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    元NYタイムズ・ストークス氏に学ぶ

    (岡山学芸館高・清秀中学園長 森靖喜) 2016.1.3 11:00

    大東亜戦争は日本が勝った。

    太平洋戦争はなかった、あったのは大東亜戦争である。、日本は白人の植民地アジアを解放した。元NYタイムズ・イギリス人、ストークス氏に学ぶ


    http://www.sankei.com/west/news/160103/wst1601030006-n1.html

    【回顧・現代を問う(7)】

    大東亜戦争は日本が勝った。

    これは厳粛な世界史の事実である。プロイセンの将軍だった、カール・フォン・クラウゼヴィッツは、ナポレオン戦争終結後の、1818年から1830年にかけて、「戦争論」を執筆した。

    クラウゼヴィッツは当時、陸軍大学校の校長だった。

    「戦争論」では、戦争の勝者を、「戦争目的を達した者」としている。戦争の勝者は、日本。敗者は、アメリカ、イギリス、蒋介石の中国、ドイツである。



    日本は白人の植民地アジアを解放した

    元ニューヨークタイムズ東京支局長のヘンリー・ストークス氏

        戦争目的 ドイツ
    人種的に優れた「ゲルマン民族」が「劣等人種「スラブ人」を奴隷化するための戦争


    戦争目的ソ連
    スターリンの指導者は、共産主義で世界を支配


    戦争目的アメリカ
    中國支配及び白人の植民地保全。


    戦争目的日本
    大東亜戦争。自存自衛のための戦争。白人植民地の解放。ABCD包囲門打破、大東亜共栄圏、自給自足圏の設立


    戦争目的 イギリス
    大英植民地帝国の維持。インド、ビルマ、マレー、ボルネオ。アフリカ


    戦争目的 中国、蒋介石
    中国大陸の政権維持。




    「侵略戦争」は連合国の宣伝、日本は白人の植民地アジアを解放した

    …元NYタイムズ・イギリス人、ストークス氏に学ぶ

    (岡山学芸館高・清秀中学園長 森靖喜) Tweet (1/4ページ)

    元ニューヨークタイムズ東京支局長のイギリス人、ヘンリー・ストークス氏

     あの戦争は、ほとんどの日本の歴史教科書が記述しているように「アジアを侵略した悪の戦争」だったのか、いやそうではなく「祖国防衛・アジア解放戦争」だったのか。それは日本の明治・大正・昭和の歴史をいかに評価するかのキーポイントである。

    植民地を日本のために失なった白人の怨念

     ヘンリー・ストークス著『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』(共著)と『英国人が見た、連合国戦勝史観の虚妄』(祥伝社新書・780円)。この2冊は全国民の必読書である。

     ストークス氏は1938年(昭和13年)英国生まれ、オックスフォード大学出身で、フィナンシャル・タイムズ、タイムズ、ニューヨーク・タイムズの各社で東京支局長を歴任。50年間にわたり日本に滞在している外国特派員の最古参記者である。

     欧米の日本特派員記者は総じて日本に批判的であり、日本文化・歴史の理解度は浅薄である。戦前の日本を「悪・侵略国家」と決め付けた「東京裁判」は正しいと言う。東京裁判を批判すると、「歴史修正主義」と非難する。したがって、南京大虐殺は当然あったとし、従軍慰安婦問題でも日本をおとしめる記事を書く。

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    【回顧・現代を問う(7)】

    「侵略戦争」は連合国の宣伝、日本は植民地アジアを解放した…元NYタイムズ・ストークス氏に学ぶ(岡山学芸館高・清秀中学園長 森靖喜)

    Tweet (2/4ページ) 元ニューヨークタイムズ東京支局長のヘンリー・ストークス氏

     何しろ日本は大東亜戦争でインド、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシア・フィリピン、ベトナムなど東南アジアなどから英国・オランダ・米・仏などを追い出した。彼ら白人は数百年間「栄耀(えいよう)栄華」の源泉であった「宝石」のごとき植民地を日本のために失なったのである。

    「猿の惑星」という映画の「猿」は日本人である

    その怨念(おんねん)は簡単には消えない。「猿」が人間を支配するという「猿の惑星」という映画の「猿」は日本人である(作者は日本軍が英国兵捕虜を虐待したとする映画「戦場にかける橋」と同じ)。それほどに有色人種で唯一、白人に刃向かった日本人への恨みは深いのである。

    南京大虐殺も中国の宣伝

     そんな中で、英国人のストークス元支局長は「欧米・中国・韓国はもとより日本の学者までが『日本は侵略した』と言うが、それは連合国の宣伝だ。南京大虐殺も中華民国の宣伝で『作り事』であったことが確定している。確かに日本が欧米諸国が支配していたアジア植民地に軍事侵攻したのは事実。しかし、それ以前に侵略して植民地にしたのは欧米諸国だ。日本は欧米の植民地を占領し、アジア諸民族を独立へ導いた。西洋人は世界史を見直すべきだ。日本はアジアを独立に導いた『希望の光』。侵略したのではなく『解放』し、独立に導いたのです」と書く。

    【回顧・現代を問う(7)】

    「侵略戦争」は連合国の宣伝、日本は植民地アジアを解放した…元NYタイムズ・ストークス氏に学ぶ(岡山学芸館高・清秀中学園長 森靖喜)

    Tweet (3/4ページ)

    元ニューヨークタイムズ東京支局長のヘンリー・ストークス氏

     また、「私は市ケ谷の防衛省内の東京裁判の法廷を訪れた。そこで行われた裁判は邪悪なもので犯罪行為だった。戦勝国が一方的に敗戦国を裁くことは許されない。戦勝国が敗戦国を裁いて一方の将兵のみを戦争犯罪人として処刑するのは復讐(ふくしゅう)であり、犯罪である。…東京裁判は数年に及んだ。その全てが不法だった」とする。

    「独立は身を殺して仁をなした日本のおかげ」

     昭和30年、後のタイ王国の首相、ククリット・プラモード氏は「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが(筆者注・日本の敗戦のこと)、生まれた子はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意をされた昭和16年12月8日(開戦の日)、われわれはこの日を忘れてはならない」と述べている。

     まもなく、予定されている安倍首相の戦後70年談話。戦勝国の宣伝に「洗脳」され日本を侵略国家とした「村山談話」、同じく慰安婦を強制連行したとする「河野談話」との決別を期待したいものである。(この記事は、平成27年7月16日付岡山県版に掲載されたものです)

    前へ 2016.1.3 11:00

    【回顧・現代を問う(7)】 「侵略戦争」は連合国の宣伝、日本は植民地アジアを解放した…元NYタイムズ・ストークス氏に学ぶ(岡山学芸館高・清秀中学園長 森靖喜)



    元ニューヨークタイムズ東京支局長のヘンリー・ストークス氏

        ◇ 大東亜戦争は日本が勝った。

    これは厳粛な世界史の事実である。プロイセンの将軍だった、カール・フォン・クラウゼヴィッツは、ナポレオン戦争終結後の、1818年から1830年にかけて、「戦争論」を執筆した。

    クラウゼヴィッツは当時、陸軍大学校の校長だった。

    「戦争論」では、戦争の勝者を、「戦争目的を達した者」としている。

    チャーチルも誰も、日本軍と戦った列強の指導者や将軍たちは、そんなことはわかっていた。日本軍と戦った側の、戦争目的は、アジアの植民地を維持することだった。しかし、結果的に、列強諸国は、第二次世界大戦中から、アジアの植民地が独立をはじめ、気づけば、数百年続いた、「欧米による植民地支配の時代」は終焉してしまった。

    さて、戦争目的を達成したのは、宗主国の欧米列強だったのか、それとも日本だったのか。



    大東亜戦争は日本が勝った。

    第一章  日本が戦ったのは「太平洋戦争」ではない

    日本は本当に敗戦国だったのか
    大英帝国を滅ぼしたのは誰か?
    大東亜戦争に勝ったのは日本だった

    第二章「太平洋戦争」史観で洗脳される日本

    大東亜戦争の果たした世界史的な偉業
    日本が閣議決定した正式な戦争名を、日本のマスコミが使えない
    アジアを日本が侵略した?
    「人種戦争」が描く大東亜戦争の姿
    世界で最初に「人種平等」を訴えた日本
    有色人種に同朋意識を持っていた日本
    「人種戦争」による日本の大義
    中国人は日本軍を救世主と崇めた
    日本軍を手助けしイギリス軍と戦った中国人
    全く逆転した人種の立場
    日本はアジアの「希望の星」だった

    第三章 日本は「和」の国である

    第四章  世界に冠たる日本の歴史

    第五章  オリエントにあった世界の文明と帝国

    第六章  侵略され侵略するイギリスの歴史

    第七章  アメリカの「マニフェスト・ディスティニー」

    第八章  白人キリスト教徒による太平洋侵略

    第九章  マッカサー親子によるフィリピン侵略

    第十章  大日本帝国と西欧列強の帝国主義の違い

    大日本帝国は侵略ではなく防衛のための帝国であった
    白人帝国ロシアの南下の脅威
    三国干渉という白人列強の侵略行為
    日英同盟はなぜ締結されたかのか
    日本による人種差別撤廃提案はなぜ踏みにじられたのか
    日英同盟廃止を望むアメリカの思惑
    ワシントン軍縮会議の謀略

    第十一章  大日本帝国は「植民地支配」などしていない

    日本はアジア最後の砦だった
    日本の朝鮮統治は「植民地支配」ではない
    日本の統治についてデタラメを書く韓国の国定教科書
    人種平等の精神に基づいて「皇民化」教育
    朝鮮王族に嫁いだ「日本の皇族・李方子女王」
    八紘一宇は「世界は一家、人類はみな兄弟」という日本の理想
    大和の国・日本には、八百万の神々がいる

    第十二章  日本は中国を侵略していない

    国連で「侵略戦争」が定義されたのは「千九百七十四年十二月」
    日本の満洲への進出は、侵略ではない
    日露戦争の勝利で満洲での権益を獲得した日本
    中国には匪賊が各地に割拠していた
    満洲の在留邦人の保護
    五族共和・王道楽土の満州国
    日本の大陸への進出は「パリ不戦条約」を犯していない
    支那事変は日本の侵略戦争ではない

    第十三章  アメリカによる先制攻撃の「共同謀議」

    我々はもっと、真実を知る必要がある
    中国の航空部隊のパイロットは、アメリカの偽装「退役軍人」だった
    戦争を仕掛けたのは、アメリカか、日本か
    日本軍航空部隊との交戦
    中国で航空ビジネスを仕掛ける
    ルーズベルト大統領が、チャイナ・ロビーに応えた
    共同謀議していたのはアメリカだった!
    シェノールドの「日本爆撃計画」
    武器貸与法をアメリカ議会に提議したルーズベルト大統領
    アメリカによる経済封鎖と輸送船への攻撃
    日米戦争を引き起こした、元凶の書

    第十四章  アメリカ大統領がアメリカ国民を欺いて日

    大統領による裏切り行為
    日本に対米戦争を起こさせるための八項目
    挑発目的での巡洋艦の出没
    合衆国艦隊司令長官がルーズベルトに反旗
    暗号解読を活用したマッカラム
    「真珠湾の奇襲」はアメリカの罠だった
    泳がされていた帝国のスパイ
    太平洋戦争はアメリカの「侵略戦争」だ

    第十五章  大英帝国を滅ぼしたのは日本だった

    大東亜戦争の虚妄と真実
    大東亜戦争開戦七十周年での講演
    大英帝国が差し違えた日本
    大東亜戦争を高く評価したイギリス人
    大東亜戦争は、アジア解放戦争だった
    ”空の神兵”の偉業
    アジアの人々は、日本軍を歓喜して迎えた
    日本よ、大東亜戦争の大義を世界に伝えよ
    神州不滅を期して



    第一章  日本が戦ったのは「太平洋戦争」ではない

    日本は本当に敗戦国だったのか
    「マッカッサーは、フィリピンで部下を置き去りにして豪州に逃げた。指揮官としてあるまじき行為だ」
    東條英樹
    「 日本は敗戦した。国土は焦土と化した。無謀な侵略戦争に国民を導いたのは、軍部の指導者だった」 これはアメリカのプロパガンダだ。
    「日本は敗戦した」という。果たしてそうだったのか

    ・ 大英帝国を滅ぼしたのは誰か?

    私が子供のころ地球儀は、一面ピンク色をしていた。
    ピンク色は大英帝国の領土を意味していた。
    事実、当時のイギリスは、全世界の4分の1をその帝国の版図としていた

    大東亜戦争に勝ったのは日本だった

    「いや日本は敗北したのだ。少なくともアメリカには焦土にされるまで。
    戦闘では完全に敗北させられた。」
    そう反論される方がほとんどだろう。アメリカ人はほぼ100%。日本人も99.9%。だが私はそうは思わない。
    戦争はルールのある国家と国家の戦いである。
    何をやっても相手国をせん滅できれば勝ちだというものではないのだ。
    まず、戦争には戦時国際法がある。
    戦争は戦闘員同士で戦われるものだ。
    一般の民間人を殺傷することは戦争のルールに反する。
    前書で私は「戦争犯罪国はアメリカだ」と論じた。
    じゃんけんでもルールがある。後だしはルール違反だ。
    後だししたほうが負けである。戦争だってそうである。
    アメリカは東京大空襲で十万人をわずか数時間で焼き殺した。
    これは短時間で最大の犠牲者を出した攻撃としては世界史の記録だ。それは広島の原爆を超えたものだ。
    しかも大虐殺されたものは戦闘員ではなく民間人だった。
    日本軍がアジアの民を大虐殺したというのは嘘である。
    日本軍がアジアで戦ったのは、欧米の植民地の宗主国である。
    そしてアジア諸国は第二次世界大戦後に残虐な大日本帝国から解放されて、独立したのではない。
    アジアを独立へと導いたのは日本軍だった。

    いったい何からの解放であり、独立だったのか。
    それは数百年にわたり、アジアを侵略し植民地支配してきた欧米からの解放であり、独立だった。

    その原動力となったのは他のいかなる国でもない、日本だった。
    大東亜戦争は日本が勝った。これは厳粛な世界史の事実である。

    第二章「太平洋戦争」史観で洗脳される日本

    大東亜戦争の果たした世界史的な偉業

    多くの日本人が日本は「太平洋戦争」を戦って、連合国に敗北したと相本気で信じている。だがそれは事実でh内。「太平洋戦争」はアメリカの戦争政策であるWGIP(ウオー ギルト インフォメーション プログラム:戦争犯罪情報プログラム)によって
     徹底的に洗脳された偽りの歴史た。

    日本が戦ったのは大東亜戦争だ。大東亜戦争の目的達成のために二百数十万名の将兵が命をささげた。
    その尊い犠牲を、その戦争の大義を、日本人は永遠に忘れてはならない。

    日本が閣議決定した正式な戦争名を、日本のマスコミが使えない

    アジアを日本が侵略した?

    大東亜戦争は、第一に自存自衛のための戦争だった。しかし、

    もう一つ「東亜新秩序建設」という目的も当初から示されていた。昭和17年2月16日の議会演説で、東條英樹首相は、次のように述べている。「大東亜戦争の目標とするところは、大東亜の各国民族をして、各々その得るところを得しめ、皇国を核心として、道義に基づく共存共栄の、新秩序を建設するところに在るのでありまして、米英諸国の東亜に対する態度とは、全くその態度を、ことにするものであります。」

    共産党などの左翼は、大東亜戦争は「侵略戦争」であったという。果たしてそうであろうか。史実を検証すると、そこには明らかに、「アジア解放戦争」の側面が見てとれる。アメリカの侵略戦争や大英帝国の植民地支配の戦争とは明らかに違った姿を現自ている。

    抽象的な理屈ではなく、歴史の事実として、戦勝国となったはずの大英帝国は、アジアにおける植民地を失い、崩壊してしまった。この現実を直視するとき私はこう判定せざるを得ない。大東戦争に勝ったのは日本だった。!!

    大東亜戦争の果たした世界史的な偉業。多くの日本人は「太平洋戦争」を戦って、連合国に敗北したと、そう本気で信じている。だがそれは真実ではない。

    「太平洋戦争」はアメリカの占領政策である、WGIPによって、

    徹底的に洗脳された、偽りの歴史だ。日本が戦ったのは「大東亜戦争」である。たかが戦争名と軽く考えてはならない。
    なぜなら大東亜戦争という戦争名には、日本軍の将兵が、命を賭して戦った、戦争の大義、理由が、込められているからである。

    大東亜戦争の戦争目的のために、二百数十万の将兵が、命を捧げた。その尊い犠牲を日本人は永遠に忘れてはならない。

    なぜ、イギリス人の私が、そんなことを言うのか。
    理由は単純明快である。その戦争によって、大英帝国が滅ぼされたからである。

    歴史を正しく記録すればそうなる。大英帝国を、いや五百年にわたって続いた西洋列国による植民地時代を、終焉させたのが、大東亜戦争だった。それは決して「太平洋戦争」ではなかった。


    もし日本軍が、アジアに侵攻しなければ、アジアにあった、欧米の植民地が、その宗主国から独立することは決してなかった。

    人種平等の世界を実現する。それが人類の「目標」であるというのであれば、日本の大東亜戦争は、大義を果たし、素晴らしい、金字塔を立てたといえよう。


    日本が閣議決定した正式な戦争名を、日本のマスコミが使えない

    1941年(昭和16年)12月8日、日本は米英と戦端を開いた。
    東條英樹内閣で閣議決定し、
    正式な戦争名を、「大東亜戦争」として、日本国内はもとより、全世界に発表した。
    日本の正式な戦争名をなぜ報道機関が使えないのか。理由は簡単で、言論統制が敷かれたからである。

    アジアを日本が侵略した?[no」

    真珠湾を攻撃した日本こそが侵略国だという印象をアメリカ人に、日本人にそして世界の人々に刷り込むためだった。
    「大東亜戦争」という用語を使用されると、アメリカが戦争を仕掛けたことや、
    日本の戦争が自衛の戦争であったこと、そして何より日本の戦争に大義があったことが露呈してしまうからだった。

    あえて直言すれば、「太平洋戦争」史観とはアメリカ追従史観どころか、アメリカ隷属史観である。

    「人種戦争」が描く大東亜戦争の姿

    「レイス・ウオー」は2001年に、ノースカロライナ大学の教授を経て、ヒュ−ストン大学で教鞭をとられるジェラルド・ホーン博士によって、出版された名著だ。
    この本は「人種戦争ー−太平洋戦争もう一つの真実」と題されて、2015年(平成27年)邦訳が出版された。

    世界で最初に人種平等を唱えた日本

    1919年第一次世界大戦のパリ講和会議の席上日本が人種差別撤廃の、提案をすると、
    オーストラリアのヒューズ首相は、、署名を拒否して席を立ち、
    議長国アメリカのウイルソン大統領も「この件は平静に取り扱う問題だ」として、日本に撤回を求めてきた。
    結果として、日本の人種撤廃提案は11対5の圧倒的多数で可決したにもかかわらず、
    アメリカのウイルソン大統領によって、葬り去られたのであった。

    有色人種に同朋意識を持っていた日本

    「猿の惑星」猿は日本人

    「人種戦争」による日本の戦争の大義

    中国人は、日本軍を救世主と崇めた

    日本軍を手助けし、イギリス軍とたたかった中国人

    全く逆転した人種の立場

    ここでも映画「猿の惑星」の世界が現実の起こってしまった。

    日本軍の香港攻略で、香港に住んでいた、イギリス人や欧米人は、驚天動地の出来事に狼狽した。無敵のはずだったイギリス軍は、あっという間に日本軍に降伏してしまった。
    ここでも、映画「猿の惑星」の世界が現実に起こった、ことに、白人たちは、恐怖のどん底に突き落とされた。
    有色人種を自分たちがどう扱ってきたかを思い起こすと、その立場が逆転することにパニックとなった。
    シンガポールでもラングーンでもジャカルタでも同様であった。
    これが「猿の惑星」の原風景である。
    日本人を「猿の惑星の猿」として表現している。フランスのパリを占領したドイツ人は「猿の惑星の猿」ではない。

    日本はアジアの希望の星だった

    日本が白人帝国のロシアをやっつけた衝撃は、
    世界中の有色民族に希望を与えた。日本軍と手を組んで大英帝国とたたかった、
    インドの英雄、スパス・チャンドラ・ポーズも、
    インド建国の父の一人となった、ネルーも
    マレー半島のマハティール・モハメッド(元首相)も。
    リー・クアンユー(シンガポール初代首相)も。
    しかし、多くの有色人種の民にとって、それは「神話」のようなものだった。
    実際に目にし、体験したことはなかった。もちろん事実として聞いていたが、
    直接に日本軍を、目にしたわけではなかった。しかし大東亜戦争は違った。
    アジアヲ植民地支配していた、白人の欧米列強の軍隊が、一瞬にして、降伏し、排除される、姿を、アジア人たちが、目のあたりにしたのだ。これは衝撃的だった。

    マハティール は
    「日本による占領は我々を一変させた」といい「日本軍は物理的にイギリス軍を排除したのみならず、我々の世界観を一変させた」と語った。
    そしてマハティール は「今日も、日本人の中に日本のアジア占領がアジア地域への侵略ではなく、アジアをヨーロッパの植民地から解放しようとしたものがいる。
    この主張は真実だ。日本の侵攻によって、我々はヨーロッパ人が絶対的なものではないと知った。
    ヨーロッパ人も負かせるだ。
    彼らも同じアジア民族ーー日本人ーーの前で卑屈になると分かった」と日本人右派の主張に賛同した。「人種戦争」にはこういった記述がふんだんに盛り込まれている。



    第七章  アメリカの「マニフェスト・ディスティニー」

    聖書の神のモーゼへの命令

    史実を言えば、全世界で有色人種の人身売買を広域展開したのは、キリスト教徒だった。

    異教徒は、、反抗するものはすべて虐殺し、殺されずに残ったものは奴隷にされた。
    奴隷は売り買いされ、馬牛と同じく酷使された。処女は強姦され、処女で亡くなった女性は性奴隷にされた。

    「反数記」では神の宣託を受けたモーゼが、神の言葉として、人々に、「男も女もすべて虐殺しろ」「男を知らない処女は分かち合え」と命じていると、高山正之死も指摘している。

    モーゼが「神の言葉」として人々に布教したからもう止まらない。

    聖書を信ずるなら、異教徒をそのように扱うのが神の御業をこの世に実現することに他ならない。

    キリスト教徒は、その神の訓戒を実行に移した。
    それが大航海時代の負の側面だった。宗教戦争が起こり、その結果として、1620年メイフラワー号によってアメリカにわたってきた。これを契機に、新天地を求めた、新教徒が、次々とアメリカ大陸に渡り、原住民を大虐殺しながら、西へ西干支開拓を進めていった。

    ローマ法王によって、加速された、大虐殺と奴隷制度

    世界史は戦争の歴史であり、それと同時に、大虐殺と奴隷制度によって、人々が、苦しんだ歴史でもある。 奴隷制度が誕生したのは、古代ギリシアであった。

    奴隷貿易に拍車がかかったのは、1452年のことだった。ローマ教皇ニコラウス二世が、ポルトガル人に「異教徒を永遠に奴隷にする許可」を与えたのだ。

    第八章  白人キリスト教徒による太平洋侵略

    「マニフェスト・ディスティニー」の西部開拓は、太平洋の侵略へ

    アメリカ合衆国を築いた清教徒たちは、「マニフェスト・ディスティニー」を掲げ、西へ身氏へと開拓を進めた。異教徒の大虐殺も、領土の開拓も、神の御旨を実現することだと信じた。
    太平洋の海岸に達するとその目は太平洋の侵略に向けられた。ハワイの侵略、グアムの侵略、フィリピンの侵略、そして日本の侵略である。ペリーの来航は、日本侵略が目的であった。

    第十一章  大日本帝国は「植民地支配」などしていない

    日本はアジア最後の砦だった
    「植民地支配」の実態

    アジア諸国は何百年もの間、白人、キリスト教徒に植民地支配されてきた。 フィリピン
    はマジェランから。スペインは1571年マニラを建設植民地支配を始めた。

    インドネシア
    はオランダの東インド会社により1603年から搾取され続けていたインドネシアであったが、オランダはインドネシアの民衆が結束しないよう、320種以上あった種族語をまとめた共通語を作ることを禁じた[13]。また、一切の集会や路上で3人以上が立ち話することも禁止され、その禁止を破ると「反乱罪」で処罰された。
    オランダは搾取をする経済の流通は華僑に担わせたりしていた。

    イギリス
    はインドを分割統治し、その分割統治内で、農業しか許さず、しかも作物を制限しました。たとえばアヘンです。
    分割は500以上の藩王国とし、名目上の藩王を許すという政策です。
    不足したものはすべて産業革命を行った、イギリスからの輸入としました。
    これでインドの全藩王国は疲弊して、飢饉が相次ぎました。
    イギリス領インド
    (1612年-1947年)
    イギリス東インド会社 1612年-1757年
    東インド会社統治下のインド 1757年-1858年
    イギリス領インド帝国 1858年-1947年
    イギリス統治下のビルマ 1824年-1948年
    藩王国 1721年-1949年
    インド・パキスタン分離独立 1947年
     インド大飢饉回数の表があります。

    18世紀 大飢饉3回 死者数不明

    1800〜25 大飢饉5回 死者100万人
    1826〜50 大飢饉2回 死者40万人
    1851〜75 大飢饉6回 死者500万人
    1876〜1900 大飢饉18回 死者1600万人
    19世紀に2000万人以上が餓死しているのです。イギリスの支配によって、インドは貧困に追い込まれたのです。

    支配者、白人と被支配者である有色人種処遇

    これは戦後まで残った、南アフリカのアパルトヘイト政策を見れば歴然です。

    黒人は人口の大多数を占めながらも、柵で囲われた中で居住し、仕事に行くときのみその柵から出られる仕組みでした。
    学校もなく教育を受けることもない、愚民政策でした。
    1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックがこの地に到来し
    以後、オランダ人移民は増加し、ケープ植民地が成立した。ナポレオン戦争終結後、19世紀初頭にケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、イギリス人が多数移住した。


    https://timeway.vivian.jp/kougi-100.html

    日本の朝鮮統治は「植民地支配」ではない

    「植民地支配」の実態で白人の植民地の被支配住民がいかなる扱いを受けたか分かりますね。

    日本の統治下でそんなことがありましたか

    呉善花女史の「なぜ反日韓国に未来はないのか」(小学館新書)には共感するものがあった。

    女史は、 次のように述べている。

    西欧列強の植民地支配は、収奪によって本国を潤し、全般的に、武力的な威圧をもって、統治し、

    文化・社会・教育の近代化と真正面から取り組まず、同化、一体化を目指すことは決してなく、あくまで異民族支配、被支配の関係を維持していくものであった。

    西欧列強は、アジアの植民地支配への反抗には容赦のない、弾圧と虐殺で臨んだ。

    オランダはインドネシアで、イギリスはインドで、フランスはベトナムでそれぞれ過酷な弾圧統治をやってきた。虐殺事件も多数起きている。

    彼らが展開した、虐殺は、三・一朝鮮独立運動のように、暴動鎮圧が行き過ぎた結果ではなく、
    抵抗・反乱への意図的な報復殺戮であり、容赦ない戒めとしての虐殺だった。

    アメリカにしてもフィリピンへの侵攻で数十万人を虐殺しているが、例えば1906年に土地制度への反発から起きた反乱に対して、戦闘員から非戦闘員である一般の老若男女まで、砦に立てこもった、600人全員を虐殺している。

    呉女史は「西洋列強のやり方は、基本的に現地からの原料収奪だった。西欧列強の投資は、いつでも引き上げつことのできる商業的投資が大部分だった。文化・教育についても、日本のように、本格的に取り組んだ国は一つもない。と結論付けている。

    日本は朝鮮半島に毎年莫大な投資を行ったが、最後まで投資過剰の赤字状態が続いたのである。
    赤字には本国からの、交付金・交際が充てられてきた。
    要するに持ち出し、持ち出しでまかなっていたのである。

    日本統治時代の朝鮮では、GDPでいうと、年率4%ほどの成長率が達成されていた。
    当時は高くても2%が諸国の成長率だったから、かなり高度の経済成長であった。
    また、農地の開墾・干拓・灌漑等の土地改良が協力に推進された。コメの生産高は、併合当時、年間千万石程度だったが、1940年には二千三百万石を超えるというように、二倍以上に伸びている。

    韓国がよく主張する、「日本は朝鮮から多くの富を収奪して、利益をむさぼり・・・」という内容は全く嘘のプロパガンダであることがわかる。

    呉女史はさらに、
    イギリスの紀行作家イザベラ・バードの、当時のソウルに関する次の記述も引用している。

    都会であり、首都であるにしてはそのお粗末さは形容しがたい。

    礼節上、二階建ての家は建てられず、したがって、推定25万人の住民は、路地のような横丁の、「地べた」で暮らしている。
    路地の多くは、荷物を運んだ牛同士がすれ違えず、荷牛と人間なら、かろうじてすれ違える幅しかなく、おまけにその幅は、家々から出た、個体及び液体のお持つを受ける穴が、見えて狭まれている。

    (時岡敬子「朝鮮紀行ーー英国婦人の見た李朝末期」講談社学術文書)

    日本の統治は、朝鮮も満洲も台湾も南洋諸島も、世界の常識とは180度違うんだ。

    極端に言えば、植民地を潤すために、本国が犠牲を払ったようなもので、それは植民地統治、植民地支配の常識とは相容れない。全く、欧米人からすれば、想像することさえできないことなのだ。

    日本の統治についてデタラメを書く韓国の国定教科書

    韓国の国定教科書は、日本の統治について、
    「1930年代後半以降(侵略戦争を遂行するために)日帝は我々の物的・人的資源を略奪する一方、
    わが民族と民族文化を抹殺する政策を実施した」と記述している。さらに、
    「 日帝の民族抹殺計画」
    として次の六項目を掲げている。

    1.内朝一体・皇国臣民化の名のもとに、韓国人を日本人として、韓民族をなくしようとした。
    2.朝鮮語の使用を禁じ、日本語の使用を強制した。
    3.韓国の歴史教育を禁止した。
    4・日本式の性と名の使用を強要した。
    5.各地に神社を立てさせて参拝させた。
    6.子供にまで「皇国臣民の誓嗣」を覚えさせた。

    中学校の教科書も高校の教科書も、実質的な内容は一切書かずに項目だけを列挙している。
    韓国人が反日になるのも不思議ではない。

    欧米の植民地支配と、決定的に違うのは、朝鮮人と日本人を少なくとも法的には、同じ日本人として、対等に扱ったのが、日本の朝鮮統治だった。
    これは列強の植民地支配からは想像を絶することなのだ。

    欧米の植民地では、植民地の有色人種は、牛や馬と同様な位置づけだった。白人と同等の権利を与えるなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだった。

    「レイス・ウオー」には面白い記述がある。

    高名な小説家のパール・パックは、中国で、神父が中国人に「キリストを受け入れないと、地獄で焼かれる」と説教したところ、

    即座に、「天国が白人だらけだったら、地獄に落ちたい」
    と切り返された都、語っている。

    白人の植民地支配に比べたら、地獄のほうがましだ、というのは実に痛烈だ。

    人種平等の精神に基づいて「皇民化」教育

    皇民化都は日本人も、朝鮮人も、皇国臣民として対等に扱うという国策だった。

    皇民化こそ人種平等の理念の実行であったことを、世界の歴史家は認識する必要がある。

    Aの「朝鮮語を禁じ、日本語を強要した」というのも全き史実に反している。
    言語を奪ったというのは全くの嘘で、史実は、朝鮮人に、ハングルの教育を施したのが、日本の統治時代であった。
    今多くの朝鮮人がハングルを身に着けているのは、言ってみれば「皇民化」教育のおかげなのだ。
    ハングルのみでは「皇国臣民」として一つになることはできない、そこで日本語の教育も行ったわけである。

    話はそれるが、中国はチベットに軍事進攻し、チベットを侵略した。
    国家元首「ダライラマ法王」はインドに亡命した。
    これは、日本でいえば中国の軍事侵攻で、天皇陛下が、カリフォールニアに亡命したような重大事態である。

    今四川省とか青海省渡河チベット自治区と呼ばれる地域は、チベット王国のあった地だ。
    中国がチベットで行ったのはまさにエスニック・クレンジング(民族浄化)だった。チベット民族は広大な、中国全土にばらばらに強制移住させられ、チベットには大量の韓民族が流入した。学校では中国語で授業が行われたため、チベット人は言語を奪われた。
    若いチベット人は中国語でしか、意思疎通ができない。
    歴史も奪われていく。僧侶でさえも、チベット語のお経が読めなくなっている。日本の朝鮮統治は全く逆だった。中国のチベット信仰と異なり、日本の朝鮮併合では、ハングルを朝鮮人に教育した。このため、低かった朝鮮人の識字率が、大幅に向上したのだ。

    「創氏改名」も「日本の性と名を強要したのではなく」朝鮮人が、自ら積極的に、日本子規の性と名を使いたいと届けたのが史実だ。
    満洲で、朝鮮人は朝鮮名であると、中国人に馬鹿にされるから、日本名にしたいと望んだのだ。日本名であれば中国人に優越感が持てるからだ。しかしこれは強制ではなく、希望者のみであった。

    逆に、例えば終戦時の道知事のなかには三名も「姓」をそのまま「氏」とした知事がいるし、軍人のなかにも洪思翊中将の例もある。さらに、三・一独立宣言の起草者の一人であった作家・李光洙のように自ら積極的に創氏改名した人もいたことは紛れもない事実である。

    台湾でも「創氏改名」は適用されたが台湾では、希望者は、少なかった。

    事実が歪められた「創氏改名」

    http://www.seisaku-center.net/node/194 呉女史によると「法令では氏名とあるだけで、「日本式の氏名にせよ」という規定は一切なく、次の三点に従って、施行された。

    1.創氏は6か月間を期限とする届け出制。届け出なかったものは、朝鮮子規の姓がそのまま氏として設定される。

    2.創氏をしても、従来の姓がなくなることはなく、氏の設定後も、元来の姓及び、本貫はそのまま戸籍に残される。

    3.改名は何時してもよい。

    「韓国の歴史の教育を禁じた」というのも事実と異なる。呉女史は次のように述べる。

    総督府は本土と同じ普通学校制を施行した。そして、日本語、朝鮮語、算数,日本史、朝鮮史、朝鮮伝統の修身、等の教育を公立学校を中心に展開した。また国立大学(京城帝国大学)の設置、文学、芸術の活性化など等の文化政策を、推進した。新たに設置された学校は1000校に上った。

    特筆すべきは、日本統治下の朝鮮では、日本人と一緒に、朝鮮人も、授業を受けていたことである。逆説的に言えば、日本人は朝鮮人と同じ教育を日本統治下の朝鮮で受けていたことになる。

    イギリスのインドや香港の統治でイギリスの白人とインド人や中国人が、一緒に学校教育を受けるなどあり得なかった。植民地の先住民に対して、宗主国が教育を熱心に施す、ことなど考えられない。南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)と同様に、宗主国の欧米列強の白人学校に、先住民を入学させ、共に学ぶなどということは、想像することさえできなかった、

    この意味でも、日本の朝鮮統治は、欧米の「植民地統治」等とは、全く違う、別次元、別世界、のことだったといってい

    朝鮮王族に嫁いだ「日本の皇族・李方子女王」

    日本の朝鮮統治において、イギリス人の私が、何より驚いたのは、日本の皇族が、朝鮮の王族に、嫁いだ事実だった。イギリスの王室が、植民地となった、インドの王族に嫁ぐであろうか。それは想像を絶する、関係といえる。

    白人、キリスト教徒にとって、キリスト教に改宗しない、有色人種など、虐殺対象だった。
    キリスト教に改宗すれば、最下層の人間ともみなされるが、そうでなければ、奴隷か猿扱いだった。インド人も中国人も相であった。人間が去ると婚姻を結ぶことをどう考えるかなど、それ自体、が罪深いことだったろう。
    それはタブーだ。禁忌である。

    その背景があるから、日本の皇族から、朝鮮の王族に嫁がれた、李方子女王のことを知った時には、衝撃を受けた。 日本が朝鮮を「合邦して、対等に扱おうとした」ことが理屈抜きに理解できた。今の時代でもイギリスには階級がある。階級の下の未婚の若い女性が、同じように未婚の階級が上の女性に、話しかけることすらはばかられるほどである。結婚となれば今の日本だって容易ではない。百歩譲って、リッチな家に貧しい家に生まれた、女性が嫁ぐことはあっても、逆はほとんどない。 明治政府は日韓融和を掲げ、日本の皇室と朝鮮王族を同等に待遇していた。 ヨーロッパ各国の王族の婚姻は、政略結婚であっても、それは宗主国と植民地の関係ではない。 八紘一宇は「世界は一家、人類はみな兄弟」という日本の理想
    大東亜戦争と同様「八紘一宇」もGHQが使用を禁止した表現の一つだ。なぜGHQが使用を禁じたのか。理由はおのずから透けて見える。「八紘一宇」という概念を持ち出されると、日本の戦争の大義がいかに正当なものであったか、分かってしまうからだ。「八紘一宇」とは「世界は一つの家」という意味である。 大和の国・日本には、八百万の神々がいる

    日本は「大和の国」、大きな「和」の国だということだ。 聖徳太子の17条の憲法でも「和をもって尊しとなす」と定めている。欧米列強が南北アメリカで、インディオやインディアンをアフリカで黒人たちを、アジア各地で有色民族を虐殺し、奴隷にし、搾取していたのとは、日本は全く違う思想、精神、理想を持っていた。それが「八紘一宇」である。世界は一家、人類の諸民族はみな兄弟、という思想、精神、理想である。それは植民地支配と葉全く違った。 第十二章  日本は中国を侵略していない

    国連で「侵略戦争」が定義されたのは「千九百七十四年十二月」

    日本は、戦争によって、「アジアの人々を虐殺し、罪を犯した」ぬぐい切れないのだ。
    しっかりと洗脳されている。GHQのWGIPの効果は絶大だ。しかし国際連合で「侵略戦争」が提議されたのは中東戦争以降のことなのだ。1974年12月14日、、国連の安全保障理事会で初めて「侵略が定義された」 日米戦争時「侵略」の定義はなく「侵略戦争」の定義もなかった。

    重要なことに自衛戦争か「侵略戦争か」を決めるのに「自己解釈権」があることだ。当然日本も「大東亜戦争は自衛戦争だった」と東京裁判で訴えた。

    日本の満洲への進出は、侵略ではない

    大きな争点の一つは満州事変,支那事変が果たして、日本の侵略戦争だったかどうかということである。尊雄ことを理解するには、米軍の日本駐留を考えてみると分かりやすい。

    当たり前だが、現在の米軍の駐留は、侵略では全くない。条約に基づいて、他国の軍隊が、駐留しているだけのことだ。満洲も同じことだ。条約に基づいて、日本軍が駐留していたにすぎない。満洲の智頭を見ると、満洲が朝鮮の北側に位置していることがわかる。

    万里の長城が東に延びた、東端のあたりから北にある。万里の頂上の外側に位置しているということは、そこは中国(支那)ではない。支那の敵である異民族の野蛮な偏狭だったことを、歴史的に位置づけられてきたのだ。ちなみに中国のことを英語ではチャイナ、という。フランス語では、Chine.ドイツ語、スペイン語では、China、イタリア語では、Cina となる。いずれも、「支那」のことである。1899年義和団の乱がおこり、翌年には北京まで波及した。

    乱が満洲まで及ぶとロシアは 全満洲を占領してしまった。日露戦争がまじかな時期には、ロシアは新潮の官吏が満洲に入るのに、ロシアの役人の許可が必要だった。満洲はロシア領だったのだ。

    日露戦争の勝利で満洲での権益を獲得した日本

    日本が日露戦争で勝利し、アメリカのポーツマスで、講和条約を締結した。
    この条約で日本はロシアの満洲での権益を獲得したのだ。満洲は公正明大に日本の権益であった。満洲は日露戦争の陸の主戦場であった。日本陸軍の輝かしい、戦闘の勝利を飾り「陸軍記念日」(3月10日)となった、開戦上の奉天は満洲にある。

    よく知られている満州事変についての「リットン報告書」は「満洲とシナ」を混同しているところがあるが、日本の立場に理解を示しているところも多い。
    リットン報告書は満洲における日本の権益について「1906年8月、日本は東清鉄道等の権益を管理するために、南満州鉄道株式会社を設立した。日本政府は満鉄に鉄道とその付属財産、並びに、撫順,煙台の炭鉱を提供する代償として、同社の株式の半額を持ち、、同社を統制する地位を得た(略)満洲に流入する朝鮮人は日本国籍のため、日本人役人はそう言った朝鮮人を管理するために、満洲における県リハ間接的に大きくなった。」と論じている。

    中国には匪賊が各地に割拠していた

    中国には匪賊が各地に割拠していた。そのため住民は苦渋を重ねていた。
    満洲の在留邦人の保護

    日本は侵略戦争によって満洲や、中国に入ったのではない。渡部教授が「リットン報告書」の解説で、いみじくも語られているように、「国際条約によって、満洲の租借権を獲得したのだ。」 中国には匪賊が各地に割拠していた。

    満洲でも顕著であった。 日本軍は満洲での日本人を保護するため、駐在の権利が与えられていた。

    五族共和・王道楽土の満州国

    国連では41:1危険1で採択された「リットン報告書」は満州国の承認を「一切排除する」等としていた。 ところが満州国について諸外国が次々と承認することとなった。

    1934年バチカン(4月)サルバドル(5月)
    1937年(昭和12年)イタリア(11月)スペイン(12月)
    1938年(昭和13年)ドイツ(2月)
    1939年(昭和14年)ハンガリー(1月)
    1940年(昭和15年)汪兆銘政権(11月)ルーマニア(12月)
    1941年(昭和16年)ブルガリア(5月)フインランド(7月)タイ、デンマーク(8月)
    1942年(昭和17年)クロアチア(8月)
    1943年(昭和18年)ビルマ(8月)フィリピン(10月)

    正式に15か国 といった具合だ。たにも事実上承認を与えた国として、旧ポーランド、リトアニア、のるうえー、リベリア、ドミニカ、ボリビア、ネパール、ソ連等がある。

    8か国以上 合計23か国、全体44か国の過半数。が実質承認。

    満洲を訪れたフィリピンの外相は、日本が満洲に建設した豊満ダムを見学して、「フィリピンはスペインの植民地として350年、アメリカが支配して40年になるが、住民の向上になるものは何一つ作っていない。満洲は建国僅か10年で、このようなダムを建設したのか」と感慨深く述べた。

    各国が、満洲国を承認した事情は、このフィリピン外相の言葉がよく表している。

    五族共和・王道楽土の満州国の満州国であった。

    日本の大陸への進出は「パリ不戦条約」(1919年)を犯していない

    アメリカもパリ条約について「国際平和へ三桁段階としては木って一枚ほどの価値もない」と述べた。
    日本の外務省は良い見解を示していたしその見解は権威があった。

    「不戦条約(パリ条約の日本の呼称)自らの国益追及のために戦った、国の戦争に適用されていない。

    ノールズ教授は「その国の領土主権を守る戦争に二も適用されない」と書いている。具体例として「イギリスが主権を主張する、インドに関連して、イギリスが起こす戦争に適用されない」と書いていた。(レビュー・ディプロマティック)

    ノールズ教授は、満州鉄道のような日本の権益は、「1905年の日露戦争ののち、パリ条約以前に獲得したもので条約違反云々とは無関係に守られるべきである。」と論じた。

    実際満州事変ののち、
    日本に対してはパリ条約違反だと非難が集中した。日本外務省は「満洲一帯で、高まる、ロシアやドイツの脅威から、日本の権益を守るために、関東軍は満洲に進攻したものだ」と説明した。

    支那事変は日本の侵略戦争ではない

    通州事件
    7月29日には、日本の同盟軍であった冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、抗日側に転じて、日本軍特務機関・日本人・朝鮮人居留民に対して虐殺を実施した通州事件が発生[26][30]。同日同時刻に29路軍が天津の日本人租界を攻撃した[26]。この通州事件は日本軍民に暴支膺懲の意識を強く植え付けることとなる[31]。

    また1932年の休戦協定を無視してライフル、機関銃、カノン砲などを秘密裏に持ち込んでいた[32]。翌8月10日、上海領事は国際委員会で中国の平和維持隊の撤退を要求し、外国人委員はこれに賛成し、O.K.ユイ(兪鴻鈞)中国市長も全力をあげて解決すると述べたが、翌8月11日、O.K.ユイ中国市長は「私は無力で何もできない」と日本側へ通告した[32]。 8月12日、中国軍部隊が上海まで前進し、上海日本人租界区域を包囲した[32]。8月13日早朝、日本海軍陸戦隊へ攻撃をしかけた[32]。

    翌8月14日には中国空軍は上海空爆を行うが日本軍艦には命中せず上海租界の歓楽街を爆撃、外国人をふくむ千数百人の民間人死傷者が出た[33][34]。

    第二次上海事変の勃発により日中全面戦争に発展した[注釈 5][36][注釈 6][注釈 7][注釈 8]。日本政府および軍部は上海への戦火波及はのぞんでいなかったとする見解もある[32][34]。近衛内閣は8月15日、「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲し、南京政府の反省を促す」との声明を発表し、戦争目的は排日抗日運動の根絶と日本満洲支那三国の融和にあるとされ

    第十三章  アメリカによる先制攻撃の「共同謀議」

    我々はもっと、真実を知る必要がある

    アメリカの太秋の多くは日本軍の真珠湾攻撃は、卑劣な奇襲攻撃だったと思っている。
    世界の認識もそうだ。しかし実際は違う。

    一部には「ジャパン ワズ コーナード ラット」と形容する専門家もいる。日本は(窮鼠 猫をかむ)( の状態だったという意味だ。

    我々アメリカ人も英国人ももっと実際はどうだったのか、検証する必要がある。

    中国の航空部隊のパイロットは、アメリカの現役「退役軍人」だった。フライング・タイガース

    「第二次大戦前、中国の航空部隊のパイロットは、アメリカ人だった」というと、「ええーっつ」とびっくりする、方もいる。他方「知っている、フライング・タイガースのことだろう」そういう方々もいらっしゃる。

    「フライング・タイガース」はアメリカの退役軍人が、義勇兵として、参加したものといわれている。果たしてそうだろうか?アメリカ軍に復帰すると、退役前の階級に戻れたり、様々な福利厚生を受けられたりした。これは純粋な「義勇兵」とはいいがたい。

    その中心人物が、クレア・リー・シェノールドという、アメリカ陸軍航空隊の将校だった。アメリカ政府はフライング・タイガースを「特別航空戦隊」「義勇兵部隊」と呼んでいた。中国を植民地にしていた、イギリス政府は、「国際航空隊」との故障を使用した。

    戦争を仕掛けたのは、アメリカか、日本か

    「フライング・タイガーズ」は単にアメリカの退役軍人が、義勇兵として、中国軍の航空部隊のパイロットとして、いたという話ではない。むしろ、その実態は、日本の対英米戦争を十分正当化し得るものだ。

    日米戦争が「日本による、卑劣な、真珠湾奇襲で始まった」というネガティブ・キャンペーンに対し、「それは逆ではないか」と反駁できるだけの十分な証拠がそこにはある。

    果たして、日米戦争は、日本の侵略戦争だったのか?塩谷氏によれば、次のごとし。

    1941年、7月23日、合衆国大統領、ルーズベルトは、「陸海軍合同委員会計画JBーを335」と名付けられた、極秘作戦を承認した。中国本土から発進する、爆撃機隊で、宣戦布告なしに日本の主要都市を爆撃する計画だった。実行日は、41年11月。

    真珠湾攻撃の1か月前とされていた。

    この計画を立案したのはシェルノート大尉(のち減益復帰して少将)中国の蒋介石にやとわれていた彼に、日本爆撃の命令を与えたのは、ハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、モーゲンソー財務長官、ーー「プラス4」と呼ばれる、ルーズベルト大統領の側近たちである。もちろん大統領自身も深くかかわっていた。フライング・タイガーズが中国軍であれば、アメリカ大統領の承認謎一切必要ない。

    日本軍航空部隊との交戦

    「先制攻撃」の著者、アラン・アームストロングは当時の中国の状況をこう説明している。

    上海には、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの管轄下で運営される、数多くの租界があった。これらは西洋諸国が、中国に対して、軍事力を行使することによって、中国からせしめた、いわゆる「条約港」である。中国は分断国家だった。

    事実、このころの中国は統一国家というより、外国の属領だったといえよう。1937年の中国を考察するうえでこの点はよく踏まえる必要がある。当時のシナは独立国ではなかった。 国民党が政権を発足していたが、むしろ西洋れっこくの「傀儡」とも位置づけられる政権だった。 この点からすれば、日本はシナで欧米列強と闘っていたと考えることもできる。

    実際に中国空軍の指導をしていたのはシェノールトだった。

    中国で航空ビジネスを仕掛ける

    ルーズベルト大統領が、チャイナ・ロビーに応えた

    わたしは、ワシントンで、鋭敏にして、聡明な宋子文の直属の部下になった。宋博士はウッドレー・ロードにある、大邸宅を拠点にして、中国側のキャンペーンを指揮していた。とシェノールドは自著「一人の戦士の生き方」のなかで語っている。宋子文は宋美齢の兄である。

    1940年の秋には蒋介石の個人的な「代理」を務めていた。

    宋子文の影響力は親しい人物からうかがい知れる。ハル国務長官、モーゲンソー財務長官、ノックス海軍長官、スチムソン陸軍長官、大統領のスピーチライター、でハーバード出身の弁護士コーラン、大統領補佐官のカリー(実は共産党のスパイだった)。

    宋子文は大統領と頻繁に昼食を共にしていた。1940年12月8日の昼食会で、宋子文も活動はクライマックスだった。会食は大統領夫妻、モーゲンソー財務長官夫妻、宋子文夫妻。

    昼食会でテーマとなったのは、便箋4枚にタイプされた、蒋介石の、覚書だった。詳細はs−ノルドの「先制攻撃」に記載されているが、

    重要なので引用する。秘密覚書の第5パラグラフで、蒋介石は、「アメリカ、イギリスの訓練センターから」派遣される、パイロットと整備士によって機能する、200機の爆撃機と300機の戦闘機からなる、特別航空戦隊を提案している。

    蒋介石は「イギリスとアメリカのパイロットが、中国で軍用機を操縦すると、複雑な問題になるから、この航空戦隊の地位を特別にする必要があるだろう。と述べている。さらに蒋介石は「この航空戦隊は中国で結成され、日本が来春に予定しているシンガポール攻撃が始まる前に活動すべきだ」この蒋介石の提案に、

    ルーズベルトは、「中国が日本を爆撃するなら結構なことだ」と応じている。

    共同謀議していたのはアメリカだった!

    その2日後、1940年12月10日、モーゲンソー財務長官はハル国務長官と会談し、大統領と蒋介石の密約の話のためだ。

    ハルは、モーゲンソーが話す前に、中国人に500機の爆撃機で日本を攻撃させようといった

    。密約は実行に移された。「対中爆撃機ファイル」というものが存在する。モーゲンソーの手記だ。1940年12月20日、モーゲンソーがに話した内容。大統領は蒋介石の覚書にたいそうご満悦だった。大統領は、ハル国務長官、モーゲンソー財務長官、ノックス海軍長官、スチムソン陸軍長官、に内容を指示したと。

    シェノールドの「日本爆撃計画」

    1940年12月21日モーゲンソーの自宅で密会。出席はモーゲンソー、宋子文、毛邦初将軍、シェノールド だった。シェノールドが「日本爆撃計画」を説明した。B17重爆撃機を用いる。パイロットは1000$の月給なら、十分な人数を米軍、現役から、除隊できる。・・・・

    日本軍の真珠湾攻撃は「スニーク・アタック」つもり卑怯なだまし討ちと呼ばれる。しかし、この攻撃こそ「だまし討ちだ」攻撃を担う将兵も「義勇軍」とは言えない。アメリカの大統領や閣僚が、その意思決定に加わって、「元米軍将校」を外国の軍隊に派遣するなど、「偽装部隊」で戦時国際法違反であろう。国籍偽装であるからだ。

    アメリカ軍が戦争に参戦するならアメリカ国籍の部隊として、参戦すべきなのだ。国籍を偽装して攻撃するなど、まさに「スニーク・アタック」そのものだ。 武器貸与法をアメリカ議会に提議したルーズベルト大統領
    アメリカによる経済封鎖と輸送船への攻撃
    1941年7月「対日石油全面禁輸令」を実施し、 経済封鎖に合わせて、ボルネオから南の地域で、日本に物資を輸送する一切の輸送船に、潜水艦で攻撃することが決定した。日本に向かう輸送船への攻撃は公海で行うこととし具体的な準備が進められた。こうして決定は日米開戦の半年も前から決定されていた。 日米戦争を引き起こした、元凶の書

    反日世論の養成

    世論形成の役割を担ったのは、1938年に、元国務長官、スチムソンを長官とする「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」だった。この委員会の主張は、「日本は中国を侵略している。その日本の軍需品は、半分はアメリカから輸入されている。すなわちアメリカは日本の侵略者の共犯者になっている。

    アメリカは日本との貿易を、犠牲を払っても、中止すべきだ」というものだった。この委員会の会員は、YMCA とYWCAが中核で、千万人の会員を有していた。この運動のために作られた、野が「日本の戦争犯罪に加担しているアメリカ」という80ページの、冊子だった。最終的にはこの影響で、1941年7月、「中國基地を使った、重爆撃機B17による日本本土爆撃計画への、ルーズベルト大統領の承認だった。

    第十四章  アメリカ大統領がアメリカ国民を欺いて日

    大統領による裏切り行為
    「卑劣な日本軍による真珠湾だまし討ち」ということを、ルーズベルトは、演出して、アメリカ国民を騙し、戦争を始めた。アメリカを開戦へと導いた、ルーズベルト大統領こそが卑怯ものだった。

    ルーズベルトが日本軍の真珠湾攻撃を把握していたことは、2000年に出版された、「真珠湾の真実ーールーズベルト大統領欺瞞の日々」ロバート・R・スチネット著に詳しい。

    日本に対米戦争を起こさせるための八項目

    アーサー・マッカラムはアメリカ陸軍情報部、の極東課長だった。1940年夏、世論調査が行われた。ヨーロッパ戦争への参加を田津ネル質問には大多数が反対だった。ルーズベルトは、いかにすれば日本を日米戦争に引きずり込めるかばかり考えていた。マッカラムは少佐になっていた。

    この計画を立案したのがマッカラムだった。マッカラム少佐は5ページ、8項目からなる、覚書を作成した。それは、ハワイのアメリカ陸海軍部隊、及び、太平洋地域の、イギリスとオランダに駐屯する前哨部隊を日本に攻撃させることをもくろんだものだった。8項目は次のとおりである。

    A.太平洋のイギリス軍基地、特に、シンガポールの使用について、イギリスとの協定締結。
    B.蘭領インド(インドネシア)の基地施設の使用、および補給物資の取得に関するオランダとの協定締結。
    C.中国の蒋介石政権にあらゆる支援の提供。
    D.遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊をフィリピンまたはシンガポールに派遣する。
    E.潜水艦隊二隊を極東に派遣する。
    F.太平洋、ハワイ諸島にいるアメリカ艦隊主力の維持。
    G.日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒絶すること。
    H.イギリスが日本に押し付ける、同様の通商禁止と、協力して行われる、日本との全面的な通商禁止。この「マッカラム覚書」はルーズベルトが読んだ決定的な証拠がある。

    マッカラムの8項目提案は早速翌日から実施に移されたという。1941年を通じてルーズベルト大統領の対日政策は、一貫して「日本を挑発」することで、日本に戦争行為を起こさせることであった。

    挑発目的での巡洋艦の出没

    マッカラムの覚書からはルーズベルトの指紋が検出されている。

    巡洋艦は、瀬戸内海の豊後水道まで侵入した。
    日本の海軍省は、グルー中日アメリカ大使に、次のように抗議指定rt。「7月31日の夜、宿毛湾に停泊中の、日本官邸は、2席の巡洋艦を発見した。日本官邸が血数いていくと巡洋艦は南に逃走した。海軍の将校はそれら巡洋艦が米海軍のものと信じている・・・・」しかし日本海軍は一発も発砲しなかった。

    合衆国艦隊司令長官がルーズベルトに反旗

    暗号解読を活用したマッカラム

    ミッドウエイの勝利はアメリカ海軍が、日本海軍の暗号29種の一つ、D暗号を破った結果であった。

    D暗号を破った結果としてハワイ攻撃への山本指令長官の電報2通がある。

    第1:機動部隊は11月26日、単冠ワンを離れ・・・12月3日・・・の地点で、燃料補給を完了すべし。
    第2:起動艦隊は・・・・・在ハワイ艦隊を攻撃し、致命的、打撃を加えるものとする。・・・・・。対米交渉成立の場合には、速やかに帰投すべし。

    山本長官の電文そのままではないか!

    「真珠湾の奇襲」はアメリカの罠だった

    先の日本海軍の暗号電報の解読に見られるように、アメリカおよび、アメリカ軍は、日本軍の真珠湾攻撃を知っていた。日本軍の攻撃はアメリカ軍上層部にとっては奇襲でもだまし討ちでも全くなかった。

    ルーズベルト大統領や、「罠」をかけたアメリカ軍は、日本軍の余りの成果が想定外であった。

    泳がされていた帝国のスパイ

    太平洋戦争はアメリカの「侵略戦争」だ

    これが私の認識であり、問題提起だ。
    実っ本は「大和」。大いなる和の国であ。外国に攻め入ることもなく、国と平和を維持してきた。

    朝鮮併合も、支那への軍の展開も、条約に基づくもので、侵略ではない。 満州事変も支那事変も「中国が戦争を仕掛けてきた」と断じることはできても、日本は何処までも、平和裏に 事態を終結したかった。だから「事変」という位置づけを崩さなかったのだ。

    いわゆる南京大虐殺は蒋介石政権のプロパガンダである。

    通行人の頭の上に、ビルの上から、鉄骨が落ちてきて来ていて、このままでは、このままでは、通行人に死の危険が及ぶというときに、他の通行人を突き飛ばしても、それは暴力ではない。法的には「緊急避難」と呼ばれている。日本を極限まで脅かしたのはアメリカだった。
    つまり、アメリカによる侵略行為であり、侵略戦争だったということである。

    第十五章  大英帝国を滅ぼしたのは日本だった

    大東亜戦争の虚妄と真実
    チャーチルはもとより、多くの英国人が、誇りに思う大英帝国は、日本が大東亜戦争を戦ったことで滅びたのだ。

    大東亜戦争開戦七十周年での講演

    わたしには、ネーサン・クラークという叔父がいる。叔父(英軍大尉だった)はアメリカとイギリスの二つの国籍を持っていた。
    叔父は、1941年の初頭から、インドに展開している、イギリス軍部隊に、所属していた。鋭い観察力を有する叔父だったが、その叔父から聞いた話である。

    1941年中ごろ、叔父は、イギリスの統治下にあった、ビルマ(現、ミャンマー)のラングーン空港に降り立った。そこで、膨大な数のアメリカの爆撃機が展開しているのを目の当たりにしわが目を疑った。アメリカは対日戦争の準備を着々と進めていたのだ。
    叔父は言葉をつづけた。「アメリカ政府が、ルーズベルト大統領は、アメリカ国民を欺いていた。・・・・

    叔父からラングーンで膨大な数の米軍の爆撃機を見た、6か月後、1941年12月8日、未明、日本海軍は、ハワイ真珠湾の米海軍を攻撃した。

    アメリカはそれに対して「卑怯極まりない日本は極秘裏に大艦隊をハワイに侵攻させ、宣戦布告することなく、休日(日曜日)を楽しんでいる、罪もない人々に、奇襲攻撃を仕掛けた」と、自国の反日感情をあおった。アメリカの世論は、一気に日米開戦へと傾いた。開戦に消極的だったアメリカ人が、一斉に戦争に向かっていった。

    しかし叔父が目撃していたことからわかるように、アメリカは着々と戦争準備を始めていたのだ。「太平洋戦争」は日本が始めたものではなかった。アメリカがしたくて仕掛けた戦争だった。

    大英帝国と差し違えた日本

    2016年夕刊フジに乗った、倉山満氏へのアンケート
    。 倉山氏は「日本が行った、大東亜戦争は、大日本帝国と大英帝国とが差し違えた戦争だった」と述べている。戦場となった、アジアの国々を見れば、インドネシアとフィリピンこそ、オランダとアメリカの植民地だったが、マレーシア、ブルネイ、シンガポール、ビルマ、インドはすべてイギリスの植民地。つまり、大東亜戦争の本質は、「英国&(彼らから利益を得ていた)華僑」VS「日本&(白人に支配されていた)植民地アジアの人々」の戦いだった。しかも終盤まで、日本側の全戦全勝だった。そう、倉山氏は論じていた。

    大東亜戦争を高く評価したイギリス人

    イギリスのマウンテンバッテン卿は東南アジア連合軍司令官だった。彼は戦後日本の業績として次の3点を挙げている。

    1:欧米軍を東南アジアで一挙に撃破した。それ以前には、アジア諸民族はとても欧米の軍隊にはかなわないと思っていた。
    2:日本軍は、戦争中の短期間に、これらの諸民族を訓練し、軍事的な能力を与え、愛国心を掻き立てた。植民地下で「猫」のようにおとなしかった現地人は「虎」のように変身し、独立を達成した。
    3:インドネシアでは日本軍は「インドネシア大衆に武器を奪われた」という巧妙な口実で、彼らに武器を渡した。これがインドネシアの独立戦争を勝ち抜く力となった。

    また、ウッドバーン・カービン少将は、イギリス軍が作成した、
    「対日戦争史第5巻・日本の降伏」の中で、同じように言っている。(The war against Japan Vol.5 Surrender of Japan)

    日本軍は、インドネシアだけでなく、インドに対しても、ビルマに対しても独立の裏付けとなる軍事力を持たせました。現地人を、教育し、武器を与えて、軍隊組織を創り上げ、彼らの独立精神を、奮起させたのです。独立心をあおるだけでなく、具体的に軍隊組織を創り上げたところが、日本軍政のユニークさであり、素晴らしさでした。世界に冠たる大英帝国を崩壊させた、最大のインパクトを与えたのは大日本帝国でした。

    大東亜戦争は、アジア解放戦争だった

    1941年日本は、最後の最後、ギリギリまで、和平を求めていた。しかし、なにがなんでも、戦争を日本に起こさせたかったのが、アメリカのルーズベルト大統領だった。日本はルーズベルトによって、開戦に追い込まれた、のだった、それが真実です。

    1941年11月5日、御前会議における決定。・・・ 帝国は現下の危機を打開して、自存自衛を全うし大東亜の新秩序を建設するためこの際対米英蘭戦争をけついし・・・・
    自存自衛と大東亜の新秩序建設 がしっかりと宣言されている。

    ”空の神兵”の偉業

    「空の神兵」とは大東亜戦争の緒戦、
    1942年(昭和17年)2月14日、当時蘭印(オランダ領、インドネシア)のスマトラ島、パレンバン製油所に、パラシュート降下、無償で占領した、日本の陸軍空挺部隊のことである。

    「神兵」とは「神の兵隊が空から舞い降りてきて、白人の植民地支配に苦しむインドネシアの人々を救ってくれる」という現地の神話さながらに、空挺部隊が空から舞い降りてきたからである。

    大東亜戦争、南方作戦はパレンバンの石油の確保が目的だったといっても過言ではない。その先頭で殊勲を挙げた、奥本実中尉、は当時21歳、部下たちに「本日の給養は靖国においてす」と告げ、空から舞い降りた。

    わたしが驚いたのは、先帝陛下がまだ現人神といわれたころ、1943年に、22歳の奥本中尉に単独拝謁を賜れたことだった。

    アジアの人々は、日本軍を歓喜して迎えた

    多くの日本人が知らない史実がある。

    日本軍がアジアに進攻すると、現地の人々は、歓喜して、日本軍を迎えたことだった。
    350年にわたって、オランダが植民地支配し搾取し続けたインドネシアでもそうだった。
    しかしインドネシアだけではない。イギリスが支配した香港でもそうだった。ニューギニアや南太平洋諸島でもそうだった。インドでも、マレーでも、シンガポールでも、ベトナムでも、ビルマでも、白人ではない現地の人々は、日本軍の侵攻は歓喜をもって迎えられた。そうしたことが「人種戦争」に詳しく書かれている。

    大東亜戦争では日本はアジアの人々を敵として戦ったのではない。アジアを侵略していた白人列強と闘い勝って、白人を追い出したのだった。

    「人種戦争ーーーレイス・ウオー   太平洋戦争もう一つの真実」ジェラルド・ホーン著、藤田裕行 訳  祥伝社

    日本よ、大東亜戦争の大義を世界に伝えよ

    世界史の観点から見れば、他民族に支配されたり、侵略されたり、征服されたりせずにずうっと歴史を保っている国がある。
    それが日本だ。
    さらにその国は、今も白人列強の中にあって、唯一の有色人国家として、先進七か国首脳会議に出席している。
    日本人はそのことに、自信と誇りを持つべきだ。

    しかし、多くの日本人は、国家に誇りを持つことに抵抗を感じている。なぜか?
    日本は「戦争犯罪」を犯した悪い国だと、そう思い込まされているからだ。

    本当に、日本は悪い国だったのか。わたしは違うと思う。

    日本は世界史において、偉業を達成した。
    大東亜戦争を戦ったことだ。大東亜戦争は侵略戦争などではない。日本は戦争犯罪など犯していない。

    戦争犯罪がどうのこうのというのであれば、まず「戦犯」とされるべきは、白人列強諸国だ。この500年間は白人列強諸国が有色民族の地を侵略してきた歴史に他ならない。

    アジアを侵略したのは、白人列強諸国だった。そのアジアを解放したのが大東亜戦争だった。

    神州不滅を期して


























































































    Tweet (4/4ページ)

    元ニューヨークタイムズ東京支局長のヘンリー・ストークス氏

        ◇  森靖喜(もり・やすき) 昭和16年、岡山市生まれ。明治大学大学院卒業後、43年から金山学園(現・岡山学芸館高校)の教諭、岡山市教育委員長などを歴任。現在は岡山県私学協会長、学校法人・森教育学園理事長、岡山学芸館高校・清秀中学校学園長、教育再生をすすめる全国連絡協議会世話人。専門は政治学。


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    朝日の慰安婦捏造問題を世界に発信するため、 かなり正確に伝えている英語での解説記事

    << 作成日時 : 2014/09/17 23:35 ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

    546 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/09/16(火) 21:45:03.69 ID:haGQZXNu0

    朝日の慰安婦捏造問題を世界に発信するため、 かなり正確に伝えている英語での解説記事を見つけました。 拡散をお願いします。

    Asahi Shinbun Fabricated the story of “Korean Sex Slaves”
    Jonny Skywalke
    朝日新聞が、捏造し、世界に宣伝した性奴隷
    上記が消されていれば
    Asahi Shinbun Fabricated the story of “Korean Sex Slaves”
    Jonny Skywalke
    朝日新聞が、捏造し、世界に宣伝した性奴隷


    Jonny Skywalker

    Monday, September 15, 2014

    Reveal of the Structure of how Asahi Shinbun Fabricated the story of “Korean Sex Slaves” and Propagated to the World and the Vast Implication of This Reveal

    1. Reveal of Asahi Shinbun’s Fabrication of the Story of “Korean Sex Slaves”

    On August 5, 2014 Asahi Shinbun, the second largest liberal newspaper in Japan, announced that its articles that reported atrocities of Japanese military hunting over 2,000 Korean women and forcing them to work as sex slaves were fabricated stories, and apologized and retracted all 16 related articles that were published in the 80s and 90s.

    This incidence is another example of the rise of public opinion that is empowered by the internet that enabled rigorous scrutiny of facts. It is now very difficult for the mass media to fabricate false story and create misperception.

    The implication of the reveal of this fabrication extends to the credibility of U.S. media, especially the New York Times, some U.S. politicians that have been excessively compliant to their local Korean constituents, United Nations Commission on Human Rights that filed Coomaraswamy report which was based partly on false facts, Korean diplomacy and Japanese diplomacy in general. These parties have neglected, on various extents, the simple principle ? to be fact based.

    2. The Reveal of the Structure of how Fabricated Story Became De Facto International Perception

    The allegation that Japanese military forced Korean women to work as a sex slave during World War II started to become an international issue since the 80s. The structure of how Asahi Shinbun fabricated the story of “Korean Sex Slaves” and propagated to the world to make it an international issue is now revealed:

    First, there is Asahi’s ideology that shapes their view to be pro-communist China and pro- North and South Korea.

    Based on this ideology, Asahi has been fabricating articles (with the obvious intention it is not simple misreporting). Asahi will then persuade the New York Times (which its Tokyo bureau is located inside the Asahi Shinbun’s headquarters) to report the story in the U.S. Then Asahi will report back in Japan that the global media NYT is reporting a story that is now a global issue. Asahi will also persuade Korean media to report in Korea. The fabricated story will be amplified throughout this structure bouncing back and force among Asahi, NYT, South Korean media. Eventually, U.S. politicians, international organization such as UNHCR, Korean and Japanese diplomacy will be dragged into the structure of amplification.

    3. The Breach of the Amplification Structure The acknowledgement by Asahi that the basis of its allegation was false directly hits the fundamental basis of the entire amplification structure. Although too much amplification had already been made, it is significant that the basis is destroyed. On September 14, 2014, Japanese Prime Minister Shinzo Abe noted that Asahi Shinbun should do its best to explain to the world ? to unwind the amplification.

    The incident highlights the rise of public voice empowered by the internet that increased public’s ability to cross examine facts. Asahi was pushed to admit their mistake after over 30 years of denial (despite the repeated suggestion on the inaccuracy of the articles), because the public now have access to more reliable facts. Mass media such as Asahi Shinbun that fabricate story to justify their ideology rather than to report factual news will be eventually be scrutinized.

    4. Implication to the U.S. Media, Politicians, UN committees, and Japanese Diplomacy

    U.S. media:

    U.S. media that were intentionally or unintentionally involved in the amplification structure should re-examine the fact and its own reporting. Admitting the errors in the past reports would be necessary, especially the New York Times. Fact based reporting is required rather than reporting what some loud voice is claiming.

    U.S. Politicians that is involved in setting up monuments in the U.S. based on fabricated story:

    While getting the vote of Korean constituents must be attractive, U.S. politicians should stay away from such activity that is based on false story as true molarity will be eventually examined.

    United Nations Commission on Human Rights:

    U.N. reports that are based on false allegation should be retracted or corrected.

    Korean diplomacy:

    Koreans should stop using the story of “sex slaves” to try to keep the moral upper hand against Japan as the facts will eventually fire back as evidenced in the recent loss of interest to Korea in Japan.

    Japanese diplomacy:

    Japanese diplomacy has been incapable and allowed defamation of Japanese citizens by Asahi Shinbun and the amplification structure. Here again, the past action by the government was not fact based. For example Japanese chief cabinet secretary Yohei Kono made a statement, without facts, that Koran women were forced to become comfort women (sex slaves) .Diplomacy has to be fact based as well.

    5. End note

    The structure of creating and amplifying fabricated story is now breached. Asahi decided to admit this and other fabrications, including false reporting regarding the evacuation of workers at Fukushima Nuclear power plant and false interview reporting on a Japanese manufacturing company. Fabricated reporting will be eventually criticised in this era and mass media should revert to the principle of fact based reporting rather than focusing on spreading its ideology.

    Posted by Jonny Skywalker at 9:19 AM

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    ジョニーSkywalkerbrbr

    9月15日月曜日、2014r

    朝日新聞がどのように「韓国の性の奴隷」の物語をでっち上げて、世界とこのRevealbrbrの巨大な意味に広がったかという構造の顕現

    1. 「韓国のSex Slaves"」のストーリーの朝日新聞のFabricationの顕現

    2014年8月5日に朝日新聞(日本の2番目に大きい自由主義の新聞)が2,000人以上の韓国の女性を捜していて、彼らに性の奴隷として働くことを強制している日本の軍隊の極悪さを報告したその記事がでっち上げられた物語で、謝罪して、80年代と90年代に発表された全16の関連記事を撤回すると発表したこと。

    This発生率は、事実の厳しい詳細な調査を可能にしたインターネットで公的な権限を与えられる世論の高まりのもう一つの例です。 マスメディアが虚偽の話をでっち上げて、誤認をつくることは現在非常に難しいです。米国のメディア、特にニューヨークタイムズ、彼らの地元の韓国の有権者に極端に素直だった一部の米国の政治家、部分的に間違った事実に基づいたクマーラスワーミー報告を送ったHumanライツの国連委員会、韓国の外交と大方の日本の外交の信憑性に、この作り事の顕現のThe意味は及びます。 これらの党は、いろいろな範囲の上で、単純な主義を怠りました?事実based.である

    2. でっち上げられた物語がどのように事実上の国際的なPerceptionになったかという構造の顕現

    日本の軍隊が韓国の女性に第二次世界大戦の間の性の奴隷として働くことを強制したという申し立ては、80sから国際問題になり始めました。 朝日新聞がどのように「韓国のSex Slaves」の物語をでっち上げて、国際問題にするために世界に広がったかという構造が、現在明らかにされます:

    1番目に、プロ-共産主義者中国とプロ-南北韓国である彼らの見方を形づくる朝日のイデオロギーがあります。このイデオロギーに関してBasedしました、

    朝日は記事をでっち上げていました(明らかな意図でそれが単純でないこと誤って報告します)。

    それから、朝日は、米国Then朝日の物語が世界的なメディアNYTでは現在世界的な問題である物語を報告していると日本で帰って報告すると報じるよう

    ニューヨークタイムズ(局がそうであるその東京が朝日新聞の本部内で見つけた)を説得します。

    朝日は、韓国で報告するよう韓国のメディアも説得します。 でっち上げられた物語は、立ち直っているこの構造と力を通して朝日、NYT、韓国のメディアの間で拡大されます。 結局、米国の政治家、国際組織(例えばUNHCR)、韓国人と日本の外交は、拡大の構造に引きずり込まれます。

    3. 拡大構造の違反

    その申し立ての基礎が直接間違っていた朝日による承認は、全拡大構造の基本的な基礎を打ちます。 あまりにたくさんの拡大がすでになされたが、基礎が破壊されることは重要です。 2014年9月14日に、日本の安倍晋三首相が朝日新聞が世界に説明する最善を尽くさなければならない点に注意したことを?amplification.をほどく

    一般の声の高まりが交差する市民の能力を増やしたインターネットで公的な権限を与えた事件ハイライトは、事実を調べます。 市民が現在より信頼できる事実にアクセスするので、朝日は30年以上の否定(記事の不正確の上の度重なる提案にもかかわらず)の後彼らの間違いを認めるために押されました。 結局、事実のニュース意志がscrutinized.であることであると報告するよりはむしろ、彼らのイデオロギーを正当化するために物語をでっち上げる朝日新聞のようなマスメディア

    米国メディア、政治家、国連委員会と日本のDiplomacyへの含み 米国のメディア:

    拡大構造に故意に、または、意図せずに関係していた米国のメディアは、事実とそれ自身の報道を再検査しなければなりません。 エラーを過去のレポートに入れることが、必要です(特にニューヨークタイムズ)。 事実ベースの報道は、若干の大声が要求しているものを報告しているよりはむしろ、必要とされます。

    でっち上げられた物語に基づく米国で記念碑を建てることに関係している米国のPoliticians:

    韓国の有権者の票を得ることが魅力的でなければならない間、米国の政治家は結局正確なモル濃度が調べられて、虚偽の話に基づくそのような活動から離れていなければなりません。

    Humanライツの国連委員会:

    虚偽の申し立てに基づく国連レポートは、撤回されなければならないか、corrected.でなければなりません

    韓国の外交:

    Japan.brbrで韓国に関心の最近の損失で明示されるように結局事実が反撃して、韓国人は日本に対して道徳的な優勢を保とうとするために「性の奴隷」の物語を使うのを止めなければなりません

    日本の外交:

    日本の外交は無能で、朝日新聞と拡大構造で日本の市民の中傷を許しました。 ここでは二度と、政府による過去の行動は、拠点を置く事実でありませんでした。 たとえば、事実(女性がそうであったコーランは.Diplomacyが同様に拠点を置く事実であるために持っている従軍慰安婦(性の奴隷)になることを強制しました)なしで、日本の官房長官河野洋平は、声明をしました。

    5. 終わりnote

    でっち上げられた物語をつくって、拡大する構造は、現在破られます。 朝日はこれと他の作り事を認めることに決めました。そして、日本の製造会社を報道している福島Nuclear発電所と虚偽のインタビューで労働者の避難に関して虚偽の報道を含みました。 結局、作られた報道はこの時代に批判されます、そして、マスメディアはそのideology.を広げることに集中するよりはむしろ、報告して拠点を置く事実の原則に戻らなければなりません

    午前9時19分のでジョニーSkywalkerによって掲示されます

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    徹底検証!「従軍慰安婦」問題は朝日新聞の捏造から始まった

    http://jisin.jp/serial/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/flash/5267

    韓国の李明博大統領が竹島に上陸して以来、日韓関係がぎくしゃくしている。大統領は上陸前「日本は従軍慰安婦問題を心から謝罪していない」と述べ、一連の問題の発端が慰安婦問題にあると発言した。

    だが、8月21日、橋下徹大阪市長は「従軍慰安婦問題で強制連行があったという確たる証拠はない」と述べ、8月24日には石原慎太郎都知事も「はっきり言って強制ではない。強制した証拠がどこにありますか」と語っている。では、いったい、どうしてこの問題が騒がれ続けるのか。



    '82年9月2日付けの朝日新聞では、昭和18年夏、わずか1週間で朝鮮・済州島の若い女性200人を狩り出したという吉田清治氏の懺悔が大々的に取り上げられていた。吉田氏は女工から海女まで手当たり次第に拉致し、慰安婦に仕立てあげたというのだ。

    「当時、われわれは『狩り出し』という言葉を使っていた…泣き叫ぶというような生やさしいものではない。船に積み込まれる時には、全員が虚ろな目をして廃人のようになっていた…」



    これ以後、吉田氏は朝日新聞紙面に何度も登場し、従軍慰安婦の悲惨さを語り尽くした。だが、現代史家の秦郁彦氏はこう語る。

    「吉田証言は完全な作り話なんです。証言が本になってすぐ現地の『済州新報』が取材しているが、一つも事実が見つからなかった。私も'92年に現地調査しましたが、証言を裏付ける話は何一つ出てこない。ある韓国の郷土史家は何年も調査し、拉致の事実はなかったと断言、吉田氏の本を『日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物』とこき下ろしてるんです」

    つまり吉田氏は本を売って儲けるため、嘘八百を並べ立てたというのだ。実際、吉田氏は「証言は捏造だった」と後に認めている。その後も、従軍慰安婦問題を取り上げ続けた朝日新聞も《氏の著述を裏付ける証言は出て



    おらず、真偽は確認できない》('97年3月31日付)と暗に誤報を認めている。

    しかし、この証言は独り歩きし、いまでは「日本軍が韓国人女性を性奴隷にした」という噂が国際的に広まってしまったのである。慰安婦問題は、この証言を始まりに日本の左翼が種を蒔き、それに韓国が乗っかって花を咲かせたのだ。秦氏は吉田氏を祭り上げた朝日や同調した歴史家の罪は重いと言う。

    では、この問題を大きく育てた朝日新聞は「捏造問題」にどう答えるのか。取材を試みたが、返ってきたのは「締め切りまでに回答できません」というもの。日韓関係をここまでめちゃくちゃにした謝罪の言葉は、いっさいなかった。



    (週刊FLASH 9月11日号)

    devilmanX bot ?@devilmanX1 59分 従軍慰安婦

    命名は千田夏光

    捏造は吉田清治

    煽った青柳敦子 ウソと断言 済州新聞

    なのに拡散 朝日の植村隆と福島瑞穂

    証拠も無いのに認めたのが加藤紘一

    おわびと反省したのが河野洋平

    これを国会で問題にしたのが中山成彬

    画像を消しているのがNHKの



    1時間 【拡散希望】【永久保存版】尖閣諸島、南京大虐殺・従軍慰安婦 英語チラシ→




     

    尖閣諸島、南京大虐殺・従軍慰安婦 英語チラシ 英語チラシ

    日本の主張が満載!知り合いの外国人に拡散しましょう!





    http://www.hr-party.jp/new/wp-content/uploads/2012/10/2c6b01bbc17ee9379831430e0c9809fc.pdf http://www.hr-party.jp/new/wp-content/uploads/2012/10/ba1738d2b5683d98e4ac4e669ee023f7.pdf




    Report No. 49: Japanese Prisoners of War Interrogation on Prostitution従軍慰安婦に関する米軍調査報告:戦場売春婦の実態調査結果ビルマ Report No. 49:

    Japanese Prisoners of War Interrogation on Prostitution

    http://www.exordio.com/1939-1945/codex/Documentos/report-49-USA-orig.html

    UNITED STATES

    OFFICE OF WAR INFORMATION

    Psychological Warfare Team

    Attached to

    U.S. Army Forces

    India-Burma Theater APO 689

    Japanese Prisoner of War Interrogation

    Report No. 49.

    Place interrogated: Ledo Stockade

    Date Interrogated: Aug. 20 - Sept. 10, 1944 Date of Report: October 1, 1944

    By: T/3 Alex Yorichi

    Prisoners: 20 Korean Comfort Girls

    Date of Capture: August 10, 1944 Date of Arrival: August 15, 1994 at Stockade

    PREFACE

    This report is based on the information obtained from the interrogation of twenty Korean "comfort girls" and two Japanese civilians captured around the tenth of August, 1944 in the mopping up operations after the fall of Myitkyin a in Burma.

    The report shows how the Japanese recruited these Korean "comfort girls", the conditions under which they lived and worked, their relations with and reaction to the Japanese soldier, and their understanding of the military situation.

    A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers.

    The word "comfort girl" is peculiar to the Japanese. Other reports show the "comfort girls" have been found wherever it was necessary for the Japanese Army to fight. This report however deals only with the Korean "comfort girls" recruited by the Japanese and attached to their Army in Burma. The Japanese are reported to have shipped some 703 of these girls to Burma in 1942.

    RECRUITING;

    Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia. The nature of this "service" was not specified but it was assumed to be work connected with visiting the wounded in hospitals, rolling bandages, and generally making the soldiers happy.

    The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the basis of these false representations many girls enlisted for overseas duty and were rewarded with an advance of a few hundred yen.

    The majority of the girls were ignorant and uneducated, although a few had been connected with "oldest profession on earth" before. The contract they signed bound them to Army regulations and to war for the "house master " for a period of from six months to a year depending on the family debt for which they were advanced ...

    Approximately 800 of these girls were recruited in this manner and they landed with their Japanese "house master " at Rangoon around August 20th, 1942. They came in groups of from eight to twenty-two. From here they were distributed to various parts of Burma, usually to fair sized towns near Japanese Army camps.

    Eventually four of these units reached the Myitkyina. They were, Kyoei, Kinsui, Bakushinro, and Momoya. The Kyoei house was called the "Maruyama Club", but was changed when the girls reached Myitkyina as Col.Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina, objected to the similarity to his name.

    PERSONALITY;

    The interrogations show the average Korean "comfort girl" to be about twenty-five years old, uneducated, childish, and selfish. She is not pretty either by Japanese of Caucasian standards.

    She is inclined to be egotistical and likes to talk about herself. Her attitude in front of strangers is quiet and demure, but she "knows the wiles of a woman."

    She claims to dislike her "profession" and would rather not talk either about it or her family. Because of the kind treatment she received as a prisoner from American soldiers at Myitkyina and Ledo, she feels that they are more emotional than Japanese soldiers. She is afraid of Chinese and Indian troops.

    LIVING AND WORKING CONDITIONS;

    In Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house (usually a school building) with a separate room for each girl. There each girl lived, slept, and transacted business. In Myitkina their food was prepared by and purchased from the "house master" as they received no regular ration from the Japanese Army.

    They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places. This was especially true of their second year in Burma. They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles. They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmetics to supplement the many gifts given to them by soldiers who had received "comfort bags" from home.

    While in Burma they amused themselves by participating in sports events with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners. They had a phonograph and in the towns they were allowed to go shopping.

    PRIOR SYSTEM;

    The conditions under which they transacted business were regulated by the Army, and in congested areas regulations were strictly enforced. The Army found it necessary in congested areas to install a system of prices, priorities, and schedules for the various units operating in a particular areas. According to interrogations the average system was as follows:

    1. Soldiers

    10 AM to 5 PM

    1.50 yen

    20 to 30 minutes

    2. NCOs

    5 PM to 9 PM

    3.00 yen

    30 to 40 minutes

    3. Officers

    9 PM to 12 PM

    5.00 yen

    30 to 40 minutes

    These were average prices in Central Burma. Officers were allowed to stay overnight for twenty yen. In Myitkyina Col. Maruyama slashed the prices to almost one-half of the average price.

    SCHEDULES;

    The soldiers often complained about congestion in the houses. In many situations they were not served and had to leave as the army was very strict about overstaying. In order to overcome this problem the Army set aside certain days for certain units.

    Usually two men from the unit for the day were stationed at the house to identify soldiers. A roving MP was also on hand to keep order. Following is the schedule used by the "Kyoei" house for the various units of the 18th Division while at Naymyo.

    Sunday

    18th Div. Hdqs. Staff

    Monday

    Cavalry

    Tuesday

    Engineers

    Wednesday

    Day off and weekly physical exam.

    Thursday

    Medics

    Friday

    Mountain artillery

    Saturday

    Transport

    Officers were allowed to come seven nights a week. The girls complained that even with the schedule congestion was so great that they could not care for all guests, thus causing ill feeling among many of the soldiers.

    Soldiers would come to the house, pay the price and get tickets of cardboard about two inches square with the prior on the left side and the name of the house on the other side.

    Each soldier's identity or rank was then established after which he "took his turn in line". The girls were allowed the prerogative of refusing a customer. This was often done if the person were too drunk.

    PAY AND LIVING CONDITIONS;

    The "house master" received fifty to sixty per cent of the girls' gross earnings depending on how much of a debt each girl had incurred when she signed her contract.

    This meant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen. She turned over seven hundred and fifty to the "master". Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.

    In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.

    The interrogations further show that the health of these girls was good. They were well supplied with all types of contraceptives, and often soldiers would bring their own which had been supplied by the army.

    They were well trained in looking after both themselves and customers in the matter of hygiene. A regular Japanese Army doctor visited the houses once a week and any girl found diseased was given treatment, secluded, and eventually sent to a hospital. This same procedure was carried on within the ranks of the Army itself, but it is interesting to note that a soldier did not lose pay during the period he was confined.

    REACTIONS TO JAPANESE SOLDIERS;

    In their relations with the Japanese officers and men only two names of any consequence came out of interrogations. They were those of Col. Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina and Maj. Gen.Mizukami, who brought in reinforcements. The two were exact opposites.

    The former was hard, selfish and repulsive with no consideration for his men; the latter a good, kind man and a fine soldier, with the utmost consideration for those who worked under him. The Colonel was a constant habitue of the houses while the General was never known to have visited them. With the fall of Myitkyina, Col. Maruyama supposedly deserted while Gen. Mizukami committed suicide because he could not evacuate the men.

    SOLDIERS REACTIONS;

    The average Japanese soldier is embarrassed about being seen in a "comfort house" according to one of the girls who said, "when the place is packed he is apt to be ashamed if he has to wait in line for his turn". However there were numerous instances of proposals of marriage and in certain cases marriages actually took place.

    All the girls agreed that the worst officers and men who came to see them were those who were drunk and leaving for the front the following day. But all likewise agreed that even though very drunk the Japanese soldier never discussed military matters or secrets with them.

    Though the girls might start the conversation about some military matter the officer or enlisted man would not talk, but would in fact "scold us for discussing such un-lady like subjects. Even Col. Maruyama when drunk would never discuss such matters."

    The soldiers would often express how much they enjoyed receiving magazines, letters and newspapers from home. They also mentioned the receipt of "comfort bags" filled with canned goods, magazines, soap, handkerchiefs, toothbrush, miniature doll, lipstick, and wooden clothes. The lipstick and cloths were feminine and the girls couldn't understand why the people at home were sending such articles. They speculated that the sender could only have had themselves or the "native girls".

    MILITARY SITUATION;

    "In the initial attack on Myitleyna and the airstrip about two hundred Japanese died in battle, leaving about two hundred to defend the town. Ammunition was very low.

    "Col. Maruyama dispersed his men. During the following days the enemy were shooting haphazardly everywhere. It was a waste since they didn't seem to aim at any particular thing. The Japanese soldiers on the other hand had orders to fire one shot at a time and only when they were sure of a hit."

    Before the enemy attacked on the west airstrip, soldiers stationed around Myitkyina were dispatched elsewhere, to storm the Allied attack in the North and West. About four hundred men were left behind, largely from the 114th Regiment. Evidently Col. Maruyama did not expect the town to be attacked. Later Maj. Gen. Mizukami of the 56th Division brought in reinforcements of more than two regiments but these were unable to hold the town.

    It was the consensus among the girls that Allied bombings were intense and frightening and because of them they spent most of their last days in foxholes. One or two even carried on work there. The comfort houses were bombed and several of the girls were wounded and killed.

    RETREAT AND CAPTURE;

    The story of the retreat and final capture of the "comfort girls" is somewhat vague and confused in their own minds. From various reports it appears that the following occurred: on the night of July 31st a party of sixty three people including the "comfort girls" of three houses (Bakushinro was merged with Kinsui), families, and helpers, started across the Irrawaddy River in small boats.

    They eventually landed somewhere near Waingmaw, They stayed there until August 4th, but never entered Waingmaw. From there they followed in the path of a group of soldiers until August 7th when there was a skirmish with the enemy and the party split up. The girls were ordered to follow the soldiers after three-hour interval. They did this only to find themselves on the bank of a river with no sign of the soldiers or any mea ns of crossing. They remained in a nearby house until August 10th when they were captured by Kaahin soldiers led by an English officer. They were taken to Myitleyina and then to the Ledo stockade where the interrogation which form the basis of this report took place.

    REQUESTS

    None of the girls appeared to have heard the loudspeaker used at Myitkyina but very did overhear the soldiers mention a "radio broadcast."

    They asked that leaflets telling of the capture of the "comfort girls" should not be used for it would endanger the lives of other girls if the Army knew of their capture. They did think it would be a good idea to utilize the fact of their capture in any droppings planned for Korea.




    iso14001環境ISO生命に満ちた青い地球を守ろう


    。 レポートNo.49:

    売春についての日本の捕虜質問

    http://www.exordio.com/1939-1945/codex/Documentos/report-49-USA-orig.html

    アメリカ合衆国

    戦争情報の職 心理戦争チーム

    付随されます 米陸軍軍隊

    インド-ビルマ劇場

    APO 689

    日本の囚人 戦争Interrogationの No.49を報告してください。

    調べられる場所: Ledo柵

    調べられる日付: 8月20日−1944年9月10日 レポートの日付: 1944年10月1日

    署名: T/3つのアレックスYorichi 囚人: 20人の韓国の快適さの女の子

    捕獲の日付: 1944年8月10日 到着の日付: 1994年8月15日

    Stockadeで

    序文

    Myitkyinの落下の後活動を吸い取る際に1944年8月10日ごろ捕らえられる20人の韓国の「快適さの女の子」と2人の日本の一般人の質問から得られる情報に、このレポートは基づきますでビルマ。

    これらの韓国の「快適さの女の子」(彼らが生きて、働いた状況、日本兵との彼らの関係と反応と軍事情勢の彼らの理解)を、日本人がどのように入れたかについて、レポートは示します。

    「快適さの女の子」は、兵士のために日本軍に付けられる売春婦または「プロの同調者」以外の何物でもありません。 「快適さの女の子」という語は、日本人に特有です。 他のレポートは、日本軍が戦うことが必要だった場合はいつでも、「快適さの女の子」が見つかったことを示します。 しかし、日本人によって入れられて、ビルマで彼らの軍に勤務している韓国の「快適さの女の子」だけを、このレポートは、扱います。 日本人は、1942年にビルマにこれらの女の子の約703人を出荷したことが報告されます。

    新人採用;

    1942年5月の初めに、東南アジアの新しく征服された日本の領土で韓国の女の子を「快適さサービス」に参加させる目的で、日本のエージェントは、韓国に到着しました。 この「サービス」の性質は指定されませんでした、しかし、病院で負傷者を訪ねて、包帯を転がして、一般に兵士を幸せにすることと関係がある仕事であると、それはされました。 これらのエージェントにより使用される誘因は、多くのお金、家族の負債を清算する機会、簡単な仕事と新しい土地(シンガポール)での新生活の見込みでした。 これらの虚偽の説明に基づいて、多くの女の子は海外勤務のために入隊して、数百円の前払いで報いられました。

    2、3が前に「地球上の最も古い職業」と関係があったが、大部分の女の子は無知で無教育でした。 昇進した家族の負債に従い6ヵ月から1年まで彼らを軍規に、そして、「住宅マスター」のための戦争に密接に結びついて、彼らがサインした契約 ...

    これらの女の子のおよそ800人はこのように入れられました、そして、彼らは1942年8月20日のまわりをラングーンに日本の「住宅主人」と着地しました。 彼らは、8から22までグループの中に来ました。 ここから、彼らはビルマのいろいろな地域に、通常日本の軍キャンプの近くの公平な大きさの町に配布されました。

    結局、これらの単位の4つは、Myitkyinaに着きました。 彼らはそうでした、キョーエイ、キンスイ、Bakushinroと桃屋。 キョーエイ・ハウスは「丸山クラブ」と呼ばれていたが、Col.Maruyama(Myitkyinaの駐屯軍の指揮官)が彼の名前に類似性に反対したので女の子がMyitkyinaに着いたとき変わりました。

    個性;

    およそ25年年をとっていて、無教育で、子供っぽくて、利己的であることを、質問は平均的な韓国の「快適さの女の子」が示します。 彼女は、かなりコーカサスの標準の日本人によるどちらでもありません。 彼女はegotisticalにしたいと思って、彼女自身について話すのが好きです。 知らない人の前の彼女の態度は静かで控え目です、しかし、彼女は「女性の策略を知ります」。

    彼女は、「職業」を嫌って、それまたは彼女の家族について話したくないと主張します。 彼女がMyitkyinaとLedoのアメリカの兵士からの囚人と認めた親切な処置のため、彼女は、彼らが日本兵より感情的であるのを感じます。 彼女は、中国でインド軍隊が怖いです。

    生活と労働条件;

    生活と労働条件;

    Myitkyinaに、女の子は通常各々の女の子のための別々の場所で、大きな2階建てのハウス(通常校舎)に宿泊しました。

    そこで、各々の女の子は生きて、眠って、ビジネスを行いました。 彼らが日本軍から規則的な割当てを受け取らなかったので、Myitkinaに、彼らの食物は備えられて、「住宅マスター」から購入されました。

    彼らは、他の場所に比較的にビルマで近い贅沢で生きました。 これは、特にビルマで彼らの2年めにとって真実でした。 食物と材料がかなり配給されなかったので、彼らは贅沢に暮らしました、そして、彼らは望ましい記事を獲得する多くのお金を持っていました。

    家から「快適さバッグ」(慰問袋)を受け取った兵士によって彼らに与えられる多くの贈り物を補うために布、靴、タバコと化粧品を買うことが、彼らはできました。

    ビルマである間、彼らは両方の将兵とスポーツ大会に参加して楽しんで、ピクニック、エンターテイメントと社交夕食会に出席しました。 彼らはレコードプレーヤーを持っていました、そして、町で、彼らは買い物をしに行ってもよかったです。

    先のシステム; 彼らがビジネスを行った状況は軍によって管理されました、そして、混雑した地域で、規則は厳しく実施されました。 軍は、特定地域で動いているいろいろな単位の価格、プライオリティーとスケジュールのシステムをインストールすることを混雑した地域で必要であると認めました。

    質問によると、平均的システムは以下の通りでした:

    1. 兵士

    午前10時〜午後5時

    1.50円

    20〜30分

    2. NCO

    午後5時〜午後9時

    3.00円

    30〜40分

    3. 役員

    午後9時〜午後12時

    5.00円

    30〜40分

    これらは、中部ビルマの平均価格でした。 役員は、20円で一晩いてもよかったです。 Myitkyinaコロラドでは、丸山は平均価格のほぼ2分の1に、価格を大幅削減しました。

    スケジュール;

    兵士は、家で混雑についてしばしば不満を言いました。 軍が長居することに非常に厳格だったので、多くの状況では、彼らは仕えられないで、去らなければなりませんでした。 この問題を解決するために、軍は特定の単位に備えて特定の日を残しました。 通常、日の間の単位からの2人の男性は、兵士を特定するために、家に配置されました。 移動憲兵も、秩序を保つために、近くにいました。 Naymyoである間、あとに続くことは第18の部のいろいろな単位のために「キョーエイ」家によって使われる予定です。

    日曜日

    第18のDiv.。 Hdqs。 スタッフ

    月曜日

    騎兵隊

    火曜日

    エンジニア

    水曜日

    休日と毎週の身体検査。

    木曜日

    医者

    金曜日

    山大砲

    土曜日

    輸送

    役員は、1週につき7つの夜来てもよかったです。 予定でさえ、混雑が彼らがすべての客を気にかけることができるというわけではなかったように大きかったと、女の子は不平を言いました。このように、兵士の多くの間で悪い感覚を引き起こしました。

    兵士は家に来て、価格を払って、左側と向こう側の家の名前でボール紙のチケットを先のものとおよそ2インチ直角にします。 それから、彼が「線の彼の曲がり目をとった」各々の兵士のアイデンティティまたはランクは、確立されました。 女の子は、顧客を拒否することの特権を与えられました。 人があまりに酔っているならば、これはしばしばされました。

    賃金と生活状況;

    彼女が契約にサインしたとき、各々の女の子が負債のいくらを招いたかについて次第になっている女の子の総所得の50〜60パーセントを、「住宅マスター」は受領しました。

    これは、平均ヵ月に、女の子がおよそ1500円を稼ぐことを意味しました。

    彼女は、750を「マスター」に引き渡しました。 食物と他の記事のために高値を彼らに請求することによって、多くの「マスター」は、生命を女の子にとって非常に難しくしました。 1943の後半に、軍は、彼らの負債を払った特定の女の子が帰ることができたという命令を出しました。 女の子の何人かは、このように、韓国に帰国してもよかったです。

    質問は、これらの女の子の健康がよかったことをさらに示します。

    彼らはさまざまな避妊具をよく供給されました、そして、しばしば、兵士は軍によって供給された彼ら自身のものを持ってきます。

    衛生に関して彼ら自身と顧客の世話をする際に、彼らはよく訓練されました。 普通の日本の軍医は週に一度家を訪問しました、そして、病気にかかる所を発見されるどんな女の子でも処置をされて、隔離していて、結局病院に行かせられました。 この同じ処置は軍自体の集団の中で続けられました、それ以外の、兵士が彼がそうであった期間の間に賃金を失わなかったメモに興味を起こさせることは限られます

    日本兵に対する反応;

    日本の将兵との彼らの関係で、どんな結果のでも2つの名前だけは、質問から出てきました。 彼らはコロラド丸山(MyitkyinaとGen.Mizukami少佐の駐屯軍の指揮官)の人々でした。そして、その人は増援を持ち込みました。 2つは、正反対でした。

    前者は、彼の部下に対する思いやりなしで難しくて、利己的で、不快でした; 後者はそれらの最大の考慮による利益(親切な男性と立派な兵士)です。そして、彼の下で働きました。 将軍が彼らを訪ねたということは決して知られない間、大佐は家の忠実な常連でした。 Myitkyina年の秋で、彼が男を避難させることができなかったのでミズカミ将軍が自殺する間、コロラド丸山はおそらく義務を放棄しました。

    兵士反応;

    言った女の子(「場所が詰めかけられるとき、一列にターンを待たなければならないならば、彼は恥じていやすいです」)の1人によると「快適さハウス」で見られることについて、平均的な日本兵はとまどいます。 しかし、結婚の申し込みの多数の例がありました、そして、特定のケースでは、結婚は実際に起こりました

    。 彼らに会いに来た最悪の将兵が酔っぱらっていて、次の日正面のために去ろうとしていた人々であることに、すべての女の子は同意しました。 しかし、たとえ非常に酔っているとしても、日本兵が軍の問題または秘密を彼らと決して協議しなかったことに、すべては同様に同意しました。 女の子が多少の軍の物質について会話を始めるかもしれないけれども、役員または下士官兵は話さないで、実際「主題のようなそのような非女性を議論するために、我々を叱ります」。

    酔っぱらいがそのような問題を決して検討しないとき、コロラド丸山を平らにしてください。」

    彼らがどんなに家から雑誌、手紙と新聞を受け取って楽しんだかについて、兵士はしばしば表します。 彼らも、カン詰商品、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、ミニチュア人形、口紅と木の服で満たされる「快適さバッグ」(慰問袋)の受領に言及しました。 口紅と布は女性的でした、そして、女の子は自宅の人々がなぜそのような記事を送っているかについて、理解することができませんでした。 彼らは、送り主には彼ら自身または「現地の女の子」がいることができるだけだったと推測しました。

    軍事情勢;

    「Myitleynaと滑走路への最初の攻撃において、およそ200人の日本人は戦死しました。そして、およそ200に町を守るのを任せました。 弾薬は、非常に低かったです。

    「コロラド丸山は、彼の部下を分散させました。 次の日の間に、敵は至る所で無計画に撃っていました。 彼らが少しの特定のものも狙うようでなかった時から、それは無駄でした。 一度に撃たれる火事1に、そして、彼らがヒットに自信があった時だけ、日本兵には注文が他方ありました。」 敵が西の滑走路で攻撃する前に、北部と西側で連合国の攻撃に突撃するために、Myitkyinaのまわりに配置される兵士はどこかほかに送られました。 主に第114のRegimentから、およそ400人の男性は取り残されました。 明らかに、コロラド丸山は、町が攻撃されると思っていませんでした。 第56の部の後のミズカミ少将は2つ以上の連隊の強化を持ち込みました、しかし、これらは町を占拠することができませんでした。

    連合国の爆破が激しくてこわがらせたことは女の子の間のコンセンサスでした、そして、彼らのため、彼らは大部分の最後の時代を蛸壷に費やしました。 1または2は、作業さえそこで続けました。 快適さハウスは爆破されました、そして、女の子の何人かが傷ついて、死にました。

    退却と捕獲;

    退却の物語と「快適さの女の子」の最終的な逮捕は、彼ら自身の心でいくぶん漠然としていて、混乱しています。 いろいろなレポートから、以下が起こったように見えます: 7月31日の夜に、3つの家(Bakushinroはキンスイに合併されました)(家族とヘルパー)の「快適さの女の子」を含む63人の一行は、小型ボートでイラワジ川の全域で始まりました。

    結局、彼らはWaingmawの近くにどこかに着地しました。そして、Theyが決して入れられるWaingmawでなく、8月4日までそこで過ごされました。 敵との衝突があった、そして、党が分割されたとき、そこから、彼らは8月7日まで一団の兵士の行く手であとに続きました。

    女の子は、3時間の間隔の後兵士の後を追うよう命令されました。 兵士の痕跡または交差するどんなmea nsなしででも彼ら自身を川の岸で発見するだけであるために、彼らはこうしました。 英国の役員によってリードされるKaahin兵士によって捕らえられたとき、彼らは8月10日まで近くの家に残りました。 Myitleyinaに、そして、このレポートの基礎を作る質問が起こったLedo柵に、彼らは連れて行かれました。

    要請

    兵士をあまり耳にしなかったMyitkyinaで使われる拡声器が「ラジオ放送」に言及すると聞いていたように、女の子の誰も、見えませんでした。

    軍が彼らの捕獲を知っているならば、「快適さ」の捕獲の、「女の子」がそれのために使われてはならないとわかっているリーフレットが他の女の子の命を危険にさらすだろうことを、彼らは尋ねました。 韓国のために計画されるどんな糞ででも捕獲の事実を利用することが良い考えであると、彼らは思いました。




    陸 軍 給料 単位円    月額  昭和18年
    大将 550 中将 483 少将 416

    大佐 370 中佐 310 少佐 220

    大尉 155 中尉 94 少尉 70

    准尉 110 曹長 75 軍曹 30

    伍長 20

    兵長 13 上等兵 10 一等兵 9 二等兵 6


    iso14001環境ISO生命に満ちた青い地球を守ろう


    ○「文玉珠さん」という(自称)従軍慰安婦女性は、平成4年に日本の郵便局を訪れ 2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしています。

    「文玉珠さん」という(自称)従軍慰安婦女性は、平成4年に日本の郵便局を訪れ 2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしています

    千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えると体験記で述べていますが 現在の価値なら、4000万〜5000万円程度の金額を 彼女が慰安婦であった約3年間で貯めていたことが分かります。

    http://makizushi33.ninja-web.net/chochiku.jpg



    ○当時は、慰安婦を公募集すればいくらでも女性が集まる時代です。



    "慰安婦 至急 大募集・・給料は月収最低300円、3000円まで前借可能"(原文のママ)


    http://makizushi33.ninja-web.net/img03_02.gif

    慰安婦募集

    慰安婦募集

    http://livedoor.2.blogimg.jp/kanasen47/imgs/3/7/37553c06.jpg



    ○朝鮮人の人身売買組織が、誘拐した少女を中国人に売り飛ばしていた為、 日本政府によって検挙されたことを報じる記事 (1933年6月30日付 東亜日報)

    朝鮮人の人身売買組織が、誘拐した少女を中国人に売り飛ばし

    http://makizushi33.ninja-web.net/tyousenjin_1.jpg





      紹介した長尾教授も全面禁止説に
     園部判事「傍論は法から離れた俗論」

      紹介した長尾教授も全面禁止説に
     園部判事「傍論は法から離れた俗論」



    世界史講義録

       https://timeway.vivian.jp/kougi-100.html

    第100回  イギリスのインド支配

    -------------- インドの政治状況 ----------------

     インドは、16世紀以降、ムガル帝国が支配していましたが、第6代皇帝アウラングゼブ(位1658〜1707)の死後、衰退していきました。各地で在地勢力が自立していきます。  代表的なものが、インド中部のデカン高原を中心とするマラータ同盟、インド北部パンジャーブ地方のシク教国です。マラータ同盟はマラータ族の諸侯連合でヒンドゥー教の国。シク教国は、その名の通りシク教という宗教によって建てられた国です。シク教は16世紀前半にナーナクという人物が始めた宗教で、イスラム教とヒンドゥー教を融合したものです。シク教徒の男性は長く伸ばした頭髪をターバンで包んでいて、名前の最後に必ずシング(シン)とつけるのが特徴で、現在でもそれは変わりません。シク教徒は勇猛果敢で知られていて、昔、プロレスラーにタイガー・ジェット・シンという人がいました。アントニオ猪木と死闘をくりかえしたんですが。彼が本物のシク教徒かどうかは知りませんが、勇猛なシク教徒ということを売りにしていたんですね。まあ、日本では、シク教徒のことをほとんどの人が知らなかったと思いますけど。

    -------------------------------------- イギリス東インド会社によるインド征服 --------------------------------------



     ちょうどムガル帝国が衰退していくのと入れ替わるようにして、イギリスがインドに登場します。イギリスは17世紀以降、マドラス、ボンベイ、カルカッタに商館を建設し、ここを拠点として貿易を本格化させます。商館といっていますが、実際には要塞のようなもので、商売をするだけでなく、地元の権力者との交渉や戦いによって土地も獲得していきました。

     フランスも、17世紀後半には、同様に商館を建設しました。フランスが拠点にしたのはシャンデルナゴルとポンディシェリで、シャンデルナゴルはベンガル地方にあってカルカッタに近い。ポンディシェリも南インドでマドラスに比較的近い。当然、イギリスとフランスは競合することになります。  一時は、フランスがイギリスを圧倒した時期もあったのですが、18世紀の半ばに南インドでイギリスとフランスが戦ったカーナティック戦争で、イギリスが勝利してからは、南インドでフランス勢力は衰退します。  そして、ベンガル地方でイギリスとフランスが戦ったのが、有名な1757年のプラッシーの戦いです。イギリス軍の兵力は約3000。ただし、このうちイギリス兵は950名ほどです。あとの2000名は何か。イギリスが現地で雇った傭兵。インド人の兵士です。対するフランス軍はというと、フランス兵はわずか50名。しかし、フランスは現地の支配者であるベンガル太守と同盟を結んでおり、このベンガル太守軍の兵力約6800。イギリス対フランスの戦争といいながら、戦いの中心となっているのはインド人同士というところが特徴的です。また、イギリス兵とフランス兵の少なさは、意外ですね。私たちは英仏はものすごく強く、何でも思うがままにできたというイメージを持ちがちですが、ヨーロッパからインドまで兵士を派遣するのは、イギリスもフランスも大変な負担だったのです。

     話を戦いに戻すと、イギリス側3000、フランス側6800ですから、フランス側が圧倒的に有利です。ところが、この戦いでイギリスが勝利します。その立役者として活躍したのが、イギリス東インド会社のクライブです。説明が遅れましたが、イギリスの活動主体はイギリス政府ではなくて、イギリス東インド会社です。イギリス、イギリスと言っていますが、イギリス政府が指揮しているのではない。実体はイギリス東インド会社ですから、注意してください。で、そのクライブは、ベンガル太守軍の将軍に買収工作をした。太守を裏切り、イギリス側に寝返ったら、戦後、ベンガル太守の地位につけると約束をしたのです。将軍は買収に応じました。戦いが始まると、この将軍、ベンガル太守の命令を無視し、軍を動かさない。結局この裏切りの結果、イギリスが勝利することになったのです。この買収工作で、クライブは、イギリス本国で一躍英雄となりました。

     この戦闘が、結果としてインドの運命を変えることになりました。イギリス東インド会社は、この後フランス勢力をインドから一掃しただけではなく、新しいベンガル太守を傀儡(かいらい)としました。1765年には、イギリス東インド会社はベンガル地方の徴税権を獲得しました。貿易会社が、他国の一地方の税金を徴収するのです。もう、貿易会社と言うより、統治機関と言っていいでしょう。事実上、ベンガル地方を支配するようになったということです。ベンガル地方というのは、現在のバングラデシュです。

     これ以後、インドはイギリス産業の原料供給地兼製品市場とされていきました。  イギリス東インド会社はインドから木綿を買い付け、イギリス本国に輸出します。折からの産業革命で、発展しつつある綿織物工業の原材料です。そして、イギリスの機械制大工場で生産された綿織物が、今度はインドに輸出されます。インドは世界有数の綿織物生産国でしたが、手工業だったので、イギリスから輸出される大量生産で安価な綿織物に対抗できません。この結果、インドの綿織物工業は大打撃を受けました。「世界に冠たる織物の町」といわれたダッカの人口は、わずかのうちに15万から3万に激減しました。インド総督ベンティングは、1834年にイギリス本国に送った年次報告に「世界経済史上、このような惨状に比すべきものはほとんど見いだせない。職工たちの骨がインドの平原を白色に化している」と書いたほどです。

     お金とモノの流れを単純に考えてみると、イギリス東インド会社は徴税権を持ち、インド人から税金をとる。その税金で、インド農民から原綿を買い付けると考えれば、ただで原料を手に入れている、もしくは奪っているのと同じことです。それを加工した製品をインド人に売るということは、つまり、奪った原料で作った製品を、奪った相手に売りつけているわけで、富は一方的にイギリスに流れることになります。イギリス側にとって、これほど儲かる商売はないし、インド側からみれば、最大限搾り取られているわけです。

     このあと、イギリスは、インド各地の地方政権を次々に支配下に置いていきます。インド征服のための大きな戦争としては、南インドのマイソール王国とのマイソール戦争(1767〜99)、マラータ同盟とのマラータ戦争(1775〜1818)、シク教国とのシク戦争(1845〜49)があります。  シク戦争の勝利で、イギリスによるインド征服は事実上完了しました。

    ------------------------------------- イギリス東インド会社によるインド支配 --------------------------------------

     イギリス東インド会社が、インドを支配するようになって、インドは重い負担に苦しむようになりました。  まず、税負担があります。イギリス東インド会社の徴税額をみると(プリントの表を参照しながら)、1765年ベンガル太守時代には、82万ポンド。1770年東インド会社時代になると234万ポンド。1790年には340万ポンドと、増加しつづけています。別の資料によると、東インド会社による地租(土地税)収奪は、1771年から72年にかけて234.2万ポンド。これを指数100とすると、1821年から22年が1372.9万ポンドで、指数589。1856年から57年が1531.8万ポンドで指数654。こちらでも、どんどん税額が増えている。

     税を増やすだけでなく、東インド会社は、インド農民に高く売れる商品作物の栽培を強制します。綿布の染料に使う藍や、麻薬アヘンの原料となるケシなどです。小麦など食糧をつくるべき畑で、食糧を作れない。食糧生産量は落ちる。藍やケシをいくら栽培しても、腹の足しにはならない。この結果、飢饉が激増します。  インド大飢饉回数の表があります。

    18世紀 大飢饉3回 死者数不明

    1800〜25 大飢饉5回 死者100万人
    1826〜50 大飢饉2回 死者40万人
    1851〜75 大飢饉6回 死者500万人
    1876〜1900 大飢饉18回 死者1600万人
    19世紀に2000万人以上が餓死しているのです。イギリスの支配によって、インドは貧困に追い込まれたのです。

    ----------------- インド大反乱 -----------------

     イギリス東インド会社は、インドを支配するための軍隊を持ちました。東インド会社軍といいます。全兵力23万8千人。兵力の内訳を詳しく見ると、そのうちイギリス兵、つまりイギリス人の軍人ですが、その人数は3万8000人。残りの20万人がインド人傭兵です。このインド人傭兵のことをシパーヒー(またはセポイ)といいます。シパーヒーは上級カースト出身者が多く採用されたようです。イギリス側は、カースト制度を利用して効率よく支配するために、上級カースト出身者を採用したのでしょう。また、上級カーストの者にとって、たとえ支配者がイギリス人であっても、自分たちが支配者側の一員になることは抵抗感が少なかったのかもしれません。俺たちは偉いのだから、イギリス人が雇うのは当然、イギリス人と同じ支配者階級になるのは当然、と思っていたのかもしれません。

     とにかく、この約20万のシパーヒーが、イギリス東インド会社のインド支配の最終手段、暴力装置でした。シパーヒーたちがイギリス東インド会社から離反すれば、イギリスの支配は不可能になります。イギリス東インド会社軍としては、シパーヒーを飼い慣らし、手なずけておかなければならないのですが、1857年シパーヒーの反乱が起こりました。

     原因はいろいろあるのですが、そのひとつが、イギリス人のインドの伝統文化に対する無理解です。  たとえば、インドのバラモンなどの上級カーストに、サティという風習がありました。インドでは人が死ぬと、一般に火葬をするのですが、夫婦で夫が先になくなった場合に、火葬をしている炎のなかに、未亡人が飛び込んで焼身自殺をするという慣行があった。これがサティです。夫の死を悲しんで自殺をするのは、貞淑な妻の鏡である、素晴らしい行いであるとして、サティが奨励されていた。

     ところが、この風習をイギリス人がみて、びっくりするわけです。自殺を奨励するというのは、とんでもないわけです。しかも、夫が死んで、妻が後を追う、というときに、皆さんは、おじいさん、おばあさんの老夫婦を思い浮かべるかもしれませんが、イギリス人が見た夫婦は全然そんなのじゃなかった。50代60代のお金持ちのバラモン男性が、年をとってから、14歳15歳の花嫁を迎えるということが当時は普通にあった。だから、60歳で死んだ夫を焼く炎のなかに飛び込むのは、まだ子供といってもいい少女たちなのです。これはひどい、と思うよね、普通は。どう考えても、こんな少女が、自ら死にたいと願っているわけがない。早く飛び込んで死なんかい、という親族一同の視線にさらされて、死なざるを得ないように精神的に追い込まれていくというのが、実際のありようだったのでしょう。

     そこで、イギリスは、野蛮きわまりないとして、サティ禁止令を出した。ところが、サティはバラモン身分の者には、自分たちの身分にだけ許された美しい慣行です(低位カーストではサティは行われていませんでした)。それを、一方的に野蛮と決めつけられて、イギリスに反発する。

     サティの風習を禁止すべきかどうかの判断は今は措きますが、こんな感じでイギリス人はインド人のさまざまな風俗習慣を野蛮と感じ、見下す。インド人からすれば、イギリス人とは価値観は違うかもしれないが、インドは3千年以上の歴史を持つ文明国です。一方的に野蛮人扱いされることに我慢できない。シパーヒーたちも、さまざまな不満をイギリス人に対して持つようになるのです。

     そういうなかで、シク戦争が終了して、インド征服が完了すると、シパーヒーへの待遇が悪化しました。さらに、ヒンドゥー教のタブーに係わる命令が出され、シパーヒーの不満が高まりました。  どんな命令かというと、ひとつはシパーヒーに対する海外派兵。もうひとつは、新式銃の使用です。  バラモンなど上級カーストでは、インドの外に出ると身分がけがれると考えられていたので、海外派兵に反発した。

     そして、新式銃というのが、反乱の直接的な原因になります。この時代、銃は基本的に日本の戦国時代と同じで、鉄砲の先端から火薬と玉を入れて、銃身底部に押し込める先込め銃でした。東インド会社軍が採用しようとした新式銃、エンフィールド銃というのですが、これも先込め銃なんですが、火薬と弾丸が一緒に筒状の油紙に包まれている。それまでは、弾を込めるときに、火薬は火薬入れから取り出し、玉は玉で別のところから出して、銃に込めていた。エンフィールド銃は、この火薬と玉がセットになっているので、いっぺんに取り出せるわけです。弾薬包みを取り出して、歯で噛みちぎり、包みから火薬を銃に流し込んだあと、油紙がついたままで弾丸を落とし込むのです。で、この油紙の油に牛と豚の脂が使われているという噂が流れた。これがシパーヒーたちの猛反発をよびました。弾丸を込めるときに油紙を噛みちぎるから口に触れる。牛はヒンドゥー教徒にとって神聖な動物で、その脂を口にするということは絶対にできない。身分がけがれてカーストから追放です。また、豚はイスラーム教では不浄の動物とされ、ムスリムのシパーヒーもこれを口にすることを拒否しました。

     イギリス人の軍幹部は、牛と豚の脂は使っていないと、否定しましたが、いったん広がった噂は消すことができなかった。それまでの、イギリス側の姿勢に対する反感も手伝って、各地の部隊で不穏な雰囲気が高まっていきました。

     シパーヒーへの家族からの手紙が急増したのを不審に思ったイギリス人の上官が、手紙の中身をチェックすると、「新式銃の火薬包みの使用を拒否せよ、拒否しなければカーストから追放する」と書かれてあったという。また、ある基地で、シパーヒーが民間の作業員に水を分け与えようとしたら、その作業員が「あなたはまもなく自分のカーストを失うから」と言って、水を拒否したと伝えられています。ヒンドゥー教のタブーをおかして、所属カーストから追放されると、アウトカースト、不可触民にされてしまう。そんな最低の身分の者から、水をもらえない、ということですね。新式銃の導入に伴う噂が、一般にも広がり、関心が持たれていたことがうかがわれます。

     あと、これは、どういう意味があるのか今もわからないのですが、反乱の直前、インドの村から村へチャパティーがリレーされていったのを、イギリス人が目撃して報告しています。ある村から別の村へチャパティーが届けられる。すると、その村では、新たに数枚のチャパティーを焼いて、さらに別の村に届けていったという。チャパティーは小麦粉を焼いたパンのような食べ物です。このリレーにどんな意味があるのか、目撃したイギリス人には理解できなかったが、異様なものを感じて、記録したのでしょう。あとから考えると、なにか反乱の合図だったのかもしれない、ということです。同じように、東インド会社軍の部隊から部隊へと蓮の花がリレーされていて、これも何かの合図だった可能性があります。

     不穏な空気が広がるなかで、1857年5月、シパーヒーが反乱を起こしました。きっかけは、メーラトという町にあった部隊での事件です。この部隊で、新式銃を使った演習が行われたのですが、イギリス人上官の命令を拒否して、90名の兵士中85名が弾薬筒に触ろうとせず演習が不能になった。軍隊にとって命令拒否は重い罪です。軍法会議の結果、問題の兵士たちは、見せしめのために、他の兵士たちが集合させられている前で、軍服をはぎ取られ足かせをはめられて牢に入れられました。残りのシパーヒーたちは、これに反発し、翌日牢に入れられた仲間を救うために蜂起し、反乱はメーラト以外の各地の基地に広がりました。  各地のシパーヒーが蜂起すると、東インド会社軍と関係のない民衆もたちあがり、インド全体が反乱状態となりました。これをインド大反乱といいます。以前は、シパーヒーの反乱、もしくはセポイの乱とも呼ばれていましたが、反乱に参加したのはシパーヒーだけではないので、現在はインド大反乱と呼んでいます。  

     反乱にはイギリスに滅ぼされた地方政権、インドでは藩王国と呼びますが、この藩王国の旧支配者層など、さまざまな勢力が加わりました。全インドの三分の二が反乱に参加したといいます。ただし、各地の反乱軍は、互いに連携するわけでもなく、全体の指導部もありませんでした。デリーを占領した反乱軍は、引退していたムガル帝国皇帝を、反乱軍のトップとして擁立しました。かれはイギリス東インド会社から年金を受け取り、名目だけのムガル皇帝として存在していたのです。ただし、彼はただの飾り物で、何の指導力もありませんでした。  反乱勢力は、統一した作戦や、反乱成功後の共通目標もなかったのですが、不意をつかれたイギリス側は、一時、インドから撤退しました。しかし、やがて態勢を整えて反撃を開始しました。反乱に参加していなかったシク教徒によるシク兵、イラン兵、ネパール人のグルカ兵を動員し、9月にはデリーを反乱軍から奪還、以後は各地の反乱勢力を各個撃破していきました。1859年までには、完全に反乱を鎮圧しました。  イギリスは、反乱を起こしたものたちに徹底的な報復を行いました。反乱側についた町や村の住民を虐殺したり、反乱軍の捕虜を大砲の砲身にくくりつけて吹き飛ばしたり、牛や豚の血を無理矢理飲ませてから殺すなど、見せしめ的な処刑をおこなっています。プリントの挿絵の左側に描かれているのが大砲にくくりつけられている捕虜です。右側で馬に乗っているのがイギリス人の指揮官ですね。

     結局、反乱は失敗したわけですが、この反乱で活躍したインド人の武将たちは、現在も民族のヒーローとして人気があります。一人だけ紹介しておくと、インドのジャンヌ=ダルクと呼ばれているラクシュミー=バーイーという女性。彼女はジャーンシー藩王国という国の王妃でしたが、イギリスに国を奪われ、反乱が起きると女性ながらも兵士を率いてイギリス軍と戦いました。養子にした幼い子供を背負って、馬に乗っている彼女の肖像画があります。最後には戦死するのですが、ゲリラ戦でねばり強く戦いつづけた女性でした。

     インドの大部分が参加した反乱だったのに、しかも、東インド会社軍の傭兵部隊シパーヒーまでが反乱側にたったのに、なぜ、反乱は敗北したのでしょうか。  最大の理由は、反乱側内部の不統一です。はじめから反乱軍は烏合の衆で指導部もありませんでしたが、加えて、地域間の対立、カースト間の対立によって、インド人どうしがひとつにまとまれませんでした。イギリス側は、このようなインド人どうしの対立を巧妙に利用していったのです。同じインド人でありながら、シク教徒がイギリス側についているのがそのよい例ですね。



    -------------- その後のインド --------------

     反乱をほぼ鎮圧した1858年、イギリス本国政府は、東インド会社を解散させ、インド全土を直接支配することにします。名目だけつづいていたムガル帝国も完全に滅亡させられます。  1877年には、インドにインド帝国を成立させました。ちょっとわかりにくいですが、イギリス政府がインドに新しい国をつくったということです。その国の名前がインド帝国という。そして、インド帝国の皇帝に即位したのがイギリス国王のヴィクトリア。だから、この時点から、ヴィクトリアはイギリス国王兼インド皇帝ということですね。ただし、ヴィクトリア女王はインドに行ったりしません。ずっと、イギリスです。イギリスのエリート貴族たちが、インド帝国の高級行政官としてインドに赴任して、インド人の役人を指揮しながらインドを支配するわけです。インド帝国は、イギリスの完全な植民地です。

     イギリスのインド支配は巧妙で、インドが団結してイギリスに抵抗しないよう分割統治をおこないました。インド帝国は、イギリスの直轄領と、550以上の藩王国から構成されていて、藩王国は外交権はないし、イギリスの監視付きではありますが、マハラジャとよばれる藩王の自治が認められていた。マハラジャからすれば、無理してイギリスに抵抗せず、このままマハラジャの地位を認めてもらった方が安泰です。旧勢力を温存し、旧支配者層の抵抗を薄めながら支配したのです。このインド帝国は第二次大戦後の1947年までつづきました。

    参考図書紹介・・・・もう少し詳しく知りたいときは 書名をクリックすると、インターネット書店「アマゾン」のページに飛んで、本のデータ、書評などを見ることができます。購入も可能です。

    インド大反乱一八五七年 (中公新書 606) (第100回関連) 長崎暢子著。中公新書。講義で紹介したチャパティのリレーの話は、この本で読みました。インド大反乱に関する最も手頃な入門書だったのに、今は、絶版になっているようで、ビックリしました。たいていの図書館にはあると思うので、インド大反乱を詳しく知りたい人には一読を勧めます。