大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害
「世界から恐れられた7人の日本人」
「大東亜戦争の英雄の日本人1」
「大東亜戦争の英雄の日本人2」
「大東亜戦争の英雄の日本人6」
「大東亜戦争の英雄の日本人3」空の要塞B29撃破とB29撃墜王
「大東亜戦争の英雄の日本人4」陸軍エースパイロット撃墜数
「大東亜戦争の英雄の日本人5」海軍エースパイロット撃墜数
「大東亜戦争技術者」
「大東亜戦争技術者2」
「大東亜戦争石油」
日米開戦前日米交渉(アメリカが日本に実質的最後通牒(日本の南部仏印撤退などの譲歩案に))
「大東亜戦争の英雄の日本人1」
「大東亜戦争の英雄の日本人2」
エース・パイロット
『ウィキペディア(Wikipedia)』
エース・パイロット(米・英: Flying Ace、フライング・エース、仏: As、アス、独: Fliegerass、フリーガーアス、日: 撃墜王〈げきついおう〉)は、多数の敵機を主に空中戦で撃墜したパイロットに与えられる称号。航空機が戦闘に使用され始めた第一次世界大戦時からある名称である。単にエースとも称し、中でも撃墜機数上位者はトップ・エースと称される。
現在は5機以上撃墜した者とされ、また歴史を通じて主に戦闘機のパイロットに与えられる傾向がある。
「最初のエース」として勲章を授与されるフランスのアドルフ・ペグー。
概要
エースパイロット 大日本帝国陸軍 。
上坊良太郎 日本 大日本帝国陸軍 76機 日本陸軍のトップ・エース。うち12機はB-29。
二式戦闘機「鍾馗」重戦闘機
篠原弘道 日本 大日本帝国陸軍 58 通称「東洋のリヒトホーフェン」
穴吹智
日本 大日本帝国陸軍 51 通称「白色電光戦闘穴吹」「運の穴吹」「ビルマの桃太郎」。飛行第50戦隊三羽烏の一人。
坂川敏雄 日本 大日本帝国陸軍 49+
仲田義彦 日本 大日本帝国陸軍 45+
尾崎中和 日本 大日本帝国陸軍 40+ 通称「B-24撃墜王」
神戸登 日本 大日本帝国陸軍 40+
島田健二 日本 大日本帝国陸軍 40 通称「紅脚の荒鷲」
佐々木勇
日本 大日本帝国陸軍 38+ 通称「腕の佐々木」。飛行第50戦隊三羽烏の一人。陸軍航空審査部のテスト・パイロットとしても活躍。
垂井光義 日本 大日本帝国陸軍 38
上坊良太郎 日本 大日本帝国陸軍 76 日本陸軍のトップ・エース。うち12機はB-29。
篠原弘道 日本 大日本帝国陸軍 58 通称「東洋のリヒトホーフェン」。
穴吹智 日本 大日本帝国陸軍 51 通称「白色電光戦闘穴吹」「運の穴吹」「ビルマの桃太郎」。飛行第50戦隊三羽烏の一人。
坂川敏雄 日本 大日本帝国陸軍 49+
仲田義彦 日本 大日本帝国陸軍 45+
尾崎中和 日本 大日本帝国陸軍 40+ 通称「B-24撃墜王」。
神戸登 日本 大日本帝国陸軍 40+
島田健二 日本 大日本帝国陸軍 40 通称「紅脚の荒鷲」。
佐々木勇 日本 大日本帝国陸軍 38+ 通称「腕の佐々木」。飛行第50戦隊三羽烏の一人。陸軍航空審査部のテスト・パイロットとしても活躍。
垂井光義 日本 大日本帝国陸軍 38
黒木為義 日本 大日本帝国陸軍 33
安間克己 日本 大日本帝国陸軍 32
金井守告 日本 大日本帝国陸軍 32 ノモンハン航空戦当時は篠原弘道の僚機を多く務めた。
樫出勇 日本 大日本帝国陸軍 32 B-29最多撃墜者(26機)。愛機は二式複座戦闘機。所属部隊は「屠龍部隊」の通称で知られる飛行第4戦隊。
古賀貞 日本 大日本帝国陸軍 31
黒江保彦 日本 大日本帝国陸軍 30+ 通称「魔のクロエ」。陸軍航空審査部のテスト・パイロットとしても活躍。
安田義人 日本 大日本帝国陸軍 30+
竹内正吾 日本 大日本帝国陸軍 30+ ニューギニア戦線トップ・エース。愛機の三式戦闘機「飛燕」に、パーソナルマーク・撃墜マークとして「赤鷲・赤鷲の片翼(飛行第64戦隊附時代のもの)」を描いていたことでも有名。
小野崎? 日本 大日本帝国陸軍 28
青柳豊 日本 大日本帝国陸軍 28
隅野五市 日本 大日本帝国陸軍 27
木村孝二 日本 大日本帝国陸軍 26
宮本五郎 日本 大日本帝国陸軍 26
吉良勝秋 日本 大日本帝国陸軍 25
原口吉五郎 日本 大日本帝国陸軍 24
花田富男 日本 大日本帝国陸軍 23
大塚善三郎 日本 大日本帝国陸軍 23
加藤正治 日本 大日本帝国陸軍 23
石塚徳康 日本 大日本帝国陸軍 23
青木根ル 韓国 大日本帝国陸軍 23 本名李根ル。日中戦線で18機、南方戦線で5機撃墜。後の韓国空軍創設メンバーの一人。
梶並進 日本 大日本帝国陸軍 22
木村定光 日本 大日本帝国陸軍 22 樫出勇と並び称されるB-29撃墜王。
岩橋譲三 日本 大日本帝国陸軍 21 愛称「ガンちゃん」。開発当初から四式戦闘機「疾風」のテスト・パイロットを務め、同機を装備し「菊水紋」を部隊マークとした飛行第22戦隊長となった。
東郷三郎 日本 大日本帝国陸軍 21
南郷茂男 日本 大日本帝国陸軍 20+ 「ニューギニアは南郷で保つ」と謳われた。日中戦争で戦死した海軍の南郷茂章を兄にもつ、兄弟エース・パイロット。
斎藤千代治 日本 大日本帝国陸軍 20+
斎藤正吾 日本 大日本帝国陸軍 20+
石川貫之 日本 大日本帝国陸軍 19 飛行第246戦隊長を務め、戦後は第10代航空幕僚長。
大房養次郎 日本 大日本帝国陸軍 19
山口文一 日本 大日本帝国陸軍 19
加藤建夫 日本 大日本帝国陸軍 18+ 通称「軍神加藤少将」「隼戦闘隊長」。一式戦闘機「隼」を装備した飛行第64戦隊「加藤隼戦闘隊」戦隊長として、太平洋戦時当時の日本国内において最も有名なエース・パイロット。
若松幸禧 日本 大日本帝国陸軍 18+ 通称「赤鼻のエース」「赤ダルマ隊長」「マスタング・キラー」。一兵卒から佐官にまで昇進した。
下川幸雄 日本 大日本帝国陸軍 16 通称「度胸の下川」。飛行第50戦隊三羽烏の一人。
中村三郎 日本 大日本帝国陸軍 15
広畑富男 日本 大日本帝国陸軍 14 愛機の一式戦「隼」の胴体横に、パーソナルマークとして大きく「飛翔する鳥」を描いていたことでも有名。
伊藤藤太郎 日本 大日本帝国陸軍 13+ 撃墜スコアの全てが四発爆撃機(B-24およびB-29)。二式複座戦闘機を愛機とした。
白井長雄 日本 大日本帝国陸軍 13 飛行第244戦隊のトップ・エース。
宮辺英夫 日本 大日本帝国陸軍 12+ 飛行第64戦隊最後の戦隊長。
池沢十四三 日本 大日本帝国陸軍 12
檜與平 日本 大日本帝国陸軍 12 通称「鉄脚のエース」「隻脚のエース」「義足のエース」。右足義足のエース。
小林初優 日本 大日本帝国陸軍 12 撃墜記録の全てがB-29のエース。
四至本広之烝 日本 大日本帝国陸軍 11 飛行第1戦隊最後の戦隊長。
市川忠一 日本 大日本帝国陸軍 10
小川誠 日本 大日本帝国陸軍 9 「翼を広げた鷲」の撃墜マークで有名。
小田喜一 日本 大日本帝国陸軍 9
坂井菴 日本 大日本帝国陸軍 9 15機説あり
。
広瀬吉雄 日本 大日本帝国陸軍 9
金丸貞三 日本 大日本帝国陸軍 8
池田赳夫 日本 大日本帝国陸軍 7+ 異例の陸海軍航空科。特務試作機パイロット。
吉田好雄 日本 大日本帝国陸軍 6+ 「翼を生やしたB29の文字(官姓名と撃墜日付を併記)」の撃墜マークでも有名。
鷲見忠夫 日本 大日本帝国陸軍 6 うち5機はB29
小林照彦 日本 大日本帝国陸軍 5
佐伯虎吉 日本 大日本帝国陸軍 5 二式複座戦闘機搭乗員。後部機銃座の所澤龍之介は個人撃墜2機。
上坊 良太郎(じょうぼう りょうたろう、
1916年(大正5年) - 2012年(平成24年)8月13日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者でエース・パイロット。最終階級は陸軍大尉。少年飛行兵第1期生。滋賀県出身。
経歴
1934年(昭和9年)2月、18歳で陸軍少年飛行兵第1期生として所沢陸軍飛行学校に入校。1935年(昭和10年)1月、卒業と同時に朝鮮半島の平壌にある飛行第6連隊に配属された。翌1936年(昭和11年)1月に明野陸軍飛行学校に入校し、戦闘機操縦者の教育を受けた。1937年(昭和12年)8月に独立飛行第9中隊の一員として日中戦争(支那事変)に出征。9月21日に九五式戦闘機で中国空軍のI-15を撃墜し初戦果をあげる。その1年後の1938年(昭和13年)8月、飛行第64戦隊に配属となる[1]。
1939年(昭和14年)8月、ノモンハン事件でソ連軍と交戦、ここで18機のソ連戦闘機を撃墜する。事件の終結と共に、第64戦隊は南支に移動。上坊は1940年(昭和15年)2月に日本に帰国し、少尉候補者として陸軍航空士官学校に入校、翌1941年(昭和16年)7月25日に卒業した。10月、少尉任官と同時に飛行第33戦隊(満州国杏樹駐留)に配属された。第33戦隊の装備機は九七式戦闘機であったが、太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)5月に一式戦闘機に機種改変した[1][2]。
1942年9月、第33戦隊は中国方面へ派遣され、台湾を経由して南支の広東についた。上坊は、第1中隊第3編隊長として、広東と中支の武昌の基地を往復しながら、桂林・衡陽・零陵を基地とするアメリカ陸軍航空軍(第14空軍)のP-40などと対戦した。1943年7月から9月まで、第3飛行師団主導の夏季航空撃滅戦に参加した[2]。
1943年(昭和18年)10月、中尉となった上坊は第1野戦補充飛行隊戦闘隊(補充要員の錬成部隊)に転属し、戦闘機操縦の教官としてスマトラ島のゲルンバン飛行場へ赴任した。1944年(昭和19年)末頃には、マレー半島や蘭印方面にも機動部隊艦載機やB-29が来襲するようになった。上坊はシンガポールのテンガー飛行場に待機して、一式戦闘機や二式単座戦闘機を駆り、B-29相手の防空戦をおこなった[2]。1945年(昭和20年)6月、大尉に進級。太平洋方面に赴き沖縄戦に参加し、終戦を迎える[1]。戦後は名古屋に在住、航空自衛隊を経て退役後の2012年8月13日に死去した。(享年96)
人物・逸話
ノモンハン戦では、1939年8月3日にI-16を撃墜したのが上坊曹長の最初の戦果で、11日後さらに1機を撃墜した。8月21日のタムスク攻撃では、錯綜した格闘戦の中で2機のI-16を撃墜したが、上坊機も何度も被弾し、破片で顔面に傷を受けた[1]。
1942年10月29日の桂林進攻では、上坊は2度目の出撃で1機を撃墜。その後2機目を追って急降下で射撃中、気圧の変化で右耳の鼓膜が破裂してしまった。それでも上坊は、低空の敵機4機編隊を追尾し、その最後尾機を射撃せずに桂林付近の山の頂上に激突させるという戦果をあげている[2]。
1944年末ごろからカルカッタを基地とするB-29のマレー半島への来襲が始まった。11月5日の初来襲を迎撃した第1野戦補充飛行隊は、一式戦闘機ではB-29撃墜は困難と判断、それからは二式単座戦闘機や四式戦闘機を使用して迎撃した。上坊は、ホ301(40mm砲)装備の二式単座戦闘機に搭乗し、「失速反転攻撃法」と呼ばれる戦法を考案してB-29撃墜の戦果をあげた[3]。1945年(昭和20年)6月初旬、シンガポール上空に単機で飛来したB-29を二式戦で迎撃に上がった。上坊は機銃死角の胴体直下を平行に飛びながら垂直上昇・射撃を繰り返し、4度目の射撃でエンジンから黒煙を吹いたB-29が降下していくのが確認された[2]。
上坊良太郎大尉は、一時期(特に昭和30年代)の出版物のなかで「公式記録」という名目で撃墜数76機と紹介されていた[2]。上坊と同期生の樫出勇大尉は、上坊が76機撃墜していると確信しており、石川貫之空将もこれに同意していた。上坊は謙虚な性格のため自身の撃墜数を誇示することは控えていたが、彼の回想記によれば、ノモンハンでの18機、中国でのP-40・2機、シンガポールでのB-29・2機を含めて30機とされている(自身の著書『わか「九五・九七戦」大陸の空を制霸す』では64機撃墜と著している )。このほかに10機のB-29を不確実撃墜または撃破している[1]。
篠原 弘道(しのはら ひろみち/こうどう、
1913年(大正2年)8月15日 - 1939年(昭和14年)8月27日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者[1]。最終階級は陸軍少尉。通り名・異名は「東洋のリヒトホーフェン」。名前の読み方については新聞や書物には全て「ひろみち」と記載されているが、甥の話によれば「こうどう」が正しい読みであるという[2]。
日本陸軍のトップ・エースの一人として総撃墜数58機を誇り、これは1939年5月27日の初陣から同年8月27日に戦死するまでのわずか3か月の間に達成された。また、1日で11機の敵機を撃墜した記録をもつ。
生涯
1913年8月15日栃木県河内郡雀宮村大字東谷(現:宇都宮市東谷町[3])生まれ。父庄蔵、母はる。雀宮尋常小学校東校(現:宇都宮市立雀宮東小学校)を経て1931年(昭和6年)下野中学校卒業後、12月に騎兵の現役志願兵として[4]羅南の騎兵第27連隊に入営。同月満州事変に動員され錦西城の戦いに参加。のちに航空兵に転科し、1933年(昭和8年)6月に所沢陸軍飛行学校に入校。翌1934年(昭和9年)1月に戦闘機操縦者として卒業し、2月に飛行第11大隊第1中隊(亀山計衛大尉)に配属され、満州のハルビンに赴任する。1938年(昭和13年)に飛行第11大隊は飛行第11戦隊となり、後年部隊マークとして垂直尾翼に稲妻を描き「稲妻部隊」と呼ばれる事になる。同年陸軍航空兵准尉に昇進し、1939年5月にノモンハン事件が勃発したときには25歳で既に6年の飛行経験があった。
1939年5月27日、九七式戦闘機に搭乗した篠原は第1中隊長・島田健二大尉、鈴木栄作曹長とともに出撃、初めての敵戦闘機との交戦でソ連軍のI-16単葉戦闘機4機を撃墜した。翌28日には第3中隊とともに出撃(篠原の列機は島田大尉と吉山文治曹長)しRZ複葉偵察機1機とI-15複葉戦闘機5機を撃墜し、たった1日でエース・パイロットとなった。史上初陣から1日で10機の撃墜を記録したパイロットは篠原の他にいない。特筆すべきは同年6月27日、日本軍がモンゴルの後方基地タムスクに大規模な空襲を行った際に、11機の敵機を撃墜したことである[5][6]。この記録を上回るのはドイツ空軍のエーリヒ・ハルトマン(1日に12機を撃墜)だけである。篠原は撃墜マークとして愛機の操縦席側面に星を描いていた。
しかし武運は長くは続かず、1939年8月27日、爆撃機護衛の際に交戦となり敵機3機を撃墜したが、I-16戦闘機に撃墜され戦死した[7]。その功績により同日附で准尉から少尉に特進した。1940年9月26日、第21回論功行賞に選ばれる[8]。
その活躍から「東洋のリヒトホーフェン」と呼ばれ[5][9]、またノモンハン航空戦における操縦者達の活躍は「ホロンバイルの荒鷲」としてマスメディア上でも大々的に取り上げられており、中でも篠原は屈指のエースとして国民の知るところとなった。また敵編隊に殴りこみをかけ撃墜するという、迫力ある空戦模様を記録した日記を残していたことでも知られる。
穴吹 智(あなぶき さとる[1]、
1921年(大正10年)12月5日 - 2005年(平成17年)6月)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。戦闘機操縦者、ヘリコプター操縦者。最終階級は陸軍では陸軍曹長、自衛隊では2等陸佐。香川県出身。
太平洋戦争(大東亜戦争)時、主に一式戦闘機「隼」を操り戦った陸軍のエース・パイロット。異名・あだ名は「白色電光戦闘穴吹」「運の穴吹」「ビルマの桃太郎」「豆タン黒」など。このうち「白色電光戦闘穴吹」は本人が好んで用いていた自称であり、飛行第50戦隊の部隊マーク「電光」、第3中隊の中隊色「白色」、飛行分科「戦闘」にちなんでいる。撃墜マークは「太丸に星」または「太丸に点」であり、愛機の垂直尾翼に自身が考案した機体愛称(「吹雪」号・「君風」号)とともに描いていた。
「飛行第50戦隊三羽烏」[2]の一人であった。
経歴
1921年(大正10年)12月5日、香川県綾歌郡山田村(現・綾川町)大字山田上甲千四百七十三番地に、父・穴吹保太郎と母・ヤナの12番目の子、八男として生まれる[3]。
1938年(昭和13年)、穴吹は少年飛行兵を目指し東京陸軍航空学校へ入校。1939年(昭和14年)4月には陸軍少年飛行兵第6期生として熊谷陸軍飛行学校に進み、更に1940年(昭和15年)10月に大刀洗陸軍飛行学校へ入校。1941年(昭和16年)3月に同校を卒業し、陸軍航空部隊の戦闘機操縦者として飛行第50戦隊第3中隊に配属され、同年10月に陸軍伍長に任官。太平洋戦争開戦時には九七式戦闘機乙を操り南方作戦におけるフィリピン攻略戦に従軍、同年12月22日にはリンガエン上空でアメリカ陸軍航空軍のP-40戦闘機を撃墜し初戦果とする。
詳細は「一式戦闘機#ビルマ航空戦」を参照
1942年(昭和17年)4月、第50戦隊は日本に帰国し一式戦「隼」一型に機種改編。穴吹は愛機に自身の姓から1文字取り「吹雪」号と名づける[4]。同戦隊はビルマ戦線に展開しイギリス空軍やアメリカ陸軍航空軍と交戦、以後、ビルマ・東インド・西南中国を転戦する。
同年12月、軍曹に進級。同月24日、主脚の格納を忘れた状態で空戦に突入したものの、ハリケーン戦闘機2機を撃墜している。主脚の出しっぱなしに気づいたのは空戦後に地上に映った自機の影を見てであった。
1943年(昭和18年)5月29日、チッタゴン上空でハリケーン戦闘機とスピットファイア戦闘機各1機を撃墜。愛機「吹雪」号は飛行時間が240時間と寿命を迎えたため航空廠に送られ、代わって受領した「隼」に、穴吹は自身の妻の名前(君子)から1文字取り「君風」号と名づける。
1943年10月8日には「君風」号をもってバセイン上空でP-38戦闘機2機を撃墜、さらにB-24爆撃機1機に体当たりしこれを撃墜。10日に第3航空軍司令官より個人感状を授与される[5]。
1944年(昭和19年)2月、任明野陸軍飛行学校助教の辞令を受け日本に帰国し、生まれ故郷の香川県にある高松陸軍飛行場(戦後、高松空港)でビルマ人留学生等の操縦教育を担当する。また、ルソン島の戦い中に同地へ四式戦闘機「疾風」を空輸する任務につき、空輸中に台湾の高雄上空において「疾風」でアメリカ海軍のF6F艦上戦闘機4機の撃墜を報告。同年12月、曹長に進級。第二次世界大戦敗戦までは明野教導飛行師団教導飛行隊で五式戦闘機に搭乗し本土防空戦に参加、B-29爆撃機1機の撃墜を報告する。
戦争全般を通じての総撃墜報告数は51機ないし53機。研究家による戦後の調査では30機と推測されている[6]。
戦後の1950年(昭和25年)には警察予備隊に入隊。保安隊を経て、陸上自衛隊東北方面ヘリコプター飛行隊長などを歴任し、1971年(昭和46年)に2等陸佐で退官した。その後、日本航空に入社し、1984年(昭和59年)に退職した。
2005年(平成17年)6月死去。享年83[7]。
著作
『蒼空の河 穴吹軍曹「隼」空戦記録』(光人社NF文庫、1996年) ISBN 4-7698-2111-5
『続・蒼空の河 穴吹軍曹「隼」空戦記録〈完結篇〉』(光人社NF文庫、2000年) ISBN 4-7698-2292-8
手記
坂川敏雄 日本 大日本帝国陸軍 49+不詳
仲田義彦 日本 大日本帝国陸軍 不詳
尾崎 中和(おざき なかかず、
1919年8月9日 - 1943年12月27日)は、日本陸軍の軍人。死後、二階級特進し陸軍中佐。殉職の項目も参照。
来歴・人物
水戸藩家老に連なる海軍中佐・尾崎貴信の二男として佐世保市で生まれる。東京市四谷区若葉町出身。東京府立一中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1940年6月、陸軍航空士官学校(53期)を卒業。航空兵少尉任官。明野陸軍飛行学校学生。
1940年10月、飛行第33戦隊付になり、1941年3月、太刀洗飛行学校教官、8月に中尉任官。1942年10月から1943年4月にかけて明野飛行(甲)学生、同じく同年4月から飛行第25戦隊第二中隊長に着任。同年12月に大尉。
射撃の名手で知られ、中南支の航空戦で19機を撃墜、うち6機は難攻不落とされたB-24であった。また、12~14機のB-24撃墜に名を連ね、「B-24撃墜王」の異名を持っていた。飛行第25戦隊は総体として非常に高い戦績を誇り、初代戦隊長の坂川敏雄少佐の15機撃墜をはじめ、金井守吉中尉・細野勇大尉の各26機、尾崎の19機、清野英治准尉・大竹四郎曹長の各15機撃墜などの数字が残っている[1]。
1943年12月27日、遂川進攻に参加し、遂川飛行場強襲の際に上空にて僚機を救うためP-40に体当たりして戦死。1944年2月8日、個人感状授与。東條英機が焼香に訪れた。
親族
兄 尾崎貴和(陸軍中佐、戦死)
脚注
[脚注の使い方]
^ 『日本軍用機航空戦前史 開戦前夜の荒鷲たち』(秋本実、グリーンアロー出版、1994年) 第一巻 P522 -
神戸登 日本 大日本帝国陸軍 40+ 不詳
島田健二 日本 大日本帝国陸軍 40 不詳
佐々木 勇(ささき いさむ、
1921年(大正10年)11月5日 - ?)は、大日本帝国陸軍の軍人、航空自衛官。太平洋戦争時の戦闘機操縦者でエース・パイロット。最終階級は准尉。
経歴
1921年(大正10年)11月5日、広島県に生まれる。工業高校中退後、1938年(昭和13年)4月に東京陸軍航空学校へ入校した。1941年(昭和16年)3月、陸軍少年飛行兵第6期生として熊谷陸軍飛行学校を卒業し、台湾の飛行第50戦隊に配属された[2]。
太平洋戦争の開戦とともに、飛行第50戦隊第1中隊の一員としてフィリピン攻略作戦に参加した。佐々木伍長の初陣は12月10日で、ビガン沖の味方船団上空を哨戒飛行中、B-17Cが来襲した。佐々木はB-17をバギオ付近まで追撃したが撃墜できず、日本海軍の零式艦上戦闘機隊に追撃を委ねて帰投した。1942年(昭和17年)1月、佐々木は戦隊とともにタイに進出、ラングーン上空の空戦で初戦果を上げた。それから2年余、ビルマでの激しい航空戦に身を投じ、数十回の戦闘を通じてその優れた操縦・射撃技術を開花させた。この間に記録した個人撃墜数は、小型機約20機、大型機12機を数えた。飛行第50戦隊で佐々木は、穴吹智、下川幸雄両軍曹と並ぶ「少飛6期の三羽烏」の一人として「腕の佐々木」と称された[2]。
1944年(昭和19年)4月、佐々木は内地に帰還し、陸軍航空審査部のテストパイロットへと転じた。佐々木の剛胆で巧みな戦闘技術は、審査部勤務時代においてもB-29の迎撃戦で発揮された。1945年(昭和20年)5月25日の夜間迎撃では、四式戦闘機に乗り込んで出撃。大火災の東京上空を3,000〜4,000メートルの低空で侵入するB-29に対し、直上方および前下方からの近接攻撃を繰り返し、3機を撃墜した[2](1機目のエンジンを発火させ、2機目は燃料を大量流出させ、3機目を大きく損傷させた[3])。
終戦までに佐々木曹長はB-29を6機撃墜、3機を撃破し、この功績に対して7月15日に陸軍武功徽章(乙)が授与され[4]、同日付をもって少飛6期生の生存者として唯一人准尉に特別進級した。ビルマ戦線での戦果を含めると、佐々木の総撃墜数は少なくとも38機に達していた。戦後は平山に改姓して航空自衛隊に入り、三等空佐で退官、広島県に在住していた[2][3]。
垂井光義(たるい みつよし、
1915年(大正4年)7月29日 - 1944年(昭和19年)8月18日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者でエース・パイロット。最終階級は陸軍中尉。ノモンハン航空戦第2位のエースである。
略歴
1915年(大正4年)7月29日 岡山県に生まれる。
1934年(昭和9年)2月 陸軍少年飛行兵第1期生として所沢陸軍飛行学校に入校する。翌年11月に卒業すると、明野陸軍飛行学校で戦闘機の戦技教育を受け、各務ヶ原の飛行第1連隊第1中隊に配属された。垂井らは初の少年飛行兵ということで部隊では期待を持って迎えられた[2]。
1939年(昭和14年)
5月 第1次ノモンハン事件の勃発により飛行第1戦隊(九七式戦闘機装備)に出動が下令された。
6月22日、垂井曹長は満蒙国境近くのトボス飛行場に進出、24日から哨戒飛行に出動したが会敵しなかった。
6月26日夕方、採塩所飛行場へ移動の途中、垂井ら3機編隊はI-15と遭遇。接敵中に上空からソ連戦闘機50〜60機に襲撃されて空戦となり計6機を撃墜、うち2機が垂井の初戦果となった。
6月28日のタムスク攻撃では、空中接触されて落下傘降下した編隊長・本間富士雄中尉を、敵地に着陸して救出した。その後も空戦毎に出撃。
9月15日の停戦までに計28機の撃墜を記録した。これは篠原弘道准尉(58機)に次ぐノモンハン戦第2位のスコアとなった[2]。
1940年(昭和15年)
12月、垂井曹長は陸軍航空士官学校に入校し、翌年
1941年(昭和16年)
7月 陸軍航空士官学校を卒業して少尉に任官、原隊の飛行第1連隊に復帰した。太平洋戦争の開戦により南方作戦に出動、マレー、スマトラ、ジャワ航空戦を転戦して本土に帰還した[2]。
1943年(昭和18年)
4月 中尉に進級して三式戦闘機装備の飛行第68戦隊に転属となり、ニューギニアのウェワク基地に進出した。南東方面の航空戦は日本側が不利になりつつあり、士気も低下している中で第2中隊長竹内正吾大尉を良く補佐した。垂井の明朗で沈着、大胆な人柄は上下から大きな信頼を受けた。空戦では、この方面では初めてP-47を撃墜するなど、10機以上の米軍機を撃墜した。三式戦闘機はエンジン故障が多発したため、垂井も「魔のセピック湿地」に墜落、現地民に助けられて帰還するなど、半年間に3回も乗機の故障で不時着したが、その度に生還した[2][3]。
1944年(昭和19年)
春 米軍のホーランジア上陸で戦隊は飛行機を喪失、生存者は飛行場を放棄し、西部ニューギニアのサルミを目指して徒歩で後退した。
8月18日 転進中の垂井は米戦闘機の機銃掃射を受けた。重傷を負った垂井は北を向き、「天皇陛下万歳」を唱え、合掌しつつ絶命した[2]。戦死後、大尉に進級。総撃墜数は38機[1]。
【白井長雄(しらい・ながお)大尉・13機】
(カモメ)白井長雄は兵庫県生まれ。昭和十六年七月陸軍士官学校(五五期)卒業。十一月操縦学生(八八期)。昭和十七年十一月飛行第二四四戦隊配属。
(ウツボ)昭和十九年十月、白井中尉は飛行第二四四戦隊第三中隊長に任命され、終戦まで、第三中隊(みかずき隊)を指揮して、本土空襲に来襲する<ボーイングB−29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>の迎撃に明け暮れた。
(カモメ)搭乗機は、<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>と<川崎「五式戦」単座戦闘機>でした。最終階級は陸軍大尉。
(ウツボ)白井大尉の撃墜数は、<ボーイングB−29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>一一機、<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>二機の合計一三機。
カモメ)白井大尉は<ボーイングB−29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>の撃墜王ですね。
(ウツボ)そうだね。だが、戦後、白井長雄氏は、戦友たちと一切接触せず、戦争については何も語らなかったという。昭和四十九年死去。
市川忠一大尉 第244戦隊 9機 F6Fヘルキャット1機撃墜
遠藤幸男
その他
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曖昧さ回避 体操男子個人総合金メダリストの「遠藤幸雄」とは異なります。
遠藤 幸男
えんどう さちお
Sachio endo.jpg
夜間戦闘機「月光」の前を歩く遠藤(前列左)と西尾治上飛曹(前列右)
渾名 B-29撃墜王
生誕 1915年9月9日
大日本帝国の旗 大日本帝国 山形県東村山郡山辺町
死没 1945年1月14日(29歳没)
大日本帝国の旗 大日本帝国 愛知県渥美郡神戸村(現・田原市)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1930- 1945
最終階級
Imperial Japan-Navy-OF-4-collar.svg 海軍中佐(没後進級)
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遠藤 幸男(えんどう さちお[1][2], 1915年9月9日 - 1945年1月14日)は大日本帝国海軍の軍人、最終階級は中佐(没後進級)。
海軍飛行予科練習生(予科練)の第1期生として日本海軍に入り、海軍航空の道を歩む。太平洋戦争では、前期から中期にかけては当初は遠距離戦闘機として開発された「月光」の開発と改修に参加し、ラバウルに進出後は「月光」を駆使して迎撃戦に活躍。日本本土に帰還後は第三〇二海軍航空隊に所属し、日本本土空襲で来襲するB-29迎撃で奮闘したが、名古屋空襲の迎撃戦で戦死した[3]。B-29撃墜破数16機[4][5][注釈 1][6][7](うち撃墜は公認8機[8][9][注釈 2][3])を記録して「B-29撃墜王」と呼ばれて国民的英雄となった[10]。予科練出身で中佐まで進級した唯一の人物でもある[11]。
生涯
開戦まで
遠藤幸男は1915年(大正4年)9月9日、山形県東村山郡山辺町の材木商の家に生まれる[2]。早くに父親を亡くしていたので旧制中学校には進学せずに[12]、山形県立山形工業学校を首席で卒業し海軍を志願した[2]。1930年当時の日本海軍はロンドン海軍軍縮会議の影響で、主力艦の保有割合をアメリカ・イギリスの60%に抑えられたため、活路を空に見出しており、航空機搭乗員増加を進めていた。その第一弾として、1930年(昭和5年)6月に海軍飛行予科練習生[注釈 3]第一期生を採用したが、遠藤は全国10,000人の応募者から最終選考まで残った75人の1人として[13]横須賀海軍航空隊に入隊した[2]。競争率100倍以上の難関であったので、極めて優秀な人材が集い、教官であった浮田信家大尉は「本来なら海軍兵学校に楽々パス出来るものが、中学校にいけなかったために予科練を目ざしたもので、素質的には江田島以上と思われる者が多かった」と評している[14]。
正確には、黒鳥四「朗」ですね。
さらに、厳密には搭乗員ですが操縦ではなく、偵察員ですね。
横須賀航空隊で倉本十三上飛曹とペアで夜間戦闘機「月光」を駆り、ひと夜で五機撃墜の殊勲を上げた事は有名です。
亡くなる直前に出版された「回想の横空夜戦隊 ある予備士官搭乗員のB?29邀撃記」は渡辺洋二氏の補筆もあって読みごたえのある回想記でしたのでご一読をお勧めします。
特に、前述の五機撃墜のシーンは淡々と述べられているのが非常に印象的でした。
大正12年(1923年)2月、東京に生まれる。
昭和16年、東京高等農林学校林学科(現・東京農工大学農学部)に入学する。在学中に徴兵検査を受け、甲種合格していたが、卒業を控えて川西航空機を受験。さらに海軍予備学生にも応募。
昭和18年(1943年)9月、東京高等農林学校を卒業し、第13期飛行専修予備学生として海軍に入隊。
18年11月、鈴鹿航空隊に配属。偵察員教育を 受け、教程終了後の希望機種に夜間戦闘機を希望。
19年5月、希望通り横須賀海軍航空隊夜間戦闘機隊に配属。同月、少尉に任官して横空付。第1飛行隊・第13分隊に分隊士として勤務。
20年2月、第7飛行隊の飛行隊士に任じられる。4月、創本十三上飛曹とともにB‐29を1機撃墜、1機撃破。5月、一夜にB‐29を5機撃墜、1機撃破。6月、中尉に進級。同月、横須賀鎮守府司令長官により全軍布告、軍刀授与。8月、米軍調査にそなえて横空に残留待機。9月、復員。
昭和21年、運輸技官として大臣官房技術研究所に勤務。25年、九州木材(株)入社。27年、日本マレニット(株)設立、九州支社長。
平成7年(1995年)、退職し22年まで九州木材(株)顧問
平成24年2月4日逝去
戦時中に「暗視ホルモン」として投与されたヒロポン(覚せい剤)の副作用に戦後は苦まれたが、その経験を述べている部分も興味深かったです。
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大東亜戦争は日本が勝った -英国人ジャーナリスト ヘンリー・ストークスが語る「世界史の中の日本」 単行本 - 2017/4/17
ヘンリー・S・ストークス (著), 藤田 裕行 (翻訳)
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単行本
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「太平洋戦争」はアメリカの洗脳だった
この書は日本のプロパガンダではない。史実である。
日本よ 呪縛から解放されよ!
ヘンリー・S・ストークス 来日50年の総集編
世界史を俯瞰して明らかになった
大東亜戦争の真実
共産党などの左翼は、大東亜戦争は「侵略戦争」であったと言う。
そうであろうか? 史実を検証すると、そこには明らかに「アジア解放戦争」の側面が見て取れる。
アメリカの侵略戦争や、大英帝国の植民地支配での戦争とは、明らかに違った姿を現じている。
私は、大東亜戦争を日本がなぜ戦ったのか、その結果、何が世界に起こったのかは、
世界文明史的な俯瞰をもってしてはじめて、明らかになるものだと、そう思い始めた。
世界文明史の中で、大東亜戦争を位置づけようというような野心的な試みは、一冊の本で果たせるものでもないが、
その第一歩を英国人ジャーナリストの私が切り開くことで、世界中に多くの賛同者が出てくると、
そう確信している。(本文より)
1章 日本が戦ったのは「太平洋戦争」ではない!
2章 「太平洋戦争」史観で洗脳される日本
3章 日本は「和」の国である
4章 世界に冠たる日本の歴史
5章 オリエントにあった世界の文明と帝国
6章 侵略され侵略するイギリスの歴史
7章 アメリカの「マニフェスト・デスティニー」
8章 白人キリスト教徒による太平洋侵略
9章 マッカーサー親子によるフィリピン侵略
10章 大日本帝国と西欧列強の帝国主義の違い
11章 大日本帝国は「植民地支配」などしていない!
12章 日本は中国を侵略していない
13章 アメリカによる先制攻撃の「共同謀議」
14章 大統領がアメリカ国民を欺いた日
15章 大英帝国を滅ぼしたのは日本だった!
「世界から恐れられた7人の日本人」上巻
世界世界
せ
※下巻は、上巻購入後、次のページでご案内しております
1人目:日本軍 20 万に匹敵する男 −明石元二郎陸軍大佐
○帝政ロシアを揺るがし、 日露戦争を勝利へ導く
○明石を支援した日本陸軍のスパイマスターたち
○ジェームス・ボンドも明石の味方に! ?
2人目:米国務長官が欲しがった男 ―岩畔豪雄陸軍少将
○「世界基準の戦い方」をプランニングし、遂行する
○アメリカとの戦争回避に奔走
○インドの独立運動にも大きく貢献
3人目:日本のスパイマスタ― ―秋草俊陸軍少将
○インテリジェンス教育の総本山「中野学校」を創設
○猛者ぞろいの中野学校出身者
○謀略から特攻まで、 ただ目標完遂のために
4人目:インドを独立に導いた謀略の素人 ―藤原岩市陸軍少佐
○5万ものインド人捕虜の心を一瞬にしてつかむ
○曲解され悪魔化される日本のナショナリストたち
5人目:日本版アラビアのロレンス ― 鈴木敬司陸軍大佐
○親日ミャンマーの原点は鈴木大佐にあり
○「アジアはアジア人の手に」を願い共に戦った野田毅陸軍大尉
○日本が掲げた理想、そして誠の心がアジア諸国を動かした
6人目:アメリカ軍の動きを的確に予測した情報のプロ ―堀栄三陸軍少佐
○株価の動きでアメリカ軍の動きを予測
○その情報は、 陸軍大本営の参謀によって握りつぶされた
○米軍戦法の研究書を執筆し、日本軍の戦いに貢献
○アメリカ軍を壊滅状態に追い込んだ堀の教え
7人目:MI5が徹底監視した唯一の日本人 ―小野寺信陸軍少将
○各国のスパイマスターたちに引けを取らない諜報力
○握りつぶされた「ヤルタ会談の密約」情報
世界を変えてきた比類なき日本のインテリジェンス
あとがき:ウィズコロナ時代だからこそ、先人のインテリジェンスに学べ
著者プロフィール
大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)
大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)は、1943年(昭和18年)11月6日に大東亜会議にて採択された共同宣言。大東亜宣言とも。
概要
東京・帝国議事堂で同年11月に開催されたアジア地域の首脳会議の2日目に満場一致で採択された。採択後にビルマ国代表のバー・モウ内閣総理大臣が「自由インドなければ自由アジアなし」とインド独立を支持する意見を述べ、陪席者(オブザーバー)として出席した自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班が自由インドの確立を表明した[1]。次いで日本の東條英機内閣総理大臣が自由インドへの強い支援を会議で表明、大東亜会議は閉会した。
参加国
日本 : 東條英機内閣総理大臣、外務省・大東亜省などの各大臣、総裁、書記官など
中国 : 汪兆銘国民政府行政院長、行政院副院長、外交部部長など
タイ : ワンワイタヤーコーン親王(首相代理)、外務省など
満洲 : 張景恵国務総理大臣、外交部大臣、特命全権大使など。
フィリピン : ホセ・ラウレル大統領、外務大臣、大統領秘書など
ビルマ : バー・モウ内閣総理大臣、特命全権大使、外務次官など
インド:チャンドラ・ボース(首班)、最高司令部参謀長など
宣言全文
原文
大東亞共同宣言
抑?世界各國ガ各其ノ所??ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平??和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽??クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望??ヲ逞ウシ遂??ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂??シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平??和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス
一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道??義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス
一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊??重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス
一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊??重シ各民族ノ創造??性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス
一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ攝i??ス
一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進??ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進??運??ニ貢獻ス
口語訳
そもそも世界各国がそれぞれその所を得、互いに頼り合い助け合ってすべての国家がともに栄える喜びをともにすることは、世界平和確立の根本です。
しかし米英は、自国の繁栄のためには、他の国や民族を抑圧し、特に大東亜(東アジア全般)に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、大東亜を隷属化する野望をむきだしにし、ついには大東亜の安定を根底から覆(くつがえ)そうとしました。大東亜戦争の原因はここにあります。
大東亜の各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、大東亜諸国を米英の手かせ足かせから解放し、その自存自衞を確保し、次の綱領にもとづいて大東亜を建設し、これによって世界の平和の確立に寄与することを期待しています。
大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。
大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。
大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。
大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。
大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。
作成の経緯
本文の5項目に関しては、1943年(昭和18年)8月初旬には外務省内「戦争目的研究会」で大西洋憲章(1941年)なども大いに参考にするかたちで文案作成がはじまり、同10月には完成したものとみられる[2]。これと別途並行して大東亜省は大川周明[3][4]や矢部貞治に宣言案を作成させており、それは前文として追加されることになった。大西洋憲章を参考にした本文が普遍的な真理を提唱するのに対し、大東亜省の前文は「米英支配の打破」という時事的な記述に偏っており、論理の接続が悪い所以とされる。
日本を除く大東亜会議参加国は、会議2週間前になりようやく意見聴取の場を得たが、修正意見は日本側にことごとく拒絶され、結局一字一句の変更もなされずこの文面のまま全会一致で採択された。