iso14001,環境ISO News
大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史
英国の歴史家、アーノルド・トインビーは、 日本の近代史についてこんな分析をしました。
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朝日の慰安婦捏造問題を世界に発信するため、 かなり正確に伝えている英語での解説記事
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米政府の慰安婦問題調査で奴隷化の証拠発見されず
no proof war crimes with "disappointment" comfort woman
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「侵略戦争」は連合国の宣伝、日本は植民地アジアを解放した
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徹底検証!「従軍慰安婦」問題は朝日新聞の捏造から始まった
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Report No. 49: Japanese Prisoners of War Interrogation on Prostitution
従軍慰安婦に関する米軍調査報告:戦場売春婦の実態調査結果ビルマ
Report No. 49:
「文玉珠さん」という(自称)従軍慰安婦女性は、平成4年に日本の郵便局を訪れ 2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしています
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ヒラリーの私用メールが暴いた外務省の赤っ恥 国益の毀損と責任感の欠如がもはや伝統に
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神風特攻隊が残した戦果は、実はすごかった。
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フーバー大統領の回想録
には、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な記録が含まれている。
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サンフランシスコで慰安婦碑反対運動で頑張っている有志からご協力のお願いです。
計画されている慰安婦碑のとんでもない内容の碑文が1月18日に承認されました。
来る2月6日の芸術委員会でその慰安婦碑の設置が承認されようとしています。
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“カナダ有志の会”よりお願い
中国系州議員やアルファという反日組織の工作により、
カナダ・オンタリオ州の立法議会が南京大虐殺記念日の制定を審議中です。
↓ Bill 79, Nanjing Massacre Commemorative Day ↓
SnapCrab_NoName_2017-2-2_7-50-52_No-00
抗議のメールを、オンタリオ立法議会メンバーに送っていただけましたら幸いです。
南京大虐殺は捏造だった証拠集
韓国、韓国人慰安婦をドラム缶に入れて米軍らに供給、政府が米軍向けに売春管理
国連も一蹴した中国の政治宣伝 自民党が明らかにした南京の捏造
やはり
あの戦争は、アジア開放のための聖戦だった
ライダ
イハンは3万人もいるのに、なぜか韓国には日本軍人との混血児は一人も出てこない不思議… 20万の
朝鮮売春婦相手になぜ一人も出てこないんだ?
韓国を「ホワイト国」から除外しよう
南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状
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自己紹介
南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状
原爆被爆者の平均寿命は平均日本人より長い。男1年、女2年、寿命が長い。
http://www.sdh-fact.com/CL02_3/19_S1.pdf
胡錦濤国家主席閣下への公開質問状 このたび中華人民共和国国家主席胡錦濤閣下のご訪日に当たって、日中両国の 友好を願う者として心より歓迎申し上げます。
反日種族主義
iso14001環境ISO生命に満ちた青い地球を守ろう
大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp ? ...
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広田純 著 ・ 被引用数: 4 ? 日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争の幕が切って落されたのが1941年12月ですから,そ ... まず軍人軍属の被害についてみると,陸軍の死亡者は戦死者と戦病
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太平洋戦争におけるわが国の戦争被害
一一戦争被害調査の戦後史一一
広 田 純
まえがき
本年 (1991年〉の 1月16日, 「太平洋戦争におけるわが国の戦争被害」と Lづ表題で, 「統
計学」の最終講義をおこないました。ちょうど湾岸戦争の前日でしたので,経済安定本部の戦
争被害調査を紹介しながら,私個人のとぼしい戦争体験をも交えて,戦争の悲惨さと愚かしさ
とを学生諸君に訴えたつもりです。
その後私としてはこの戦争被害調査とL、うテーマが面白くなって,図書館通いをつづけ,経
本調査以後のことを勉強して,その結果を10月26日,経済統計学会第35回全国総会で報告いた
しました。本稿はこの学会報告がもとになっています。最終講義と比べて内容がいくらか拡充
されていますので, 「戦争被害調査の戦後史」とLづ副題をつけました。あえて話し言葉を使
いましたが,かえって読み難くなったのではないかとおそれます。
最後に,最終講義を準備して下さった柏木寛之,岩上泰子その他ゼミの学生諸君と.当日講
義をテープにとって,それをおこす労をとって下さった菊地準助教授とに,厚くわ礼を申し上
げます。
1. 戦没者 310万人余
日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争の幕が切って落されたのが1941年12月ですから,そ
れから数えて本年はちょうど太平洋戦争開戦50周年になります。またさらに翻って,日本軍の
中国侵略の発端となった満州事変から数えると, 60周年ということにもなるわけです。
この戦争は, 1945年 8月の日本の無条件降伏によって終りましたが,勝った側にも,負けた
側にも,多大の人的,物的被害をもたらしました。人的被害についてだけ申しますと,アメリ
カ軍は戦死者 9万人,負傷者23万人,合計32万人の被害をこうむりました。もっとも被害の大
きかったのは中国で,この「15年戦争Jによる死傷者は,軍人400万人,民間人2,000万人,合
計 2,400万人と推定されています。
わが国でも,公私の機関によって戦争被害の調査研究がなされて来ましたが,今日では,日
中戦争期をふくめて戦没者310万人余,その内訳は,軍人軍属230万人,沖縄住民をふくむ在外
2 立教経済学研究第45巻 第4号 1992年
邦人30万人,内地での戦災死者50万人とし、うのが,一般によく引用される半ば公式の数字にな
っています!)。
私の報告は,この半ば公式の数字になっているわが国の戦没者 310万人余について,それが
どのような経緯で,どのような調査にもとづいて推定されたものであるのかを,戦没者のカテ
ゴリー別に検討してみようというものです。それはまた,この戦争がどのような戦争であった
のか,とくに戦争犠牲者にたいして,戦後どのような手が打たれたのかについて語ることにも
なるでしょう。
2. 議会報告「大東E戦争終戦に関する資料」
終戦直後の1945年 9月4日, 5日の両氏帝国議会の臨時会が聞かれて,東久遜首相が「戦
争終結に至る経緯」を報告しました。 「一億総機悔」と Lづ言葉が出て来たのはこの報告のな
かでですが,その議会に各省別の報告書が一括されて, 「大東亜戦争終戦に関する資料」とし
て提出されました。これがわが国の戦争被害についての最初の公式報告です2)。
表 1 陸軍人員損耗表。
単位人
戦 死
戦 傷
戦死傷計
戦 病
千千
1id 万万万佳戸hd314
447万3)
1)大東亜戦争開始以来
2)内玉砕20万
3〕延数,内戦病死 4万,死亡計
35万
備考開戦時兵力 190万,終戦時
兵力約 550万
表 2 海軍戦没者一覧表り
単位人
軍 人 軍 属 計
戦没者 154, 7952> 2,526 157,321
所在不明者 1,381 49 1,430
計 156, 176 2,575 158,751
1)大東亜戦争中, 1945. 8. 28現在
2)内特攻隊戦死者 2,065
1〕厚生省「援護局編『引揚げと援護30年の歩み』 1977. 10, 399ページ。
『世界』 (岩波書店〕 1981年8月号参照。因みにこの号は太平洋戦争開戦40周年記念号である。
2〕この議会資料は,外務省編『終戦史録』 (1952,その後 6巻本として復刊1977〜〉に再録されてい
る。
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害
表 3 一般空襲被害の概況U
全 国2)
死者(人〉 241,309
負傷者(人〉 313,041
家屋全焼全壊(戸〉 2,333,388
家屋半焼半壊(戸〉 110,928
羅災者4) c人〉 8,045,094
1 ) 1945. 8 . 15現在
2) 46都道府県,沖縄をふくまない
3)新型爆弾による被害
4)死傷者をふくまない
広島市3)
7万
13万
6万2千
1万
10万
3
長崎市3)
2万
5万
2万
2万5千
10万
この報告書は,終戦直後の勿々の聞にとりまとめられたとしづ事情を反映して,とくに人的
被害に関する部分はまことにずさんな,無責任なものでした。軍人軍属の死傷者についての陸
軍省,海軍省の報告を要約したものが表 1と表 2,内地での空襲等による一般市民の被害状況
についての内務省の報告を要約したものが表 3です。在外邦人と沖縄住民の被害についての資
料は,どこにも見当りません。
まず軍人軍属の被害についてみると,陸軍の死亡者は戦死者と戦病死者とを合わせて35万人,
海軍の死亡者は所在不明者をふくめて15万 9千人となっています。その後の在外部隊の復員の
進捗,それにともなう未帰還者(死亡者〉調査の発展の結果として,との軍人軍属の死亡者数
は何倍にも増えていきます。この点については後で述べますが,このような経過から考えると,
表 l,表2に報告された死亡者数は,戦況をもとにした死亡者数の推定ではなくて,内地にあ
って習守業務を担当していた部門(会社でいえば本社の人事部のようなもの〉が,在外部隊か
らの報告にもとづいて,その時点までに死亡者として処理した人数,あるいはその概数である
と考えられます。
部隊が大きな被害を受けた場合には,死傷者の記録をとる余裕もなくなります。また記録を
とっても,それを肉地に伝達する手段がありません。表し表2の死亡者数が少ないというこ
とは,太平洋戦争の後半期において,在外部隊がこのような極限状態におかれていたというこ
とを反映するものです
。
なお用語の問題ですが,当時の恩給法の規定では戦死が特別扱いされs 戦病死はかならずし
もこれと同等のとり扱いを受けていませんでした。表 1の用語法はこの区別を忠実に反映した
ものです。戦後の患給法の改正では,この区別は実際的でないとして廃止されました。
つぎに内地での空襲等による一般市民の被害ι移りますが,表 3の全国の欄は,沖縄を除く
46都道府県からの報告を内務省がとりまとめたものです。都道府県別の表もありますが,次節
の表 6-2に,その死者数だけをしめしました。都道府県別の表の他に, 「新型爆弾」による
広島市・長崎市の被害の推定が特掲されています。原爆投下によって平首脳や政府の受けた打
撃の大きさがうかがわれます
。
4 立教経済学研究第45巻 第4号 1992年
空襲による一般市民の被害は,空襲の度毎に所轄の警察署が調査し,その報告を県警察部が
日誌の形で記録し,保管すると Lづ仕組みになっていたようです。したがって一般の災害統計
の場合と同様に,ここでいう死者数とは警察による死体処理〔検視〉件数であり,負傷者数と
は救護所などによろ負傷者の受付件数であると考えられます。状況判断から死亡が確実視され
るような場合でも,死体が発見されないかぎり,警察でのとり扱いは行方不明です。
このような被害調査の仕方は,広島・長崎の原爆被害とか東京大空襲(1945年 3月10日〉の
ように,一挙に大規模の被害が発生する場合には,完全にお手挙げの状態となります。まず,
被害者の救護と調査に当るべき警察官自身が被害者になって,多数負傷し,死亡します。また
検視さるべき被害者の遺体がすべて残っているわけではありません。その一部は焼失し,地下
に埋没し,また川から海へ流失します。
小規模被害の場合には,また別の調査上の問題が起ります。 B29が大都市空襲からの帰途,
残った爆弾を山村に落して行ったり,艦載機が列車に機銃掃射を加えたりで,一人死んだとか
二人死んだとかといった事件が,全国のいたる所に発生しました。これづ小規模被害のすべ
てが報告されて,県の被害日誌に記録されているかどうか,多くの小規模被害が県の集計から
洩れている可能性があります。
最後に,県単位ではとらえ葉齢、ような被害がめります。それは海上での被害です。運輸省提
出の議会資料には,国鉄の被害の一部として,連絡船の出没13隻,繍座炎上 5隻,運行不能4
隻,計22隻の被害が報告されています。その他沖縄からの疎開船や樺太からの引揚船が,潜水
艦によって撃抗されたと Lづ記録もあります。また多数の漁船が艦載機や潜水艦の攻撃を受け
ました。次の節で述べる経本調査によると,被害を受けた漁船の数は 1,595隻に及びます。こ
れらの船に乗っていた民間人の被害は,内務省の報告では,どの県の被害にふくめられている
のでしょうか。いずれにしても,海上での被害のかなりの部分が洩れている可能性があります。
表 3では,空襲等による一般市民の死者が24万人となっていますが,海上での被害を別とし
ても,その程度の被害でなかったことは,その後の調査でこの死者数が倍増することによって
も明らかです。
3. 経済安定本部の戦争被害調査
1946年11月に新憲法が公布され,翌47年 4月新憲法下初の総選挙で社会党が第一党となって,
6月片山内閣が成立します。片山内閣の初仕事の一つが,経済安定本部による「経済実相報告
書」 (第一回の経済白書〉の公表と,同じく経本による戦争被害調査の企画でしたへ
戦争被害調査は,経本の官房調査課が中心となり,関係各省,各都道府県の協力を得て実施
3)経済企画庁編『現代日本経済の展開〔経済企画庁30年史〉』 1976・8。
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害 5
されましたが,その調査結果が1949年 4月, 『太平洋戦争による我国の被害総合報告書』とし
て公表されています。これが戦争被害についての二回目の公式報告で,総合報告としてはこれ
が最後のものとなりましたペ
報告書は,戦争被害調査の目的として次の三つの項目を挙げています。第一は,戦争がし、か
に莫大な損失をもたらすものであるかを明らかにし,平和国家として吏生すべき決意をいよい
よ堅からしむること。つまりこの戦争被害調査は,戦争放棄を明記した平和憲、法の申し子とい
えます。第二に,戦争による国富の喪失を数量的に明らかにし,戦後経済再建のための基礎的
資料を提供すること。この調査は,終戦時の残存国富(および工業生産設備能力〉の推計によ
って,その後何回か実施された国富調査などのはしりとなりました。第三に,将来起り得る対
外交渉にそなえ基礎的資料を準備すること。将来起り得る対外交渉とは賠償交渉のことです。
戦争被害は人的被害と物的被害とに分けられ,人的被害がさらに「銃後人口」の被害と軍人
軍属の被害に,物的被害が国富の被害と工業生産設備能力の被害に,それぞれ分けられていま
表 4 陸軍軍人軍属の被害
単位人
死亡
総計 1, 140,429
米国1) 485,717
英蘭2) 208,026
中国3) 202,958
豪州4) 199,511
仏印 2,803
満州ソ連5) 7,483
その他 23,388
(小計〕 1, 129, 886
内地 10,543
戦傷 295,247
消息不明 240,000
1)小笠原,沖縄,中部太平洋諸
島,南朝鮮,フィロピン
2)アγ ダマγ,ニコバノレ, ピノレ
マ,タイ,マライ,インドネシ
ア(除ボノレキオ〉
3)中国本土(除満州〉,台湾
4)ボノレネオ,東部ニューギニア
ピスマノレfl' ソロモン
5)満州,北朝鮮,樺太千島
4)経済安定本部総裁官房企画部調査課編『太平洋戦争による我国の被害総合報告書』 (戦争被害資料
4) 1949. 4。
総理府統計局『日本統計年鑑,昭和24年版』に,調査結果の要約が収録されてし喝。またこの調査
の中心であった小川消太(としやす〕氏によって『総合報告書Jの再版が刊行されている, 1971.4。
6 立教経済学研究第45巻 第4号 1992年
表 5 海軍軍人寧属の被害
単位人
計 軍人 軍属
計 429,034 312,661 116,373
死亡 414,879 300,386 114,493
負傷・行方不明 14, 155 12,275 1,880
す。経木としては調査目的からいって,物的被害に重点をおいているように見受けられますが,
ここで、は人的被害の部分にしぼって紹介することにします。
まず軍人軍属の被害についてですが,表 4が陸軍の被害,表 5が海軍の被害についての要約
です。いずれも軍の後身である引揚援護庁復員局の1948年12月現在の調査で,対象期聞は1942
年以降,つまり太平洋戦争中の被害です。それ以前の日中戦争期の被害はふくまれていません。
陸軍の表は,死亡者と戦傷者が共に述合国各国の占領地域別に分けられています。ただし戦
場者は,第一復員局の1945年12且の調査にもとづく傷夷恩給受給者で,調査洩れが相当あると
強調ぎれていますので,表 4ではあえて地域別に分けませんでした。各地械の範囲については,
他の資料にもとづいて註記しておきました。前の議会報告にはなかった消息不明者という項目
がでてきますが,これは詳細不明の概数で,報告書では被害者総数にも加えられておりません。
海軍の表は,軍人事属別,鎮守府・警備府の所轄別に分けられていますが,所轄別!土省略し
ました。負傷と行方不明が合併されております。
前節の議会報告と比べると,陸軍では新たに79万人の死亡処理がなされて,死亡総数i土ーき
ょに 3倍以上に増えています。海軍でもお万 8千人の死亡処理がなされて,死亡総数は 2倍半
以上に増えました。この死亡処理の大幅な進捗は,外地から復員(帰還〉した兵士たちのもた
らした情報によるものです。 1948年末には,軍人軍属の外地からの引揚げは一部の地域を除い
てほとんど完了しております。
引揚げの進捗にもかかわらず,陸軍にはなお推定24万人の消息不明者が残っています。これ
は主として満州、|・ソ連地域(ソ連本土,樺太・千島,北朝鮮〉の部隊についての死亡処理がお
くれた結果だと忠われます。この地域の死亡者数は,その後の調査で判明した数の10分の l以
下にすぎません。
海軍の表で注目されるのは,軍属の死亡者が死亡者合計の27.6%を占め,異常に多いという
ことです。新たに認定された死亡者25万 8千人のなかでは,軍属が11万 2千人で,全体の実に
43. 596を占めています。これは海軍に徴用され jニ民間の加の船員や,南方の島で建設に従事し
ていた設営隊の隊員などで,その死亡が外地からの復員をまってはじめて確認されたものと考
えられます。因みに設営隊の労務者のなかには,朝鮮や台湾から徴用された旧外地人が多く L、
ました。
つぎに「銃後人口」の被害,つまり内地での空襲,艦砲射撃等による一般市民の被害に移り
全国計
北海道
三同邑 本フtオミ
岩 手 宮域
秋 田
山 形
福 島
茨 城
栃 木
群 馬
埼 玉
千 葉
東 京
神奈川
新 潟
富 山
石 川
福 井
山 梨
長野
岐 阜
静 岡
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害
表 6-1 空襲等による銃後人口の被害
単位人
|全国1) 両示品|戸島県|長崎県
計 668,315 216,988
死亡 299,485 97,031
重傷 146,204 56,629
軽傷 167,318 52,938
負傷2) 31,298 4,356
行方不明 24,010 6,034
1) 46都道府県,沖縄をふくまない
2)負傷程度不明のもの
147,207 69,298
86, 141 26,238
11, 131 30,400
35,541 10,713
14,394 l, 947
表 6 2 空襲等による都道府県別死亡者数の比較
単位人
議会報告 経本調査|| |議会報告 経本調査
241,309 299,485 愛 知 11,243 11, 324
三 重 。2,040 3,600
。 796 835 滋 賀 59 101
。 828 931 京 都 227 111
。 620 688 大 阪 13, 192 11,089
1, 175 1, 170 兵 庫 。10,404 11,246
123 73 奈 良 73 68
18 16 和歌山 1, 992 1,806
500 783 鳥 取 80 120
。1,901 2,626 島 根 。 8 19
670 543 岡 山 。1,744 1,782
974 1, 109 広 島 49,921 86, 141
528 713 山 口 3,799 2,568
1,478 1,719 徳 島 。 939 581
88,250 97,031 香 川 。 752 927
6, 242 6, 637 愛 媛 。 515 1,346
869 1, 188 高 知 。 433 647
2,258 2, 174 福 岡 。2,094 4,623
3 35 佐 賀 。 50 225
。 917 1,758 長崎 。21,501 26,238
929 1,029 熊 本 1,210 1,008
37 32 大 分 603 550
。 787 1,377 宮崎 。 462 708
5,707 6,472 鹿児島 。2,358 3, 719
7
ます。被害状況は1948年 5月現在の調査で,被害が死亡,重傷,軽傷,行方不明に分けられ,
それらが空襲,艦砲射撃等の別に報告されています。表 6 1は,全国,および東京都,広島
県,長崎県の 3都県の被害状況を要約したもの,表 6-2は,沖縄を除く 46都道府県別の死亡
者数について,前節の議会報告と経本調査とを比較したものです。都道府県別の他に, 167都
8 立教経済学研究第45巻 第4号 1992年
市を特掲した都市別の表もあり,後ほどその一部を表13で紹介します。
表 6-2でみると,死亡者数は32部道県で増加し, 14府県で減少して,全国計では24万 1千
人から29万 9千人に増加しています。これは多くの県で被害記録の見直し,再調査がおこなわ
れた結果であると思われます。とくに広島の 3万 6千人増,]北京の 9千人増,長崎の 5千人増
など,大きな被害のあった 3都県での増加が日立ちます。その結果,この 3都県の死亡者合計
は20万 9千人になり,全国計の70%近くを占めるにいたりました。なお, O印のつけられた19
の県は,議会報告で「関係報告未着」とされた県で,経本調査ではそのほとんどが増加県にな
っています。これはおそらく,空襲のもコとも激しかった終戦直前の記録が新たに集計に加わ
った結果であると息われます。
大規模被害がーきょに発生するような場合には,警察による被害調査はお手挙げの状態にな
りますが,経本調査が行方不明を独立の被害項目として調査したのは,そのような事情を考慮
してのことだと思われます。表 6-1でみると,全国の行方不明者は 2万 4千人で,その90?ぢ
以上が東京,広島,長崎の 3都県に集中しています。
戦後 3年近く経つてなお行方不明だということは,事実上死亡したということです。いま仮
りに行方不明者を死亡者として計算すると,全国の死亡者32万 3千人,内東京10万 3千人,広
島10万 1千人,長崎2万 8千人としづ結呆になります。しかしこれでかくれた死亡者をすべて
計算に入れたということにはなりません。警察は,たとえば家族から届出があるとか,その他
行方不明とするに足る証拠があってはじめて,その人を行方不明としてとり扱います。したが
って空襲で一家全滅し,どこからも間合わせが来ないような被害者は,行方不明者としての記
録すら残しません。かくれた死亡者が多いような状況の下では,かくれた行方不明者もまた多
いと考えられます。
4. 軍人軍属の被害
経本調査に陸軍の消息不明者24万人とありましたが,これは推定であって,その段階で24万
人の名前がすべてわかっていたとは考えられません。おそらく外地へ派遣された兵員の総計か
らフすでに死亡処理のなされた者の数と帰還者の数とを差ヨlくと L、う方法で,消息不明者の総
数だけが推定されたものと思われます。しかし消息不明者の名前がわからないのでは,帰還者
から ω情報によってその消息を明かにすることもできません。そこで平の後身である引揚援護
庁は,留守家族や帰還者から情報を収集して,まず末帰還者の名簿を作成し,その上で、個人別,
部隊別,また収容所別にその情報を整理,分析して,未帰還者の生死の判定につなげるという
作業をはじめました。これがL、わゆる未帰還者調査で,在外邦人の未帰還者については,外務
省が調査を担当しました叱
未帰還者調査は, 1950年の「引揚問題jの発生を機に,本格化することになります。
1950年
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害
表7-1 未引揚者数の推定日
単位 1,000人
|終戦時数|引揚数2) l未引揚数
ソ連本土 。
満州・大連 1,945
北朝鮮 410
樺太・千島 371
計 2, 726
1)一般邦人をふくむ
2) 1946年〜1950年
470
1,271
323
293
2,357
表7-2 未帰還者調査集計表。
369
単位人
|生存者川智不明両面可 計
ソ連本土 17,841 。
満州・大連 53,948 26,492
北朝鮮 3,303 1,431
樺太・千島 2,545 874
計 77,637 28,797
1)一般邦人をふくむ, 1951.5.1.現在
2)ある時期の生存資料のある者
42,390
158,099
27,728
5,934
234, 151
3)生死の資料のない者と不確実な死亡資料のある者
4)死亡の確認された者
60,231
238,539
32,462
9,353
340,585
9
4月ソ連政府はタス通信を通じて,今や日本人捕虜の送還は完了したと戸明し,これにたいし
て日本政府は,満州・ソ連地域(ソ連本土,樺太・千島,北朝鮮〉にはなお30数万人の未引揚
者が残っていると反論して, 「引揚問題」が内外の政治問題となりました。
表 7-1と表 7-2は,この日本政府の主張を裏付けるために当時作成された資料で,いず
れも外務省発表の「引揚白書」 (1951年 7且25日〉から借用しました。表 7-1は,差引き計
算によって未引揚者数を37万人と推定したものです。しかし差引き計算の結果は,基本となる
「終戦時数」の推定の仕方によって左右されますし,またこのようにして推定された未引揚者
が,すべて生存者であるとし寸保証もありません。そこで政府は,上に述べた未帰還者調査の
結果によって立場を補強しようとしました。表 7 2は,満州・ソ連地域について, 1951年 5
月現在で未帰還者調査を集計したものです。政府はこの集計表を根拠に,未帰還者のうち「名
前のわかっている者」だけで34万人いると主張しました。その34万人のうち23万人はすでに死
亡の確認された者だということも,この調査によって判明したわけです6)。
表 7-3は,同じ地域について, 1951年の集計表と 1954年の集計表とを比較したものです。
5)厚生省引揚援護局編『続・引揚援護の記録』 1955.3 0
6〕向上,資料17〜19ページ。
10 立教経済学研究第45巻 第4号 1992年
表 7-3 未帰還者数の推移
単位入
j 1951年1)肌年1)
計 340,585 324,046
生存者 77,637 46,314
生死不明者 28,797 24, 851
死亡者 234, 151 252,881
1)いずれも 5刀 1日現在
この 3年間に一部の者の帰還があって,未帰還者計と生存者とが減少しています。他方,新た
な死亡資料によって,生存者と生死不明者の一部が死亡者に移って,結局死亡者だけが増える
という結果になっています。 1953年 3月に集団引揚げが再開され,生存者が減少するにつれて,
それ以降の未帰還者調査は,生死不明者を死亡者と認定すろための調査,つまり死亡者調査に
なりましたり。
軍人軍属については,未帰還者調子苦の実施と並行して,未帰還者の死亡者としての処理が直
ちに遺族年金の支給につながろような.比較的手厚い援護措置が講ぜちれました。比較的手厚
いというのは,軍籍をもたない在外邦人や9 内地での一般の戦災者の場合と比較してという意
味です。 1952年 4月の「戦傷病者戦没者遺族等援護法J,翌年 8月の「恩給法の一部改正」(軍
人思給の復活〉によって,軍人事属の死亡者の遺族には,遺族年金(公務扶助料〉が支給され
るようになります。その絞,遺族年金(給与金〉の支給される死亡者の範囲は,国家総動員法
による被徴用者,軍の要請による民間人の戦闘参加者等(準軍属〉にまで拡大されました。こ
の比較的手厚い援護措置は,留守家族が未帰還者調査に協力し,厚生省による未帰還者の死亡
表 8 I 軍人軍属の終戦時現存者数およ
び死亡者数一陸海軍別
単 依 1,000人
言十 陸 軍 海 軍
終戦時現存者 7,889.1 5,472.4 2,416.7
終戦前死亡者 1,940.1 1,482.3 457.8
終戦後死亡者 180.9 164.9 16.0
死亡者計 2, 121. 0 1,647.2 473.8
死亡率第 21. 6 23.7 16.5
日朝鮮人,台詩人をふくむ。
2)死亡者数は, 日中戦争関係死亡者〔陸司王181,000
人,海軍 7,700人〉をふくむ。また終戦時以降死
亡者,戦時死亡宣告によ P死亡とみなされた者お
工びその見込のある者をふくむ。在郷死者をふく
まない。
7〕前出『続・引揚援護の記録』,
資料24ページ。
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害
表 8-2 軍人軍属の終戦時現存者数およ
ぴ死亡者数一地域別口
単 位 1,000人
終現戦存者時 死亡者
日本本土(合周辺〕 4,335.5 103.9
小笠原 2〕 23.6 15.2
沖 縄 52‘1 89.4
台 湾 190.5 39.1
南朝鮮 233.5 15.9
北朝鮮 102.4 10.6
樺太千島 3〕 91. 0 11. 4
満 州 665.5 46. 7
中国本土 4) 1, 124.9 455.7
ソ 連 。 52.7
インドシナ 5) 98.2 12.4
タイ・マライ 6) 242.2 18.4
ピルマ・インド 7) 82. 8 166.9
フィリピン 127.2 498.6
インドネシア 8) 257.5 90.6
中部太平洋諸島 9) 106.9 247.2
南太平洋地域 10) 155.3 246.3
計 7,889.1 2, 121. 0
1)各地域ともそれぞれの近海域をふくむ
2)硫黄島をふくまない
3)アリューシャシをふくむ
4)香港をふくむ
5)ベトナム,ラオス,カンボジヤ
6)シンガポーノレをふくむ
7)アンダマン,ニコパノレをふくむ
8)ボノレネオ全域をふくみ,西部ニューギニヤをふ
くまない
9〕硫黄島をふくむ
10)ニューギニヤ, ビスマノレfl' ソロモン
11
認定を受入れるのに有利な条件をつくり出したものと思われます。軍人軍属の場合には,死亡
者にたいする調査と援護とが表裏一体の関係で進められたわけですペ
1964年 3月,厚生省援護局は,それまでの未帰還者調査による死亡処理にもとづいて, 「大
東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数」と Lづ集計表を作成しました。原表では陸海軍
別と地域別とがクロスされ,死亡者数が終戦前と終戦後とに分けられています。表 8-1と表
8 2は,原表を陸海軍別,地域別の 2表に要約したものです
。
まず表 8 1で軍人軍属の死亡者数をみると,陸軍 164万 7千人,海軍47万4千人で,合計
で 212万1千人となっています。この死亡者数には日中戦争期の死亡者(陸軍18万1千人,海
8)厚生省引揚援護局編『続々・引揚援護の記録』 1963- 3。
厚生省援護局監『戦傷病者戦没者遺族等援護法の解説』 1984- 8。
12 立教経済学研究、第45巻 第4号 1992年
表 8-3 遺族年金等の初度請、
求の裁定状況1)
単位 1,000件
受付件数可決件数
軍 人 I 2, 027. 9 2, 016. 2
軍属| 152.6 147. 7
準軍属| 125. 9 119. 4
計! 2, 306. 4 2, 283. 3
1) 1976年12月末現在
軍 8千人,合計18万 9千人〉がふくまれていますので,それを差ヲI\、て,前聞の経本調査の死
亡者数(表 4,表 5)と比較すると,陸軍が32万 6千人増,海軍が14万人増で,合計で死亡者
数が46万 6千人増加しています。経本調査では,陸軍の消息不明者24万人,海草の行方不明者
1万 4千人以下とされていましたが,未帰還者調査の結果,それをはるかに上回る死亡者がい
たことが判明したわけですヘ
未帰還者調査は,留守家族と帰還者とを情報源とする間接の死亡者調査ですから,表 8-1
6コ軍人軍属の死亡者数にも調査洩れがないとはいえませんが,他の資料から判断して,その数
はそれほど多くはないと考えられます。表 8-3は, 「戦没者遺族等援護法Jによる遺族年金
等の初度請求の裁定状況で,可決件数が戦没者数に当るものですが,その軍人軍属分が 216方
4=f人となっています10)。ただし,この法律では遺族年金等の受給者資格が日本国籍をもっ者
に限定されていますから,朝鮮人,台湾人の戦没者はふくまれていません。その数は厚生省調
八で軍人 8千人,軍属 4万 4千人,合計 5万 2千人といわれています。また逆に,内地で病死
した平人の一部(「勤務関連傷病」による死亡〉がふくまれています。
以上を合わせ考えると,軍人軍属の戦没者数は 220万人に近いといってよいでしょう。この
報告のはじめに,戦没者数310万人余,そのうち軍人軍属が230万人というのがよく引用される
数字であると申しましたが, 230万人としづ数字は,調査洩れを考慮しても,少し多過ぎるの
ではないかと思います。
表 8-1から, (死亡者総数〉+(終戦時現存者数十終戦前死亡者数〉で死亡率を計算するこ
とができます。死亡率は陸軍23.7弘海軍16.5%で,陸軍の方が高くなっています。表 8 2
の地域別の表では,死亡者の内訳を省略しましたので,直接死亡率を計算することはできませ
んが,原表からいくつか激戦地を拾って死亡率を計算してみると,沖縄63.4%,ピノレマ・イン
9)桑田悦・前原透共編著『日本の戦争一図解とデータ』 1982° 10に再録されたものから引用, 「厚生
省援護局昭和39年3月 1日作成,防衛研修所戦史室昭和42年7日複製」と註記されている。
なお,冨永謙吾編『太平洋戦争 5c現代史資料39)』 1975・3の「地域別日本陸海軍戦死者数一覧J
も,この1964年の集計表によったものと思われるが,一部の地域が落ちている。
10)前出『引揚げと援護30年の歩み』 698ページ。
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害 13
:r 70.5%,フィリピン 81.2%,ニューギニヤ 80.3%,ソロモン諸島 79.1%,中部太平洋諸島
(硫黄島をふくむ) 71.1%となります。たとえばフィリピンの死亡率が81.2%ということは,
フィリピンに派遣された兵員のうち,生きて日本に帰還することができた者は18.8%,つまり
5人に 1人もいなかったということです。
5. 在外邦人,沖縄住民の被害
太平洋戦争末期の特徴の一つは,地上戦が比較的日本人居留民の多い地域に及んだ結果とし
て,軍人軍属の被害が増えると同時に,戦闘に巻き込まれて死亡する民間人の数も増えたとい
うことです。それが最高頂に達したのが,沖縄戦であり,またソ連参戦後の満州でした。政府
によるこつの公式報告は,内地での空襲等による市民の被害については述べていますが,地上
c戦による在外邦人や沖縄住民の被害については一言もふれていません。
在外邦人についても,外務省によって未帰還者調査が実施されましたが,その成果は軍人事
J属の場合と比べて,かなり貧弱なものであったようです。在外邦人の場合には,一家を挙げて
移住したために留守家族がいないと L汁場合も多かったでしょうし,現地では概して個人的に
行動していたために,帰還者から得られる情報も,軍人軍属の場合と比べて少かったと考えら
れます。また死亡者にたいする政府の援護措置は,準寧属と認定された一部の者を除いて,軍
人軍属とは比較にならぬ程お粗末なものでした。
そのような事情もあってか,軍人軍属と一般人とを区別した死亡者数推定の例は,一部の地
;域を除L、て,私の知るかぎりありません。その一部の地域とは,日本入居留民がもっとも多く,
「引揚問題」が内外の政治問題となった満川・ソ連地域でした。
満州、l・ソ連地域についての若干の調査結果を紹介しますと,表 9は満州、l開拓国,義男隊,報
閣農場の在籍者について,外務省がその死亡者,米引揚者を1953年 3月現在で調査したもので
す。開拓団等は,多くの場合出身の地方が特定されており,現地でも集団として行動したので,
表9 ~1111 開拓国等の終戦時在籍者数および死亡・来
号!揚者数
単位入
開拓団 義勇隊報国農場 計
団 数 944 102 74 1, 131
千五 籍 者 243,488 22,828 4, 112 270,428
調査済団数 847 91 67 1,005
同上在籍者 213, 6631) 22, 518 4,976 241, 157(100)
河上死亡者 61, 190 3,077 1,056 65,323( 27)
向上未引揚者 23,746 2,218 623 26, 587( 11)
向上帰還者 J 128, no 17,223 3,297 149,230( 62)
1)不明者17をふくむ
14 立教経済学研究第45巻 第4号 1992年
表10 軍民別死亡者数(満~,,,,・ソ連地域〉
単位 1,000人
計 軍 民
1高 ナi'I 200.0
(168. 0 28.0 140. O)'l
樺太千島 15.0 1.5 13.5
ソ連本土 55.0 53.0 2.0
1 ) 1955年はじめ頃まて
表11 軍民別死亡者数(沖縄〉
単位入
事者 人 軍 属
正沖戦一 規縄問般 軍出参住 人身加民 65,908
28, 228 1
55. 2461 r 122, 228 ’ f 94, 000 J 38, 7541 ”
調査のカバレッジは全在籍者の89%に及んでおります。調査した在籍者のうち27%が死亡, 11
%が未引揚としづ結果になっていますが,仮りにこの比率を全在籍者27万人にあてはめると,
死亡者 7万 3千人,未引揚者をふくめて10万 3千人となりますω。
もう一つ,外務省から在外邦人の未帰還者調査を引継いだ厚生省引拐援護局の資料に,軍人
寧属と一般邦人とを区別した死亡者数の推定が出ております。それをー表にまとめたのが表10・
です加。資料の補足説明によると,満州での死亡者20万人のうち, 1955年はじめ噴までに氏名
の判明した者は軍人軍属 2万 8千人,一般邦人14万人,合計四万 8千人となっています。これ
らの数字から,満州,樺太・千島では,一般邦人の死亡者が軍人軍属をはるかに上回ったことr
一般邦人は戦闘によっても死亡したが,大量の死亡は終戦後に発生したこと,一般邦人の一部
はソ連本土に送られて,そこで死亡したことがわかります。
在満邦人は,現地住民にとっては,日本軍の武力を背景として侵入してきた外国人でした。
在満邦人の悲劇の根源もそとにあったわけですが,沖縄の場合は,事情がまったく異なります。、
沖縄人こそ現地住民でありました。しかし,多数の民間人が地上戦に巻き込まれて,正規の軍
人を上回る犠牲者をだしたという点では同じですから,便宜上ここで沖縄住民の被害について
ふれておくことにします。
1972年 5月の沖縄の本土復舟後,沖縄県は仲縄戦における日米双方の戦死者数を推定して,
発表しました。表11は,そのうちの日本側の戦死者数です。沖縄出身軍人軍属のなかには,現一
地召集で急きょ組織された防衛隊,いわば昨日まで一般住民であったような人たちがふくまれ
11 )満蒙同胞援護会編『満蒙終戦史~ 1962. 7 0
12〕前出『続々・引揚援護の記録』 177ページ, 187ページ。
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害 15
表12 地域別戦没者数1)
単位 1,000人
戦没者数 表8-2と の差
日本本土(合周辺〉 103.9 。
小笠原 15.2 。
沖 縄 186. 5 97. 1
台 湾 41. 9 2.8
南朝鮮 18.9 3.0
北朝鮮 34.6 24.0
樺太千島 24.4 13.0
i蒔ナ卜| 245.4 198.7
中国本土 465.7 10.0
ソ連モンゴル 54.4 1. 7
インドシナ 12.4 。
タイ・マライ 21. 0 2.6
ピルマ・インド 167.0 0.1
フィリピン 518.0 19.4
インドネシア 96.4 5.8
中部太平洋諸島 267.1 19.9
南太平洋地域 246.3 。
計 2,519.1 398.1
1)地域別は表 82と同じ
ています。戦闘参加者というのは,義男隊,学徒隊,救護班など,草に籍lまないが,事の指揮
一下lこ入れられた若者たちです。 9万 4千人,見方によっては12万 2千人の一般住民が,正規の
軍人軍属と共に, 「鉄の暴風」のなかで死んでいきました。これに終戦後の餓死者,病死者を
加えると,一蹴住民の死亡者は15万人に達するといわれています。県人口の 4人に l人が,沖
J縄戦の犠牲になったわけですω。
すでに述べたように,在外邦人だけを対象とした死亡者数の推定は,一部の地域を除いて一
般には見当りませんが,軍人軍属と一般邦人とを合計した(と思われる〉死亡者数の推定はあ
りますので,そこから軍人軍属分を控除することによって,各地域の一般邦人の死亡者数につ
ι、ておおよその見当をつけることはできます。
厚生省援護局は, 前の節で引用した「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数」(表
8 1,表 8-2参照〉を作成した後, 10年余経って「地域別戦没者数及び遺骨送還概見図」
とLづ形で,地域別戦没者数の推定を発表しました14)。これは1976年 1月以降の他の出版物に
も引用されていますから,おそらく 1975年頃に,遺骨収集団の収骨目標をしめすとしづ意味で
推定されたものと考えられます。
13〕沖縄県編『平和への証言ー沖縄県立平和祈念資料館ガイドブック~ 1983-12。
14)前出『号i揚げと援護 30年の歩みJ。毎日新聞社編『イ意人の昭和史(3)太平洋戦争, 死闘 1347日』
1976年1月号。冨永謙吾編著『定本・太平洋戦争』下, 1986. 6。
16 立教経済学研究第45巻 第4号 1992年
表12の左の欄がその「戦没者数」の推定で,その合計は 251万 9千人となっています。右の
欄は, この「戦没者数」と表 8-2の兵員の「死没者数」 212万 1千人とを比較して,その差
をしめしたものです15)。それを地域別にみると,満州、|の19万 9千人がもっとも大きく,沖縄のI
9方 7千人がこれに次ざ,以下北朝鮮の 2万 4千人,中部太平洋諸島(サイパン島をふくむ〉
の2万人,フィリッピンの 1万 9千人とつづきます。これらはいずれも,多くの民間人が戦闘;
に巻き込まれて死亡したといわれている地域です。この地域別の比較から判断して, 「戦没者
数J251万 9千人は軍人軍属と一般邦人との合計で, 「死没者数」 212万 1千人との差39万 8千
人は,その大部分が,厚生省によって推定された一般邦人の死亡者数であるといって差支えな
し吐息います。はじめに,沖縄住民をふくむ在外邦人の死亡者30万人というのが,一般によく
引用される数字だといいましたが,どうも厚生省は約40万人と推定しているようです。
6. 内地での空襲等による一般市民の被害
政府は戦後一貫して,内地での空襲等による一般市民の被害については,軍人軍属の場合と
ちがって,国には補償責任がないと Lづ立場をとってきました。そのことを反映して,空襲等
による死亡者のうち警察の調査から洩れた者について,生存者から情報を収集して死亡者名簿
を作成するといったタイプの全国調査(草人事属の場合でいえば未帰還者調査に当るもの〕は少
最近厚生省によっておこなわれた原爆死亡者調査の例を除いて,一般にはおこなわれておりま
せん。その結果,空襲等による被害の調査は,国に代って空襲を受けた県や市,あるいは一般
市民のク9ループによって担われることになり,また調査のやり方も,警察記録の集計から,当
時の具体的状況の判断にもとづく推定に移ってきました。
1950年代の都市別の調査としては,建設省が戦災復興都市計画事業のための基礎資料として炉
指定都市115,その他の都市100,合計 215都市について作成した模災状況調があります16)。こ
れは旧内務省の照会調査の結果をもとにして作成されたとありますから,資料源としては経本
調査と同じものと考えられますが,経本調査では特掲された都市数が 167でしたから,建設省
の調査i土全国調査ではないが,都市調査としては規模の大きなものといえます。政府は戦後し
ばらくの間,戦災都市の復興事業に高率の補助金を出していましたが,建設省の!擢災状況調は
その副産物といってよいでしょう。なおこの事業そのものは,戦災地の区画整理の困難と,相p
次ぐ国庫補助の削減とによって, 1950年代の後半には消えていきます。
15)厚生省援護局の「地域別戦没者数」の推定では,硫黄島を除く小笠原諸島の死亡者が落ちていると
忍われるので,表8 2にしたがって追加した。また表8-2の「地域別死没者数」の地域別では,
硫黄島が中部太平洋諸島にふくめられ, 「地域別戦没者数」では特掲されているので,比較のため,
表8ー2の地域別に統ーした。この点については註9〕の冨永謙吾編著書の「戦死者数一覧」にある
地域別の説明参照。
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害 17
表13 空襲等lこよる死亡者数( 3調査の比較〉
単位入
経本調査建設省調朝日新聞 |経本調査建設省調朝日新聞
全 国 215都市 229都市 愛川市 1,408 2,372 3,000 (1948. 5〕 (1959.3〕 (1991.8) 津 市 1, 885 1,498 4,000
調査地域計 299,485 336,738 432,531 大阪市 9,246 10,388 12,000
30都市計 259,482 313, 182 404,843 堺 市 1,417 1,876 1,876
27都市計 62,206 69,575 80,843 神戸市 6,789 7,051 8,400
明石市 1,360 1,464 1,496
仙台市 998 901 1,442 和歌山市 1,300 1,625 1, 20(}
目立市 1,266 l, 266 1,578 岡山市 1,678 1,678 1,737
東京区部 95,374 91,444 114, 000 広島市 78, 150 78, 150 140, 000?
横浜市 4,616 5,830 8,000 呉 市 1,939 2,062 2, 700・
川崎市 l, 001 1,001 768 ! 徳島市 570 l, 166 1,40ひ
長岡市 1,143 1, 143 1,461 高松市 927 1,273 1,359
富山市 2,149 2,275 2,275 福岡市 953 2,000 2, 500・
福井市 1,576 1,576 1,684 北九州市 2,385 2, 251 2,385
甲府市 1,027 740 1,127 大牟田市 780 780 1,291
静岡市 1,813 1, 813 2,000 長崎市 23,752 74,013 70,000
浜松市 2,447 2,947 2,947
|佐世保市 l1,030 1,030 1,030
名古屋市 8,076 8,240 7,858 鹿児島市 2,427 3,329 3,329
戦後の高度成長が挫折して,いろいろの社会問題が発生してくる1970年代に入ると,国が手
をヲ I~ 、た空襲被害の問題が,地方自治体や市民逗動のレベルでもう一度とり上げられることに
なります。空襲を受けた県や市による「戦災誌〈史〉」の刊行が盛んにおこなわれるようになり
ました。これらの「戦災誌(史〉」は,その収録された多くの資料によって,国のレベノレでは切
り捨てられてしまうような当時の具体的状況を再現してくれました17)。またこれと表裏の関係
で,全国各地に「空襲を記録する会Jが誕生して,当時の公的機関の記録の発掘・研究や,偶
人の空襲体験の記録などが市民運動の新しい流れをつくり出しましたω 。このような社会状況
の変化を背景として,全国調査の能力をもった新聞社などが,空襲と空襲被害の調査に力を説
ぐことになります。『週刊読売』 1968年 3月29日号の「全国147都市戦災調査」ゃ,本年 (1991
年) 8月14日の『朝日新聞』の全国 229都市の「空襲被災図Jなどが,その主な例です。
表13は,空襲等による死亡者 L000人以上。、ずれかの調査で〉の30都市について,経本調
査,建設省調査,朝日新聞社の調査を,死亡者数だけについて比較したものです。建設省調査
では,経本調査と比較して,調査地域が全国から 215都市に減ったにもかかわらず,死亡者数
16)建設省編『戦災復興誌』第一巻計商事業編 1959, 3。
17〕たとえば,広島市編『広島原爆戦災誌』 1971. 8〜12,長崎市編『長崎原爆戦災誌』 1973. 3〜
1983・ 3,広島県編『広島県戦災史』 1988. 6。
18)たとえば,東京空襲を記録する会編『東京大空襲・戦災誌』会 5巻, 1974,日本の空襲編集委員会
線『日本の空襲』全10巻, 1980. 4〜81. 10。
18 立教経済学研究第45巻 第4号 1992年
コ在、詞査地域計で29万 9千人から33万 7千人lニ3万 7千人増加し, 30都市計では25万 9千人から
:n万 3千人に 5万 4千人増加しています。東京都区部,広島市,長崎市のシェアが圧倒的に高
いので,これらを除いて27都市で比較しても, 15都市が増, 8都市が増減なし, 5都市が減で,
6万 2千人から 7万人に 8千人増加しています。経本調査と建設省調査とは共に警察報告にも
とづく調査ですが,その枠内でいままで洩れていた小規模の被害を新たに集計に加えるなどし
て,合計では増加したものと忠われます。
朝日新聞社の詞査では,上述の 3都市をはじめとして多くの都市で,死亡者数がラウンド・
ナンバーになっていることが在日されます。これらの都市では,警察記録をもとにしながらも
それにとらわれず,空襲被害の具体的状況に応じた推定方法がとられたものと思われます。こ
れはとくに大規模被害の発生したような都市では,警察記録だけでは死亡者数が過少になると
判断されたためでしょう。その結果,建設省調査と比較して,調査都市計で33万 7千人から43
Jj3千人に 9万 6千人の増, 30都市計で31万 3千人から40万 5千人に 9万 2千人の増, 3都市
を除いた27都市でも 7万人から 8万 1千人に 1万 l千人の増となっています。
なお,朝日j新聞社調査の広島市,長崎市の数字は1945年末までの死亡者数で, 1950年末まで
の死亡者数をとると,広島市20万人,長崎市10万人になると註記されています。これをとると,
調査229都市計は52万 3千人になります。これは229都市以外の被害,海上での被害を除いた数
字ですから,はじめにふれた内地での戦災死者50万人というのは,控え目に過ぎるかも知れま
せん。
7, 広島・長崎の原爆被害
広島・長崎の原爆被害は,ーさょに大規模被害が発生したという点で,東京都区部などと共
通性をもっていますが,また原爆被害としての特異性をもっています。それは,被爆直後には
ほとんど無傷で、, Tff外に退避した人たちが,その後何日か,あるいは何か尽か経った後に,放
射線障害の症状があらわれて死亡するというケースが非常に多かったということです。被害者
が速くまで移動していますから,広島・長崎の市内に範囲を限定した調査,あるいは範囲を県
竹にまで拡大した調査でも,死亡者を洩れなくとらえることはできません。また被爆と死亡と
の問には,長短のタイム・ラッグがあって,死亡者数は時と共に増加しますから,一回の調査
でとらえられるのはその同点までの死亡者数です。したがって,原爆被吉の実態をとらえるた
めには,全国規投の被爆者調査を, くり返しおこなう必要があります。
表14-1,表14-2は,広島・長崎両市の主要な被爆死亡者数の調査(推定〉ですが,どの
時点までの死亡者数の調査(推定〕であるかによって配却されています19)。
19)広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編『広島・長崎の原爆災害』 1979. 7,向上委員会編『原爆
災害 ヒロシマ・ナガサキ』 1985.7。
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害 19
表14-1 被爆死亡者数の調査〈推定) 表14-2 被爆死亡者数の調査(推定〉
一一広島市 一一長崎市
単位人 単位人
調査(推定〕時点 死亡者数 調査(推定〉時点 死亡者数
A 1945. 8. 20
広島県知事報告 32,959 A 1945. 8. 31
長崎県発表 19,748
B 1945.11.1
湯崎稔等推定 110, 000 B 1945. 10. 23
長崎県外務課発表 23,753
c 1945.11. 30 78, 150 c 1945. 11.1 60,000
広島県警察部発表 湯崎稔等推定 〜70,000
D 1946. 8.10 118,661 1946.1 29,398
広島市被害調査 D 増山元三郎推計 〜37,507
E 1950.10.1
ABC C調査 200,0CO E 長崎市原爆資料保存会 73,884
1961 119,0CC F 1950.10.1 140,000
F 原水協専門委員会 〜133,000 ABC C調査 以よ
広島のA, C,長崎のA, Bは,いずれも警察の死体処理(検視〉件数を基本とする従来の
方法によるものですが,時が経つにつれて死亡者数は増えています。とくに広島のCは,詳細
については不明ですが,調査の範囲を広島市に限定せず,広島県下の市町村にまで拡げたもの
のようです。その結果,死亡者数はAの2倍以上になっています。
広島のB,長崎の Cは,同じ研究グループによる1976年の推定です。これは1944年2月22日
の人口調査の結果と 1945年11月1日の人口調査の結果とを比較して,広島市とその周辺町村を
ふくむ地域,長崎市とその周辺町村をふくむ地域のそれぞれについて人口欠損値を求め,それ
らを別途推定した域外との人口移動数で調整して,被爆後11月1日までの死亡者数を推定しよ
うとしたものです。周辺町村をふくむ広い地域を比較の基礎とすることによって,「居住人口」
と「所在人口」の差をなくする工夫をしている点など,なかなか巧みな方法といえます20)。な
お, 表13の朝日新聞社の調査では,広島市 14万人,長崎市 7万人となっていますが,これは
1945年末までの死亡者数の推定で,誤差の範囲はプラスマイナス I万人である旨の註記がなさ
れています。
広島のD, F,長崎のDは,いずれも被爆距離別の死亡率を推定し,この死亡率と被爆直前
!の町別人口とから死亡者数を推定したものです。広島のDは,被爆者14万 3千人の情報に基づ
いて,死亡率を被爆後の経過期間別に推定したもので,すぐれた推定であると思います。
1950年10月1日, ABC C (アメリカ側の原爆傷害調査研究所〉の要請によって,被爆生存
者の全国調査が国勢調査の付帯調査としておこなわれましたが,広島のE,長崎の Fは,別途
20)湯崎稔・上岡洋史「人口推移からみた被爆人口ならびに死亡数の検討」,第 1報「その方法と広島の
概況」,『広島医学』 29(1976),第 2報「長崎に関する概況」,『長崎医学会雑誌』 51(1976)。註19〕
の『広島・長崎の原爆災害』より引用。
20 立教経済学研究第45巻 第4号 1992年
推定された被爆直前の「所在人口」 (1次被爆人口〉から, ABC C調査によるそれぞれの被
爆生存者数を控除して,被爆後5年以内の死亡者数〈軍人軍属をふくむ〉を推定しようとした
ものです。この推定については, ABC C調査には 2次被爆者(原爆投下後の入市者等〉がふ
くまれているのではないか(それだけ死亡者数が少くなる〉, またABC C調査には被爆者のA
非協力によって調査洩れが多いのではないか(それだけ死亡者数が多くなる〉など,疑問も残
ります。なお,表13の朝日新聞社の調査では, 1950年末までの死亡者数を広島市20万人,長崎
市10万人と推定しています。
最後に長崎のEは,枕壌直前の「所在人口」から,調査時点に長崎に居住する被爆生存者数
を控除し,別途推定した市外への人口移動数でその結果を調整したと説明されていますが,詳
細は不明です。しかし偶然Cと近い数字になっています。
以上の推定のなかには真実に近いのではないかと思われるものもありますが, しかし推定は
しょせん推定にすぎません。最近になって,ょうやく厚生省が重い腰をあげて,被爆生存者
(被爆者手帖所持者〉の全員から被爆死亡者についての情報を収集する全国調査を1985年10月
現在でおこなし、その結果を1990年 5月発表しました。この調査で,新たに広島市で 5,551人少
長崎市で 6,378人の死亡者が発見されました。その結果,両市の確認している名前のわかつて
L崎被爆死亡者の総数は29万 6千人になったとL、うことです21)。
このような調査が,被爆者にたいする十分な援護措置を背景として,戦後早い時期からおこ
なわれていたならば,原爆被害の実態はもっと明らかになっていて,上に述べたようなまわり
くどし、方法で死亡者数を推定する必要もなかったかも知れません。戦後46年,被爆者は年々高
齢化し,その数も少なくなっていきます。今日となっては, もはや手遅れの感があります。こ
のような事態にたいしては,占領体制下で原爆被害の情報を独占し,秘匿しようとしたアメリ
カ政府の責任と,国の補償責任を否定し,被爆者援護に一貫して消極的であった日本政府の責
任とが,共に問われなければならないと思います。
a. チャーチルの警句
最後に,第2次世界大戦中のイギリスの首相であったチャーチJレの言葉を紹介して,結びに
代えたいと思います。チャーチノレが「一人の死は悲劇である。しかし10万人の死は統計であ
る」といったそうです問。いかにも警句好みのチャーチルらしい言い方ですが,このチャーチ
ルの言葉を裏返しにすると,次のようになります。死者10万人とLづ統計の背後には, 10万 人
分の一人一人の悲劇があるのだ,と。このことを申し上げて,私の報告を終ります。
21〕 『朝日新聞』 1990. 5 ? l6o
22〕永井清彦訳『荒れ野の 40年ーヴァイツゼッカ一大統領演説』(岩波ブックレット〕の「翻訳に際し