻数18隻中、2隻は旗艦設備を、2隻は予備旗艦設備を持つ[8]。搭載魚雷数は、旗艦18本、通常型は22本[8]。だが、戦局の移行と共に計画は次第に縮小される。1943年(昭和18年)10月15日附の軍令部商議により、特型潜水艦(伊四百型)は5隻に減らされた[11]。最終的に3隻(伊400、伊401、伊402)が完成した[10]。 完成 建造計画の縮小を補うため、1隻当たりの搭載機数が3機に増加されたうえ、建造途中の甲型潜水艦を晴嵐2機搭載可能な潜水空母に改造した(伊十三型潜水艦:伊十三、伊十四)。 伊四百型の建造目的は、元々はアメリカ本土攻撃である[2]。立案は山本五十六であり南アメリカ南端を通過してアメリカ東海岸を攻撃目標としていた[2]。スミソニアン航空宇宙博物館の近代軍用機担当学芸員ディック・ダーソは、「アメリカ東海岸を隠密裏に攻撃するよう特殊設計されており、おそらくワシントンD.C.やニューヨーク市を標的としていたものと考えられる」としている。そのため、建造要綱として33000海里の航続距離が要求された。長大な航続距離は船体の大型化に拍車をかけた[2]。当初は『晴嵐』の搭載数は2機であったが、伊四百型の建造数が当初の18隻から10隻に削減されたことより(後で更に建造数は削減された)、急遽3機に変更要請された。すでに伊400においては建造が開始されていたため、格納筒を後部へ10m延長するとともに『晴嵐』の仕様を一部変更する、格納扉にくぼみを設ける、弾薬庫と対空火器の位置を変更する、などの設計変更で3機の搭載を可能とした[2]。 しかし、1945年5月にドイツが降伏したことで大西洋方面の英米艦隊が太平洋に移動してくることが予想されたため、攻撃目標はアメリカ東海岸からパナマ運河のゲートに変更された。運河のゲートを破壊することによってガトゥン湖の水を溢れさせようという計画であったため、『晴嵐』には魚雷の装備が要求された。伊400完成後、パナマ運河を念頭においた訓練が開始された[2]。『晴嵐』の組み立ては、飛行機に不慣れな乗員が行っていたため、3機の『晴嵐』を発射するのに当初は半日近くかかったが[2]、訓練後には15-20分程度で3機の射出が完了するようになった。しかし、その頃には既に大半の英米艦艇は太平洋に移動済みであり、今さらパナマ運河を破壊しても戦略的意義が無いということで、再び攻撃目標が変更されて最終的にはウルシー泊地への特攻計画となった(『晴嵐』を体当たり特攻機として使用し、回収しない計画)[2]。 構造 晴嵐 ページ ノート その他 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 愛知 M6A 晴嵐 M6A1.jpg 用途:攻撃機 分類:特殊攻撃機 設計者:尾崎紀男 製造者:愛知航空機 運用者:大日本帝国の旗 大日本帝国(日本海軍) 初飛行:1943年 生産数:28機 運用状況:戦闘前に終戦 表示 晴嵐(せいらん)は、大日本帝国海軍が第二次世界大戦中に開発した水上攻撃機。設計生産は愛知航空機、略符号はM6A1[1]。 伊四百型潜水艦による戦略爆撃の目的で開発された、小型軽量の急降下爆撃が可能な潜水艦搭載用の水上攻撃機(海軍での分類は特殊攻撃機)。昭和18年(1943年)11月に初号機完成。だが1944年9月でも実験飛行の段階だった[2]。第六三一海軍航空隊(1944年12月15日編制)で運用された[3]。 概要 開発経緯 第一次世界大戦以降、日本海軍は小型水上偵察機を搭載した潜水艦を建造した(潜水艦搭載偵察機)[4]。昭和初期、日本海軍は「潜水艦を敵艦隊監視、追揮躡触接に用いる」という用法をおおむね確立[4]。潜水艦への小型水偵搭載は、潜水艦の偵察能力強化(監視能力強化)につながっていた[4]。 太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)1月、鈴木義尾軍令部第2部長から艦政本部に対し「新型潜水艦」について照会があった[5]。同年5月、水上攻撃機2機(昭和19年初頭、3機に改訂)・航続距離三・三万浬・連続行動可能期間四ヶ月以上という「特型潜水艦」の艦型が決定した[5]。この特型潜水艦が伊四百型潜水艦であり、水上攻撃機が晴嵐である[5]。米国東海岸で作戦を意図しており、黒島亀人軍令部第2部長が語ったところによれば、構想そのものは山本五十六(当時、聯合艦隊司令長官)に依る[5]。 同年6月30日の改D計画で特型潜水艦(基準排水量3,530トン、速力19.6ノット)18隻の建造が含まれていた[6]。だが戦局の悪化にともない1943年(昭和18年)10月15日附の軍令部商議により、特型潜水艦(伊四百型)の建造隻数は5隻に減少[7]。最終的に竣工した特型(伊四百型)は3隻(伊400、伊401、伊402)だけだった[6]。 太平洋戦争後半、伊四百型に搭載する晴嵐の機数は、2機から3機に増やされた[5]。同時に、伊十三型潜水艦も搭載機を「偵察機1」から「攻撃機2」に変更することになり、改造計画を実施した[8]。 試製晴嵐 晴嵐は伊四百型潜水艦(のちに伊十三型潜水艦をも加える)を母艦として、浮上した潜水艦からカタパルトで射出され、戦略的な目的での攻撃に使用されるために計画された特殊攻撃機である[5]。最大速度時速474km(250ノット)・フロート投棄時560km、低翼単葉双浮舟、複座、航続距離166ノットで642浬、兵装は13mm旋回機銃1と250kg爆弾1[5]。 「潜水空母」伊四百型潜水艦に搭載するため、愛知航空機において母艦と同時期に開発に着手され、昭和18年11月に試作第一号機が完成した。九一式魚雷改三による雷撃、または250キロ爆弾(4個まで搭載可能)、または800キロ爆弾による水平および急降下爆撃が可能であった。 実戦における攻撃時には、エンジン出力の関係から大型爆弾の場合はフロートを装着しない仕様になっており、攻撃後は艦近くの海面に着水、又は搭乗員を落下傘降下させ乗員のみを収容する予定だった。この場合の機体の回収は無論不可能である。一方、潜水艦には予備魚雷と予備爆弾が装備され、状態によって再出撃も可能であった。ただし、唯一にして最後の出撃時は特攻が予定されていた(後述)。 折り畳み図 晴嵐は伊四百型の飛行機格納筒に納めるため、主翼はピン1本外すと前縁を下に90度回転して後方に(鳥が歩行時に羽を胴につけているイメージ)・水平尾翼は下方に、垂直尾翼上端は右横に折りたためる[9]。フロートは取り外されているが、機体近くに置かれており短時間で装着できるようになっている。また、暖機のかわりに、加温した潤滑油・冷却水を注入できるなどの工夫で、作業開始後約3分以内で発進可能と言われている。伊四百型は晴嵐を3機搭載でき、潜水艦搭載時には既に雷装、爆装していた[10]。ただし、飛行機格納筒の一番奥に収納された3番機は潜水艦甲板上での整備スペースが限られているため、1番機・2番機の整備および射出完了後に、発進諸準備を開始する[10]。このため2番機発進後、20分後に射出予定だった[10]。 また(1番機)3分で発艦可能と言っても、実際には搭乗員・整備士の技量による。搭乗員の淺村敦によると、最初のうちは3機発進完了まで20分以上かかっていたが、最終的には十数分に縮められたとの事。特に母艦自体が上下に動振しているため発艦のタイミングが難しく(艦首が下を向いている時に発艦すると、機体が海面に突っ込む事となる)、射出指揮官が慎重に判断した。このように発艦には危険が伴ったので、搭乗員には1回の発艦訓練につき6円の危険手当が加算された。当時の大卒の初任給は60円である。 潜水艦搭載のための折りたたみ構造と高性能を両立させ、またその任務により世界中で(極端な話、北極や南極でも)使用を可能にするためジャイロスコープを装備するなど、非常に『凝った』造りの機体であった上に製造数も少なかったため1機あたりのコストも高く、零戦50機分に相当すると言われた。後述のとおり、本機が海軍の兵器として制式採用されたことを積極的に立証できる法令は存在しない。 南山 試製晴嵐改 (南山) 試製晴嵐を陸上機化した機体も製造され、これを「試製晴嵐改」[法令 1]または「南山」(M6A1-K) という名称で呼んでいた[11]。南山は高速性能に優れるかわり、滑走距離が長かったという[11]。1944年10月、南山は高橋の操縦により魚雷発射実験に成功した[12]。これにより高橋は、晴嵐が雷撃に向いた航空機であると確信したという[13]。晴嵐及び南山は合わせて28機が製造された。計画段階では36機以上生産予定だったが訓練用の機体すら確保できず、空技廠から零式小型水上機2機を借りて六三一空隊員の訓練をおこなった。搭乗員からは「オモチャみたいな飛行機で訓練するのか」と不満が出た[14]。そこで六三四空から瑞雲を借りて訓練を行った[15]。 制式化の状況 航空機を兵器として制式採用するかどうかについて、海軍省では法令の一つである内令兵で命名して施行し周知しているが、晴嵐と晴嵐改はいずれも「試製」の冠称がついた実験機[法令 1]としての扱いに変化が無いまま敗戦を迎えており、実施部隊の認識はともかく省としては兵器に採用する法令を施行していない。 また、1945年(昭和20年)7月に海軍航空本部が調製した「海軍現用機性能要目表」においても、それぞれ「試製晴嵐」「試製晴嵐改」の機名が記されていたとされる[16]。 なお、六三一空で晴嵐テストパイロットを勤めた高橋は、1944年(昭和19年)11月24日に領収(受領)飛行を行い制式採用されたと述べている[17]ほか、終戦後の第六三一海軍航空隊の武器引渡し目録には、「晴嵐一一型」8機、そのうち3機破損と記載されている[18]が、目録上の兵器名表記はいずれも海軍省が施行した内令兵に準拠したものではない。 兵器が制式採用前に実施部隊へ引き渡され運用されるのは二式艦上偵察機[法令 2]、雷電[法令 3]、桜花[法令 4]らの例もあり、晴嵐や晴嵐改が特殊なわけではない。 要目(M6A1) Aichi M6A1 Seiran 3-view line drawing.svg 乗員: 2名 双フロート式 全長: 10.64 m 全幅: 12.26 m 全高: 4.58 m 主翼面積: 27.0m2 動力: アツタ32型 水冷V12エンジン 出力: 1,400 HP 全備重量: 4,250 kg 最大速度: 474 km/h(フロート未装着時560km/h) 航続距離: 1,540 km 実用上昇限度: 9,640 m 上昇率: 5,000/8'00" 武装: 機関銃 13.0mm旋回機銃×1/800kg爆弾×1(250kg爆弾は4発まで)。または45cm魚雷×1 運用 晴嵐の航空隊は、1944年(昭和19年)12月15日に第六三一海軍航空隊(第六艦隊附属)として開設された[19][20]。さらに、晴嵐は伊号第四百潜水艦(定数3機)、伊号第四百一潜水艦(定数3機)、伊号第十三潜水艦(定数2機)、伊号第十四潜水艦(定数2機)を中核とする第一潜水隊(有泉龍之助大佐)に配備された[21][22]。 有泉大佐は第六三一海軍航空隊司令を兼ねる[21]。潜水艦航空機運用の経験があるのは高橋少尉と鷹野末夫少尉のみで[21]、潜水艦の艦長歴が長い有泉司令は航空戦の経験がなく、福永飛行長は航空・潜水双方の実戦経歴がなく、浅村分隊長は潜水艦経験がなく、山本分隊長は実戦経験がなく、隊の錬度には問題があった[23]。さらに晴嵐の製造メーカーである愛知航空機製作所は、東南海地震、三河地震、B-29による空襲被害で甚大な被害を受けており、晴嵐の定数補充は困難であった[24]。2月の時点で、第631空の戦力は晴嵐6機、瑞雲5機でしかない[25]。 1945年1月、有泉司令は魚雷によるパナマ運河攻撃の研究を命じた[26]。3月下旬から4月上旬にかけて、作戦の検討が進む[27]。呉潜水艦基地隊で、軍令部、第六艦隊参謀を交えた図上演習を実施[27]。4月25日、士官に対し第一潜水戦隊全艦・晴嵐10機(雷撃2、爆撃8)によるパナマ運河夜間攻撃計画が公表された[28]。この段階では通常攻撃だったが、福永飛行長は「飛行機総特攻の時に晴嵐部隊だけ通常攻撃はありえない。全機特攻」と主張し、投下器から爆弾が落ちないよう工作を命じた[29]。結局、全機800kg爆弾を装備した上での特別攻撃隊となった[13]。 しかし戦局の悪化によりパナマ運河攻撃は中止となり、ウルシー環礁の米軍在泊艦船攻撃に目的変更となる[20][30]。6月25日、小沢治三郎海軍総司令長官は、第六艦隊第一潜水隊(先遣部隊)に以下の作戦を発令した[30][31]。 トラックに対する高速偵察機「彩雲」輸送 (光作戦) 使用兵力、伊十三、伊十四。 輸送物件、彩雲4機。7月下旬トラック着を目標に行動。 ウルシー奇襲作戦 (嵐作戦) 使用兵力、伊四百、伊四百一、晴嵐6機。 攻撃時期、7月下旬より8月上旬。次期作戦準備としてシンガポールに晴嵐10機を空輸すべし。 部隊は「神龍特別攻撃隊」と命名された[32][33]。出撃前の壮行会で第六艦隊司令長官醍醐忠重中将は、飛行機搭乗員に短刀を贈っている[33]。この短刀は特別攻撃隊を意味していた[33]。南部(伊四百一潜水艦長)は「有泉司令も私(南部艦長)もこの作戦を特攻であると正式に命じたことはなく、少なくとも私は最後まで生還の手段を講ずるつもりであった。しかし、飛行機搭乗員はどうであったろうか。」と回想している[33]。 また晴嵐には戦時国際法違反を承知で米軍の星マークがつけられ、米軍機と同じ銀色に塗装されていた[34][法令 5]。伊四百搭載晴嵐1号機の高橋は「誰の入れ知恵だかわからなかったが、卑怯で情けない」と評している[34]。7月20日、伊四百と伊四百一は舞鶴を出港し[32][33]、21日[35]もしくは22日に大湊入港[36]。7月23日、大湊を出撃し[35]、8月17日を攻撃予定日として航海を続けた[37]。伊四百一(有泉司令)はマーシャル諸島東を通過する迂回コースをとった[36][38]。 8月14日、伊四百は伊四百一との合流地点に到達したが発見できず、8月15日も待機した[39][40]。一方の伊四百一も僚艦を発見できず、会合地点で待機、8月15日を過ごした[41]。このすれ違いは、有泉司令(伊四百一)が発信した会合地点変更の電信を伊四百が受信せず(南部艦長は伊四百一から電報発信の記憶なし)、伊四百は作戦計画どおりの会合地点に先行していたからであった[40]。 この時点で「神龍特別攻撃隊」は終戦を迎えた[40]。8月16日、第六艦隊司令長官[42]および海上総隊司令長官から作戦中止命令が出る[43]。「晴嵐」が特攻に出撃することはなかった。晴嵐は、エンジン始動状態、翼を折りたたんだまま無人で射出され、洋上廃棄された[44]。伊四百では、3機をわずか10分で組み立てたという[44]。その際に搭乗員のたっての希望により、星マークが塗りつぶされ日の丸が塗装されたとされる。伊四百一では、8月26日に晴嵐・弾薬・秘密書類等を投棄した[45]。有泉司令は艦内で自決した[20]。 現存する機体 修復された機体 戦後に愛知県の工廠にあった機体がアメリカ軍に鹵獲され、性能などの調査の上で、スミソニアン博物館に修繕を施された状態で1機が保存されている。 なお、海軍省では法令上、試製晴嵐を「特殊機(潜水艦用)(AE1P発動機装備/アツタ発動機32型装備)」[法令 6][法令 1]、試製晴嵐改を「試製晴嵐ヲ陸上機トナセルモノ」[法令 1]と明記して周知しており、本機の用途等に関して特に厳しく秘匿していたわけではない。



    震電

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 J7W1 震電

     連合国軍の命令により外観のみ修復した試作1号機 試作二号機(1945年撮影)  

    用途:戦闘機 分類:局地戦闘機

    製造者:九州飛行機、海軍航空技術廠

    運用者:日本海軍

    初飛行:1945年8月3日 生産数:1機

    運用状況:試作のみ

    表示

    震電(しんでん)は、第二次世界大戦末期に日本海軍が試作した局地戦闘機である。前翼型の独特な機体形状を持つ、そのため「異端の翼」と呼ばれた。最高速度400ノット(約740km/h)以上の高速戦闘機の計画で、1945年(昭和20年)6月に試作機が完成、同年8月に試験飛行を行い終戦を迎えた。略符号はJ7W1。

    歴史 研究開発

    機体の3D完成予想図 1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)頃、海軍航空技術廠(空技廠)飛行機部の鶴野正敬大尉は従来型戦闘機の限界性能を大幅に上回る革新的な戦闘機の開発を目指し、前翼型戦闘機を構想し、研究を行っていた[1]。また、1943年(昭和18年)、軍令部参謀に着任した源田実中佐は、零戦が既に敵から十分研究されているであろうと考え、零戦とは別に異なる画期的な戦闘機を求めて高速戦闘機を模索していたが、技術的に提案する知識がなかった。しかし、同じ考えを持つ鶴野正敬技術大尉の存在によって、震電の開発が動き出した[2]。

    前翼型飛行機とは、水平尾翼を廃し主翼の前に水平小翼を設置した形態の飛行機である。従来型戦闘機ではエンジン、プロペラ、武装の配置が機体の前方に集中しており、操縦席後部から尾翼にかけての部位が無駄なスペースとなっていた。これに対し前翼機では武装を前方、エンジン及びプロペラを後方に配置することで機体容積を有効に活用でき、前翼自体も揚力を発生させることから(通常機の水平尾翼は下向きに揚力を発生させる)、

    主翼をコンパクトにすることが出来、全体的に機体をより小型にすることが可能となる。従って機体が受ける空気抵抗も減少し、従来型戦闘機の限界速度を超えることが可能となる、というのがその基本理論であった[注釈 1]。現実にはライトフライヤー号を始め初期の航空機の多くは推進式であったが、プロペラ同調装置が実用化されると戦闘機でのメリットは薄くなり、牽引式が主流となっていた。

    初となる前翼型戦闘機の試みであったが、陸軍は1943年に満州飛行機に対し九九式襲撃機の後継機となる推進式を採用したキ98の試作指示を行っていた。ただしキ98は双胴であり空戦より襲撃機(攻撃機)としての能力が重視され、研究機としての性格も強かった。後に試作機整理の対象となり計画は中止された。

    当時は各国でも前翼機の試作は行われていた。代表的な例としてイタリアのアンブロシーニ SS.4(英語版)、アメリカのXP-55 アセンダー、イギリスのマイルズ・リベルラ等が挙げられるが、いずれも実運用に至ったものはなかった。震電の開発に当たっても中には「自然界に無い様な形状のものには何かしらの欠点があるはずだ。鶴野はそれに気づいていないのだ。」という様な意見をもつ者もあった[注釈 2]。しかし、欧米の新型機への対抗という課題の中にあって、原理的に間違いのないものであるならと大方の賛同を得ていた[注釈 1]。

    実験用小型滑空機MXY6

    1943年(昭和18年)8月、空技廠にて風洞実験が行われる。1944年(昭和19年)1月末、実験用小型滑空機(MXY6)を用いて高度およそ1000m程からの滑空試験に成功し基礎研究を終えた[注釈 3]。既に高高度爆撃機の本土来襲を予測していた海軍は、翌2月には試作機の開発を内定。実施設計及び製造を行う共同開発会社として、当時、陸上哨戒機「東海」の開発が完了し、他の航空機会社に比べ手空きであった九州飛行機が選定され、空技廠からは鶴野大尉らが技術指導のため同社へ出向した。

    要求性能を決定する際、用兵者側から空戦フラップの装備を要求する声があったが、航空技術廠飛行機部、科学部はその効果を疑問視して巴戦を避け、アメリカ軍のP-51やP-38と同じく高速性を生かした一撃離脱戦法をとる意見であった。軍令部参謀の源田実中佐からも「400ノット以上の高速戦闘機が欲しいからこれをやるのであり、あまり付帯要求を出しすぎて速度が落ちるようなことがあってはならぬ」という指導的意見があり、鶴野正敬は要求性能をまとめられた[3]。

    海軍では1943年に雷電が初飛行していたが一部の問題が解決されておらず生産数は少なかった。このほかに1939年頃から雷電の後継機として、ハ43を採用した推進式の局地戦闘機閃電の計画が存在し三菱重工業で開発が行われていた。閃電は最高速度 750 km/h以上、上昇力は高度 8,000 mまで10分、武装は機関銃を30 mm ×1と20 mm×2、爆弾を二個搭載という要求を満たすため、機体形状はスウェーデンのサーブ 21のような単発中翼双胴を予定していた。三菱にとって開発経験の無い機体だったことから問題対処に時間がかかっている間に震電の計画に見通しが付いたため、機種整理の対象となり1944年7月に試作中止となった。

    試作

    1944年(昭和19年)5月、の連合軍の大型爆撃機の迎撃を最大の目的として、十八試局地戦闘機震電が正式に試作発令される。当初、海軍の要求は1944年の4月から製図に取り掛かり、同年末には機体を完成させよというものだった。このため、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島、種子島、熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員し体制を整えた。その数は最盛期には5万人を超え、量産に移った際には月間300機の生産を可能とする目算が立っていた。また資材については、将来的に比較的余裕のある鉄で作る事を考えよとの要求もあった[注釈 4]。

    1944年6月16日未明、本土北九州方面八幡に初のアメリカ軍のボーイングB-29来襲。開発班は撃墜機を実地見学。

    1944年11月、技術者を集結させた九州飛行機は通常1年半は掛かる製図作業をわずか半年で完了。約6000枚の図面を書き上げる。同月ヘンシェル社のドイツ人技師、フランツポールが訪問。指導により大量生産を考慮した改造図面の作成に着手。

    1944年12月から1945年(昭和20年)1月にかけて、震電への搭載が予定されていた「ハ四三」四二型発動機の開発にあたっていた三菱重工の名古屋工場が、断続的に行われたアメリカ軍のB-29の空爆により再起不能の壊滅的な被害を受ける。開発の大幅な遅延に繋がる。

    1945年3月、大刀洗飛行場へのアメリカ軍のB-29の空爆爆撃を受けて、現在の筑紫野市原田へと九州飛行機は工場の疎開を決定。部品の運搬は牛車で夜中に行われた。

    1945年6月、1号機が完成し蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運搬。翌7月完工式。鶴野自身による滑走試験中、機首を上げ過ぎたために、プロペラ端が地面に接触して先端が曲がってしまう。この後、プロペラを試作2号機用の物と交換、機首上げ時にプロペラが接触しないよう側翼の下に機上作業練習機白菊の車輪が付けられた。(量産機では主脚の接地位置をうしろにずらし、垂直尾翼の下に車輪は付けない予定であった)

    1945年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し三菱重工へ連絡をとって部品を取り寄せている最中に終戦となった。

    特徴

    後部のプロペラ 最大速度400ノット(約740km/h)以上目標として開発されたため、機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した前翼型(エンテ型)[注釈 5]の設計とするなど、速度性能を追求した設計となった。





    酸素魚雷(さんそぎょらい)

    とは燃料の酸化剤として空気の代わりに、空気中濃度以上の酸素混合気体もしくは純酸素を用いた魚雷である。

    日本において単に酸素魚雷といった場合、第二次世界大戦中、唯一実用化され運用された大日本帝国海軍の九三式魚雷もしくは九五式魚雷を指すことが多い。本項では、大日本帝国海軍の酸素魚雷を主題として述べる。

    ロング・ランス(Long Lance、長槍)という愛称も知られているが、これは戦後にサミュエル・モリソンがつけた物である。

    概要

    第一次世界大戦以後の魚雷の推進動力は、燃料と酸化剤である圧縮空気を搭載してエンジンを回す内燃機関型(熱走式)と、電池による電気モーター型(電気式)に大別される。前者は高速かつ長射程(航続力大)だが、多量の排気ガスの気泡が魚雷の航跡に明瞭な白線(雷跡)となって浮かび上がり、魚雷の存在も、撃ってきた方位も露見しやすい欠点がある。後者は雷跡が無いが、熱走式に比して出力が低く速力・射程とも劣ると、一長一短がある。(大戦時ドイツのG7の経緯なども参照)

    酸素魚雷は熱走式で圧縮空気に替えて純酸素を使用したものである。これにより排気ガスの成分はほぼ炭酸ガスと水蒸気のみとなる。蒸気は言うに及ばず炭酸ガスも海水によく溶けるため、酸素魚雷は雷跡をほぼ引かないという、電気式に準じる隠密性が特徴である。また、通常の熱走式よりも燃焼効率が大きく向上したことで速力(雷速)・航続力もさらにパワーアップした。純酸素の使用で多くの利点が得られることは広く知られていたが、激しい燃焼反応のため機関始動時などに容易に爆発するという技術上の問題点が立ちふさがっていた。

    そうした中、日本は1933年(昭和8年)、世界に先駆け酸素魚雷の開発に成功。以降、大戦を通じて唯一の酸素魚雷運用国となった。実用化にこぎつけたのは日本以外ではイギリスのみであった。そのイギリスも、純酸素ではなく、酸素を増加した、空気魚雷と酸素魚雷の中間のようなものである[注 1]。

    酸素魚雷は当時の他国魚雷の水準に比して、雷速と炸薬量で優り、射程は数倍、加えて航跡の視認が困難という高性能なもので、それによって戦争で連合軍の艦艇は多くの損害を被り、1943年に鹵獲されるまで連合軍は魚雷について知らなかった。一方で、酸素魚雷の整備性は良好とはいえず誤爆を防ぐために充分なメンテナンスを要し、また、速すぎる雷速の為、船底爆破用の磁気式の信管が使用できず、接触式信管を採用せざるをえないなどの短所もあった。後に日独技術交換により大日本帝国海軍からドイツ海軍へも試験供与されたが、戦略的位置付けの違い[注 2]もあり、整備性の悪さなどからUボートでの使用には適さないと判断され、採用されていない。

    考)日本海軍の使用した通常魚雷、及び各国の魚雷の性能は以下の通り

    通常魚雷各型の要目

    名 国 全長 直径 重量 名 射程 弾道重量 備考

    九〇式空気式魚雷

    (艦艇用) 日本 8.5m 61p 2,500s 10,000m(42Kt時) 7,000m(46kt時) 400s 睦月型から初春型までの駆逐艦以下の艦艇に搭載

    九一式魚雷改二

    (航空用) 5.47m 45p 838s 2,000m(42Kt時) 204s 主力航空魚雷 改二は1939年以降のモデル

    九一式魚雷改五 (航空用) 5.27m 848s 1,500m(41Kt時) 235s 1943年から量産された最終モデル 21インチ・マーク[

    (潜水艦用) イギリス 6.579m 53.3p 1,566s 13,700m(35Kt時) 10,000m(41Kt時) Torpex 365 kg 21インチ・マーク\

    (艦艇用) 5.27m 1,693s 13,700m(35Kt時) 10,050m(41Kt時)

    18インチ・マークXV (航空用) 5.251m 45p 817s 3,200m(33Kt時) 2,290m(40Kt時) Torpex 247 kg Mk10(潜水艦用)

    アメリカ 4.953m 53.3p 1,005s 3,200m(36Kt時) TNT 225 kg or Torpex 220 kg Mk12(艦艇用) 6.88m 1,590s 13,700m(27.5Kt時) 9,144m(35.5kt時) 6,400m(44kt時) TNT 226.8 kg  

    Mk13(航空用) 4.191m 56.9p 1,005s 3,660m(33.5Kt時) TNT 274 kg or TPX 275 kg or HBX 272 kg  

    Mk14(潜水艦用) 6.25m 53.3p 1,490s 8,200m(31Kt時) 4,100m(46kt時) TPX 303 kg  









    陸軍機動艇 陸軍機動艇について

    http://www.tokusetsukansen.jpn.org/J/A111/index.htm

    陸軍機動艇にはSS艇とSB艇があります。昭和20年5月現在の区分は「輸送用舟艇」で主体類別は「一類」、取扱区分は「秘密」でした。(JACAR: C01007870400)

    SS艇は陸軍が開発した揚陸艦で試作艇「蛟龍」が昭和17年1月26日株式會社播磨造船所で進水、次いでこれを改良した「蟠龍」が昭和18年5月17日に進水しました。この「蟠龍」をタイプシップとして第三船「海龍」以降20隻が建造されました。これらは計画造船の中でE型戦時標準船として組み込まれたためES船と呼ばれることもありました。この他に香港で4隻が建造されましたがいずれも建造中止となりました。「蛟龍」は当初船舶扱いであったらしく「蛟龍丸」として船舶番号と信号符字が付与されております。

    SB艇は海軍の二等輸送艦と同じものです。

    昭和19年6月1日付で24隻、同年9月5日付で11隻、合計35隻の特設輸送艦が陸軍に配分されました。このうち2隻は終戦までに完成しませんでした。また、昭和19年9月5日付で10隻、昭和20年1月25日付で3隻が海軍に移管され二等輸送艦となりました。第1547号艦は竣工と同時、第1510〜1515号艦は竣工前に海軍に移管されたため陸軍機動艇としては就役しておりません。従って、合計26隻のSB艇が大東亜戦争中に就役していたことになります。残念ながら現在のところ特設輸送艦の艦名と機動艇の艇名の対応は一部を除き不明です。また、SB101など数隻は同名艇があり、SB120などの欠番もあるので注意が必要です。

    陸軍機動艇の諸元 ここをクリックして下さい。



    第2次戦時標準船

    増大する船舶被害に造船が追いつかなくなり、建造期間の短縮および資材の節約を目的として第2次戦時標準船が建造されることとなった。

    ブロック工法も用いて約1ヶ月で建造が可能な2E型が東京造船所・播磨松の浦・三菱若松・川南深堀の 4造船所を中心に471隻生産された。 二重底や隔壁の廃止、簡略化のため抵抗が大きく、速力や燃費の面で不利な船型、故障しやすい低出力の機関により、カタログスペック上でも7から8ノット程度しか出ない上に、燃料の粗悪によりそれ以下の低速しか発揮できないことも多く、潮流の早いところでは流されて座礁することすらあり[注 2]、粗悪な鉄板が使われるなど、粗製濫造といわざるを得なかった。

    第2次以降に建造された戦時標準船の耐用年数は、すぐに撃沈されるだろうという想定から「機関1年・船体3年」とされ、鋼材の質の低下や舷側鋼板の薄肉化により強度が低下し、座礁しただけで大破沈没した船舶[注 3]や、ボイラーの爆発[5]など重大事故を起こした船舶もある。「轟沈型」とのあだ名さえあった。なお、これらの第2次戦時標準船は終戦時に残存していた船舶のおよそ4分の3を占めていたが、あまりの粗製乱造ぶりに驚いたGHQによって運用を禁止され、一部の大型船[注 4]を除いて、戦後の復員輸送には一切使われなかった。残った船の中にも、煙突や上構を全て撤去して新造し、機関を換装する[注 5]などの改装が施された。

    2A型(6,600トン、三連成レシプロor蒸気タービン、レシプロ9.0ノット・タービン10.0ノット、13.0ノット)

    1A型と1B型を統合したものとして三菱重工業長崎造船所で設計。95隻が計画され、90隻が建造された。

    2D型(2,300トン、レシプロor蒸気タービン、9.0ノット、11.0ノット)

    1C型と1D型を統合したものとして日本鋼管鶴見造船所で設計。116隻が計画され、104隻が起工。戦後に完成したものや、箕面等海軍籍の2隻を含めて98隻が竣工した。1D型と同様に、30tデリックを1基、5基の5tデリックを搭載している[3][4]。

    2E型(870トン、ディーゼルor焼玉orレシプロ、ディーゼルor焼玉8.0ノット・レシプロ7.5ノット、ディーゼルor焼玉9.0ノット・レシプロ8.8ノット) 1E型と1F型を統合したもので、新設の小造船所でも量産できる海上トラックとして浦賀船渠で設計。3E型や戦後に完成したものを含む496隻が計画され、468隻が起工。463隻が竣工した他、戦後に建造続行船として8隻が建造された。専用の建造造船所まで作られ、デリックの有無、機関の違いにより複数のバリエーションがある。

    2TL型(10,100トン、蒸気タービン、13.0ノット、15.0ノット) 1TL型と1TM型を統合したもので、三菱重工業長崎造船所で設計。36隻が計画され、34隻が起工。29隻が完成した。うち、特2TL型へ2隻が計画変更された。輸送効率の観点から1TL型と同じ大きさとなったが、造機能力の不足により速力が低下したため、艦隊随伴給油用としては考慮されなかった。 2TM型(2,820トン、蒸気タービン、9.5ノット、11.5ノット) 1TS型の後身、パレンバンとシンガポールの間の油輸送を目的として三菱重工業横浜造船所で設計。47隻が計画され、42隻が起工。戦後に完成したものを含め40隻が竣工した。 2AT型(6,600トン、三連成レシプロor蒸気タービン、レシプロ9.0ノット・タービン10.0ノット、13.0ノット)

    タンカーの不足により2A型を転用した応急タンカーで、三菱重工業長崎造船所で設計され、35隻が建造された。

    2ET型(870トン、ディーゼル、7.0ノット、9.6ノット) 2TM型の生産が追いつかないため、2E型を転用した応急タンカーで、播磨造船所で設計。戦後に完成したものを含めて138隻が建造された。うち初期に建造された32隻は2E型として建造中の物を改造転用したもので、こちらは改E型油槽船と呼ばれる。



    奮龍 (ミサイル)



    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 奮龍 種類 地対空ミサイル

    原開発国 大日本帝国の旗 大日本帝国

    運用史

    配備先 大日本帝国の旗 大日本帝国

    開発史

    製造業者 海軍技術研究所 諸元

    重量 二型:370 kg 四型:1900 kg 全長 二型:2.4 m 四型:4.0 m 直径 二型:30 cm 四型:60 cm 信管 近接信管 エンジン 二型:固体燃料ロケット 四型:特呂二号原動機 推進剤 二型:ダブルベース火薬 四型:80%過酸化水素と80%水化ヒドラジンとメタノール 誘導方式 二型:手動指令照準線一致誘導方式 四型:Track-via-missile(英語版) テンプレートを表示

    奮龍(ふんりゅう)は、1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)にかけて、大日本帝国海軍が開発していた地対空ミサイルである。

    開発

    1944年(昭和19年)初め、高度10,000 mを飛行可能なアメリカのB-29に対抗するために、海軍艦政本部第四部(造船部、船体設計担当)の吉田技術少佐が発案した。7月2日に、第四部首脳陣に対する「自動追尾噴進弾」の説明会が行われた。第一部(砲、火薬担当)の協力を得ることは困難だったため、第四部は艦政本部の研究機関である海軍技術研究所に吉田少佐が通う許可を与え、本格的に開発が始まった[2]。

    わずか10ヵ月後の1945年(昭和20年)4月25日には、高松宮宣仁親王臨席の元、浅間山で特型噴進弾二型の最初の発射実験が行われた[3]。

    この時は無誘導で発射され、飛行特性が調べられた[4]。2回目以降は無線操縦装置を備えて実施され、二型は、目視による無線操縦により左右旋回を繰り返した後に目標地点に20m離れた場所に着弾し、命中しなかったものの2回目の試験は成功と看做された[2]。その後、十数基の試作弾が試験され、6月中旬には宣仁親王の裁可によって、特型噴進弾四型に「奮龍」の愛称が付けられた[3]。

    7月の試験でも無線操縦に沿って良好な機動性を示したが、速度が遅く左右へ振動する欠点が指摘された[3]。四型は伊豆半島の施設で三菱と空技廠の技術者によって設計され、より先進的な誘導装置を備え、ロケットエンジンは、長崎兵器製作所で桜花に搭載する予定で開発されて不採用となった液体燃料ロケットエンジン「特呂二号原動機」を流用し、燃焼室を改良することで実用化の目途をつけた[2]。他の部品の完成を待って、8月16日に四型の最初の発射実験(エンジンの地上試験という説もある)が計画されたが、8月15日の終戦までに液体ロケットエンジンは組み立て場に届かず、試作は中止。一切の資料は焼却処分された[2]。

    設計

    誘導装置の予備実験として「特型噴進弾二型」(奮龍二型)を製作し、本命の「特型噴進弾四型」(奮龍四型)を実用化する予定であった[2]。

    二型と四型の誘導装置の研究開発には、「テレビの父」高柳健次郎と、日本放送協会が関わっている[5]。この時のVHFによる誘導ビーコン送受信技術が、後のテレビジョン実用化へと?がっている。また、後に日本電子を設立する風戸健二達も開発に参加していた[5]。

    奮龍一型

    地対艦誘導弾の「特型噴進弾一型」(奮龍一型)が計画され、誘導装置は手動指令照準線一致誘導方式だった。弾頭は882 lb (400 kg)で一式陸上攻撃機からの投下試験が実施された。

    奮龍二型

    「特型噴進弾二型」(奮龍二型)はダブルベース火薬の固体燃料ロケットで、全長2.4 m、本体直径30 cm、全重量370 kg、最高速度525 mph (845 km/h)、到達高度は5,000 mであった[6][7][8]。風洞実験の結果、選定された機体形状は円筒で中央にエレボンを備えた4枚の木製の主翼があり、後部にも4枚の安定翼を備える[9]。80°の角度で発射され、エンジンの推力は240 kgf (2.4 kN)で3.5秒間作動する[4]。誘導装置は、弾頭の後部にジャイロスコープ2基とサーボ機構を搭載し、サーボモータに連動する十字翼で飛行中の誤差を自動修正するようになっていた[3][4]。

    奮龍三型

    「特型噴進弾三型」(奮龍三型)は二型を基に液体燃料ロケットエンジンを備えた対空誘導弾で構想のみで実機は製造されなかった。

    奮龍四型

    「特型噴進弾四型」(奮龍四型)は80%過酸化水素と80%水化ヒドラジンとメタノールを推進剤に用いる推力1,500 kgf (15 kN)で120秒間作動する特呂二号原動機を備える液体燃料ロケットで全長13.1 ft (4.0 m)、本体直径24 in (61 cm)、全重量4,190 lb (1,900 kg)、最高速度l,099km/h、到達高度は15,000mであった[7]。四型では誘導装置としてビームライディングの一種であるTVM式誘導装置が搭載され、1,000MHz帯の5チャンネルが使用され、4チャンネルはピッチ軸とロール軸の制御で第5チャンネルは指令爆破用だった[4][10]。四型も二型と同様に弾頭の後部にジャイロスコープ2基とサーボ機構を搭載した。エレボンを備えた2枚の主翼と2枚の安定翼はサーボモータに連動して飛行中の誤差を自動修正するようになっていた[3][4]。エンジンの推力が計算上不足していたので45°の角度で発射され、空気力学的な効果で揚力を発生するようになっていた[4]。

    仕様

    型式 奮龍二型 奮龍四型 全高 2.4 m 4.0 m 直径 0.3 m 0.6 m 重量 370 kg 1900 kg

    推進剤 ダブルベース火薬 80%過酸化水素 80%水化ヒドラジン メタノール

    最大速度 240m/秒 305m/秒 エンジン 固体燃料ロケット 特呂二号原動機 推力 2,400 kgf (24 kN) 1,500 kgf (15 kN)

    エンジン 作動時間 3.5秒 120秒 到達高度 5,000 m 15,000 m 射程 ? 30,000 m 弾頭 50kg 200 kg







    ロケット砲

    四式二〇糎噴進砲

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 四式二十糎噴進砲 Japanese Type 4 20 cm Rocket Mortar with a 20 cm shell.jpg 靖国神社の展示[1] 種類 ロケット砲 原開発国 大日本帝国 運用史 配備期間 1944-1945

    配備先 War flag of the Imperial Japanese Army.svg大日本帝国陸軍 関連戦争・紛争 第二次世界大戦

    諸元 重量 227.6kg 銃身長 1.923m 砲弾 83.7kg 口径 203 mm 仰角 40° ? +65° 初速 175 m/秒 最大射程 2,500m テンプレートを表示

    四式二十糎噴進砲(よんしき20せんちふんしんほう)とは、大日本帝国陸軍が1944年(皇紀2604年)に制式化し、第二次世界大戦末期に使用した口径203mmの噴進砲(ロケット砲)である。硫黄島の戦いや沖縄戦で使用され、簡易な造りで敵に大きな被害を与えられることから本土決戦の切り札としても期待されていた。

    開発経緯

    陸軍では昭和18年(1943年)7月に中迫撃砲以上の通過が困難な地形における急襲兵器として噴進砲の研究を開始した[2]。砲弾は第7陸軍技術研究所が7月に試作した二十糎噴進榴弾を使用し、発射機は船舶搭載用と合わせて設計を開始した。発射機は高射角・低射角の2種類を試作して射程を比較することとし、8月に大阪陸軍造兵廠に試作注文した。9月には噴進榴弾の秘匿名称として「ろ弾」という名称が与えられ、開発中の発射機の名称も試製二十糎ろ弾発射機I型と変更した。同時に船載用のものはII型として陸上用と区別された。試験は10月より開始し、発射機として高射角のものを採用することが決定した。更に操作を容易にするために装填板を廃止し上蓋式に改め、砲身の接続はねじ式とする等の改修を行った。12月に修正機能の抗堪試験と射表の編纂試験を実施し、実用性が十分であると認められた。また同時に実施された砲身を接続しない短砲身の状態での試験では噴進炎(バックブラスト)により水平器や照準眼鏡を破損するなど影響が大きく、また駄載が困難であることから不採用とした。昭和19年(1944年)1月に陸軍野戦砲兵学校に試験を委託し、実用に適するとの判決を得た。なお「ろ弾発射機」なる名称では部隊編成に不都合であることから名称を「噴進砲」に改め、本砲を以後「試製四式二十糎噴進砲」と呼称することとなった。この後若干の修正を加え、2月21日に陸軍研究所による研究報告が提出された。

    構造

    本砲のI型発射機は砲身・二脚・連結架・床板及び照準具から成り、外見は大型迫撃砲に類似する。砲身は発射時の後方噴流を逃がすために前後が開放されており、中央で前後に分割することが可能である。砲身はライフリングが刻まれていない滑腔砲身である。砲身後方には蝶番で開閉する装填用の蓋が付随する。発火方式は摩擦門管牽引式であり、砲身後端に引手を掛ける滑車託架を有する。脚は開脚式で、高低照準機及び水平規正用具を有する。高低射界は45度〜65度、水平射界は射角45度で左右150ミルである。連結架は二脚と砲身を接続し、方向照準機及び眼鏡託架を有する。試験では発射機の組立所要時間は約1分40秒であった。なお実戦で主に使用されたタイプはこれとは異なり、三脚構造で木製、このうちの一脚が二枚の板で噴進弾を挟む形の発射レールで、破損するまで十数発が発射可能な簡易なものであった。噴進弾は支給されるが、発射台は交付された図面をもとに板材で現地で自作すべしと通達されていた。また同時期に開発された四式四〇糎噴進砲の発射架も同じく木製発射台を用いるようになっており、現地部隊が独自に三連装にしたものもあった。

    また、船載用のII型発射機は基筒に装備し、噴進炎を防ぐために防炎庇・防盾・尾筒を有する。防炎庇は砲口に装着されるラッパの口を逆さにした様な覆いであり、砲口より飛び出た砲弾の後方噴流を周囲に逸らす機能を有する。防盾は後方噴流から射手を防御し、照準孔を有する。尾筒は砲身後方に装着される上方向に湾曲した筒状の装置であり、砲尾から噴出する噴進炎を砲の後部上方向に逃がす機能を有する。昭和19年(1944年)1月に伊良湖試験場で実施された試験ではウサギを使って各射角での射撃を実施した結果、これらの装置によって砲手は発射時の噴進炎から相当防御されるものとされた。なお防炎庇・尾筒を装着しなかった場合では「兎ノ毛ハ黒焦ゲトナレリ」と書かれている[3]。この試験では防炎庇と尾筒による防炎は十分であるために防盾はより軽易なもので十分なこと、湾曲した尾筒には発射時のガスによる強い負荷が掛かるために砲架の強度を増す必要があること、尾筒装着時の弾道性には更に研究を要すること、発火方式には電気門管の使用が適当であることが挙げられた。

    砲弾

    本砲弾は噴進薬の燃焼ガス噴出の反動を用いて飛翔するロケット弾であり、一般の砲弾とはその原理が異なる。砲弾は弾頭と弾尾からなり、両者はねじ式に結合する。砲弾には飛翔に際しての安定翼の様なものは無く、代わりに弾底にある6個の噴射口個々に角度を付けてライフル弾のように回転することによって飛行を安定させる「旋動(=スピン)安定式」という方式を採用している[4]。信管には一〇〇式二働信管「迫」を使用し、切替装置によって瞬発と短延期(0.1秒)を選択できる。薬量は185gで信管は弾頭に装着する。門管は約40gで、安全のため弾尾の門管孔への装着は砲弾の装填後に行われる。炸薬量は16.5kgで瞬発信管を用いた場合の効力半径[5]は31m、短延期信管を用いた場合砂地において深さ1.5m、直径6mの漏斗状の着弾孔を生ずる。装薬量は1号9.6kg・2号8.9kg・3号8.2kgの3種類であり、1号装薬の状態で支給されるために2号もしくは3号装薬を用いるには砲弾から火薬抜を用いて噴進薬を取り出す必要がある[6]。1号装薬使用時で燃焼時間は約2秒、飛翔速度は発射機前方175mで約175m/秒となる。射程は最大で1号装薬を使用し射角45度で2,500m、最短は3号装薬を使用し射角65度で1,400mである。発射の際は噴進炎による危害を避けるために発射機から5m以上遠ざかること、特に後方は土砂等が飛散するために注意することとされた。

    運用

    本砲は発射機の簡便な特性から奇襲的に使用し、人馬の殺傷と敵を精神的に震撼させることを目的としていた。また多数の集中発射によりある程度の野戦陣地の破壊を見込めるとされていた[7]。本砲は戦争末期の激戦地である硫黄島、沖縄に投入された。特に硫黄島では本砲を含め噴進砲70門が投入され、慢性的な火砲不足に悩む帝国陸軍にとって大いに助けとなり、また同様に簡易かつ大威力で既に前々から制式・配備されていた九八式臼砲と共にアメリカ軍に大きな損害を与え、畏怖の対象とされた。但し弾数が50発/門しか用意されていなかったため、あっという間に撃ち尽くされてしまった。また、ロケットの噴射炎と煙によって敵に位置を知られるため、撃ち尽くす前に制圧射撃を受けて破壊される恐れも大きかった。同時期により大型の四式四十糎噴進砲も開発され、噴進弾500発が生産されているが離島などへの輸送の便の関係上小型の二十糎型のみが南方で実戦使用された。海軍でも二十糎噴進砲を参考に重巡洋艦用主砲弾の在庫を流用した三種類の20cmロケット砲(実際の口径は210mm)を製作し、最後の型は鋼管製発射器を載せた簡易な砲架に車輪付きの形状あった。この砲は硫黄島で米軍に鹵獲されている。





    レーダーの開発 伊藤庸二

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 伊藤 庸二 いとう ようじ Yoji photo.jpg 生誕 1901年3月5日 千葉県夷隅郡御宿村(現・御宿町) 死没 1955年5月9日(54歳没) 国籍 日本の旗 日本 教育 ドレスデン工科大学(博士号) 東京帝国大学(工学博士号) 親 伊藤 鬼一郎 業績 専門分野 無線通信、電気工学 所属機関 大日本帝国海軍 光電社 光電製作所

    プロジェクト レーダー開発

    受賞歴 海軍技術有功章

    伊藤 庸二(いとうようじ、1901年3月5日 - 1955年5月9日)は、日本の元大日本帝国海軍技術官、無線技術者である。

    生涯

    生い立ちから海軍技術研究所の初期まで 1901年(明治34年)3月5日、千葉県夷隅郡御宿村(現・御宿町)に、御宿尋常高等小学校長伊藤鬼一郎の次男として誕生[1][2][3]。伊藤家は御宿郷の名主の家系だった[1]。旧制第一高等学校を卒業後[3]、東京帝国大学の1年生の時に海軍委託学生になり、1924年(大正13年)3月、同大学工学部電気工学科を卒業[4][5]。翌月、海軍造兵中尉(技術科士官第13期)に任官する。当時、欧米で電波技術が顕著に発展していたことから海外に技術者を留学させることとなり、1926年8月、箕原勉の推薦によりその候補に選ばれた[6]。1926年11月にドイツ入りし、ドイツ語の習得後、1927年(昭和2年)4月、ドレスデン工科大学にてハインリッヒ・バルクハウゼン教授の下で学ぶ[6]。なお、留学先については八木秀次に相談して決めたという[6]。同大学にて無線用真空管の研究をし、卒業論文「二極真空管理論並びに超低周波発生」[7]をまとめ、1929年7月に博士号を取得[8][5]。1929年8月に飛行船ツェッペリンで同乗したことをきっかけに草鹿龍之介と交流を持ち、その後、草鹿の相談に応じて助言をしていたという[9]。伊藤は、電波技術を索敵・攻撃兵器に応用すべきと早くから訴えていた[9]。

    帰国後は海軍技術研究所電気研究部の技術官となり、振極管の研究を行う[10]。この研究成果は後に論文「磁電管の研究」として1936年に東京帝国大学に提出し、同年12月に工学博士号が授与される[11][10]。また、電離層の研究にも取り組んだ。地上から発した電波が電離層で屈折反射するフェージング現象が課題となり、1932年にパルス波を用いた独自の測定装置を作成した[12]。本機を用いた電離層の定期観測は国内初のもので、1932-1933年の第2回国際極年では学術研究会議電波研究委員会を通じて測定結果が全世界に発表された[12]。また、伊藤の測定した記録は、万国無線科学協会(URSI)の事業として、毎週1回、1941年12月まで全世界に放送された[12]。

    電波伝播の研究を進め、この観測研究が軍事用短波通信の波長選択に不可欠なものであると理解され始める[13]。1937年には関係者により波長選択の図表が完成し、1942年8月に伊藤はこれへの貢献から海軍技術有功章を授与される[13]。

    ヨーロッパ出張

    1937年春、ヨーロッパ出張の際、「ドイツ海軍が電波を使用して距離を測れる装置の開発に成功した」との未確認情報をドイツで聞き、また、イタリアでも短波を使った兵器開発の可能性について話を聞いたところであった[14]。伊藤はドイツ大使館経由で軍中央に報告したが、この情報は握りつぶされたという[14]。

    伊藤研究室にて1933年から続けていたマグネトロン(磁電管)の研究が進み、1937年末には八分割陽極マグネトロンの最初の試作品を作成[15]。これを基に橘型、菊型のセンチ波マグネトロンの開発に成功する[15]。1939年初頭、マグネトロンの研究成果の一部を日本無線に公開し、その出力増加・量産化を委ねた[16]。橘型マグネトロンを使って暗中測距装置の共同研究を開始し、1940年秋には試作機を完成させ、同年10月10日に鶴見沖で空母「赤城」を対象に実験を行い、成功させた。ただし、海軍はマイクロ波技術は即戦力にならないと判断し、開発を中止させてしまった。一方、ほぼ同じ頃にイギリスでも同じ方式のマグネトロンが開発され、アメリカにこれが提供された後、マイクロ波レーダーとして開発され、戦争で活用されている[17]。

    1939年春、大和田受信所(のち大和田通信所)の初代所長の和智恒蔵より、アメリカ軍太平洋艦隊の発する電波の解析について相談を受け、協力することとした。密かに作業を進め、望ましい結果を得るための状態や、その場合の受信地の場所などの助言をまとめた報告書を作成。この結果、太平洋艦隊は週初めに基地を出て、ラハイナ・ロードという海域で訓練をし、週末に真珠湾に帰投して休養を取るという行動様式を確認[18]。後に真珠湾攻撃の日時を決めるのに役立ったとみられる。

    1941年2月下旬から6月にかけて、ドイツ視察に同行し、パルス変調を使った航空機検出装置を見学し[19]、海軍本部へ報告する。同じ頃、ロンドン駐在の浜崎造兵中佐からもレーダーに関する情報が報告され、日本でもレーダー(電探)の開発が進められる[20]。その後に完成した対空用の二号一型電探と、対水上警戒用の一〇三号電探(後の二号二型電探)を戦艦「日向」に搭載した実験で、「一〇三号については撤去すべき。」と判断された際、「目的が異なるものを同じ装置で行うことは困難。」と伊藤は異論を唱え[21]、マイクロ波電探の必要性を訴えた[22]。

    日米開戦後

    また、アメリカとの戦争が始まってから、その前途に不安を感じたのか[23]、1942年2月の連合艦隊による図上演習後、「ドイツや英米では原子力爆弾の研究が進められており、警戒が必要。」と発言[24]。これがきっかけとなり、伊藤の呼びかけで調査機関設立のための準備委員会が設置される。その後、原爆製造のための可能性を検討する「物理懇談会」(仁科芳雄委員長)が1942年7月に発足。同会は1943年3月まで開催され、「原爆製造は可能だが、ウラン鉱石が不足し、長時間の研究が必要となり、この戦争には間に合いそうもない。」との結論に至った[23]。電波研究の中心である伊藤が別の研究に時間を浪費しているとの批判もあり、同会は解散した。

    「日本の原子爆弾開発」も参照

    1942年10月のサボ島沖海戦ではアメリカ軍のレーダーが活躍し、日本でも射撃用レーダーの重要性がわかり始め、センチ波電波探信儀の開発が認められた。ただし、前回の戦艦「日向」での試験結果を勘案し、対潜水艦用に限定された。一〇三号電探を改良し、二号二型電探を作成。1942年末に駆潜艇装備実験が行われ、量産に入った[25]。

    前述の物理懇談会では、複数の委員から「マグネトロンを使った電波兵器の方が実現する可能性が高い。」との意見があり、伊藤は上層部を説得して大出力磁電管の研究許可を得る。1942年10月から日本無線本社工場内に技研三鷹分室を設けて、研究に着手[26]。1944年6月に開設した技研島田実験所で実用研究を行った。初期研究は順調に進み、約5mでウサギを殺す実験は成功したが、殺人光線、飛行機撃墜用の強力電波といった本来の目的である応用研究は一向に捗らなかった。大出力のマグネトロンが作れなかったためである。高性能なマグネトロンは作れるようになったが、発振理論が解明されず、応用機器が作れなかったという[27]。

    終戦後

    終戦後、戦争関係資料の焼却とともに技術資料が無くなることが惜しい、また、後の復興に資料が役立つと感じたため、海軍の技術史を残すことを決心。高松宮宣仁親王に相談をし、元軍令部の富岡定俊と共に史実調査の仕事をすることとなった。史実調査の資金捻出とともに地元の農漁業の電化による振興のため、1946年春に光電社を設立。1947年には船舶機器の専門メーカー「光電製作所」を設立する[28]。

    1952年、電波監理局から陸上用方向探知機を作る話を打診され、1953年に試作機を作成。アメリカ陸軍のものよりも使いやすく、長時間使用が可能であったので、各地の電波監理局で採用されるとともに、輸出機運が盛り上がった[29]。海軍での親友、藤村義朗を介して日系貿易商を紹介され、アメリカに渡航するきっかけを得た。せっかくの外国出張なので、ヨーロッパでバルクハウゼン博士と再会した後、旧海軍の研究成果をアメリカに持ち込み、日米共同研究をするという計画を立てた。しかし、渡航資格が無いので悩んでいたところ、アメリカの極東空軍幹部から賓客として招待するので渡米するようにとの話を得る。史料調査会の富岡に相談し、近々発足予定の防衛技術研究所嘱託の資格を得られるよう取り計らってもらい、渡航資格を得た。1954年4月下旬に欧米に出張。欧米でバルクハウゼン博士を含む知己や友人と会った後、アメリカで空軍研究長官のバット将軍と会い、「現在のように完成品の提供だけでなく、日本に研究課題と開発資金を与え、日本との友好関係を育んでほしい。」との旨で日米共同開発を訴え、パット将軍からは「伊藤がそれをしてはどうか」と逆提案があった[30]。ただ、後に日本の大学に呼び掛けたところ、大多数の大学は、研究費は欲しいが米軍からの「ひも付き研究」では左翼勢力に睨まれるのが怖いと拒否反応を起こしたという[31]。

    帰国後、アメリカで見た世界初の電子計算機「ENIAC」の真空管が切れやすかったことから、後藤英一が開発した「パラメトロン素子」を基に電子計算機を作ることを検討。規模の小さい光電製作所では実現は困難であったため、パラメトロン電算機の開発は、国際電電、電通研、東大高橋秀俊研究室の三者で共同開発する方針が決定し、光電製作所は国際電電の指導の下、素子の開発を手伝うことになった[32]。

    その後、緒方竹虎副総理から防衛技術研究所の初代所長に就任してほしいとの依頼があり、伊藤も国のために2年間奉公するかもしれないと周囲に話していたが、その2か月後の1955年5月9日、光電製作所で指導中に急に倒れて死去した[33]。

    戦時期日本のレーダー開発に関する 最近の調査研究動向 河村 豊

    2.『日本無線史』(1951 年刊行) さらに,未刊行の原稿が史料調査会に所蔵 されている.編集の目的は,開発担当者によ る戦訓の収集と思われる.その内容は,記憶 に基づく記述や,担当した部分だけに限定し た記述が多いために全体像がつかみづらい が,レーダー開発の過程を知る資料として, 今後も利用する価値は十分にあろう. また,開発の担当者であった元海軍技術大 佐 伊藤庸二は,敗戦時に焼却せずに残した 技術資料などから,レーダー開発の技術史を まとめ上げようといる計画をもっていたよう だが,本人の急逝により実現せずに終わった. 以上,資料の概要を紹介した.資料につい ての詳しい内容は,現在準備中の論文





    目指すは通常の3倍!

    水中の速さ追求した旧海軍の高速潜水艦、開発経緯とコトの顛末 2019.03.25

    https://trafficnews.jp/post/84620

    ミリタリー, 艦艇(軍艦), 潜水艦, 潜高型, 旧日本海軍

    第2次世界大戦も中盤になると、アメリカの対潜水艦戦闘は技量が向上し、日本側の被害が増えてきます。そこで日本海軍が目を付けたのは水中速度の向上。狙われても逃げ切れればよいのです。どこまで、どのように実現できたのでしょうか。

    水上航行に最適化されていた当時の潜水艦

     実験艦を除いた戦後の通常動力型潜水艦において、水中速力25ノット(約46km/h)を達成した例はありません。2018年10月に進水した海上自衛隊の最新鋭潜水艦「おうりゅう」でも、水中速力は20ノット(約37km/h)とされています。ところが80年も前に、旧日本海軍は水中速力25ノットを目指した潜水艦を作っていました。

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    1945年2月に呉で撮影された潜高型2番艦の伊二百二。マストにじょうご形の22号電探(レーダー)が見える。

     第2次世界大戦期の潜水艦は、通常は水上航行しており、戦闘時のみ必要に応じて潜水するという運用方法が一般的でした。反撃される可能性が少ない敵商船や小型艦艇を攻撃する際には、「家1軒の値段」といわれた高価な魚雷を節約するため、浮上したまま大砲で攻撃することも、ままあったのです。艦も水上航行に最適なように設計されたため、水中速度は水上速度より遅くなるのが普通で、日本海軍の、ほとんどの潜水艦の水中最高速力は8ノット(約14.8km/h)程度であり、これは他国の潜水艦でも同じようなものでした。

     太平洋戦争の中盤以降、アメリカ軍の対潜水艦能力が向上し、日本の潜水艦の損害が増えていきます。そこで1943(昭和18)年に、日本海軍は水中速力25ノットという潜水艦「潜高型」を構想します。これが実現できれば、敵からも上手く逃げおおせられるはずです。

     通常の3倍速いという、とてつもない要求にも見えますが、1934(昭和9)年に建造された実験艇「A標的」が水中速力24ノット(約44.4km/h)、1938(昭和13)年には高速実験潜水艦「第71号艦」が水中速力21.3ノット(約40km/h)を達成しており、実用化の目途は立っていました。

    目指すは通常の3倍! 水中の速さ追求した旧海軍の高速潜水艦、開発経緯とコトの顛末 2019.03.25 月刊PANZER編集部

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    水中25ノットを目指して

     通常動力型といわれる潜水艦は、水上ではディーゼルエンジンでスクリューを回します。潜水すると給排気ができないので、ディーゼルエンジンを止め電力でモーターを回し、推進力を得ます。電力は、浮上しているときにディーゼルエンジンで発電し、電池に充電しておいたものです。

     理科の授業でも習いましたが、複数の電池を並列に繋ぐと、電球は比較的明るくはありませんが、長く光り続けます。一方、電池を直列に繋げば、電球は目に見えて明るく光りますが、電池は比較的早く切れてしまいます。潜高型は、とにかく水中で高速を出そうと、電池をたくさん直列に並べる方法を採用しました。

     潜高型1番艦「伊二百一」では「特D型」という小型超大容量電池を、当時の標準的な潜水艦であれば数百個単位のところを2088個も搭載、これを36群にまとめて直列配置します。特D型電池はもともと、水中排水量約40トンの実験艇「A標的」のような小型艇用のものでした。これを無理やり大量に、水中排水量1450トンの潜高型に載せたのです。

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    第71号艦(画像:アメリカ海軍)。

    1945年6月30日撮影の舞鶴港。下のドッグに3隻並んだ右端が伊二百一(画像:アメリカ海軍)。 日本降伏後1945年10月に呉で撮影された伊二百一(画像:アメリカ海軍)。

     機関は、1本のスクリュー推進軸に1375馬力のディーゼルエンジンと1250馬力モーター2基を直結した軸を2本、搭載します。水中馬力は、1250馬力モーター×4基=5000馬力が発揮できるはずでした。これは、当時の標準的な潜水艦の2倍の馬力になります。

     船体も、水上より水中抵抗を最小にする形状で、大きな抵抗になる大砲は搭載されず、機銃も格納式でした。一方でレーダーやシュノーケル(浅い深度なら水中に潜ったままエンジンを動かして充電できる)が追加されて抵抗が増え、結果、水中速力は計画値で19ノット(約35q/h)まで下がることになりましたが、それでも標準的な潜水艦の、2倍の速度を実現したので

    現代につながる技術の継承

     潜高型の1番艦、伊二百一は1944(昭和19)年3月1日に起工され、7月22日に進水、1945(昭和20)年2月2日に竣工するという短工期で建造されました。1942(昭和17)年の海大型潜水艦が、起工から竣工まで約1.5年を要していましたので、1年未満での竣工は画期的です。工期を短くできたのは、船体をいくつかのブロックに分けて同時に製造し、最後に全溶接でつなぎ合わせる「ブロック建造方式」を、潜水艦で初めて採用したからでした。

     こうして期待の高速潜水艦、潜高型は1945(昭和20)年6月までに、伊二百一、伊二百二、伊二百三の3隻が完成し、早速、訓練が開始されました。ところが、水中での20ノット近い速度は不安定で、操艦は難しかったようです。また積み重ねて配置された2000個以上もある電池は、温度差が生じ性能は不安定、メンテナンスに莫大な手間が掛かる、80回しか再充電できない(一般的な一号十四型蓄電池なら400回)と問題山積で、さらにショートしやすい危険な代物であり、伊二百二はバッテリー火災事故も起こしています。エンジンは馬力不足で、充電能力も不十分、そして実際の水中速度は17ノット程度だったといわれます。結局、期待の高速潜水艦も訓練と故障修理、不具合個所の対策改造を繰り返しているあいだに終戦となりました。





    富嶽

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    曖昧さ回避 「富嶽」のその他の用法については「富嶽 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

    富嶽(ふがく)は、大東亜戦争中に日本軍が計画した、アメリカ本土爆撃を目的にした6発の超大型戦略爆撃機である。名は富士山の別名にちなむ。

    富嶽による米本土爆撃計画

    1942年(昭和17年)、アメリカ軍による初の日本本土空襲(ドーリットル空襲)と、日本軍による初のアメリカ本土空襲が行われた。この年、中島飛行機の創始者である中島知久平が立案した『必勝防空計画』に書かれていた、アメリカ合衆国本土を空襲した後にそのままヨーロッパまで飛行し、同盟国であったナチス・ドイツまたはその占領地に着陸することが可能な大型長距離戦略爆撃機「Z飛行機」構想が、のちの富嶽である。同年8月15日、大本営陸軍部は「世界戦争完遂ノ為ノ決戦兵器ノ考案」を陸軍省に要望した[1]。その中に「超遠距離飛行機」「特殊気球(フ号装置)ノ能力増大」という項目があった[1]。

    アメリカ本土爆撃を視野に入れ、日本を飛び立ち太平洋を横断してアメリカ本土を爆撃、そのまま大西洋を横断してドイツに寄り補給を受け、再び逆のコースでアメリカを再攻撃しながら戻ってくるか、またはソ連を爆撃しつつ世界を一周すると言う壮大な計画であった。全長45 m(米軍が太平洋戦争で実戦投入した4発戦略爆撃機ボーイングB-29の1.5倍)、全幅65 m(B-29の1.5倍)、爆弾搭載量20トン(B-29の2.2倍)、航続距離は19,400 km(B-29の3倍)、6発エンジンを目指した。

    中島飛行機が設計にかかわる。1943年(昭和18年)5月31日、中島は軍令部官邸での夕食会で本機(富嶽)の構想を説明する[2]。昭和20年にはB-29大型爆撃機が大量配備され「要スルニ現状デハ日本ノ軍需工場ハ全滅シテ戦力ヲ失フノハ明カデアルカラ、大型機ヲ急速ニ設計、生産ニ着手セネバナラヌ」と指摘し、B-29に対抗するには「其ノ飛行場ヲ使用不能ニスル事ガ考エラレル」と述べた[3]。中島は、東條英機首相をはじめ、陸海軍大臣や関係者にも構想を訴えていたという[4]。

    このあと陸海軍共同の計画委員会によって計画が承認され、これに軍需省も加わった体制で開発が進められた。しかし陸海軍の要求性能が大幅に異なったため調整に苦労を強いられ、かつ軍需省は途中で独自に川西航空機に設計案を作らせ、しかも陸海軍や他社はおろか中島飛行機内部にさえ根強い反対論があるなど、開発体制には多くの問題があった。第一次案では、下記の仕様のごとくハ54×6基であったが、空冷四重星型という新形式の開発に手間取り[注釈 1]、応急案としてハ44(空冷二重星型18気筒、2,450馬力/2,800 rpm)やハ50(空冷二重星型22気筒、3,100馬力/2,400 rpm)6基装備で暫定的に計画を進めた。この影響で爆弾搭載量も20 tから15 tに減らされた。

    当時の日本はおろか戦後すぐのアメリカにおいてすらも、その技術力・工業力では手にあまると思える空前のスケールの機体(1946年に初飛行したアメリカ製の超大型爆撃機B-36ピースメーカーも推力不足に悩まされ、当時としては最新鋭の装備であったジェットエンジンをやむなく追加した)であったため、実現までに解決せねばならない諸問題が山積し、与圧キャビンの研究、新式降着装置の開発も行われた。

    1943年(昭和18年)より中島飛行機三鷹研究所構内に組み立て工場の建設が開始された。しかし1944年(昭和19年)4月28日、日本軍は陸海軍当事者、軍需省、関係製作会社を集めて超重爆撃機「富嶽」の研究を続行するかを検討した[1]。富嶽を予定どおり生産した場合、日本陸軍の四式戦闘機(疾風)の943機減産、海軍の陸上爆撃機銀河235機の減産を招く見通しとなった[1]。資材、工作機械、技術研究の観点から、富嶽の研究は「遺憾ながら中止せざるを得ない」との結論に至った[1]。日本軍は同年6月下旬のマリアナ沖海戦に敗北[5]、絶対国防圏の東の鎖ともいうべきサイパンも7月6日に陥落[6]、最大の支援者であった東條首相は周囲からの排斥によって7月18日に辞職した[7]。本土防空戦のための戦闘機開発優先・開発機種削減方針により、「この戦争に間に合わない」と判断された富嶽開発は中止となった。

    現存物

    羽田空港拡張工事中に見つかった、富嶽のものとされるハ50エンジンが、成田国際空港に隣接する千葉県芝山町の航空科学博物館で展示されていた。(現在、外部へ貸出中)

    2016年、「富嶽を飛ばそう会」[注釈 2]によって設計図から1/12のラジコンで復元され飛行が成功した[8][9]。

    富嶽計画参加者

    田中清史:エンジン主担当

    中村良夫:のちのホンダ四輪開発責任者。

    中島に就職したばかりで従軍し、立川陸軍航空技術研究所第二研究所(陸軍航二研・航空発動機)に属しており、構想を実体化するタイミングでチームが編成され、一員として参加。中村は「それまでの日本最大の爆撃機は海軍の四発連山であり、日本の航空産業が持てる経験技術をはるかに逸脱した無謀なプラン」と評している。自身の関与したエンジンに関しては「開発を終わっていた「ハ219」をベースとするものであったため、エンジン自体の構造強度と性能は、まあなんとかメドがつけられそうであった」と

    、想定される技術範囲内であったとする一方、エンジンの冷却に関しては複列型であればバッフルにより前後のバランスをとれるが、四列では一列から四列までを均等に冷却することがうまくできなかったことが基本的問題点であり、このため三菱で開発中だった空冷複式22気筒「ハ50」を高出力化しようという代替案も出たが、これは基本仕様ですでに能力不足だったという[10]。

    関連計画

    「Z飛行機」を陸軍と海軍の要求に合うように、すり合わせる中で産まれた設計の一つがこの「富嶽」である。

    他にアメリカ本土を長距離爆撃する機体として、陸軍のキ74とキ91の開発が進められたが、キ91は開発中止、キ74は審査中に終戦を迎えた。また、海軍も富嶽と競作する形でTBの開発を進めていたが、富嶽に敗れ開発中止となっている。

    旅客機や輸送機へ転用する計画もあった。旅客機型は爆撃機型より一回り小さい全長33.5m、全幅50m、定員は4席x25列の100人。輸送機型は全幅を72mに拡大[11]。この他にも爆撃用の装備を撤去し、機体下部に九七式七粍七固定機銃や九九式二〇ミリ機銃を搭載した掃射機型の計画も存在した[12]。

    アメリカがほぼ同時期に開発を開始した、ほぼ同サイズの戦略爆撃機B-36は、推進型に配置された6発のレシプロエンジンと、翼端にさらに2基ずつのジェットエンジンの計10基の発動機を推進機関とした上で、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)8月8日に初飛行を行い、1948年(昭和23年)に配備開始された。しかし1950年に勃発した朝鮮戦争においては、アメリカでさえ持て余す運用の困難さと高価さゆえに温存され活躍の機会を得られず、また時代は既にB-36のようなレシプロエンジン機の速力では通用しないと考えられた。アメリカにおいて兵器として成功する大型の戦略爆撃機は、B-52ストラトフォートレスまで待つことになる。

    計画仕様

    型式 注:予定である。

    六発 中翼単葉 直線テーパー翼 全金属製 応力外皮構造 引き込み脚、主輪数4(外側2輪は重量軽減のため離陸後投下) 前輪式

    機体仕様

    注:全て計画値であり、これ以外にもいくつもの計画案があった。

    全長:46.00 m 全幅:63.00 m 全高:8.80 m 主翼面積:330.00 m2

    発動機:中島ハ54空冷式4列星型36気筒(ハ219複列星型18気筒を2台串型置) 6,000馬力(3725 kW)6発

    プロペラ:VDM定速6翅・8翅・二重反転4翅(いずれかで計画) プロペラ直径:4.5 - 4.8 m

    自重:42 t

    全備重量:122 t

    最大速度:780 km/h(高度:10,000 m) 実用上昇限度:15,000 m 以上 航続距離:19,400 km 以上

    武装

    注:あくまで計画である。

    20 mm 機関砲 4門 最大20 t までの爆弾 航空魚雷20本(雷撃仕様機)

    登場作品

    研究書

    碇義朗『さらば空中戦艦富嶽-幻のアメリカ本土大空襲』光人社 前間孝則『富嶽-米本土を爆撃せよ』

    『3DCGシリーズ54 日本軍試作機のすべて』双葉社 前間孝則:「富嶽 上: 幻の超大型米本土爆撃機」、草思社文庫、ISBN 978-4794224484(2020年4月6日)。 前間孝則:「富嶽 下: 幻の超大型米本土爆撃機」、草思社文庫、ISBN 978-4794224491(2020年4月6日)。

    ドキュメンタリー番組 土曜スペシャル『さらば空中戦艦富嶽 幻のアメリカ本土空襲』(1979年大映映像製作、NNN系列局) ベースは前述の碇『さらば空中戦艦富嶽 - 幻のアメリカ本土大空襲』。司会役は水野晴郎。中島知久平役にハナ肇、東條英機役に内田朝雄、近衛文麿役に久米明を当てた再現ドラマや、ミニチュア撮影と操演特撮技術を駆使したニューヨークマンハッタン地区に林立する摩天楼の戦略爆撃映像も交え、開発計画の全貌を解説する構成がとられた。巨大な機体を有す高高度重爆撃機を敵艦隊への低空の雷撃に使用する、味方の被害が全くなく敵のP51迎撃機編隊を一方的に撃墜するなどの想定戦闘シーンが放映された[13]。一回のみテレビ放映され、その後は2013年12月7日に日本映画専門チャンネルで放送されるまで、再放送もビデオ化・DVD化も一切されなかった。

    『日本の極秘軍用機』(2007年ヒストリーチャンネル製作・放映、原題:Secret Japanese Aircraft of World War II)

    富嶽の他、秋水、橘花、景雲を紹介・解説。

    創作 架空戦記各作品 史実より日本の国力が大きかったり、太平洋戦争下で開発に成功して戦局を有利にしたりする設定で登場する。檜山良昭『大逆転!幻の超重爆撃機』シリーズ、横山信義『巡洋戦艦「浅間」』シリーズ、佐藤大輔『レッドサンブラッククロス』『仮想・太平洋戦史 目標、砲戦距離四万』など。

    『機神兵団』(1992年のOVA) 『荒野のコトブキ飛行隊』(2019年のTVアニメ) 第10話にて自由博愛連合所属の爆撃機として登場し、ラハマを爆撃敢行したがコトブキ飛行隊及びナサリン飛行隊とラハマ自警団らの活躍により阻止されている。 世にも奇妙な物語'01春の特別編『太平洋は燃えているか?』(2001年4月2日放送、フジテレビ系列局)

    『雷神』という名で登場。

    大東亜戦争(太平洋戦争)日本の英雄