iso14001,環境ISO News
大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史
英国の歴史家、アーノルド・トインビーは、 日本の近代史についてこんな分析をしました。
環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 0
朝日の慰安婦捏造問題を世界に発信するため、 かなり正確に伝えている英語での解説記事
環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 2
環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 3
米政府の慰安婦問題調査で奴隷化の証拠発見されず
no proof war crimes with "disappointment" comfort woman
環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 4
「侵略戦争」は連合国の宣伝、日本は植民地アジアを解放した
環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 5
徹底検証!「従軍慰安婦」問題は朝日新聞の捏造から始まった
環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史6
Report No. 49: Japanese Prisoners of War Interrogation on Prostitution
従軍慰安婦に関する米軍調査報告:戦場売春婦の実態調査結果ビルマ
Report No. 49:
「文玉珠さん」という(自称)従軍慰安婦女性は、平成4年に日本の郵便局を訪れ 2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしています
環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 7
ヒラリーの私用メールが暴いた外務省の赤っ恥 国益の毀損と責任感の欠如がもはや伝統に
環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 8
神風特攻隊が残した戦果は、実はすごかった。
環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 9
フーバー大統領の回想録
には、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な記録が含まれている。
環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 10
サンフランシスコで慰安婦碑反対運動で頑張っている有志からご協力のお願いです。
計画されている慰安婦碑のとんでもない内容の碑文が1月18日に承認されました。
来る2月6日の芸術委員会でその慰安婦碑の設置が承認されようとしています。
環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 11
“カナダ有志の会”よりお願い
中国系州議員やアルファという反日組織の工作により、
カナダ・オンタリオ州の立法議会が南京大虐殺記念日の制定を審議中です。
↓ Bill 79, Nanjing Massacre Commemorative Day ↓
SnapCrab_NoName_2017-2-2_7-50-52_No-00
抗議のメールを、オンタリオ立法議会メンバーに送っていただけましたら幸いです。
南京大虐殺は捏造だった証拠集
韓国、韓国人慰安婦をドラム缶に入れて米軍らに供給、政府が米軍向けに売春管理
国連も一蹴した中国の政治宣伝 自民党が明らかにした南京の捏造
やはり
あの戦争は、アジア開放のための聖戦だった
ライダ
イハンは3万人もいるのに、なぜか韓国には日本軍人との混血児は一人も出てこない不思議… 20万の
朝鮮売春婦相手になぜ一人も出てこないんだ?
韓国を「ホワイト国」から除外しよう
南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状
環境ISO,iso14001
自己紹介
iso14001環境ISO生命に満ちた青い地球を守ろう
南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状
原爆被爆者の平均寿命は平均日本人より長い。男1年、女2年、寿命が長い。
http://www.sdh-fact.com/CL02_3/19_S1.pdf
胡錦濤国家主席閣下への公開質問状 このたび中華人民共和国国家主席胡錦濤閣下のご訪日に当たって、日中両国の 友好を願う者として心より歓迎申し上げます。
反日種族主義
大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害
「世界から恐れられた7人の日本人」
「大東亜戦争の英雄の日本人1」
「大東亜戦争の英雄の日本人2」
「大東亜戦争の英雄の日本人6」
「大東亜戦争の英雄の日本人3」空の要塞B29撃破とB29撃墜王
「大東亜戦争の英雄の日本人4」陸軍エースパイロット撃墜数
「大東亜戦争の英雄の日本人5」海軍エースパイロット撃墜数
「大東亜戦争技術者」
「大東亜戦争技術者2」
「大東亜戦争石油」
日米開戦前日米交渉(アメリカが日本に実質的最後通牒(日本の南部仏印撤退などの譲歩案に))
独ソ戦 絶滅戦争の惨禍
ウクライナ戦争は独ソ戦と共通する点が多い
#安倍 氏の遺志を生かそう
#安倍 氏ありがとう
#安倍 氏の遺志を生かそう
#安倍 氏ありがとう
約20年前に1任期(3年)しか務めていない自衛官OBを「元海上自衛官」との説明で報道していただきたくない。
安倍 元総理ありがとう
暗殺の遠因2 【政治】安倍元首相に対する"異常な批判" 社民・共産・れいわ・左派・メディアら『憎悪を煽った人々』 朝日新聞の幹部は、かつて、「安倍の葬式はうちで出す」と言った。
暗殺遠因
【衝撃】安倍元首相銃撃 山上容疑者の背後に2つの"反アベ団体"か 捜査当局が重大関心[07/14]
そんな中で浮上したのが、山上容疑者は"反アベ"の団体に所属していたとの情報だ。
「山上容疑者はリベラル色が強い"反アベ"団体に所属していた。
https://www.tokyo-sports.co.jp/social/4317941/
暗殺の遠因
【政治】安倍元首相に対する"異常な批判" 社民・共産・れいわ・左派・朝日新聞らメディア『憎悪を煽った人々』 暗殺契機に「不寛容な社会」へ
人権を語る左派の文化人は「あべしね」とTwitterに投稿。
朝日新聞の幹部は、かつて、「安倍の葬式はうちで出す」と言った。
https://reiwa-kawaraban.com/society/20220709-03/
暗殺の遠因
暗殺者
安倍元首相に対する"異常な批判" 社民・共産・れいわ・左派・朝日新聞らメディア『憎悪を煽った人々』
人権を語る左派の文化人は「あべしね」とTwitterに。
朝日新聞の幹部は「安倍の葬式はうちで出す」と
法大の山口二郎は「安倍は人間ではない。叩き切ると
https://reiwa-kawaraban.com/society/20220709-03/
#国葬
#安倍 元首相に対する"異常な批判" 社民・共産・れいわ・左派・朝日新聞らメディア『憎悪を煽った人々』
人権を語る左派の文化人は「あべしね」とTwitterに。
朝日新聞の幹部は「安倍の葬式はうちで出す」と
法大の山口二郎は「安倍は人間ではない。叩き切ると
https://reiwa-kawaraban.com/society/20220709-03/
https://reiwa-kawaraban.com/society/20220709-03/
第 11 編 占領下の日本 第 1 章 アメリカ占領軍当局(GHQ)が日本に及ぼした影響 1945(昭和 20)年 10 月から 12 月にかけて、GHQによる教育に関する四大指令 、
一「日本教 育制度に対する管理政策」、
二「教員と教育関係者の調査・除外」、
三「神道指令」、
四「修身、日 本の歴史・地理の停止」が出されます。
第一指令で文部省はGHQの下部機関になり、
第二指令で軍国主義的または国家主義的傾向の 教職員の解雇追及でありました。これにより、当時の全国の優秀な教職員の実に 22%の約 20 万 人が辞職させられました。そして、この穴埋めとして、戦前、共産主義者として逮捕、軟禁され ていた人たちがその職に着きました。
第三指令で学校での神道行事の禁止だけでなく、わが国における神道の意義などについても、 一切教えることを禁止され、かつ、皇室や日本の歴史伝統のすばらしさを教えることも禁止され ました。 さらに、江藤淳氏の著書である「閉ざされた言語空間」(文春文庫)によると、占領下において、 GHQは、検閲指針により 30 項目について、報道、言論を禁止していました。
#安倍 元総理の遺志を引き継ごう
#安倍 元総理ありがとう
戦後レジューム 安倍総理が廃棄を目指したもの
GHQによる戦後占領政策・30 項目の検閲指針(禁止事項)
1.SCAP(連合軍最高司令官(司令部)) に対する批判
2.極東軍事裁判(東京裁判)の批判
3.連合国最高司令官(司令部)が憲法を起草 したことに対する言及と批判
4.検閲が行われていることに関する言及と批判
5.合衆国に対する批判
6.ロシア(ソ連)に対する批判
7.英国に対する批判
8.朝鮮人に対する批判 。朝鮮人は悪行の限りを尽くした(強姦、窃盗、殺人
妄言、詐欺)が批判は許されなかった。
9.中国に対する批判
10.他の連合国に対する批判
11.連合国一般に対する批判
12.満州における日本人取り扱いについての (ソ連、中国への)批判
13.連合国の戦前の政策に対する批判
14.第三次世界大戦への言及
15.ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
16.戦争擁護の宣伝
17.ナショナリズムの宣伝
18.大東亜共栄圏の宣伝
19.神国・日本の宣伝
20.軍事主義の宣伝
21.その他、以上で特記した以外のあらゆる 宣伝
22.戦争犯罪人の正当化、及び擁護
23.占領軍兵士と日本女性との交渉を取り扱 うストーリー
24.闇市の状況についての言及
25.占領軍軍隊に対する批判
26.飢饉を誇張した記事
27.暴力と不穏な行動を煽動する記事
28.明白な虚偽の報道
29.SCAP、または地方軍政部に対する不適 切な言及
30.解禁されていない報道の公表
http://www.goyuren.jp/kokumin-no-rekisi/honbun-11.pdf
#安倍 元総理の遺志を引き継ごう
戦後レジューム からの脱却 安倍総理が目指したもの
GHQ・30 項目の禁止事項の撤廃
1.GHQ に対する批判 2.東京裁判の批判
8.朝鮮人に対する批判 。朝鮮人の(強姦、窃盗、殺人
妄言、詐欺、騙し)批判は許されなかった
ミッドウェー海戦 - 勝敗の要因 - わかりやすく解説 Weblio辞書
https://www.weblio.jp ? wkpja ? content ? ミッドウェー...
一方、南雲司令が攻撃隊の半数待機を破る命令を出したのは索敵機が索敵範囲の先端に達する前であり、(攻略中の)図上演習において不意に米空母部隊が出現して日本が大損害 ...
自信を持とう、日本は太平洋戦争すら勝つ可能性があった。今も過ちを繰り返していないか
#安倍 元総理の遺志を引き継ごう
戦後レジューム からの脱却 安倍総理が目指したもの
GHQ・30 項目の禁止事項
8.朝鮮人に対する批判 。朝鮮人は悪行の限りを尽くした(強姦、窃盗、殺人
妄言、詐欺、騙し)が批判は許されなかった。
iso14001環境ISO生命に満ちた青い地球を守ろう
自信を持とう、日本は太平洋戦争すら勝つ可能性があった。今も過ちを繰り返していないか
外務省は国益よりも外務省益を重視した
何と、大本営にソ連のスパイがいた
1.対米最後通牒の遅れ
対米戦争開始時のこと──つまり、真珠湾攻撃を「日本の卑怯な騙し討ち」にしてしまった、許すべからざる外務省の出先機関の業務遅滞である。外務省職員の前夜の夜遊び
2.兵は頑強だが高級将校は無能
敵(ソ連)のジューコフ元帥が語った、『日本軍の下士官兵は頑強であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である』、 はその後の戦いでも実証されていくことになるわけです。ノモンハン事件
アメリカ軍も日本軍について、『兵は最高だが、士官は最低だ』、と旧日本軍上層部の無能ぶりを認識していました。 実力主義とは縁遠い年功序列の考えでしか指揮官を選べなかった日本軍は、その後も愚かな戦いぶりを続け、数々の悲惨な負け戦を味わうことになっていきました。
3.1真珠湾攻撃で2次攻撃をせず止めを刺さなかった 南雲司令官
3.2ミッドウエイ海戦で 航空機の半数は魚雷待機という命令を破った 南雲司令官
3.3ガダルカナルの米軍上陸日の海戦で2次攻撃をせず止めを刺さなかった 三川司令官
3.4 重光 葵外相
外務省は国益よりも外務省益を重視した
大東亜戦争最後の脱出口だった汪兆銘政権"繆斌(みょうひん)"工作を拒否。繆斌みょうひんは蒋介石のインテリジェンス(工作員)だった。
蒋介石は繆斌みょうひんを通じて日本に単独講和を提案。小磯内閣の緒方竹虎国務大臣兼情報局総裁が繆斌みょうひんを通じて情報を入手。(1945年3月)
陸軍も、小磯首相も繆斌みょうひん案を評価。しかし、重光外相が強硬に反対。交渉は実現しなかった。外交官を通じた情報でなかったという、縄張り根性が原因だった。外務省は対米最後通牒の遅れとともに痛恨の失敗を演じている。
3.5 瀬島龍三 ソ連のエージェント(工作員)
何と、大本営にソ連のスパイがいた
フィリピン防衛戦を崩壊させた「情報の握り潰し」
ヤルタ会談の秘密情報の電報も握りつぶしている。(この電報はスエーデン駐在の、小野寺信陸軍少将からだった。ドイツ敗戦後3か月以内にソ連の対日参戦など含む)
3.6レイテ沖海戦でマッカーサー軍への上陸攻撃を1時間の距離にして反転撤退した レイテ沖海戦…栗田艦隊「謎の反転」栗田中将
日本はすべての条件(国力、技術力、生産力、GDPなど)を変えずに太平洋戦争に勝つ可能性があった。下記は人災である。
日本上層部の無能で敗北した。
1.対米最後通牒の遅れ
対米戦争開始時のこと──つまり、真珠湾攻撃を「日本の卑怯な騙し討ち」にしてしまった、許すべからざる外務省の出先機関の業務遅滞である。外務省職員の前夜の夜遊び
≪全文≫
真珠湾攻撃…なぜ日本の宣戦布告が遅れたのか? | 渡部昇一https://10mtv.jp ? 講師一覧 ? 渡部昇一
それは、対米戦争開始時、真珠湾攻撃を「日本の卑怯な騙し討ち」にしてしまった、 ... が最後通告をハル長官に手渡したのは1時間20分遅れの2時20分で、真珠湾 .
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=1006
これまでの章で、大東亜戦争に至る歴史の大きな流れを概説してきた。あの時代、さまざまな思惑により激動していく国際情勢の中で、日本人が何を考え、どう行動したかということに着目して、歴史を物語のように記述することを試みた。
単純なる東京裁判史観ではけっして語れぬ部分があることを、おわかりいただけたのではないかと思う。そして日本人の正義、日本人のガッツの源がどこにあったのかも。
しかし、国の名誉ということを考えた場合、どうしても許してはいけないことが起きてしまった。
対米戦争開始時のこと──つまり、真珠湾攻撃を「日本の卑怯な騙し討ち」にしてしまった、許すべからざる外務省の出先機関の業務遅滞である。
御前会議で対米戦が決定したあと、天皇陛下は東條英機首相に開戦手続きをきちんと行なうように伝え、山本五十六連合艦隊司令長官も、対米最後通告が間違いなく真珠湾攻撃前に届く手筈になっているかどうかを、何度も確認していた。
現地時間で昭和16年(1941)12月6日の朝、東郷茂徳外務大臣からワシントンDCの駐米日本大使館に宛てて、「対米覚書を発信するので明日、本国からの訓令十四部が届き次第、アメリカ政府にいつでも手渡せるよう準備するように」と命じるパイロット電報が届いた。
ところが6日夜は、戦後に『昭和天皇独白録』を書いたことでも知られる寺崎英成一等書記官の送別会があり、大使館員たちは出払っていた。翌朝7時に最後の十四部が届いたが、大使館員は出勤しておらず、大使館に膨大な電報が届いているのを見つけた海軍の実松譲駐在武官補佐官が大使館員に連絡したという。
日本大使館には、最後通告をワシントン時間の12月7日午後零時半(日本時間の12月8日午前2時半、ハワイ時間の7日午前7時)にアメリカ政府に渡すよう命令があったが、そのあと30分繰り下げてワシントン時間の午後1時にアメリカ政府に渡すように指示された。そこでハル長官に1時に会ってもらうことにしたが、暗号解読とタイプが間に合わない。そこで、なんと彼らは、とんでもない判断を下した。ハル長官に電話をかけて、独断で「面会時間を延ばしてほしい」と頼んだのだ。結局、野村吉三郎大使と来栖三郎特命全権大使が最後通告をハル長官に手渡したのは1時間20分遅れの2時20分で、真珠湾攻撃後すでに50分が経っていた。
これはアメリカにしてみれば、まさに最悪の状況で騙し討ちをされたことになる。外交交渉の途中に攻撃されたことになったのだ。だが、第二次大戦への参戦に消極的だったアメリカの世論が大きく変わることを喜んだルーズベルト大統領は、「私は議会に対し、一九四一年十二月七日、日曜日に日本によって行なわれた不当かつ卑劣な攻撃以来、合衆国と日本帝国は戦争状態にあることを宣言することを求める」という演説を行なったのである。
戦争の始まり方がこうだったものだから、アメリカ人の心には日本人を敵視する感情が深く刻み込まれた。結果的には宣戦布告の遅れが、原爆投下を含む無差別爆撃の口実にさえなってしまった。
自分たちの怠惰のために日本が騙し討ちをしたといわれることになったと知ったとき、明治時代の駐米日本大使館の館員たちならば責任をとって、ワシントンDCのペンシルバニア・アベニューで揃って切腹していたかもしれない。
時代遅れかもしれないが、私は、切腹して然るべきだったと思う。そうすれば、「日本は卑怯な人間の集まりだ」という汚名をすすぐことができたかもしれない。現実に、その汚名のために、戦時中および戦後からいまに至るまで、日本は計り知れない被害を被ってきたのである。
しかし実際には、当時、駐米大使館にいた責任者たちは、その後、外務省の中で偉くなっている。亡くなった人を非難するのは良くないし、私自身は個人的には好きだった人物だが、開戦当時の駐米日本大使館員たちを出世させた吉田茂も悪かった。良く解釈すれば、吉田茂は当時のことをあまり知らなかったのかもしれないが、悪く解釈すれば、吉田茂は日本の名誉よりも外務省の名誉を守ったことになる。
テキスト
2.兵は頑強だが高級将校は無能
敵(ソ連)のジューコフ元帥が語った、『日本軍の下士官兵は頑強であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である』、 はその後の戦いでも実証されていくことになるわけです。ノモンハン事件
アメリカ軍も日本軍について、『兵は最高だが、士官は最低だ』、と旧日本軍上層部の無能ぶりを認識していました。 実力主義とは縁遠い年功序列の考えでしか指揮官を選べなかった日本軍は、その後も愚かな戦いぶりを続け、数々の悲惨な負け戦を味わうことになっていきました。
3.兵は頑強だが高級将校は無能 例
3.1真珠湾攻撃で2次攻撃をせず止めを刺さなかった 南雲司令官
3.2ミッドウエイ海戦で 航空機の半数は魚雷待機という命令を破った 南雲司令官
3.3ガダルカナルの米軍上陸日の海戦で2次攻撃をせず止めを刺さなかった 三川司令官
真珠湾攻撃 ミッション不徹底が山本五十六の誤算
経営
2019/8/14
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO4849329013082019000000?channel=DF200320183519&page=2
■現場の司令官とミッションで食い違い
「日本軍の失敗はグランドデザインの不在ではなく分裂していたこと」と説く畑野勇氏。
それでも「真珠湾攻撃は失敗だった」という声が出ている。一番の目標にしていた空母「エンタープライズ」「レキシントン」を逃がしてしまったためだ。2隻の空母はちょうど航海中で真珠湾に駐留していなかった。そのため現在でも「なぜ第2次攻撃を決行しなかったかという批判がある」と畑野氏は言う。歴史家の秦郁彦氏は当時の日米両軍の状況を分析し、機動部隊が索敵すれば米空母を発見できた可能性が十分あったという。
批判の矢は現地で部下から提案があったにもかかわらず追加攻撃をためらった機動部隊の南雲忠一・司令官と督促しなかった山本に向けられている。南雲について畑野氏は「永野修身軍令部長から空母を損傷させないように強く要望されていたことも影響したようだ」と指摘する。
南雲は海軍の年功序列で司令官に就任。航空部隊は専門外で、当初から作戦が成功するかどうかも懸念していたという。大戦果を前に敵地から早く離脱したかったようだ。
ただ一番の原因は「山本と部下の南雲の間に真珠湾攻撃のミッションが共有されていなかったことだ」と畑野氏。山本にとっての目的は空母を始めとする主力艦隊を徹底的にたたき、米軍の継戦意欲を失なわせることだった。南雲はアジア南方地域で資源を確保するための補助作戦とみていた。すでに所期の目標は達成したとの判断だった。
連合艦隊の司令部でも第2撃の議論が起きた時に山本は「それをやれば満点だ。自分もそれを希望するがここは機動部隊指揮官にまかせておこう」と述べたとされる。米側の闘争心をくじくという狙いも、ワシントンでの最後通告が開戦後にずれこんだため、逆に米国民の戦意を高める結果に終わった。
日本軍の計画は、まずインドネシアなどを占領して石油など資源を確保しての持久戦だった。その後に同盟国のドイツが英国かソ連(現ロシア)を打倒するか休戦するのを待って、戦意を失った米国など連合国との講和会議に持ち込む狙いだ。一方山本はこの計画を「成算なし」と判断して米、英艦隊との艦隊決戦に勝ち続けることでの講和を想定していた。
日本は戦争終結へ向けてのグランドデザインを持たないままに終始したといわれる。畑野氏は「実際は海軍において長期持久戦計画と、山本の連続艦隊決戦構想とに最後まで分裂していた」と結論付けている。現代企業でもミッションの共有はもっとも重要とされる。かつての日本海軍はそこに盲点があったようだ
(松本 治人)
https://wikipedia.lurkmore.com/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD?lang=ja
9月24日、特別討議で参謀長・宇垣纏から軍令部第一部長・福留繁に対し、「自分は着任後日も浅く確たる自信はないが、山本長官は職を賭してもこの作戦を決行する決意である」と伝えられた[192]。10月12日、近衛文麿別邸・荻外荘で会談が行われ、及川古志郎と海軍首脳は優柔不断な応答に終始、山本は「乃公(だいこう)が当局者であったら、海軍は正直に米国に対し最後の勝利はないというネ」と批判した[193]。10月19日、空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)での奇襲作戦は承認されたが、翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴、瑞鶴)を含む6隻という山本の希望は容認されず、連合艦隊参謀が軍令部に派遣され、この時にも「職を賭しても断行する決意である」と伝えられ、強硬な申し入れが行われた。これにより軍令部総長・永野修身の「山本長官がそれほどまでに自信があるというのならば」という一言で、軍令部側は全面的に譲歩して6隻使用を認めた[194]。
また海軍大臣・嶋田繁太郎に対する10月24日付の書簡で「開戦劈頭有力な航空兵力によって敵本営に斬り込み、米海軍をして物心ともに当分起ち難いまでの痛撃を加えるほかなしと考えることに立ち入った次第です」と述べ、山本の決意を知った嶋田はハワイ奇襲攻撃作戦に許可を出している[195]。黒島亀人ら幕僚によれば、山本は「この作戦が採用されなければ長官の職責を遂行する自信ないから辞任する、この作戦に失敗すれば戦争は終わりだ」と漏らしていたという[168]。
3.4 重光 葵外相
外務省は国益よりも外務省益を重視した
大東亜戦争最後の脱出口だった汪兆銘政権"繆斌(みょうひん)"工作を拒否。繆斌みょうひんは蒋介石のインテリジェンス(工作員)だった。蒋介石は繆斌みょうひんを通じて日本に単独講和を提案。小磯内閣の緒方竹虎国務大臣兼情報局総裁が繆斌みょうひんを通じて情報を入手。(1945年3月)陸軍も、小磯首相も繆斌みょうひん案を評価。しかし、重光外相が強硬に反対。交渉は実現しなかった。外交官を通じた情報でなかったという、縄張り根性が原因だった。外務省は対米最後通牒の遅れとともに痛恨の失敗を演じている。
3.5 瀬島龍三 ソ連のエージェント(工作員)
何と、大本営にソ連のスパイがいた
フィリピン防衛戦を崩壊させた「情報の握り潰し」
ヤルタ会談の秘密情報の電報も握りつぶしている。(この電報はスエーデン駐在の、小野寺信陸軍少将からだった。ドイツ敗戦後3か月以内にソ連の対日参戦など含む)
レイテ沖海戦(10/24-10/25)前、台湾沖航空戦(10/12-10/14)があった。海軍は大勝利(空母19隻、戦艦4隻、そのほかの艦艇22隻撃沈撃破と発表した)アメリカ海軍全滅である。小磯内閣は戦勝祝賀会まで開催した。
大本営情報参謀、
堀栄三少佐は、鹿屋に出張し、搭乗員から直接聞き取りを行った。結果、「大勝利との情報は誤りで、撃破はせいぜい3隻でそれが空母かどうかもわからない」だった。堀少佐はその情報を大本営に打電した。大本営で電報を受け取ったのが、陸軍中佐、瀬島龍三だった。彼はこの情報を握りつぶした。彼は台湾沖航空戦の大戦果に基づいてフィリピン防衛戦を構築中であり、それに影響を与えるからであった。
)
何と、大本営にソ連のスパイがいた
瀬島はもう一つ、ヤルタ会談の秘密情報の電報も握りヤルタ会談の秘密情報の電報も握りつぶしている。(この電報はスエーデン駐在の、小野寺信陸軍少将からだった。ドイツ敗戦後3か月以内にソ連の対日参戦など含む)つぶしている。
3.6レイテ沖海戦でマッカーサー軍への上陸攻撃を1時間の距離にして反転撤退した レイテ沖海戦…栗田艦隊「謎の反転」栗田中将
3.7ビルマの戦い〜インパール作戦 当初から無謀な作戦であると反対意見が多かったにもかかわらず、牟田口軍司令官
(note)上記3.4 重光 葵外相と3.5 瀬島龍三 ソ連のエージェント(工作員)
については
渡部望「大東亜戦争を敗戦に導いた7人」による。
3.4 重光 葵外相
外務省は国益よりも外務省益を重視した
大東亜戦争最後の脱出口だった汪兆銘政権"繆斌(みょうひん)"工作を拒否。繆斌みょうひんは蒋介石のインテリジェンス(工作員)だった。蒋介石は繆斌みょうひんを通じて日本に単独講和を提案。小磯内閣の緒方竹虎国務大臣兼情報局総裁がみょうひんを通じて情報を入手。(1945年3月)陸軍も、小磯首相も繆斌みょうひん案を評価。しかし、重光外相が強硬に反対。交渉は実現しなかった。外交官を通じた情報でなかったという、縄張り根性が原因だった。外務省は対米最後通牒の遅れとともに痛恨の失敗を演じている。
繆斌みょうひんを通じて示された蒋介石和平条件案は大略次の通り:
1. 満州国問題は別途協議とする。
2. 日本軍は中国から撤兵する。
3. 汪兆銘政権(南京政府)は解消し、(汪兆銘は1944年11月すでに死亡)汪兆銘政権の要人は日本が引き取る。
4. 南京には蒋介石が留守政府を置く。
小磯首相はわらおもつかむ思いで、緒方竹虎に同意した。1945年3月16日繆斌みょうひんは空路東京にやってきた。繆斌みょうひんはすぐ陸軍防衛総司令官東久迩の宮と会い東久迩の宮は繆斌みょうひんと打ち解け、陸相の杉山や参謀総長の梅津を説得、和平推進の同意を得る。絶望的な戦局下、日中の単独和平は魅力的であった。
なぜ蒋介石は対日単独和平を考えたのか
1944年中ごろ
欧州戦線においてはソ連軍がドイツ軍を圧倒し、英米軍もノルマンジー上陸でドイツ軍を圧倒していた。イタリアはすでに降伏していた。
大東亜戦争1944年ごろ太平洋戦線においては米軍が日本軍を圧倒していた。
唯一連合軍がフルはないのは中国戦線であった。アメリカから膨大な軍事援助を受けていながら、逆に、蒋介石軍は日本軍を駆逐するどころか、1944年4月に開始された日本軍の大陸打通作戦でさんざんに撃破され、前線戦に総崩れを示す有様であった。このような中国の体たらくに対しアメリカ、ルーズベルトは蒋介石に厳しい態度をとるようになる。1944年9月には中国軍の軍事指揮権をアメリカ軍事顧問団に引き渡すという屈辱的な要求を通告。さらに1945年2月のヤルタ会談には蒋介石を招致しなかった。このヤルタ会談で、ソ連の対日参戦および中国北部でのソ連の優越的権益が秘密裏に約束される。こうした一連の中国への甚だしい警視行動は、すでに、連合国の主要国失格の烙印を蒋介石が押されていることを意味していた。日本への憎悪、ジェノサイト国家という悪辣な宣伝徹底してきた蒋介石は、方針を180度転換、日本を取り込もうと、計画を練り始めた。その第一歩がみょうひん
工作だった。
国運を貶めた「外交官の職業上の本能」
重光を含め外相は外務省の立場を守る「国益よりも外務省益優先」だった。
1.東條が大東亜共栄圏構想で、1942年9月、大東亜省設立に、外務省との2元外交になると東郷外相が反対辞任した。
2.大東亜戦争開始直前近衛首相が、ルーズベルト大統領との直接会談を構想したとき反対したのが幣原外相ただ一人だった。外相を飛び越しての外交に反対した。
3.重光外相の繆斌(みょうひん)"工作も外務省から離れた非正規外交になるとの理由であった。
4.重光は戦後、東久迩内閣の外相だった時、GHQとの連絡を、外務省から内閣に移すとき、GHQ都の連絡は外務省がやるべきだと反対し辞任した。
繆斌工作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
繆斌 (1940年前後)
繆斌工作(みょうひんこうさく)とは、日中戦争末期の1945年(昭和20年、民国34年)3月から4月にかけておこなわれた、汪兆銘政権の要人繆斌(みょうひん、ぼくひん)による日中戦争の和平工作である。日本側の反対で工作は失敗に終わった[1]。佐藤と言う偽名を使って来日していたので佐藤事件とも呼ばれた。
経緯
対日協力政権である南京国民政府(汪兆銘政権)で立法院副院長の職にあった繆斌は、1943年(昭和18年、民国32年)8月から、蒋介石の重慶国民政府の軍統(軍事委員会調査統計局)の幹部や軍政部長の何応欽と連絡を取り合っている。彼は重慶政府の要人と連絡を取り合っていたことで南京政府より監禁されたことがあり、釈放後は逼塞していた[1]。
1945年3月、繆は蒋介石政権の密命を受けたとして訪日し、南京国民政府の解消と交換に日本軍の中国撤退や満州国の認知などを条件とする日中の単独和平交渉を日本の小磯内閣に提案した[1][2]。対米英戦争(太平洋戦争)において敗色濃厚となった日本では、連日の激しい本土空襲に苦しんでおり、繆斌の示した和平条件はかなりの好条件であった[1][2]。また日本の対米英開戦のそもそもの原因が中国問題にあったことから、この工作は対米英戦の和平につながりうるものとして期待された[2]。
小磯國昭
重光葵
この交渉を主導したのは小磯國昭内閣総理大臣や情報局総裁の緒方竹虎国務大臣らであり、天皇に近い東久邇宮稔彦王もこの和平工作に賛成していた。3月21日、小磯は繆斌を最高戦争指導会議に招致することを閣僚に提案し、当初はこの和平工作に陸海軍首脳も賛成の意向であった[2]。
ところが、重光葵外務大臣はこの工作に猛反対であり、内大臣の木戸幸一も重光を支持した[1][2][注釈 1]。重光外相は、非正規の外交ルートによる外交交渉に反対という原則論に加え、和平工作そのものにも激しい批判を加えた[2]。重光によれば、繆は「繆斌に蒋介石との繋がりはなく、日本の機密情報を持ち帰ってそれを手土産に?介石に寝返ろうとしているだけの和平ブローカー」として、それを示す情報を陸海軍首脳に提示した[2]。重光の反対を受けて、杉山元陸相と米内光政海相も見解を変更し、繆を通じての和平工作に反対した[4]。参謀総長の梅津美治郎も反対の意向を示した。
小磯首相はあくまで交渉の続行にこだわり、陸海外の3大臣が反対するなか、4月2日に昭和天皇に繆を引き留めることを上奏した[5]。しかしこれがかえって天皇の不興と不信を買った[1]。
昭和天皇の見解は「繆斌は汪精衛(汪兆銘)を見捨てた男である。元来重慶工作は南京政府に一任しているのだから日本が直接乗り出すのは不信な行為であるし、いやしくも一国の首相ともある者が蒋介石の親書も持って居ない一介の男である繆斌如き者の力によって日支全面和平を図ろうと考えるのは、頗る見識の無い事である。たとえ成功しても国際信義を失うし、失敗すれば物笑いとなる」というものであった[6]。4月3日、天皇は繆斌の帰国を小磯に指示、この工作の失敗を受けて、小磯内閣の不統一が露呈し、小磯首相は退陣するにいたった[1]。
繆がはたして?介石の密命を本当に帯びていたのかについては今日に至るまでさまざまな議論がある[1]。当時から和平ブローカー説、謀略説もある一方で、真に密使である可能性を主張する意見もあった[1]。たとえば彼が「私が東京に滞在中は、東京空襲はおこなわれないはずでしょう」という奇妙な発言を日本滞在中にしていたことを評論家・作家の戸川猪佐武らが指摘している。事実、彼の滞在期間中に東京への空襲は行われなかったという。また、戦後、頭山満の腹心だった南部圭助は?介石に対し、繆斌工作が?自身の指示で行なわれたことを直接確認したとしており、繆斌の長男である繆中もこの工作が正式な和平工作であったと証言している[7]。そうであれば、この工作は、日本の第二次世界大戦における和平工作のなかでも最も実現可能性の高い一つだったという見方も可能である。ただし、真相はどうであれ、上記の結果からすれば、繆斌の身分や資格・権限について、繆斌本人や小磯・緒方は、昭和天皇や重光ら反対派を納得させるだけのものを提示し得なかったことも確かである。
繆斌処刑の意味
日本敗戦後、中国では日本軍民に対する戦犯裁判とは別に、中国人の「漢奸(民族の裏切り者、売国奴)」を摘発して「漢奸裁判」を行い、汪兆銘政権の要人はその多くが銃殺刑に処せられた[8]。繆斌もまた、軍統により逮捕されている[注釈 2]。繆は獄中で『私の対日工作(原題「我的対日工作」)』を執筆して弁明しているが、1946年4月3日より江蘇高等法院で審理が開始され、わずか5日後の8日に敵国通謀の罪(いわゆる「漢奸」の罪)で死刑判決が言い渡されている。処刑は同年5月21日のことであり、「漢奸1号」としての死刑であった。判決から死刑執行までのスピードの不自然なまでの速さについては、単なる「漢奸」としての処断以外にも目的があったのではないかという見方がある。たとえば歴史学者劉傑や伝記作家鄭仁佳は、東京裁判において繆が和平工作の証人として呼ばれる動きを事前に察知した蒋介石による「口封じ」だったのではないかと推論している[10][12]。繆斌工作が明るみに出れば、蒋介石がカイロ会談で徹底した対日抗戦を主張しながら、その裏で日本との和平を目論んだことが露見し、自身の政治的立場が危うくなるわけである[10][12]。この推論が正しいとすれば、繆を通じての和平は蒋介石の真意だったことになる[10][12]。
脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ 重光葵の対重慶和平外交は、東条内閣時代の対支新政策を継承して、南京国民政府と重慶との関係改善を重視するものであった[1]。重光は、南京国民政府の首班汪兆銘が最も信頼を寄せていた日本の要人であった[3]。それに対し、小磯國昭は、繆斌工作に先立って宇垣一成を中国大使に起用し、重慶と直接工作を行う構想をもっていた[1]。重光のみるところでは、宇垣は南京政府に反対の立場からの重慶工作派であった[1]。宇垣の立場は、小磯首相・緒方国務相・美土路昌一などに近いものであり、重光支持派は、木戸幸一や杉山陸相などであった[1]。重光によれば、大東亜会議を支持した東条が重光外交のよき理解者であったのに対し、小磯は「対外的に何等の識見を有せぬ謀略家」にすぎなかった[1]。内閣の不一致は、繆斌の来日以前から小磯内閣に胚胎していたといえる。
^ 逮捕日は、現代中国では1945年9月27日とされることが多いが[9][10]、劉傑によれば1946年4月2日[11]、彌吉博幸によれば、1946年3月17日の戴笠(軍統指導者)事故死の直後[7](別資料では3月22日)である。
3.5 瀬島龍三 ソ連のエージェント(工作員)
)
何と、大本営にソ連のスパイがいた
フィリピン防衛戦を崩壊させた「情報の握り潰し」
ヤルタ会談の秘密情報の電報も握りつぶしている。(この電報はスエーデン駐在の、小野寺信陸軍少将からだった。ドイツ敗戦後3か月以内にソ連の対日参戦など含む)
レイテ沖海戦(10/24-10/25)前、台湾沖航空戦(10/12-10/14)があった。海軍は大勝利(空母19隻、戦艦4隻、そのほかの艦艇22隻撃沈撃破と発表した)アメリカ海軍全滅である。小磯内閣は戦勝祝賀会まで開催した。
大本営情報参謀、 堀栄三少佐は、鹿屋に出張し、数日間、搭乗員から直接聞き取りを行った。結果、「大勝利との情報は誤りで、撃破はせいぜい3隻でそれが空母かどうかもわからない」だった。堀少佐はその情報を大本営に打電した。大本営で電報を受け取ったのが、陸軍中佐、瀬島龍三だった。彼はこの情報を握りつぶした。彼は台湾沖航空戦の大戦果に基づいてフィリピン防衛戦を構築中であり、それに影響を与えるからであった。
フィリピン防衛戦の山下将軍は、ルソン島の山岳地帯で米軍を迎撃する方針だった。制空権がなくても戦えるからである。しかし、アメリカ機動部隊壊滅と信じた、大本営は、マッカーサーの上陸見込みのレイテ島に、戦力の移動を命じた。制空権がなく上陸してくる米軍を撃破できると考えたからである。結果山下将軍は2個師団と、1個旅団をルソン島からレイテ島に送られた。しかしその海上輸送の途中で、「壊滅」したはずの米空母機動部隊に、攻撃され多大な損害を受けた。山下将軍の
フィリピン防衛戦構想は崩壊した。
大本営情報参謀、 堀栄三少佐は大東亜戦争下、最優秀の参謀の一人と呼ばれ、精密な情報分析により、彼が言ったとおりに、米軍が常に出現するので、「マッカーサーの参謀」とあだ名されるほでだった。
瀬島龍三がこの情報を握りつぶしたのは瀬島がシベリヤ抑留から帰国した昭和33年、瀬島が堀を虎ノ門共済会館の地下食堂に呼び出して、「あの時君の電報を握りつぶした。これがフィリピン防衛戦構想を根本的に誤らせた。」といった。堀は情報が握りつぶされたことをこの時初めて知った。という。
瀬島はもう一つ、あまりに重大な、ヤルタ会談(1945年2月米英蘇3巨頭会談。ドイツ敗戦後3か月以内にソ連の対日参戦など含む。)の秘密情報の電報も握りつぶしている。ヤルタ会談の秘密情報はアメリカ、ルーズベルト大統領の急死により大統領となったトルーマン当時副大統領も、同年7月のポツダム会談までソ連の対日参戦密約を知らなかった極超秘密情報だった。この電報はスエーデン駐在大使館武官の、小野寺信陸軍少将からだった。
この情報の握り潰しは、日本に計り知れない影響をもたらした。
日本はこの対日ソ連参戦との情報を知らないがゆえに、あろうことか、ソ連に、和平仲介の愚を8月のソ連参戦まで続けた。ソ連の善意を期待し、満洲防備を放棄し、日本人の悲惨さを招いた。
小野寺信陸軍少将はこの情報をヤルタ会談の直後に得て、大本営に打電している。
大東亜戦争中の最大のインテリジェンス
活動の一つである。小野寺はこの情報をポーランドのロンドン亡命政府から得たとしている。
ちなみに渡部望「大東亜戦争を敗戦に導いた7人」(アスペクト)によるとその7人は次の通りである。
1.山本五十六 「必敗の精神」が生んだ奇襲攻撃と永続敗戦
2.米内光政 海軍善玉論に隠された「無定見」
3.瀬島龍三 個人と国家のギリギリの境界線に生きたエージェント(工作員)
4.辻政信 陰謀と謀略の味に溺れた「蒋介石の密使」
5.重光 葵 超一流の外交官が犯した唯一にして最大の錯誤
6.近衛文麿、井上成美 歴史の大舞台に放り出された、「評論家」の悲劇
ここに書いた情報は次の資料による。
1.昭和陸軍全史3(川田 稔著)を中心として
2.独ソ戦 大木毅著
3.なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか(祥伝社新書287)
加瀬 英明 、 ヘンリー・S・ストークス
4.あの戦争は何だったのか: 大人のための歴史教科書 (新潮新書)
保阪 正康
5.大東亜戦争を敗戦に導いた七人 単行本 ? 2015/6/26
渡辺 望 (著)
スパイでも反日でも帰化できる日本
アメリカ合衆国の市民権
新たにアメリカ合衆国市民となる移民はアメリカ合衆国に対して忠誠を誓う宣誓を行う。
Oath of Allegiance (忠誠の誓い)には、下記の内容が含まれている。
" アメリカ合衆国憲法への忠誠の誓い
" 以前保持したすべての外国への忠誠の放棄の誓い
" 国内外の敵からアメリカ合衆国憲法を守る誓い
" 法律が定めた場合、兵役に従事する約束
" 国家の大事の際、法律が定めた市民としての義務を果たす約束
日本への帰化条件
日本に忠誠の義務なし
住所条件 能力条件 素行条件 生計条件
喪失条件
(重国籍防止条件/国籍法第5条第1項5号)
在日本朝鮮人連盟
最古の国 日本
「まさかの発見に頭の中まっ白」弥生から明治まで2千年分、生活の痕跡残る遺構
2022/09/04 13:22 平安初期の史書「日本後紀」に水運拠点として登場する川港「 淀津(よどつ) 」の遺構が、桂川西岸(京都市伏見区)から見つかった。調査した京都市埋蔵文化財研究所を驚かせたのは、生活した痕跡が残る遺構面が時代別に10面確認されたことだ。水害を示す粗い砂の層はなく、弥生期から明治期まで2000年の間、人の営みが途切れなかったことがわかった。発掘時の様子や発見の意義を聞いた。(山口景子)
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220903-OYT1T50239/
韓国 仮想敵国・日本は90年代から続く国策か? 自衛隊機だけ照射
https://www.koreaworldtimes.com/topics/news/11995/
Tweet Share Hatena
カテゴリ: ニュース 配信: 2022/09/05 投稿: 青山 誠
申源G氏が仮想敵国=日本を明かす
6月23日、韓国第3歩兵師団警備監視所へ向けて山を登る米韓同盟軍 出典 在韓米軍
2018年の韓国海軍艦艇による自衛隊機へのレーダー照射事件は、日韓の大きな政治問題にまで発展した。
しかし、韓国軍はそれにひるむことなく、事件の2か月後には、強硬姿勢を堅持する方針を決めていたという。
今年8月18日に日本の朝日新聞が、元韓国軍合同参謀本部次長の申源G(シン・ウォンシク)氏にインタビューしてこの事実は明らかになった。
申氏によれば、2019年2月に韓国軍は、「日哨戒機対応指針」を定めた。その内容は、
「公海上で接近してきた自衛隊機に対し、通信などで2回の警告を行っても応じなかった場合、火器管制レーダーを照射して対抗するように」
と、いうもの。これは他の国々の軍用機には適用せず、あくまで、日本の自衛隊機だけを対象としたものだというから…、韓国軍は、北朝鮮やロシア、中国よりも日本を最も警戒すべき仮想敵国に想定していたということだ。
しかし、それは今に始まったことではない。