大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害
「世界から恐れられた7人の日本人」
「大東亜戦争の英雄の日本人1」
「大東亜戦争の英雄の日本人2」
「大東亜戦争の英雄の日本人6」
「大東亜戦争の英雄の日本人3」空の要塞B29撃破とB29撃墜王
「大東亜戦争の英雄の日本人4」陸軍エースパイロット撃墜数
「大東亜戦争の英雄の日本人5」海軍エースパイロット撃墜数
「大東亜戦争技術者」
「大東亜戦争技術者2」
「大東亜戦争石油」
日米開戦前日米交渉(アメリカが日本に実質的最後通牒(日本の南部仏印撤退などの譲歩案に))
「大東亜戦争の英雄の日本人1」
「大東亜戦争の英雄の日本人2」
大東亜戦争(太平洋戦争)日本の英雄
1. 9軍神 開戦劈頭,
真珠湾を潜水艇で大戦果 5潜水艦と5潜水艇
2.関行男海軍中佐
,神風特別攻撃隊第一号・敷島隊隊長、空母撃沈 1944年10月25日享年23歳 5機の戦闘機。目を持ったミサイルの始まり
神風特攻隊が残した戦果は、実はすごかった。
沖縄戦は史上最大の戦闘だった。ノルマンジー上陸作戦の1.5倍の規模であった。
3.人間魚雷回天
黒木博司大尉と仁科関夫中尉、目を持った魚雷、米海軍が最も恐れた兵器
4.鉄血勤皇隊
は、大東亜戦争末期の沖縄戦。日本の存亡を賭けた戦に立ち上がった沖縄
旧制中学
高女21校の生徒
5.空の神兵とは、
大日本帝国陸軍の落下傘部隊、石油大産地蘭領東インド、パレンバン石油施設を無破壊占領した
落下傘部隊
6.坂井三郎飛行兵曹 ガダルカナル上空でグラマンを撃墜しながら被弾し片目を喪失、片目で
1000kM操縦しラバウルに帰還したゼロ戦のエースパイロット
7.「松永貞市少将」
マレー沖海戦、
戦端開始3日目、日本陸軍のマレー上陸軍攻撃のために進撃した英軍の最新鋭戦艦
プリンスオブウエールズを攻撃、歴史上初めて
空軍機が戦艦を撃沈した、海軍航空隊司令官
8.加藤隼戦闘隊とは、
大東亜戦争初期に、陸軍戦闘機
隼を駆って縦横無人に東南アジアで活躍した加藤建夫陸軍中佐攻撃隊
9.
ラバウル航空隊、大東亜戦争で南東先端部、
ガダルカナル、東ニューギニアの空で攻防した、海軍航空隊陸軍航空隊。終戦まで、ラバウルの米軍による占領を許さなかった
10.占守島の戦い日本を分断国家
から救った男たち
「終戦の日」の2日後、昭和20年8月17日の深夜千島列島北東端
占守島を無法にもソ連が上陸した、日本陸軍守将樋口季一郎中将はこのソ連軍を撃破した
スターリン
ソ連軍はこの戦いがなければ北海道はもちろん東北北部も侵略し、日本をドイツのような分断国家にしただろう。
11.ガダルカナル島撤収作戦。
米軍を甘く見て
援軍を追次投入して敗北。全軍撤退となった。撤退戦は見事であった。1万2千の将兵を、無傷撤退させた
12.海軍司令官の大田実海軍中将。
自決直前に海軍次官にあてた電文では、沖縄戦の惨状と沖縄県民の献身をつづり、「後世特別の配慮を」と訴えました。
沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ
「大東亜戦争の英雄の日本人2へ続く」
1. 9軍神 開戦劈頭,
真珠湾を潜水艇で大戦果 5潜水艦と5潜水艇
特別攻撃隊(司令佐々木大佐)の編成
甲標的(伊22搭載 岩佐直治大尉 佐々木直吉一曹)
甲標的(伊16搭載 横山正治中尉 上田定二曹)
甲標的(伊18搭載 古野繁実中尉 横山薫範一曹)
甲標的(伊20搭載 広尾彰少尉 片山義雄二曹)
甲標的(伊24搭載 酒巻和男少尉 稲垣清二曹)
空母機動部隊の艦載機による空襲以前に,特殊潜航艇が,米軍哨戒機に発見され,米海軍駆逐艦に攻撃されている。撃沈確実と思われる。甲標的は1-2隻が真珠湾内に突入するのに成功、魚雷を発射したようだが,戦果はなかった。
日本では,開戦劈頭の大戦果として,特殊潜航艇も米艦船撃沈を成し遂げたように戦果が公表された。決死の覚悟で出撃した甲標的の搭乗員10名は賞賛された。しかし,酒巻和男少尉は捕虜となったため,1名少ない9名のみが「軍神」としてたたえられた。
2.関行男海軍中佐
,神風特別攻撃隊第一号・敷島隊隊長、空母撃沈 1944年10月25日享年23歳 5機の戦闘機。目を持ったミサイルの始まり
関行男(第1神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長)
関 行男
(せき ゆきお、1921年8月29日 - 1944年10月25日 享年23歳)
関行男(第1神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長) - ライスピア米蔵https://www.ricepier.jp ? 関行男-海軍中佐
関 行男. (せき ゆきお、1921年8月29日 - 1944年10月25日 享年23歳) ・ 滑走を開始した敷島隊のゼロ戦。 ・ 決別の水盃を交わす敷島隊の隊員たち。 ・ 昭和19年10月25日
≡ 神風(しんぷう)特別攻撃隊・敷島隊隊長、海軍中佐 ≡
神風特別攻撃隊第一号、敷島隊。
10月25日は関行男中佐、中野磐雄少尉、谷暢夫少尉、永峰肇曹長、大黒繁雄曹長がレイテ湾に於いてアメリカ護衛空母セント・ローに特攻を行い見事撃沈した日である。
第二次世界大戦中における日本海軍航空隊の艦上爆撃機、戦闘機パイロット。
最終階級は海軍大尉(死後海軍中佐に二階級特進)。海軍兵学校七十期卒業。
昭和13年12月江田島の海軍兵学校に入校、その後霞ヶ浦航空隊へ進み、航空技術を習得して教官となり優秀な操縦生を育成した。
昭和19年5月大尉に昇進、台南航空隊分隊長を経て201空飛行分隊長として9月にルソン島のマバラカット基地に出動、10月25日、神風特攻隊敷島隊隊長としてレイテ沖海戦における最初の神風特別攻撃隊である敷島隊を隊長として指揮し、自らも愛機とともに米艦艇に突撃して戦死した。
死後は軍神に認定され、大いに宣伝されたが、敗戦後は当時の世相の中で一転して日陰の存在となるなど、死後の評価は時代背景に翻弄された。
昭和50年西条市楢本神社に"関行男中佐慰霊碑"が建立された。地元海軍会等の皆さんにより慰霊碑の式典が毎年10月25日に行われている。
滑走を開始した敷島隊のゼロ戦。手前は胴体下に250キロ爆弾を装着した1番機・関行男大尉の搭乗機。松葉杖をついて見送るのは201空司令山本栄大佐である。
決別の水盃を交わす敷島隊の隊員たち。
左端が隊長の関大尉。特別攻撃隊は、海軍第一航空艦隊司令長官・大西瀧治中将の発案によって実施された。
昭和19年10月25日、護衛空母セント・ローに特攻機が命中した瞬間。栗田艦隊のレイテ湾突入支援のため体当たり攻撃が実施されたが、レイテ湾口を目前にしながら反転し、その成果は生かされなかった。
関行男大尉の遺書 【二十三歳の、関行男・海軍大尉】
≪1通目の遺書 / 母・サカエ 妻・満里子の両親宛≫
父上様、母上様。
西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけ致し、不幸の段御許し下さいませ
今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐるものはありません。
鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき 其の御恩に報ゆる事も出来ずに行く事を御許し下さいませ
本日 帝国のため 身を以って母艦に体当たりを行い 君恩に報ずる覚悟です
皆様御体大切に
≪2通目の遺書 / 妻・満里子(新婚三カ月)宛≫
満里子様
何もしてやる事も出来ず 散り行く事はお前に対して誠に済まぬと思っている
何も云わずとも 武人の妻の覚悟は充分出来て居ると思ふ 御両親に孝養を専一と心掛け生活して行く様 色々思出をたどりながら出発前に記す
恵美ちゃん坊主も元気でやれ
≪3通目の遺書 / 霞ヶ浦の予科練第42期飛行学生宛≫
教え子へ
教え子は散れ山桜の如くに
関 行男(せき ゆきお[1][注釈 1]、1921年(大正10年)8月29日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵70期。最終階級は海軍中佐。
レイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」(爆装零戦5機)を指揮して、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈し、さらに護衛空母3隻を撃破した武功で知られる[3]。
経歴
兵学校4号生徒時代
1921年8月29日に、愛媛県新居郡大町村(現:西条市)で、父・勝太郎(骨董商)と母・サカエの子として生まれた[4]。
神風特別攻撃隊 戦没者慰霊祭(10月25日)軍神関中佐
愛媛新聞 2014.10.23 掲載コラムより
愛媛県西条市の楢本神社に祀られる敷島隊隊員
関行男慰霊之碑
捧戦没同窓生之霊 昭和三十年十一月 西中第三十九期生 西中佐鎮顕彰会有志 建立
神風特攻敷島隊 並びに愛媛県特攻戦没者追悼式典
零式艦上戦闘機
零式艦上戦闘機21型 第一次特別攻撃隊 関行男大尉機
大西と敷島・大和隊員との訣別の水盃。出撃前の関大尉(左から三人目)
敷島隊の戦果を伝える新聞
敷島隊の戦果を伝える新聞
10月29日付『東京朝日新聞』
愛媛県西条市の楢本神社に祀られる敷島隊隊員
関行男慰霊之碑
特攻の先陣神風特別攻撃隊敷島隊 追悼式典 10月25日(命日)
太平洋戦争末期の昭和19年、多数の戦艦を失い、戦略的に無力となっていた日本海軍は、爆装した零式艦上戦闘機を駆って、米軍航空母艦に突入する、いわゆる、神風特別攻撃が中心となっていった。
その特別攻撃は、西条市出身の関行男大尉(戦死後2階級特進で中佐)を隊長とする「神風特別攻撃隊敷島隊」に始まる。関氏とともに散華した5名は楢本神社の境内に祀られ、慰霊の碑が建てられた。毎年10月の命日には、盛大な慰霊祭も行われている。
10月25日は関行男中佐、中野磐雄少尉、谷暢夫少尉、永峰肇曹長、大黒繁雄曹長がレイテ湾に於いてアメリカ護衛空母セント・ローに特攻を行い見事撃沈した日である。神風特別攻撃隊第一号、敷島隊。
3.人間魚雷回天
黒木博司大尉と仁科関夫中尉、目を持った魚雷、米海軍が最も恐れた兵器
人間魚雷回天
黒木博司大尉と仁科関夫中尉
黒木博司大尉と仁科関夫中尉
も、P基地(倉橋島の大浦崎)で人間魚雷の構想を進めていた[14]。2人は九三式酸素魚雷を改造した人間魚雷(回天の原型)を試作する[6]
回天(かいてん)は、太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり[1]、日本軍初の特攻兵器である[2]。
1944年(昭和19年)7月に2機の試作機が完成し、11月20日のウルシー環礁奇襲で初めて実戦に投入された[7]。終戦までに420基が生産された[8]。兵器としての採用は1945年(昭和20年)5月28日のことだった[1][9]。
搭乗員
大津島にある回天記念館
海軍兵学校、海軍機関学校出身者は加賀谷武大尉(兵71)、帖佐裕大尉(兵71)、久住宏中尉(兵72)、河合不死男中尉(兵72)、村上克巴中尉(機53)、福田斉中尉(機53)、都所静世中尉(機53)、豊住和寿中尉(機53)、川崎順二中尉(機53)が、潜水学校11期卒業と同時に志願して回天隊に参加。以上は黒木、仁科が最初に何らかの形で接触をはかった者と思われる[要出典]。上別府宜紀大尉(兵70)、樋口孝大尉(兵70)は特四内火艇で竜巻作戦中止の後、回天作戦に参加。近江誠大尉(兵70)、三谷與司夫大尉(兵71)、橋口寛中尉(兵72)も回天と同様の特攻兵器の意見書を提出後、参加。それ以外は指名による(本人の配属希望を考慮し選考)。
予備士官、予科練出身者は募集。ただし、作戦は奇襲で、軍機密事項の段階であったため、敵への情報流出を防ぐ必要から、兵器に関する具体的な事柄には一切触れられなかった。募集要綱には「右特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの」、「選抜せられたる者はおおむね三月及至六月間別に定められたる部隊において教育訓練を受けたる上直に第一線に進出する予定なり」とある。それ以上の説明は口頭でなされた。土浦海軍航空隊の予科練習生の場合、応募者2千余名の中から、身体健康で意志強固な者、攻撃精神旺盛で責任感の強い者、家庭的に後顧の憂いのない者を基準に100名が選抜された。
なお、最初期に着任した搭乗員は以下の34名である。
アメリカ軍は回天を過大評価しており、菊水隊によるウルシー攻撃の際にウルシーに滞在していた第38.3空母群司令フレデリック・C・シャーマン少将は「我々は一日終日、そして次の日も、今にも爆発するかもしれない火薬庫の上に座っている様なものだった。」と、当時のアメリカ軍の回天への警戒ぶりを率直に述べており[91]、また、8月12日に回天と最後の戦闘をした駆逐艦トマス・F・ニッケルの艦長C・S・ファーマー少佐は、回天による巧みな戦闘ぶりに、母艦が回天をソナーの捜索範囲外からコントロールしているものと信じて疑わなかった。沖縄戦時に第1戦艦戦隊司令官であったジェシー・B・オルデンドルフ中将は、回天との戦闘経過の報告を受けて「戦いを継続していく上で回天は最大の脅威となっていた」と考えた[92]。
戦果
参考文献[72][73][74][75][76][77][78][79][80][81][82][83][84][85][86][87][88][89]
回天による攻撃(発進49基=搭乗員)
吉田俊雄(海軍中佐、参謀)は、終戦時ダグラス・マッカーサー司令部のリチャード・サザーランド参謀長が「回天搭載の潜水艦が行動中かどうか」について質問され、行動中と聞くと動揺したというエピソードを紹介し、
アメリカ軍をこれだけ恐れさせた回天であるのに戦果が少ないので、アメリカ軍が意図的に戦果を隠蔽しているのではと疑問視している旧軍の回天関係者(隊員や潜水艦長、参謀)がいると指摘している[93]。アメリカ軍の全ての文書が公開対象となっておらず、民間輸送船に関してはアメリカ軍での記録がないため、上記戦果はあくまで現在確認されているもの。
なお、一回目の出撃である1944年11月20日に戦艦ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38) を撃沈しているとの報告が日米双方に存在したが、実際にペンシルベニアが受けた被害は1945年(昭和20年)8月12日の夜間雷撃によるものだった。ペンシルベニアは戦後のビキニ原爆実験における二度の核爆発に耐えたのち、1948年2月10日に沈没した。
1943年(昭和18年)末、甲標的搭乗員の黒木博司大尉と仁科関夫中尉も、P基地(倉橋島の大浦崎)で人間魚雷の構想を進めていた[14]。2人は九三式酸素魚雷を改造した人間魚雷(回天の原型)を試作する[6]。山田薫に対して進言するも、省部との交渉が不十分だと判断して自ら中央に血書で請願を行った。これを受けたのは、海軍省軍務局第一課の吉松田守中佐と軍令部作戦課潜水艦部員藤森康男だった。同年12月28日に藤森から永野修身軍令部総長へこの人間魚雷が上申されるが、「それはいかんな」と明言されて却下された[2]。
1944年(昭和19年)2月、黒木は再度上京して吉松中佐に採用を懇願する[6]。黒木はこの時、全面血書の請願書を提出した。2月17日[17]、日本海軍はトラック島空襲で大打撃を受ける[18]。 2月26日[19]、吉松中佐は山本善雄大佐(当時、軍務局第一課長)と協議し、呉海軍工廠魚雷実験部に対して、黒木・仁科両者が考案した人間魚雷の試作を命じた[6]。マル6兵器(○の中に6だが、環境依存文字のため「マル6」と表記)と仮称され、魚雷設計の権威であった渡辺清水技術大佐のもと試作に着手した[6]。最初は脱出装置(乗員の海中放出)が条件にあった[20]。だが脱出装置の設計は遅々として進まず、開発者2人(黒木、仁科)の主張により同年5月に断念された[6]。
同年4月4日、黒島亀人軍令部第2部長の作成した「作戦上急速実現を要望する兵力」の中で[21]、大威力魚雷として人間魚雷が提案された。この後、人間魚雷に「○6(マルロク)」の仮名称が付き、艦政本部で担当主務部が定められて特殊緊急実験が開始された[22]。
1944年7月初旬、試作兵器三基が完成する[6]。同月上旬、サイパン島地上戦で同島守備隊は玉砕、潜水艦戦を行う第六艦隊司令部も地上戦に巻き込まれ、司令長官高木武雄中将が戦死した[23][24]。 7月10日[25]、日本海軍は三輪茂義中将を第六艦隊司令長官に任命する[24]。 同日附で、特殊潜航艇と人間魚雷(回天)の訓練研究・乗員養成を目的とする第一特別基地隊を編成[25](司令官長井満少将)[26][27]。回天開発の第一人者、仁科関夫中尉[28]や黒木博司大尉[29]も第一特別基地隊に配属された。 嶋田繁太郎軍令部総長は、第一特別基地隊設立の経緯を昭和天皇に上奏した[注釈 1]。回天部隊は第一特別基地隊司令官の指揮下で訓練に従事する[26]。潜水艦に搭載されて出撃する場合は、母艦(潜水艦)と回天で「回天特別攻撃隊」が編成され、先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官三輪茂義中将)の指揮下に入った[26]。 7月25日、回天試作機の試験が大入発射場で行われる。第一特別基地隊司令部では、兵器として採用するか否かの審議が行われた[6]。指摘の主なものは「酸素エンジンのため、冷走や筒内爆発の危険がある」「魚雷改造の艇のため後進ができない」「舵が推進器の前にあるので旋回半径が大きく、航行艦襲撃が困難」「試作兵器は潜航深度が最大80mしかない。母艦の大型潜水艦の安全潜航深度は100mである。試作兵器の耐圧深度を増大すべき」などが挙げられた[6]。
同時期、マリアナ沖海戦(あ号作戦)における潜水艦の被害が判明し、潜水艦戦は続行困難とみなされた[4]。同時に特攻への気運が高まっていった[4]。 1944年8月1日、米内光政海軍大臣の決裁によってマル6は正式に兵器として採用された。試験で挙げられた3つの問題点は、終戦まで解決されなかった。 8月2日と3日に呉で行われた潜水艦関係者の研究会では、若手潜水艦長達は特攻作戦の採用を主張、会議の空気も同調した[4]。 8月15日、大森から「この兵器(回天)を使用するべきか否かを判断する時期に達した」という発言があった[30]。そして同月、大森によって明治維新の船名から「回天」と命名される[3]。
運用開始
回天搭乗員は甲標的要員と同居していたが、教育訓練等に支障が生じ、移動することになった[26]。9月1日、山口県大津島に板倉光馬少佐、黒木博司、仁科関夫が中心となって基地が開隊され、同月5日より全国から志願して集まった搭乗員達による本格的な訓練が開始された。 訓練初日の9月6日、提唱者の黒木と同乗した樋口が殉職する事故が起きる[26]。黒木の操縦する回天は荒波によって海底に沈挫、同乗の樋口大尉と共に艇内で窒息死するまで事故報告書と遺書、辞世などを残した[31]。この出来事は「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高め、搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、技術を習得した優秀な者から順次出撃していった。
9月12日[32]、大本営海軍部(軍令部)は軍令部総長官邸で奇襲作戦の研究をおこない、丹作戦(敵艦隊所在の泊地に対する航空特攻)と玄作戦(回天攻撃)を検討した[33]。当初の計画では大型潜水艦8隻(予備2隻含む)、潜水艦1隻あたり回天4基(可能なら5基)計32基用意、投入時期は10月下旬から11月上旬、目標はマーシャル諸島各地(メジュロ環礁、クェゼリン環礁、ブラウン環礁)の敵機動部隊となった[33]。 この時点で、回天は水漬け実験をまだ行っていなかった[34]。 9月27日、藤森中佐(軍令部部員)は中澤佑軍令部第一部長に、回天作戦の準備状況を報告する[34]。回天については「回天命中確度75%(と考えられる)。冷走の原因除去に努力している。」[35]と述べた。
4.鉄血勤皇隊
は、大東亜戦争末期の沖縄戦。日本の存亡を賭けた戦に立ち上がった沖縄
旧制中学
高女21校の生徒
鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)
は、第二次世界大戦末期の日本の沖縄県において、防衛召集により動員された日本軍史上初の14 - 16歳の学徒による少年兵部隊である。
沖縄戦において正規部隊に併合され、実際に戦闘に参加し多くの戦死者を出した。
鉄血勤皇隊
沖縄戦継承事業 戦場に動員された21校の学徒隊
https://www.pref.okinawa.jp/site/kodomo/hogoengo/engo/gakuto.html
はじめに
戦前、沖縄には21の中等学校がありました。沖縄戦では、これらのすべての男女中等学校の生徒たちが戦場に動員されました。女子学徒は15歳から19歳で、主に看護活動にあたりました。男子学徒は14歳から19歳で、上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成され、鉄血勤皇隊は、軍の物資運搬や爆撃で破壊された橋の補修などにあたり、通信隊は、爆撃で切断された電話線の修復、電報の配達などの任務に従事しました。沖縄戦により、学業半ばで多くの学徒が短い生涯を散らしました。
ここでは、21校の学徒隊の状況と証言を視聴することができます。
リーフレット(PDF:3,324KB)
沖縄師範学校男子部(師範鉄血勤皇隊)
沖縄県立第一中学校(一中鉄血勤皇隊・一中通信隊)
沖縄県立第二中学校(二中鉄血勤皇隊・二中通信隊)
沖縄県立第三中学校(三中鉄血勤皇隊・三中通信隊)
沖縄県立農林学校(農林鉄血勤皇隊)
沖縄県立水産学校(水産鉄血勤皇隊・水産通信隊)
沖縄県立工業学校(工業鉄血勤皇隊・工業通信隊)
那覇市立商工学校(商工鉄血勤皇隊・商工通信隊)
開南中学校(開南鉄血勤皇隊・開南通信隊)
沖縄県立宮古中学校(宮古中鉄血勤皇隊)
沖縄県立八重山農学校(八重農鉄血勤皇隊・八重農(女子)学徒隊)
沖縄県立八重山中学校(八重山中鉄血勤皇隊)
沖縄師範学校女子部(ひめゆり学徒隊)
沖縄県立第一高等女学校(ひめゆり学徒隊)
沖縄県立第二高等女学校(白梅学徒隊)
沖縄県立第三高等女学校(なごらん学徒隊)
沖縄県立首里高等女学校(瑞泉学徒隊)
沖縄積徳高等女学校(積徳学徒隊)
昭和高等女学校(梯梧学徒隊)
沖縄県立宮古高等女学校(宮古高女学徒隊)
沖縄県立八重山高等女学校(八重山高女学徒隊)
◇2021.1.14 県民広場前案内板のQRコードのエラーについて、正常に更新しましたのでお知らせします。
7.「松永貞市少将」
マレー沖海戦、
戦端開始3日目、日本陸軍のマレー上陸軍攻撃のために進撃した英軍の最新鋭戦艦
プリンスオブウエールズを攻撃、歴史上初めて
空軍機が戦艦を撃沈した、海軍航空隊司令官
マレー沖海戦
【日本海軍】
■指揮官
「松永貞市少将」
マレー沖海戦は、太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)初期、真珠湾攻撃に続いてマレー半島沖で決行された航空作戦である。シンガポール防衛のため出撃したイギリス海軍東洋艦隊に、大日本帝国海軍の航空機群が突如として襲いかかった。このマレー沖海戦によって、それまでの世界の常識であった大艦巨砲主義が終わりを告げることとなる。
http://xn--ww2-523es33s4hr4hk.jp/kantaisen00a.htm
マレー沖海戦での各国の参加艦船
【日本海軍】
■指揮官
「松永貞市少将」
▼第十一航空艦隊:第二十二航空戦隊
・元山海軍航空隊
・美幌海軍航空隊
・鹿屋海軍航空隊
▼航空機:85機
▽九六式陸上攻撃機 ▽一式陸上攻撃機
VS
【イギリス海軍】
■指揮官
「トーマス・フィリップス大将」
▼戦艦:1隻
『プリンス・オブ・ウェールズ』
▼巡洋戦艦:1隻
『レパルス』
▼駆逐艦:3隻
『エレクトラ』『エクスプレス』『テネドス』
【オーストラリア海軍】
▼駆逐艦:1隻
『ヴァンパイア』
マレー沖海戦・両軍出撃
マレー沖海戦が生起する2日前の12月8日、大日本帝国軍がマレー半島北東部コタバルに上陸開始。この日本軍輸送船団を撃破するため、新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』を筆頭とするイギリス海軍東洋艦隊が出撃した。
当時は大艦巨砲主義、いわゆる大きな艦ほど強いとされる思想が中心で、作戦行動中の戦艦が航空機によって沈められることはないと考えられていた。さらに、イギリス軍は日本軍航空機を過小評価しており、また、イギリス空軍司令部がコタバル飛行場から撤退したこともあり、この時イギリス海軍東洋艦隊には上空支援は一切ない状態であった。
一方、大日本帝国海軍は、新鋭戦艦を主力とするイギリス東洋艦隊の動きを察知していた。しかしこの方面を担当していた艦隊は、主力となる戦艦『金剛』『榛名』が老朽艦であったことから、艦隊戦は避ける方針で対応が進められた。
12月9日、潜水艦『伊65』『伊58』がイギリス艦隊を発見し、10日早朝にかけて追跡するも、途中で見失ってしまう。12月10日6時25分、索敵と攻撃を兼ね、松永貞市少将が指揮する海軍第二十二航空戦隊(計85機)がサイゴン、ツドゥム基地から出撃した。
11時45分、先導する索敵機がイギリス艦隊を発見し、後世にも伝えられることとなるマレー沖海戦が開始された。航空機のみで、あえて行動中の戦艦を沈めることを狙いとした、常識を打ち破る海戦である。
プリンス・オブ・ウェールズ撃沈
12月10日12時45分、対空砲火をかいくぐった「九六式陸上攻撃機」が次々に爆弾を投下し、巡洋戦艦『レパルス』が被弾した。命中した1発の爆弾は居住区を貫通し下甲板で爆発。『レパルス』の艦内が激しい炎に包まれる。
イギリス東洋艦隊司令官トーマス・フィリップス大将は、日本軍航空機が雷撃できるとさえ思っておらず、空軍に掩護を求める気配もない。この時、シンガポールではイギリス空軍の戦闘機がただただ待機し続けていたという。
13時14分、そんなトーマス・フィリップス大将が座乗する『プリンス・オブ・ウェールズ』に2本の魚雷が命中。隔壁が破壊された『プリンス・オブ・ウェールズ』はいきなり傾斜し始めた。
一方、『レパルス』は、初弾以降は、巧みな操艦で日本海軍第二十二航空戦隊の攻撃を全て避け切っていた。しかし防戦一方であるこの状況を鑑みた『レパルス』のテナント艦長は、独断で無線封止を破り空軍に掩護を要請した。
13時37分、さらに「一式陸上攻撃機」26機がイギリス艦隊上空に到達、猛攻を開始する。回避し切れなくなった『レパルス』は魚雷を立て続けに受け、14時03分、ついに沈没。同様に被弾し続けた『プリンス・オブ・ウェールズ』は14時50分に転覆、艦尾から沈んでいった。この際、トーマス・フィリップス大将は戦死、テナント艦長は駆逐艦『ヴァンパイア』に救助された。
マレー沖海戦終了後、日本国内では、その戦果を発表するニュースと同時に、「英国東洋艦隊潰滅」という軍歌も流された。真珠湾攻撃に続いて常識を打ち破った戦術に世界が驚愕し、また、このマレー沖海戦によって、イギリスに支配され植民地化されていた東南アジア各国では独立の機運が高まることとなった。
マレー沖海戦での各国の被害状況
日本海軍>>
▽航空機:損失6機
イギリス海軍>>
【沈没】:『プリンス・オブ・ウェールズ』『レパルス』
5.空の神兵とは、
大日本帝国陸軍の落下傘部隊、石油大産地蘭領東インド、パレンバン石油施設を無破壊占領した
落下傘部隊
空の神兵(そらのしんぺい)
とは、大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊(空挺部隊・挺進部隊)、落下傘兵
空の神兵(そらのしんぺい)
とは、大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊(空挺部隊・挺進部隊)、落下傘兵(空挺兵・挺進兵)に対する愛称。および、それら落下傘部隊を描いた日本の軍歌(戦時歌謡)、ならびに陸軍落下傘部隊を描いた映画作品のタイトル。
日本軍落下傘部隊
「真白き薔薇の花模様」と謳われた落下傘。パレンバンに降下する帝国陸軍第1挺進団
詳細は「挺進連隊」、「第1挺進集団」、および「日本海軍空挺部隊」を参照
太平洋戦争(大東亜戦争)蘭印作戦中の1942年(昭和17年)1月11日、海軍の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊がセレベス島メナドに、同年2月14日に陸軍の第1挺進団(挺進第2連隊)がスマトラ島パレンバン(パレンバン空挺作戦)に対し敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。作戦は成功しオランダ軍他が守備する飛行場(メナド・パレンバン)や、大油田・製油所(ともにパレンバン)を制圧した。これらの活躍から日本軍落下傘部隊に対し「空の神兵」の愛称が付けられた。
陸上自衛隊
この『空の神兵』は、帝国陸軍落下傘部隊(第1挺進集団)の事実上の後身である陸上自衛隊第1空挺団にも継承されている。
第1空挺団は衣笠駿雄元陸軍少佐[4]に率いられた第1次研究員20名によって創設されたものであるが、この第1次研究員20名こそが太平洋戦争末期に帝国陸軍落下傘部隊において教育途中であった元挺進兵であった。そのため帝国陸軍落下傘部隊の歴史は陸上自衛隊落下傘部隊の歴史とされ、その伝統を堂々と継承している第1空挺団の事実上の隊歌として使用、かつ「降下訓練始め」では歌唱付きの『空の神兵』がそのまま場内で放送されている。このほか、 富士総合火力演習や駐屯地祭・基地祭などでの降下展示の際に、音楽隊により演奏またはBGMが流される場合がある。
6.坂井三郎飛行兵曹 ガダルカナル上空でグラマンを撃墜しながら被弾し片目を喪失、片目で
1000kM操縦しラバウルに帰還したゼロ戦のエースパイロット
坂井三郎
ガダルカナル上空で被弾し片目を失いながら1000kM操縦しラバウルに帰還したエースパイロット
負傷
負傷して戦闘から帰還した直後に撮影した写真
1942年(昭和17年)8月7日、ガダルカナル攻撃に参加。アメリカ海軍のジェームズ・“パグ”・サザーランドのF4Fワイルドキャットとの戦闘があった。坂井三郎曰く、はぐれた列機、柿本円次と羽藤一志が一機のグラマンに追われていたので助けに入り、単機巴戦の末撃墜したとのこと[18]。しかし、サザーランド曰く、陸攻との戦闘で被弾した結果、グラマンは黒煙を吹き、機銃も故障した状態で零戦4機に追われる中火災が発生したので落下傘で脱出したとのこと[19]。戦後このグラマンを調べた結果、機銃の故障などサザーランドの証言と一致した。日本の戦闘詳報では、坂井三郎と列機の羽藤、そして別隊の山崎市郎平による共同撃墜となっている[20]。
この戦闘からの帰路、ガダルカナル島の上空において、坂井はSBDドーントレス艦上(偵察)爆撃機の編隊を油断して直線飛行しているF4Fの編隊と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びた。坂井は右前頭部を挫傷して左半身が麻痺し、加えて右目も負傷。(左目の視力も大きく低下)計器すら満足に見えないという重傷を負った。
坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。一時は負傷の状態から帰還は無理と考えて体当たりを画策するが敵艦を発見できず、帰還を決意。まず止血を行い出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした。正常な着陸操作ができる状態ではなかったため、降下角と進入速度のみをコントロールし、椰子の木と同じ高さに来た時、エンジンを足で切って惰性で着陸するという方法を取った。周回をあと1回行っていたら、燃料切れで墜落していたと言われるほど際どいものであったと語っている。丹羽文雄が重巡洋艦鳥海からびっくりするほど低空を飛行している零戦を目撃したと記しているが、これは日時が違い坂井ではない[21]。
坂井が受けた傷はラバウルの軍医では治療できず、内地に送還。坂井は、笹井醇一から「貴様と別れるのは、貴様よりもつらいぞ」と言われ、虎は千里を行って千里を帰るという縁起から坂井がまた帰って来るように、笹井が父からもらった虎のベルトバックルを渡されたという。その後笹井は戦死したが、がっかりするだろうからという理由で坂井には半年間知らされず、知ったときは自分がついていたら死なせなかったのにと地団太踏む思いがしたという[22]。
横須賀海軍病院で手術を受けたが、右目の視力をほぼ失い左も0.7にまで落ち、左半身は痺れた状態だった。右目の視力を失ったことにより、搭乗員はもちろん軍人としてさえ勤務はできないであろうから軍人を辞めるように宣告された。市中での生計手段として指圧師や按摩師の道を勧められ、研修も受けていたが、転職する前に転院することになった[23]。佐世保病院に移されたときに、ラバウルより帰国して再編成中の251空(改称後の台南空)に行った坂井は、司令になっていた小園安名中佐に対して「片目でも空戦経験の少ない戦闘機乗りよりも、私は使えると思う」と説得した。軍医は反対したが、小園も訓練を見てみて具合が悪くて飛べなくても教官にすると言ったことから、坂井は航空隊に留まることになった[24]。台南空が内地で訓練する間、坂井が後輩たちをバットで殴る指導もあった。坂井はラバウルでは10月になると死者が出て、内地で教える時間がないからまずい戦いをしたやつは殴った、殴ると反省するから効果があったと語っている[25]。
1942年10月、飛行兵曹長に昇進。1943年(昭和18年)2月、豊橋航空隊で搭乗員に復帰して訓練を行ったが、ラバウル進出直前の1943年(昭和18年)4月、大村航空隊に異動、教官に配属される[26]。
硫黄島
1944年(昭和19年)4月13日、横須賀海軍航空隊に配属。台南空の上官だった中島正少佐によって、大村空で教官をしていた坂井は横須賀空へ呼び寄せられた。
坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年8月26日 - 2000年9月22日)は、日本の海軍軍人。ポツダム進級により最終階級は海軍中尉。太平洋戦争におけるエース・パイロット。著書『大空のサムライ』で有名。撃墜数は自称64機だが、後述のように公認撃墜数は28機である。
経歴
1916年(大正5年)8月26日、佐賀県佐賀郡西与賀村大字厘外1523番地(現在の佐賀市西与賀町大字厘外)で農家の三男だった父・坂井晴市と母ヒデの次男として生まれる。名前は祖父の勝三郎に由来している。坂井が5歳のときに一家は祖父の家から夜逃げ同然で出奔して貧しい生活を送った。
8.加藤隼戦闘隊とは、
大東亜戦争初期に、陸軍戦闘機
隼を駆って縦横無人に東南アジアで活躍した加藤建夫陸軍中佐攻撃隊
加藤隼戦闘隊(かとうはやぶさせんとうたい、)
とは、大東亜戦争初期に活躍した加藤建夫陸軍中佐
加藤隼戦闘隊(かとうはやぶさせんとうたい、旧字体: 加藤隼戰鬪隊)とは、大東亜戦争初期に活躍した加藤建夫陸軍中佐(戦死後、陸軍少将)率いる大日本帝国陸軍の飛行戦隊、飛行第64戦隊(飛行第六十四戦隊。
南方作戦
1942年初頭、第64戦隊のピスト(フランス語に由来する空中勤務者控所を意味する陸軍用語)にて第3中隊長安間克巳大尉らと談笑する加藤建夫戦隊長
詳細は「一式戦闘機#南方作戦」を参照
第7飛行団に所属する第64戦隊は、12月7日より対米英戦争(太平洋戦争)開戦にむけて、マレー作戦の主力第25軍(司令官・山下奉文中将)を乗せた上陸部隊輸送船団の海上空中護衛を、加藤少佐機以下7機が実施。夜間・洋上・悪天候・長時間という特に単座戦闘機にとっては最悪の条件にもかかわらずこれを成し遂げた(悪天候により高橋三郎大尉・中道格蔵少尉・都築昌義准尉3機未帰還)
なかでも蘭印作戦における1942年(昭和17年)2月14日のパレンバン空挺作戦では、第59戦隊とともに、加藤の統一指揮のもとスマトラ島パレンバン油田に落下傘降下する陸軍空挺部隊「空の神兵」こと第1挺進団(一〇〇式輸送機・ロ式輸送機)を護衛・掩護。第64戦隊はハリケーン15機と交戦するも、マクナマラ少尉機・マッカロック少尉機の2機を撃墜し残機も撃退(内撃墜1機は加藤の戦果。さらにもう2機が燃料切れで不時着し英軍損失は計4機)[7]、かつ「隼」および降下前輸送機に損害もなく一方的に勝利している。南方資源地帯掌握のため始められた太平洋戦争において、東南アジア屈指の大油田地帯であるパレンバンは戦略上の最重要攻略目標であり、その確保に大貢献した「隼」と第64戦隊の働きは相当なものであった。
第64戦隊は終戦までに計7枚(うち1枚は戦隊長加藤少将の個人感状、飛行第2大隊時代を含めると計9枚)と日本陸海軍最多数の感状を拝受しているが、うち3枚はマレー上陸作戦・パレンバン空挺作戦・ジャワ上陸作戦の活躍によるものであった。
以下一連の一式戦の戦果は、戦史家梅本弘が日本軍の戦果記録を連合軍の損害記録たる一次史料と照会した「確認が出来た最小限で確実な数字たる戦果」である[8]。第64戦隊・第59戦隊の一式戦は太平洋戦争緒戦の空戦において実質約4倍の数を、対戦闘機戦では約3倍の数の敵機を撃墜した。
9.
ラバウル航空隊、大東亜戦争で南東先端部、
ガダルカナル、東ニューギニアの空で攻防した、海軍航空隊陸軍航空隊。終戦まで、ラバウルの米軍による占領を許さなかった
ラバウル航空隊(ラバウルこうくうたい)
とは、第二次世界大戦時、ニューブリテン島(現在のパプアニューギニア)のラバウル基地に集結してこの空域に展開して戦闘に参加した、日本海軍・陸軍の各航空隊(航空部隊)の総称である。
1942年(昭和17年)1月から、日本軍は南方作戦の一環としてオーストラリア委任統治領であるニューブリテン島を制圧(ラバウルの戦い)。同時に、日本海軍航空隊は南太平洋諸島の確保、トラック諸島の海軍根拠地の防衛、機動部隊の支援を目的にラバウルに進出。同年末には日本陸軍航空部隊も進出し、重要拠点化された。
航空隊は作戦に呼応してアメリカ陸軍・オーストラリア軍に対する東部ニューギニア、およびアメリカ海軍・海兵隊・ニュージーランド軍に対するソロモン方面の各基地を移動転戦したが、戦局の悪化とともに重要性が減り、少数の残存者・航空機を除き1944年(昭和19年)2月にラバウルから撤退したものの、その後も残存者や航空機が終戦に至るまで偵察などの活動を続けた。
歴史
1942年
日本の進出
日本は内南洋方面の守りを固める目的で、陸海軍でオーストラリアの委任統治領であったラバウルとカビエンを攻略することを決めた[1]。ラバウル航空隊は、中村忍大佐が指揮する水上機母艦「聖川丸」(第四艦隊所属)の水上機隊から始まった[2]。1942年1月20-22日、日本海軍の第一航空艦隊がラバウルを空襲により制圧し、23日攻略に成功する[3]。翌24日、「聖川丸」がラバウルに進出し、水上機基地を開設した。25日、横浜海軍航空隊の九七式飛行艇の一部が派遣されたが、敵機による被害を避けるために即日出発してニューアイルランド島の南東方にあるグリーン島に基地を移し、戦闘機隊の進出を待って2月4日にラバウルに基地を開設した[4]。
1942年1月24日、千歳海軍航空隊の副長山中龍太郎中佐は飛行艇に便乗してラバウルに出発、陸軍の協力を得てラバウルの飛行場整備を行い小型機の離着陸の見込みがつき、岡本晴年大尉の指揮する九六式艦上戦闘機18機の進出が命じられた。慎重を期して航空母艦で輸送されることになったが、同隊は空母の経験者が少なく、25日、空母翔鶴・瑞鶴母艦飛行機隊の操縦員によって着艦収容された。26日、千歳空の操縦員によって発艦したが、天候不良で一度引き返して着艦未経験者を含む全機無事成功した。27日、再度発艦してカルビエンの飛行場に着陸したが、整備が不十分で2機が着陸時破損。整備員不在、燃料不足、天候不良の問題で同隊がラバウル進出を完了したのは31日のことであった[5]。
2月10日、千歳空分遣隊と高雄海軍航空隊陸攻隊で第四海軍航空隊(森玉司令)を新編。1942年2月14日、第二十四航空戦隊司令部が進出し、いわゆる「ラバウル航空隊」の誕生となった。20日、ラバウル南方の最初の航空戦は、接近する米機動部隊に対し4空の一式陸上攻撃機17機が攻撃に向かったが、帰還機はわずか2機と開戦以来の最大の被害となった(ニューギニア沖海戦)[6]。23日、第一航空隊陸攻隊(中攻隊)がラバウルに着任[7]。24日からニューギニア島東南部、ポートモレスビー基地攻撃を開始。3月7日、陸軍南海支隊の一部のサラモア上陸、海軍陸戦隊のラエ上陸で終戦まで続くニューギニアの戦いが開始。3月8日、ラエ・サラモア攻略作戦に成功。その後、ソロモンは搭乗員の墓場といわれるほど激しい戦闘となり、5月3日のツラギ攻略で終結した。ラエ占領後のポートモレスビーは一進一退の攻防に終始し、ラバウルは零式艦上戦闘機の活躍により保持されていた[8]。一方で3月31日、先のフィリピン攻略戦初期の爆撃行時に不時着、抗日ゲリラの捕虜となるも陸軍部隊に救出され復帰した1空の原田機(九六式陸上攻撃機)乗組員一同に対し、その処分に困じた海軍上層部がモレスビー基地陣地への攻撃・自爆命令を発している(一空事件)[9]。
4月1日、第二十五航空戦隊が新編される。25航戦は編制上第十一航空艦隊の隷下だが、連合艦隊は軍隊区分で南洋部隊に配属させた。24航戦は開戦以来南洋部隊基地航空隊として南洋群島、南東の航空作戦に任じてきたが、25航戦の新編でマーシャル方面基地航空部隊となった。25航戦がラバウル方面となり、24航戦の西方空襲部隊任務を引き継いだ[10]。25航戦に台南海軍航空隊、四空、横浜空が、24航戦に千歳空、1空、14空が編入された。台南空は、ラバウルおよびラエ方面で作戦中だった4空の戦闘機隊の人員、機材の大部分を吸収し、バリ島およびクーパンに展開中だった台南空本隊もラバウルに進出した[11]。10日、1空は後退し本土木更津で再建に入る[12]。5月3日、浜空(横浜海軍航空隊)飛行艇隊はガダルカナル島ルンガ泊地北東対岸に位置するフロリダ島南端小島のツラギに進出する。
11.ガダルカナル島撤収作戦。
米軍を甘く見て
援軍を追次投入して敗北。全軍撤退となった。撤退戦は見事であった。1万2千の将兵を、無傷撤退させた
ガダルカナル島撤収作戦(がだるかなるとうてっしゅうさくせん)
は第二次世界大戦中に行われた日本軍の撤退作戦。作戦呼称は「ケ号作戦」。由来は捲土重来(けんどちょうらい)による[要出典]。
概要
ケ号作戦は、1943年(昭和18年)1月下旬から2月上旬にかけて日本軍が実施したガダルカナル島からの撤退作戦。
1942年(昭和17年)12月31日開催の御前会議で昭和天皇がガダルカナル島からの撤退と東北部ニューギニアへの作戦重点変換を裁可した[2]ことを受けて1月4日にガ島撤退の大命が下り、日本軍は正式に撤退準備を開始した[3]。日本陸軍はラバウルの第八方面軍(司令官今村均陸軍中将)[1]とガダルカナル島現地の第17軍(司令官百武晴吉陸軍中将)、日本海軍は山本五十六連合艦隊司令長官の総指揮下で[1]、南東方面部隊(指揮官草鹿任一南東方面艦隊司令長官、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)および隷下の外南洋部隊増援部隊(第三水雷戦隊司令官橋本信太郎海軍少将、第十戦隊司令官小柳冨次海軍少将)が作戦を担当した。
各方面(大本営陸海軍、現地陸海軍部隊)とも悲観的見通しをもってケ号作戦を発動した[4][5]。作戦は、基地航空隊による航空撃滅戦を実施して制空権を確保したあと(この航空作戦でレンネル島沖海戦が生起)[6]、水雷戦隊によって撤収作戦がおこなわれた[7]。 撤退は3回次に分けて行われ、沈没艦は駆逐艦1隻、損傷は駆逐艦3隻のみで、2月8日をもって日本軍の撤退は成功した[注 4][注 5][9]。撤退中に発生した戦闘についてはイサベル島沖海戦と呼称されることが多い。撤退により救出された日本軍は1万2千名余りだった[10]。
8.キスカ島撤退作戦(キスカとうてったいさくせん)
は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)5月27日から7月29日に行われた、日本軍のキスカ島(アメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島内)からの守備隊撤収作戦のことである。
正式名称はケ号作戦。北方部隊指揮官河瀬四郎第五艦隊司令長官が総指揮を取った。
第一期撤収作戦は、5月下旬から潜水艦による作戦が実施された。しかし成果の割には損害が多く、また効率も悪かったため6月下旬をもって打ち切られ[1]、水上艦艇による撤退作戦に切り替えることとなった[2]。
第二期撤収作戦は、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が収容部隊を指揮した。同艦隊がキスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に見事に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる。
アッツ島が陥落した状態ではアッツ島とアメリカ軍飛行場のあったアムチトカ島に挟まれ、制海・制空権を完全にアメリカ軍に握られた戦域に孤立無援となっていた[8]。日本軍守備隊は、退くに退けず、待つのは死か降伏かという状態になってしまった[5]。
キスカ島守備隊
陸軍北海守備隊司令官 峯木十一郎少将(陸士28期)2,700名
陸軍北方軍司令官 樋口季一郎中将(陸士21期) 麾下
海軍五十一根拠地隊司令官 秋山勝三少将(海兵40期)2,800名
大本営でもこの状況は把握していたが、アッツ島にアメリカ軍が上陸した時点で増援を送ることは地理的にも兵力的にもほぼ不可能に近かった。アッツ島守備隊が戦っていた5月21日、大本営はアリューシャン方面の放棄を決定した[9]。まだ敵軍が上陸していなかったキスカ島は守備隊を撤退させることになった[9]。アッツ島も守備隊の撤退が提案はされたが、陸海軍間で調整がつかず結局海軍の反対で断念、代わりにキスカ島の守備隊撤退に重点を絞って作戦計画が練られることとなった。
作戦名は「ケ」号作戦であった(「ケ」は「乾坤一擲」を意味する)[5]。
12.海軍司令官の大田実海軍中将。
自決直前に海軍次官にあてた電文では、沖縄戦の惨状と沖縄県民の献身をつづり、「後世特別の配慮を」と訴えました。
沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ
沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ
自決前、大田中将が海軍次官にあてた電文(全文)
知る戦争
2021年8月11日 12時00分
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写真・図版
沖縄の海軍司令官だった大田実氏(中央)一家の家族写真=板垣愛子さん提供
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76年前の1945年6月、沖縄の地下に掘られた洞穴で、一人の軍人が自ら命を絶ちました。海軍司令官の大田実海軍中将。自決直前に海軍次官にあてた電文では、沖縄戦の惨状と沖縄県民の献身をつづり、「後世特別の配慮を」と訴えました。
大田司令官の自死「貧困のどん底」 海を渡った娘の願い
大田実司令官が出した電文
(旧海軍司令部壕ホームページより)
《原文》
062016番電
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電■■次官ニ御通報方取計(とりはからい)ヲ得度(えたし)
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ 県ニハ既ニ通信力ナク 三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非(あら)ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之(これ)ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ 殆(ほとん)ド 顧(かえり)ミルニ 暇(いとま)ナカリキ
然(しか)レドモ本職ノ知レル範囲ニ於(おい)テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅(わずか)ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支(さしつかえ)ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚砲爆撃下■■■風雨ニ曝(さら)サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而(しか)モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊(ほうすい)婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身(ていしん)斬込隊スラ申出ルモノアリ
所詮(しょせん) 敵来リナバ老人子供ハ殺サレルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ■■ 真面目ニテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終止一貫
勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ■■ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管(ひたすら)日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ■■■■与ヘ■コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形■■■■■■
一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂(い)フ 沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ
(■は判読できず)
《現代語訳》
昭和20年6月6日 20時16分
次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。
沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘に専念し、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。
大田司令官の自死「貧困のどん底」 海を渡った娘の願い
◇
おおた・みのる 1891年、千葉県生まれ。海軍の中でも
9.キスカ島撤退作戦(キスカとうてったいさくせん)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)5月27日から7月29日に行われた、日本軍のキスカ島(アメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島内)からの守備隊撤収作戦のことである。
アッツ島玉砕
アッツ島の戦い(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島で、アメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である[1]。
概要
第二次世界大戦におけるアリューシャン方面の戦いにともない1943年(昭和18年)5月中旬から下旬にかけてアッツ島でおこなわれた戦闘。1942年6月以来日本軍が占領していたアッツ島の奪回を目指し、1943年5月12日にアメリカ軍が上陸を開始した[2][3]。
山崎保代陸軍大佐指揮下の日本陸軍がアッツ島(当時の日本側呼称は熱田島)を防衛していたが、兵力も防御施設も不十分であった[注 1]。
北方方面を担当する日本海軍の第五艦隊もアメリカ艦隊に対し有効な反撃を行えず[5]、またアッツ島への補給や救援に失敗した[6]。島を包囲するアメリカ艦隊を攻撃した潜水艦1隻が撃沈された[7]。連合艦隊は空母機動部隊[8]や大和型戦艦を含む主力艦部隊[9]を本州横須賀方面に集結させたが、反撃には出なかった[10][11]。
大本営はアッツ島増援を検討したものの[12]、この島を守る意味に欠ける日本軍は、最終的には西部アリューシャン(アッツ島、キスカ島)の確保を断念する[13][14]。5月20日、アッツ島の放棄と、キスカ島からの撤退を発令した[15][16]。アッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、5月29日に玉砕した[17]。太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いである。
本記事では、アッツ島攻防戦に至る経緯、アッツ島地上戦闘の様相、日本軍が西部アリューシャン(アッツ島、キスカ島)の放棄を決定するに至った経緯を記述する。
拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)は、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で行われた、日本軍と中国国民党軍・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。
すでに南部を占領していた日本の部隊は援?ルートの遮断のために派遣された小規模なもので、進出した当初の1942年頃は中国軍に対して優位に立っていたが、援?ルート遮断後もアメリカ軍の空輸によって中国軍への支援が継続されたため、連合軍の指導によって近代的な装備を身につけた中国軍が1944年より反撃に転じ、日本軍は補給路を断たれ孤立し、拉孟守備隊および騰越守備隊は最終的に玉砕した。硫黄島などの孤島において玉砕したケースは多いが、この戦いは大陸において玉砕した珍しいケースとして知られる。しかし、中国軍も陣地に立てこもる日本軍の防御戦闘により部隊比では日本より死傷者を出した。
経緯
拉孟、騰越の戦い
https://blog.goo.ne.jp/kitasan999_555/e/2129583bcd02de72e3d323057bd6974f
民の琴線に触れる戦いがある。特に10倍を超す敵に囲まれ最後の一兵まで戦った場合には、その記憶は千年の時を超す。ユダヤ人は2千年前(紀元70〜73年)のマサダの戦いを、団結の象徴として昨年のことのように話す。
紀元66年のユダヤ戦争。ローマ帝国からの独立を目指して立ち上がったユダヤ人は、エルサレムで敗れ追い詰められて967人の女子供を含む集団が、急峻なマサダの砦に立て籠もった。1万5千人のローマ軍兵士が砦のある丘を包囲したが、周囲は断崖絶壁で唯一の登攀路を塞がれて手が出せない。そこでローマ軍は2年の歳月をかけて大規模な土木工事を行い、角となる木材と大量の土砂を運んで絶壁の一方向を埋め立てた。古代の土木技術は侮りがたい。ついに絶壁にゆるやかなスロープを作り出した。満を持したローマ軍が砦に突入するが、予想された抵抗はなかった。中にいたユダヤ人は集団自殺を遂げていたのだ。生き残ったのは、穴に隠れていた2人の女と5人の子供だけだった。
アメリカ人にとって心を熱くする戦いはアラモ砦の防衛戦だろう。こちらは1836年2/23〜3/6の13日間包囲されたが、総攻撃により一日で砦は陥落し、守備隊は全滅した。砦に籠ったのはテキサス分離独立派、当時のテキサスはメキシコ領だった。トラヴィス隊長のもと、西部で名高いジム・ボウイとデイヴィー・クロケットが参戦し183〜250人の男達が戦った。
攻めるのはサンタ・アナ率いるメキシコ共和国軍4,5千人だが、総攻撃の時には1,600人で攻め3〜400人のメキシコ兵が戦死した。アラモ砦の犠牲により貴重な時を稼ぎ結束したテキサス独立軍は、「リメンバー・アラモ」を合言葉にメキシコ軍を打ち破りサンタ・アナを捕虜にする。
日本軍は太平洋の島々や沖縄で米軍と死闘を繰り広げるが、自分の琴線に触れる戦いはビルマと中国雲南省の国境付近で行われた。拉孟(ラモー)・騰越(トウエツ)の戦いには心を揺さぶられる。平静ではいられず、心が高ぶるのだ。拉孟は怒川の西岸、恵通橋を見下ろす海抜2,000mの山上にある廃村を基にした陣地で、周囲を山と渓谷に囲まれ西方のみが龍陵に通じている。四季の変化に富み特に秋は美しい所だそうだ。一方騰越は、最前線の拉孟から北東に60km、平野の中央にある人口4万の城郭都市で、東は山脈を縦走して保山、昆明へと続く。
日本軍は何故このような山奥に攻め入り、陣地を築いたのか。それは連合軍の援蒋ルートを断つのが目的である。太平洋戦争が始まる前の5年間、日本と中国は激しく戦っていた。個々の会戦では常に日本軍が勝利を収めていたが、倒しても倒しても新手の中国軍が現れる。前線が進むにつれ、占領地である後方の物資集積所、小規模駐屯地、鉄道や輸送隊等が襲撃される。後方の防衛を固めようとすると、守備に限りなく人員が必要になる。前線は先に進み占領地は増え、守備部隊を増やしてもその中で手薄な所や輸送隊が襲われる。日本は徴兵を進めついに100万の兵力を中国に送り込んだ。
南方へ行き、太平洋戦争で米英蘭軍と戦った日本軍は、中国に張り付いた兵力の1/4〜1/5に過ぎない。日本陸軍は8年間、もしくはそれ以上の期間中国に居続けた。その日本軍と対峙していたのが200万を超す中国軍である。蒋介石を負かせてはならない。100万の戦慣れした日本兵を他の戦場へ向かわせたら恐ろしいことになる。連合軍、特に米国は太平洋戦争以前、ビルマのラングーンに大量の軍需物資を陸揚げしてビルマから中国、雲南省を経由して重慶にいる蒋介石のもとに送った。この援蒋ルートを断ち切るのが日本軍の狙いだった。アメリカは陸路が封鎖された後は、ヒマラヤ超えの危険な空輸で蒋を支えた。今でもヒマラヤ山脈から中国の奥地には、大戦中の大型輸送機の残骸が散らばっているはずだ。
蒋介石の元にはアメリカから派遣されたジョセフ・スティルウェル大将がいて、米軍の援助物資を装備した中国軍を訓練していた。近代装備を持ち訓練された新編師団(雲南遠征軍)が満を持してビルマに進入してきた。中国人指揮官、衛立煌の率いる20万人で、装備は日本軍よりも遥かに近代的だ。英印軍だけでも手一杯の所に新規の20万とは。最前線基地の拉孟はたちまち包囲された。
拉孟守備隊は当初2,800名の兵力だったが、指揮官の松山大佐は命を受け、兵を割いて出撃し侵入してきた雲南軍の一部を撃退した。その後松山隊はミイトキーナ南方に降下した英軍空挺部隊の掃討等に転戦し、6月5日騰越に入った。拉孟に残された守備隊は1,280名で、その内300名は負傷兵であった。拉孟を包囲した中国軍は4万8千名で、残りの雲南軍は騰越、龍陵、平戛に向かった。
1944年6月2日午後、雲南遠征軍の砲撃が始まった。この日から9月7日に陣地が陥落するまでの66日間、拉孟守備隊は攻撃を再三防ぎ、敵二個師団を壊滅させ戦死4千、負傷3,774人の損害を与えた。雲南軍司令官衛立煌大将は、日本軍の強さに舌を巻きこう語った。『火砲の力を入れると、こちらは日本軍の十倍以上の戦力である。それが千五百そこそこの日本軍に軽くあしらわれてしまったのである。何という強い日本兵なのだ。』
敵将があきれるほどの勇戦を指揮した金光少佐(死後大佐)は小学校しか出ていない。貧農の子で村では神童と言われていたが、一兵卒からたたき上げ伍長、軍曹を経て幹部候補となり将校にまでなった。元が貴族社会の英国ではほぼあり得ない昇進だ。さんざん悪く言われる帝国陸軍だが、このような将校を生みだすところは素敵だ。金光少佐は常に温厚で部下思い、自ら率先して事を成すタイプで、部下からはこの人の下でなら死ねる、と慕われていた。拉孟守備隊は、限られた資材を使って陣地を複合的に設営し、死角を無くしてどこからでも十字砲火を浴びせて敵に出血を強いる構造を効果的に作り上げた。度重なる砲撃による破損は、夜間に不断に補修を行った。
6/7、雲南軍の攻撃を迎撃し、敵の将軍を戦死させた。6/14、別師団による北方からの攻撃。6/20、敵主力2個連隊が再攻撃、これを粉砕するも砲撃戦で守備隊の弾薬庫が被弾破裂した。これは大きな痛手となった。砲弾が残っていたら、雲南軍の犠牲はもっと大きかったに違いない。6月末、2年前に日本軍の急追を逃れるために自ら爆破した恵通橋を復旧。これにより雲南軍の補給物資がトラック輸送により、陸続と戦場に運び込まれた。
6/28、日本陸軍機10機飛来、上空より空中補給。その後も度々飛来。7/4〜15、雲南遠征軍第2次総攻撃。ロケット砲と火炎放射器が加わり、守備隊は大きく兵を失った。残存兵力は500を切り、生き残った兵も多くは傷ついていた。守備隊の砲弾は欠乏して撃ち返すことが出来なくなった。天候は雨季に入って壕内は膝までぬかるみと化し、守備兵は脚気とマラリアに苦しめられた。
守備隊は夜になると数名づつ陣地の前面に出て、雲南軍の死体の山から武器・弾薬・食糧を拾い集めた。ビルマ方面軍は、連合軍によって新たに築かれつつある補給ルートを遮断し、同時に拉孟・騰越守備隊を救援するという「断作戦」を発令した。救援部隊を9月上旬に拉孟に送ると約束し、拉孟守備隊は希望を持ったが、実は最前線の拉孟は最初から見捨てられていた。戦略的にも無意味なインパール作戦によって、虎の子の精強な3個師団と1旅団を失い、日本軍と英印軍の戦力対比が最大1:10となり、制空権も失っていた。本土から派遣されてきた京都の師団は弱兵で役にたたない。かろうじてミートキーナ(現ミッチーナ)から一部の部隊が撤退出来たのが精一杯であった。ミートキーナから退却出来たのは10人に1人に過ぎないが、拉孟と騰越で敵を引きつけて時を稼いでくれたから全滅せずにすんだ。当初ミートキーナにも死守命令が出ていたが、わずかな兵を率いて救援に赴いた水上少将が自決をして名目的に死守命令を守り、部下を撤退させた。
7/20、第3次総攻撃。この攻撃は昆明から呼び寄せた新しい部隊によって行われ、拉孟陣地には一日当り7〜8,000発の砲爆撃がなされた。攻撃部隊が陣前に肉薄して投げ込む手榴弾を、守兵が拾って投げ返す。陣内に突入してきた敵兵は、得意の白兵戦で刺し殺し殴り殺す。7/25頃には兵力は300名に減少した。砲弾は最後の一発を残して既に無く、歩兵弾薬は欠乏し食糧庫を焼かれ、8月以降は乾パン一袋を2日に食い延ばすようになった。
7/27、ビルマ方面軍司令官より、拉孟守備隊の勇戦に対し感状が届く。翌日第33軍司令官からも感状。8/2、複数ある陣地のうち、本部陣地が陥落。8/12、挺身破壊班を編成、4名1組の破壊班を7組送り出して雲南軍を奇襲。破壊班は民間人に変装して遠征軍の包囲をすり抜け、火砲5門その他を破壊し、戦利品を持って帰還。損害は戦死2名であった。この攻撃で守備隊の士気はあがった。
さて拉孟陣地に空輸に来た陸軍機だが、速力の早い一式戦・隼なので狭い陣地にピンポイントで投下するのは困難で、半分は敵の手に渡ってしまった。また地上からの砲火に加え、敵戦闘機が待ち伏せるようになって撃墜される機が出始めた。しかしちぎれんばかりに手を振る守備兵を見たパイロットは、再出撃、再々出撃を進言した。これに対し金光少佐が無線で司令部に告げた。『今日も空投を感謝す。手榴弾100発、小銃弾2,000発受領。将兵は1発1発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり。』『我が飛行隊が勇敢なる低空飛行を実施し、これが為敵火を被るは、守備将兵の真に心痛に堪えざるところなり。余り無理なきようお願いす。』それを聞いた隼隊は出撃を志願したが、7月中旬になると陣地はさらに小さくなり、手を振る守備兵は負傷して包帯を巻いた負傷兵ばかりで、投下しても陣地内の日本兵にはほとんど渡らなかった。実際最後の数百名は、片手片足、失明した兵が幽鬼のように敵に立ち向かっていた。
雲南軍は、これまでの中国戦線の中国軍とは思えないほど勇敢に戦った。殺すのを一瞬ためらう程の少年兵が多かったという。しかし初陣の彼らは真っ正直に正面から戦い過ぎた。老練な日本軍の仕掛けたトラップに嵌り、犠牲を重ねた。日本軍にとっては、効果的に限られた武器で最大の効果をあげたと言える。中国軍は何度か降伏勧告を行ったが、鼻で笑われてしまった。
8月中下旬の雲南軍の攻撃は中央付近の関山陣地に集中し、地上攻撃と併せて陣地直下まで掘り進んだ坑道による地中3ヶ所からの爆破により、8/19ついに陣地を奪われた。しかし8/20夜間、なけなしの兵を集めて夜襲を敢行して奪還。翌日再び奪取されるも8/22未明、逆襲して再奪取。しかし兵力が尽き、確保を続けることは出来なかった。
9/5、決別電報を打ち、無線機を破壊し重要書類を焼却。9/6、金光少佐戦死。迫撃砲弾により腹部と大腿部を粉砕されていた。
金光隊長は真鍋副官に後事を託しつぶやいた。『皆、よくやってくれた---』享年48歳。翌9/7未明、真鍋大尉、砲兵掩蓋内にて軍旗奉焼。早朝より激しい集中砲火を受け松山陣地陥落。午後真鍋大尉敵中に切り込み戦死(死後、少佐に進級)。18時全ての陣地が陥落し戦闘終結。突然戦場に静寂が広がった。
真鍋大尉の命を受け、中尉ら数名が脱出し地元民に変装して戦線を突破し、日本軍の司令部に辿りついた。将校の生還者がいたことで、拉孟守備隊の最期の様子は比較的よく分かっている。騰越では一人の生存者もいない為、戦闘の詳細が今一つ不明である。
拉孟守備隊の陥落した陣地跡に自決した15名の日本人慰安婦が横たわっていた。5名の朝鮮人慰安婦は雲南軍に投降した。降り注ぐ砲弾の雨の中で、守備隊が一番安全な場所に女達を匿っていたことが伺える。また最期の時に日本人慰安婦のお姉さんが、朝鮮人の女の子に降伏を勧めたのだろう。雲南軍は女がこの激戦の戦場にいたことに驚き、従軍看護婦として丁重に埋葬した。
拉孟には軍属によって酒保(売店)と慰安所が出来ていた。女達は攻撃が近づいた時に引き上げることも出来たのだが、何故か残留を望んだ。長い間暮らしを共にした兵隊と女達の間には、家族愛のような絆が生まれていた。戦闘の最中に、一人の兵隊がなじみの女との結婚を申し出て許可された、という話しがある。しかし勇者として名誉の戦死を遂げた兵士に較べ、名もなく闇に葬られた死を遂げた女達があわれだ。彼女達も共に戦い、弾丸を運び炊事に従事し傷ついた兵を手当てし看護し、勇敢に死を選んだのに。
金光隊長が9/5、師団司令部に送った決別電文は以下の通り。
『通信の途絶を顧慮して、予め状況を申し上げたし。---周囲の状況急迫し此までの戦況報告の如く全員弾薬食糧欠乏し。如何とも致し難く最後の時迫る。将兵一同死生を超越し命令を厳守確行、全力を揮ってよく勇戦し死守敢闘せるも、小官の指揮拙劣と無力の為御期待に沿うまで死守し得ず。まことに申し訳なし。謹みて聖寿の無窮、皇運の隆昌と兵団長閣下はじめ御一同の御武運長久を祈る。』
騰越は城郭都市で、城壁は周囲4km正方形で高さ5m、幅2m、外側は石で内側は積土で固められていた。周囲の高地からは見下ろす位置にあるため、これらの高地も防衛する必要があったが、それには最低でも3個連隊、7千名の兵が必要だ。騰越守備隊長は水上少将であったが、少将はミイトキーナ救援に向かったので、蔵重大佐以下2,800名が雲南軍49,600名を迎えうった。守備隊は全滅、雲南軍は戦死9,168名、負傷10,200名の損害を出した。
戦闘が始まる直前、師団司令部から1大隊の抽出を命ぜられた。そのため実際に騰越で戦ったのは2,800名ではなく2,025名であった。6/27、雲南遠征軍の砲撃開始。7/27、外郭陣地を放棄し城内に後退。8/13早朝、戦爆連合の24機が騰越城を空爆、その一弾が防空壕を直撃して蔵重大佐以下32名が戦死。以後太田大尉(28歳)が指揮をとった。この時点で守備兵は800名になっていた。連合軍の空爆は激しかった。
しかし騰越守備隊の凄まじい抵抗はむしろここから始まる。組織的防戦から死に物狂いの抵抗へ。空爆で崩れた城壁からなだれ込んできた5千を超す雲南軍と壮絶な市街戦を繰り広げる。昼間奪われた地域は夜襲で奪い返す。8/21、残存640名。9/1〜5、残存350以下。9/7、追い詰められた守備隊は太田大尉以下70名。9/11、守備隊の弾薬、手榴弾が尽きる。9/12、最後の無電。
9/13、太田大尉の指揮下、生き残った数十名が軍刀と銃剣により敵陣地に突入して全員戦死。太田大尉の決別電は以下の通り。
『現状ヨリスルニ、一週間以内ノ持久ハ困難ナルヲ以テ、兵団ノ状況ニ依リテハ、十三日、連隊長ノ命日ヲ期シ、最後ノ突撃ヲ敢行シ、怒江作戦以来ノ鬱憤ヲ晴ラシ、武人ノ最後ヲ飾ラントス。敵火砲ノ絶対火制下ニアリテ、敵ノ傍若無人ヲ甘受スルニ忍ビズ、将兵ノ心情ヲ諒トセラレタシ。』
9月9日、敵将蒋介石は、雲南軍司令部に与えた訓示の中で次のように述べた。
『戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。我が将校以下は、日本軍の拉孟守備隊、騰越守備隊あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命令を全うしある現状を範とすべし。日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し。』
これが有名な蒋介石の逆感状である。日本軍の出す美辞麗句を並べた陳腐な感状に較べ、敵から範とすべしと言わしめたのだ。これ程価値のある(逆)感状はない。蒋介石は毀誉褒貶の多い人物だが、敵の勇気に感動する度量のある人だった。このことだけでも結構好きだな。拉孟・騰越の勇者がもし生きていてこのことを聞いたなら、一番うれしい一言だったに違いない。
。
もう一つは、9月9日、中華民国総統の蒋介石が、部下将兵に与えた訓示である。これこそは、敵側が如何に拉孟守備隊の勇戦に苦しめられたかを明確に示す証拠であり、蒋介石から拉孟の将兵に手向けた逆感状とも言えるであろう。
「松山陣地(拉孟陣地と同義)は9月7日、我が軍において攻占するところとなり、欣快に堪えず。(中略)戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。(中略)
諸子はビルマの日本軍を模範とせよ。拉孟において、騰越において、ミートキーナにおいて、日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し」
11.中川州男とペリリュー島の戦い〜バンザイ突撃の禁止、 相次ぐ御嘉賞と将兵の奮闘
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7798
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2020年07月27日 公開
2020年08月05日 更新
早坂隆(ノンフィクション作家)
ペリリュー島に残る大砲
南洋の島、ペリリュー島。
約1万の日本軍守備隊に対し、米軍の総兵力はおよそ4万2千人。
その中核は、米軍最強と謳われた第一海兵師団である。
彼我の戦力差は明らかであったが、日本軍は島じゅうに張り巡らせた地下壕を駆使し、徹底抗戦を試みる。
驚異的な奮闘を指揮したのが、中川州男(なかがわくにお)大佐であった。
※本稿は、歴史街道編集部編『太平洋戦争の名将たち』より、一部を抜粋編集したものです。
パラオの発展に尽力した日本
西太平洋上に位置するパラオ共和国は、珊瑚礁に囲まれた美しい島嶼国家である。しかし、この「楽園」のような小さな島々にも苦渋の歴史がある。19世紀後半以降、パラオはスペインとドイツに相次いで植民地とされ、島民たちは搾取と愚民化政策の対象とされた。
転機となったのは第一次世界大戦後である。大正9年(1920)、国際連盟の正式な決定によって、パラオは日本の委任統治領となった。以降、日本はインフラ整備や産業振興、学校制度の導入など、様々な政策を実行。その結果、島民の生活レベルや識字率は大きく向上した。
しかし、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると、パラオは米軍の標的となった。フィリピン方面への攻撃拠点を求める米軍にとって、パラオ南端のペリリュー島にある大規模な飛行場は格好の存在であった。昭和19年(1944)、米軍はペリリュー島への上陸計画を策定した。
これに対して日本軍は、ペリリュー島におけるそれまでの防備を根本から見直し、強力な迎撃態勢の構築を急いだ。
その指揮をとった現地司令官が、歩兵第二連隊長・中川州男大佐である。
中川は明治31年(1898)1月23日、熊本県の玉名郡で生まれた。一家は累代の熊本藩士という由緒ある家系だったが、明治になって武士の時代が終焉するとその生活は一変。中川の祖父や父は、学校や塾で国学や漢学などを教える教育者に転じた。ちなみに中川の父親である文次郎は、西郷隆盛率いる薩摩軍と共に戦った熊本隊の一員として西南戦争に参戦し、新政府軍と干戈を交えた経歴を持つ。文次郎はこの戦闘に敗れた後に、教育を生業とする道を歩むようになった。
そんな家風の影響であろう、中川の二人の兄も教育畑へと進んでいる。すなわち、中川家とは筋金入りの「教育一家」であった。中川も世が世なら素晴らしい教育者になったのではないか。
そのような環境で生まれ育った中川は、文武両道を地で行くような青年となった。口数は少ないが正義感が強く、純粋な性格であったと伝わる。地元の名門・玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)に進学した中川は剣道部に所属し、多くの学友たちと共に汗を流した。学科では漢学が得意であったという。
そんな中川が卒業後に選んだのは、教師ではなく陸軍将校への道であった。成績優秀だった中川は、「陸軍を担う将校」を育成するための専門機関である陸軍士官学校に合格。熊本を出て上京し、同校で学ぶことになった。時は第一次世界大戦下であり、日本も国防の重要性が改めて意識された時期であった。また、元藩士といえども当時の中川家は経済的に困窮しており、そんな家族の生活を憂う心境もあって、学費のかからない同校に進んだとも言われている。同校では軍事学はもちろん、幅広い高等教育が実施された。
大正7年(1918)、同校を卒業した中川は、福岡県久留米市の歩兵第四十八連隊で本格的な軍隊生活に入った。大いなる希望を持って入営した中川であったが、その後は学校の配属将校といった「閑職」に回された時期も長かった。エリート校である陸軍士官学校の卒業者とは言え、中川の軍人人生は順風満帆だったわけではない。
そんな中川の生涯において大きな分岐点となったのが日中戦争(支那事変)であった。中川は第二十師団歩兵第七十九連隊の大隊長として華北戦線に出征。この時の一連の戦闘において中川は冷静かつ巧みな指導力を発揮し、上層部から高い評価を得た。その結果、中川は連隊長の推薦によって、陸軍大学校専科への進学を許されたのである。
こうした経歴を見ると、中川という軍人は「挫折を知る」「現場からのたたき上げ」であったと言える。
陸大専科で学んだ中川はその後、独立混成第五旅団参謀などを経て、栄職である歩兵第二連隊長を拝命。茨城県の水戸を編成地とする同連隊は当時、「陸軍の精鋭」と呼ばれた部隊であった。
同連隊は満洲北端の嫩江(のんこう)に「対ソ戦の備え」として駐屯していた。中川も嫩江で一年ほど過ごしたが、昭和19年(1944)3月、南方への転出が決まった。悪化の一途を辿る太平洋戦線において、米軍と雌雄を決するためである。日本軍は虎の子の「切り札」を、満洲から太平洋へ振り分けたことになる。
中川は「二度と戻れない」という覚悟をもって、南洋へと向かった。
歩兵第二連隊の行き先は、パラオ・ペリリュー島であった。
11.硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい[注 1]、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 栗林忠道陸軍中将
1945年3月26日)は、第二次世界大戦末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation Detachment)。
概要
硫黄島遠景(2007年)。
『硫黄島の星条旗』をかたどった合衆国海兵隊戦争記念碑
1944年8月時点での連合軍の戦略では、日本本土侵攻の準備段階として台湾に進攻する計画であった[10]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦については「コーズウェイ作戦」 (土手道作戦) としてに具体的な検討が進められたが、その後に陸海軍内で議論があり、1944年10月にはアメリカ統合参謀本部が台湾攻略の計画を放棄して、小笠原諸島を攻略後に沖縄に侵攻することが決定された[11]。作戦名は「デタッチメント作戦(分断作戦)」と名付けられたが、のちに「海兵隊史上最も野蛮で高価な戦い」と呼ばれることにもなった[12]。
作戦は、ダグラス・マッカーサーによるレイテ島の戦いやルソン島の戦いが計画より遅延したことで2回の延期を経て[13]、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援を受けて開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍中将(戦死認定後陸軍大将)を最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊(小笠原兵団)の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は同島をほぼ制圧。3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。アメリカ軍の当初の計画では硫黄島を5日で攻略する予定であったが、最終的に1ヶ月以上を要することとなり、アメリカ軍の作戦計画を大きく狂わせることとなっ
10.占守島の戦い日本を分断国家
から救った男たち
「終戦の日」の2日後、昭和20年8月17日の深夜千島列島北東端
占守島を無法にもソ連が上陸した、日本陸軍守将樋口季一郎中将はこのソ連軍を撃破した
スターリン
ソ連軍はこの戦いがなければ北海道はもちろん東北北部も侵略し、日本をドイツのような分断国家にしただろう。
終戦後の「忘れられた戦い」
日本は昭和20年(1945)の何月何日に戦争を終えたのか――。この問いに「8月15日」と答えない日本人はまずいないと思います。一方、大東亜戦争(太平洋戦争)における「地上戦が行なわれた日本の領土」といえば、多くの方が「沖縄」を連想することでしょう。
しかし、「終戦の日」の2日後、昭和20年8月17日の深夜、紛れもない日本の領土で始まった戦いが存在したことについては、知る人が少ないように思えます。日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきたソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」です。現在の北方領土問題へとつながる出来事でもありました。
かく言う私も、占守島の戦いについてある程度の知識はあったものの、「どのような戦いだったか」「どんな意義があったのか」を詳しく知ったのはここ数年のことです。関心を抱いたきっかけは、樋口季一郎中将でした。
樋口は昭和13年(1938)、杉原千畝よりも前にナチスからユダヤ人を救った人物で、占守島の戦いでは北方を守る第五方面軍の司令官としてソ連軍への反撃を命じました。そんな樋口の手記を入口に、私は占守島の戦いについて調べ始めたのです。
運命の、昭和20年8月17日深夜
最も印象的なのが、樋口の孫・隆一さんから伺った逸話です。隆一さんは、季一郎から次のような話を聞かされたと教えてくれました。
「日本の歴史家は、あの戦争の負け戦ばかりを伝えている。しかし、中には占守島の戦いのような勝ち戦もあったし、だからこそ今の日本の秩序や形が守られている。
負け戦を語ることも大事だが、その一方で、重要な勝ち戦があったことについても、しっかりと語り継いでほしい……」
自らの功を、公に喋るような人物では断じてない。取材を通じて樋口に抱いた印象です。そんな樋口が、占守島の戦いを「語り継いでほしい」と漏らしたのは、なぜなのか。樋口の胸の裡は、あの戦いの「意義」を知ればおのずと見えてきます。
占守島は今もなお、ロシアに実効支配されており、その存在すら学校の授業でも教えられることはありません。
占守島は千島列島の北東端に位置し、戦争当時は日本の領土でした。なお、国際法上、占守島だけでなく全千島列島と、南樺太も日本領として認められていました。
昭和20年当時、日本の北東の国境の最前線にあたる占守島には、約8,000の日本陸海軍将兵がいたとされます。ソ連と国境を接していますが、「日ソ中立条約」を結んでいたため、あくまでもアメリカ軍への備えです。
しかし――8月17日深夜、占守島に攻め込んできたのは、相互不可侵を約していたはずのソ連軍でした。ソ連は中立条約を一方的に破棄するという明らかな国際法違反を犯し、日本を「騙し討ち」したのです。
ソ連軍は8月9日にすでに満洲に侵攻していましたが、そこで行なわれたのは戦闘行為ですらありません。殺人、略奪、家屋侵入、そして強姦……。彼らは同じような手法で、千島列島の他、南樺太までも攻略しようと企みました。
北海道までを狙うソ連の野望
発端は、同年2月のヤルタ密約にまで遡ります。アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンが会談を行ない、ソ連が対日参戦を条件に千島列島や南樺太を獲得することを秘密協定で認めたのです。
しかし、スターリンはやがて、北海道の北半分の領有までも主張し始めました。対するアメリカはこれを拒否。後の冷戦構造の萌芽ですが、遺憾にも真っ先に巻き込まれたのが日本でした。
ソ連は終戦近しと見るや、千島列島や南樺太への侵攻を開始。どさくさに紛れて日本領を少しでも掠め取ろうとしたのです。あのスターリンならば、千島列島、北海道を獲った後、勢いに乗じて本州の東北地方の占領までをも窺ったであろうことは想像に難くありません。
結果、日本は戦後のドイツや朝鮮半島と同じような分断国家になっていたかもしれないのです。なお、日本側は当初、そんなソ連に和平の仲介役を期待していました。そんな史実も、あの戦争の一側面として知っておくべきでしょう。
陸軍きってのロシア通だった樋口は、「ソ連軍、来襲」の報に接した瞬間、ソ連の野望と日本が直面した未曾有の危機を鋭敏に察しました。戦後、樋口が「占守島の戦いが今の日本の秩序や形を守った」と指摘したのはそのためです。
樋口は誰よりも占守島の戦いの意義を知るからこそ、占守島で敢然と起ち上がり、肉弾と散った部下たちの姿を後世の日本人にも知って欲しいという「本音」を孫の隆一さんに語ったのでしょう。
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大東亜戦争は日本が勝った -英国人ジャーナリスト ヘンリー・ストークスが語る「世界史の中の日本」 単行本 - 2017/4/17
ヘンリー・S・ストークス (著), 藤田 裕行 (翻訳)
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単行本
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「太平洋戦争」はアメリカの洗脳だった
この書は日本のプロパガンダではない。史実である。
日本よ 呪縛から解放されよ!
ヘンリー・S・ストークス 来日50年の総集編
世界史を俯瞰して明らかになった
大東亜戦争の真実
共産党などの左翼は、大東亜戦争は「侵略戦争」であったと言う。
そうであろうか? 史実を検証すると、そこには明らかに「アジア解放戦争」の側面が見て取れる。
アメリカの侵略戦争や、大英帝国の植民地支配での戦争とは、明らかに違った姿を現じている。
私は、大東亜戦争を日本がなぜ戦ったのか、その結果、何が世界に起こったのかは、
世界文明史的な俯瞰をもってしてはじめて、明らかになるものだと、そう思い始めた。
世界文明史の中で、大東亜戦争を位置づけようというような野心的な試みは、一冊の本で果たせるものでもないが、
その第一歩を英国人ジャーナリストの私が切り開くことで、世界中に多くの賛同者が出てくると、
そう確信している。(本文より)
1章 日本が戦ったのは「太平洋戦争」ではない!
2章 「太平洋戦争」史観で洗脳される日本
3章 日本は「和」の国である
4章 世界に冠たる日本の歴史
5章 オリエントにあった世界の文明と帝国
6章 侵略され侵略するイギリスの歴史
7章 アメリカの「マニフェスト・デスティニー」
8章 白人キリスト教徒による太平洋侵略
9章 マッカーサー親子によるフィリピン侵略
10章 大日本帝国と西欧列強の帝国主義の違い
11章 大日本帝国は「植民地支配」などしていない!
12章 日本は中国を侵略していない
13章 アメリカによる先制攻撃の「共同謀議」
14章 大統領がアメリカ国民を欺いた日
15章 大英帝国を滅ぼしたのは日本だった!
「世界から恐れられた7人の日本人」上巻
世界世界
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1人目:日本軍 20 万に匹敵する男 −明石元二郎陸軍大佐
○帝政ロシアを揺るがし、 日露戦争を勝利へ導く
○明石を支援した日本陸軍のスパイマスターたち
○ジェームス・ボンドも明石の味方に! ?
2人目:米国務長官が欲しがった男 ―岩畔豪雄陸軍少将
○「世界基準の戦い方」をプランニングし、遂行する
○アメリカとの戦争回避に奔走
○インドの独立運動にも大きく貢献
3人目:日本のスパイマスタ― ―秋草俊陸軍少将
○インテリジェンス教育の総本山「中野学校」を創設
○猛者ぞろいの中野学校出身者
○謀略から特攻まで、 ただ目標完遂のために
4人目:インドを独立に導いた謀略の素人 ―藤原岩市陸軍少佐
○5万ものインド人捕虜の心を一瞬にしてつかむ
○曲解され悪魔化される日本のナショナリストたち
5人目:日本版アラビアのロレンス ― 鈴木敬司陸軍大佐
○親日ミャンマーの原点は鈴木大佐にあり
○「アジアはアジア人の手に」を願い共に戦った野田毅陸軍大尉
○日本が掲げた理想、そして誠の心がアジア諸国を動かした
6人目:アメリカ軍の動きを的確に予測した情報のプロ ―堀栄三陸軍少佐
○株価の動きでアメリカ軍の動きを予測
○その情報は、 陸軍大本営の参謀によって握りつぶされた
○米軍戦法の研究書を執筆し、日本軍の戦いに貢献
○アメリカ軍を壊滅状態に追い込んだ堀の教え
7人目:MI5が徹底監視した唯一の日本人 ―小野寺信陸軍少将
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世界を変えてきた比類なき日本のインテリジェンス
あとがき:ウィズコロナ時代だからこそ、先人のインテリジェンスに学べ
著者プロフィール
大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)
大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)は、1943年(昭和18年)11月6日に大東亜会議にて採択された共同宣言。大東亜宣言とも。
概要
東京・帝国議事堂で同年11月に開催されたアジア地域の首脳会議の2日目に満場一致で採択された。採択後にビルマ国代表のバー・モウ内閣総理大臣が「自由インドなければ自由アジアなし」とインド独立を支持する意見を述べ、陪席者(オブザーバー)として出席した自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班が自由インドの確立を表明した[1]。次いで日本の東條英機内閣総理大臣が自由インドへの強い支援を会議で表明、大東亜会議は閉会した。
参加国
日本 : 東條英機内閣総理大臣、外務省・大東亜省などの各大臣、総裁、書記官など
中国 : 汪兆銘国民政府行政院長、行政院副院長、外交部部長など
タイ : ワンワイタヤーコーン親王(首相代理)、外務省など
満洲 : 張景恵国務総理大臣、外交部大臣、特命全権大使など。
フィリピン : ホセ・ラウレル大統領、外務大臣、大統領秘書など
ビルマ : バー・モウ内閣総理大臣、特命全権大使、外務次官など
インド:チャンドラ・ボース(首班)、最高司令部参謀長など
宣言全文
原文
大東亞共同宣言
抑?世界各國ガ各其ノ所??ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平??和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽??クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望??ヲ逞ウシ遂??ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂??シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平??和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス
一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道??義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス
一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊??重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス
一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊??重シ各民族ノ創造??性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス
一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ攝i??ス
一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進??ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進??運??ニ貢獻ス
口語訳
そもそも世界各国がそれぞれその所を得、互いに頼り合い助け合ってすべての国家がともに栄える喜びをともにすることは、世界平和確立の根本です。
しかし米英は、自国の繁栄のためには、他の国や民族を抑圧し、特に大東亜(東アジア全般)に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、大東亜を隷属化する野望をむきだしにし、ついには大東亜の安定を根底から覆(くつがえ)そうとしました。大東亜戦争の原因はここにあります。
大東亜の各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、大東亜諸国を米英の手かせ足かせから解放し、その自存自衞を確保し、次の綱領にもとづいて大東亜を建設し、これによって世界の平和の確立に寄与することを期待しています。
大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。
大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。
大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。
大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。
大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。
作成の経緯
本文の5項目に関しては、1943年(昭和18年)8月初旬には外務省内「戦争目的研究会」で大西洋憲章(1941年)なども大いに参考にするかたちで文案作成がはじまり、同10月には完成したものとみられる[2]。これと別途並行して大東亜省は大川周明[3][4]や矢部貞治に宣言案を作成させており、それは前文として追加されることになった。大西洋憲章を参考にした本文が普遍的な真理を提唱するのに対し、大東亜省の前文は「米英支配の打破」という時事的な記述に偏っており、論理の接続が悪い所以とされる。
日本を除く大東亜会議参加国は、会議2週間前になりようやく意見聴取の場を得たが、修正意見は日本側にことごとく拒絶され、結局一字一句の変更もなされずこの文面のまま全会一致で採択された。