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    ヒラリーの私用メールが暴いた外務省の赤っ恥 国益の毀損と責任感の欠如がもはや伝統に

    http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46021 国際?世界情勢?政治?安全保障

    ヒラリーの私用メールが暴いた外務省の赤っ恥 国益の毀損と責任感の欠如がもはや伝統に

    2016.2.10(水) 森 清勇

    クリントン氏の私用メール、7つのやり取りに「最高機密」

    米NBCテレビの討論会で演説する大統領選の民主党指名争い最有力候補、ヒラリー・クリントン前国務長官(2016年1月17日撮影)〔AFPBB News〕 ?2月1日付の全国紙は、ヒラリー・クリントン前国務長官が公務に私用メールを使っていたのがさらに見つかったと報じた。米国では機密漏洩という視点で以前から問題視されてきた。

    ?日本においては公用メールの管理という示唆でもあるが、ここでは同時に公開されたメールで明らかになった外務省高官の尖閣諸島国有化についての認識の甘さを取り上げたい。

    ?当時のカート・キャンベル米国務次官補(東アジア・太平洋担当)が尖閣諸島を国有化する前の日本に、中国と事前協議を重ねる要請をしたことに対する佐々江賢一郎外務事務次官(当時)の回答が明らかになった。

    外務省の中国認識

    ?米国は中国の激怒を予測し、「佐々江と日本政府に北京と協議」することを奨めるが、新聞報道に見る佐々江次官の発言は「中国が(国有化の)必要性を理解し、いずれ受け入れると信じている」(「日本経済新聞」、他紙も同趣旨報道)というものである。何と楽観主義の次官であったことか。

    ?国際情勢、中でも中国の歴史や言動に全然学んでいないのではないだろうか。日々が闘いである外交の場で活動する、日本を代表する次官の発言とはにわかに信じられないほど初心である。

    ?今日の日中間の大きな係争に発展する震源になり、国益の棄損につながっていると思うがいかがであろうか。

    ?かつて園田直外相は外務官僚を「理路整然たるバカ」と呼んでいたそうである(杉原誠四郎『外務省の罪を問う』)。頭の切れはいいが、自分が日本人であり、日本の国益を主張すべき立場にあることを忘れる外務官僚が多いからであろう。

    ?どうしてこんな人が次官になり、駐米日本大使になるのだろうか。ここで思い出すのが、佐々江氏の数代前の次官であり、同じく駐米大使となった斎藤邦彦氏のことである。

    ?アイリス・チャンの『ザ?レイプ?オブ?ナンキン―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』がベストセラーになり、南京攻略戦に伴う「事件」でしかなかったものが「南京大虐殺」として米国をはじめ国際社会に大々的に流布することになる。

    ?日本は何としてもそうした嘘、捏造が広がるのを止めなければならなかった。

    ?そこで、チャンと斎藤大使によるテレビ討論が1998年2月実施された。しかし、結果的にはチャンの言説を補強することになってしまった。

    ?外務次官をやり、そして日本国を代表する駐米大使でありながら、南京大虐殺の捏造を暴いて日本の正当性を主張できなかったのである。このテレビ討論については「アイリス・チャンと斎藤邦彦駐米大使の討論」で検索可能。

    ?日本人はディベートが下手だとよく言われる。大方の日本人はそうかもしれない。

    ?しかし、日本国を代表する、しかも世界への情報発信源ともなっている米国のテレビ討論で、相手の主張を確固たるものにしてしまう結果をもたらしたのでは、何のための何処の国の大使か分からない。売国奴と呼ばれても大きな誤りではないであろう。

    ?佐々江氏の場合はディベート以前の国際情勢認識、中でも隣国中国の歴史や言動に対する認識である。その後の中国の行動は佐々江氏の発言と全く違った方向をたどっており、外務省の認識が全く間違っていたということである。

    ?日本にとって一衣帯水と言われる中国を知り、韓国・北朝鮮を知るのは、他のどの国よりも必要不可欠なことであるが、外務省は一体全体何をしているのだろうか。そして、どんな官庁なのだろうか。

    外務省に自浄能力なし

    ?筆者は日米開戦にまつわる問題で外務省がどういう動きをしてきたかに関心があり、『外務省の大罪―幻の宣戦布告』を上梓した。

    ?そうした結果、省庁改編には間に合わなかったが、「害務省」と化している外務省こそが第一に改編されて「国務省」となるべき官庁ではないかと書いた。外務省糾弾の嚆矢であったと自負している。

    ?当時調べて分かったことは、宣戦布告の遅延は(軍部に責任がなかったとは言わないが、最終的かつ最大の要因は)紛れもなく外務省の失態であった。しかし、外務省は総力を挙げて隠蔽し、揚句に当事者たちが自己擁護する著作を出し続けたのである。

    ?他方、罪を押しつけられた軍部側の著作はほとんど現れなかった。東条英機など、その衝にあった人が家族らに自己弁護するなと厳しく言いつけたからでもあろう。

    ?東日本大震災と福島第一原子力発電所にかかわる対処において、関わった民主党の幹部たちが次々に自叙伝などを上梓したことを思い出す。多くは自己弁護のアリバイ作りではなかったかと思う。

    http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46021?page=3

    往生際の悪い菅直人氏(当時の首相)は、自分の言葉を二転三転させながら、自己正当化だけのために今も裁判で争っている。

    ?宣戦布告の遅延については状況証拠から多くの人が研究してきた。しかし、何よりも求められたのは外務省自身による調査であった。

    ?実際、3人の外相(東郷茂徳・重光葵・吉田茂)が調査を命じ、「問題の解明」に当った。しかし、外交文書は原則30年で公開するという規定を反故にして50年どころか70年たった今も公開されていない。

    ?いまにして思えば、北朝鮮の拉致問題と同じく、あえて調査するまでもなく、当事者たちが目の前にいるわけであり、事の推移は明々白々ではなかっただろうか。ただ、外務省の失態にしないための時間稼ぎであったに違いない。だから、永久に公開できないのではなかろうか。

    ?そうした何よりの証拠は、「罪万死に値する」とも見られた当の奥村勝蔵1等書記官や、上司として監督責任を有した井口貞夫参事官が、吉田外相によって何事もなかったかのように後日事務次官に任命されていることであろう。

    ?先の次官発言などは記録保管されるべきであろうが、都合悪い文書は破棄される可能性もある。外務省には公文書の保管意識が低いようで、開戦前夜の電文も何本かが見つかっておらず、歴史研究家を困惑させている。

    ?松岡洋介外相が訪ソして日ソ中立条約を電撃的に結ぶが、この時のモロトフ首相あての英文書簡について加瀬俊一氏は「書翰はわたしが起草した。(中略)これは極めて重要な外交文書である。私はともかく音読して了承を得ると、原案に花押をしてもらった。これはその後記念に保存していたが惜しくも戦災で焼失した」(『戦争と外交(上)』)と述べている。

    ?外交文書であるから当然「保管」であるが、「記念に保存」となれば、私的に持っていたとしか受け取れないし、それゆえに戦災で焼失したわけで、筆者は茫然自失したことを思い出す。

    ?筆者が忘れられないもう1つのエピソードは、日米交渉は野村吉三郎大使を中心に進められたが、その下に若杉要公使がいた。体の具合が悪かったようで、交渉たけなわの頃は「寝たきり」であったという人もいるが、当時在米大使館で勤務していた松平康東1等書記官は「(若杉公使は)自分の東京の家を新築したもので、そのための家具を探し回っていて、大使館にいないことも多かった」と語る。

    ?病気はカムフラージュであったことを示唆している。

    野村大使がルーズベルト大統領やハル国務長官と頻繁に交渉していたというのに、公使はこの為体で、外交史にはほとんど顔を出さない。日米が丁々発止の交渉をしているさなかで、重要人物が公務に精励しないばかりか、自利で動いていたのである。

    ?こうした状況が戦後の外務省でも繰り返されているというのは言いすぎであろうか。しかし、外務本省は無謬性を信じ切っているようで、日米貿易交渉や拉致問題などにおいても反省の声一つ聞こえてこない。

    拉致問題の本質

    ?東大を中退して、「目標とプライド」を以って外務省に入り12年間勤務し、最後は拉致問題に担当課長として直接かかわるが失望して外務省を去り、「外務省の在り方にダメ出し」をした人物に原田武夫氏がいる。

    ?「自前の情報機関を使って集めた北朝鮮現地情報を持たない日本政府には、北朝鮮に関する情報が決定的に欠如している。対北朝鮮政策と『国富の増進』という国家としての目標をリンクさせ、中長期的観点から物事を動かしていく発想もない」と知り、「ただただ北朝鮮や米国をはじめとする関係国の言葉に踊らされているままでよいのか」との疑問から外務省を去る(『北朝鮮外交の真実』)。

    ?拉致問題では外務省が正面に立っているが、失敗続きである。中山恭子参院議員は「外務省には、拉致被害者が犠牲になっても致し方ないという方針が従来からあります」(「言論テレビ」2014.10.31)とも述べている。

    ?一昨年5月、両国政府が発表したストックホルム合意で、北朝鮮の責務は「日本人の遺骨及び墓地、残留日本人、日本人妻、拉致被害者及び行方不明者を含むすべての日本人に関する全面的調査を行う」とし、しかも「調査はすべての分野を同時並行的に行う」となっている。

    ?外務省の担当官が完全に北朝鮮の策略に乗せられているのである。日本は拉致被害者と行方不明者が最優先と口を酸っぱくして言ってきたが、日朝で交わした文書では最後に書かれている。

    ?文書に表わされた順序はある意味で、優先順位あるいは比重の起き方を示すものであるから、同時に着手はするが、優先順位では後になることを認めたのも同然であり、拉致問題に手がつかないのは火を見るより明らかであろう。

    ?しかも、拉致問題の制裁を、「北朝鮮の特別調査委員会による調査開始段階で、人的往来、送金、船の入港などの規制を解除する」とした。これでは、遺骨ビジネスで堂々と金を稼げるようになるし、また、制裁も問題が解決する以前の調査着手で解除されるというのでは、相手にとって旨みばかりの合意であったのである。

    ?中山議員の言を再び借りると、「北朝鮮は拉致問題の解決を急がないと日本は動かないという相当な緊迫感を持っていると、私は承知していました。ところが、外務省と交渉を始めてみたら、どうも違う。非常に甘い。どうやら拉致問題に手を付けなくても、相当な資金を手にする術があると彼らは感じ始めた」というのだ。

    ?これが、外務省の交渉失敗でなくて何であろうか。

    日本は当初の5人を取り戻して以降は、拉致被害者の1人も取り返すことができずに弄ばれているのである。そこで議員は、「日本側の交渉担当者を交替させ、(中略)警察、公安、民間の専門家なども交えて共同で救出に当たらなければならない」と提言する。まともに交渉できない外務省への三行半である。

    ?約束の期日までに調査結果を報告しない北朝鮮に対し、政府・外務省は何も対処できないままである。家族会は「予測の事態」と冷静に受け止め、「(交渉を)打ち切ってもいい」とまで言い出す始末である。

    ?しかし、心中は察して余りあるもので、家族会も外務省を信頼していないのである。

    おわりに

    ?外国に勤務する防衛駐在官は外務省に出向して「1等書記官兼て1等陸佐」などの肩書で赴任する。防衛駐在官が得た情報はすべて外務省あてに送られ、そこで開封され、外務省が必要に応じて防衛庁(当時)に配布することになる。

    ?防衛庁に勤務した筆者は必要があって、防衛駐在官に情報を依頼したことがある。なかなか返事が来ないので催促した。そして返ってきた答えが、その件に関してはずっと前に外務省に情報を送ったというものであった。

    ?任を終えた防衛駐在官からも外務省に送った重要な防衛情報が防衛庁に届いていないと何度か聞いたことがある。

    ?担当の外務官僚が情報の重要性を分かっていないこともあろうが、そうではなく外務省が情報を独占したかったに違いないというのが大方の回答である。

    ?佐々江次官の発言から発展して外務省という組織全体のことになったが、「外務省」という名からして、国民を向いていないとしばしば思うことがある。その典型が拉致問題である。

    ?被害者家族に見える形での早急な解決が待たれるが、これまでの経過を見ても外務省では不可能であろう。中山議員が言うように、別組織を考える必要があるのではなかろうか。


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    Report No. 49: Japanese Prisoners of War Interrogation on Prostitution従軍慰安婦に関する米軍調査報告:戦場売春婦の実態調査結果ビルマ Report No. 49:

    Japanese Prisoners of War Interrogation on Prostitution

    http://www.exordio.com/1939-1945/codex/Documentos/report-49-USA-orig.html

    UNITED STATES

    OFFICE OF WAR INFORMATION

    Psychological Warfare Team

    Attached to

    U.S. Army Forces

    India-Burma Theater APO 689

    Japanese Prisoner of War Interrogation

    Report No. 49.

    Place interrogated: Ledo Stockade

    Date Interrogated: Aug. 20 - Sept. 10, 1944 Date of Report: October 1, 1944

    By: T/3 Alex Yorichi

    Prisoners: 20 Korean Comfort Girls

    Date of Capture: August 10, 1944 Date of Arrival: August 15, 1994 at Stockade

    PREFACE

    This report is based on the information obtained from the interrogation of twenty Korean "comfort girls" and two Japanese civilians captured around the tenth of August, 1944 in the mopping up operations after the fall of Myitkyin a in Burma.

    The report shows how the Japanese recruited these Korean "comfort girls", the conditions under which they lived and worked, their relations with and reaction to the Japanese soldier, and their understanding of the military situation.

    A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers.

    The word "comfort girl" is peculiar to the Japanese. Other reports show the "comfort girls" have been found wherever it was necessary for the Japanese Army to fight. This report however deals only with the Korean "comfort girls" recruited by the Japanese and attached to their Army in Burma. The Japanese are reported to have shipped some 703 of these girls to Burma in 1942.

    RECRUITING;

    Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia. The nature of this "service" was not specified but it was assumed to be work connected with visiting the wounded in hospitals, rolling bandages, and generally making the soldiers happy.

    The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the basis of these false representations many girls enlisted for overseas duty and were rewarded with an advance of a few hundred yen.

    The majority of the girls were ignorant and uneducated, although a few had been connected with "oldest profession on earth" before. The contract they signed bound them to Army regulations and to war for the "house master " for a period of from six months to a year depending on the family debt for which they were advanced ...

    Approximately 800 of these girls were recruited in this manner and they landed with their Japanese "house master " at Rangoon around August 20th, 1942. They came in groups of from eight to twenty-two. From here they were distributed to various parts of Burma, usually to fair sized towns near Japanese Army camps.

    Eventually four of these units reached the Myitkyina. They were, Kyoei, Kinsui, Bakushinro, and Momoya. The Kyoei house was called the "Maruyama Club", but was changed when the girls reached Myitkyina as Col.Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina, objected to the similarity to his name.

    PERSONALITY;

    The interrogations show the average Korean "comfort girl" to be about twenty-five years old, uneducated, childish, and selfish. She is not pretty either by Japanese of Caucasian standards.

    She is inclined to be egotistical and likes to talk about herself. Her attitude in front of strangers is quiet and demure, but she "knows the wiles of a woman."

    She claims to dislike her "profession" and would rather not talk either about it or her family. Because of the kind treatment she received as a prisoner from American soldiers at Myitkyina and Ledo, she feels that they are more emotional than Japanese soldiers. She is afraid of Chinese and Indian troops.

    LIVING AND WORKING CONDITIONS;

    In Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house (usually a school building) with a separate room for each girl. There each girl lived, slept, and transacted business. In Myitkina their food was prepared by and purchased from the "house master" as they received no regular ration from the Japanese Army.

    They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places. This was especially true of their second year in Burma. They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles. They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmetics to supplement the many gifts given to them by soldiers who had received "comfort bags" from home.

    While in Burma they amused themselves by participating in sports events with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners. They had a phonograph and in the towns they were allowed to go shopping.

    PRIOR SYSTEM;

    The conditions under which they transacted business were regulated by the Army, and in congested areas regulations were strictly enforced. The Army found it necessary in congested areas to install a system of prices, priorities, and schedules for the various units operating in a particular areas. According to interrogations the average system was as follows:

    1. Soldiers

    10 AM to 5 PM

    1.50 yen

    20 to 30 minutes

    2. NCOs

    5 PM to 9 PM

    3.00 yen

    30 to 40 minutes

    3. Officers

    9 PM to 12 PM

    5.00 yen

    30 to 40 minutes

    These were average prices in Central Burma. Officers were allowed to stay overnight for twenty yen. In Myitkyina Col. Maruyama slashed the prices to almost one-half of the average price.

    SCHEDULES;

    The soldiers often complained about congestion in the houses. In many situations they were not served and had to leave as the army was very strict about overstaying. In order to overcome this problem the Army set aside certain days for certain units.

    Usually two men from the unit for the day were stationed at the house to identify soldiers. A roving MP was also on hand to keep order. Following is the schedule used by the "Kyoei" house for the various units of the 18th Division while at Naymyo.

    Sunday

    18th Div. Hdqs. Staff

    Monday

    Cavalry

    Tuesday

    Engineers

    Wednesday

    Day off and weekly physical exam.

    Thursday

    Medics

    Friday

    Mountain artillery

    Saturday

    Transport

    Officers were allowed to come seven nights a week. The girls complained that even with the schedule congestion was so great that they could not care for all guests, thus causing ill feeling among many of the soldiers.

    Soldiers would come to the house, pay the price and get tickets of cardboard about two inches square with the prior on the left side and the name of the house on the other side.

    Each soldier's identity or rank was then established after which he "took his turn in line". The girls were allowed the prerogative of refusing a customer. This was often done if the person were too drunk.

    PAY AND LIVING CONDITIONS;

    The "house master" received fifty to sixty per cent of the girls' gross earnings depending on how much of a debt each girl had incurred when she signed her contract.

    This meant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen. She turned over seven hundred and fifty to the "master". Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.

    In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.

    The interrogations further show that the health of these girls was good. They were well supplied with all types of contraceptives, and often soldiers would bring their own which had been supplied by the army.

    They were well trained in looking after both themselves and customers in the matter of hygiene. A regular Japanese Army doctor visited the houses once a week and any girl found diseased was given treatment, secluded, and eventually sent to a hospital. This same procedure was carried on within the ranks of the Army itself, but it is interesting to note that a soldier did not lose pay during the period he was confined.

    REACTIONS TO JAPANESE SOLDIERS;

    In their relations with the Japanese officers and men only two names of any consequence came out of interrogations. They were those of Col. Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina and Maj. Gen.Mizukami, who brought in reinforcements. The two were exact opposites.

    The former was hard, selfish and repulsive with no consideration for his men; the latter a good, kind man and a fine soldier, with the utmost consideration for those who worked under him. The Colonel was a constant habitue of the houses while the General was never known to have visited them. With the fall of Myitkyina, Col. Maruyama supposedly deserted while Gen. Mizukami committed suicide because he could not evacuate the men.

    SOLDIERS REACTIONS;

    The average Japanese soldier is embarrassed about being seen in a "comfort house" according to one of the girls who said, "when the place is packed he is apt to be ashamed if he has to wait in line for his turn". However there were numerous instances of proposals of marriage and in certain cases marriages actually took place.

    All the girls agreed that the worst officers and men who came to see them were those who were drunk and leaving for the front the following day. But all likewise agreed that even though very drunk the Japanese soldier never discussed military matters or secrets with them.

    Though the girls might start the conversation about some military matter the officer or enlisted man would not talk, but would in fact "scold us for discussing such un-lady like subjects. Even Col. Maruyama when drunk would never discuss such matters."

    The soldiers would often express how much they enjoyed receiving magazines, letters and newspapers from home. They also mentioned the receipt of "comfort bags" filled with canned goods, magazines, soap, handkerchiefs, toothbrush, miniature doll, lipstick, and wooden clothes. The lipstick and cloths were feminine and the girls couldn't understand why the people at home were sending such articles. They speculated that the sender could only have had themselves or the "native girls".

    MILITARY SITUATION;

    "In the initial attack on Myitleyna and the airstrip about two hundred Japanese died in battle, leaving about two hundred to defend the town. Ammunition was very low.

    "Col. Maruyama dispersed his men. During the following days the enemy were shooting haphazardly everywhere. It was a waste since they didn't seem to aim at any particular thing. The Japanese soldiers on the other hand had orders to fire one shot at a time and only when they were sure of a hit."

    Before the enemy attacked on the west airstrip, soldiers stationed around Myitkyina were dispatched elsewhere, to storm the Allied attack in the North and West. About four hundred men were left behind, largely from the 114th Regiment. Evidently Col. Maruyama did not expect the town to be attacked. Later Maj. Gen. Mizukami of the 56th Division brought in reinforcements of more than two regiments but these were unable to hold the town.

    It was the consensus among the girls that Allied bombings were intense and frightening and because of them they spent most of their last days in foxholes. One or two even carried on work there. The comfort houses were bombed and several of the girls were wounded and killed.

    RETREAT AND CAPTURE;

    The story of the retreat and final capture of the "comfort girls" is somewhat vague and confused in their own minds. From various reports it appears that the following occurred: on the night of July 31st a party of sixty three people including the "comfort girls" of three houses (Bakushinro was merged with Kinsui), families, and helpers, started across the Irrawaddy River in small boats.

    They eventually landed somewhere near Waingmaw, They stayed there until August 4th, but never entered Waingmaw. From there they followed in the path of a group of soldiers until August 7th when there was a skirmish with the enemy and the party split up. The girls were ordered to follow the soldiers after three-hour interval. They did this only to find themselves on the bank of a river with no sign of the soldiers or any mea ns of crossing. They remained in a nearby house until August 10th when they were captured by Kaahin soldiers led by an English officer. They were taken to Myitleyina and then to the Ledo stockade where the interrogation which form the basis of this report took place.

    REQUESTS

    None of the girls appeared to have heard the loudspeaker used at Myitkyina but very did overhear the soldiers mention a "radio broadcast."

    They asked that leaflets telling of the capture of the "comfort girls" should not be used for it would endanger the lives of other girls if the Army knew of their capture. They did think it would be a good idea to utilize the fact of their capture in any droppings planned for Korea.



    #confortwoman


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    Report No. 49: Japanese Prisoners of War Interrogation on Prostitution従軍慰安婦に関する米軍調査報告:戦場売春婦の実態調査結果ビルマ

    。 レポートNo.49:

    売春についての日本の捕虜質問

    http://www.exordio.com/1939-1945/codex/Documentos/report-49-USA-orig.html

    アメリカ合衆国

    戦争情報の職 心理戦争チーム

    付随されます 米陸軍軍隊

    インド-ビルマ劇場

    APO 689

    日本の囚人 戦争Interrogationの No.49を報告してください。

    調べられる場所: Ledo柵

    調べられる日付: 8月20日−1944年9月10日 レポートの日付: 1944年10月1日

    署名: T/3つのアレックスYorichi 囚人: 20人の韓国の快適さの女の子

    捕獲の日付: 1944年8月10日 到着の日付: 1994年8月15日

    Stockadeで

    序文

    Myitkyinの落下の後活動を吸い取る際に1944年8月10日ごろ捕らえられる20人の韓国の「快適さの女の子」と2人の日本の一般人の質問から得られる情報に、このレポートは基づきますでビルマ。

    これらの韓国の「快適さの女の子」(彼らが生きて、働いた状況、日本兵との彼らの関係と反応と軍事情勢の彼らの理解)を、日本人がどのように入れたかについて、レポートは示します。

    「快適さの女の子」は、兵士のために日本軍に付けられる売春婦または「プロの同調者」以外の何物でもありません。 「快適さの女の子」という語は、日本人に特有です。 他のレポートは、日本軍が戦うことが必要だった場合はいつでも、「快適さの女の子」が見つかったことを示します。 しかし、日本人によって入れられて、ビルマで彼らの軍に勤務している韓国の「快適さの女の子」だけを、このレポートは、扱います。 日本人は、1942年にビルマにこれらの女の子の約703人を出荷したことが報告されます。

    新人採用;

    1942年5月の初めに、東南アジアの新しく征服された日本の領土で韓国の女の子を「快適さサービス」に参加させる目的で、日本のエージェントは、韓国に到着しました。 この「サービス」の性質は指定されませんでした、しかし、病院で負傷者を訪ねて、包帯を転がして、一般に兵士を幸せにすることと関係がある仕事であると、それはされました。 これらのエージェントにより使用される誘因は、多くのお金、家族の負債を清算する機会、簡単な仕事と新しい土地(シンガポール)での新生活の見込みでした。 これらの虚偽の説明に基づいて、多くの女の子は海外勤務のために入隊して、数百円の前払いで報いられました。

    2、3が前に「地球上の最も古い職業」と関係があったが、大部分の女の子は無知で無教育でした。 昇進した家族の負債に従い6ヵ月から1年まで彼らを軍規に、そして、「住宅マスター」のための戦争に密接に結びついて、彼らがサインした契約 ...

    これらの女の子のおよそ800人はこのように入れられました、そして、彼らは1942年8月20日のまわりをラングーンに日本の「住宅主人」と着地しました。 彼らは、8から22までグループの中に来ました。 ここから、彼らはビルマのいろいろな地域に、通常日本の軍キャンプの近くの公平な大きさの町に配布されました。

    結局、これらの単位の4つは、Myitkyinaに着きました。 彼らはそうでした、キョーエイ、キンスイ、Bakushinroと桃屋。 キョーエイ・ハウスは「丸山クラブ」と呼ばれていたが、Col.Maruyama(Myitkyinaの駐屯軍の指揮官)が彼の名前に類似性に反対したので女の子がMyitkyinaに着いたとき変わりました。

    個性;

    およそ25年年をとっていて、無教育で、子供っぽくて、利己的であることを、質問は平均的な韓国の「快適さの女の子」が示します。 彼女は、かなりコーカサスの標準の日本人によるどちらでもありません。 彼女はegotisticalにしたいと思って、彼女自身について話すのが好きです。 知らない人の前の彼女の態度は静かで控え目です、しかし、彼女は「女性の策略を知ります」。

    彼女は、「職業」を嫌って、それまたは彼女の家族について話したくないと主張します。 彼女がMyitkyinaとLedoのアメリカの兵士からの囚人と認めた親切な処置のため、彼女は、彼らが日本兵より感情的であるのを感じます。 彼女は、中国でインド軍隊が怖いです。

    生活と労働条件;

    生活と労働条件;

    Myitkyinaに、女の子は通常各々の女の子のための別々の場所で、大きな2階建てのハウス(通常校舎)に宿泊しました。

    そこで、各々の女の子は生きて、眠って、ビジネスを行いました。 彼らが日本軍から規則的な割当てを受け取らなかったので、Myitkinaに、彼らの食物は備えられて、「住宅マスター」から購入されました。

    彼らは、他の場所に比較的にビルマで近い贅沢で生きました。 これは、特にビルマで彼らの2年めにとって真実でした。 食物と材料がかなり配給されなかったので、彼らは贅沢に暮らしました、そして、彼らは望ましい記事を獲得する多くのお金を持っていました。

    家から「快適さバッグ」(慰問袋)を受け取った兵士によって彼らに与えられる多くの贈り物を補うために布、靴、タバコと化粧品を買うことが、彼らはできました。

    ビルマである間、彼らは両方の将兵とスポーツ大会に参加して楽しんで、ピクニック、エンターテイメントと社交夕食会に出席しました。 彼らはレコードプレーヤーを持っていました、そして、町で、彼らは買い物をしに行ってもよかったです。

    先のシステム; 彼らがビジネスを行った状況は軍によって管理されました、そして、混雑した地域で、規則は厳しく実施されました。 軍は、特定地域で動いているいろいろな単位の価格、プライオリティーとスケジュールのシステムをインストールすることを混雑した地域で必要であると認めました。

    質問によると、平均的システムは以下の通りでした:

    1. 兵士

    午前10時〜午後5時

    1.50円

    20〜30分

    2. NCO

    午後5時〜午後9時

    3.00円

    30〜40分

    3. 役員

    午後9時〜午後12時

    5.00円

    30〜40分

    これらは、中部ビルマの平均価格でした。 役員は、20円で一晩いてもよかったです。 Myitkyinaコロラドでは、丸山は平均価格のほぼ2分の1に、価格を大幅削減しました。

    スケジュール;

    兵士は、家で混雑についてしばしば不満を言いました。 軍が長居することに非常に厳格だったので、多くの状況では、彼らは仕えられないで、去らなければなりませんでした。 この問題を解決するために、軍は特定の単位に備えて特定の日を残しました。 通常、日の間の単位からの2人の男性は、兵士を特定するために、家に配置されました。 移動憲兵も、秩序を保つために、近くにいました。 Naymyoである間、あとに続くことは第18の部のいろいろな単位のために「キョーエイ」家によって使われる予定です。

    日曜日

    第18のDiv.。 Hdqs。 スタッフ

    月曜日

    騎兵隊

    火曜日

    エンジニア

    水曜日

    休日と毎週の身体検査。

    木曜日

    医者

    金曜日

    山大砲

    土曜日

    輸送

    役員は、1週につき7つの夜来てもよかったです。 予定でさえ、混雑が彼らがすべての客を気にかけることができるというわけではなかったように大きかったと、女の子は不平を言いました。このように、兵士の多くの間で悪い感覚を引き起こしました。

    兵士は家に来て、価格を払って、左側と向こう側の家の名前でボール紙のチケットを先のものとおよそ2インチ直角にします。 それから、彼が「線の彼の曲がり目をとった」各々の兵士のアイデンティティまたはランクは、確立されました。 女の子は、顧客を拒否することの特権を与えられました。 人があまりに酔っているならば、これはしばしばされました。

    賃金と生活状況;

    彼女が契約にサインしたとき、各々の女の子が負債のいくらを招いたかについて次第になっている女の子の総所得の50〜60パーセントを、「住宅マスター」は受領しました。

    これは、平均ヵ月に、女の子がおよそ1500円を稼ぐことを意味しました。

    彼女は、750を「マスター」に引き渡しました。 食物と他の記事のために高値を彼らに請求することによって、多くの「マスター」は、生命を女の子にとって非常に難しくしました。 1943の後半に、軍は、彼らの負債を払った特定の女の子が帰ることができたという命令を出しました。 女の子の何人かは、このように、韓国に帰国してもよかったです。

    質問は、これらの女の子の健康がよかったことをさらに示します。

    彼らはさまざまな避妊具をよく供給されました、そして、しばしば、兵士は軍によって供給された彼ら自身のものを持ってきます。

    衛生に関して彼ら自身と顧客の世話をする際に、彼らはよく訓練されました。 普通の日本の軍医は週に一度家を訪問しました、そして、病気にかかる所を発見されるどんな女の子でも処置をされて、隔離していて、結局病院に行かせられました。 この同じ処置は軍自体の集団の中で続けられました、それ以外の、兵士が彼がそうであった期間の間に賃金を失わなかったメモに興味を起こさせることは限られます

    日本兵に対する反応;

    日本の将兵との彼らの関係で、どんな結果のでも2つの名前だけは、質問から出てきました。 彼らはコロラド丸山(MyitkyinaとGen.Mizukami少佐の駐屯軍の指揮官)の人々でした。そして、その人は増援を持ち込みました。 2つは、正反対でした。

    前者は、彼の部下に対する思いやりなしで難しくて、利己的で、不快でした; 後者はそれらの最大の考慮による利益(親切な男性と立派な兵士)です。そして、彼の下で働きました。 将軍が彼らを訪ねたということは決して知られない間、大佐は家の忠実な常連でした。 Myitkyina年の秋で、彼が男を避難させることができなかったのでミズカミ将軍が自殺する間、コロラド丸山はおそらく義務を放棄しました。

    兵士反応;

    言った女の子(「場所が詰めかけられるとき、一列にターンを待たなければならないならば、彼は恥じていやすいです」)の1人によると「快適さハウス」で見られることについて、平均的な日本兵はとまどいます。 しかし、結婚の申し込みの多数の例がありました、そして、特定のケースでは、結婚は実際に起こりました

    。 彼らに会いに来た最悪の将兵が酔っぱらっていて、次の日正面のために去ろうとしていた人々であることに、すべての女の子は同意しました。 しかし、たとえ非常に酔っているとしても、日本兵が軍の問題または秘密を彼らと決して協議しなかったことに、すべては同様に同意しました。 女の子が多少の軍の物質について会話を始めるかもしれないけれども、役員または下士官兵は話さないで、実際「主題のようなそのような非女性を議論するために、我々を叱ります」。

    酔っぱらいがそのような問題を決して検討しないとき、コロラド丸山を平らにしてください。」

    彼らがどんなに家から雑誌、手紙と新聞を受け取って楽しんだかについて、兵士はしばしば表します。 彼らも、カン詰商品、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、ミニチュア人形、口紅と木の服で満たされる「快適さバッグ」(慰問袋)の受領に言及しました。 口紅と布は女性的でした、そして、女の子は自宅の人々がなぜそのような記事を送っているかについて、理解することができませんでした。 彼らは、送り主には彼ら自身または「現地の女の子」がいることができるだけだったと推測しました。

    軍事情勢;

    「Myitleynaと滑走路への最初の攻撃において、およそ200人の日本人は戦死しました。そして、およそ200に町を守るのを任せました。 弾薬は、非常に低かったです。

    「コロラド丸山は、彼の部下を分散させました。 次の日の間に、敵は至る所で無計画に撃っていました。 彼らが少しの特定のものも狙うようでなかった時から、それは無駄でした。 一度に撃たれる火事1に、そして、彼らがヒットに自信があった時だけ、日本兵には注文が他方ありました。」 敵が西の滑走路で攻撃する前に、北部と西側で連合国の攻撃に突撃するために、Myitkyinaのまわりに配置される兵士はどこかほかに送られました。 主に第114のRegimentから、およそ400人の男性は取り残されました。 明らかに、コロラド丸山は、町が攻撃されると思っていませんでした。 第56の部の後のミズカミ少将は2つ以上の連隊の強化を持ち込みました、しかし、これらは町を占拠することができませんでした。

    連合国の爆破が激しくてこわがらせたことは女の子の間のコンセンサスでした、そして、彼らのため、彼らは大部分の最後の時代を蛸壷に費やしました。 1または2は、作業さえそこで続けました。 快適さハウスは爆破されました、そして、女の子の何人かが傷ついて、死にました。

    退却と捕獲;

    退却の物語と「快適さの女の子」の最終的な逮捕は、彼ら自身の心でいくぶん漠然としていて、混乱しています。 いろいろなレポートから、以下が起こったように見えます: 7月31日の夜に、3つの家(Bakushinroはキンスイに合併されました)(家族とヘルパー)の「快適さの女の子」を含む63人の一行は、小型ボートでイラワジ川の全域で始まりました。

    結局、彼らはWaingmawの近くにどこかに着地しました。そして、Theyが決して入れられるWaingmawでなく、8月4日までそこで過ごされました。 敵との衝突があった、そして、党が分割されたとき、そこから、彼らは8月7日まで一団の兵士の行く手であとに続きました。

    女の子は、3時間の間隔の後兵士の後を追うよう命令されました。 兵士の痕跡または交差するどんなmea nsなしででも彼ら自身を川の岸で発見するだけであるために、彼らはこうしました。 英国の役員によってリードされるKaahin兵士によって捕らえられたとき、彼らは8月10日まで近くの家に残りました。 Myitleyinaに、そして、このレポートの基礎を作る質問が起こったLedo柵に、彼らは連れて行かれました。

    要請

    兵士をあまり耳にしなかったMyitkyinaで使われる拡声器が「ラジオ放送」に言及すると聞いていたように、女の子の誰も、見えませんでした。

    軍が彼らの捕獲を知っているならば、「快適さ」の捕獲の、「女の子」がそれのために使われてはならないとわかっているリーフレットが他の女の子の命を危険にさらすだろうことを、彼らは尋ねました。 韓国のために計画されるどんな糞ででも捕獲の事実を利用することが良い考えであると、彼らは思いました。


    陸 軍 給料 単位円    月額  昭和18年
    大将 550 中将 483 少将 416

    大佐 370 中佐 310 少佐 220

    大尉 155 中尉 94 少尉 70

    准尉 110 曹長 75 軍曹 30

    伍長 20

    兵長 13 上等兵 10 一等兵 9 二等兵 6


    iso14001環境ISO生命に満ちた青い地球を守ろう
    ○「文玉珠さん」という(自称)従軍慰安婦女性は、平成4年に日本の郵便局を訪れ 2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしています。

    「文玉珠さん」という(自称)従軍慰安婦女性は、平成4年に日本の郵便局を訪れ 2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしています

    千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えると体験記で述べていますが 現在の価値なら、4000万〜5000万円程度の金額を 彼女が慰安婦であった約3年間で貯めていたことが分かります。

    http://makizushi33.ninja-web.net/chochiku.jpg

    ○当時は、慰安婦を公募集すればいくらでも女性が集まる時代です。



    "慰安婦 至急 大募集・・給料は月収最低300円、3000円まで前借可能"(原文のママ)


    http://makizushi33.ninja-web.net/img03_02.gif

    慰安婦募集

    慰安婦募集

    http://livedoor.2.blogimg.jp/kanasen47/imgs/3/7/37553c06.jpg

    ○朝鮮人の人身売買組織が、誘拐した少女を中国人に売り飛ばしていた為、 日本政府によって検挙されたことを報じる記事 (1933年6月30日付 東亜日報)

    朝鮮人の人身売買組織が、誘拐した少女を中国人に売り飛ばし

    http://makizushi33.ninja-web.net/tyousenjin_1.jpg



    Asahi Shinbun Fabricated the story of “Korean Sex Slaves”
    Jonny Skywalke
    朝日新聞が、捏造し、世界に宣伝した性奴隷


    2014.11.27 05:10

    米政府の慰安婦問題調査で「奴隷化」の証拠発見されず…日本側の主張の強力な後押しに

    米政府の慰安婦問題調査で「奴隷化」の証拠発見されず…日本側の主張の強力な後押しに

    ブログに書く14

    (1/2ページ)【どうなる日韓関係】  米政府がクリントン、ブッシュ両政権下で8年かけて実施したドイツと日本の戦争犯罪の大規模な再調査で、日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や「女性の組織的な奴隷化」の主張を裏づける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったことが明らかとなった。戦時の米軍は慰安婦制度を日本国内の売春制度の単なる延長とみていたという。調査結果は、日本側の慰安婦問題での主張の強力な補強になることも期待される。

     米政府の調査結果は「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)米国議会あて最終報告」として、2007年4月にまとめられた。米側で提起されることはほとんどなかったが、慰安婦問題の分析を進める米国人ジャーナリスト、マイケル・ヨン氏とその調査班と産経新聞の取材により、慰安婦問題に関する調査結果部分の全容が確認された。

     調査対象となった未公開や秘密の公式文書は計850万ページ。そのうち14万2千ページが日本の戦争犯罪にかかわる文書だった。

     日本に関する文書の点検基準の一つとして「いわゆる慰安婦プログラム=日本軍統治地域女性の性的目的のための組織的奴隷化」にかかわる文書の発見と報告が指示されていた。だが、報告では日本の官憲による捕虜虐待や民間人殺傷の代表例が数十件列記されたが、慰安婦関連は皆無だった。

     報告の序文でIWG委員長代行のスティーブン・ガーフィンケル氏は、慰安婦問題で戦争犯罪の裏づけがなかったことを「失望」と表明。調査を促した在米中国系組織「世界抗日戦争史実維護連合会」の名をあげ「こうした結果になったことは残念だ」と記した。

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    2014.11.27 05:10

    米政府の慰安婦問題調査で「奴隷化」の証拠発見されず…日本側の主張の強力な後押しに

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    (2/2ページ)【どうなる日韓関係】  IWGは米専門家6人による日本部分の追加論文も発表した。論文は慰安婦問題について(1)戦争中、米軍は日本の慰安婦制度を国内で合法だった売春制の延長だとみていた(2)その結果、米軍は慰安婦制度の実態への理解や注意に欠け、特に調査もせず、関連文書が存在しないこととなった−と指摘した。

     ヨン氏は「これだけの規模の調査で何も出てこないことは『20万人の女性を強制連行して性的奴隷にした』という主張が虚構であることを証明した。日本側は調査を材料に、米議会の対日非難決議や国連のクマラスワミ報告などの撤回を求めるべきだ」と語った。(ワシントン駐在客員特派員・古森義久)



     【ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)】

     クリントン政権時代に成立した「1998年ナチス戦争犯罪開示法」と「2000年日本帝国政府開示法」に基づき、第2次大戦での日独両国の戦争犯罪の情報開示を徹底させる目的で00年に始まった調査。

    国防総省、国務省、中央情報局(CIA)、連邦捜査局(FBI)などに未公開の公式文書を点検し戦争犯罪に関する資料の公開を指示した。

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    米教科書に「強制連行」「20万人の日本軍慰安婦」 LA公立高校

    日韓に竹島問題解決促す 米ホワイトハウス、慰安婦像は「地方政府の権限」

    【米中間選挙】慰安婦問題非難のマイク・ホンダ氏、僅差で8選 

    米教科書に「強制連行」「20万人の日本軍慰安婦」 LA公立高校写真あり

    【LA発 米国通信】「慰安婦像は日本人を侮辱している」…テキサス親父がグレンデール市議会で発言、韓国批判 写真あり

    慰安婦碑設置反対で8000人署名、日本人団体が提出 米フラトン、韓国側も対抗

    【あめりかノート】慰安婦問題 国辱晴らすとき

    http://www.sankei.com/world/news/141127/wor1411270003-n1.html http://www.sankei.com/world/news/141127/wor1411270003-n1.html

    米政府の慰安婦問題調査で「奴隷化」の証拠発見されず…日本側の主張の強力な後押しに   紹介した長尾教授も全面禁止説に
     園部判事「傍論は法から離れた俗論」

      紹介した長尾教授も全面禁止説に
     園部判事「傍論は法から離れた俗論」









    Minha terra natal

    Senhores e Senhoras,hoje eu bou falar sobre minha segunda terra natal.Minha primeira terra natal e espirito sant brajil., Eu sou capixaba.

    Hoje eu bou falar sobre historia da segunda minha terra natal.Por que?

    Voce sabe onde e metropolis do Japao? Agora e tokyo. No japao houve alugumas metroporis como tokyo, kyoto and nara.

    Definicao do metoropolis no Japao e endereco do emperador. Por isso na era do Edo (nome antiga do tokyo) Edo nao foi metropolis embora shogun do edo bakufu tinha governo,muito forte. Mesmo foi Cidade de kamakura (goberno de shogun do kamakura ) Entretanto Minha segunda terra natal era metopolis do Japao. Voces podem acreditar? Ninguem sabi esta fato..

    Minha segunda terra natal e ASAKURA, centro de norte do kyushu. Cerca de 1,350 anos atrais. ASAKURA era exatamente metropolis .

    Emperadora SAIMEI TENNO morandoe e Governo japonese . Naqelle epoca O japao tinha muito greves situacao com estrangeiros ,China e koreia .

    Parte da peninsula koreiana era teritorio do Japao.Mas O Japao perdeu este territorio por causa de ataca de militares SHIRAGI. Pais fraterias na koreia KUDARA era atacado pela China e SHIRAGI e quase morrer KUDARA ardentemente muitas veses pediu para japao para salvar -la.

    Emperadora SAIMEI TENNOU decidiu de salvar -la. Ela partiu da metorpolis NANIWA(agora OSAKA) e MUDOU Metropolis para ASAKURA, militares Japnese lutou com militares chines na HAKUSUKINOE na Fos de RIO na oeste de centro da peninsura koreia .

    Mas Japao foi derrortado. Apos de este Derrortado

    O japao retirou da koreia completamente.

    Governo japonese construiu muitos casteros da defensa.Agora ha muitos casteros construidas naqurra epoca.

    Muitos pessoas de orinetal como KANTO foram emviadas para kyushu como defensores(chamadas SAKIMORI) Mas militeares chines nao veram para Japao.

    Mais ou menos 1,700 anos atrais EMERADORA GINGU KOUGO atacou pais do kyushu e thinha grande victoria para rei do kyushu,na ASAKURA e construiu shurain MINAGI jinja 

    Naqulle epoca sul da peninsula da correa era teritorio do pais do kyushu. A EMPERADORA JINGUU KOUGO atrebasando mar ,estreito de TUSHIMA e cooreia e governaou area de sul do peninsula da coreia sem gerra. Ela estabereceu YAMATO CHOUTEI(governo japonese)

    Na historia do emperadores do Japao, e muito raro da emperador de mulher, Duas emperadoras eu falei aqui e fundadoor do japao.

    AKINOTANO KARIHONOIHONO TOMAWO ARAMI WAGA KOROMODEHA TUYUNI NURETUTU

    Este e muito famoso mujica japonesa ,foi cantardo EMPERADOR TENTITENNOU , filho da EMPERADORA SAIMEITENNOU no metropolis ASAKURANO MIYA(palacio de asakura)

    ASAKURA YA KONOMARUDEN NI WAREOREBA NATUGE WO SHITUTU IKUWA TAGAKOZO

    Este e tamben musica de TENTITENNOU na ASAKURA.

    ASAKURA e minho espirito santo,mina primeira terra natal e espirito santo no barasil eu sou capixaba.