大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害
「世界から恐れられた7人の日本人」
「大東亜戦争の英雄の日本人1」
「大東亜戦争の英雄の日本人6」
「大東亜戦争の英雄の日本人2」
「大東亜戦争の英雄の日本人3」空の要塞B29撃破とB29撃墜王
「大東亜戦争の英雄の日本人4」陸軍エースパイロット撃墜数
「大東亜戦争の英雄の日本人5」海軍エースパイロット撃墜数
「大東亜戦争技術者」
「大東亜戦争技術者2」
「大東亜戦争石油」
日米開戦前日米交渉(アメリカが日本に実質的最後通牒(日本の南部仏印撤退などの譲歩案に))
「大東亜戦争の英雄の日本人1」
「大東亜戦争の英雄の日本人2」
エース・パイロット
『ウィキペディア(Wikipedia)』
エース・パイロット(米・英: Flying Ace、フライング・エース、仏: As、アス、独: Fliegerass、フリーガーアス、日: 撃墜王〈げきついおう〉)は、多数の敵機を主に空中戦で撃墜したパイロットに与えられる称号。航空機が戦闘に使用され始めた第一次世界大戦時からある名称である。単にエースとも称し、中でも撃墜機数上位者はトップ・エースと称される。
現在は5機以上撃墜した者とされ、また歴史を通じて主に戦闘機のパイロットに与えられる傾向がある。
「最初のエース」として勲章を授与されるフランスのアドルフ・ペグー。
概要
エースパイロット 大日本帝国海軍 リスト 数字は公認撃墜機数 。
岩本徹三 日本 大日本帝国海軍 202(単独80機以上) 「零戦虎徹」。202機は本人の手記による。この他中国戦線で14機を撃墜。戦果の大半はラバウルで、4発重爆を含む確実141機を報告している。
渾名 最強の零戦パイロット、零戦虎徹、零戦撃墜王
西沢広義 日本 大日本帝国海軍 143 (単独87機とも36機とも) 数字は公認記録。通称「ラバウルの魔王」
福本繁夫 日本 大日本帝国海軍 72
杉田庄一 日本 大日本帝国海軍 70 通称「闘魂の塊」。 「海軍甲事件」における6機の護衛戦闘機搭乗員のひとり。
奥村武雄 日本 大日本帝国海軍 54
大原亮治 日本 大日本帝国海軍 48
藤田怡与蔵 日本 大日本帝国海軍 39 ミッドウェイ海戦において一日で10機を撃墜した記録を持つ。
太田敏夫 日本 大日本帝国海軍 34
杉野計雄 日本 大日本帝国海軍 32
武藤金義 日本 大日本帝国海軍 30 通称「空の宮本武蔵」。愛称は「ムトキンさん」
坂井三郎 日本 大日本帝国海軍 28 数字は公認記録。アメリカで出版された「SAMURAI」の共同著者が宮本武蔵の故事から創作した64の撃墜数も知られている。坂井自身は20機から80機ぐらいと答えている。
杉野計雄 日本 大日本帝国海軍 32
岩本徹三 日本 大日本帝国海軍 202(単独80機以上) 「零戦虎徹」。202機は本人の手記による。この他中国戦線で14機を撃墜。戦果の大半はラバウルで、4発重爆を含む確実141機を報告している。
西沢広義 日本 大日本帝国海軍 143 (単独87機とも36機とも) 数字は公認記録。通称「ラバウルの魔王」。
福本繁夫 日本 大日本帝国海軍 72
杉田庄一 日本 大日本帝国海軍 70 通称「闘魂の塊」。 「海軍甲事件」における6機の護衛戦闘機搭乗員のひとり。
奥村武雄 日本 大日本帝国海軍 54
大原亮治 日本 大日本帝国海軍 48
藤田怡与蔵 日本 大日本帝国海軍 39 ミッドウェイ海戦において一日で10機を撃墜した記録を持つ。
太田敏夫 日本 大日本帝国海軍 34
杉野計雄 日本 大日本帝国海軍 32
武藤金義 日本 大日本帝国海軍 30 通称「空の宮本武蔵」。愛称は「ムトキンさん」
。
坂井三郎 日本 大日本帝国海軍 28 数字は公認記録。アメリカで出版された「SAMURAI」の共同著者が宮本武蔵の故事から創作した64の撃墜数も知られている。坂井自身は20機から80機ぐらいと答えている。
笹井醇一 日本 大日本帝国海軍 27 数字は公認記録。共同撃墜は187機。通称「軍鶏」「ラバウルの貴公子」「ラバウルのリヒトホーフェン」。戦死直前に実家に宛てて送った手紙の中では54機撃墜と記す。
赤松貞明 日本 大日本帝国海軍 27 愛称「松ちゃん」。酒に酔った際には「350機墜とした」、素面の時は「260機墜とした」と言い続けた。
荻谷信男 日本 大日本帝国海軍 26
菅野直 日本 大日本帝国海軍 25 通称「ブルドッグ」。協同戦果や撃破を含めた数は72機。
伊藤清 日本 大日本帝国海軍 23
岩井勉 日本 大日本帝国海軍 22 重慶での零戦初空戦に参加。通称「ゼロファイターゴッド」。
日高義巳 日本 大日本帝国海軍 20 「海軍甲事件」における6機の護衛戦闘機搭乗員のひとり。
羽藤一志 日本 大日本帝国海軍 19 通称「ポッポ」。
松場秋夫 日本 大日本帝国海軍 18
小町定 日本 大日本帝国海軍 18 32機撃墜説あり。
谷水竹雄 日本 大日本帝国海軍 18 「アメリカ軍機の国籍標識に矢」という撃墜マークで戦後有名に。実際の撃墜数は32機ともいわれる。
塩川照成 日本 大日本帝国海軍 18 被撃墜2回、生還
。
本田稔 日本 大日本帝国海軍 17 2021年没
増山正男 日本 大日本帝国海軍 17
甲木清実 日本 大日本帝国海軍 16 水上機で体当たり1機を含む5機〜7機を撃墜。零観、二式水戦など多くの機種を乗りこなした。
宮野善治郎 日本 大日本帝国海軍 16
渡辺秀夫 日本 大日本帝国海軍 16
南義美 日本 大日本帝国海軍 15
遠藤桝秋 日本 大日本帝国海軍 14
羽切松雄 日本 大日本帝国海軍 13 通称「ヒゲの羽切」。
古賀清澄 日本 大日本帝国海軍 13 海軍航空隊最初のエース・パイロット。
樫村寛一 日本 大日本帝国海軍 13 「片翼帰還の樫村」の二つ名で有名。公認記録は10機。
小高登貫 日本 大日本帝国海軍 13 通称「トッカン兵曹」。協同撃墜を含めた総合戦果は105機といわれる。
半田亘理 日本 大日本帝国海軍 13
宮崎勇 日本 大日本帝国海軍 13
磯崎千利 日本 大日本帝国海軍 12
角田和男 日本 大日本帝国海軍 12 他に日中戦争で1機。
佐々木原正夫 日本 大日本帝国海軍 12
日高初男 日本 大日本帝国海軍 11
山下小四郎 日本 大日本帝国海軍 11 重慶における零戦初空戦において一挙5機を撃墜。
山本一郎 日本 大日本帝国海軍 11
相生高秀 日本 大日本帝国海軍 10
笠井智一 日本 大日本帝国海軍 10 杉田庄一の僚機を務めていたことでも知られる。2021年没
望月勇 日本 大日本帝国海軍 10 空中戦における「ひねりこみ戦法」の開発者。
森貢 日本 大日本帝国海軍 9+
白根斐夫 日本 大日本帝国海軍 9 白根竹介の息子。
小田喜一 日本 大日本帝国海軍 9
原田要 日本 大日本帝国海軍 9
福井義男 日本 大日本帝国海軍 9 日中戦争では2機撃墜。
柳谷謙治 日本 大日本帝国海軍 8 「海軍甲事件」における6機の護衛戦闘機搭乗員のうち、唯一終戦まで生き残った。
蝶野仁郎 日本 大日本帝国海軍 7
鴛淵孝 日本 大日本帝国海軍 6
黒鳥四朗 日本 大日本帝国海軍 6 撃墜は全てB-29である。昭和20年5月25日、一夜にしてB-29を5機撃墜。
柿本円次 日本 大日本帝国海軍 5 開戦後豪州軍の捕虜となり、カウラ事件指導者の一人となる。
兼子正 日本 大日本帝国海軍 5 日中戦争での撃墜数を含めれば生涯撃墜数14機。
鈴木實 日本 大日本帝国海軍 5 日中戦争でも3機を撃墜。
森岡寛 日本 大日本帝国海軍 5 「義手の撃墜王」 。本土防空戦で左手を失うも義手を装着し戦闘に復帰。1945年8月15日に5機目の撃墜戦果を挙げ、海軍最後の撃墜王となった。
林喜重 日本 大日本帝国海軍 5
岩本 徹三(いわもと てつぞう、
1916年6月14日 - 1955年5月20日)は、日本海軍の軍人。支那事変、太平洋戦争における撃墜王。最終階級は海軍中尉。
経歴
1916年(大正5年)6月14日、樺太の国境近くで警察官の父親の元に三男一女の兄弟の三男として生まれた[1]。[注釈 1]小学生の頃、父親が北海道札幌市の署長に転勤し、スキーで登校することもあった。13歳のとき、父親が退官して父の故郷である島根県益田へ移る。
県立益田農林学校高等科2年に転入する。
数学と幾何は優で、学校のクラブ活動ではラッパ隊に入部した。趣味は読書と園芸であった。幼少時から腕白ですばしっこく勉強より体を動かすことを好み、地引網で魚の群れを追い込む浜辺の漁師を手伝ったりする反面、一本気の頑固な正義感の持ち主で教師を辟易させることもあった。魚突きをして捕らえることが得意であった。1935年益田農林学校を卒業後、「若いときは勉強のため大学受験し、大学卒業後都会からもどらないつもりの長男や亡くなった次男の代わりに、
家に残ってほしい」という父親の意に反して、大学受験と偽って海軍の志願兵試験(予科練習生予定者)を受験して合格、航空科を選択する。海兵団に入団する際に「自分は三男に生まれたのだから、お国のためにこの命を捧げます。」と両親に告げた。
1934年(昭和9年)6月1日、呉海兵団に四等航空兵として入団。1934年11月15日三等航空兵。1935年第31期普通科整備術練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。同年8月20日三等整備兵、航空母艦龍驤の艦上整備員。同年11月2日二等整備兵。次いで操縦員を志望して認められ、1936年(昭和11年)4月28日、第34期操縦練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。射撃の成績が抜群であり、
自習にも励み、消灯のあとでも教本を持って外に出て街灯の光でおそくまで勉強したこともあった。霞ヶ浦友部分遣隊では、大宅秀平、磯崎千利たちから教えを受けていた。1936年12月26日第34期操縦練習生卒業、一等航空兵、佐伯海軍航空隊勤務。1937年6月1日普通善行章一線付与。1937年7月大村航空隊勤務。
支那事変
1937年8月に勃発した支那事変のため、1938年2月第十三航空隊付となり、黒岩利雄一空曹に率いられて南京に着任した。同航空隊の田中国義は「あの頃はすごいパイロットがそろっていた。先任搭乗員黒岩利雄、次席が赤松貞明、3席が虎熊正。私や武藤金義、あとから来た岩本徹三なんか食卓番ですよ。この頃の古い人たちはそれぞれ操縦もうまく名人ぞろいだった」と回想している。
1938年2月25日、岩本の初陣となる南昌空襲に出撃。岩本の所属は一中隊(田熊繁雄大尉指揮)三小隊で、一番機 黒岩利雄一空曹、二番機楠次郎吉二空曹、三番機が岩本だった。岩本の戦果は、I-15 4機(うち1機不確実)、I-16 1機撃墜という目覚しい戦果をあげた[2]。1938年4月30日、漢口空襲につき所属部隊に感状授与。1938年5月1日三等航空兵曹。岩本は支那事変において半年の間に日本軍最多数撃墜数14機を公認されている。
1939年11月1日善行章第二線付与、二等航空兵曹。1940年(昭和15年)に支那事変の論功行賞で生存者金鵄勲章の最後となる叙勲申請の栄誉をうけ、1942年(昭和17年)8月1日感状の授与、また勲七等に叙され、功5級金鵄勲章(下士官の生存者のうち武功抜群相当)を叙勲された。[注釈 2]
大東亜戦争
空母「瑞鶴」
1940年4月連合艦隊第1艦隊所属第1航空戦隊、「龍驤」で艦隊訓練を開始、予備艦になって整備中だった「龍驤」を使っての母艦訓練に参加した。訓練内容は、離艦・着艦、母艦へ夜間着艦訓練、編隊空戦の連携訓練、洋上航法、夜間航法、無線兵器の電信での母艦との通信連絡および電波航法(フェアチャイルド社製クルシー方位探知機での)による帰投などであった。[注釈 3]
詳細は「第一航空艦隊」を参照
1941年(昭和16年)4月第1航空艦隊(1航艦)創設にともない、岩本たちは前年度からの母艦「龍驤」での訓練で選抜された中堅搭乗員として、第1航空艦隊所属の第3航空戦隊である「瑞鳳」戦闘機隊に配属。1941年5月1日海軍一等航空兵曹(6月1日海軍一等飛行兵曹に改称)。1941年秋、最新型の高速大型空母「翔鶴」、「瑞鶴」が就役し、第5航空戦隊が創設された。10月4日、3航戦の岩本たち瑞鳳戦闘機隊隊員たちは第5航戦に編入し、二手に分かれて「瑞鶴」および「翔鶴」に着任した。 一航艦は日米開戦の劈頭に行う真珠湾攻撃のために極秘で準備されていたが、岩本たち下級搭乗員は知らされないまま、九州各基地に搭乗機種、艦ごとに集合して、当時世界3大海軍国の米国、英国を飛行技量でしのぐ最高の艦隊搭乗員実力を目指して連日、日夜激しい訓練がつづけられていた。岩本の回想録には、以後の太平洋戦線での様々な実戦局面で、幸運や勘ではなく、この時期に艦隊戦闘機隊訓練で体得した技術を洋上、夜間の飛行操縦術へ科学的に応用活用し、確率を上げて生き抜いた描写が記述されている。
1941年12月大東亜戦争開戦。劈頭の真珠湾奇襲作戦に参加。第一航空艦隊所属の航空母艦「瑞鶴」戦闘機隊員[3]で、真珠湾攻撃時は艦隊の上空直衛任務に就き戦果はなかった。1941年12月24日感状授与。
1942年4月インド洋作戦で4月5日機動部隊に接触してきたコンソリーデーテッドPBY飛行艇を撃墜し、太平洋戦争における岩本の初撃墜の戦果を得た。
詳細は「珊瑚海海戦」を参照
1942年5月MO作戦のため、5航戦は一航艦から第4艦隊指揮下に入り、珊瑚海海戦に「瑞鶴」上空直掩で参加。1942年5月8日、瑞鶴の岩本の瑞鶴直衛隊の戦闘機3機と翔鶴隊3機は上空警戒に上がっていたものの、残りの13機は事前に偵察機から「敵三十機味方主力方向に向かう」との報告を受けながら至近距離までせまってから緊急発艦であり、艦隊の邀撃体勢は後手となった。先行して上がっていた岩本小隊3機は、高度7500メートルで、30キロメートル先の米攻撃隊を発見し、優位の高度からウォーレス・C・ショート大尉率いる17機に攻撃をかけて米軍急降下爆撃機 を攻撃して投弾を妨害した。ショート大尉は「急降下前、急降下中、引き起こし後、いたるところで零戦の妨害にあった」と報告している。この攻撃で低空に下がった岩本小隊は、上昇中に瑞鶴後方で味方戦闘機を攻撃中の米F4F戦闘機隊を発見し、これに対して攻撃を加え岩本は1機を撃墜した。岩本隊はこの戦闘後、敵の攻撃を避けるためスコールへ退避中で激しくゆれる瑞鶴に着艦し補給を行った。
米軍の第二次攻撃迎撃の為に他の小隊と共に発艦し、岩本隊他は概ね高度6500メートルまで上昇の後、母艦から4.50キロメートルの海域で、高度5000メートルを飛行中のレキシントンからのF4F戦闘機に護衛されたSBD爆撃機を捕捉した。このうち岩本らは空母護衛の日本軍巡洋艦に向かった急降下爆撃機に攻撃を加えた。岩本は追撃に熱中する列機に対し中止を命じ、後続する筈の敵雷撃機の攻撃を予想して、スコールの雨雲の上の指揮官機に集まるよう信号を送り、1,2中隊12機で上空哨戒についた。瑞鶴がスコールに退避して無事を確認したが、翔鶴は航行に支障はなかったが爆撃で飛行機の発着が不能となったことに岩本は気がついた。予想通りTBDデバステーターが現れ、岩本は空母10km先で気づき7kmの地点でTBD雷撃機を攻撃した。TBD機は遠距離から魚雷を投下したため両空母に被害はなかった。岩本は後にこの雷撃機に対して「日本機なら攻撃されても射点での攻撃を敢行しただろう」と回想している。追撃のチャンスだったが高度4000メートルで哨戒、10分後に味方戦闘機を高位より攻撃準備中の敵F4F戦闘機を発見し救援援護した。瑞鶴は相変わらずスコールに隠れていたが、翔鶴は集中攻撃を受けレキシントン隊オールト中佐のSBD4機が放った500ポンド爆弾の1発が艦橋後方に命中した。第二次攻撃隊が去ったと判断した岩本は、今はスコールの外を航行中の瑞鶴に燃料と弾薬の補給の許可を求めたが容れられず、暫く高度5000mで直衛哨戒を続けたが燃料切れ間近となったので母艦に着艦要請を出し翔鶴隊と共に着艦。岩本は補給後に指揮官として7機を指揮し上空直衛に上った。しばらく後に、米空母を攻撃した日本軍機が帰還し、翔鶴が着艦不能なために全て瑞鶴に収容されたが、その後も1時間ほど直衛についた。
珊瑚海海戦は目的を達成できず撤退するが、母艦瑞鶴と岩本らの直衛隊は1名の戦死もなく無傷であったが、攻撃隊の多くの搭乗員を失った岩本は「さびしい。涙がにじむ。このように一度に多数の戦友を失ったのははじめてだ。」「優秀な搭乗員を多数なくして、これからさき、いかにして闘ってゆくつもりだろう」と心境を後につづっている。米軍邀撃機は空母レーダーから日本軍機の位置の指示を受けて時々刻々の対応ができ、日本軍は母艦から簡単な敵情程度しか知らされないその中で岩本は母艦「瑞鶴」をよく護ったと戦闘中に艦長と飛行長よりの賞賛を受けた。
1942年6月15日、「瑞鶴」はアリューシャン攻撃部隊支援として出撃するが、悪天候のため戦闘機隊に活躍の場は無かった。8月、岩本は、搭乗員の教育要員として大村空に転属。その後、横空に転属。1942年11月1日、上等飛行兵曹。1943年(昭和18年)2月上旬に追浜空所属機に搭乗し、芦ノ湖上空で木村泰熊上整曹たちとともに快晴の富士山上空を飛翔する、標識番号「オヒ-101」の零戦21型の写真を残している。
ラバウル方面
1943年3月、岩本は281空の開隊とともに配属となった。1943年4月1日海軍飛行兵曹長、分隊士。5月に対アリューシャン方面の最前線である幌筵島武蔵基地に進出。幌莚時代には勤務の間に同僚後輩を連れ立って、遡上してきた鮭を大量に捕らえ酒宴を開いたとのエピソードがある[4]。
1943年11月、岩本ら281空の16名は一大航空戦が展開されていたラバウルに派遣され、第二〇一航空隊に編入。ラバウル到着から一週間後に爆撃を受け迎撃のため出撃した岩本は同じ中隊9名に損害を出さず7機を撃墜報告。隊全体で敵52機を撃墜する大戦果を報告した。また岩本が先行し部下がそれにならって3号爆弾で敵14機編隊を一度に撃墜と報告したこともあった[5]。当時の海軍戦闘機隊搭乗員は二直交代勤務に就くことが多かったが、岩本は直長として編隊指揮を執った。機数は稼動機数の関係で上下したが、概ね20機弱から40機前後だった。日本海軍の空中指揮は階級に依存したが、岩本は搭乗士官(飛曹長=准士官)として空中指揮を担当した。
1943年12月第二〇四海軍航空隊へ異動。ブーゲンビル島のタロキナ飛行場への攻撃任務では、単機で出撃して超低空侵入で奇襲に成功し、20機以上の米軍機を銃撃で破壊と報告。飛行場手前で急上昇して、滑走路に並んだ列線に一撃、切り返してもう一撃、そのまま低空を突っ走って帰ってきた。そして、現地の陸軍からは「敵飛行場は火の海になっている。」との電報が入ってきた。このときの出撃は、先任飛曹長が出撃を拒絶してしまったため、その状況を見かねて岩本自らが志願したと述懐している。
12月以降、敵戦爆連合のラバウル空襲は猛烈で「爆撃機を1週間のべ1,000機平均(ニミッツの太平洋戦記)」、「陸・海・海兵隊と連合国空軍によるラバウル総攻撃(グレゴリー・ボイントン)」という空前の規模で数ヶ月間、圧倒的機数で連日行われた。日本軍は約20?30機の零戦で粘り強く対抗しつづけた。実際はこの少数であった日本軍の兵力をアメリカ軍は過剰に見誤り、日本軍は約1000機をもってアメリカ軍に対抗していると考えていた。このためアメリカ本国に増援を求める報告を発信している。
ラバウル航空隊69対0勝利の記録フィルム[1]、日本ニュース映画「ラバウル」「南海決戦場」はこの時期の撮影であり、地上員からも撃墜50機以上を数えたことが目撃されている。また1月7日の多数機撃墜戦果は翌日奏上され御嘉賞されたことが知られている。岩本の活躍は郷里の益田にもニュース映画を通して知られ、岩本が搭乗したゼロ戦のプロペラが益田小学校に展示された。この頃、ニュース映画を見て「益田の岩本さん」を知ったある女学生が、戦後岩本とお見合いで知り合い、岩本夫人となった。
当時のラバウルは、マッカーサーの南西太平洋方面軍のフィリピンへの進路にあって米陸海軍が圧倒的な戦力で重点的に攻撃を集中していた。岩本は1943年12月4日ラバウルで邀撃後、多くの日本軍戦闘機を撃墜したアメリカ軍機の基地帰還時を狙って待ち伏せ攻撃で奇襲撃墜し、「送り狼」と呼ばれる戦法をとった。このように、攻撃を終えて帰還中の敵を攻撃する「敵攻撃の直接的阻止」を目的に置かない「送り狼」戦法について、「我々の今やっている戦法は長い間の実戦の経験から体得されたもので、今来たばかりの部隊にはとうてい理解できないところがある」と岩本自身も述べている。1943年12月15日感状授与。
1944年(昭和19年)1月、204空のトラック島撤退に伴い、機材人材を引き継いだ二五三空に異動となる。1943年末から1944年2月まで、岩本飛曹長の搭乗した253航空隊の102号機は零戦二二型根拠・出典は?で、撃墜数を表す桜のマークが60?70個も描かれており、遠目からは機体後部がピンク色に見えた。もちろん、この機体は上空でも敵の目を惹いたが、岩本は敵機をことごとく返り討ちにしていった。
岩本らラバウル航空隊では、敵爆撃機の編隊に対して1000?2000m上空から敵の進行方向と正対する様に飛行し、緩降下して敵編隊長機との直線距離が3?5000m程度になった時に背面飛行に入り射撃角度を調整しながら急降下し、
敵機との距離が150m以内に近づいた時に20mm機関砲と7.7mm機銃を直上から爆撃機の操縦席を狙って1?2秒の間に発射し高速で下方向に離脱、再度上昇して反復攻撃する攻撃法を採用していた。
岩本らは繰り返しこの戦法でB-24撃墜の戦果を報告していた。この戦法のメリットは敵編隊の機銃の数が制限されること、自機の機速と敵の機動により照準がつけにくいことであり、デメリットは高度な飛行テクニックと計算力、射撃能力が要求される。岩本は「この攻撃方法は1秒でも時間を誤れば失敗するが操作時期さえ良ければ十中八九成功する」が「若い搭乗員にはそんな難しい攻撃法はとても無理である」と述べている[6]。
後に岩本は大隅半島上空でこの攻撃法によりB-29を一撃で撃墜したと報告している。この攻撃方法を応用して、岩本飛曹長、小町定上飛曹、熊谷鉄太郎飛曹長らにより、三号爆弾(三号特爆)による対編隊爆撃が行なわれた。背面で機銃攻撃に入る代わりに爆弾を投下して、敵編隊から降下速度を利用してその後方に抜ける戦法である。戦後の回想録および複数の目撃証言でその詳細が明らかにされた。三号弾は1942(昭和17)年後半に導入され、当初は飛行場襲撃に使用されていた。1943年12月9日の岩本らの小隊による試用攻撃で、帰途集結旋回中の編隊26機を一気に撃墜を報告、その後機会があるごとに熟達し、一撃で艦爆14機、トラック基地B-24迎撃戦では余裕のある接敵さえ適えばほぼ確実に命中できる域にまで達したという。
三号爆弾について岩本自身は「(長年の経験による)カンで投弾したので、あれこれ口で説明するのはなかなか難しい」と最初の投弾についての報告について回想している。トラック島253空電信員加藤茂は「丁度、敵機が真上をすぎたときである。電信員がかぶっているレシーバーから、なにやら訳の分からない英語の叫び声が防空壕電信室一杯に響き渡った。あまりの近距離と、敵機の電信機の出力が大きいせいであろう。と、その時叫び声が泣き声のように変わる。明らかに絶望的な叫び声がつんざいた。これこそおそらくは我が零戦隊の岩本飛曹長らが投じた3号爆弾が敵編隊に命中したものであろう。壕から出て敵機を見ると、数条の白煙を吐いたB24がまさに夏島の山かげに消えて行くところであった。」と回想する。僚機でもあった小町定は「三号爆弾を落とす時は、人によって、また場合によってやり方は異なりますが、約千メートルの高度差をもって敵編隊と同航し、その前方に出てちょうど自分の翼のつけ根の後ろあたりに敵が見えた時、切り返して背面ダイブで垂直になって突っ込むんです。しかし大型機はなかなか、ガソリンを引くことはあってもその場で落ちることは少なかったですね。岩本先輩とはラバウル、トラックでは私は腕を競い合う仲にありました。地上の運動は何をやってもできるし、空戦の腕も達者でしたが、口も達者で、いつも大風呂敷をひろげていました。」と語っている。[注釈 4]
1944年2月、米機動艦隊により大損害を受けたトラック島の防御を固めるため二五三空はラバウルより撤収しトラック島に移動。岩本も以後トラック島にて防空戦に従事した。ところがそれ以来部隊はほとんど機材も人員も補充を受けることが出来ず[7]、テニアンの一航艦司令部からの三号爆弾の要領指導の派遣を「一名の余裕もなし」と断るほど逼迫した状況だった。飛行可能機が搭乗員の1/3となった二五三空は1944年6月、機材を自力で補充するべく岩本ら空輸要員4名を内地に派遣帰還させた。ところが、内地到着後に始まったサイパン島の戦いにより、機材受領後に再びトラック島へ戻るための主要空路を遮断されてしまったため、トラック復帰は取り止めとなり、
岩本はしばらく木更津空にとどまったあと、1944年8月、三三二空に異動。この時期までに飛行時間は8,000時間を超え、離着陸回数 13,400 回を超えた[注釈 5]。
二五二空
1944年(昭和19年)9月第252海軍航空隊戦闘三一六飛行隊。予科練出身の252空所属若年搭乗員の回想には「優しい人柄で決して乱暴はせず、むしろそれほどエライ方といった印象は受けなかった」と記述している。10月台湾沖航空戦、フィリピン沖海戦に参加。
1944(昭和19)年9月、千葉県茂原基地で二五二空戦闘第三〇二飛行隊の角田和男少尉が謹慎していたとき、二五二空から岩本徹三、斎藤三郎が、二〇三空から西沢広義、長田延義、尾関行治が訪れた。そこで岩本が「敵が来る時は退いて敵の引き際に落とすんだ。つまり上空で待機してて離脱して帰ろうとする奴を一撃必墜するんだ。すでに里心ついた敵は反撃の意思がないから楽に落とせるよ。1回の空戦で5機まで落としたことあるな。」と言ったことに対し、西沢は「岩本さんそりゃずるいよ。私らが一生懸命ぐるぐる回りながらやっているのを見物してるなんて(岩本は1943年11月にラバウル着任、西沢は43年10月に内地帰還しているので実際にラバウルでこういう場面があったわけではない)。
途中で帰る奴なんか、被弾したか、臆病風に吹かれた奴でしょう。それでは(他機との)協同撃墜じゃないですか。」と言った。それに対し岩本は「でも、俺が落とさなくちゃ、奴ら基地まで帰るだろ?しかしいつもこうしてばかりもいられない。敵の数が多すぎて勝ち目の無い時は目をつむって真正面から機銃撃ちっぱなしにして操縦桿をぐりぐり回しながら突っ込んで離脱する時もあるよ。」と言った。角田によれば、中でも西沢は岩本に並ぶ日本海軍エースで、彼らの話はやがてラバウルでの航空戦になり、皆は岩本と西沢のこの話に聞き入ったという[8]。
この夜から一ヶ月も経たないうちに西沢は輸送機に便乗移動中にミンドロ島で、尾関はルソン島上空で戦死、斎藤は負傷、長田も翌年沖縄沖で戦死した。岩本は「我々には伊達に特務の2字がついているんじゃない。日露戦争の杉野兵曹長の昔から、兵学校出の士官にもできない、下士官にもできないことをするのが我々特准なんだ。がんばろうぜ!」この時、謹慎中の角田を励ました。
岩本に指導を受けた後輩の印象では、「西沢広義飛曹長は長身で目つきが鋭くて眉も太い精悍な顔つきから、なるほどあれが撃墜数150機の撃墜王だと感じた。一方で、小柄の体でやさしい風貌の岩本少尉には、どこにそのような力があるのだろうかと感じた。」と述懐している。
1944年10月末、第二航空艦隊で行われた第二神風特別攻撃隊の志願者募集の際、岩本は「死んでは戦争は終わりだ。われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、敵を一機でも多く叩き落としていくのが任務じゃないか。一度きりの体当たりで死んでたまるか。俺は否だ。」と言って志願しなかった[9]。 特攻に関して岩本は「この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。神ならぬ身、生きる道あってこそ兵の士気は上がる。表向きは作ったような元気を装っているが、影では泣いている。」「命ある限り戦ってこそ、戦闘機乗りです。」 「こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった[10]。」と回想している。
岩本は二五二空で後にサイパン銃撃隊(第一御盾隊)隊員となる若年搭乗員達を訓練していた。第1御楯特別攻撃襲撃隊大村中尉以下の活躍について「短期訓練で、あれだけ困難な任務をよくもやりとげたもものだと、強い感銘を受けた」という。回想録では、近接護衛戦闘機として数十機の特攻機の突入を目の当たりにして、数刻前まで共に存在していた人々が消えてしまったことに「髪の毛が逆立つ思いであった。」「せめて彼らの最後と、その戦果を、詳細に見届けておこうと、私は何時までも上空を旋回していた」としている。戦争末期の飛行機の搭乗員に対して「訓練しては前線に送り、一作戦で全滅させて、またもや訓練の繰り返しである。実戦に役立つ戦力に達するには程遠い。しかし、前線では搭乗員が不足しているのだ」と述べている。
1944年11月1日 海軍少尉。1944年11月第二五二海軍航空隊戦闘三一一飛行隊。1945年2月16日、米軍のジャンボリー作戦に対する関東地区迎撃戦に参加。
二〇三空
1945年(昭和20年)3月末二〇三空戦闘三〇三飛行隊。沖縄戦開始の米軍上陸地点を最初に確認した夜間単機強行偵察。沖縄戦開始初頭の夜間強行偵察では、岩本が単機で慶良間諸島で上陸作業中の米軍艦艇を銃撃し、大損害を与えたことが、慶良間海洋文化館の記録と、岩本の手記とで一致している。4月?6月半ばまで数次にわたる特攻作戦の直掩。4月7日坊ノ岬沖海戦の事後迎撃。鹿屋航空基地上空でのB-29編隊単機撃墜を報告。
土方敏夫中尉の沖縄戦での回想には岩本から受けた指導が残されている。上空からグラマンの不意打ちを食って全機が下方に避退したことについて「あんなときは、全機が降下するのではなく誰かが上昇するようでなければ駄目なんだ。これは責任感の問題だ。」と岩本がその日の空中戦について地上で話し合ったとき力説していたという。この日の空戦は岩本も足の指に負傷するほどの激戦で、着陸後しばらくの間、岩本は操縦席の中で動くことすらできなくなっていた。
岩本は経験未熟な若年の土方敏夫中尉が配属されたとき「初陣で弾を撃ってはいけません。私がまず敵を落として見せるから離れずついてきて見ていればいいです。最初から敵を落とそうなどと考えては一人前になれません。もし着陸してから調べてみて弾が出ているようなら私は貴方を軽蔑しますよ。」と話した。しかし乱戦となり、自らの上官を見失い着陸後に再会して、上官に対して「申し訳なかった。」と泣いていた。また、岩本の戦いぶりを地上で見ていたときは「岩本さんは被弾して帰ってくることが多かった。あるときは、機体じゅうに被弾してよく墜ちなかったなあと思った。」という。
土方中尉の編隊が場外飛行に向かう途中、天候不良で岩国に引き返してきたとき、岩本は土方中尉に「無理をしてはいけないですよ。よく引き返しましたね。」とその判断を褒め、褒められた土方中尉は「あの恐ろしいと思っていた岩本少尉が褒めてくれたのは、何よりも嬉しいことであった。」と感じたという。
「岩本少尉は、救命胴衣の背面には通常は所属部隊と姓名官職を書くところ、救命胴衣の背中に「零戦虎徹」(「虎徹」の二文字は新選組局長・近藤勇の佩刀としても有名な刀工長曾彌虎徹興里になぞらえたもの)、「天下の浪人」など大書していました。この「天下の浪人虎徹」の文字はよく目立ち、名前を聞かずとも岩本少尉であるとすぐわかりました。岩本少尉の普段は、見たところ田舎のじいさんのような格好をしていましたが、一旦車輪をしまって飛び上がれば、向かうところ敵なしでたいてい撃墜して帰ってきました。」と回想している。
零戦を名刀虎徹に準えたことについて、二五二空時代の同僚斎藤三郎少尉は「古書に曰く、兵は稜なりと。スピードがあるので、相互の攻守位置が瞬間に逆転する。敵の隙を見落とした瞬間、逆にわが態勢は崩れ去るのが普通だった。その意味で所詮空戦もまた白刃場裡を一歩も出るものでなかった。いかに正宗、虎徹のごとき名刀をたばさんでいても、機会を逸すれば鈍刀にも劣る。」[11]と解説している。
第203航空隊の安部正治上飛曹の手記によると、岩本先輩は支那事変からの古強者で、海兵団出身者には親しみを感じられていました。岩本先輩は小柄で物静かでしたが、強い殺気を感じさせるものがあり、さながら昔の剣客といった印象でした。彼の放った射弾は垂直降下中でも、どの方向からでも敵機に吸い込まれていきました。昭和20年5月4日、安部上飛曹は沖永良部上空で空戦に入り、F4Uを撃墜した。基地に帰投後岩本分隊士から「どうや?やったか?」と質問され「はい。1機やりました!」と答えると「うん。よっしゃ!よっしゃ!」と元気な声で戦果を集計された。その姿はピンピン跳ね返るような嬉しさに満ち、まさに撃墜が戦闘機乗りの最高の生きがいであると言わんばかりであった。岩本自身「この撃墜の瞬間の気持ちは、なんとも言えない。命をまとに闘っている戦闘機乗りにだけ許された至境であろう。」とラバウルでの戦闘で述べている[12]。
1945年6月二〇三空補充部隊として岩国で、B-29の編隊に対して零戦で自爆特攻をする「天雷特別攻撃隊」の教官として教育・指導を行う[13]。
1945年8月15日終戦を迎える。喪失感のあまり3日ほど抜け殻のようになったと述べている。終戦から数日後、搭乗員解散命令で、写真など全部の所持品を焼いて、ウイスキー1本を軍用自転車に積んで、岩国から益田まで帰郷した。ポツダム進級によって1945年9月5日海軍中尉、予備役編入。
戦後
戦後は東京のGHQに2度呼び出されラバウルなどの戦闘の様子について尋問された。戦犯には問われなかったが、公職追放となった[14]。岩本は日本開拓公社に入社し、昭和22年2月11日、同郷の幸子夫人と見合い結婚するが、結婚3日後に北海道の開拓に単身出発した。しかしながら1年半で心臓を病み帰郷。このとき夫人と再会した岩本は、夫人の顔を忘れていたようである。その後の生活は不遇であり、空の生活から地上の生活になじめず、また軍隊気分も抜けず、戦後の世相への適応も簡単ではなかった。そして次第に心のはけ口をアルコールに依存していった。
しかし、近所の人たちには戦時中の話をして喜ばせ、隣家で結核患者が病死した際、感染を恐れて誰も遺体に近づかない状況をみかねて、岩本は鼻の穴に綿をつめて一人淡々と遺体を葬った、との逸話が残っている。
益田土木事務所をはじめ、畑仕事、鶏の飼育、駅前の菓子問屋などの職をかわった。2人の子を持つ父親としての岩本は、手先が器用だったので、子供のおもちゃは自分で作っていた。
トタン、ブリキを買ってきては、自動車を作って色を塗り、時計、電蓄、バイク、自動車などよく自分で修理した。自動車は近所のポンコツでも立派に動きだすので夫人に感心されていた。
1952年(昭和27年)、GHQ統治支配が終わり益田大和紡績会社に職を得てようやく落ち着いたが、1953年(昭和28年)、盲腸炎を腸炎と誤診され腹部を大手術すること3回、さらに入院中に戦傷を受けた背中が痛みだし4,5回の手術を行い、最後は麻酔をかけずに脇の下を30cmくらい切開して肋骨を2本取り出した。最後は敗血症により、原発の病名も不明のまま1955年(昭和30年)5月12日、7歳と5歳の男の子を残して逝去。
享年38。病床にあっても「元気になったらまた飛行機に乗りたい」と語っていた。
204空時代の司令柴田武雄は岩本の葬式で、「岩本は、戦闘機乗りになるために生まれてきたような男でした」と語っている。
夫人は、未公開の回想録を後世に伝えた功労者の一人。彼がラバウルで活躍していた頃は郷里の女学生であり日本海軍のエースパイロットとして報道映画で紹介された彼を見たのが初めてであった。戦後山陰の郷里にもどった彼と平凡な見合いで結婚し、生き残って苦しい生活の続いた彼を助けた。
彼は不運にも早世してしまい、海軍時代を詳細に記した大学ノート3冊の回想録は日の目をみることなく死後10数年間夫人の下に保管されたままになっていた。
今日の話題社の中村正利はこの遺稿の存在を知り、作家秦郁彦が監修協力して「零戦撃墜王」と題し出版された。単行本の出版に際し、戦記画家の高荷義之が挿画・装丁図、新装本ではさらに零戦の武装系統図と動作解説を追加、全面的に担当した。戦後20年を経て、彼自身の詳細な回想録が世に出るに至った。岩本の次男は航空自衛隊に入隊している。
戦法
撃墜数は、戦後の自己申告である202機のほか、戦後調べでは撃墜報告80機とする文献もある。(日本海軍では1942年末以降、個人撃墜数を記録していないため、正式な数は不明)
岩本は編隊による優位位置からの一撃離脱戦法を多用していた。1943年末日本は4機編隊構成を採用していたが、岩本は機上無線機のモールス電信を活用し連携を心がけ、基地司令部との交信で来襲情報を受信し、迎撃隊を有利な位置に導いて戦闘指揮した。また格闘戦にも絶対的な自信を持っていた。ある日の空中戦では、岩本単機対F6F戦闘機4機で空戦に入り、そのことごとくを撃墜したことが地上監視所から報告されている。この頃の岩本は「5倍や10倍の敵など恐くはない。ただし、エンジントラブルだけはどうしようもない。」と戦場で活躍する零戦の現実を記している。
空中戦では常に一番に敵を発見していたが、視力検査をすると彼の視力は日本海軍パイロットとしては良い方ではなかった。敵機の索敵方法について教えを請われると「敵機は目でみるんじゃありゃんせん、感じるもんです。」と言いつつ、戦場の経験から敵編隊群の進攻方向を想定し、プロペラが太陽の光を反射する輝きを察知してゆく彼の索敵方法を教えていった。
また、会敵までの敵距離の予測を、米軍機の機上電話(短波無線)を傍受しその強弱によって、敵との遠近を推測する彼独自の電子戦を実施していた。
岩本は「媚(こ)びず、諂(へつら)わず、とらわれず。」という武士道的な言葉を常々自身に言い聞かせていた。堀建二2飛曹は岩本から「どんな場合でも、実戦で墜されるのは不注意による。まず第一は見張りだ。真剣に見張りをやって最初にこちらから敵を発見する。そして、その敵がかかってきたら、機銃弾の軸線を外す。そうすれば墜されることはまずない。地上砲火による場合。これは、どうにもならん。避けようがないからな。その場合は潔くあきらめるさ!」と指導を受けたという。
著書
遺稿の空戦ノート(未公開の大学ノート3冊)
零戦撃墜王初出版(今日の話題社, ISBN なし)昭和47年7月10日発行
零戦撃墜王新装版(今日の話題社, ISBN 4-87565-121-X)昭和61年2月25日発行
零戦撃墜王 (光人社NF文庫, ISBN 476982050X)
遺稿空戦ノート(零戦撃墜王新装版の巻末に掲載されたオリジナルノート沖縄戦1ページ写真より)
原文は横書き、各行約40?42文字程度にそろえ、1ページ28行である。
空戦機種、機数は文章中に直接は記入されていない、別欄に分けられている。
空中指揮官(准士官以上)の現認証明、行動調書に似た記述形式で、論文のように読まれることを意識した、細かいが各行大きさを揃えた読みやすい字で丁寧にびっしりと、詳細な戦況報告図とともに書きこまれている。
精神的にきちんとした真面目な性格の人の筆跡、文体である。小説家原稿のようなかきなぐった荒れた字体や修正はない。
「ラバウルで142機」は遺稿ノート中の各戦闘結果集計(「零戦撃墜王」新装版・今日の話題社に一部掲載)に基づくものである。戦後暫くして判明した事実に基づく内容の擦り合わせ修正はなく、日付を1ヶ月程ずらした(陰暦日付に近い)個所が数ヶ所あるが、搭乗員の日記は防諜のため日付を隠して書くことは他にも例があり、また戦後はGHQの統治支配が昭和27年春まで続き多数戦犯の外地拘置所や処刑、シベリア抑留も続いていた時代であり、どのような理由によるかは今日では確かめようがない。なお、光人社NF文庫では細部に修正あり、写真のコメント文は強い口調になった。
西澤 廣義/西沢 広義(にしざわ ひろよし、
1920年1月27日 - 1944年10月26日)は、日本の海軍軍人。第二次世界大戦のエースパイロット。戦死による二階級特進で最終階級は海軍中尉。撃墜数は自称143機だが、後述のように公認撃墜数は87機である。
経歴
1920年(大正9年)1月27日、長野県上水内郡南小川村で退役軍人の父のもとに4男1女の三男として生まれる。実家の家業は農業、養蚕業であった[1]。1934年(昭和9年)3月、南小川小学校高等科を卒業。4月、父の勧めで岡谷の生糸工場に就職[2]。
海軍飛行予科練習生の募集広告を見て受験し、1936年(昭和11年)6月1日、横須賀航空隊の乙種飛行予科練習生第7期(204名)を拝命、海軍四等航空兵に任官[3]。1938年8月15日、霞ケ浦空付。飛行練習生陸上機班を71名中16位で卒業し、戦闘機専修者20名の一人として1939年3月、大分海軍航空隊で教育を受ける[4]。大分空での教員は武藤金義一空曹(支那事変の撃墜王)で九五式艦上戦闘機と九六式艦上戦闘機で学んだ[5]。1940年12月、鈴鹿海軍航空隊(偵察専修者練習航空隊)に配属。偵察専修者を乗せた練習機を操縦する操縦教員を務めた[6]。
ラバウル方面
ソロモン諸島上空を飛行する西沢広義の零式艦上戦闘機 (A6M3)(1943年)
ソロモン海域上空を飛ぶ、零式戦闘機22型。西沢広義搭乗機だとする文献もあるが撮影者の吉田一によれば誰かわかっていない。(1943年5月7日)
1941年(昭和16年)10月1日千歳海軍航空隊に配属。日米開戦に備えて訓練を受ける。サイパン、ルオットと移動し、1942年(昭和17年)2月、トラック島からラバウルに進出。2月3日夜、新月という視界が悪い中、九六式艦上戦闘機で双発飛行艇を迎撃、初めての撃墜を報告する[7]。しかし、豪空軍の記録によれば、この PBY カタリナ飛行艇は被弾しながらも基地に帰投している[8]。
2月10日、第四航空隊に配属。戦闘を重ねて単独撃墜7機、協同撃墜5機を報告している。1942年4月1日、台南海軍航空隊(台南空)に配属。第25航空戦隊が新編され、四空の戦闘機隊の人員、機材が台南空に吸収された。1942年5月1日、モレスビー攻撃で戦闘機一機撃墜を報告。7日、戦闘機二機撃墜を報告。その後も戦闘を重ねる。5月27日、モレスビー攻撃で戦闘機一機撃墜を報告。
戦後、坂井三郎は、当時太田敏夫と西沢広義とともに台南空の三羽烏と呼ばれ、この時に3人で中隊から離脱し、無断でポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて3人で三回連続編隊宙返りを行って他から遅れて帰還したという話を紹介している。しかし、戦闘行動調書によれば、坂井の主張する5月27日はモレスビー上空で交戦後、11時30分に全機がラエに帰着しており、坂井が他の著作で主張した6月25日には太田が出撃していない。その他の日も合わせて日本でも連合軍でも坂井たちが別行動をとった記録はない[9]。1942年8月7日、西沢はガダルカナル島攻撃に参加。西澤は撃墜6機を報告。同戦闘で負傷した坂井三郎が内地に帰還したため、西沢が先任下士官となる[10]。1942年10月21日、西沢は撃墜30機を全軍布告された[11]。
1942年11月1日、台南空は第251海軍航空隊と改称。部隊損耗が大きく再建のために豊橋に帰還。生還した搭乗者は西沢を含め十数名だった。1943年(昭和18年)5月10日、ラバウルに再進出。西沢は鴛淵孝中尉の戦闘教育を任せられる。6月からルッセル島周辺の作戦に従事するも、6月末に連合軍はレンドバ島に上陸したため、251空はラバウル、ブインの基地から出撃して消耗していった。8月1日、レンドバ島上空の二度にわたる空戦で八機を共同撃墜を報告[12]。また、西沢を小隊長とする4機はF4Uコルセア4機と交戦、西沢単独で3機撃墜、部下が1機撃墜を報告している。ラバウル離任時に岡本晴年に「86機撃墜」と語っている[13]。
1943年9月1日、253空に転属。同月、航空艦隊司令長官草鹿任一より100機撃墜記念の感状と「武功抜群」と書かれたのし紙が巻かれた白鞘の軍刀を授与される[14]。10月、内地帰還。
1943年11月1日、大分空に配属。飛行学生教官を務める。教え子には厳しかったが自分の武功を自慢することはなかった[15]。
二〇三空
1944年3月1日、203空に配属。7月10日、戦闘第303飛行隊に所属。北千島方面の防衛にあたる。ベテランが次々死んでいくため経験の浅い者の指揮を心配し軍紀のあり方についての論文を提出する。
1944年(昭和19年)9月下旬、千葉県茂原基地の角田和男飛曹長の部屋に、南東方面の激戦を経験したエース・パイロット、西澤、岩本徹三、長田延義、尾関行治、斎藤三朗らが集まる機会があった。この際、西沢は撃墜数を120機以上と語っている。また、岩本徹三が「敵が来る時は退いて敵の引き際に落とすんだ。つまり上空で待機してて離脱して帰ろうとする奴を一撃必墜するんだ。すでに里心ついた敵は反撃の意思がないから楽に落とせるよ。一回の空戦で五機まで落としたことがあるな」「敵の数が多すぎて勝ち目の無い時は目をつむって真正面から機銃撃ちっぱなしにして操縦桿をぐりぐり回しながら突っ込んで離脱する時もあるよ」と語ると、西沢は「途中で帰る奴なんか、被弾したか、臆病風に吹かれた奴でしょう。それでは(他機との)協同撃墜じゃないですか」と反論している[16]。
1944年(昭和19年)10月、捷号作戦参加のためフィリピンへ進出。10月25日、関行男大尉率いる神風特別攻撃隊敷島隊の直掩を務め戦果を確認する。10月26日、乗機をセブ基地の特別攻撃隊に引渡し、新しい飛行機受領のため、マバラカット基地へ輸送機に便乗して移動する。その途中、輸送機がミンドロ島北端上空に達したところで、ハロルド・P・ニュウェル中尉のグラマンF6Fの攻撃を受けて撃墜され、西沢は戦死した。ニュウェル中尉は百式重爆撃機だったとするが、1021空の河野光揚によれば、一式陸攻ではないかという[17]。
1945年8月15日終戦時、連合艦隊告示172号で、「戦闘機隊の中堅幹部として終始勇戦敢闘し敵機に対する協同戦果429機撃墜49機撃破内単独36機撃墜2機撃破の稀に見る赫々たる武勲を奉し」と全軍布告された。この他の撃墜数に、家族への手紙に記載された143機、戦死時の新聞報道に記載された150機がある。
戦後、太平洋戦争における日米両軍を通じたトップエースの一人として知られ、アメリカ合衆国の国防総省とスミソニアン博物館に杉田庄一と並んで肖像が飾られている[18]。美男子であり身長は180センチ以上あった[15]。戦後書かれた戦記では「ラバウルの魔王」と評された。
【海軍戦闘機隊】福本繁夫飛曹長 〜撃墜72機。謎のエース〜
ラバウル航空隊ブイン基地
(画像はwikipediaより転載)
2020年10月02日
福本繁夫の経歴
撃墜72機といわれる謎の多い撃墜王である。
生年月日不明である。大正9年前後生まれ。乙種予科練7期生なので、昭和11年6月予科練7期生として海軍に入隊したと推定される(但し、昭和10年とする資料もあり)。昭和14年3月飛練課程修了。開戦前は美幌航空隊に所属していたようだ。その後千歳航空隊に転属しマーシャル諸島で開戦を迎える。
台南航空隊に配属されラバウル航空戦に参加、同僚からは「坂井と肩を並べるベテラン」と言われていたようだ。千歳航空隊以来、どうも同期で日本海軍のトップエースの一人である西沢広義と一緒に転属していたようだ。昭和18年11月、乙飛7期出身者は飛曹長に昇進しているので恐らく福本もこの時期に飛曹長に昇進したと思われる。
昭和18年12月に253空には転属する。岩本徹三、小町定らと共に連日の戦闘に参加。第一中隊長岩本徹三、第二中隊長福本というような編成もあり253空の基幹搭乗員として活躍していた。川戸正治郎氏の著書『体当たり空戦記』によると福本飛曹長が新人である川戸二飛曹の危機を救ったこともあったようだ。昭和19年2月、岩本達253空本隊はトラック島に後退するが福本は残留している。
この253空後退後のラバウル253空についてであるが、秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』253空の項には「ラバウルには福本繁夫飛曹長の指揮する零戦9機のみが残留した。」とあり、福本飛曹長と共に零戦9機も残留したことになっているが、碇義朗『最後のゼロファイター』にはラバウルには958空の零式三座水上偵察機8〜9機のみとある。どちらが正しいのかは不明であるが、その後の経緯から考えても零式三座水偵が残った可能性が高そうだ。
ともかくも福本飛曹長は何らかの事情でラバウルに残留している。どうして福本ほどの熟練者が本隊から離れたのかは不明だが、同時期にラバウルに残留した零戦搭乗員川戸正治郎氏の回想録によると零戦隊ラバウル撤収時の残留搭乗員はマラリアの重症患者と負傷者の7〜8名だったとあり(川戸正治郎「零戦ラバウルに在り」『炎の翼』)、福本飛曹長も重症又は負傷していた可能性が高い。
残留した福本は、現地で製作された零戦を駆って指揮官として戦った。現地制作の零戦は、253空撤収後、まず2機修復され、さらに昭和19年2月末までにさらに5機完成した。昭和19年3月3日、福本飛曹長を指揮官とする現地製作された零戦隊7機はアメリカ海兵隊第223戦闘中隊と空戦に入る。米軍側記録によると米軍機に損害無し、零戦を1機撃墜、1機不確実とあるが、日本側記録では米軍機5機を撃墜したとある。
3日後の3月6日にも空戦が行われているがこの戦闘に福本が参加していたのかは不明。3月13日には列機3機を率いて、グリーン島の攻撃に参加しているが列機は集合できず、福本のみが攻撃し帰投している。3月23〜24日の深夜に第17軍突撃掩護のため零戦3機が出撃したが、滑走中の事故で3機とも損傷。掩護を行うことが出来なかった。福本は自身が出撃しなかったことを理由に苛立った司令から暴行を受けた。
そして昭和19年4月25日、ラバウル108航空廠で廃機から製作された月光2機を護衛するためラバウルからトラック島に向かう。その後、潜水艦で日本に戻った(『最後のゼロファイター』)。日本に戻った日は不明だが、昭和20年2〜3月頃のようだ。昭和20年5月頃から首都防空のエース302空に配属された。5月25、26日の京阪地区防空戦では零夜戦を駆って敵機1機を撃墜したようである(『首都防衛三〇二空』)。その後、302空で終戦を迎えた。
昭和20年12月、酒気帯び運転による自動車事故により死亡した(『最後のゼロファイター』)。撃墜72機を自称し、当時の搭乗員の記録にもほとんど登場しないが石川清治氏によれば「フクチャン」の愛称で呼ばれ、にこやかな茶目っ気たっぷりの人柄だったという。
福本繁夫関連書籍
ヘンリーサカイダ・碇義朗『最後のゼロファイター』
最後のゼロファイター―日米のエースラバウル空戦始末
ヘンリーサカイダ・碇義朗 著
光人社 (1995/7/1)
幾多の撃墜王を生んだラバウル航空隊は昭和19年2月にトラック島に後退する。ここで太平洋戦争の中心は中部太平洋から比島、本土へと移っていくのだが、忘れ去れたラバウル航空隊では、廃棄された零戦や隼、九七式艦攻などの部品を組み合わせて「ラバウル製航空機」を生産し始めた。海軍は105基地航空隊として偵察、輸送、攻撃の任務に就いた。ほとんど知られることが無かった「その後のラバウル」の出来事を克明に記している。パイロットの多くは他の戦場に移動するが、ラバウルに残留したパイロットに乙7期予科練出身というベテラン搭乗員福本繁夫飛曹長がいた。
kaigunokumuratakeo
杉田 庄一(すぎた しょういち、
1924年(大正13年)7月1日 - 1945年(昭和20年)4月15日)は、日本の海軍軍人。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少尉。大東亜戦争における戦闘機パイロット。
生涯
1924年7月1日、新潟県東頸城郡安塚村(現上越市)で大農家の次男として生れる。家が山中にあったので険しい山道を渡って麓にある学校に通い、雪の日でも休むことはなかった。そのため足腰が鍛えられ、杉田はよく「軍は厳しいとよく言うが俺の家の方がずっと厳しい」と語っていた[1]。1940年(昭和15年)、舞鶴海兵団に入団。1941年2月、予科練丙3期に入り、戦闘機専修練習生となる。同期生には杉野計雄、谷水竹雄らがいる。
二〇四空
1942年(昭和17年)4月、第6航空隊に配属。6空は第3航空隊と台南海軍航空隊の搭乗員を軸に木更津基地で新編され、6月、MI作戦で占領予定のミッドウェー島に輸送中、ミッドウェー海戦の敗北を受け内地へ帰還した。10月、6空はラバウルへ進出し、前線基地ブインに展開する。11月、6空は第204海軍航空隊に改称。
1942年(昭和17年)12月1日、杉田は零式艦上戦闘機で対大型爆撃機の迎撃訓練中、本物のアメリカ陸軍爆撃機B-17と遭遇した[2]。この戦闘で杉田は僚機と共に攻撃を仕掛け、杉田がB17の右主翼を体当たりで破壊して撃墜、初戦果をあげ、杉田自身も垂直尾翼を失った[3]。戦闘機隊長小福田晧文によれば、この戦果は204空による初のB17撃墜であり、杉田も部隊も歓喜したが、一方で杉田は日頃、空中衝突はパイロットの恥と教えられていたためか気落ちした様子でもあったので、小福田はそれは訓練におけることであると励まし、杉田の肉迫攻撃を賞賛し一升瓶を贈与したという[4]。その後も活躍を続け、杉田は204空の最多撃墜数保持者となる[5]。杉田は「命を守るにはこれしかやれることはない」と言い、愛機の整備に余念がなかった[6]。
1943年(昭和18年)4月18日、前線視察のため訪れていた連合艦隊司令長官山本五十六大将の一行が搭乗する一式陸上攻撃機2機の護衛に、全戦闘機6機の内の第一小隊三番機として杉田も参加。午前7時35分(日本時間)、この一連の動きを暗号解読によって察知していたアメリカ軍はブーゲンビル島上空にてP-38戦闘機16機で待ち伏せし、長官機および参謀長機と葉巻のように護衛する一団を発見、奇襲する[7]。空中戦闘では、杉田の射撃で敵1機がエンジンから煙を噴き、他の敵1機が杉田機に来襲して交戦、逃げる敵機の翼根を撃って撃墜した[8]。しかし、午前7時45-50分(日本時間)、一式陸攻2機は敵の攻撃で撃墜され、山本長官は死亡した[9]。
この護衛の任に就いた六名は、その後の出撃で2ヶ月半の間に4人が戦死、1人が右手首を失う重傷を負い、8月26日、杉田も搭乗機のエンジンに被弾して機体が発火、落下傘降下で脱出し、全身に大火傷を負い内地へ送還された。数か月の治療とリハビリの後、大村航空隊の飛行教員に着任。ソロモン戦域最多撃墜数保持者として坂井三郎と共に表彰される[10]。
二六三空
1944年(昭和19年)4月、第263航空隊(豹部隊)配属。笠井智一によれば、杉田はライフジャケットを軽く担いで現れ、玉井司令に無造作な敬礼をして、着任申告を済ませると、司令から杉田の紹介があり、杉田は隊員にも無造作な敬礼をして「何も言う事もないが、遠慮せずに俺についてこい」と挨拶した。兵舎に戻ると「俺の愛する列機来い」と列機となる笠井らを呼び、杉田が司令から貰ってきたという酒で酒盛りをしたという[11]。杉田は怒ることはあったが、部下を殴るような人ではなかったという[12]。
263空はグァムに本拠地を置き、マリアナ諸島・西カロリン諸島方面を転戦したが、6月、あ号作戦により壊滅する。残存した6機がペリリュー島に転進する途中、グラマンF6Fの襲撃を受け、5機が撃墜されたが、杉田は被弾で計器が破壊され洋上航法が困難な中、勘を頼りにペリリューまで辿り着いた[13]。
二〇一空
1944年7月、263空の解隊に伴い、第201海軍航空隊に編入。杉田は分隊長の菅野直大尉の人柄と優れたリーダーシップに心服し[14]、菅野の悪口を言うものには殴りかかった[15]。
7月10日-23日、菅野直大尉率いるヤップ島派遣部隊に参加。B-24迎撃任務に当たる。派遣隊は撃墜17機(不確実9)撃破46機の戦果を上げ、第一航空艦隊司令長官から表彰を受けた[16]。
1944年10月、神風特別攻撃隊が開始。杉田は特攻機直掩任務に当たったが、特攻命令はなかったため、笠井を連れて玉井司令に対して特攻に志願した。しかし、玉井は「特攻にはいつでも行ける、俺の代わりに内地で豹部隊の墓参りをしてこい」と命令され、1945年1月に内地帰還[17]。
三四三空
1945年(昭和20年)1月第三四三海軍航空隊(二代目、剣部隊。以下「343空」とする)の戦闘301飛行隊「新選組」に配属。飛行隊長は菅野直大尉。杉田はその激烈な戦いぶりから「闘魂の塊」と渾名される一方、豪放磊落な人柄で人望も厚く「杉さん」の愛称で呼ばれた。自身の戦闘だけでなく後進の指導にも努め「空戦の神様」と言われた[18]。343空では兄のように皆から慕われていた[19]。343空にはベテランも多く集められたが、杉田はその中でも一番の撃墜数を持っていた[20]。
訓練が行われた松山で、隊員らは親しかった今井琴子夫人と済美高女生徒らから紫のマフラーを贈られており、杉田のマフラーには名前と共に合言葉である「ニッコリ笑へば必ず墜す」が刺繍されていた[21]。杉田には日本女子大出の才媛で美人の恋人がおり、343空の指揮所を訪ねてきたこともあった[22]。
杉田と大村空、343空で同勤だった坂井三郎は教員として空戦講話をしたが激戦を経験した若い搭乗員には不評で、暴力をたびたび振るったことも反感を買い、杉田も坂井より8つ年下でありながら撃墜数も上回り戦場を勝ち抜いてきた誇りがあり、自分より若い搭乗員をジャク(未熟者)呼ばわりする坂井に「坂井は敵がまだ弱かった頃しか知らない、坂井がいなくなった後の方が大変であった」と言って対立した。343空でも「零戦は正しく整備、調整されていれば、たとえ手を離して飛んでも、上昇下降を繰り返してやがて水平飛行に戻る。意識を失って背面状態に入り、それが続くなんてことはない。だいたい、意識がないのにどうして詳しい状況が話せるんだ」と批判し、また「あんなインチキなこと言うやつはぶん殴ってやる」と公言し、飛行長の志賀淑雄少佐は、空戦に使える杉田を残し、坂井は異動させることに決めた[23]。
3月19日、343空の初陣となる松山上空戦に参加。杉田は瞬く間に5機を撃墜して帰還した。帰還した杉田は「弾があればもっと落とせたのに」と言った。その戦闘で杉田は源田実司令から司令賞を受け表彰された[24]。杉田の区隊は区隊撃墜賞を受ける[18]。
343空が鹿屋基地に移った後の4月15日午後3時前後、敵機接近の報を受けて源田実司令は出撃命令を発する。しかし敵機グラマンF6Fヘルキャット数機が上空へ来襲したため、司令は離陸中止命令を出す。大部分は止まったが既に杉田と3番機宮沢豊美が滑走しており、発進中の杉田に敵が群がり撃墜され、黒煙を吐きながら基地滑走路の端に墜落炎上、戦死した。宮沢もその間に発進するが逃げ切れず撃墜される[25]。杉田を撃墜したのはF6Fに搭乗していたVF-46所属ロバート・ウェザラップ少佐とされる。
杉田の死を受け隊長菅野直大尉は誰が見て分かるほどに落ち込み、源田司令も強い責任を感じていた[26]。源田は杉田の2階級特進を具申し、単独撃墜70機、協同撃墜40機の功績を全軍布告されて少尉に昇格した[27]。実際の撃墜数は120機以上だったとも言われる[28]。
杉田の遺体は庶務を務める地上基地に運ばれていたが、木箱に納め裏山に放置されていたため、343空は「大切な人なんだ、なんとかならないか」と交渉したが、相手は少佐を立てたため、343空からも飛行長の志賀淑雄少佐を派遣して安置するように働きかけた[29]。杉田の棺が放置されているのを見た源田司令は「杉田のようなやつをほっておくやつがあるか」と激高した[30]。一晩安置した後に火葬するが、その最中に空襲があり、P-51マスタングのロケット弾によって遺体が吹き飛ばされた[22]。
戦後、杉田の遺族は新潟から大阪に引っ越していたため、343空の慰霊式を開催した際に主催者の志賀淑雄(元飛行長)は遺族の行方を把握出来なかった。263空から列機を務めた笠井智一がわずかな情報から探し出すことに成功した。そこで杉田庄一の母から杉田庄一の死について遺骨も届かなかったことを聞いた笠井は志賀淑雄元飛行長と源田実元司令に相談した。元343空の調査で関係各所に問い合わせたものの、遺骨はたらい回しになり無縁仏として葬られたようだということが分かった。海上自衛隊出身の相生高秀元副長や志賀淑雄らの尽力で、戦死地点の鹿屋航空基地(海上自衛隊基地)に慰霊碑を建立した[31]。
空戦
杉田は、素早く短時間で戦闘を済ませてすぐに戦場から離脱する、戦場の駆け引きを理屈ではなく体で覚えているような戦い方だった[32]。杉田は、敵に対して逃げたり怯んだりはしない、俺が強いからじゃない、弱いから突っ込むんだ、この頑強な体が資本で、これがある限り戦い続けると言っている[33]。
後進の指導にも力を入れ、辛抱強く面倒見の良い優しい性格に加えて豊富な実戦経験から体得した戦闘理論を余すことなく盛り込んだ指導方法は明快で無駄がなく非常に理解しやすかったため、周囲からは大変な好評を得ていた。杉田の列機であった笠井智一も彼の薫陶を受け、最若年搭乗者に属しながら撃墜約10機を達成している[34]。高度6000メートルでP-38と会敵した場合、絶対に急降下して逃げるように教え、逃げれば相手は必ず追ってくるので、必ず勝てる低高度で機体を引き起こして垂直面の格闘戦に持ち込むように指導した。また、敵一機と思わせてもう一機の敵が待機しているエンドレス戦法(サッチウィーブ)に対する注意も促していた[35]
。特に編隊空戦を鉄則としており、とにかく絶対に編隊から離れないこと、空戦になっても敵を撃墜しようと考えずに一番機が撃ったら照準器など見なくてもいいから一緒に撃つように、そうすれば協同撃墜になると指導した[35]。
そして帰投後も必ず部下とミーティングを行い、次回戦闘への備えに余念がなかった。訓練では編隊を離れてしまう未熟者にも黙って指導したが[18]、戦闘において編隊を離れた者には本気で叱った。また杉田は訓練の際に無駄な説明はせず、列機と共に空に上がって、まず杉田自身が模範飛行を行い、その後を列機に同じ操作をさせて追従するように指導したため、説明の難しい「捻り込み」なども彼が訓練を担当した列機は驚くほど短期間で覚えることができた[14]。笠井は軍生活を通してこういった指導をしてくれる先輩は杉田だけであったと言い[36]、343空において杉田区隊の徹底した編隊運動を可能にしたのは杉田の細やかな指導と紫電改の自動空戦フラップがあったからだろうと語っている[14]。
奥村 武雄(おくむら たけお、
1920年(大正9年)2月 - 1943年(昭和18年)9月22日)は、日本海軍の戦闘機操縦士、存命時の最終階級は上等飛行兵曹、戦死後飛行兵曹長。福井県出身、総撃墜数は54機といわれる。
軍歴
1935年(昭和10年)海軍呉海兵団入隊。1938年(昭和13年)2月、第42期操縦練習生に合格、9月課程修了。初陣は第十四航空隊に配属された1940年(昭和15年)10月7日の昆明空襲での九六陸攻の援護だった。この戦いで奥村を含む7機の零戦隊は、迎撃する中国軍機I-15 13機を撃墜、この内奥村は4機を撃墜した。[1]
太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)8月24日、空母「龍驤」戦闘機隊員として 第二次ソロモン海戦に参加。ガダルカナル近海のアメリカ海軍艦艇攻撃のため九七式艦上攻撃機を護衛して出撃する。同日 母艦である龍驤は、米軍機艦爆18機、艦攻9機の攻撃を受け大破、沈没。この戦闘では、奥村は激しい空戦のなか編隊から離れたため一時は未帰還とされた[2]。
8月末[3]ラバウルに拠点を置く台南海軍航空隊(11月に 二五一空に改称)へ転属。12月10日 一時本土へ戻る。この時点で総撃墜数は14機に達していた[2]。
1943年(昭和18年)7月[4]、第二〇一海軍航空隊付としてラバウルへ再進出、ブイン基地から作戦に参加。9月14日 ブイン基地への連合軍による大規模攻撃の際に迎撃戦に出撃し、1日で10機(F4U 1機、B-24 1機、P-40 2機、F6F 5機、SBD 1機)の撃墜を報告。戦闘後、十一航艦草鹿司令長官から武功抜群として軍刀を授与された[2]。
9月22日ニューギニア フォン半島 クレチン岬沖の敵輸送船攻撃のため、爆撃機を護衛して出撃するが、P-38、P-40による攻撃を受け、奥村は未帰還となった。
戦死後、奥村の傑出した戦果に対して2階級特進が具申されたが実現はしなかった。1943年以降日本海軍は個人撃墜数を記録しなくなったので、正確な撃墜数は不明だが、ヘンリー・サカイダによれば、中国で4機、ソロモンで約50機を撃墜したとしている[5]。
大原 亮治(おおはら りょうじ、
1921年(大正10年)2月25日 - 2018年(平成29年)11月2日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機操縦士。最終階級は海軍飛行兵曹長 。
経歴
1921年(大正10年)2月25日、宮城県の農家に生まれた。昭和15年6月、一般航空兵として横須賀海兵団に入団する。海兵団から千歳航空隊を経て、1941年(昭和16年)5月、第4期丙種飛行予科練習生となり、土浦海軍航空隊に入隊。1942年(昭和17年)7月に飛練を卒業し、戦闘機操縦者として大分航空隊へ入隊し、ここで九〇式復座練習戦闘機、九五式艦上戦闘機での訓練を終えた後、その年の10月にはブイン基地の第六海軍航空隊に交代要員として着任した。
1942年(昭和17年)10月19日に初空戦を経験すると、同月23日にはガダルカナル上空でVMF-12のF4F10機と戦い、初撃墜を記録している。 大原は1943年(昭和18年)11月に横空へ着任するまで204空(六空から改称)で奮戦し、本土へ帰還した。
以降、本土防空戦に従事していたが、1945年(昭和20年)4月9日、原因不明の高熱を押してB-29迎撃戦の最中、後方からP-51に撃たれ被弾、陸軍の相模原飛行場に胴体着陸した後、軍医から腸チフスの診断を受け、そのまま約80日間の入院を余儀なくされた。退院後の1945年(昭和20年)8月17日、本土偵察に飛来したB-32に対する迎撃戦に、零戦に搭乗して参加し、これが大戦最後の出撃となった。
戦後は、1953年(昭和28年)に海上警備隊(現在の海上自衛隊)に入隊し、1971年(昭和46年)に三佐で退官。その後は民間航空のパイロット養成にあたった。
戦後本人への取材無く、ヘンリー境田が著した戦記本には、「ラバウルの殺し屋」と書かれ憤慨した。その後の改訂版では「ラバウルの撃墜王」に改められた。
2018年(平成30年)11月2日死去(満97歳没)[1][要出典]。
藤田 怡与蔵(ふじた いよぞう、
古い文書では「怡與藏」とも、1917年(大正6年)11月2日 - 2006年(平成18年)12月1日)は、天津出身の海軍軍人、日本航空機長。海兵66期。
経歴
生い立ち
1917年天津で医師の父・藤田語郎と母・怡与子の間に生まれた。小学校卒業後、父の故郷である大分県杵築に移り杵築中学に入学した。
軍歴
1935年(昭和10年)4月中学を卒業後、海軍兵学校に入り(66期)1938年(昭和13年)9月卒業した。遠洋航海後、「金剛」乗組み。1939年(昭和14年)11月第33期飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊筑波分遣隊に入隊、後に上司となる飯田房太に鍛えられた。
1940年(昭和15年)6月戦闘機操縦専修課程として大分海軍航空隊に入隊、11月に卒業後もそのまま教官として同航空隊に残った。1941年(昭和16年)4月、実戦部隊である美幌海軍航空隊付となり中国大陸に進出したが、上空哨戒などの地味な任務ばかりで会敵の機会はなかった。
1941年9月、空母「蒼龍」に配属となり、零戦の慣熟・編隊空戦・洋上航法と、対米開戦直前の猛訓練に励んだ。1941年11月18日「蒼龍」は佐伯湾を抜錨、択捉島単冠湾で空母6隻を中心とする第1機動部隊を編成し26日ハワイに向けて出発した。12月8日真珠湾攻撃に、飯田房太大尉率いる第2次攻撃隊制空隊の小隊長として参加。米戦闘機は上がってこなかったので、ベローズ・カネオヘ各飛行場を銃撃した。飯田が自爆戦死した後、中隊を率いての帰路途中P-36の編隊と遭遇、藤田は1機を撃墜し初撃墜を記録した。ハワイからの帰路ウェーク島攻撃に参加。1942年(昭和17年)2月にダーウィン空襲、4月にはインド洋に進出してセイロン沖海戦に参加した。
6月5日のミッドウェー海戦では上空直掩隊として10機を撃墜するなど奮戦するも、味方の対空砲火により被弾してパラシュート降下を余儀なくされ、漂流4時間の後に味方駆逐艦「野分」に救助され九死に一生を得た。撃墜10機は、第二次世界大戦において世界で記録された一日あたりの撃墜数において、8番目の記録である[1]。しかし藤田が漂流中に日本空母4隻は撃破され、海戦は大敗していた。内地帰還後は、敗戦を秘匿するため富高基地に隔離され、その後空母「飛鷹」乗り組みとなった。
「飛鷹」は10月に南方に進出したが、艦の故障のため飛行隊のみラバウルに進出し、ソロモン・東部ニューギニアでの航空戦に従事した。12月初め、「飛鷹」の修理完了にともないトラック島で消耗した隊の再編成にあたったが、翌1943年(昭和18年)2月から4月まで再び飛行隊のみラバウルに進出した。
6月、築城海軍航空隊分隊長、11月には第三〇一海軍航空隊飛行隊長として横須賀に転じた。301空は、新型の局地戦闘機雷電を配備した部隊だったが、雷電は故障が多くまた数も揃わず、搭乗員の練成は進まなかった。1944年(昭和19年)6月、米軍のマリアナ諸島攻撃にともないあ号作戦が発令され、301空は硫黄島に進出する事となったが、雷電は航続距離が短く梅雨前線に阻まれて中々硫黄島まで進出できなかった。やむなく零戦に乗り換えて7月初めに硫黄島に進出したが、3日と4日の米機動部隊の空襲により壊滅した。
内地帰還後、今度は第三四一海軍航空隊戦闘402飛行隊長を命ぜられ、明治基地に着任した。341空も新型戦闘機「紫電」が配備された部隊であったがここでも同じように、エンジントラブルや脚の故障が相次ぎ稼働率は低かった。10月14日、台湾沖航空戦にともない沖縄に進出したが、藤田は機体の故障により引き返した。25日改めて残余の飛行機を率いてルソン島マルコット基地に進出した。進出翌日から連日、制空・直掩・邀撃に追われ、341空の戦力は漸減していった。
1944年10月末、フィリピンで神風特攻隊が開始。341空の岩下邦雄によれば、藤田は「新鋭機だから他と同列にされては困る」と特攻に反対したという[2]。しかし、341空でも藤田の号令で特攻隊員の志願者が募られ、壮行会を開き送り出されている[3]。
1945年(昭和20年)1月7日、藤田ら搭乗員は陸路ルソン島北部のツゲガラオに転進し、そこから輸送機で台湾に撤退した。内地帰還後は、短期間343空に籍を置いたのち、601空に転じた。5月筑波空福知山分遣隊に移動となり、この地で終戦を迎えた。最終階級は海軍少佐。生涯撃墜機数は39機、不確実を加えると約50機という。
戦後
戦後、公職追放令によりトラック運転手など職を転々とした。1952年(昭和27年)に日本航空に入り旅客機の訓練後、ダグラスDC-4やDC-6、DC-8などのパイロットとして活躍、安部譲二や深田祐介などと乗務を共にした。日本航空が導入したボーイング747の初代機長[4] である。その後もボーイング747型の機長を務め、1977年(昭和52年)11月に退職するまで生涯総飛行時間18,030時間を数えた。
退職後「零戦搭乗員会」(現在は「零戦の会」)代表世話人を務めた[5]。
死去
2006年(平成18年)12月1日、肺癌のため89歳で死去。
著書
藤田怡与蔵ほか 『証言・真珠湾攻撃 : 私は歴史的瞬間をこの眼で見た!』光人社、1991年
太田 敏夫(おおた としお、
1919年(大正8年)3月20日 - 1942年(昭和17年)10月21日)は日本の海軍軍人。太平洋戦争における撃墜王。最終階級は海軍飛行兵曹長。
経歴
1919年(大正8年)、長崎県の農家に生まれる。軍に入ってから弟の中学学費の仕送りを続ける、家族思い、親孝行の好青年であった。 1935年(昭和10年)、佐世保海兵団に入団。戦艦金剛勤務を経て、1939年(昭和14年)1月、第46期操縦練習生課程修了。1941年(昭和16年)6月、十二空に配属。漢口に進出するが、戦闘の機会はなかった[1]。
1941年(昭和16年)10月、台湾の台南基地に新設された台南海軍航空隊(以下、台南空)に配属。12月8日開戦初日、フィリピン・クラーク空軍基地攻撃に参加。太田は第三中隊(浅井正雄大尉)の第二小隊(宮崎儀太郎飛曹長)二番機として出撃。1942年1月29日、ボルネオ島バリクパパン基地及び泊地を太田ら2機で上空哨戒中、米陸軍第7爆撃大隊のボーイングB-17フライングフォートレス爆撃機4機編隊と交戦。地上に待機していた6機とともに迎撃。この戦闘で太田は負傷した。療養後の3月3日、笹井中尉指揮6機による中部ジャワ・チラチャップ攻撃に参加。、坂井小隊(坂井一飛曹、太田二飛曹、遠藤三飛曹)二番機としてバリ島デンパサール基地より出撃。復帰後最初の戦闘となる[2]。
1942年(昭和17年)4月1日、台南空は第25航空戦隊に編入され、ニューブリテン島のラバウルに移る。16日に進出、翌日にはラバウルの前進基地、ニューギニア島東部のラエ基地に移動。太田は笹井醇一中尉(後に撃墜数が海兵で最高となる撃墜王)の二番機を任されることが多くなる。4月18日、ポートモレスビー攻撃に第二中隊第二小隊長として参加。ポートモレスビー飛行場上空で、小隊3機(太田二飛曹、和泉二飛曹、宮二飛曹)を率いて、豪空軍第75航空隊のカーチスP-40キティホーク9機編隊を奇襲。この戦闘で太田はP-40の1機(R.J.グランビル飛曹機)を撃墜。4月29日、ラエ基地の爆撃に来た米陸軍第19爆撃飛行隊のB-17フライングフォートレスを単機で1時間以上追撃し、撃墜を報告。5月26日、笹井醇一中尉の二番機を務め、敵戦闘機の1機撃墜を報告。5月27日、モレスビー攻撃に笹井中尉の二番機として参加。戦後、坂井三郎は、太田と西沢広義とともに台南空の三羽烏と呼ばれ、この時に3人で中隊から離脱し、無断でポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて3人で三回連続編隊宙返りを行って他から遅れて帰還したという話を紹介している。しかし、戦闘行動調書によれば、坂井の主張する5月27日はモレスビー上空で交戦後、11時30分に全機がラエに帰着しており、坂井が他の著作で主張した6月25日には太田が出撃していない。その他の日も合わせて日本でも連合軍でも坂井たちが別行動をとった記録はない[3]。5月28日、モレスビー攻撃に参加。敵戦闘機2機撃墜を報告。6月16日、モレスビー攻撃に笹井中尉の2番機として参加。米陸軍第35、36戦闘飛行隊のベルP-39エアラコブラ戦闘機を撃墜。米側記録からも太田のこのP-39撃墜はほぼ確実。
1942年8月7日、米軍ガダルカナル島上陸の報を受け、急遽、上陸支援の米機動部隊の攻撃に向かうこととなった四空の一式陸上攻撃機27機援護の台南空零戦18機(うち1機は引き込み脚の故障で、離陸直後に引き返したので、戦闘参加は17機)の第三中隊長(笹井中尉)の二番機としてラバウルより出撃。空母エンタープライズより発艦した米海軍グラマンF4Fワイルドキャットを、サンタイサベル島南端上空で、笹井中尉と協同撃墜(ゴードン・ファイヤボー中尉機、ウィリアム・ウォーデン准尉機)。これ以降、日本はラバウル、ガダルカナル間の往復2千キロ以上、零戦の狭い操縦席で往復7-8時間の過酷な飛行を伴う戦闘を余儀なくされ、一方で米海兵隊戦闘機隊が8月20日にガダルカナル飛行場に進出。同島上空の制空権を確保され、戦況は大きく変化した。
9月13日、強行偵察。川口支隊のガダルカナル飛行場占領が成功していれば、そのまま着陸の任務も負っていたが、実現はしなかった。太田らは飛行場上空を高度400メートルの低空で進入したところを、F4F、28機の奇襲を受け、太田は地上の海兵隊員の眼前で、米海軍V-5航空隊スモーキー・ストーバー中尉機を激しく追撃。奇襲によって零戦2機(羽藤一志三飛曹機、高塚寅一飛曹長機)を撃墜後、高度2千メートル付近に広がっていた積雲に退避をはかろうとしていたストーバー中尉機を大破、撃墜寸前まで追い込む。10月15日、ガダルカナル揚陸船団哨戒(三直、第二小隊長)に参加。米海兵隊VMF-121航空隊のF4Fワイルドキャット2機(ポール・ラトレッジ中尉機、アレクサンダー・トムソン准尉機)を撃墜。
最後の戦闘となる1942年10月21日、ガダルカナル飛行場爆撃の三沢空の陸攻12機援護の零戦13機、指揮官の大野竹好中尉の2番機として、午前5時40分、ラバウル飛行場を離陸。9時15分、先行した第一小隊3機(大野中尉、太田一飛曹、斎藤一飛兵)は、迎撃に上がっていた米海兵隊第212航空隊のF4F17機とガダルカナル島6千メートル上空で交戦。太田はテックス・ハミルトン准尉(7機撃墜のエース)を、急上昇しつつの激しい左急旋回から一撃で撃墜。しかしその間、二番機ハミルトン機の護衛に入っていた一番機フランク・デュルーリー中尉が、サッチウィーブで太田機の後上方にまわりこみ、一連射を行う。デュルーリー中尉(6機撃墜のエース)の回顧によると、機銃が命中した瞬間、太田機は大きな煙を発し、白煙の立ち込める風防内で太田の飛行帽が後方に吹き飛ぶのがはっきりと見えたという。一方、ハミルトン准尉は、太田機の射撃を受け、機から脱出したが、落下傘降下中に既にぐったりとしており、ガダルカナル島ジャングルに着地も、そのまま戦死。そしてそれを追うかの如く、太田機は黒煙を引きながら、下方のガダルカナル島に墜ちていったという。この戦闘で、陸攻9機は爆撃に成功後、全機ラバウルに帰投。太田機のみが未帰還となった。 大野中尉は太田が自分の身代わりになったのかもしれないと感じたという[4]。
ラバウル方面での出撃回数は61回、総撃墜機数34機が全軍布告された。未帰還となった最後の出撃における撃墜を含めると36機に上る[5]。
脚注
^ ヘンリー・サカイダ、37頁
^ ヘンリー・サカイダ、37-38頁
^ 『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』p.145-p.156
^ 高城肇『六機の護衛戦闘機』光人社286頁
^ 郡義武『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』p.277
杉野計雄(すぎの かずお、
1921年 - 1999年8月)は、日本海軍の戦闘機搭乗員。個人での撃墜記録は32機。ソロモン戦線を生き抜いた数少ない戦闘機パイロットである。終戦時の階級は、飛行兵曹長。
略歴
1921年(大正10年) - 山口県小野田市に誕生。
1927年(昭和2年) - 家の近くに水上機が着水、離陸したのを見たのが飛行機と間近に接した最初という。
1930年(昭和5年)春 - 家の近くの浚渫埋め立て地に数機の飛行機が不時着、整地や踏み固めを手伝った。この時押して並べるのを手伝ったのが飛行機に触れた最初となった。
1938年(昭和13年) - 小野田実業学校を卒業し、小野田セメント(現太平洋セメント)に入社。海軍機関兵に志願した。
1939年(昭和14年) - 呉海兵団に機関兵として志願入団。ほとんど必要がないのに新兵を鍛錬すると称して行なわれる教練に失望し、操縦士を志願した。
1940年(昭和15年)2月 - 駆逐艦黒潮艤装員となる。艤装工事終了後、乗組員として乗艦。厦門作戦に参加。
1941年(昭和16年) - 海軍飛行予科練習生(丙飛3期)となった。後のエースとなる杉田庄一三等水兵や谷水竹雄三等水兵とは同期生であり、飛練も同じ班であった。
1942年(昭和17年)3月 - 大分海軍航空隊戦闘機課程を卒業。
6月 - 第六航空隊の戦闘機搭乗員として空母赤城に乗り込みミッドウェー海戦に参加。沈没後駆逐艦に救助された。木更津基地に上陸したがしばらくは「高度の秘密を知っている」との理由で周囲に衛兵を置かれる状態であったという。
7月 - 空母大鷹戦闘機隊に異動。
10月 - 大村海軍航空隊教員。
11月 - 佐世保海軍航空隊戦闘機隊員。
1943年(昭和18年)4月 - 空母翔鶴戦闘機隊員。
8月 - トラック諸島に進出。
10月1日 - ラバウルに進出。
11月1日 - ろ号作戦に参加。
11月2日 - 邀撃でB-25を撃墜してこれが初撃墜となった。その後続けてB-26、P-38を撃墜した。
その後マーシャル作戦に参加。
12月 - 新編空母瑞鶴戦闘機隊ラバウル派遣隊として第253航空隊に編入。
1944年(昭和19年)2月 - 内地に戻り、再び大分海軍航空隊の教員となった。
4月 - 筑波に異動、帝都防衛戦闘機隊員を兼務。
8月 - 新設母艦航空隊第634航空隊戦闘167飛行隊員となり、台湾沖航空戦、フィリピン島航空戦に参加。
11月 - 比島方面戦闘機隊先任搭乗員となった。下旬に艦載機来襲の邀撃のため離陸中に撃墜された。両脚が全く麻痺しており、脊髄がダメなら自殺しようと拳銃をこめかみに当てて引き金を引いたが、付き添いの下士官が弾丸を抜いており、九死に一生を得た。脚の感覚は翌朝から戻り、3日後には掴まれば立てるようになった[1]。
1945年(昭和20年)2月 - 台中戦闘機隊特攻隊員となった。だが実際に特攻することはなく、特攻機の援護を行なった。
3月 - 特攻隊員と博多航空隊教員を兼務した
。
9月 - 復員(海軍では解員という)。その後妙高企業、小野田市有帆炭坑、小野田市消防本部(現山陽小野田市消防本部)に勤務した。
1953年(昭和28年) - 公職追放が解除され、海上自衛隊に入隊。操縦士、操縦教官として勤務。この時の教え子に日本航空123便墜落事故で殉職したパイロット高濱雅己がいる[2]。偶然にもJAL機が墜落した上野村で村長として現場を指揮した黒沢丈夫少佐は杉野の佐世保時代の上官である[3]。
1971年(昭和46年) - 三等海佐で定年退官。日本鋪道(現NIPPO)へ再就職。
1986年(昭和61年) - 日本鋪道を定年退職。
1999年(平成11年)8月 - 死去。
人物
同じくエースパイロットの杉田庄一上飛曹と呼び名が同じで、「杉さん」。飛行予科練習生時代からの呼び名
。
搭乗員時代、南方での食糧事情の悪化によって低下した隊員の士気を高めるため、零戦のプロペラのスピナーを鍋代わりにしてみそ汁を作り、他の隊員に喜ばれたなどのユニークなエピソードを持つ[4]。
比島搭乗員時代、ひげを生やしていたためよく隊長と間違えられるほどの風貌であった。
駆逐艦勤務時代のしごきの経験から、航空隊に入ってからは決して部下を殴らない方針を取り、それが誇りであった[5]。
特攻隊に所属しながらも、終戦まで特攻には反対の立場であった。
記録
飛行時間:1994時間
戦闘飛行:495回
空戦回数:100回以上
撃墜数:32機(個人での記録)
最終階級:飛行兵曹長
著作
『撃墜王の素顔 海軍戦闘機隊エースの回想』
(光人社、1997年) ISBN 4-7698-0804-6
(光人社NF文庫、2008年) ISBN 978-4-7698-2355-1
武藤 金義(むとう かねよし、
1916年(大正5年)8月18日 - 1945年(昭和20年)7月24日)は、日本の海軍軍人。戦死による特進で最終階級は中尉。支那事変、太平洋戦争における撃墜王。
経歴
1916年(大正5年)8月18日、愛知県海部郡大治村(現・大治町)の農家に姉弟7人の3男として生まれる。実家は副業として竹で扇子の骨を作っていた。
父は日露戦争に出兵し金鵄勲章を叙勲している[1]。
弟の光春は金義の強い勧めで海軍兵学校を受験して73期生に合格し戦闘機搭乗員にもなっている[2]。光春は「兄の性格は豪放だった反面、父母兄弟に対してはきわめて温情だったと思う。とくに父母には気を使い、親孝行は人一倍という感じだった。兄弟の中でもとくに私を可愛がってくれ、海軍に入って休暇で帰った折には、父が絶対に買ってくれなかった空気銃とかカメラを買ってくれて、大変に嬉しかったのを、いまでも忘れることができない」と語っている[3]。
小学校4年の時、多治見の禅寺で住職だった叔父の家に、養子の含みもあってお寺奉公のため預けられたが、武藤の肌に合わず1年ほどで帰宅。大泊尋常高等小学校の尋常科を経て津島市の県立第三中学校に入学[1]。中学二年の時、眼科医の友人との付き合いで金遣いが荒くなり父に咎められ中退する。父の意向で名古屋市内のメリヤス屋の住み込み店員となるが、武藤にひどい扱いをするので母が辞めさせ、お菓子の老舗「不老園」に菓子製造職人の見習いに転職した。しかし、小売りや卸売りがうまくいかず、海軍入りを志望し[4]、1935年(昭和10年)6月1日、呉海兵団に入団、駆逐艦「浦波」に乗艦。1935年(昭和10年)12月23日、第32期操縦練習生を拝命。1936年(昭和11年)7月、同課程卒業。大村航空隊での延長教育を受ける。
日中戦争
1937年(昭和12年)10月、第十三航空隊に配属。上海に進出し支那事変に参加。1937年12月4日、南京上空で中華民国国軍の楽以琴が搭乗するI-16戦闘機1機を撃墜。これが武藤の初戦果となった。12月12日、第十二航空隊に異動。南京、南昌、漢口攻撃などで活躍を続け、武藤は中華民国軍機を合計5機撃墜し支那事変における撃墜王となった。1938年10月、内地に帰還。大分空、鈴鹿空、元山航空隊などで教員生活を送る。また大分空時代には西沢広義の教員として指導している。[5]
太平洋戦争
1941年(昭和16年)9月、第三航空隊に配属。12月8日、太平洋戦争開戦時は横山保大尉の2番機としてフィリピンクラークフィールド飛行場攻撃に参加。
1942年(昭和17年)4月、元山海軍航空隊(同年11月第二五二航空隊に改名)に配属。三森一正中尉によれば、他の列機が離れても武藤だけはピタリと側にいて「何があっても離れないのでご安心を」と言う武藤は側にいるだけで心強かったという[6]。宮崎勇は、武藤を小柄ながらも明朗快活で誰からも親しまれる人と評し[7]、「武藤さんはよく冗談を言っては周囲を笑わせた。それも自分がしんどければしんどいほど、つとめて明るく振るまい、みんなの士気を高めるようにした。そんなふうだったから、誰もが親しみをこめて金さんとか金ちゃんとか呼んでいた」と回想している[8]。ソロモン航空戦などに参加。1943年(昭和18年)10月21日、妻・喜代子と結婚。武藤が多忙であったため結婚写真は別々に取ったものを張り合わせたものであった。喜代子によれば一人娘ができた際はこれで子孫が絶えないととても喜んでいたという[9]。
1944年11月、横須賀海軍航空隊の教官を務める。1944年(昭和19年)6月、横空派遣部隊として八幡空襲部隊に参加し、硫黄島に進出。6月24日、米海軍第58任務部隊のグラマンF6F戦闘機などの迎撃に当たり、同日、山口定夫大尉の二番機として攻撃機隊の援護に参加。7月3日、4日、米艦上機部隊の迎撃に参加。空襲の被害で航空機を失い派遣部隊は内地に帰還。
1945年(昭和20年)2月17日、厚木基地上空に飛来したグラマン編隊の内12機にオレンジ塗装の紫電改単機で挑み2機の撃墜を報告。敵を集団から一機ずつ誘い出して撃墜する様は宮本武蔵 (小説)の一乗寺下り松の決闘を思わせる戦いぶりであり、その時から海軍内で「空の宮本武蔵」の異名で知られるようになった[10]。同僚の山崎卓が落下傘降下した横浜市磯子区杉田で地元民に米兵と間違われて竹槍で殺された時、武藤は杉田を銃撃してやろうかと憤慨した[11]。
1945(昭和20)年6月、第三四三海軍航空隊(以下「343空」とする)戦闘301飛行隊(通称新撰組)に異動する。4月15日に戦死した杉田庄一上飛曹の代わりとして隊長菅野直大尉の護衛が務まる人物として司令の源田実大佐が指名で希望した。343空は坂井三郎少尉と交換という形で交渉を開始したが難航し人事局員に相談してまとまった[12]。横空はこの交換に反対しており、特に塚本祐造大尉からの反対が強かった。そのため交換は343空から坂井三郎少尉と野口毅次郎少尉の二人を出すことになった[13]。着任した武藤は、源田司令に対して「私が来たからには隊長は死なせませんよ」と約束した[12]。
戦死
1945(昭和20)年7月24日、武藤を含む21機で10倍以上の米機動部隊艦載機を迎撃するため大村から出撃。豊後水道上空の交戦で武藤は敵編隊に攻撃を加え、菅野隊長を襲う機体にも攻撃した。激戦の中、武藤は源田司令との約束を守りきったが、この戦闘で武藤は未帰還となった。武藤の詳細は不明であったが、この日の戦闘で343空は、武藤、鴛淵孝隊長など6名が未帰還となった。この戦闘は御嘉賞の御言葉を賜わり表彰されるものとなった[14]。戦死による特進で中尉に昇進。太平洋戦争における撃墜数は30機である。
武藤の機体の可能性がある、修復及び保存された紫電改
1978年(昭和53年)11月、愛媛県南宇和郡城辺町(現・南宇和郡愛南町)久良湾の海底で1945(昭和20)年7月24日の未帰還機と思われる紫電改が発見された。しかし、諸々の危険性から引き上げに諸方面は消極的であった。武藤の遺族、地元、元343空隊員及びその遺族からの引き上げてほしいという願いを代表し、当時参議院議員だった源田実(元司令)と海自自衛艦隊司令だった相生高秀(元副長)が各方面に働き掛け、引き上げられた[15]。遺品などは残っておらず特定は困難であったが、戦闘301飛行隊の機体と思われることなどから武藤金義の機体である可能性も高い[16]。この機体の不時着を目撃した者の証言から、搭乗員は被弾や機体故障など何らかの理由で戦場から離れ、操縦によって模範的不時着水を行い、機体と共に水没したとものと思われる[17]。武藤の妻・喜代子は未帰還6人の共通の遺品とするべきだとした。343空隊員や遺族により慰霊式が執り行われられ、この紫電改は愛南町南レク馬瀬山公園の「紫電改展示館」に保存・展示された。
関連項目
武藤光一(商船三井会長) - 甥(実弟の息子)に当たる[18]。
坂井 三郎(さかい さぶろう、
1916年8月26日 - 2000年9月22日)は、日本の海軍軍人。ポツダム進級により最終階級は海軍中尉。太平洋戦争におけるエース・パイロット。著書『大空のサムライ』で有名。撃墜数は自称64機だが、後述のように公認撃墜数は28機である。
経歴
1916年(大正5年)8月26日、佐賀県佐賀郡西与賀村大字厘外1523番地(現在の佐賀市西与賀町大字厘外)で農家の三男だった父・坂井晴市と母ヒデの次男として生まれる。
名前は祖父の勝三郎に由来している。坂井が5歳のときに一家は祖父の家から夜逃げ同然で出奔して貧しい生活を送った。父は小さな精米所に勤めたが、坂井が小学校6年生の1928年(昭和3年)秋、36歳で病没。残された母と6人の子供の生活は困窮した。見るに見かねた伯父が兄弟を中学に入れてやろうとして、坂井は東京に引き取られる形で上京した。坂井は新宿の府立六中を受験したが落ちて青山学院中等部に進学した。しかし、成績不振で落第して退学処分となった[1][2]。
その後は実家に帰され約2年間、農作業に従事した。この頃から自身の将来について真剣に考えるようになった。スピードへの憧れがあり、騎手になろうとしたが本家の反対で挫折。同じ西与賀村出身で佐世保航空隊の平山五郎海軍大尉操縦の飛行艇が故郷で低空を旋回するのを、農作業をしつつ仰ぎながら見た速い物としての飛行機に憧れた。「海軍少年航空兵」募集のポスターを見て二回受験したが、不合格になった[3]。
飛行機のある海軍に入れば、近くで見られるだろうし、触るぐらいはできるだろうという思いから、海軍の志願兵に受験し合格、周囲は反対したが1933年(昭和8年)5月1日、四等水兵として佐世保海兵団へ入団する。
1933年10月1日、戦艦霧島に配属され、15センチ副砲の砲手となる。1935年(昭和10年)5月11日、横須賀の海軍砲術学校に入校。翌1936年(昭和11年)、同校を200人中2番の成績で卒業し、5月14日に戦艦榛名に配属。
大艦巨砲主義全盛の当時、花形とされた戦艦の主砲の二番砲塔の砲手に任せられるが、演習で榛名の艦載機の射出を見て海軍入隊の目標であった搭乗員への志願を上官の搭乗員に打ち明けると、「指導してやるが、学科試験に合格しなければ道は開けない」と言われる。
受験を上官に打ち明けたところ、主砲の砲手を外され、艦底で装薬や砲弾を扱う弾庫員に回される。それでもめげずに年齢的に最後となる操縦練習生を受験して合格。
1937年(昭和12年)3月10日、霞ヶ浦航空隊に入隊、4月1日初飛行。練習生の中では、操縦が上手いほうではなく単独飛行が許されたのは卒業も近い最後だった[4]。卒業後の延長教育の射撃も上手くはなかった[5]。
首席を目指して勉強に励んだ結果、希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、同年11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業。卒業式では昭和天皇名代の伏見宮博恭王より、恩賜の銀時計を拝受し、海軍戦闘機搭乗員としての道を歩み始める。佐伯航空隊付、戦闘機操縦者としての延長教育を受ける。この佐伯航空隊時代に、操練の三期先輩に当たる原田要が空戦訓練の相手に組まれ、切磋琢磨した[6]。1938年(昭和13年)4月9日、大村航空隊に配属。5月11日、三等航空兵曹に昇進。高雄航空隊付。
支那事変
九六式艦上戦闘機に乗った坂井(1939年)
坂井三郎と爆撃機(1942年以前)
1938年9月11日、第十二航空隊に配属。勤務地の中国大陸九江に進出。
1938年(昭和13年)10月5日、漢口空襲に参加。これが坂井の初出撃であり、指揮官相生高秀大尉の三番機として九六式艦上戦闘機に搭乗した。坂井は中華民国国軍のI-16戦闘機1機を撃墜。1939年(昭和14年)5月1日、二等航空兵曹に昇進。同月、九江基地からの南昌基地攻撃に参加。6月、占領した南昌基地に進出。10月3日、SB(エスベー)爆撃機12機編隊が漢口基地を空襲。坂井は迎撃に上がり、単機で宜昌上空8千メートルまで追尾して、1機を撃墜。11月、上海基地に移動。1940年(昭和15年)5月、運城基地に進出、同基地上空哨戒等に従事。
1940年(昭和15年)6月、大村航空隊配属。内地に帰還する。8月、横須賀航空隊で行われた新機種の取り扱い講習会で、登場したばかりの零式艦上戦闘機(零戦)を初めて見る。1940年10月17日、高雄海軍航空隊に配属。搭乗機が九六戦から零戦に変更されたため、坂井は名古屋で零戦を受け取って、鹿屋基地経由で台湾の高雄空まで空輸する形で、24日に高雄基地に着任した。零戦について、思い通りに動いてくれる格闘性能と燃料切れを気にせず空中戦に集中できる長大な航続力(≒滞空時間)から高く評価している。そのため、翼幅を削り速度が上昇し、他性能が低下した零戦三二型が導入された際には、操縦性、格闘戦の上から改悪であると意見している[7]。
1941年(昭和16年)春、坂井は高雄空の零戦18機のうちの1機として、海南島の三亜基地に前進。更に坂井を含めた12機は、陸軍の北部仏印進駐に呼応する形で、ハノイ飛行場に進出する。
1941年(昭和16年)4月10日、第12航空隊配属。12空の横山保大尉の希望で中国大陸に再進出。漢口基地から華中における作戦に従事。5月3日、重慶攻撃に出撃。6月1日、一等飛行兵曹に昇進。7月9日、梁山攻撃に参加。27日、成都攻撃に参加。8月11日、零戦16機、一式陸上攻撃機7機による成都黎明空襲に参加。攻撃に参加する戦闘機はあらかじめ前日に漢口基地から宜昌飛行場へ移動し、同飛行場を夜間離陸し、漢口出撃の一式陸攻に合流した。中華民国国軍のI-15戦闘機1機を撃墜。坂井にとって零戦での初撃墜となる。8月21日、再度の成都攻撃で、I-16戦闘機1機を撃墜。ソ連からの援蒋ルート(北方ルート)を遮断すべく派遣された零戦18機の1機として、運城基地に進出。8月25日、零戦7機のうちの1機として蘭州基地攻撃に出撃。上空を制圧。その数日後、更に奥地の西寧への零戦12機での攻撃に参加。8月31日、岷山山脈の谷間という地形的に上空からの攻撃が難しい松潘基地への攻撃に指揮官新郷英城大尉以下零戦4機で参加。同基地上空に達しつつも、天候不良にて引き返す。坂井は支那事変では実戦を数えるほどしかやらなかったと回想している[8]。
台南空
比島・蘭印方面
1941年(昭和16年)10月、台湾の台南基地に新設された台南航空隊(以下、台南空と略)に配属。坂井は台南空で先任下士官兵搭乗員であった。台南空では下士官のみの小隊も組まれ、坂井は初めて僚機を持つことになった。戦後、坂井は、下士官のみで組まれた小隊は自分の隊が唯一であり注目されていたと話しているが、台南空には他にも同様の小隊が複数存在していた[9]。
坂井は副長の小園安名中佐に頼まれ、新任で上官の笹井醇一中尉の戦闘教育を任せられたという。また、夜中に現地住民のニワトリを盗み出し、小園安名から「いやしくも日本海軍の軍人が、たとえニワトリの一羽でも、原住民のものを荒らすなどとは、とんでもないことだ」と叱られたが、その後も豚を盗みに行ったこともあったという[10]。またある時は、軍で禁止されていた麻薬成分が含まれたカナカタバコを吸い、他の下士官・兵たちにもそれを勧めていたところを上官の笹井に見つかって「それはカナカじゃないか。それを吸ってはいけないことぐらい知っているだろう。
それには阿片が入っているんだぞ」と注意されたがそれでも坂井はやめようとせず、台南空司令部の士官にだけ上等なタバコが支給されていることを批判した。すると笹井は怒りで唇を噛み顔を曇らせて立ち去ると、士官向けに支給された通常の煙草をいっぱい詰めた箱を持ってきて、「みんなで分けろ。あんなくだらんタバコは捨てろ」と指示し、坂井の思惑通りになったこともあったという[11]。
1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争開戦、台南空はフィリピン・クラーク空軍基地攻撃に参加。第一中隊(新郷英城大尉指揮)の第三小隊(坂井一飛曹、横川二飛曹、本田三飛曹)の小隊長として台南基地を出撃。坂井は、台南空零戦36機で護衛した高雄空の一式陸上攻撃機27機、一空の九六式陸上攻撃機27機の爆撃成功で、黒煙の上がる飛行場500メートル上空で、米陸軍第21追撃飛行隊のカーチスP-40ウォーホーク戦闘機と初の空戦を行う。坂井は零戦得意の左急旋回からの一撃でP-40戦闘機を大破、同機は滑走路に滑り込んだ。戦後の1991年5月、米国テキサス州で同機に搭乗していたサム・グラシオ中尉と会見し、この空戦の記憶が一致した。
1941年12月10日、空の要塞と呼ばれたボーイングB-17フライングフォートレス爆撃機を日本が初撃墜した。戦後、坂井がAP通信社の東京支局長ラッセル・ブライアンに対し、この撃墜者が坂井であり、墜落するまで機影を見届けずに「戦果未確認」と報告したと語り、ラッセルが「あれは撃墜だった」と答える会見の様子が「日本タイムス」や「スターズ・アンド・ストライプス」に発表された。しかし、坂井は当日出撃はしたが、当時の台南空・三空の資料に記載されている、B-17を攻撃した複数の搭乗員の中に坂井の名前はない。戦闘行動調書によれば、交戦した豊田光雄、山上常弘、菊池利生、和泉秀雄、野澤三郎の協同撃墜であり、坂井は交戦していない[12]。
台南空は、12月25日より、スールー諸島のホロ島へ順次進出。1942年(昭和17年)1月16日、蘭印のタラカンに進出。1月24日、坂井はボルネオ島・バリクパパン上空哨戒中、米陸軍第19爆撃飛行隊のB-17爆撃機の7機編隊を発見。台南空4機(坂井一飛曹、松田三飛曹/田中一飛曹、福山三飛曹)で、20分にわたり攻撃し、うち3機の大破。1月25日、坂井はバリクパパン基地に進出。2月5日、同基地を出撃した坂井は、ジャワ島スラバヤ上空で米陸軍第20追撃飛行隊のP-40戦闘機1機を撃墜。2月8日、新郷大尉指揮9機(新郷大尉、田中一飛曹、本田三飛曹/坂井一飛曹、山上二飛曹、横山三飛曹/佐伯一飛曹、野沢三飛曹、石井三飛曹)の第二小隊長として、バリクパパン基地を出撃。日本陸軍が上陸を開始したセレベス島マカッサル方面に対する爆撃に向かっていた米陸軍第19爆撃飛行隊のB-17爆撃機の9機編隊とジャワ海カンゲアン島上空で交戦。零戦隊は、その後方から忍び寄り、B-17爆撃機の防御砲火が相対的に弱いと考えられた正面に回って攻撃。うち2機を協同撃墜し、4機を大破。
2月18日、オランダ領東インド(今のインドネシア共和国)・ジャワ島マオスパティ基地4,000メートル上空で蘭印軍のフォッカーC.XI-W水上偵察機1機を共同撃墜。晩年、坂井は、敵基地への侵攻途中で発見した敵偵察機を攻撃するために味方編隊から離れ、偵察機撃墜後に侵攻する日本軍から逃れる軍人・民間人を満載したオランダ軍の大型輸送機ダグラス DC-4に遭遇し、当時、当該エリアを飛行する敵国機(飛行機への攻撃は軍民・武装の有無は通常問わない)は撃墜する命令が出ていて、相手は鈍重な輸送機であり、容易に撃墜可能な相手ではあったが、坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと疑い、生け捕りにする事を考えたため、日本の基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ時、輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づき、
それが青山学院中等部時代に英語を教え親切にしてくれたアメリカ人のマーチン夫人と似ていたため、さすがに闘志が萎え、当該機を見逃す事に決め、敵機のパイロットに行けと合図して逃がし、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告したと語っている。
それ以前の著書では、輸送機を捕虜にしようと威嚇射撃を行ったが、断雲を利用して全速で逃げられたと書いていたが、その理由は、『坂井三郎空戦記録』の執筆に取りかかった昭和25年は、占領下でマッカーサー司令部が戦犯追及をしていたので、関わり合いになりたくないと思ったからと述べている[13]。
坂井の主張とは別に、「海外の調べで機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍看護婦の生存が確認された」、「看護婦が「あのパイロットに会いたい」と赤十字等の団体を通じて照会して坂井と分かり再会した」、「看護婦が坂井の著書を読んで知り再会して日時や両者の記憶が一致し互いの無事を喜び合った」などの詳細不明の後日談が様々な形で主張されている。しかし戦闘行動調書によると、著書に記載された2月25日は輸送船団上空直衛の任務についており、2月18日、25日ともに輸送機を発見しておらず、また別日にも坂井が輸送機を発見したような出撃記録はない[14]。
2月28日には、バリ島デンパサール基地より出撃し、ジャワ島マラン西方の6,000メートル上空で、蘭印軍のブルースターF2Aバッファロー戦闘機(C.A.フォンク少尉機)を左垂直旋回から発射機銃弾160発で撃墜。
ラバウル方面
ラバウル時代の搭乗機「V-173」
オーストラリア戦争記念館
1942年4月1日、台南空は第25航空戦隊に編入され、ラバウル方面に移動する。4月16日、台南空はニューブリテン島のラバウルに進出。17日、ラバウルの前進基地となるニューギニア島東部のラエ基地に進出。この基地から連合国軍(米豪軍)のポートモレスビー基地まで近距離であり、台南空は、ポートモレスビー攻撃、連合軍のラエ基地爆撃の邀撃に従事する。この頃、坂井は遠方から油断した単独の敵機を発見し、後ろに回って死角である胴体の真下から隠れながら高度を上げて接近し、優位な位置を占めることに成功する運のいい巡り合わせがよくあり、隊内では坂井の落ち穂拾い戦法と笑い話になったという[15]。
1942年(昭和17年)5月27日、飛行機隊長中島正少佐指揮の零戦18機によるモレスビー攻撃に参加。6時20分ラエを発進し、小規模な空戦をした後、同じ中隊の西沢広義と太田敏夫の3人でひそかに打ち合わせていた通り、中隊を離脱し、無断でポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて三回連続編隊宙返りを行った。敵側はこれを天晴れと見物していたらしく攻撃されることは無かったが、後日敵側から賞賛の手紙が基地に届いたため、上官の笹井に「けしからん」と叱られた、と坂井は語っている。
坂井の自伝として海外で出版された『SAMURAI』では5月17日の出来事としている。『SAMURAI』の共著者のマーティン・ケイディンは戦後に当時ポートモレスビーにいたある米兵からそれを目撃したことを聞いたと主張している。しかし、戦闘行動調書によれば、5月17日は11時45分に13機がラエに帰着、2機がサラモアに帰着し、5月27日の攻撃は山下政雄指揮の零戦27機がラエから8時50分に発進してモレスビー上空で交戦後、11時30分に全機がラエに帰着しており、さらにいずれも坂井は小隊長であり、3人は同じ中隊に所属していなかった。坂井が他の著作で主張した6月25日には太田が出撃していない。その他の日も合わせて日本でも連合軍でも坂井たちが別行動をとった記録はない[16]。
1942年6月9日、来襲する敵爆撃機の迎撃に参加。後にアメリカ大統領となったリンドン・B・ジョンソンが下院議員時代にB-26マローダー爆撃機に同乗してこの戦闘に参加し、撃墜されかけたと語っているが、ジョンソンの搭乗機は、エンジントラブルで引き返しており、議員の安全を優先させたためか、爆弾も投下しておらず、戦闘には参加していないとの公式記録がある[17]。
負傷
負傷して戦闘から帰還した直後に撮影した写真
1942年(昭和17年)8月7日、ガダルカナル攻撃に参加。アメリカ海軍のジェームズ・“パグ”・サザーランドのF4Fワイルドキャットとの戦闘があった。坂井三郎曰く、はぐれた列機、柿本円次と羽藤一志が一機のグラマンに追われていたので助けに入り、単機巴戦の末撃墜したとのこと[18]。しかし、サザーランド曰く、陸攻との戦闘で被弾した結果、グラマンは黒煙を吹き、機銃も故障した状態で零戦4機に追われる中火災が発生したので落下傘で脱出したとのこと[19]。戦後このグラマンを調べた結果、機銃の故障などサザーランドの証言と一致した。日本の戦闘詳報では、坂井三郎と列機の羽藤、そして別隊の山崎市郎平による共同撃墜となっている[20]。
この戦闘からの帰路、ガダルカナル島の上空において、坂井はSBDドーントレス艦上(偵察)爆撃機の編隊を油断して直線飛行しているF4Fの編隊と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びた。坂井は右前頭部を挫傷して左半身が麻痺し、加えて右目も負傷。(左目の視力も大きく低下)計器すら満足に見えないという重傷を負った。
坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。一時は負傷の状態から帰還は無理と考えて体当たりを画策するが敵艦を発見できず、帰還を決意。まず止血を行い出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした。正常な着陸操作ができる状態ではなかったため、降下角と進入速度のみをコントロールし、椰子の木と同じ高さに来た時、エンジンを足で切って惰性で着陸するという方法を取った。周回をあと1回行っていたら、燃料切れで墜落していたと言われるほど際どいものであったと語っている。丹羽文雄が重巡洋艦鳥海からびっくりするほど低空を飛行している零戦を目撃したと記しているが、これは日時が違い坂井ではない[21]。
坂井が受けた傷はラバウルの軍医では治療できず、内地に送還。坂井は、笹井醇一から「貴様と別れるのは、貴様よりもつらいぞ」と言われ、虎は千里を行って千里を帰るという縁起から坂井がまた帰って来るように、笹井が父からもらった虎のベルトバックルを渡されたという。その後笹井は戦死したが、がっかりするだろうからという理由で坂井には半年間知らされず、知ったときは自分がついていたら死なせなかったのにと地団太踏む思いがしたという[22]。
横須賀海軍病院で手術を受けたが、右目の視力をほぼ失い左も0.7にまで落ち、左半身は痺れた状態だった。右目の視力を失ったことにより、搭乗員はもちろん軍人としてさえ勤務はできないであろうから軍人を辞めるように宣告された。市中での生計手段として指圧師や按摩師の道を勧められ、研修も受けていたが、転職する前に転院することになった[23]。佐世保病院に移されたときに、ラバウルより帰国して再編成中の251空(改称後の台南空)に行った坂井は、司令になっていた小園安名中佐に対して「片目でも空戦経験の少ない戦闘機乗りよりも、私は使えると思う」と説得した。軍医は反対したが、小園も訓練を見てみて具合が悪くて飛べなくても教官にすると言ったことから、坂井は航空隊に留まることになった[24]。台南空が内地で訓練する間、坂井が後輩たちをバットで殴る指導もあった。坂井はラバウルでは10月になると死者が出て、内地で教える時間がないからまずい戦いをしたやつは殴った、殴ると反省するから効果があったと語っている[25]。
1942年10月、飛行兵曹長に昇進。1943年(昭和18年)2月、豊橋航空隊で搭乗員に復帰して訓練を行ったが、ラバウル進出直前の1943年(昭和18年)4月、大村航空隊に異動、教官に配属される[26]。
硫黄島
1944年(昭和19年)4月13日、横須賀海軍航空隊に配属。台南空の上官だった中島正少佐によって、大村空で教官をしていた坂井は横須賀空へ呼び寄せられた。
戦況の悪化、絶対国防圏の重要な一角であったサイパン島への米軍上陸を受け、横須賀航空隊に出撃命令が下り、1944年(昭和19年)6月22日、中島正少佐指揮の零戦27機に参加し、硫黄島へ進出。中島は訓練を見る限り坂井は戦えるところまで目が治っていると考え、若いパイロットを元気づけるためにも出てほしいと頼まれたことで、坂井は右目の視力が完全に治っていない状態で前線に戻ることになった。横空派遣部隊は、硫黄島防衛に加え、マリアナ沖海戦に勝利したばかりで、マリアナ諸島沖に展開の米海軍機動部隊(第58任務部隊)を攻撃することも視野に入れつつ、三沢基地で練成中だった252空他と共に、零戦の他に艦上攻撃機天山、艦上爆撃機彗星他も含めて急遽編成された「八幡空襲部隊」の傘下に加えられた。
坂井の著書では、6月24日、7月4日、7月5日に硫黄島で戦闘したことになっている[27]。 戦闘詳報によれば、硫黄島で坂井が参戦したのは、6月24日の敵艦上機邀撃戦闘と攻撃機隊援護だけである[28]。
まだ八幡空襲部隊が硫黄島に移動集結中であった6月24日早朝、米海軍第58任務部隊第1群のVF-1、VF-2、VF-50航空隊のグラマンF6F ヘルキャット戦闘機約70機が、空母ホーネット、空母ヨークタウン、空母バターンを発艦して硫黄島に来襲。これをレーダー探知して、横須賀空の25機、そして252空と301空(戦闘601飛行隊)の32機、合計57機の戦闘機が6時20分に硫黄島上空に迎撃に上がる。梅雨前線の影響で高度4千メートル付近に厚い雲層が立ち込めるなか、迎撃機は雲上と雲下に分かれ、7,8機引き連れた坂井の雲下組は、離陸後、硫黄島西岸の雲下、高度3千メートルを急上昇中のところ、早くもこの時点で侵攻してきたF6Fヘルキャット戦闘機群に遭遇。坂井の属する雲下組は離陸の順番が遅かったことで、予定の高度をとれず、硫黄島防空戦に突入する。坂井は一機と旋回戦になって左ひねり込みに誘いこみ巴戦で撃墜[29]、視界の利かない右側後方から、不意に敵戦闘機の射撃を受けていることに気付き、途中から、肩バンドを外して何度も右側を振り返って右側の視界を補いつつ撃墜、合計でF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜したという[30]。
坂井はこの空戦の終了時に、視力不足から、母艦へ帰還するF6Fヘルキャット戦闘機編隊を味方零戦と誤認して編隊に加わり、敵戦闘機15機に包囲されたという。一方、上空からの目撃証言によれば、坂井が囲まれたのは4機のラフベリーサークルであったという[31]。坂井は左旋回だけで逃げたと話しているが、目撃証言によれば、右に左に逃げていたという。戦後、坂井はアメリカで攻撃してきた生き残りと出会い、坂井の飛び方なら100機のグラマンでかかっても落とせないと賞賛されたと語っている[32]。
この早朝の迎撃戦で坂井の小隊に所属した僚機の柏木美尾一飛曹と野口壽飛長が未帰還になっている[28]。
当時の記録では、最初の迎撃戦が行われた6月24日の午後、米機動部隊攻撃に発進、16時35分、ウラカス島北東50海里、高度4,500mにおいて、30機以上のF6Fヘルキャットに迎撃を受ける。編成は零戦23機、彗星艦爆3機、天山艦攻9機(内、横空零戦隊は9機。戦闘機隊指揮官は、山口定夫大尉、第二小隊長は大機一雄大尉、第三小隊長は坂井。)となっている[28]。
しかし、坂井の著書では、迎撃戦後は体調不良のため、数日地上待機を命じられ[33]、7月5日、天山8機と零戦9機の合計17機で、米機動部隊攻撃に向け、硫黄島基地を出撃。戦闘機隊指揮官は、山口定夫大尉、第二小隊長に坂井、第三小隊長は武藤飛曹長。出撃前、横須賀空司令の三浦鑑三大佐より、「本日は絶対に空中戦闘を行ってはならない。雷撃機も魚雷を落としてはならない。戦闘機、雷撃機うって一丸となって全機、敵航空母艦の舷側に体当たりせよ。」との訓示がなされ、特攻命令が下されたと書いている[34]。 攻撃隊は米側レーダーにより捕捉され敵機に攻撃された。命令にて零戦隊も空戦もできぬまま、天山は次々と大爆発を起こし、撃墜されてしまう。坂井は反撃して、F6Fヘルキャット1機を撃墜[35]。その間に武藤機ともはぐれた坂井小隊3機は、敵艦隊を引き続き捜索するが叶わず、坂井は硫黄島への帰還を決意する。ただ、片道を前提に、帰路は全く念頭に置いていなかった状況で、正確な現在地もつかめず、日没迫るなか、硫黄島への帰還は絶望的であったが、坂井の長年の勘で、日没後、奇跡的に硫黄島への帰還を果たす。坂井は、二番機の志賀正美上飛曹と三番機の馬場八郎飛長とともに暗闇の飛行場で、先に帰還した武藤飛曹長と再会。坂井と武藤で報告に行くと、三浦大佐は状況報告を聞いた後「御苦労」の一言があっただけだった。坂井たちが生還したことでかえって後味が悪い思いとなっているのではないかと語られている[36]。
当時の戦闘詳報では、攻撃隊の総合被害は未帰還:零戦10機 天山艦攻7機(内、横空被害は未帰還零戦4機、天山艦攻7機)である。坂井の著書で戦死したとされている山口大尉は、この攻撃では戦死しておらず、山口大尉の戦死は「7月4日」の第四次硫黄島上空邀撃戦であり、同日午後の米艦隊の艦砲射撃により残存機は全機破壊されている。また、7月5日に米機動部隊に対する攻撃が行われた公式記録は無い[28]。
少尉時代
硫黄島から帰還後の1944年(昭和19年)8月少尉(特務士官たる少尉)に昇進。同年12月、第三四三海軍航空隊(通称『剣』部隊。以後、343空とする)戦闘七〇一飛行隊『維新隊』に配属。343空が装備する最新鋭戦闘機紫電改の操縦などの指導に当たる。 紫電改については、航続力がない点からみれば九六艦戦時代に逆戻りした感があるが、極めて斬新な設計(空戦フラップ)が施された優秀な戦闘機と評していたが[37]、晩年には「制空戦闘機とも局地戦闘機ともいえない中途半端な戦闘機」と批判的になっている[38]。
指導に当たった坂井は空戦講話をやったが、激戦を経験した若者には不評だった。いわゆる昔語りに過ぎず、暴力をたびたび振るったことも反感を買った[39]。特に坂井より8つ年下でありながら坂井の撃墜数を超える杉田庄一は、大村空でも坂井と一緒だったが、杉田は坂井が前線から退いた後もずっと勝ちぬいてきた誇りがあった。また杉田は後輩に対して鉄拳制裁を好まず面倒見の良い優しい性格だったことから、自分より若い搭乗員達をことごとくジャク(未熟者)呼ばわりする坂井を嫌い、「坂井は敵がまだ弱かった頃しか知らない、坂井がいなくなった後の方が大変であった」と言って坂井と対立した。343空でも杉田は「零戦は正しく整備、調整されていれば、たとえ手を離して飛んでも、上昇下降を繰り返してやがて水平飛行に戻る。意識を失って背面状態に入り、それが続くなんてことはない。だいたい、意識がないのにどうして詳しい状況が話せるんだ」と坂井のガダルカナル上空で負傷した話を批判し、「あんなインチキなこと言うやつ(坂井)はぶん殴ってやる」と公言していた。飛行長の志賀淑雄少佐は一触即発の状態に苦慮し、空戦に使える杉田を残し、坂井の経験を活かすため飛行実験を任務としている横空へ武藤金義との交換の形で異動させる事にした[40]。これに対し横空は反発し、特に塚本祐造は、片目が見えない坂井と武藤の交換は割にあわない、横空は飛行実験だけが任務ではないとして、猛反発した。結局、野口毅次郎少尉を付けての2対1の交換でまとまった[41]。交換された武藤金義少尉が豊後水道上空の空戦において戦死したため、坂井は武藤少尉が自分の身代わりになって戦死したように感じると語っている。
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。松田千秋司令は、准士官以上を講堂に集合させ、「残念ではあるが日本は降伏することになった。しかし、厚木、その他の航空隊では、徹底抗戦を叫んで降伏をがえんじないようであるが、うち(横空)はこれには加わらぬ。諸君も無念ではあろうが、軽挙妄動してはならぬ」と戒めた[42]。しかし、晩年になると坂井は、横空は無条件降伏に納得せず厚木航空隊に同調し、松田司令が徹底抗戦を叫んでパイロットも引く気がなく、やってくる航空機に対する攻撃は国際法上で正当防衛と聞き、8月17日に他の機種に目もくれず零戦52型で出撃したと語っている[43]。
1945年(昭和20年)8月17日、アメリカ軍をはじめとする連合国軍による占領下の沖縄の基地から日本本土偵察のため上空写真の撮影に飛来していたB-32ドミネーター2機を多数の日本海軍機が襲撃して房総半島から伊豆諸島の上空で交戦した第二次世界大戦最後の空中戦があった。坂井もまたこの時に出撃しており、零戦で交戦したともされる。空戦の結果はB-32の搭乗員1名が戦死、2名が負傷。ダメージを負った機体は沖縄へ退いた。この戦闘での死者がアメリカ軍兵士の第二次世界大戦での最後の戦死者となった。この空戦に参加した小町定は「紫電ですら追いかけるのに苦労したのに、零戦では無理」のような趣旨の発言をして、離陸した坂井が攻撃には参加できなかったことを示唆している[44] 一方で、大原亮治上等飛行兵曹は零戦52型で同日にB-32を迎撃し、三撃目までを加えたことを証言している。小町と大原の証言を本にまとめた神立尚紀は、この日飛来したB-32は複数機だったらしく、小町と大原が迎撃したのはそれぞれ別の機体であろうと解釈している[44]。
9月5日、ポツダム進級により海軍中尉。
戦後
戦後は、笹井醇一の親戚で大西瀧治郎の妻である大西淑恵に社長を依頼して印刷会社を経営した。1945年12月、AP通信社東京支局長のラッセル・ブラインズが日本の撃墜王に会いたいと復員省に依頼し、中島正中佐の推薦により、東京在住で連絡が取れるということで、きわだって目立つ存在ではなかった坂井が紹介された。その縁で福林正之にも紹介され、坂井の著書が出版されることになった[45]。その後もさまざまな著書を出版し、『SAMURAI!!』が海外で売れたことや一人娘がアメリカ軍人と結婚したことにより、渡米する機会も得るようになった。
戦後、坂井は元部下の内村健一が始めたねずみ講組織である天下一家の会に参加し、ほとんどの元下士官搭乗員たちを勧誘して被害を出すなど広告塔的存在となっていた。訴訟が相次いだが、規制する法律は間に合わず、ねずみ講は社会問題化していた。当時は頻繁に宗教法人が映画によって広報活動を行っており、1976年(昭和51年)、坂井の『大空のサムライ』が天下一家の会の宗教法人「大観宮」(大観プロダクション)から資金提供を受けて制作された。零戦にねずみ講のイメージが付くことを嫌悪した元零戦搭乗員たちが「零戦搭乗員の会」を一度解散して、新たに「零戦搭乗員の会」を設立する事態まで起こった[46]。このことで坂井はますます居場所をなくしてしまった。
1983年、アラバマ州空軍の航空200年祭に招待された坂井は、原爆投下の指揮・立案をしたポール・ティベッツが軍人として命令(原爆投下作戦)を遂行したことを賞讃し、坂井も原爆投下を命令されれば実行したと発言して、二人は握手した。この発言に被爆者たちからは非難の声が上がった。もっとも坂井は、原爆投下の道義的責任はハリー・S・トルーマン大統領にあると話してティベッツの個人的責任を追及しなかっただけで、原爆投下それ自体を問題無しとした訳ではない。
1987年7月、ワシントン州シャトル市で、エクスペリメンタル機(手作りのプラスティック飛行機)でスタントを体験する機会を得た。老いたパイロットが今も飛行機を見事に操縦した事で賞賛を受けるも、坂井は戦争以来のGに胃袋が腹の底に伸びきったような感じがしたと語っている[47]。ノースアメリカンP-51ムスタングを操縦した時(一般人でも教官が同乗することで、訓練用の複座型であるTF-51の操縦桿を握ることができる体験飛行がある)は、感想としてその性能に脱帽したと言っている。
東大教授加藤寛一郎が航空自衛隊を取材した際には、遠回しに「坂井三郎には近づきすぎない方がいい」という注意を受けたという[48]。航空自衛隊の士官あるいは幹部(空自のパイロットは全て幹部)は組織戦を好み、戦いを組織の戦いと考えているので、彼らから「自己宣伝をしすぎる」「宣伝が上手すぎる」「単なる職人」「自分のためだけに戦っていた」と見られる坂井は好印象を持たれていない。坂井より腕のいい戦闘機乗りはたくさんいたが坂井だけが有名になっていたと考えている人もいた[49]。なお、「坂井は単なる職人」という批判に坂井は、「それこそが我々の誇りである。それによってのみ、我々は存在意義を示せるのだ」と語っている[50]。
1995年代頃、坂井への関心は薄れており、当時坂井の漫画の連載を開始した「ミスターマガジン」編集部によれば、読者は坂井三郎の名前すら全く知らなかったという[51]。また、アメリカでも本が売れたはずの坂井が米海軍に招待されることはなく、厚木や横須賀の米海軍でも、他の零戦パイロットと比べて関心は低かった。あるときから坂井も招待されるようになったのだが、始めのうちは、アメリカのパイロットたちはみんな大原亮治に寄ってきて、坂井のことは誰も知らなかったので大原も一生懸命先輩の坂井を立てようとしていた[52]。しかし、坂井は週刊プレイボーイの人生相談の連載などを開始し、プレイボーイ編集長などの出版関係者は坂井三郎を宣伝する「零の会」を結成して活動を開始した[53]。それから徐々に坂井の知名度が回復した。
マイクロソフトで発売された『Microsoft Combat Flight Simulator 2』(フライトシミュレータ)では、パイロット経験者や技術者などからの取材が参考にされており、坂井も取材に協力している。完成の暁には、同じく取材に協力した元アメリカ軍パイロットとのゲームでの空中戦も予定されていたが、完成を見る前に他界した。
当時の彼の愛車、スカイラインGTを引き合いに出され、「自動車と零戦はどっちがいいですか?」という質問に、「そりゃあ、車の方がよいに決まっています。車はバックができますから」と答えている。晩年は「戦闘機のように見晴らしが良い」という理由で初代ロードスターを愛車としていた。
坂井は、最近の若者には向上心が足りずだらしがないと苦言を呈することもあったが[54]、『朝まで生テレビ!』に坂井が出演した際には、現在の若者への苦言を期待された質問に、「自分の時代にも若いやつはだめだと言われ続けた」と答えて、スタジオ内で観覧していた若者から拍手が起きた。 生前は自宅の玄関から階段付近に鉄棒を渡し、ひまなときに懸垂やぶら下がりをしていた。70歳過ぎて悠々と懸垂を披露する姿に、多くの来客は驚嘆させられた。
2000年(平成12年)9月22日、坂井は米軍厚木基地の司令官交代式に招待されたときに倒れた。帰途につく際、体調不良を訴えたため、大事をとっての検査入院中の同日夜に死去。享年84。検査中に主治医に配慮して、「もう眠っても良いか」と尋ねたのが最期の言葉となった。坂井の葬儀のそばで元零戦搭乗員が30名ほど集まる会合もあったのに、坂井の生前の行いもあり、元零戦搭乗員で参列したのは4人だけだった[55]。他の零戦搭乗員たちからの反感、ゴーストライターの存在、ねずみ講の事件など批判のあった坂井の行動を取り上げている『祖父たちの零戦』を読んだ娘の道子は、熱狂的なファンには聞き捨てならないように思えるかもしれないが、全て父である坂井三郎から聞いて知っていたことと述べている[56]。
空戦
飛行服を着た坂井三郎(漢口飛行場)
成績
公認撃墜数は28機[57]。著書などにある撃墜数64機という数字はマーチン・ケイディンが宮本武蔵の真剣勝負の数から付けた数字であり、作家神立尚紀の取材に対し坂井は「実際に撃墜した数は六十四機よりうんと少ないかもしれないし、もっと多いかもしれない。」と把握していないことを述べている[58][59]。著書などにある出撃回数が200回というのも事実と異なり、加藤寛一郎の取材で坂井もそれを認めたが、「ただ、空戦回数は200回ぐらいあります。野球にたとえますと、一試合でバッターボックスには4回ぐらい立つ。だから空中戦も、ここで一球、こっちへ来てまたやってということで、なかなか回数と言うのは数えられない」「この数字は少ないほう」と語り、加藤から「でも、それで(撃墜の)最高機数をマークされたわけですね」と質問されると、坂井は「だから(撃墜の)確率は非常に高かった」「けっきょく相手がへぼだった」と返答している[60]。
戦後、坂井は僚機を撃墜されたことがないと主張していた。しかし、1942年5月12日に敵から被弾した小林民夫が帰還中に不時着、沈没(小林は軽傷)しており[61]、1944年6月24日には敵艦上機邀撃戦闘で柏木美尾一飛曹、野口壽飛長が未帰還になっている[28] など、実際のところは、坂井の僚機は撃墜、死亡している。 この「僚機を殺したことがない」という自慢に対して反発する者もおり、「よい僚機に恵まれたから生き残れたんじゃないか。せめてひと言感謝の言葉があればもっと尊敬されたのに…」と批判もあった[62]。坂井の「ただの一度も飛行機を壊したことがない」という主張も、1941年12月12日の戦闘で被弾して不時着した際に機体の修理が必要になっている[63] など、実際は機体を壊したことがある。低燃費航行に長け、最小燃費の最高記録保持者と自負している。
戦法
坂井は戦闘機乗りが最後の頼みとするのは自分だけであるという。格闘戦で一騎討ちをやる場合、徹底的な頑張りがなくてはいけない。必ず勝てるという信念で頑張りぬいた者が空中戦で敵に勝つ人で、辛いと思うときは互角かむしろ勝っている方が多い。その苦しい最後のとき、へばったものが落とされる運命であるという[64]。また、坂井は空中戦の鉄則はまず見張りであり、敵を発見したら自分は撃てるが相手は撃てない位置に潜り込め、空中戦は牧羊犬の動きと考えよという[65]。格闘戦に入ったら自分の得意の技に引き込むごとく操縦せよ。相手の尾部が目に入ったらわれ勝てりだという。格闘戦とは自分が不利に立たされた最後の手だと思え、相手を動かさない据え物切りこそ空中戦の極意ともいう[66]。晩年に行われた加藤寛一郎の取材では、格闘戦とは窮地に入ったときの脱出法と心得よ、空戦は据え物斬りと心得よという点を強調していたという[67]。坂井は、目を鍛えたことで2万メートルから2万5千メートル先の敵が見えるようになったことが割と格闘戦をやらないで撃墜できた理由と主張している。ドッグファイトでは自分もピンチになることがあるので、圧倒的有利に立った奇襲一撃で先手を取るという[68]。著書には「左捻り込み」で撃墜する描写がみられるが、最晩年の坂井はただの一度も実戦では使ったことがないと主張している[69]。坂井は、死角であり、気づいてダイブする敵も翼を傾け背面になって絶好の標的になるとして後下方からの攻撃を好んだという[70]。坂井は、空戦空域に入った際の見張り方を「前を2、後ろを9」の割合で索敵するという[71]。坂井は水平線より上の索敵を得意としていたという。
空戦指導に関して坂井は、初心者には相手に食らいつきいよいよ機銃発射という直前には後方を確認するように教え、その上の者には追ってくる次の敵の未来位置を想定して攻撃をかわすように教え、さらに上の者にはかわすだけではなく巻き返してカウンターで撃墜するように教えると語っている[72]。
視力に関して、笹井の手紙にある「坂井三郎という男あり、片目0.8ながら、なおかつ私よりも敵を早く発見し・・・」という記述について聞かれた坂井は、支那事変で一度負傷した際に破片が目の瞳孔のど真ん中に突き刺さり、ワセリンで拭いてもらい見えるようになったが、左目が飛行機乗りで最低の0.8になったからで、右目は鍛錬でぐんぐん視力がよくなり、今度はガダルカナルで右目をやられると左目がぐんぐん見えるようになったと語っている[73]。坂井は昼間に星を見て視力を鍛えたと主張しているが、加藤寛一郎は「昼間に星が見えた」とは、南の島で上を向いて頭を固定して、星座表で星の位置をあらかじめ確かめておき、午後二時から三時ごろ、五つか六つ星が見えるという意味であろうという[74]。
零戦の最大の武器は20mm機銃という説に対し、坂井は「20mmは初速が遅く、ションベン弾」と低い評価をしており、命中率が悪い上に携行弾数も7.7mmより少なく、弾倉に被弾したら機が四散するほどの誘爆を起す危険を指摘している。しかし「敵機の翼付け根に一発でも命中すれば、翼が真っ二つになった」ともいい、その威力に関しては評価もしている。自身のスコアのほとんどは機首の7.7mm機銃でのものだったと語っている[75]。また、「前縁いっぱいに一三ミリ砲の火を噴くアメリカ軍の戦闘機を羨ましく思った」と語っている。
特攻作戦に赴く特攻隊員に対しては、「遅かれ早かれ我々も行かなきゃいかん。遅いか早いかだよ。ただし、どうせ行くんだから命中したいなぁ。それには俺の言うことを聞け。それには(角度を)絶対に深く行っちゃ駄目だよ」と声をかけて送り出していた[76]。戦後、坂井は硫黄島で特攻を命じられたことについて(実際に命じられた記録はない)、特攻を名誉に思う反面、「なぜおれが」という気持ちがあったと語っている[77]。また、「特攻で士気があがったと大本営は発表したが大嘘。『絶対死ぬ』作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった」とも答えている[78]。
著作活動
坂井が戦後出版した著書にはゴーストライターの存在が指摘されている。作家の神立尚紀の取材では、『坂井三郎空戦記録』は福林正之が坂井への取材や独自の取材などをもとに書き、『SAMURAI!!』はフレッド・サイトウによる坂井へのインタビューをもとにマーチン・ケイディンが脚色して書き、『大空のサムライ』は光人社社長の高城肇がアメリカ的な空戦活劇である『SAMURAI!!』を坂井と相談して日本向けに直したことを坂井も認めている[59][79]。一方、東大教授の加藤寛一郎の取材では、「著書にはゴーストライターの存在が噂されるが、真実はいかに」という問いに対し、坂井は「当初はそれを考えていたが飛行に関する部分がどうしても我慢ならず、結局すべて自身で書き直した」「一言一句自分で書く」また「何度も何度も書き直す」と答えている。但し、各エピソードの順番に関しては出版社の意見を聞くこともあるとも回答している[80]。しかしながら坂井の著書の内容は、それぞれの著書の間や実際の記録との間でも矛盾がいくつも指摘されている[81]。
毎日新聞によると、イラク政府軍のある部隊では、戦意高揚の一つとして、マーチン・ケイディンの『SAMURAI!!』をアラビア語に翻訳してパイロットに必読を義務付けていたという[82]。
作家の渡辺洋二は、第2次世界大戦の航空戦史と飛行機に深い関心を持つ私が、零戦関係者の名をいくつも並べられるのは当然だ。しかし搭乗員名を関心の大きな順に語っていくとしたら、坂井三郎はずいぶん後回しになってしまう。今日にいたるまで坂井に取材したいと思ったことはないと語っている[83]。
晩年は太平洋戦争研究家を自称して、日本軍上層部に対する批判が多く見られる。不時着して捕虜となった後に陸軍に救出され帰還した陸攻隊員に対して、山本五十六連合艦隊司令長官が自爆命令を下して5月の初めにラエ基地にその陸攻部隊が来たときに坂井は批判したと主張しているが[84]、実際には陸攻の自爆命令は第11航空艦隊から発令され3月31日に実行され坂井と接点すらなかったなど坂井の批判には知識の誤りや虚偽が見られる[85]。
また、坂井は元上官が死んで反論できなくなるたびにイニシャルを使ってこきおろしたが、イニシャルが同じ別人まであらぬ詮索をされ、上手いやり方とは言えなかった。また人間には相性があるので、坂井が嫌っていた上官にも慕っている部下はおり、坂井が「敵」と名指しした士官より、味方であるはずの下士官兵搭乗員から多くの反感を買った[86]。
坂井は「どんな失策があっても、政治家や大企業経営者が責任をとらずに問題がうやむやになる今日の日本の状況は、そもそも天皇の戦争責任が厳しく問われていないからだ」と繰り返し主張していた[87]。さらに坂井は日本人を一億総寄生虫と評し、「戦後の日本の物質的な繁栄はアメリカに寄生してきたおかげです。日本人の勤勉さがどうとか言いますが、これだけ繁栄することができたのは幸運の一語につきます。(中略)韓国が経済的に苦しかったとき、朴正煕大統領が日本に50億ドルの援助を依頼した。大統領はこう言ったそうです。「朝鮮戦争で我々韓国人が血を流して戦ったからいまの日本がある。50億ドルくらいなんだ」と。それはそうなんです。ベトナムでもいちばん勇ましかったのは韓国兵だった。戦死者が多かったのも韓国軍だ。日本は戦後、血も流さず、汗も流さず、何もせずにひたすら金もうけをしていた。(中略)日本はなにもせず経済発展に邁進した結果、アメリカの寄生虫になってしまった。その寄生虫がてんでに勝手なことを言っている。高校や大学でそういうことを教えないと、日本は危ういと思います」と持論を展開している[88]。
坂井には、「零の会」という出版関係者で組織された後援団体が存在する(会内では「坂井教」と呼ばれている)。坂井三郎の宣伝活動を目的にして、坂井の死後も活動している[53]。
戦記物の漫画を書いていたが売れずに困っていた水木しげるに「戦記物は勝たなければダメだ」とアドバイスを送っている。しかし、日本軍が優位だった時期に活躍し、劣勢期には負傷して退いていた坂井に対し、負けだしてから戦地に送られたため劣勢期しか知らない水木は、なかなかアドバイスどおりに漫画を描くことができず苦労したという。
上坊 良太郎(じょうぼう りょうたろう、
1916年(大正5年) - 2012年(平成24年)8月13日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者でエース・パイロット。最終階級は陸軍大尉。少年飛行兵第1期生。滋賀県出身。
正確には、黒鳥四「朗」ですね。