大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言
太平洋戦争におけるわが国の戦争被害
「世界から恐れられた7人の日本人」
「大東亜戦争の英雄の日本人1」
「大東亜戦争の英雄の日本人2」
「大東亜戦争の英雄の日本人6」
「大東亜戦争の英雄の日本人3」空の要塞B29撃破とB29撃墜王
「大東亜戦争の英雄の日本人4」陸軍エースパイロット撃墜数
「大東亜戦争の英雄の日本人5」海軍エースパイロット撃墜数
「大東亜戦争技術者」
「大東亜戦争技術者2」
「大東亜戦争石油」
日米開戦前日米交渉(アメリカが日本に実質的最後通牒(日本の南部仏印撤退などの譲歩案に))
中國技術
中國技術張り子のトラ
中國技術
中國技術張り子のトラ
中國技術
中國技術張り子のトラ
中国の科学者が「自国の論文を引用しまくる」のが科学の国際ランキングをゆがめているとの指摘
学術論文の影響力の定量化には、論文がほかの論文に引用された回数である「被引用数」が用いられています。「日本の研究はもはやワールドクラスではない」と科学誌のNatureが指摘する一方、中国は被引用数でアメリカを追い落として世界的なリーダーとなっていますが、これには中国の科学界が抱える「後ろ暗い慣行」の影響があるのではないかと、Natureとともに三大科学誌のひとつに数えられるScienceが論じました。
China's scientists often cite work from their own nation. Is that skewing global research rankings? | Science | AAAS
https://www.science.org/content/article/china-s-scientists-often-cite-work-their-own-nation-skewing-global-research-rankings
ある国で研究をしている科学者が、自国の論文を引用しがちなことは、以前からよく知られています。しかし、2024年に相次いで発表された個別のレポートにより、自国びいきに関しては中国が特に際立っていることが浮き彫りになりました。
分析のひとつは日本の科学技術・学術政策研究所(NISTEP)が2024年8月に発表したものです。「科学技術指標2024」の中で研究者らは、世界的な引用データベース・Web of Scienceに記録されている10億件以上の被引用数を調査した結果、中国で発表された上位10%の論文の引用数のうち62%が国内からのものだったと報告しました。
中国の引用が自国に偏っているのには、明るい側面と暗い側面の両方があります。広島大学高等教育研究開発センターの黄福涛氏によると、中国の研究者が自国の論文をよく引用するのは「質の高い研究をどんどん発表しているから」とのこと。加えて、中国の研究機関の多くが「影響力のある学術誌への掲載を戦略的に重視している」のも理由のひとつです。
また、中国・復旦大学の科学政策の専門家であるリー・タン氏は、国内で行われている研究への関心が高い中国の研究者人口が急速に増加していることや、コネを意味する「関係(guanxi)」という文化の存在を指摘した上で、「これらの要因が相互に影響し合い、中国の国内引用の頻繁さに寄与しています」と述べました。
その一方で、Scienceが「後ろ暗い慣行」と形容する実態も示唆されています。例えば、「引用スタッキング」という戦略では、科学者が同僚に恩を売ったり、研究機関の名声を高めたりすることを目的に、自分の論文とは関連性の低い研究がよく引用されているとのこと。
NISTEPの分析では、正当な引用と不必要な引用とを区別していません。また、欧米の研究者が中国の論文を引用するケースが増えていることも判明しています。このことは、中国が非常に影響力のある研究を行っていることを示唆していると、NISTEPのアナリストである村上昭義氏は指摘した上で、「中国における国内引用の割合の高さは、国際比較やランキングを考える際に留意すべき点です」と述べました。
ドイツの分析でも、同様の結果が出ています。ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンのクラウディア・シュタインヴェンダー氏らは、中国の国内引用の偏りが世界ランキングにどのような影響を与えているのかを定量化するために、20の幅広い科学分野で上位10%を占める科学誌461誌を特定し、2000〜2021年に刊行された号から2億を超える引用論文のペアを抽出しました。
その結果からシュタインヴェンダー氏らは、中国で発表された論文の引用数の57.2%は国内からであり、これは調査対象国の中で最大の割合だったと報告しました。比較すると、次点のアメリカは37.1%で、インドの26.8%、イランの24.8%、日本の21.7%がこれに続きました。
シュタインヴェンダー氏によると、大国には引用される可能性のある研究者がたくさんいるので、大国ほど国内引用の割合が高くなるのは自然だとのこと。
しかし、大国ほど引用数が増える「規模のバイアス」を踏まえた分析を行ったところ、中国の国内引用の割合は規模から予想されるよりも大きいことがわかりました。また、バイアスを補正して被引用数ランキングを作ると、中国の順位はアメリカ、イギリス、ドイツに次ぐ第4位にまで転落してしまうとの結果も得られました。
こうした分析結果から、シュタインヴェンダー氏らは2024年5月に発表したレポート「張り子の虎か?中国の科学と引用における国内偏向(Paper Tiger? Chinese Science and Home Bias in Citations)」の中で、「中国の引用ランキングの上昇は誇張されている」と結論づけました。
アメリカ・オハイオ州立大学で科学政策学を研究しているキャロライン・ワグナー氏は、Scienceに対し、「不正や盗用、低品質なオープンアクセスジャーナルにより、私たちが研究の成果や影響力を評価するために長年使用してきた被引用数という指標が完全にゆがめられています。これらのデータは、自画自賛のために問題なだけではありません。科学者のキャリアや、研究プロジェクトが共同研究者や学生を引きつける力、国の資金配分の優先順位にも影響するので、被引用数を正確に評価するのはこの分野における課題のひとつとなっています」とコメントしました。
重要論文G7最下位…九大 藤木幸夫氏が警告「日本からノーベル賞は出なくなる」の真意 連載:基礎科学者に聞く、研究の本質とイノベーション|ビジネス+IT
https://www.sbbit.jp...article/cont1/149777
2024/10/22 掲載
日本の科学研究は危機的状況に陥っている。引用率トップ10%に入る重要論文数はG7の中で最下位、世界12位にまで落ちてしまっている。こうした状況に対し、オルガネラの1つであるペルオキシソームの研究で世界的に高く評価されている九州大学の特別主幹教授・名誉教授 藤木 幸夫氏は「ノーベル賞受賞者がずっと輩出されてきた状況は、現状のままでは厳しくなる」と警鐘を鳴らす。そこで今回、藤木氏に、日本の基礎科学が置かれている現状と課題などについて語ってもらった。
協力:公益財団法人 大隅基礎科学創成財団
九州大学 高等研究院 特別主幹教授 藤木 幸夫氏
1948年生まれ、福岡県出身。1976年、九州大学大学院農学研究科博士課程修了。米コーネル大学博士研究員、米ロックフェラー大学助教授、明治乳業ヘルスサイエンス研究所主任研究員および研究室長を経て、1994年に九州大学教授。2014年に九州大学名誉教授。2021年に兵庫県立大学特任教授、2024年に九州大学高等研究院特別主幹教授。日本学士院賞(2023年)など数々の受賞歴を持つ。
<目次>
1.なぜ、藤木氏の研究は世界に勝てた?
2.興味・関心から研究を始める「若い研究者が減っている」
3.重要論文数“G7最下位”…日本に何が足りないのか?
4.今のままでは「日本からノーベル賞受賞者が出なくなる」
前編はこちら(この記事は後編です)
「10万人に1人の難病」大解明、「認知症予防」にも関係する構造を九大 藤木氏に聞いた
https://www.sbbit.jp...article/cont1/149776
「10万人に1人の難病」大解明、「認知症予防」にも関係する構造を九大 藤木氏に聞いた
連載:基礎科学者に聞く、研究の本質とイノベーション
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生物の細胞内に存在する核、ミトコンドリア、ゴルジ体などの小器官を総称して「オルガネラ」と呼ぶ。オルガネラは、それぞれが独自の機能を持ち、相互作用しながら細胞の機能を維持する重要な役割を果たしている。そのオルガネラの1つである「ペルオキシソーム」の研究で、世界的に高い評価を受けているのが、九州大学 高等研究院 特別主幹教授である藤木 幸夫氏だ。同氏は10万人に1人以上の確率で発症するとされているペルオキシソーム欠損症という難病の原因と発症メカニズムを解明した。これらの研究は実は、アンチエイジングや認知症予防にも寄与している。そこで今回、その興味深い研究内容などについて、藤木氏に話を聞いた。
協力:公益財団法人 大隅基礎科学創成財団
photo
図のAの写真がペルオキシソーム欠損症の乳児。図のBは本症患者由来の皮膚細胞をカタラーゼ抗体(α-catalase)を用いて染色した顕微鏡写真像。健常者の細胞では顆粒状に染色されたペルオキシソームが無数に観える(a)が、患者細胞では認められない(b)
(メカニズムなどについては後ほど解説します)
(出典:藤木氏提供)
<目次>
世界が評価した「10万人に1人の難病」解明
「認知症予防」や「アンチエイジング」にも貢献
既存研究にもたらした「パラダイムシフト」
思い切って声をかけた「ノーベル賞」博士との出会いが転機に
「一生をかけて解明」、決意を固めて日本で研究
世界が評価した「10万人に1人の難病」解明
──(大隅基礎科学創成財団 理事 野間 彰氏)藤木さんは、生物の細胞内に存在するオルガネラの1つである「ペルオキシソーム」の研究で高い評価を受けました。研究の概要を教えていただけますか。
藤木 幸夫氏(以下、藤木氏):ペルオキシソームは脂肪酸のβ(ベータ)酸化や活性酸素の除去といった細胞の代謝機能を担うオルガネラです。ただし、その形成・構築のプロセスはよく分かっていませんでした。当初は小胞体から作られる(出芽する)と考えられていましたが、検証の結果、それとは異なる仕組みで形成されていることを突き止めました。
画像
九州大学 高等研究院 特別主幹教授 藤木 幸夫氏
1948年生まれ、福岡県出身。1976年、九州大学大学院農学研究科博士課程修了。米コーネル大学博士研究員、米ロックフェラー大学助教授、明治乳業ヘルスサイエンス研究所主任研究員および研究室長を経て、1994年に九州大学教授。2014年に九州大学名誉教授。2021年に兵庫県立大学特任教授、2024年に九州大学高等研究院特別主幹教授。日本学士院賞(2023年)など数々の受賞歴を持つ。
また、ペルオキシソームの形成に必須の数多くの因子(ペルオキシン)を発見し、ペルオキシソームが欠損するペルオキシソーム欠損症の病因遺伝子を網羅的に解明して、その発症メカニズムを明らかにしました。
──ペルオキシソーム欠損症とはどのような病気か教えてください。
藤木氏:細胞内にあるペルオキシソームに(形成障害)が発生して、機能障害を起こす遺伝性代謝疾患の総称です。発症確率は10万人に1人と言われていましたが、仕組みを解明した後、その確率は実はもっと高いのではないかとも言われるようになりました。
生活習慣の中で発症することはなく、遺伝子の変異によって発症します。重症なものでは、特徴的な顔つき・体つきや、筋力を含めた発達の遅れなどの症状が見られ、ほとんどは乳児期に亡くなってしまいます。
「認知症予防」や「アンチエイジング」にも貢献
──研究成果の社会的な意義や価値について、お聞かせください。
【次ページ】「認知症予防」や「アンチエイジング」にも貢献
1
民族で読み解く世界史、宇山卓栄、現代の中国人はモンゴル人の末裔2018
民族で読み解く世界史、宇山卓栄、現代の中国人はモンゴルの末裔2018
隋、唐、宋、元、清は北方民族の帝国。漢民族は、秦、漢、晋のみ。現代の漢人は始皇帝、孔子、劉備の子孫ではない
中国、現在の漢族は漢帝国、三国志、始皇帝の漢族ではない岡田英弘2015
隋、唐時代の中国人はもはや、二世紀末にほとんど絶滅した、秦・漢時代の中國人の子孫ではない。
北方から移住した、遊牧民、狩猟民の子孫が入れ替わった。だから現代の中国人、漢族こうして、中国の新しい時代が始まった。は、もともと非漢族の子孫なのだ。
習近平の先祖は、始皇帝時代の漢族ではないのである。
羅針盤・火薬・紙・印刷の4つは古代中国の4大発明と呼ばれている。
中国の4大発明は漢民族王朝の孔子、始皇帝、漢、晋の時代までに発明されている。
紙と印刷の発明がこの中で早かった。印刷は唐の時代の中国の記録があるが、布地のプリント染色は220年以前のものが残存している[15]。羅針盤の発達を正確に追跡するのは困難だが、針と磁石の引き合いは20年-100年頃に編纂された『論衡』で検証されている[16]、中国文学に磁針が初めて登場するのは1086年である[17]。
匈奴(トルコ)、鮮卑、姜 などの五胡流入
晋 280年 漢族、五胡流入で人口、 1616万人に回復
晋代(265年-420年)の建武元年(317年)には錬金術師の葛洪が硝石・松脂・木炭を一緒に加熱したときに生じる化学反応を自著『抱朴子』に記録している[18]
chinaminzokubunpu
中国政府は中國は56の民族から構成されており、そのうち92%は漢族だといっている。(左下:円内は少数民族の分布)しかしその漢族とは、孔子、秦の始皇帝、漢帝国、曹操、孫権、劉備玄徳、諸葛孔明の三国志の漢族ではない。北魏などの5胡16国時代に、モンゴル族に、徹底的に混血された、ハイブリッドの漢族なのだ。ブラジルやメキシコではでは白人とインディオの混血をメスティーソ、白人と黒人の混血をムラートというがそれなのだ。
gishinnanboku
魏、呉、蜀の三国時代は司馬懿が魏を乗っ取って晋を作り三国統一した。その秦もすぐ、モンゴル勢力に滅ぼされ、中國中原は、5胡16国時代になった。それが隋、唐と続いた。
gishinnanboku
モンゴル族の北魏は、激烈な婚姻政策をとった。同民族内の婚姻を許さなかった。モンゴルの男は漢族の女を妾として、性奴隷にした。モンゴル人の男一人当たり何十人もの漢族の女を妾にした。漢族の男は何十人に一人しかモンゴル人の女と結婚出来なかった。この状態が2-3百年続き純血の漢族は中國中原にはいなくなった。人口比で相手がいなかった。皆モンゴル族との混血となった。
ただし帆木々は、モンゴル族の漢族文化への統合政策であり、モンゴル族の文化(胡伏、モンゴル語)を捨て、漢族文化、漢字文化に同化することであった。
gishinnanboku
soutyokyoin
唐が滅びた後中國を統一した、宋帝国之皇帝趙キョ胤は自分は漢族を称したがトルコ(突厥)人王朝後唐の将軍だった。宋はトルコ人沙タ族の創った王朝です。
hokugi
chugokuOutyouminzoku
中國主要統一王朝の民族
秦→漢→晋→隋→唐→宋→元→明→清の統一王朝のうち、
漢人の王朝は、秦、漢、晋、明のみ。
隋、唐、宋、元、清は北方、モンゴル、満洲族。
しかし明や現代の中国の漢族とは、孔子、秦の始皇帝、漢帝国、曹操、孫権、劉備玄徳、諸葛孔明の三国志の漢族ではない。北方族との混血民族である。
征服北方民族は、元を除いて漢字文化を維持した。
元皇帝フビライは漢字を公用語と認めず、チベットの仏教のラマ教を信じていたのでチベット文字を基礎とするパスタ文字を作り、これを公用文字としました。元は科挙も廃止した。
元は、モンゴル人、色目人、漢人、南人の序列を造り官僚等の支配階級はモンゴル人と色目人が占めました。色目人とは、中央アジアやイラン出身の異民族です。
漢人は、華北の中国人、南人は南宋の支配下にあった、中国人です。南人は最も差別されました。
sinaoutyounoti
隋と唐はモンゴル人鮮卑族の作った王朝です。
国力を上げるために南北朝時代の、中國南部の人材を公平に活用すべく、実力試験の「科挙」を始めました。
筆記試験で、古代孔子の時代の、教養を問うものでした。
宋の時代、朱氏学が大いに活用されました。元は漢族文化の「科挙」を廃止しました。明の建設者、明の皇帝、漢人の朱元璋は「科挙」を復活しました。
試験の結果を見て、朱元璋
はびっくりしました。
合格者は、南宋の時代の漢人ばかりだったからです。朱元璋は不正があったとみて皇帝自ら調査しましたが不正は見つかりませんでした。
科挙は古代の漢人文化の素養であり、黄河流域の漢人は、モンゴル人との混血であり、
すでに漢族古代文化には、素養がなっかたから当然の結果でした。
minkakyo1
minkakyo2
tyousenzenpoukouenpun
朝鮮半島の南西部(現在の全羅南道、全羅北道)には前方後円墳が十数基分布している。日本の仁徳天皇等の前方後円墳より新しい時代のものである。
この事は、この時代(5世紀から6世紀)朝鮮南部は日本の支配下にあったと考えられる。
高句麗の広開土王の碑や日本書記の雄略紀、欽明紀、の任那の日本府に対応し、応神天皇の母、神功皇后の三韓征伐の記述にも対応している。
hakusukinoewar
百濟は日本の属国でしたが、新羅と唐の連合軍に攻撃され660年、滅びました。
百濟からの百済再興の要請が日本にあり、人質だった百済の王太子、豊璋王を擁立して、、日本政府は百済援軍を、起こします。唐軍は13万の、新羅軍5万、合計18万大軍といわれています。日本は4.7万の兵を送ります。
時の天皇、斉明天皇(中大兄皇子の母)自ら軍を率いて、出陣します。天皇が自ら兵を率いて、外征するのは日本歴史上、この時の1件だけです。
斉明天皇は大阪難波の宮を出て、文武百官を従えて、瀬戸内海を通り、福岡県の現在の朝倉市に向かいました。しかし朝倉の宮で急死します。原因不明でした。
日本軍の指揮は、中大兄皇子(のちの天智天皇)がとりました。
しかし日本軍は、663年、白村江(はくすきのえ)の戦で大敗北を喫しました。
日本がなぜこの敗北必死の戦いを挑んだのかいろんな説がありますが、
はっきりしていることは、この百濟の滅亡は、「遠い外国での話」ではなかったのです。
事実上自国の領土での戦いだったのです。300年間維持してきた朝鮮半島の自国領土の戦いであったのです。白村江の敗北で日本は朝鮮半島での利権をすべて失いました。しかも唐が日本攻撃するかもしれないという危機感がみなぎりました。
そこで日本は九州に防御陣地を創りました。現在に残る大野城、基肄城、水城(堤防を築きその上流に水をため、敵が来たら、堤防を切って水攻めにする:現存)
、そして、、防人の登場です。万葉集にたくさんの歌を残した、防人です。唐は日本遠征をしませんでした。先に高句麗を攻撃し、滅ぼしたのです。
朝倉の宮:福岡県朝倉市、筑後川右岸。福岡市から50KM、唐軍が遠征して上陸しても内陸で防御できる地を選んだ。神功皇后も熊襲征伐のためこの近辺まで出陣した。
「朝倉や 木の丸殿に我居れば 名乗りをしつつ 行くは誰が子ぞ」(斉明天皇)『新古今和歌集』
秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ 百人一種(中大兄皇子:天智天皇)
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 額田の大君
日本軍が瀬戸内海の四国の熟田津(松山)に駐留し、九州に出発するときの歌。
朝倉の宮:
板を敷き、芦の簾を掛け、苫をふき、あばらなる屋に、塊を枕にし、1日を1ヶ月にかえて12日間、母君の喪に服されたと伝えられています。 そのことからこの地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになりました。 現在、陵上には石柵が巡らされ、中央の塔石には「斉明帝藁葬地」と刻されています。 喪に服された皇太子は、 「朝倉や 木の丸殿に我居れば 名乗りをしつつ 行くは誰が子ぞ」『新古今和歌集』
【公式】恵蘇八幡宮:木の丸殿
『日本書紀』に記載された白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。
天智天皇2年(663年):白村江の戦いで、倭(日本)・百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗した。
天智天皇3年(664年):対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人と烽(とぶひ)を配備し、筑紫国に水城を築く。
天智天皇4年(665年):長門国に城を築き、筑紫国に大野城と基肄城を築く。
天智天皇6年(667年):大和國に高安城・讃岐国に屋嶋城・対馬国に金田城を築く。この年、中大兄皇子は大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇となる。
国内の内紛に乗じた唐・新羅の挟撃
高句麗は長らくこれに耐えたが、 660年 には百済が唐に滅ぼされ、新羅も唐と結んだことで南北から挟まれた。 そして国内の内紛に乗じた唐・新羅の挟撃によって 668年 に滅ぼされ、唐に吸収されて 安東都護府 が設置された。
asakuratizu
朝倉の宮位置、ここで中大兄皇子は百濟派遣軍の指揮を取った。
konomaruden1
斉明天皇の宮殿朝倉の宮
konomaruden2
朝倉の宮
asakuramiya1
朝倉の宮
tatibanahironiwa
朝倉の宮、橘の広庭
mizukimap
水城、御笠皮をせき止めて水城とした。
水城の構造は、博多湾側から順に
外濠:幅60m
土塁:下層[幅80m]・上層[幅20m]
内濠:幅4.5〜10m
となっており、総幅150mにもなる巨大な城壁でした。日本書紀には「筑紫に大堤を築きて、水を貯えしむ。名づけて水城という。」と記されており、外濠には水が貯えられていたようです。
mizuki1
水城
mizuki2
水城
tungusu
ツングース、北方民族。現在の朝鮮半島の民族。
daikanminkoku
現在の大漢民族の、地方区分。現在でも、新羅(慶尚道)と百濟(全羅同)は犬猿の仲。
tyousenshihai
朝鮮統一王朝の、支配層民族。
新羅:韓人。高麗:満洲人、李氏朝鮮:満洲人。
sesou
李氏朝鮮第4代王の世宗ハングルを創った
sesou
「李氏朝鮮」は国号ではない。朝鮮というのは国号ではなく、地域名です。中國、明に服属、後に清に服属
sesou
李氏朝鮮は清に反抗したのち征服されたので、
「三田渡の盟約」を結び奴隷となった。
三田渡の盟約:
清の使節を李氏朝鮮王は
三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)で迎恩門で迎え、
朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと
。 朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清国へ引き渡すこと。
王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること。
日本との交流を許すこと。
清国に対して黄金100両・白銀1000両と20余種の物品を毎年上納すること。
清国に対して牛馬3000頭、美女3000人を毎年上納すること
この和議で朝鮮は清の属国になる
実際、ソウルにあった碑に書かれていたこと。
(今は恥ずかしくて隠している)
1)愚かな朝鮮王は偉大な清国皇帝に逆らった。
2)清国皇帝は、愚かな朝鮮王をたしなめ、この大罪を諭してやった。
3)良心に目覚めた朝鮮王は、自分の愚かさを猛省し、
偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。
4)我が朝鮮は、この清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に 逆った愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする
清国に
美女3000人を毎年上納すること
geionmon
迎恩門ここで、三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)
sankikyukoutounorei
三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)
tijokuhi
「三田渡の盟約」韓国では恥辱碑という。この碑、李氏朝鮮の清国へのお詫びの文書が、表に漢文、と裏に満州語で記されている。清国に
美女3000人を毎年上納すること等である。
dokuritumon
韓国人の多くは日本からの独立を祝った門と思っている、が日清戦争の結果、朝鮮が清国から独立を、記念して建てられたもの、この時、迎恩門を壊し、その跡地にこの独立門ができた。
日本からの独立と思って独立門で祝う韓国大統領
yuropa3keireru
ヨーロッパ人の3系列分布:ゲルマン、ラテン、スラブ
romadoreiitiba
ローマ帝国の奴隷市場
romateikoku
カール大帝時代のヨーロッパ、地中海
gerumanidou
ゲルマン人の移動
normanjin
ノルマン人の国家建設
angurosaxon
アングロ・サクソン人の移動
hakujinAsiajin
白人とアジア人の頭型
hokuoutouougengo
北欧・東欧の言語系統、フインランド、エストニア、ハンガリー葉アジア人系統
euro14c.
14世紀の東ヨーロッパ
basktokatarunia
スペインのバスク州とカタルーニア宗(独立運動が盛ん)
timuruindohe
チムール(モンゴル人)のインド侵入
iranjin
イラン人の王国推移。
@紀元前6世紀-紀元前4世紀:アケメネス朝ペルシア
アレキサンダー大王のペルシア征服、ヘレニズム時代(ギリシア人)
。A紀元前3世紀-紀元3世紀:パルチア
B紀元3世紀-紀元7世紀:ササン朝ペルシア
islamEurohe
イスラムのヨーロッパ侵入、イベリア半島経由
artaigozoku
アルタイ語族の3系列
torkojinidou
トルコ人の移動ルート。
トルコの起源は、蒙古高原の突厥です。統一王朝は、552年です。トルコ共和国は、1952年突厥王朝紀元1400年を祝いました。蒙古高原から700年かけて中央アジアを経て、現在のトルコに到着しました。中央アジア、5か国や、中国の新疆も含めてみんなトルコ族、トルコ語です。
トルコは勇猛果敢な民族です。
asiajinEurophe
アジア人、ヨーロッパへ
torkojinidou
トルコ人の移動
hebrai
ヘブライ
yudayajin
ユダヤ人
ユダヤ人の3系統
islael
イスラエル
gazayordanw
ガザ、ヨルダン
hattentojoukoku
発展途上国。世界第二位の中國も発展途上国とは
経済ですごく優遇されている。
higashiyurashiagozoku
東ユーラシアの主な語族(人種:モンゴロイド)
indosina
インドシナ半島の2つの種族
2vetnam
ベトナム
myanmar
ミャンマー
indosina
インドシナ半島の3つの勢力
rohingya
ロヒンギャ難民
nanbokuamerika
南北アメリカ大陸の2大文明圏
astekamaya
アステカ、マヤ文明
inka
インカ文明
spainjinseihukuRt
スペイン人之征服ルート
jinruikakusan
人類拡散
jinruinoshinka
人類の進化
Africa
アフリカ
Africa4gozoku
アフリカ4語族
mongorteikoku
モンゴル帝国の版図
クビライは日本へ使節を派遣するのと同時期に「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」[66] と明言し、高麗の造船により軍船が整えば「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」[67] と述べるなど、南宋征服と同様に日本征服の意志を表明している。
歴史小説家・陳舜臣は、冒頭の「朕が思うに、いにしえより小国の君主は国境が相接していれば…」の「小国」は日本を指し、最後に「兵を用いることは誰も好まない」と武力で脅すなど、歴代中国王朝国書と比較しても格段に無礼としている。
mongorteikoku
蒙古軍の日本攻撃
戦争:文永の役
場所:日本、九州北部
結果:日本の勝利
モンゴル帝国(元朝)・高麗連合軍の撤退
交戦勢力
鎌倉幕府
元
高麗
蒙古軍
軍船 726〜900艘
兵員総数 27,000〜39,700人[12]
年月日:1274年11月4日-19日
(文永11年10月5日-20日/至元11年10月5日-20日)
総数 27,000〜39,700人[12]
蒙古・漢軍 15,000[13]〜25,000人[6][14][15]
高麗軍 5,300?8,000人[16]
高麗水夫 6,700人
軍船 726〜900艘
千料舟 126[17]?300艘
バートル(抜都魯)軽疾舟 300艘
汲水小舟 300艘[18]
蒙古軍損害
不帰還者 13,500余人[23]
戦闘による両軍戦死者多数[20]
座礁船 約150艘
(日本側が確認できた数)
対馬1艘、壱岐130艘、小呂島2艘、志賀島2艘、宗像2艘、カラチシマ3艘、アクノ郡7艘および壱岐3艘[19]
指揮官
東征左副都元帥 劉復亨負傷
管軍万戸 某投降
高麗軍左軍使 金?溺死
公安の役:
第二次大戦を含めて、現在まで史上最大の艦隊
場所: 日本、九州北部
結果:日本の勝利
モンゴル帝国(元朝)・高麗連合軍の壊滅
交戦勢力
鎌倉幕府
元
高麗
公安の役:第二次大戦を含めて、現在まで史上最大の艦隊
年月日:1281年6月8日-8月22日
(弘安4年5月21日-閏7月7日/至元18年5月21日-8月7日)(1281年)
蒙古軍 400,000人 軍船 4,400艘
『元史』阿剌罕伝では蒙古軍 400,000人 [32]
東路軍 40,000[33][34]?56,989人[35]
蒙古・漢軍 30,000
高麗軍 9,960
水夫 17,029[36]
江南軍 100,000人[37]
水夫 人数不詳[38][39]
軍船 4,400艘
東路軍軍船 900艘[17][40]
江南軍軍船 3,500艘[37]
対馬の惨状
??『日蓮書状』、高祖遺文録[143]
この文書は、文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立て、あるいは捕虜としたとしている。
この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜として獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた[144]。
同様に元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)は、文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)に献上している[145]。
壱岐侵攻
10月14日、対馬に続き、元軍は壱岐島の西側に上陸[146]。壱岐守護代・平景隆は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、景隆は樋詰城で自害する[146]。
蒙古軍損害
不帰還者
84,000〜141,290人[41][42][43][44][45]
高麗兵・東路軍水夫不帰還者7,592人/生還者19,397人[36][46]
捕虜
20,000〜30,000人[47]
指揮官
招討使 クドゥハス(忽都哈思)戦死
東征左副都元帥 アラテムル(阿剌帖木兒)溺死
郎将 康彦戦死
郎将 康師子戦死
asiajinidou2nami
goitiboueki
shinteikoku
bijinnoooitihou
osmanteikoku
euro14c
basktokatarunia
kurdojin
natinalism
4daijinshukubun
jinshuminzokukokumin
sekaiGozoku
sanscritLetter
ariajin
chugokuOutyouminzoku
sinahogen
shinahogen2
hokugi
sinaoutyounoti
minkakyo1
minkakyo2
chugokuOutyouminzoku
spain
torcoMongol
malaca
戦争と経済小野圭司2024米のニューディール政策は効果がなかった
兵術は算術?エピソード満載の金と戦いの物語。
アメリカが大恐慌から復活したのは、ルーズベルトのニューディール政策ではない。第2次世界大戦に参戦したから。
現代の戦費、災害活動費
戦争:フォークランド戦争、湾岸戦争、イラク戦争、東日本大震災比較
動員兵力、万人;英軍26、米軍、66、米軍44,自衛隊、10.7
戦費億ドル2011年換算):27,994,399,19:
主力艦の価格と政府支出比
国:船種、艦名、竣工年、対政府支出比率、備考
英:戦艦、ビクトリー、1778年、0.4%
米:外輪フリゲード、サスケバナ、1850年、1.8% 、ペリーの黒船
日:フリゲード、開陽丸、1866年、3.0%
英:前弩級戦艦、フォーミダブル、1901年、0.5%
日:前弩級戦艦、三笠、1902年、4.4%、日本海海戦旗艦
英:弩級戦艦、ドレッドノート、1906年、1.2%
日:超弩級戦艦、陸奥、1921年、3.8% 、太平洋戦争
米:超弩級戦艦、コロラド、1923年、0.8%、太平洋戦争
英:超弩級戦艦、ネルソン、1927年、1.0%
日:空母、瑞鶴、1941年、1.0%、太平洋戦争
日:超弩級戦艦、大和、1941年、1.4%、太平洋戦争旗艦
米:原子力空母、エンタープライズ、1961年、0.46%
日:護衛艦、いずも、2015年、0.12%
米:原子力空母、ジェラルド.フォード、2017年、0.33%
英:空母、クイーン.エリザベス、2017年、0.39%
現代の戦費、災害活動費
現代の戦費、米のニューディール政策は効果がなかった
有名な戦時標語、贅沢は敵だ(1940年)。欲しがりません、勝つまでは(1942年)。は日本だけではなかった。
アメリカでも、STOP Waste(無駄を省け) 第二次大戦
カナダ、 Waste Not,
Want Not (無駄をしない、欲しがらない)第一次大戦
腹が減りすぎたドイツ (第一次大戦)
ドイツの民間消費は1914年の戦争勃発後、戦前の40%、落ちた。英、仏は10%程度減少、ロシアは1917年の革命時、40%低下、
現代の戦費、iraqWar災害活動費
現代の戦費、災害活動費saikinsenpi
現代の戦費、災害活動費gunkanGDP
現代の戦費、災害活動費iraqWar
現代の戦費、災害活動費senpi
古代から近世にかけて、西欧の財政支出に占める軍事支出の割合
国名:時代;比率%
ローマ帝国、1-3世紀。68-70%
イングランド、1401-1407年、24-47%
イングランド、1610-1630年、10-17%
フランス、1688-1715年、28-67%
イングランド、1691-1717年、64%
ピエモント(トリノ)、1700-1713年、78%
ロシア、1705-1708年、87%
、
プロイセン、1713-1739年、68-83%
イングランド、1716-1789年、48%
イングランド/英国、1790-11815年、56%
プロイセン、1805-1806年、75%
英国、1816-1820年、37%
近代の主な戦争(19世紀半ば以降)
戦争(年代):国名;動員兵力(万人)、戦費/GDP
クリミア戦争(1854-1856)
英、11万、3%
仏、31万、3%
露、89万、n.a
土、17万、n.a
南北戦争(1861-65)
北軍、269万、11%
南軍、100万、n.a
普仏戦争(1870-71)
プロシア、149万、8%
フランス、200万、8%
日露戦争(1904-05)
日、120万、22%
ロシア、137万、7%
第一義大戦(1914-18)
英、570万、40%
仏、790万、45%
露、1580万、60%
伊、560万、50%
米、430万、15%
日、7万、1.5%
独、1320万、30%
オーストリア、900万、25%
トルコ、300万、n.a
現代の戦費、災害活動費minkanshouhi2ndWW
第二次大戦での実質民間消費
日本はシナ
事変から、終戦(1945年)まで、40%減っている。とくに1944年から45年に減少した。
ソ連は、独ソ戦開始で60%減少した。
ドイツは、第一次大戦の空腹を覚えていたので、ナチスは占領地から食料を調達し、自国民に供給した。から、
現代の戦費、災害活動費sensotoGunjihi
近代の主な戦争(19世紀半ば以降
戦争(年代):国名;動員兵力(
クリミア戦争(1854-1856)、英
、仏、31万、3%
現代の戦費、災害活動費sensoutogunjihi
、露、89万、n.a
、土、17万、n.a
戦争(年代):国名;動員兵力(
クリミア戦争(1854-1856)、英
、仏、31万、3%
現代の戦費、災害活動費sensoutogunjihi
、露、89万、n.a
、土、17万、n.a
南北戦争(1861-65)北軍、269万
、南軍、100万、n.a
普仏戦争(1870-71)、プロシア
現代の戦費、災害活動費Gdphi2ndww
現代の戦費、災害活動費Gdphi2ndww
第二次世界大戦の参加国の機材負担
戦費名目米ドル1990年価格換算10億ドル、
戦争:期間:国:参加機関:GDP(1942年値):動員兵力:戦費:戦費/GDP
戦争日華事変、53か月、日、1937-1941、(170)、120万、160,17%
第二次世界大戦、72か月、1939-1945
英、1939-1945,370,620万、970,45%
ソ連、1939-1945,280,2500万、650,50%
米、1942-1945、1320,1490万、1870,40%
独、1939-1945,410,1250万、990,50%
伊、1940-1943,150,450万、120,20%
日、1941-1945、210,740万、280(390),45%(65%)
主要戦争の賠償金比較
戦争:賠償金支払い国:賠償金支払い、期間:賠償金/GDP比、GNP比
ナポレオン戦争、フランス、1819-1819年、18-21%
普仏戦争、フランス、1871年、20%
日清戦争、清国、1895-1898年、(約5%)
第一次大戦、ドイツ、1923-1931年、81%(188%)
第二次大戦
ドイツ、1953-1965年、7.7%、ドイツで米軍は軍票を使用した、独軍が崩壊していたため
イタリア、1947-1965年、1.1%
日本、1955-1976年、6.0%(経済協力含む)日本では米軍は軍票を使用しなかった。日本軍が戦場で頑強に抵抗したため
現代の戦費、災害活動費kinhoyuudaka
現代の戦費、災害活動費kinhoyuudaka1stww
現代の戦費、災害活動費sekiyuSenpakuSouhiJ
太平洋戦争時の、日本の、船舶、石油事情と、日本人の栄養摂取量。
船舶建造量、とアメリカの雷撃による沈没糧、はすでに昭和17年から損失が大きかった。
船舶建造量は増えたが、米軍の撃沈に間に合わなかった。おかげで、東南アジアからの、石油の輸入もできなかった。石油在庫量は開戦時の4300万bbl
が昭和20年には、31万bbl
になった。
海軍の、輸送船保護の無策だった。
米英は、ドイツのu-boatによる
「無制限潜水艦作戦」
攻撃を一次大戦から学び二次大戦では、船舶輸送を、駆逐艦等による集団護送船団方式をとった。
おかげで食料摂取る量も開戦時の2100kcalから1800kcalひもじい状態となった。
戦闘員を重視し、裏方を軽んじる日本人。
石田光成を重視しなかった、
秀吉は、戦闘員、加藤清正、福島正則、とともに石田光成を抜擢したすごさがわかる。秀吉は大阪城の攻略法として家康に「和睦、、堀を埋めること」とともに「包囲、兵糧攻め」を教唆したという。
これは、秀吉が朝鮮の役で光成を兵糧奉行にしたことでもわかる。秀吉の。三俣、一夜城。
鳥取、兵糧攻め。備中高松、水攻め。
結局戦争は勇敢だけでは勝てず、頭脳、経済が重要である事である。
経済安保が重要である。
石田光成の養成。
兵站部門が重要なことは、一次大戦、二次大戦のドイツのu-boatによる
「無制限潜水艦作戦」屋日本輸送艦の米海軍による壊滅、でよくわかる。
そのためアメリカでは1924年から、兵站部門の将校には、ハーバードビジネススクールで、経済理論、経営管理論を徹底的に学ばせている。石田三成がたの将校を、計画的に要請するわけで「蝶々、トンボも鳥のうち」といっていた日本とはこの点で勝負が決していた。
プロは兵站を論じる
日本も兵站には苦労していた。
西南戦争では、政府動員兵7万人に対し、弾薬、糧食輸送に、10万人の地域住民を雇用、動員した。その費用(俸給、輸送費、傭船卑)は、戦費の4割近くを占めた。この反省から、1878年以降日清戦争、では輜重兵の指揮下に輜重輸卒を募集した。軍夫は兵卒ではなかった。服装もばらばらであった。戦地での逃亡もあった。
日清戦争で動員された、軍夫は仮装行列のようであった。
このように兵站部門は苦労を重ねたが戦闘部門に比べると扱いは軽かった。
そのうち「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々、トンボも鳥のうち、焼いた魚が泳ぎだし、絵にかくダルマにゃ手足が出て、電信柱に花が咲く」という戯言が庶民の口に上るようになった。
日本人の兵站・後方支援武門軽視の欠点である、「失われた30年の原因である」
現代の戦費、災害活動費Gdp28to40
主要国の実質GDP推移 1928年(米恐慌前)から 1940年(第二次世界大戦開始)まで
日本は順調に成長。
ソ連はスターリンの計画経済で最も成長。
ドイツは、1933年ナチスが政権を取って、急激に成長。
アメリカは、ルーズベルトのニューディール政策(1933年から)、にもかかわらず成長なし、
現代の戦費、災害活動費shitugyouUstodoitu.
アメリカは、ルーズベルトのニューディール政策(1933年から)、にもかかわらずアメリカの失業率は、25.2%だった。1929年の大恐慌時の、失業率、32%から7%減っただけ。ドイツは、ナチス政権前の失業率33%からナチスが政権をとると、1942年、第二次世界大戦時には完全雇用状態の、失業率、2.2%になった。
現代の戦費、災害活動費keizaikoukatoseisaku
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現代の戦費、災害活動費senkantozousensho
四代造船所で建造された、戦艦、巡洋戦艦、と空母。
戦艦、巡洋戦艦:
横須賀:比叡、山城、陸奥。
呉:長門、大和。
三菱、長崎:霧島、日向、武蔵。
川重、神戸:榛名、伊勢。
空母:
横須賀:飛龍、翔鶴、瑞鳳、雲龍、信濃。
呉:赤城、蒼龍、葛城。
三菱、長崎:隼鷹、天城。
川重、神戸:加賀、瑞鶴、飛鷹、大鳳。
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独ソ戦 絶滅戦争の惨禍
ウクライナ戦争は独ソ戦と共通する点が多い
独ソ戦
「独ソ戦」大木毅氏著による 他
ウクライナ戦争は独ソ戦と共通する点が多い
大木毅氏
1.Putinの対ウクライナ戦争は「絶滅戦争、収奪戦争」であり、ウクライナのナチス政権が全滅するまで、Putinは戦争を続ける。ウクライナはナチス政権とみてそれに協力するものは皆殺しする。実際、ロシア軍のブッシュ虐殺。これはナチス政権と同じ。
2.Putin支配下のウクライナ人を浄化しそこにロシア人を入植させる。
3.ウクライナにはアメリカがレンド・リース法を適用して、援助する。独ソ戦で、アメリカがレンド・リース法を適用してソ連を援助したのと同じ。アメリカ軍は直接戦争に参加しない。
ウクライナを見捨てれば、日本も同じ運命になりうる。軍事研究者の小泉悠さんは警告する【ウクライナ戦争】
2023年1月1日
開戦前のプーチンの言説とはもっと民族主義的なもの、つまり「ウクライナはロシアの一部でなければいけない」という情念に強く彩られていて、NATO拡大の話は、飽くまでもその文脈の中で出てきます。】
日本国民全員にとって、どう見るべきかということです。やはり今回の戦争を放置すると、日本の安全保障にとって良いことはないと思います。「ウクライナを説得して戦争をやめさせる」とか、「土地を占領された状態でこの戦争を終わらせればそれで第三次世界大戦の危機は遠のく。これこそが安全保障だ」って議論もあるわけです。でも、私はこの議論は二つの意味で同意できないんですね。
一つは「それで一時的に戦争が戦闘が止まることは確かでしょう。だけどそれがいつまで止まるんですか?」って話ですね。2014年に結んだ第一次ミンスク合意は3カ月ぐらいしかもたなかった。その後、2015年に第二次ミンスク合意を結んだけど、これも7年しかもたなくて、またロシアが攻めてきた。もし今回、イスタンブール合意などを結んでウクライナに「一部占領されてるけど我慢してくれ」と、ロシアとの間で停戦合意を結んだら数年は停戦できるのかもしれません。だけど、結局プーチンはその数年を戦力を再建する期間としか思わない可能性が非常に高い。
なぜならば、彼が開戦前に発表した論文を読むと、戦争の背景にあるのは「ウクライナを中立化したい」「武装解除したい」「ゼレンスキー政権を退陣させたい」というテクニカルな物ではありません。根本的に「ウクライナがロシアから独立している状態が気に入らないっていう情念が滲んでいるんです。
佐藤優氏 ウクライナ戦争とは西側連合とロシアの価値観戦争なのだ 山場は今年2回
2023年1月1日
https://tokyo-sports.co.jp/articles/-/249438
この戦争はロシアとウクライナの間で展開していると見ると事柄の本質がわからなくなる。これは米国を中心とする西側連合(日本もそこに含まれる)とロシアの間で展開されている価値観戦争なのだ。
西側連合はアングロサクソン流の自由と民主主義が普遍的で絶対に正しいと考えている。他方、ロシアはこういう価値観は米国、英国、フランスなどでは通用するが、ロシア、中国、インド、中東、アフリカ、中南米、東南アジアなどの諸国には馴染まない特定の文化と結び付いた価値観と考えている。それぞれの国家と民族は独自の文化と掟を持っているというロシアのプーチン大統領が去年10月27日にモスクワ郊外で行われたヴァルダイ会議での発言内容に共感している国家は以外と多いとフランスの人口学者で歴史学者のエマニュエル・トッド氏は指摘するが、筆者も同じ考えだ。
ドイツ ソ連 日本
1939年 人口 万人ドイツ 6,930ソ連 18,879 日本 7,138
戦争結果 戦死者万人ドイツ 444-531ソ連 万人886-1140 日本万人 210-230
民間人死者万人 ドイツ150-300ソ連万人 2700 日本万人 55-80
1940年当時の国力
自動車生産:アメリカ430万台/年:イギリス43万台/年:ドイツ17万台/年:日本1.2万台/年
自動車の運転技術は航空機の運転技術と大差なし:アメリカは空軍パイロットの養成が簡単。
1940 年の粗鋼生産シェアは米(43),独(13),英(9)及び日(3)であった。ソ連は不明?米英 vs 日独は 52:16 であった。
日本は満洲でも鉄鋼の生産を行っていたがそれは日本の生産の1割程度だった
ヒルマン調査による1937年の世界の工業生産高に占めるシェア(政治力・潜在的軍事力と深い関連あり)は以下の通りです。戦前の列強の「総合国力比」といったテーマには、このデータがよく使われます。
1.アメリカ35.1%
2.ソ連14.1%
3.ドイツ11.4%
4.イギリス9.4%
5.フランス4.5%
6.日本3.5%
7.イタリア2.7%
独ソ開戦時、ドイツはフランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、ノルウエーを占領していた。ドイツ+フランスだけで15.9%で14.1%のソ連を上回る。
1940年 各国GDPとレンドリース法での米国の軍備供与額
アメリカは同法により戦時中イギリスには同国GDPの19%相当額の軍事費を毎年供与した。ソ連には同国のGDPの6.1%相当額の軍事費を毎年供与した。
1940年基準のGDP.
ソ連の1941年、1942年、1943年、1944年のGDPは不明であるが、独ソ戦で荒廃し、ソ連のGDPは1940年の数分の1に減少していただろう。なおイギリスはこの中から、ソ連に6分の1を供与していた。(独ソ戦 大木 毅氏)ソ連は実質1940年GDPの9.1%相当額の軍事費の供与を戦時中毎年受けていたことになる。
米国の軍備供与額 ウィキペディア 7000億ドル2007年価格(Wikipedia)
https://westegg.com/inflation/
The Inflation Calculater
What cost $7000 in 2007 would cost $4465.15 in 1990.
下記は1940年時点の購買力平価のGDPを1990年点のGDPに換算したもの。アメリカの1940年のGDPは1014億ドル(加谷 珪一氏)。https://gendai.media/articles/-/57013。1990年時の換算では、アメリカ9308.3億ドル出所:Monitoring The World Economy 1820-1992 OECD(経済協力開発機構)上記のヒルマン調査とはかなり数値が違うが、これは購買力平価換算だからだろう。後進国は物価が安いので、購買力平価換算のGDPは名目GDPよりも大きくなる。(購買力平価換算では現在の中国のGDPはアメリカのGDPより大きいという説がある)
GDP日本 2017.7 億ドル
GDP イタリア1520.3 億ドル
GDPドイツ2428.4億ドル
GDP イギリス3156.9億ドル 米国の軍備供与額 4465*0.6=2679 GDPの85% 4.5年 GDPの19%/Y
GDPフランス1641.6 億ドル 米国の軍備供与額 4465*0.06=267.9 GDPの16.3% 1年
GDPソ連4200.9 億ドル(米国から) 米国の軍備供与額 4465*0.2=893 GDPの21.3% 3.5年 GDPの6.1%/Y
GDPソ連4200.9 億ドル(英国から) 4465*0.1=446 GDPの10.6% 3.5年 GDPの3.1%/Y
GDPソ連4200.9 億ドル(米英から合計) 4465*0.3=1339.5 GDPの31.9
% 3.5年 GDPの9.1%/Y
アメリカ9308.3億ドル
対中国 821
https://westegg.com/inflation/
The Inflation Calculater
What cost $7000 in 2007 would cost $4465.15 in 1990.
現在日本の防衛費はGDPの1%である。アメリカのレンドリース法での軍事費の供与がいかに大きいかわかる。ソ連には毎年GDPの9.1%が供与されていたのである。
レンドリース法 4465.15億ドル、1990年価格換算
*データは1990年ドル基準の実質GDPを購買力平価で換算した値。 出所:Monitoring The World Economy 1820-1992 OECD(経済協力開発機構)
アメリカは1940年のGDP1014億ドルの時にレンドリース法で501億ドルを供与した(加谷 珪一氏)。https://gendai.media/articles/-/57013
314億ドルがイギリスへ113億ドルがソ連へ32億ドルがフランスへ
米国のソ連への援助
米国は、レンドリースプログラムが開始された直後に戦争に参加した
米国は、航空機2万2,000機以上、戦車1万台、ジープ4万4,000台、トラック37万5,000台以上、重機約8,000台、ライフルなどの銃器2万丁、爆薬34万5,000トン、魚雷艇202隻、駆潜艇105隻、貨物船90隻、さらには食品、鉄鋼、非鉄金属、石油製品、綿、皮革、アルコール、毛布、軍用履物、ボタンまでソビエト連邦に供給した。
1943年のテヘラン会談で、ジョセフ・スターリンはウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズベルトに「アメリカの物資がなければ戦争には勝てないだろう」と語った。
現代のロシアでは、第二次世界大戦中のレンドリースについて、異なる、時には正反対の意見がある。一部の研究者は、アメリカの軍事援助はドイツのナチズムに対するソ連の闘争に影響を与えなかったと言うだろう。他の人々は、赤軍の勝利に決定的な貢献をし、人々を救ったのは武器と弾薬、軍装備品と医療機器、医薬品と食料、可燃性物質の大量の供給だった知っている。
それなしで私たちは備蓄を形成できず、戦争を続けることができなかった
ゲオルギー・ジューコフ(ソ連邦元帥)は、言う。「現在は、同盟国は私たちを助けなかったと言われているが、アメリカ人が私たちにたくさんの物資を送ってくれたことは否定できない。それなしで私たちは備蓄を形成できず、戦争を続けることができなかった」--元帥のこの発言は1963年のKGBによって記録されたものだ。「爆発物や火薬はなかった。ライフルのカートリッジも何もなかった。アメリカ人は本当に火薬と爆発物で私たちを助けてくれた。そして、彼らは私たちにどれほどの鋼板を運んでくれたことか。アメリカ人の鉄鋼支援がなかったら、どうやって戦車の生産を開始できただろうか。35万台のトラックを受け取ったが、それらがなければ、砲兵を運ぶことはできなかった」--。
物資がなければ、私たちはおそらくもう1年半、余分に戦っていただろう
アナスタス・ミコヤンは、第二次大戦の間、赤軍の食糧と衣類を含め物資供給の責任者であり、国家防衛委員会(GKO)のメンバーだった。「1941年の秋に、私たちはすべてを失った。レンドリースによるアメリカの物資、武器、食料、暖かい服がなければ、どうなっていたかは疑問だ。物資がなければ、私たちはおそらくもう1年半、余分に戦っていただろう」と述べている。
1944年にウクライナが解放された後、その政府の議長だったニキータ・フルシチョフも、回想録の中でレンドリースの重要性について言及している。「アメリカ人とイギリス人は、敵が私たちを押しつぶさないように、彼らは私たちに飛行機、車、武器をくれた」とフルシチョフは言った。「受け取った車を見て、目を疑った。実際、かなりの数を受け取った」--。
さらに、1943年11月28日から12月1日のテヘラン会談で、ヨシフ・スターリン自身でさえ、ウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズベルトに「アメリカの物資がなければ戦争は失われるだろう」と語った。その後の数十年間で、この問題に関する立場は何度か変わった。
ルーズベルト米国大統領は1941年3月11日にレンドリース法に署名した。この文書は、反ヒトラー連合国の同盟国へのアメリカ軍の物品の供給を許可していたが、当時はまだ、ソ連は対象に含まれていなかった。
ソ連が対象国になったのは1941年12月だった。ドイツ軍がモスクワ攻撃中の時だった。
あれから77年後--。ソ連を勝たせた米国のレンドリース(武器貸与) ロシアを勝たせないために復活
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当時石油の大産地。
ルーマニア併合は石油の大産地
蘭領東インド(インドネシア)を上回る。ドイツ軍はこの石油で動いていた。特にルーマニア併合は石油の大産地、ドイツへの供給源だったのでドイツの死活問題だった。
世界の石油生産と貿易1935年 生産量10*3b/d
米国 2732
ソ連500
ベネズエラ408
ルーマニア168
蘭領東インド129
メキシコ110
イラク75
イラン57
北樺太8
戦争目的 ドイツ
世界観戦争
人種的に優れた「ゲルマン民族」が「劣等人種「スラブ人」を奴隷化するための戦争、ナチズムと「ユダヤ的ポリシェヴィズム」とした。「世界観戦争」世界観戦争とは「皆殺し闘争」すなわち「絶滅戦争」この認識はヒットラー、ナチスだけでなく、濃淡の差こそあれ国防軍も共有した。
清潔な国防軍は 否定された
ナチス政権の外務省報道官だった筆名「パウル・カレル」が戦後「清潔な国防軍」を偽証、伝説を広めた。
清潔な国防軍は 否定された かっての西ドイツ高級軍人はナチと国防軍は違う。国防軍はナチ犯罪に加担していない「清潔な国防軍」伝説を広めた。「国防軍展(国防軍がジェノサイトに関与を暴露)」で1990年代に否定された。清潔な国防軍伝説は「バルバロッサ作戦」など一連の著作で知られるナチス政権で若くして外務省報道官の要職に就いた、本名パウル・シュミットが本名や経歴を隠して独ソ戦の研究書がない時代に「パウル・カレル」の筆名で著作した。ベストセラーとなった。カレルは、国防軍は戦争の惨禍に責任はなく、劣勢にもかかわらず勇敢にたたかった。カレルの描いた独ソ戦はホロコーストの影さえ差さぬあたかも無人地で、軍隊だけが行動しているごとき見方であった。2005年ドイツの歴史家、ヴィくベルト・ベンツがカレルの悪行を証明した。カレルはドイツ軍の健闘あと一歩で勝てるところだったのに、ヒットラーの介入により敗北したとの伝説を広めた。
戦争目的ソ連
スターリン以下の指導者は、共産主義と愛国心を融合させ危機を乗り越えようとした。ナポレオンを退けた「祖国戦争」になぞらえ、ファシストの侵略者を撃退しロシアを守るための「大祖国戦争」であると規定した。対独戦は道徳的・倫理的に許されない、敵を滅ぼす聖戦。ドイツ側が住民虐殺などの犯罪行為を繰り返し行ったことへの、報復、感情を正当化した。対独宣伝に従事したソ連の作家、エレンブルクはソ連軍の機関紙「赤い星」に次のように書いた。「あなたがドイツ人を一人殺したら、次の一人を殺せ、ドイツ人の死体に勝る楽しみはないのだ。」このようにソ連軍の戦時国際法を無視した、行動もエスカレーションしていった。
戦争目的日本
大東亜戦争。自存自衛のための戦争。白人植民地の解放。ABCD包囲門打破、大東亜共栄圏、自給自足圏の設立。
偽りの握手から激突へ
スターリンの逃避
東京のスパイゾルゲからはドイツが1941年6月末ソ連攻撃の情報が5月30日入った。こんな情報は百数十通に及んだ。スターリンは「ドイツ軍の情報源などあてにならない。そんなのは「情報源」どころか欺瞞情報にすぎない。といった
このためドイツの攻撃は一大奇襲となりソ連軍は、一時崩壊を危惧される大損害を被った。チャーチルは、スターリンは開戦の日時を含めて、歴代の指導者よりもはるかに多くの、かつ質の良い情報を受け取った。しかしそれを無視した。
なぜか。
根強いイギリスへの猜疑心。
ポーランド分割などドイツ側にも独ソ不可侵条約は大きなメリットがあった。ヒットラーがそれを手放すはずはない。チェコ分割のミュンヘン会議にもイギリスはソ連を呼ばなかった。
弱体化していたソ連軍の認識
スターリンは己が行った、軍部の粛正でソ連軍が弱体化しているのを認識していた。フインランド侵略「冬戦争」(1940年冬ー41年春)はるかに劣勢な相手にソ連軍は苦戦した。
1937年から1938年にかけてスターリンは大粛清を行った。34,000名の将校が逮捕か追放された。このうち、27,000名は銃殺されるか行方不明になった。軍の最高幹部101名中91名が逮捕され、80名が銃殺。最高階級のソ連邦元帥5名中3名が銃殺。
軍の脊柱は将校だ。
自らソ連軍の背骨をたたき割ったことをスターリンは知っていた。1938年に始まった5か年計画でGDPは大きくなっていた。軍の脊柱将校窮乏状態ではしかし戦えなかった。すべての情報は欺瞞情報だと信じたかった、願望である。
対ソ戦決定 ドイツの対ソ開戦準備
ヒットラーの政治構想
ヒットラーは「我が闘争」に書いているように1923年のミュンヘン一揆から1945年ベルリンで自殺するまで一貫してソ連を打倒、東方植民地帝国を建設するという政治構想を追及していた。豊富な資源や農地を有する空間「生存権」を確保しなければゲルマン民族の生き残りはかなわない。 そのためには東方のソ連を征服して、ドイツの支配下に置くことが必要不可欠である。しかし第一次世界大戦で証明されたようにイギリスとソ連を同時に敵に回して、二正面戦争になればドイツは再び敗北することになるだろう。したがって、イギリスを同盟国とする、もしくは中立国にしなければならない。この戦略はチェコの併合まではうまくいった。ドイツのポーランド侵攻でイギリスが対独宣戦布告とは意外であった。
ヒットラーの対英戦争フランス攻略後ヒットラーはイギリスに講和を提案したが、イギリス首相、チャーチルはにべもなく拒否した。そこで対イギリスの航空戦が始まったがイギリスはてごわで決着はつかず1940年8月、ヒットラーはイギリス攻撃を中止した。ソ連征服の後とした。
対ソ調停構想
日独伊蘇同盟構想
日独伊蘇同盟構想1940年11月12日、ドイツ外相リッペンとトロップはソ連外相、モロトフに日独伊蘇同盟を結んで、大英帝国を解体するとのプランを、提案、両国の軋轢(上述の秘密議定書のフインランド、バルト三国、ルーマニア)を解消しようとした。ところがモロトフはリッペントロップの案を一顧だにせず、秘密議定書の規定を忠実に履行すべきと求めるのみだった。ここでヒットラーは独ソ戦やむ無しと決断するに至った。
ドイツの対ソ開戦準備
ヒットラー「国益 は条約を上回る」
ドイツはポーランド侵攻に備えて、独ソ不可侵条約締結とみられているが、本意はそれだけではなく、フランス攻撃時の背後の安全のためであった。独ソ不可侵条約があってもソ連はドイツ攻撃をする可能性があると、ドイツ国防軍およびヒットラーは考えていた。特に上記したようにソ連のフィンランド戦争、バルト三国併合、ルーマニア併合を見れば、ソ連が国境を西に動かしているのは明らかだった。1939年9月27日締結の独ソ不可侵条約を破ることには、ヒットラーは「国益 は条約を上回るといった」。そのためフランス降伏後、直ちに陸軍総司令部(OKH)
は、第18軍を東部の守備につかせ増強を命じた。(19400626)18軍と陸軍は、ソ連がバルト三国への侵入、だけでなくドイツにとり死活的重要な油田のあるルーマニアが脅威にさらされた場合には対ソ開戦を覚悟し、作戦を練っていた(マルクスプラン)。さらに国防軍最高司令部(OKW)
はヒットラーの対ソ開戦意志を知り、対ソ攻撃作戦計画が研究されていた(ロスベルクプラン)。陸軍参謀総長ハルダーはこういった作戦計画をまとめ上げるように陸軍参謀次長パウルス中将に指示した(19400903)この作戦計画パウルス案は10月29日ハルダーに提出された。パウルスは計画の実効性を示すため、3回の図上演習を行い、修正しさらにヒットラーの意見を入れて最終案となった。これがバルバロッサ作戦である。ヒットラーは1940年12月18日、バルバロッサ作戦命令を発した。
ソ連の東部欧州侵略
194102XX ソ連軍、バルト3国侵入、対フィンランド(領土要求)戦争 、ソ連、北ルーマニア併合、ヒットラー、スターリンに不信感。
194011 フィンランドとソビエト連邦の第1次ソ芬戦争(冬戦争)は、1939年11月30日に始まり、1940年3月12日のモスクワ講和条約により3ヶ月で終結した。フィンランド軍は奮闘し国家の独立を維持したものの、カレリア地方などをソ連へ割譲し、ハンコ半島を租借地とすることを余儀なくされた。フィンランドは大幅に領土割譲,北極海への出口も割譲した。
194006xx 1940年6月、バルト三国に対しソ連がドイツとの秘密協定に基づいて侵攻、8月にリトアニア、ラトヴィア、エストニアを相次いでソ連邦に加盟させた(実際的な併合)。
194006xx ベッサラビア 黒海に面し、ドニェストル川・ドナウ川・プルート川に挟まれた一帯で。1940年6月、ソ連がドイツとの秘密協定に基づきルーマニアに割譲させ併合した。当時石油の大産地。蘭領東インド(インドネシア)を上回る。ドイツ軍はこの石油で動いていた。特にルーマニア併合派石油の大産地、ドイツへの供給源だったのでドイツの死活問題だった。
独ソ戦 宣戦布告無き 一大奇襲
ハワイ奇襲等子供だまし
独ソ戦 宣戦布告無き 一大奇襲
1941年6月22日午前3時15分。ナチスドイツはソ連へ侵略開始。
総兵力330万。バルト海から黒海まで3000km一斉に攻撃開始。ドイツ軍は、北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団が展開。開戦一週間で、ソ連領内400kmに突入。捕虜32万。
ヒットラーと国防軍首脳部は、ソ連軍恐るるに足らず、という自分たちの判断が正しかった。と判断した。
1941年7月4日、ヒットラーは「敵はもう負けたも同然である。最初に、ロシアの戦車部隊と空軍を撃破できたのが良かった。ロシアはもうそれらを補充できない。」と発言。ハルダー陸軍参謀総長も同じころ、「ロシア戦役は二週間のうちに勝利した」と豪語。
ソ連にとって幸いだったのはこの時期までに戦略と戦術を結びつける「作戦術」を完成させていた。戦略の大原則として構成主義を取り、手段となる作戦の遂行も、敵の最前線から、後方までを、砲兵や航空機、起動戦力によって同時に制圧する、「縦深線」理論を練り上げていた。(赤軍野戦教令1936年版)。
センノの戦い。
スモンレスく防衛線。モスクワ街道での最大の戦車戦。この戦いで、ソ連西正面軍は、62.5万院の兵力が、7月9日までに41.7万人の戦死者、戦傷者、捕虜を出し、戦車4790両を失った。北西正面軍も総兵力44万のうち8万7千人を失った。これはまだ序の口で独ソ戦全体で、およそ570万人のソ連兵が捕虜になった。
モスクワか石油か
ヒットラーは戦争継続力を優先した。バクーの石油を取るのだ
「戦争論」の著者、クラウゼビッツは何といったか
キエフ会戦(1941年9月)
キエフ会戦(1941年9月)
ドイツ軍のソ連軍包囲攻撃。ウクライナ
開戦以来、独南方軍集団はドニエプル川以西にあるソ連軍に撤退を許さず、せん滅すべく務めていた。ソ連軍が退却しようとせず、反撃に出たこともあって、8月初頭には最初の包囲殲滅戦に成功する。独軍は8月24日までに、ドニエプル川以西を占領した。ヒットラーは最重要なのは、モスクワ占領ではなく、クリミア半島やドネッツエ工業・炭田の奪取、コーカサスからのソ連軍に対する、石油供給の遮断、レニングラードの孤立化である。と断じている。戦争経済上の目標を優先すると明言した。作戦の成果はとびぬけたものだった。スターリンが死守を命じたこともあって、ソ連軍は尋常でない損害を出した。9月下旬のキエフ戦終了までに、総計47万人の兵員と3800門の火砲を有する43個師団からなる、4個軍が壊滅したのである。ウクライナの全土を占領した。作戦的には大成功であった。1.5か月でウクライナを占領した。
しかし、戦略的には、深刻な時間の浪費であったとハルダー等のドイツ国防軍の将軍たちは、”戦後”に主張している。ドイツ国防軍の将軍たちはモスクワ攻撃が遅れたと主張している。モスクワを占領すればソ連は崩壊するか?.
モスクワ攻撃へ1941年9月-1941年12月
コーカサスへの作戦(ソ連への石油輸送遮断)1942年5月-1942年11月
「戦争論」の著者、クラウゼビッツは何といったか
「戦争論」の著者、クラウゼビッツは敵のあらゆる活動の中心が「重心」であるとし、全力をもってこれをたたかなければならないと論じた。敵の軍隊が重心であれば軍隊を撃滅し、党派的に分裂している国家にあっては、首都を占領し、同盟国に頼っている弱小国の場合には、その同盟国が派遣する軍隊を攻撃すべしというのがクラウゼビッツの主張であった。クラウゼビッツの後裔たちは対ソ戦の遂行において、敵の重心はなんであるか考えなかった。それがモスクワであると確証もなしに信じたのである。
アメリカのレンドリース法による軍事援助
この時点では日米戦は未開戦であり、アメリカのレンドリース法による軍事援助はソ連には適用されていなかった。ソ連に米国の軍事援助が始まるのは1941年12月からである。イギリスの軍事援助は1941年8月、すでに軍需物資を積んだ貨物船が北極海のムルマンスクに到着していつ。1941年9月にはソ連とイギリスがイランを占領、1941年11月からこのルートを使った、アメリカの物質輸送が開始された。最終的にアメリカはソ連に113億ドル、イギリスは50億ドルをソ連に与えたのである。先述したようにこの軍需物質は、ソ連の1940年のGDPの9%を3.5年毎年与え続けたのである。ここには人件費は入っていない。ソ連は独ソ戦で1941年から1945年まで荒廃し国内生産はGDPはひえいしていたであろうことを考えると、米国のレンドリース法での軍需物質の貸与がソ連を戦勝に導いたといえよう。日本の現在の防衛費は人件費込みでGDPの1%に過ぎず、いかに巨大かが分かる。
2022年ウクライナ戦争で欧米の軍備の供与がロシアぐんに大きな脅威を与えているのを見れば明らかである。独ソ戦でアメリカは将兵は出さなかった。これはウクライナ戦争も同じである。
占領下ソ連の行政区分
ヒトラーの戦争目的 ゲルハルト・ヒルシュヘルト
http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2010/03.pdf
ドイツの意図についてのヒトラーの最初の指示が、総統秘書ボルマンの 1941 年 7 月 16 日付のメモに残されている。すなわち、「基本的に、巨大なケーキを分配するようなもの だ。先ず手に入れる。次に切り分ける。最後に、分け前を多くとればいい」というもの であった5 。これは、ドイツがその政策を東方に適用するための処方箋そのものであった が、その順序は必ずしも上記の通りではなかった。西ヨーロッパにおいてと同様、東方 の占領地域を取り扱うための明確な政策概念があるわけではなく、その「巨大なケーキ」 の管理に適した経験豊富な人材もいなかった。
ヨーロッパ東方の植民地 化計画の草案を作成し実施に移した。疑いもなく、最も悪名高き再定住の枠組みは「東 方全体計画(Generalplan Ost)」であった。これはヒムラーがバルバロッサ作戦発起のわ ずか 2 日後に策定を命じたもので、最終的に 1942 年 5 月に完成した。「東方全体計画」 は東ヨーロッパからウラル山脈を越えて西シベリアまで、4,500 万人の強制移住を想定し たものであったが、そのうち 3,100 万人は「人種的に好ましくない」(換言すれば「生き るに値しない」)と見なされていた14。戦争終結後は、全ゲルマン国家出身の歴戦の屈強
な親衛隊兵士、いわゆる軍人入植者がウクライナとボルガ地方に定住し、現地人の反乱 が起こった場合にはドイツの機動防衛部隊によって防護されることになっていた。 その間に、ヒムラーは西方から東方への大規模な移住を呼びかけていた。
占領地からは3100万人を東部シベリアへ追放し、残った1300万人はドイツ人の奴隷として殺戮する。
ここに
四つの行政区を儲け、そこにゲルマン人を移住させる。というのがヒットラーとドイツ国防軍の構想だった。このうち二つだけが実現した。オストラント国家弁務官区とウクライナ国家弁務官区である。
レニングラードは900日包囲された,飢餓作戦を行った。兵糧攻めである。市民300万人のうち100万人が餓死したという。秀吉の三木城(兵庫県三木市)や鳥取城兵糧攻め等かわいいものである。
「出勤部隊」の編制。
出勤部隊は国防軍と共同で殺戮を実施した。出勤部隊はソ連各地で、虐殺を行った。二日間で女子、子供を含むユダヤ人33,771人を殺害(キエフ郊外、1941年9月)1942年初頭、ハリコフでの一万人射殺。出勤部隊は全体で少なくとも90万人を手にかけたと推計されているが、あまりにも膨大なために、今日なお確定されていない。(詳細は後述)
ヒットラーは、パウルスを大将から元帥に昇進させた。そしてスターリングラード死守を命じた。しかしパウルス元帥は1943年1月31日、9万の大軍とともに、降伏した。独軍で元帥が降伏することは前代未聞だった。スターリングラードで必要だったのは栄誉ではなくパンと銃弾だった。
Note
スターリングラード攻防戦(スターリングラードこうぼうせん、英語: Battle of Stalingrad, 1942年6月28日 - 1943年2月2日)
は、第二次世界大戦の独ソ戦において、ソビエト連邦領内のヴォルガ川西岸に広がる工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を巡り繰り広げられた、ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍の戦いである。
スターリングラードは元来ドイツ軍のブラウ作戦における副次的目標の一つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンの名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展、やがては日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大した。
緒戦は枢軸軍側の優位に進み、市街地の90%以上を占領したものの、最終的にはソ連軍側の反攻により、ドイツ第6軍を主軸とする枢軸軍が包囲され、降伏した。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなった。
米国の軍史家イヴァン・ミュージカントはこの戦を「ミッドウェイ海戦、エル・アラメインの戦い、第三次ソロモン海戦」と同じく第二次世界大戦の転換点であると位置づけている[5]。
死傷者数はソンムの戦いなどの第一次世界大戦の激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられた。
街は瓦礫の山と化し、開戦前に60万を数えた住民が終結時点でおよそ9800名にまで激減。第二次世界大戦最大の激戦、また13世紀の「バグダッド包囲殲滅戦」(モンゴル帝国)などと並ぶ人類全史上でも屈指の凄惨な軍事戦であったと目されている。
第5章 理性無き絶対戦争 ソ連軍のドイツ軍殲滅戦 ウクライナ、1943年8月-9月
1943年7月5日、城塞作戦(クルスクでのドイツ軍の反撃作戦)は成功まであと一歩のところに来ていた、ところが1943年7月10日、米英連合軍がシチリア島に上陸した報を聞いたヒットラーは作戦中の元帥マインシュタインに、作戦中止を命じた。
軍事的合理性の消失
「死守、死守、死守によって」「城塞作戦(クルスクでのドイツ軍の反撃作戦)の中止を強いたソ連軍は、、ソ連軍は南部ロシアから全線に攻勢をかけた。1943年8月3日、クルクスに集結していたソ連軍は、ドイツ軍に114万人の兵員、2800両の戦車、火砲13000門を投入し総攻撃を開始した。ソ連軍は独軍を圧倒し一日25kmも進撃した。8月23日にはハリコフに突入した。こうした洪水のごときソ連軍の攻勢に対し、ヒットラーは一歩も譲らず、現在位置を死守せよと命ずるばかりであった。国防軍が何度も後方に防御ラインを構築しそこから反撃しようと提案すると、
ヒットラーは常に強硬に拒絶した。彼は「第一にまだ危機は深刻ではない。第2に、死守、死守、死守によってだ。もしわが部隊が後方防衛陣地を聞いたら、そこに退却したがるだろう。」防衛意識に虫ばまれ弱体化する。わが軍には、前線に立ち、守り抜くこと以外に許してはならない。」
現実に敗勢に直面しても、ヒットラーの姿勢は変わらなかった。
通常の戦争では、合理性での妥協があるが、世界観戦争、またそれを維持する収奪戦争の必要から、ヒットラーには、後退という選択を取ることはできなかったのだ。
焦土作戦。
マインシュタインはウクライナでのドイツ軍崩壊を防ぐために、ドニエプル川以西に撤退し反撃することにヒットラーの了解を得た。この撤退作戦は完璧だった。テェルノブイリからサボロジェ、メリトポリまで700kmの戦線に再構築できた。反撃までの時間稼ぎでソ連軍がドニエプル川を渡河できないよう作戦を考えた。それが悪名高いドニエプル川以東焦土作戦である。ドニエプル川東岸20-30kmの範囲で渡河作業に必要なものは、何であれ、破壊されるか徴発された。敵の援護物になるような施設や、宿泊所も対象だった。ソ連軍の補給を容易にするであろう、食料、資源や工作機械も破壊されるか、ドニエプル川西岸に運び去られた。ソ連軍は五体満足な男子なら、ソ連軍が一人残らず徴兵すると考え、住民も強制移送の対象だった。その数、数十万人に及び、家畜も数万頭が収奪された。こうした収奪戦争の徹底は、前線だけではなかった。
第一次世界大戦の教訓
上記でドイツはキール軍港の水兵の反乱から、国内の暴動を誘発し、敗北した。国民の犠牲を強いたのだ。ヒットラーは占領地では収奪を徹底したが国内では国民を厚遇した。
スターリングラードの敗北以降、ヒットラー以下のナチス・ドイツ指導部は、軍需生産の拡大を迫られたが体制の動揺を恐れ、自国民に多大なる労働を強いようとはしなかった。その代わりソ連軍捕虜、強制連行された、ソ連やポーランドの労働者、ユダヤ人、強制収容所の被収容者、等を動員し、軍需物資の増産を強行した。1942年には400万人だった、外国人労働者が、1944年末には840万人を超えたという。なお焦土作戦は蒋介石の中国軍が南京戦の時にやっている。ずっと小規模だったが・・・。ヒットラーには「死守、死守、死守」に成功体験があった。1941年冬、モスクワを指呼の間まで進撃したとき、強烈な冬将軍、気温-20度、積雪1mの厳寒となった。そこにソ連軍、ジューコフ将軍の極東からの移動の精鋭のザバイカル軍団が、反撃に転じた。独軍は冬服も満足になかった。しかしヒットラーの「死守命令に応じて、ソ連軍の攻撃に耐えた」偉大なヒットラーの戦略的成功体験だった。
次の1942年の冬、スターリングラード包囲軍のパウルスの第6軍は逆包囲を受けた。ヒットラーは、パウルスを大将から元帥に昇進させた。そしてスターリングラード死守を命じた。しかしパウルス元帥は1943年1月31日、9万の大軍とともに、降伏した。独軍で元帥が降伏することは前代未聞だった。スターリングラードで必要だったのは栄誉ではなくパンと銃弾だった。ヒットラーはパウルス降伏の報告を聞くとなぜ自決しなかったのかと激怒したという。捕虜になったのは、19.5万人、23.2万人、24.4万人、38万人と様々な推測がなされている。
捕虜になった9万の独軍将兵のうち戦後ドイツに帰還したものは0.6万人に過ぎない。ソ連軍の残酷さがわかる。
ソ連「日本との中立条約など、国益の第2、第3に過ぎない」
ソ連の中立条約破棄、日本攻撃
ソ連の社会主義体制崩壊した1990年前後、私は、その様子を確かめようと、何度かモスクワに赴いた。その折、日本研究者に、45年8月9日の対日宣戦布告は中立条約違反ではないかと、私は詰め寄った。次のような回答が返ってきた。「当時のわが政府にとって最も大切なものは、連合国としての立場。1925年のヤルタ会談の秘密協定によって、ドイツ降伏から3か月後に参戦したまでのこと。日本との中立条約など、国益の第2、第3に過ぎない」(保坂正康 人を見る目)
ちなみにソ連軍が1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄して、満洲に侵入した。日本軍は8月15日以降戦闘しなかった。ソ連軍は、傍若無人に関東軍兵士を捕虜にし、東京に連れて行くと騙し貨車に乗せ、、シベリアに強制連行した。連行された75万人のうち1割が死亡した。関東軍は当時ほとんど新兵で、職人も多かった。関東軍の精鋭は南方に転用されていた。彼らは街の公園を設計施工するなど異彩を放ったものもいたので生かされた(シベリア俘虜記森本良夫氏著)。
ちなみに日本軍で降伏した部隊はない。島では戦いに敗れ、逃げ道はなく、降伏もできず玉砕した。アッツ島、サイパン島、ペリリュー島、硫黄島、等枚挙にいとまがない。
一方逃げ道のある大陸でも玉砕した部隊がある。
拉孟・騰越の戦いである。援蒋ルートで得たアメリカ軍の軍備とアメリカ軍の猛訓練を受けた精鋭であった。ともに20倍以上の敵兵に包囲され敵兵に10倍以上の将兵の損害を与え、3か月間も守り通し玉砕した。(菊と龍 祖国への栄光の戦い 相良俊輔氏著)(壮烈拉孟守備隊 玉砕に殉じた日本軍将兵の記録 楳本(うめもと)捨三氏著)敵の総司令官蒋介石は、自軍の雲南派遣軍司令官衛立こう大将に「ビルマの日本軍を範とせよ。ミートキーナにおいて、拉孟において、騰越において、日本軍の発揮した善戦健闘に比べてわが軍の戦績がどんなに見劣りすることか」
と叱咤激励した。。「諸君はその義務を尽くしているのか?。松山(拉孟)守備隊を見よ、ミートキーナの日本軍を見よ」と。日本軍はこれを敵将からの「逆感状」と呼んで、自軍の健闘をたたえた。守備隊長金光恵次郎少佐は詳細な記録を残し、その記録を玉砕前日に、木下昌巳(野砲兵第 56 連隊中尉). と早見正則(歩兵第 113 連隊上等兵)の 2 名に脱出させ、龍兵団本部に報告させた。その一部、「今までの戦死250名、負傷450名、ただし、うち休息100名を含む。片手、片足、片目の傷兵は皆第一線にありて戦闘中、式極めて旺盛につき、ご安心を甲」と
拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)は、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で行われた、日本軍と中国国民党軍・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。
指導者・指揮官
War flag of the Imperial Japanese Army.svg 金光恵次郎 †
War flag of the Imperial Japanese Army.svg 蔵重康美 †
Flag of the Republic of China Army.svg 衛立煌
アメリカ合衆国の旗 ジョセフ・スティルウェル
戦力
1,300(うち傷病兵300)人(拉孟)
2,800人(騰越)
20,000人(拉孟)
49,600人(騰越)
損害
1,300人戦死(拉孟)
2,800人戦死(騰越)
4,000人戦死、3,774人負傷(拉孟)
9,168人戦死、10,200人負傷(騰越)
絶滅政策の実行
考えるだけなら、そういった人は、古来たくさんいる。ただの誇大妄想である。秀吉もしなを支配し自分は北京に居住する。日本は秀次に任せる。という誇大妄想を持った。ジンギスカンも誇大妄想だった。秀吉は実施したが実現できなかったが、ジンギスカンは実施し実現した。ヒットラーとドイツ国防軍は、秀吉と同じで、実施したが、実現できなかった。
「出勤部隊」の編制。この絶滅政策は戦時下において、貴重なリソースを投入しながら、無意味と思われる虐殺を繰り返すものであった。したがって、一見、「合理性」とりわけ「軍事的合理性」を逸脱した、凶器の行為である。これはヒットラーとナチス指導部の対ソ戦が「世界観戦争」であり、彼らが敵とみなしたものの絶滅を追及する、戦争であった、ということを考えれば、その論理を理解できるだろう。この「絶滅戦争」を支えるイデオロギーはヒットラーだけでなくドイツ国民統合の原則として、現実を規定することにより独自のダイナミズムを得ていたのである。
その指標が「出勤部隊」であった。敵地に侵攻する国防軍に後続、ナチ体制に危険と思われる、分子を殺害排除することを目的としていた。教師、聖職者、貴族、将校、ユダヤ人などドイツの占領支配に障害となるであろう人を殺戮している。
出勤部隊の編成はAからDまでの四体が作られ、北方、中央、南方の各軍集団。やクリミア担当集団に配属された。出勤部隊の大きさは軍隊の代替に相当し600ないし900人が配属された。武装親衛隊、警察からなる出勤部隊は機動的に出勤し、占領地でユダヤ人などを虐殺した。戦後、国防軍の軍司令官たちは出勤部隊の殺戮は軍の管轄外の後方で行われたことで、自分たちには責任がないとの「清潔な国防軍」を主張した。しかしポーランドでの1941年3月の「ユダヤ、ボルシェベキを殺害すべし」とのヒットラーの命令に国防軍のOKWも同調したことが分かっている。出勤部隊は国防軍と共同で殺戮を実施した。出勤部隊はソ連各地で、虐殺を行った。二日間で女子、子供を含むユダヤ人33,771人を殺害(キエフ郊外、1941年9月)1942年初頭、ハリコフでの一万人射殺。出勤部隊は全体で少なくとも90万人を手にかけたと推計されているが、あまりにも膨大なために、今日なお確定されていない。
ホロコーストとの関連 出勤部隊の経験により、「銃殺」から「毒ガス使用」へと殺害の効率化が図られた。
包囲殲滅 日本軍は不採用
https://www.sankei.com/article/20160325-2CGZM5A5I5JPDGQ63KKDRZBOXQ/3/
日中共鳴で肥大化させた「南京大虐殺」 その捏造の歴史を概観する
2016/3/25
このころまでは「南京虐殺」のプロパガンダを主導していたのは中国国民党だったといえる。一方の中国共産党はといえば、中華人民共和国建国の父・毛沢東が生涯にわたって「南京虐殺」には言及していないなど、この時期は目立った活動をしていなかった。
毛沢東は南京戦の5カ月後に当時、中国共産党の本拠地だった延安で「持久戦論」の講義をした際、南京戦に触れているが「日本軍は包囲は多いが殲滅が少ない」と、むしろ日本軍は生ぬるいという趣旨で批判していた。その後、20年ほどは南京事件は国際的にほとんど問題とはされなかった。
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ここに書いた情報は次の資料による。
1.昭和陸軍全史3(川田 稔著)を中心として
2.独ソ戦 大木毅著
3.なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか(祥伝社新書287)
加瀬 英明 、 ヘンリー・S・ストークス
4.あの戦争は何だったのか: 大人のための歴史教科書 (新潮新書)
保阪 正康
5.大東亜戦争を敗戦に導いた七人 単行本 ? 2015/6/26
渡辺 望 (著)