iso14001環境ISO生命に満ちた青い地球を守ろう

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アジアの歴史




  • 千年に一度のチャンス
    天が我々に与えた試練だ


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    超反日小説『ムクゲの花が咲きました』続編【書籍】
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    『花に偽装した戦犯旗-ムクゲ』出版予定[08/25] [蚯蚓φ★]



    ナチスドイツはユダヤ人を600万人殺した
    戦前日本は朝鮮人を1200万人、増やした
    許されざる罪である



    李氏朝鮮では、中国からの勅使に対し、王がソウルの郊外、”迎恩門”に出向き、自ら三跪九叩頭の礼で迎えていた


    朝鮮土民の奇習を禁止した日帝の蛮行
    【試し腹】.【シバジ】【嘗糞】【病身舞】【乳出しチョゴリ】
    ..



    「三田渡の盟約」
    朝鮮は清国に対し、臣としての礼清国に対して牛馬3000頭、美女3000人を毎年上納すること



    朝鮮国民に教育を実施し、就学率を61%まで高めた(1944)
    (ハングルを整備し体系化させ、漢字、日本語と共に普及させた
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    原爆被爆者の平均寿命は平均日本人より長い。男1年、女2年、寿命が長い。


    南京戦はあったが南京大虐殺はなかった。南京学会

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    大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史

    英国の歴史家、アーノルド・トインビーは、 日本の近代史についてこんな分析をしました。 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 0

    朝日の慰安婦捏造問題を世界に発信するため、 かなり正確に伝えている英語での解説記事 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 2

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    米政府の慰安婦問題調査で奴隷化の証拠発見されず no proof war crimes with "disappointment" comfort woman 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 4

    「侵略戦争」は連合国の宣伝、日本は植民地アジアを解放した 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 5

    徹底検証!「従軍慰安婦」問題は朝日新聞の捏造から始まった 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史6

    Report No. 49: Japanese Prisoners of War Interrogation on Prostitution

    従軍慰安婦に関する米軍調査報告:戦場売春婦の実態調査結果ビルマ

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    「文玉珠さん」という(自称)従軍慰安婦女性は、平成4年に日本の郵便局を訪れ 2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしています 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 7



    ヒラリーの私用メールが暴いた外務省の赤っ恥 国益の毀損と責任感の欠如がもはや伝統に

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    神風特攻隊が残した戦果は、実はすごかった。

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    フーバー大統領の回想録 には、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な記録が含まれている。
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    サンフランシスコで慰安婦碑反対運動で頑張っている有志からご協力のお願いです。
    計画されている慰安婦碑のとんでもない内容の碑文が1月18日に承認されました。
    来る2月6日の芸術委員会でその慰安婦碑の設置が承認されようとしています。
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    “カナダ有志の会”よりお願い
    中国系州議員やアルファという反日組織の工作により、
    カナダ・オンタリオ州の立法議会が南京大虐殺記念日の制定を審議中です。
    ↓ Bill 79, Nanjing Massacre Commemorative Day ↓
    SnapCrab_NoName_2017-2-2_7-50-52_No-00
    抗議のメールを、オンタリオ立法議会メンバーに送っていただけましたら幸いです。

    南京大虐殺は捏造だった証拠集

    韓国、韓国人慰安婦をドラム缶に入れて米軍らに供給、政府が米軍向けに売春管理



    国連も一蹴した中国の政治宣伝 自民党が明らかにした南京の捏造





    やはり あの戦争は、アジア開放のための聖戦だった



    ライダ イハンは3万人もいるのに、なぜか韓国には日本軍人との混血児は一人も出てこない不思議… 20万の 朝鮮売春婦相手になぜ一人も出てこないんだ?



    韓国を「ホワイト国」から除外しよう



    南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状
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    自己紹介







    南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状

    原爆被爆者の平均寿命は平均日本人より長い。男1年、女2年、寿命が長い。



    http://www.sdh-fact.com/CL02_3/19_S1.pdf

    胡錦濤国家主席閣下への公開質問状 このたび中華人民共和国国家主席胡錦濤閣下のご訪日に当たって、日中両国の 友好を願う者として心より歓迎申し上げます。



    反日種族主義




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    大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言


    太平洋戦争におけるわが国の戦争被害

    「世界から恐れられた7人の日本人」





    「大東亜戦争の英雄の日本人1」


    「大東亜戦争の英雄の日本人2」


    「大東亜戦争の英雄の日本人6」


    「大東亜戦争の英雄の日本人3」空の要塞B29撃破とB29撃墜王


    「大東亜戦争の英雄の日本人4」陸軍エースパイロット撃墜数


    「大東亜戦争の英雄の日本人5」海軍エースパイロット撃墜数


    「大東亜戦争技術者」


    「大東亜戦争技術者2」


    「大東亜戦争石油」





    日米開戦前日米交渉(アメリカが日本に実質的最後通牒(日本の南部仏印撤退などの譲歩案に))


    なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか、加瀬英明

    日本は昭和に入って、日米関係が対立を深めていく中で、困難を打開しようと、真剣な努力を続けたにもかかわらず、追い詰められていった。本書は、日米開戦に至るまで、時系列的に、日本とアメリカの記録を用いて、東京とアメリカにおいて何が起こったのか、対比したものである。





    第一部 アメリカに強要された、日米戦争の真実

    第一章 ルーズベルトが敷いた開戦へのレール

    アメリカの決意、日本の一人芝居

    過去の歴史を支配するものは未来も支配する。 日本は先の戦争に敗れてから、自国の歴史を盗まれてしまった。 歴史を失った国となった。

    今日、日本国民の多くが、先の対米戦争は、日本が仕掛けた無謀な戦争だったと信じこまされていある。

    だが事実は全く違う。

    アメリカは、日本が真珠湾を攻撃するかなり前から、日本と闘って、日本を屈服させ、日本を無力化することを決定していた。

    日本は1941年(昭和16年)12月8日、(日本時間)真珠湾を奇襲したが、日本政府と、軍部は、その直前まで、日米戦争を回避しようと真剣に努力していた。 日本政府は、当然のことに、アメリカも日本と同じように、平和を望んでおり、緊迫しつつあった、両国関係の、緩和を望んでいると考えていた。

    アメリカも日本と同じように、まことがある国だと思い込んでいた。 それがとんでもない、間違いだった。

    日本は罠を仕掛けられたのだった。

    ルーズベルト政権の、陰謀にはめられ、断崖絶壁まで追い詰められて、やむに已まれず、開戦に踏み切ったのだった。

    日本は、アメリカが、日本のほうから、アメリカに戦争を仕掛けてくるように、たくらんでいたのに気づかず、政府と軍をあげて一人芝居を演じていた。

    一人芝居は、相手がいなかったり、いても相手にかまわずに、一人で、自分勝手に思い込んで、夢中になって、一喜一憂しながら、振舞うことである。 日米戦争は起こるべくして起こった、戦争ではなかった。その責任はアメリカにあった。

    フランクリン・ルーズベルト大統領は、1933年(昭和8年)に登場した。

    ルーズベルト大統領は、ニューヨーク州知事だったが、前年の大統領選挙で、民主党候補として、共和党の現職の、ハーバート・フーバー大統領を破って当選した。

    フーバー大統領の任期中の1929年(昭和4年)にニューヨーク株式市場の大暴落、に発する世界大恐慌が起こった。 ルーズベルトは世界大恐慌を追い風として第32代、大統領となった。



    ルーズベルトは、オランダ系のニューヨーク州の実業家で、大地主であった、ジェームズを父として、フランス・オランダ系の富裕なデラノ家の娘ノサラを母として、1882年(明治15年)に生まれた。 デラノ家は清朝末期に、中国とのアヘン貿易によって、巨富を築いた。

    そのうえアメリカ西部の鉄道建設と、石炭採掘に投資して成功した。 デラノ家は香港にも豪邸を所有していた。

    サラは少女時代に香港に、滞在したことがあって、中国に愛着を感じるようになった。

    ルーズベルトの父のニューヨーク州の邸宅には、中国から略奪してきた、古寺の鐘や、高かな屏風や、陶器が飾られていた。

    これらの中国の美術品は、デラノ家から受け継いだものである。ルーズベルトは1905年(明治38年)第26代大統領として、有名なセオドア・ルーズベルトの姪で、遠縁の従妹であったアンナ・エレーナ・ルーズベルトと結婚した。、

    セオドア・ルーズベルトは日露戦争までは、日本に好意を抱いていたが、日本がロシアに勝つと日本を、アメリカがアジア太平洋に持っていた、フィリピン、グアム、ハワイ 等の領土や、中国大陸における、アメリカの権益に対する、新たな脅威とみなすようになった。

    ルーズベルトによる、敵対政策の始まり

    フランクリン・デラノ・ルーズベルト政権が、日本に敵対する、政策を最初に打ち出したのは1936年(昭和11年)のことだった。日本が真珠湾攻撃する5年前にあたったが、この時点で、日本は、アメリカに対していささかの害も及ぼしていなかった。

    ルーズベルト大統領は、日本に対して、根深い悪意を抱いていたから、中国の蒋介石政権を通して、日本を踏み潰すことを図った。



    蒋介石への援助はルーズベルトの意を受けて、大統領直属の、ロクリン・カリー補佐官が指揮した。

    1936年(昭和11年)7月20日蒋介石政権の航空委員会は、アメリカ陸軍航空隊の、クレア・シェンノート大尉を 中国空軍の航空参謀として高給で雇用した。

    蒋介石は「共匪」と呼んでいた中国共産党軍を掃討するため、近代的な空軍を養成したかった。蒋介石はイタリアとソ連から空軍機を購入し、多くの教官を受け入れていた。中でも、ナチス・ドイツは、大型の陸軍顧問団を送って、国民党軍を訓練し、大量の兵器を売っていた。

    翌年1937年(昭和12年)7月に盧溝橋事件が起こり日華事変が起こると、アメリカは中立国であったために、政府として、交戦国を直接助けることができなかった。そのためルーズベルトは親友の、トミー・コルトランに民間の「中国援助事務所」を設立させて、蒋介石政権が、日本と戦うために必要な巨額の資金を提供した。同時にシェルノートは大佐として、中国空軍、航空参謀長として任命された。

    シェルノートはアメリカに戻ると、蒋介石政権に、戦闘機と、アメリカ陸軍航空隊のパイロットを、「義勇兵」として提供する案を、ルーズベルトに提出した。ルーズベルトはこの案を直ちに承認し、計画を実現するための極秘大統領命令が、発せられた。

    アメリカの航空兵が中国軍人として、アメリカが供給する、戦闘機に中国空軍の「青天白日」のマークを付けて日本軍と戦うことになった。

    シェンノートは部下を手分けして、全米の陸海軍、海兵隊、沿岸警備隊の航空基地を訪ね「義勇兵」として、中国にわたって、戦うことに志願するように、呼びかけた。

    アメリカの「義勇兵」は一旦軍籍を離れて、中国軍人として戦うものの、中国における雇用期間が終わったのちは、アメリカ陸海軍に復帰することが保証された。したがって義勇兵というものの現役軍人と変わりなかった。国際法の重大な違反だった。 シェンオートの飛行機は、「アメリカ義勇隊」と呼ばれたが、機種に猛虎をあしらったマークを塗っていたことからほどなく「フライング・タイガーズ」として知られるようになった。

    なぜルーズベルトは中国に肩入れしたか

    1935年(昭和10年)アメリカ議会は「中立法」制定した。他国と戦争状態にあるか内戦を戦っている国への兵器と軍需品の輸出を禁ずる法律だった。それにもかかわらず、1937年(昭和12年)8月に第二次上海事変が起きると、ルーズベルトはその月のうちに、中立法を中国には適用しないと、宣言した。

    当時のアメリカは、ルーズベルトをはじめとして多くのアメリカ人は中国はアメリカの勢力圏であるとみなしていた。

    中国はアメリカから多くのキリスト教宣教師を受け入れていた。同時にアメリカ国民も、「巨大な中国市場」を夢見て、中国に好意を寄せていた。

    それに対して、日本はアメリカに媚びることがなく、伝統文化を頑強に守り、キリスト文明に同化しない異質な国だった。

    支那事変には「フライング・タイガーズ」が活躍した。

    中国空軍機による九州来襲

    日本の外交暗号をすべて解読していたアメリカ

    ルーズベルト政権は1938年(昭和13年)7月、アッメリカの航空機と航空機部品の日本への輸出を禁止した。

    1939年(昭和14年)9月1日ヒトラーのドイツ軍がポーランドを侵略した。9月3日イギリスとフランスがドイツに宣戦布告した。第二次世界大戦が勃発した。アメリカはすぐ、中立を宣言した。

    1940年(昭和15年)9月末から10月の第1週にかけて、アメリカは日本の、外交暗号のすべてと、日本海軍暗号の一部の解読に成功した。

    これ以降アメリカは日本政府の動きを刻々と手に取るごとく知ることができるようになった。

    中国軍に偽装した日本本土空襲計画

    1940年(昭和15年)12月8日、モーゲンソー財務長官は、大統領に対して「中国に重爆撃機を提供して、日本を爆撃すべきだ」と提案した。

    大統領は「中国が日本を爆撃するなら結構なことだ」と語った。この案はハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官と共有することとなった。中でもスティムソン陸軍長官は日本を嫌っており、後日、広島、長崎への、原爆投下を命令した。

    日本本土爆撃計画のために、B17重爆撃機の使用が検討された。B17は4発で1935年(昭和10年)初飛行したが、航続距離が3300KMもあっ多。通称「空の要塞」と呼ばれていた。

    1939年(昭和14年)12月2日、1938年の決定に続いて、ルーズベルト政権は、対日禁輸物質に、航空機の生産に欠かせない、アルミニウム、マグネシウム、モリブデンを追加、12月6日、航空用ガソリンプラント、航空用ガソリンの生産用技術の輸出を禁止した。さらに1940年(昭和15年)7月26日、ルーズベルト政権は、1941年1月26日に日米通商航海条約を廃棄すると決定した。これは1911年(明治44年9に締結されたものだった。

    日本を戦争におびき寄せた本当の理由

    1939年(昭和14年)8月27日,独ソ不可侵条約締結。よく9月1日ドイツ軍ポーランド侵攻。9月3日、英仏、ドイツに宣戦布告。

    1940年4月までは、西ヨーロッパに戦端は開かれなかった。1940年5月、ドイツ軍、西ヨーロッパ進攻。

    1940年(昭和15年)6月22日、フランスがドイツに降伏した。これで、ドイツがヨーロッパ大陸を制覇した。 この時からイギリスは孤立無援の戦いを強いられることになった。

    イギリス、チャーチル首相は、ドイツの攻撃に、「降伏すると奴隷の平和が訪れるが、国家が再興されることはない。戦って敗北すれば、魂が残り国家は再興される」と信じ、国民に呼びかけ賛同を得た。この考えは、日本が対米戦を開いた時の考えと全く同じである。閑話休題。

    1940年8月までドイツは、イギリスの猛烈な空爆を加えた。しかしイギリスはその戦いア「バトル オブ ブリテン。英国の戦い」に耐えた。

    ルーズベルトは、ヒトラーはあくなき征服欲に駆られており、イギリスが滅亡すれば、アメリカの滅亡になると、確信していた。

    そこで、イギリスを救うために、アメリカがヨーロッパの戦争に参戦することを強く願った。ところが孤立主義が厚い壁となって、立ちふさがっていた。

    そのために日本にアメリカとの戦争を敷いて、ヨーロッパの戦争に裏口から、入ることを企てた。 この1940年8月ごろからのアメリカ、ルーズベルトの外交はただ日本にアメリカに戦争を仕掛けさせるための外交だった。「参戦外交」と呼ばれている。

    1940年(昭和15年)9月3日、アメリカはイギリスに駆逐艦50隻、大量の、小銃、機関銃、砲、弾薬を、供与した。北米における、イギリス植民地の軍事基地をアメリカ軍が使用できることの条件で。 さらにルーズベルトは、国防力強化法案を採用した。戦時には民間工業を、軍需工場に強制させることができる法を制定した。

    ルーズベルトを喜ばせた三国同盟の締結

    1940年(昭和15年)9月27日。日独伊三国同盟は、成立した。独伊はヨーロッパで戦争しており、戦争中の国と日本は同盟を締結した。 ルーズベルトはこれを大変喜んだ。「参戦外交」だから。

    着々と進む日本追い詰め政策

    1940年(昭和15年)10月7日、アメリカ海軍情報部、極東課長の、アーサー・マッコラムが、上司を通じて「どうすれば、日本にアメリカとの戦争を仕掛けられるか」との提案書を提出した。ルーズベルトは、マッコラムの提案を直ちに承認した。



    日本に対米戦争を起こさせるための八項目

    アーサー・マッカラムはアメリカ陸軍情報部、の極東課長だった。1940年夏、世論調査が行われた。ヨーロッパ戦争への参加を尋ねる質問には大多数が反対だった。ルーズベルトは、いかにすれば日本を日米戦争に引きずり込めるかばかり考えていた。マッカラムは少佐になっていた。

    この計画を立案したのがマッカラムだった。マッカラム少佐は5ページ、8項目からなる、覚書を作成した。それは、ハワイのアメリカ陸海軍部隊、及び、太平洋地域の、イギリスとオランダに駐屯する前哨部隊を日本に攻撃させることをもくろんだものだった。8項目は次のとおりである。

    A.太平洋のイギリス軍基地、特に、シンガポールの使用について、イギリスとの協定締結。
    B.蘭領インド(インドネシア)の基地施設の使用、および補給物資の取得に関するオランダとの協定締結。
    C.中国の蒋介石政権にあらゆる支援の提供。
    D.遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊をフィリピンまたはシンガポールに派遣する。
    E.潜水艦隊二隊を極東に派遣する。
    F.太平洋、ハワイ諸島にいるアメリカ艦隊主力の維持。
    G.日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒絶すること。
    H.イギリスが日本に押し付ける、同様の通商禁止と、協力して行われる、日本との全面的な通商禁止。この「マッカラム覚書」はルーズベルトが読んだ決定的な証拠がある。

    マッカラムの8項目提案は早速翌日から実施に移されたという。1941年を通じてルーズベルト大統領の対日政策は、一貫して「日本を挑発」することで、日本に戦争行為を起こさせることであった。

    挑発目的での巡洋艦の出没

    マッカラムの覚書からはルーズベルトの指紋が検出されている。

    巡洋艦は、瀬戸内海の豊後水道まで侵入した。
    日本の海軍省は、グルー中日アメリカ大使に、次のように抗議指定rt。「7月31日の夜、宿毛湾に停泊中の、日本官邸は、2席の巡洋艦を発見した。日本官邸が血数いていくと巡洋艦は南に逃走した。海軍の将校はそれら巡洋艦が米海軍のものと信じている・・・・」しかし日本海軍は一発も発砲しなかった。

    合衆国艦隊司令長官がルーズベルトに反旗

    暗号解読を活用したマッカラム

    ミッドウエイの勝利はアメリカ海軍が、日本海軍の暗号29種の一つ、D暗号を破った結果であった。

    D暗号を破った結果としてハワイ攻撃への山本指令長官の電報2通がある。

    第1:機動部隊は11月26日、単冠湾を離れ・・・12月3日・・・の地点で、燃料補給を完了すべし。
    第2:起動艦隊は・・・・・在ハワイ艦隊を攻撃し、致命的、打撃を加えるものとする。・・・・・。対米交渉成立の場合には、速やかに帰投すべし。

    山本長官の電文そのままではないか!



    米英一体か米英分離可能か

    当時日本では 最後の手段として南方進出がやむを得ざる時、”米英一体か米英分離可能か”が議論されていた。

    南方の資源を獲得するためには英国、オランダとの戦争が必至となる。この時、アメリカは日本が英国、オランダと戦端を開いたとき、アメリカは、動くか動かないかという問題である。

    米英一体派は日本が英国と戦端を開けば、アメリカは、日本に戦端を開くという主張であり、米英分離可能派はアメリカは日本に戦端を開かず傍観する。という主張である。 最終的に、日本は米英一体と考え大東亜戦争を開始した。 マッカラムの作戦をルーズベルトが採用した結果を見ればアメリカは米英一体であった。



    マッコラムはキリスト教宣教師の子供として、少年時代を日本で過ごした。 日本では父の宣教活動が全然進まず、日本人はキリスト教に改宗しないので、日本人に嫌悪艦を持っていた。 帰国後海軍兵学校を卒業して、海軍軍人になった。日本語を理解し、日本事情に精通していた。アメリカのインテリジェンスとして、適人であった。

    1940年(昭和15年)11月5日ルーズベルトは大統領に”三選”を果たした。「参戦外交」がより一層際立ってくる。

    12月29日にルーズベルトは「アメリカが民主主義国の兵器工場になる」との国民に向けての演説を行った。

    1941年(昭和16年)1月1日、スチムソン陸軍長官は、ニューヨークタイムスに寄稿した。「過去3年にわたって、アメリカの資源である、特に石油とくず鉄が、日本の極東における”悪業”を助けてきた。これらの資源について、供給源は他にないから、その責任はアメリカにある。アメリカ国民は、日本が中国で進めている侵略に、一致して反対しているが、もしアメリカが(日本の)悪行を阻止するために、なにか手段を用いたら、日本と戦争を戦うためになると恐れている。それは何の根拠もないことである、もしアメリカが、日本による中国の戦争をやめさせ用とするならば、日本が戦争を進めるために必要な資材や、資源の供給をためることである」と説いた。

    1941年(昭和16年)3月 米国兵器供与法成立(レンドリース 法:2022年のウクライナ戦争でも適用)、対英無限軍事援助、独ソ開戦後、対ソ連無限軍事援助、対中国、蒋介石への大規模軍事援助(従来の英国、米国、ソ連の対蒋介石支援を大幅に上回る

    1941年(昭和16年)3月”武器貸与法”を中国に適用すると決定した。 またイギリスと中国の間で”英中軍事協定が結ばれた。この時期まだ独ソ不可侵条約中で、毒素は開戦していない。独ソ開戦はこの年1941年(昭和16年)6月22日である。

    1941年(昭和16年)4月13日 松岡日ソ中立条約


    日本、陸軍武藤軍務局長対米和平は米側の案丸のみでも良いと。


    陸軍参謀本部田中作戦部長は対米戦やむ無しと東條陸軍大臣は武藤案に近し


    1941年(昭和16年)4月15日 同上近衛内閣合意意志


    ハル国務長官野村大使に日米了解案提出

    ハル4原則プラス 満洲国承認、中国一部駐兵含む。ハワイでの首脳会談   ハル4原則(1.領土保全と主権尊重、2.内政不干渉3.機会均等4.太平洋の現状維持(平和的手段による変更を除く))


    19410425 松岡日米了解案を拒否


    開戦五か月前に日本爆撃を承認した文書

    近衛文麿内閣は、緊張が募る、日米関係を打開しようとして、1941年(昭和16年)4月、日米交渉を始めることを決定した。

    日米交渉は、4月14日、野村吉三郎駐米大使が、ハル国務長官を尋ねることから始まった。 野村大使は、4月16日にも、5月には、2日、7日、11日、13日、14日、16日、20日、21日、28日と会談を重ねた。 5月だけで9日である。見るべき進展がなかった。

    日本本土奇襲爆撃計画は陸海軍合同委員会によって、すでに作戦名が「JB−355}とつけられた。「JB」はジャパンーボンバメント(日本爆撃)である。 5月9日、カリー大統領補佐官は大統領に、「JB−355計画」について、覚書を提出した。 カリーがホワイトハウスで「JB−355計画」を仕切っていた。

    ルーズベルトは5月15日に「JB−355」計画を具体化するように公式に命じた。 陸海軍に爆撃機を中国に供与して、中国のマークを付け、中国空軍機に偽装して、アメリカの「義勇兵」に操縦させ、東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸を爆撃するという計画だった。爆撃機はB17「空の要塞」だった。

    7月18日、詳細作戦計画が軍部から大統領に提出され、大統領は、この作戦案をその日のうちに承認した。 日本の海軍機動部隊が真珠湾攻撃する5か月前のことだった。独ソ開戦して、約1か月後のことだった。 B17をはじめとする150機の長距離爆撃機と350機の戦闘機を10月1日までに中国に供与し、中国の基地からは発進して、先述の日本本土都市を奇襲爆撃することになっていた。日本本土爆撃は中国空軍が行うことになっていたが「実際はフライング・タイガース」と呼ばれるアメリカの義勇兵が行うことになった。

    「日本という赤子をあやす」

    1941年8月1日、アメリカは戦略物資の対日全面禁輸(石油、等)と在米日本資産凍結を行った。 日本に戦争の第一発目を打たせようとして、日本ののど元を締め上げた。

    ルーズベルトの「ホップ・アップ・クルーズ」作戦は3回にわたって実施された。 1941年8月2日 海軍省が、グルー米駐日大使に抗議した。「米海軍が7月31日、巡洋艦を豊後水道の日本領海に侵入させた。」と文書で抗議した。海軍は宿毛沖で米巡洋艦2隻を発見したが、発砲しなかった。

    1941年8月14日、ルーズベルトとチャーチルは北米ニューファンドランド沖で、戦艦プリンスオブウエールズなどで会談し「大西洋憲章」を発表した。この会談でチャーチルはアメリカに対し対ドイツ即時宣戦を求めた。がルーズベルトは「中立法」があるからすぐにはできないと拒否した。しかしルーズベルトは、「あと数か月は日本という赤子をあやすつもりだ」しばらく待つように、と語ってチャーチルを喜ばせた。

    1941年8月17日、野村大使はルーズベルト大統領と会見して、「近衛首相がルーズベルト大統領とハワイにおいて日米首脳会談を行って、懸案事項を一挙に解決したいと望んでいる」と提案した。ルーズベルトは、「医者から、飛行機に搭乗することを禁じられているから、日米の中間点のアラスカのジュノーで行いたい」と答えて期待を持たせた。

    1941年8月28日、野村大使はルーズベルト大統領と再び会見して、近衛首相から日米首脳会談を開催することを、公式に提案する親書を手渡した。近衛首相は「両首脳が会見して日米関係を対処高所から時局を収拾したい」と述べていた。

    ルーズベルトは喜んだふりをして「再度ハワイでなくアラスカのジュノーで、3,4日間くらい会談したい」 近衛公の会談を希望すると述べた。

    野村大使は大統領との会談の成果を受けて、その直後にハル国務長官を訪ね、「日米首脳会談の期日について、 9月21日から25日にもようすことを希望する、近衛首相の随行員は約20名である」と述べた。

    9月6日駐日アメリカ大使グルーは日記に、近衛首相がグルー を会食に招待し、「日本政府は、ハル国務長官が、日米関係を復旧するための4原則に決定的かつ全面的に同意すると述べた」 と記した。

    ところがルーズベルトは、会談の前に会談の前提として、4原則以外に原則の合意が必要であるとして、なかなかトップ会談は実現しなかった。

    もとよりルーズベルト大統領は、日本と戦うことを決めていたので、日米交渉が妥結することを望んでいなかった。日本をあやしていたのだった。



    直前まで対米戦争を想定していなかった日本

    日米首脳会談に望みをかけた近衛首相

    第二章 米政府が秘匿した真珠湾の真実

    開戦を前にした昭和天皇の懊悩

    悲痛の極み、宮中御前会議

    1941年(昭和16年)9月6,7日、天皇が臨席されて、宮中御前会議が開かれた。 御前会議の二日目、に、次のように決定された。

    1:帝国は字損自衛を全うするため、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意のもとに、おおむね10月下旬を目途に、戦争準備を完了する。

    2:帝国は右に並行して、米英に外交の手段を尽くして、帝国の要求貫徹に努む。

    3:前号外交により、10月上旬に至るもなお、わが要求を貫徹し得るめど無き場合においては直ちに、対米(英蘭)開戦を決意す。

    最後に長野軍令部総長が次のように述べた。

    「政府側の陳述によれば、アメリカ側の主張に屈すれば、亡国は必至であるということでありますが、戦うもまた亡国かもしれません。すなわち、戦わざれば亡国必死、戦うもまた亡国必死ならば、戦わずに亡国にゆだねることは、身も心も民族にとって永遠の亡国になりますが、戦って、護国の精神に徹するならば、たとえ戦いに勝たずとも、祖国護持の精神が残って、我々の子孫は再起,三起するでありましょう」

    これは直ちに野村大使に要旨が訓令された。

    日本はこれらの外交暗号訓令がアメリカ側に、解読されていることを知らなかった。

    アメリカはこの日本の焦りをを知り、日本がアメリカの罠にかかりつつあることを知りほくそ笑んだに違いない。

    山本五十六の無責任発言

    アメリカに筒抜けだった連絡会議の結論

    1941年(昭和16年)5月15日 ハル国務長官、野村大使に日米了解案提出 満洲国承認、中国一部駐兵含む日本修正案を拒否似ても似つかないハル案を提出


    1941年(昭和16年)6月22日 ドイツソ連攻撃黒海から北氷洋までと駐独大使に説明


    1941年(昭和16年)7月7日米国デンマーク領アイスランド進駐、対独戦必至


    1941年(昭和16年)7月日米国、戦争準備「勝利計画」陸海総兵力1000万人、輸送船、1800万トン、 空軍対独7000機対日6000機空母艦載機15000機、海軍艦船、140万トン、この完了に1.5年から2年。本格攻撃は1943年7月1日に


    1941年(昭和16年)7月24日、日本 南部仏印進駐


    1941年(昭和16年)8月2日 米国 対日石油くず鉄全面禁輸在米日本財産凍結。


    日本石油輸入、米から75%、残りは,蘭印、北樺太。


    1941年(昭和16年)8月、参謀本部田中作戦部長関東軍特別演習85万戦時体制へ北進論北方問題解決策


    1941年(昭和16年)8月、独軍モスクワ400kmに到達、ヒットラー目標変更石油確保のためロシア南部攻撃へ


    日本近衛内閣 対米交渉ハワイ首脳会談案対米案は従来通りも、首脳会談で米案丸のみ、天皇の裁可を得て。これが漏れ近衛内閣崩壊


    1941年(昭和16年)9月7日 近衛対米英戦争決意


    1941年(昭和16年)9月、独軍再度モスクワ攻撃へ


    1941年(昭和16年)10月16日、近衛内閣が総辞職し、翌日東條英樹陸相に組閣の大命が下った。

    東條は、天皇から、組閣の大命を拝受したときに、木戸から天皇の御意志が、9月6,7日の御前会議の決定にとらわれることなく、白紙に戻して、国策を再検討することであることを告げられて、天皇の御意思に従うことを決めた。

    1941年(昭和16年)10月 東條内閣島田海相対米戦了解


    1941年(昭和16年)10月 ロシア冬将軍早期到来活発化。


    ロシア極東軍、西部への移動は3分の1のみ。日本の北進論警戒。


    極東ソ連軍30個師団、戦車2700両、航空機2800機,独ソ開戦時。日本関東軍、12個師団、戦車450両、航空機720機(関東軍特別演習時前、関東軍特別演習増強を考慮してもソ連軍より圧倒的に少ない)


    東條内閣対米戦決意白紙還元。


    1940年(昭和15年)9月27日、日独伊三国同盟


    日本対米戦争は不可、国力日本は米国の20分の1(実際は12分の1)


    日米海軍比率対米推定、1941年 0.75,1942,0.65.1943,0.5.1944,0.3.と全く歯が立たなくなる。
    航空機のみに限れば1942年から1944年の間でアメリカは日本の5倍前後であり、海軍機に限れば10倍程度になる。
    石油備蓄量が平時の2年分しかなく戦時では1.5年程度だ。


    輸送船推定、1941,650万トン、開戦3年目に年、0!!に
    これらを総合すると開戦するなら早期開戦しか道はなかった。1941年末までが条件だった。
    日本がアメリカと戦うためには対米比率が有利な時期に開戦し、初期作戦において米艦隊に大打撃を与える、それのみが対米戦長期持久戦を戦える見込みであった。翌年春になれば北方ソ連軍が自由に行動できるようになり、南方武力行使は、背後の問題があり危険であった。北方の安全が確保される1942年冬を待てば対米艦船比率や石油備蓄量等の条件からもはや勝ち目はない。開戦するとすれば1941年末しかなかった。

    1941年(昭和16年)11月、東條内閣。対米。米案丸呑み。南部仏印撤退、米国は日本に石油を供給する。米援蒋停止、アメリカに提出

    下記 乙案


    米ハル国務長官。同案を評価受け入れ可能と、


    ハル暫定案作成。南部仏印撤退、石油禁輸解除は3か月とし延長条項。米援蒋停止触れず 英、中、蘭に通知と


    中國反対、チャーチルは中国に同調、


    米ルーズベルト大統領チャーチルに同意


    日本艦隊の攻撃を待ち望むアメリカ



    開戦強要の最後の一手



    1941年(昭和16年)11月27日、 米国、 いわゆるハルノート日本に提示中国からの全面撤退三国同盟脱退 実質対日開戦


    ハルノート。ハル4原則の無条件承認、中国・仏印からの無条件全面撤兵、南京汪兆銘政権の否認、三国同盟義務からの離脱

    今までの日米交渉経緯を全く無視した、ちゃぶ台返し。

    東郷茂徳外相は誠意の人だった。 「ハルノート」を受領したとき、「自分は目も眩むばかりの失望に撃たれた。」と述べ、「米国が今までの経緯および一致せる範囲をすべて無視し、従来とった、最も強硬な態度さえ超えた要求をここに持ち出したのは明らかに平和的解決に到達せんとする、熱意を有しないものであり、ただ日本に全面的屈服を強要するものである。(略)これは日本の自殺に等しい。(略)もはや立ち上がる外ないということであった。」とA級戦犯としてとらわれて、獄中で病死する前に記した。開戦の詔勅が「今や不幸にして、米英両国と戦端を開くに至る、まことにやむを得ざるものあり豈朕が志ならんや」と述べ、「ことすでにここに至る帝国は今や、自存自衛のため、決然起って一切の障害を破砕する、の外無きなり」という言葉が続く・・・。


    1941年(昭和16年)12月1日、 独軍モスクワ前40km到達


    日本対米英開戦ニイタカヤマノボレ


    1941年(昭和16年)12月8日、 ソ連シベリア軍団対独戦に到着反撃開始


    日本軍、日本時間、0630:午前6時30分マレー半島上陸開始0730:午前7時30分ハワイ攻撃開始0800:午前8時対米国交断絶通知。対英米宣戦布告


    対米対米国交断絶通知、30分の遅れが、真珠湾だまし討ちとアメリカが宣伝した。しかしアメリカは1898年の対スペイン戦争も19世紀の対メキシコ戦争も宣戦布告していない。 戦後の、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、アフガニスタン戦争、すべて宣戦布告なしで戦争を始めている。イギリスは、1時間30分前に攻撃されたが、宣伝はしていない。 ロシアのウクライナ戦争も宣戦布告していない。

    ここに書いた情報は次の資料による。

    1.昭和陸軍全史3(川田 稔著)を中心として

    2.独ソ戦 大木毅著

    3.なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか(祥伝社新書287) 加瀬 英明 、 ヘンリー・S・ストークス

    日本艦隊の攻撃を待ち望むアメリカ

    開戦強要の最後の一手

    その時ルーズベルトは何をしていたか

    なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか

    万策尽きての開戦決定

    暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府

    ハワイにだけは情報を伝えなかった謎

    アメリカの参戦決定とちゃちるの感激

    ルーズベルトは如何にして四選を果たしたのか

    終戦の方策を考える余裕すらなかった日本

    アメリカで追及された、真珠湾奇襲の真相

    終戦一年半前に作られた日本占領統治計画

    日本国憲法に込めたアメリカの狙い

    第三章 日本人が知らない日本の歴史的功績

    盧溝橋事件は日本の仕掛けではなかった

    東京裁判で裁かれた「平和に対する罪とは」

    日米戦争の原因の一つは人種差別

    トルーマンもマッカーサーも人種差別主義者だった

    トインビーが日本に与えた歴史的評価

    軍人としては無能だったマッカーサー

    マッカサーの非武装中立論

    日本の「宗教改革」をたくらんだマッカーサー

    ルーズベルトを「狂人」と呼んだフーバー元大統領

    第四章  この教訓から何を学ぶか

    国際政治はいかに非常であることか

    まやかしの「平和主義国家」

    無責任なコンセンサスに縛られた「日本国憲法」

    小室直樹氏の吉田茂に対する辛辣な評価

    インドとインドネシアの独立に果たした日本の役割

    第二部 ペリー襲来から真珠湾への道  ヘンリー・S・ストークス



    第2節 国際石油会社の誕生と発展 このページを印刷する場合はこのリンクをクリックしてください。

    このページは、目次の中の資料編の中の石油産業の歴史:第1章 国際石油産業の中の第2節 国際石油会社の誕生と発展のページです。

    世界市場におけるロシアの台頭 スタンダードとシェルの競争 ロイヤル・ダッチ/シェルグループの成立 7大メジャーズの出現 第一次世界大戦後の列強による資源獲得競争 国際石油カルテルの成立

    1. 世界市場におけるロシアの台頭 ロシアの石油産業は1870年代中ごろから急速に発展し、原油生産量は1870年のわずか20万バレルから、1890年には2,900万バレルに増大した(表 1-2-1)。

    ロシア灯油がオーストリア、ハンガリー、英国に初めて姿を現したのは1883年であったが、2年後には9ヵ国で、さらにその2年後には17ヵ国で米国灯油と競争するほどになった。発展の原動力となったのは、後年、ノーベル賞で名前を馳せる、スウェーデンのノーベル兄弟(Robert Nobel、Ludwig Nobel)とフランスのロスチャイルド家(Rothschilds)であった。

    ノーベル兄弟は1875年、ロシアの石油地帯であるバクーに進出して製油所を建設し、続いて産油部門にも参入、ほどなく諸外国に販売設備をもつまでに成長した。この過程で、米国から削井機を導入、原油パイプラインや鉄道タンク車など輸送手段を整備、ロシア国内で重油市場を開拓、内航船ではあったが世界で最も早く鋼鉄船により中味輸送を実施(世界最初のタンカー)、同じく世界最初の連続蒸留法を企業化するなど、様々な革新を進めていった。

    なお、1879年にはノーベル兄弟産油会社(The Nobel Brothers Petroleum Production Co.)が設立された。こうしてノーベル兄弟は、1888年にはロシア灯油の3分の1を生産するまでに成長していた。

    表 1-2-1 主要国の原油生産量の推移(1930年以前) [PDF 51KB]

    一方、ロスチャイルドは、バツーム鉄道に対する融資と交換に、バクーの石油権益を獲得し、1883年にカスピアン・アンド・ブラックシー・ペトロリアム(一般にロシア語の頭文字をとってBnito:ブニトと呼ばれた)を設立した。ブニトは、多数の小規模製油業者と契約してロシア灯油の最大輸出業者となり、ヨーロッパでの販売網の整備を進めるとともに、1880年代後半には東洋市場へも進出した。

    このようなロシア石油産業の著しい発展によって、ロシア灯油の世界市場シェアは、1884年の3%から1889年には22%にまで上昇した。

    これに対して、米国灯油のシェアは97%から78%へと低下し、ロシア灯油は、米国灯油にとって強力なライバルとして、無視できない存在となった。 ページの先頭へ移動します。

    2. スタンダードとシェルの競争 英国の貿易商マーカス・サミュエル(Marcus Samuel)は、1891年にブニトを支配するロスチャイルドとの間で、1900年を期限とするロシア灯油の独占販売契約を締結した。これは、ロシア灯油の東洋市場向け大量輸出の道をひらく画期的な出来事であった。

    マーカス・サミュエルは、1897年にシェル運輸貿易会社(Shell Transport and Trading Company:以下シェルと略す)を設立して、彼の石油事業を継承させた。

    こうして、1890年代には米国灯油とロシア灯油、つまりスタンダードとシェルの衝突は不可避となった。

    この間、スタンダードは1880年代末ごろから、ヨーロッパ主要市場で4分の3の販売シェアを頑強に維持する代わりに、重要性を増しつつある東洋市場へのロシア灯油の進出を妨害しない、という作戦をとったといわれる。実際にも、ロシア灯油の進出は特に東洋市場でめざましかった。 ページの先頭へ移動します。

    3. ロイヤル・ダッチ/シェルグループの成立 スタンダードとシェルに支配されるようになった東洋市場に、1890年代後半には強力な新勢力としてロイヤル・ダッチ(Royal Dutch、正式名は Royal Dutch Petroleum)が登場した。

    1890年に設立されたオランダの石油会社ロイヤル・ダッチは、蘭印(オランダ領東インド:現インドネシア)に属するスマトラ東海岸で生産される原油を精製するため、パンカラン・ブランダンに製油所を完成させ、1892年にシンガポールやマレー半島向けの灯油の輸出を開始した。その4年後には、蘭印からアジア・大洋州(日本、中国、東インド、オーストラリア)向けの輸出量は300万バレル以上に達し、米国からの同地域向け輸出量にほぼ匹敵するに至った。

    この三者は激しい販売競争を行うと同時に、提携相手の模索にも力を入れた。1901年、シェルはスタンダードとロイヤル・ダッチの双方と並行的に提携交渉を進めていたが、同年12月、スタンダードとの交渉を打ち切って、ロイヤル・ダッチとの提携について原則的に合意し、いわゆる「英蘭協定」(British-Dutch Agreement)を締結した。

    この協定だけでは、シェルとロイヤル・ダッチの販売競争は収まらなかったが、1903年6月、両者にロスチャイルドが加わって、「東方でのお互いの競争をやめるために」三者合弁(出資比率は対等)のアジアチック・ペトロリアム(Asiatic Petroleum Co.)が設立された。ロスチャイルドは、ブニトによって東洋市場向けロシア灯油をシェルに供給していただけでなく、ロイヤル・ダッチにもロシア灯油を供給していた。

    また、1907年にはロイヤル・ダッチとシェルの一本化が成立し、前者60%、後者40%の持ち分によって、両者の事業を共同化することになった。これにより、ロイヤル・ダッチ/シェルグループ(以下シェルと略す)が形成され、アジアチックもこの新組織に組み込まれた。 ページの先頭へ移動します。

    4. 7大メジャーズの出現 このようにして、米国の石油資源に基盤をおくロックフェラーのスタンダードグループと、東南アジアの石油資源に基盤をおくシェルグループが二大勢力となったのである。

    1908年、英国人ウィリアム・ノックス・ダーシー(William Knox D'Arcy)がペルシャ(現イラン)で最初の油田を発見したが、1909年には、これを母体として、後のブリティッシュ・ペトロリアム(現在のBP)の原形であるアングロ・ペルシャン石油会社(Anglo-Persian Oil Company)という、もう一つの国際石油企業が設立された。

    一方、米国ではテキサス、カリフォルニアの各州で新しい油田の発見が相次ぎ、スタンダードグループ以外にも大きな石油会社が出現してきた。1901年にテキサス燃料会社(Texas Fuel Company:1903年にTexas Oil Companyに社名変更、後のテキサコ)、1907年にはガルフ石油会社(Gulf Oil Corporation)が設立された。

    そして、1911年に米国のシャーマン反トラスト法(Sherman Antitrust Act of 1890)の適用により、持株会社としてスタンダード石油グループを統轄していたニュージャージー・スタンダード石油会社(Standard Oil Company of New Jersey:後のエクソン、現在のエクソンモービル)は持株会社の地位を失い、スタンダードグループを構成していた30を超える石油会社は、独立した石油会社として、互いに競争することとなった。この中から、カリフォルニア・スタンダード石油会社(Standard Oil Company of California:後のシェブロン)やニューヨーク・スタンダード石油会社(Standard Oil Company of New York:後のモービル、現在のエクソンモービル)が発展していった。

    スタンダード石油3社(ニュージャージー/カリフォルニア/ニューヨーク)に、シェル、アングロ・ペルシャン、テキサス、ガルフを加えた国際石油企業は一般に7大メジャーズ(Majors)と呼ばれた。20世紀初頭に7大メジャーズを中心とする国際石油産業の体制はほぼ整ったのである。 ページの先頭へ移動します。

    5. 第一次世界大戦後の列強による資源獲得競争 1914年に始まり、1918年に終わった第一次世界大戦では、飛行機、戦車、重油専焼艦艇などが活躍し、石油が戦略的にきわめて重要な物資であることを世界的に認識させた。こうして、動力エネルギー源としての石油の価値が高まっていき、「灯油の時代」から「動力あるいはエネルギーの時代」へと移っていった。

    米国の原油生産量は、1910年には2億バレルを越え、世界の60%以上を生産しており(表 1-2-1)、1921年には世界の石油貿易量の50%以上を輸出していた。しかも、その輸出量の87%は原油ではなく、石油製品であった。1920年代に入ると、米国にも石油資源の枯渇を懸念する声が高くなり、はじめて米国の大手石油会社が、製品市場だけでなく、石油資源を求めて国際的に動き出すようになった。

    しかし米国の石油会社は、東半球の重要石油資源からは、ほぼ完全に締め出されていた。当時の中東の唯一の産油国ペルシャの石油利権は、英国のアングロ・ペルシャンに独占され、英国政府は第一次大戦勃発直前の1914年5月に、同社株式の過半数を獲得して立場を強化していた。

    また、有望視されていたメソポタミア(現イラク)を含む、広大なオスマン・トルコ帝国の石油資源を対象として設立されたトルコ石油(Turkish Petroleum Co.)の持株比率は、1914年3月、英国、ドイツ両政府を含む関係者間協定によって、アングロ・ペルシャンが50%、シェルとドイツ国立銀行がそれぞれ25%と決まった。

    その後、第一次世界大戦開戦後の1915年に英国、フランス両政府は秘密交渉を開始し、戦後の1920年4月のサンレモ協定によって、ドイツ国立銀行の持ち分25%をそのままフランス政府に与えることが決められた。これによってフランスは、大戦の戦訓に基づき石油供給源へ直接参入を果たした。サンレモ協定は、英仏石油連合の形成として世界的な反響を呼び、米国では石油業界、政界、報道機関に大きな衝撃を与えた。メソポタミアへの参入をねらう米国の石油会社と政府は、英国に対して「門戸開放」を求めて繰り返し抗議し、外交的緊張が高まった。

    1922年6月、アングロ・ペルシャンがニュージャージー・スタンダード石油会社に対し、トルコ石油問題に関する代表団派遣を求めたのをきっかけに、問題は解決に向かったが、最終解決には1928年まで6年間を費やした。 ページの先頭へ移動します。

    6. 国際石油カルテルの成立 アクナカリー協定の締結 第一次大戦直後にあった、ロシア革命による原油生産の混乱などを理由とする石油供給不安はごく短期間で解消し、3〜4年後には、逆に供給過剰を露呈した。しかも1920年代後半、米国でオクラホマ州のセミノール、カリフォルニア州のケルトマンヒルズなど大油田の発見が相次ぎ、原油供給力は一層増大した。これに加えて米国外でも、ベネズエラ、ソ連、ペルシャなどで生産が増強された(表 1-2-1)。

    石油供給過剰を背景として、ソ連石油への対応をめぐって対立していたシェルとニューヨーク・スタンダード石油会社は、1927年秋からインド、次いで英国、米国本土で激しい値引き競争を展開、その余波は我が国を含む世界主要地域に広がり、石油企業に壊滅的な打撃を与えた。

    これを契機として、1928年9月、国際石油市場のビッグスリーであるニュージャージー・スタンダード石油会社、シェル、アングロ・ペルシャンは「アクナカリー協定」または「現状維持協定」と呼ばれる包括的なカルテル協定を締結した。

    同協定は、全世界で生産を中止している油井の生産能力(Shut-in Production)が実際に消費される原油生産の60%に達し、過当競争が膨大な供給過剰をもたらしているとの前提に立って、米国外における各社の市場シェアを、将来とも原則として1928年当時のものに固定することを骨子としていた。これがつまり「現状維持」の原則である。

    赤線協定の成立 同じころ、中東の石油資源支配の歴史が大きく進展した。すなわち、1928年7月、前述のように長期間の交渉が続いていたトルコ石油(1929年に社名をイラク石油に変更)の持株比率が決定し、米国石油会社としてニュージャージー・スタンダード石油会社とソコニー・バキューム石油会社(Socony-Vacuum Oil Company:ニューヨーク・スタンダード石油会社と潤滑油専業会社バキューム石油会社が1931年に合併して誕生)の参入が実現した。

    これと同時に、主としてフランス側からの提案に基づいて、トルコ石油参加各社は、旧オスマン・トルコ帝国領土内で、実質的に石油利権の共同所有と共同操業を義務付けられた。その範囲は地図に赤線で示され、ペルシャとクウェートを除く中東の重要地帯のすべてを包含していた。このため、このときの協定は「赤線協定」と呼ばれるようになった。赤線協定は、英国、米国、フランス各国政府の承認のもとに締結され、単に国際石油会社間の協定にとどまらず、政府間協定の性格をも兼ね備えており、中東石油資源の支配構造に大きな影響を及ぼした。

    石油が発見される以前のサウジアラビアも赤線協定の対象地域に含まれていたため、米国石油会社ながら同協定に参加していなかったカリフォルニア・スタンダードがここに注目し、交渉の末1933年に単独で石油利権の取得に成功した。この石油利権は、1936年にテキサス会社との共同所有になった。

    このようにして、国際石油企業が相互に提携しあって、米国内を除く自由世界の主要石油資源を独占する体制が形成された。

    さらに、1930年代に入ると、石油需要の拡大とその市場の国際的な発展のために、国際石油会社の再編成が実施された。すなわち、ニュージャージー・スタンダード石油会社とソコニー・バキューム石油会社が、スエズ運河から東の諸地域で共同して事業を行うため、1933年にスタンダード・バキューム石油会社(Standard-Vacuum Oil Co.:略称Stanvac)を折半出資で設立したほか、カリフォルニア・スタンダード石油会社とテキサス会社は、東半球全域で共同事業を営むために、1936年にカルテックス(Caltex、正式名はCalifornia Texas Oil Company)を設立した。

    かかる状況下で、第二次世界大戦が始まったのである。この大戦は、軍需物資としての石油の重要性をさらに高める結果となり、国際経済上および国防上の観点から石油問題を単に大企業であるメジャーズのみの問題とせず、政府の外交・経済・国防政策上の問題とするに至ったのである。

    大東亜戦争(太平洋戦争)日本の英雄



    11.沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ  県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ 12.中川州男とペリリュー島の戦い〜バンザイ突撃の禁止、 相次ぐ御嘉賞と将兵の奮闘

    13.硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい[注 1]、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、第二次世界大戦末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation Detachment)。





    14.占守島…日本を分断から救った男たち #樋口季一郎日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきたソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」です。 15.妻を後部座席に乗せソ連軍へ特攻〜書評『妻と飛んだ特攻兵』 1. 9軍神 開戦劈頭の大戦果として,特殊潜航艇で真珠湾攻撃

    2.淵田 美津雄 真珠湾奇襲 攻撃隊長

    3.空の神兵(そらのしんぺい)とは、大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊(空挺部隊・挺進部隊)、落下傘兵

    3.坂井三郎 ガダルカナル上空で被弾し片目を失いながら1000kM操縦しラバウルに帰還したエースパイロット

    4. マレー沖海戦 【日本海軍】 ■指揮官 「松永貞市少将」

    5.加藤隼戦闘隊(かとうはやぶさせんとうたい、)とは、大東亜戦争初期に活躍した加藤建夫陸軍中佐

    6. ラバウル航空隊(ラバウルこうくうたい)とは、第二次世界大戦時、ニューブリテン島(現在のパプアニューギニア)のラバウル基地に集結してこの空域に展開して戦闘に参加した、日本海軍・陸軍の各航空隊(航空部隊)の総称である。

    7.ガダルカナル島撤収作戦(がだるかなるとうてっしゅうさくせん)は第二次世界大戦中に行われた日本軍の撤退作戦。作戦呼称は「ケ号作戦」。由来は捲土重来(けんどちょうらい)による[要出典]。

    8.キスカ島撤退作戦(キスカとうてったいさくせん)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)5月27日から7月29日に行われた、日本軍のキスカ島(アメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島内)からの守備隊撤収作戦のことである。

    9.アッツ島玉砕 アッツ島の戦い(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島で、アメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である[1]。

    10.拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)は、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で行われた、日本軍と中国国民党軍・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。

    9月9日、中華民国総統の蒋介石が、部下将兵に与えた訓示である。これこそは、敵側が如何に拉孟守備隊の勇戦に苦しめられたかを明確に示す証拠であり、蒋介石から拉孟の将兵に手向けた逆感状とも言えるであろう。 「松山陣地(拉孟陣地と同義)は9月7日、我が軍において攻占するところとなり、欣快に堪えず。(中略)戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。(中略)  諸子はビルマの日本軍を模範とせよ。拉孟において、騰越において、ミートキーナにおいて、日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し」

    11.中川州男とペリリュー島の戦い〜バンザイ突撃の禁止、 相次ぐ御嘉賞と将兵の奮闘

    12.硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい[注 1]、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、第二次世界大戦末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation Detachment)。













    拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)は、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で行われた、日本軍と中国国民党軍・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。

    すでに南部を占領していた日本の部隊は援?ルートの遮断のために派遣された小規模なもので、進出した当初の1942年頃は中国軍に対して優位に立っていたが、援?ルート遮断後もアメリカ軍の空輸によって中国軍への支援が継続されたため、連合軍の指導によって近代的な装備を身につけた中国軍が1944年より反撃に転じ、日本軍は補給路を断たれ孤立し、拉孟守備隊および騰越守備隊は最終的に玉砕した。硫黄島などの孤島において玉砕したケースは多いが、この戦いは大陸において玉砕した珍しいケースとして知られる。しかし、中国軍も陣地に立てこもる日本軍の防御戦闘により部隊比では日本より死傷者を出した。

    経緯

    拉孟、騰越の戦い

    https://blog.goo.ne.jp/kitasan999_555/e/2129583bcd02de72e3d323057bd6974f  民の琴線に触れる戦いがある。特に10倍を超す敵に囲まれ最後の一兵まで戦った場合には、その記憶は千年の時を超す。ユダヤ人は2千年前(紀元70〜73年)のマサダの戦いを、団結の象徴として昨年のことのように話す。

     紀元66年のユダヤ戦争。ローマ帝国からの独立を目指して立ち上がったユダヤ人は、エルサレムで敗れ追い詰められて967人の女子供を含む集団が、急峻なマサダの砦に立て籠もった。1万5千人のローマ軍兵士が砦のある丘を包囲したが、周囲は断崖絶壁で唯一の登攀路を塞がれて手が出せない。そこでローマ軍は2年の歳月をかけて大規模な土木工事を行い、角となる木材と大量の土砂を運んで絶壁の一方向を埋め立てた。古代の土木技術は侮りがたい。ついに絶壁にゆるやかなスロープを作り出した。満を持したローマ軍が砦に突入するが、予想された抵抗はなかった。中にいたユダヤ人は集団自殺を遂げていたのだ。生き残ったのは、穴に隠れていた2人の女と5人の子供だけだった。

     アメリカ人にとって心を熱くする戦いはアラモ砦の防衛戦だろう。こちらは1836年2/23〜3/6の13日間包囲されたが、総攻撃により一日で砦は陥落し、守備隊は全滅した。砦に籠ったのはテキサス分離独立派、当時のテキサスはメキシコ領だった。トラヴィス隊長のもと、西部で名高いジム・ボウイとデイヴィー・クロケットが参戦し183〜250人の男達が戦った。

     攻めるのはサンタ・アナ率いるメキシコ共和国軍4,5千人だが、総攻撃の時には1,600人で攻め3〜400人のメキシコ兵が戦死した。アラモ砦の犠牲により貴重な時を稼ぎ結束したテキサス独立軍は、「リメンバー・アラモ」を合言葉にメキシコ軍を打ち破りサンタ・アナを捕虜にする。

     日本軍は太平洋の島々や沖縄で米軍と死闘を繰り広げるが、自分の琴線に触れる戦いはビルマと中国雲南省の国境付近で行われた。拉孟(ラモー)・騰越(トウエツ)の戦いには心を揺さぶられる。平静ではいられず、心が高ぶるのだ。拉孟は怒川の西岸、恵通橋を見下ろす海抜2,000mの山上にある廃村を基にした陣地で、周囲を山と渓谷に囲まれ西方のみが龍陵に通じている。四季の変化に富み特に秋は美しい所だそうだ。一方騰越は、最前線の拉孟から北東に60km、平野の中央にある人口4万の城郭都市で、東は山脈を縦走して保山、昆明へと続く。

     日本軍は何故このような山奥に攻め入り、陣地を築いたのか。それは連合軍の援蒋ルートを断つのが目的である。太平洋戦争が始まる前の5年間、日本と中国は激しく戦っていた。個々の会戦では常に日本軍が勝利を収めていたが、倒しても倒しても新手の中国軍が現れる。前線が進むにつれ、占領地である後方の物資集積所、小規模駐屯地、鉄道や輸送隊等が襲撃される。後方の防衛を固めようとすると、守備に限りなく人員が必要になる。前線は先に進み占領地は増え、守備部隊を増やしてもその中で手薄な所や輸送隊が襲われる。日本は徴兵を進めついに100万の兵力を中国に送り込んだ。

     南方へ行き、太平洋戦争で米英蘭軍と戦った日本軍は、中国に張り付いた兵力の1/4〜1/5に過ぎない。日本陸軍は8年間、もしくはそれ以上の期間中国に居続けた。その日本軍と対峙していたのが200万を超す中国軍である。蒋介石を負かせてはならない。100万の戦慣れした日本兵を他の戦場へ向かわせたら恐ろしいことになる。連合軍、特に米国は太平洋戦争以前、ビルマのラングーンに大量の軍需物資を陸揚げしてビルマから中国、雲南省を経由して重慶にいる蒋介石のもとに送った。この援蒋ルートを断ち切るのが日本軍の狙いだった。アメリカは陸路が封鎖された後は、ヒマラヤ超えの危険な空輸で蒋を支えた。今でもヒマラヤ山脈から中国の奥地には、大戦中の大型輸送機の残骸が散らばっているはずだ。

     蒋介石の元にはアメリカから派遣されたジョセフ・スティルウェル大将がいて、米軍の援助物資を装備した中国軍を訓練していた。近代装備を持ち訓練された新編師団(雲南遠征軍)が満を持してビルマに進入してきた。中国人指揮官、衛立煌の率いる20万人で、装備は日本軍よりも遥かに近代的だ。英印軍だけでも手一杯の所に新規の20万とは。最前線基地の拉孟はたちまち包囲された。

     拉孟守備隊は当初2,800名の兵力だったが、指揮官の松山大佐は命を受け、兵を割いて出撃し侵入してきた雲南軍の一部を撃退した。その後松山隊はミイトキーナ南方に降下した英軍空挺部隊の掃討等に転戦し、6月5日騰越に入った。拉孟に残された守備隊は1,280名で、その内300名は負傷兵であった。拉孟を包囲した中国軍は4万8千名で、残りの雲南軍は騰越、龍陵、平戛に向かった。

     1944年6月2日午後、雲南遠征軍の砲撃が始まった。この日から9月7日に陣地が陥落するまでの66日間、拉孟守備隊は攻撃を再三防ぎ、敵二個師団を壊滅させ戦死4千、負傷3,774人の損害を与えた。雲南軍司令官衛立煌大将は、日本軍の強さに舌を巻きこう語った。『火砲の力を入れると、こちらは日本軍の十倍以上の戦力である。それが千五百そこそこの日本軍に軽くあしらわれてしまったのである。何という強い日本兵なのだ。』

     敵将があきれるほどの勇戦を指揮した金光少佐(死後大佐)は小学校しか出ていない。貧農の子で村では神童と言われていたが、一兵卒からたたき上げ伍長、軍曹を経て幹部候補となり将校にまでなった。元が貴族社会の英国ではほぼあり得ない昇進だ。さんざん悪く言われる帝国陸軍だが、このような将校を生みだすところは素敵だ。金光少佐は常に温厚で部下思い、自ら率先して事を成すタイプで、部下からはこの人の下でなら死ねる、と慕われていた。拉孟守備隊は、限られた資材を使って陣地を複合的に設営し、死角を無くしてどこからでも十字砲火を浴びせて敵に出血を強いる構造を効果的に作り上げた。度重なる砲撃による破損は、夜間に不断に補修を行った。

     6/7、雲南軍の攻撃を迎撃し、敵の将軍を戦死させた。6/14、別師団による北方からの攻撃。6/20、敵主力2個連隊が再攻撃、これを粉砕するも砲撃戦で守備隊の弾薬庫が被弾破裂した。これは大きな痛手となった。砲弾が残っていたら、雲南軍の犠牲はもっと大きかったに違いない。6月末、2年前に日本軍の急追を逃れるために自ら爆破した恵通橋を復旧。これにより雲南軍の補給物資がトラック輸送により、陸続と戦場に運び込まれた。

     6/28、日本陸軍機10機飛来、上空より空中補給。その後も度々飛来。7/4〜15、雲南遠征軍第2次総攻撃。ロケット砲と火炎放射器が加わり、守備隊は大きく兵を失った。残存兵力は500を切り、生き残った兵も多くは傷ついていた。守備隊の砲弾は欠乏して撃ち返すことが出来なくなった。天候は雨季に入って壕内は膝までぬかるみと化し、守備兵は脚気とマラリアに苦しめられた。

     守備隊は夜になると数名づつ陣地の前面に出て、雲南軍の死体の山から武器・弾薬・食糧を拾い集めた。ビルマ方面軍は、連合軍によって新たに築かれつつある補給ルートを遮断し、同時に拉孟・騰越守備隊を救援するという「断作戦」を発令した。救援部隊を9月上旬に拉孟に送ると約束し、拉孟守備隊は希望を持ったが、実は最前線の拉孟は最初から見捨てられていた。戦略的にも無意味なインパール作戦によって、虎の子の精強な3個師団と1旅団を失い、日本軍と英印軍の戦力対比が最大1:10となり、制空権も失っていた。本土から派遣されてきた京都の師団は弱兵で役にたたない。かろうじてミートキーナ(現ミッチーナ)から一部の部隊が撤退出来たのが精一杯であった。ミートキーナから退却出来たのは10人に1人に過ぎないが、拉孟と騰越で敵を引きつけて時を稼いでくれたから全滅せずにすんだ。当初ミートキーナにも死守命令が出ていたが、わずかな兵を率いて救援に赴いた水上少将が自決をして名目的に死守命令を守り、部下を撤退させた。

     7/20、第3次総攻撃。この攻撃は昆明から呼び寄せた新しい部隊によって行われ、拉孟陣地には一日当り7〜8,000発の砲爆撃がなされた。攻撃部隊が陣前に肉薄して投げ込む手榴弾を、守兵が拾って投げ返す。陣内に突入してきた敵兵は、得意の白兵戦で刺し殺し殴り殺す。7/25頃には兵力は300名に減少した。砲弾は最後の一発を残して既に無く、歩兵弾薬は欠乏し食糧庫を焼かれ、8月以降は乾パン一袋を2日に食い延ばすようになった。

     7/27、ビルマ方面軍司令官より、拉孟守備隊の勇戦に対し感状が届く。翌日第33軍司令官からも感状。8/2、複数ある陣地のうち、本部陣地が陥落。8/12、挺身破壊班を編成、4名1組の破壊班を7組送り出して雲南軍を奇襲。破壊班は民間人に変装して遠征軍の包囲をすり抜け、火砲5門その他を破壊し、戦利品を持って帰還。損害は戦死2名であった。この攻撃で守備隊の士気はあがった。

     さて拉孟陣地に空輸に来た陸軍機だが、速力の早い一式戦・隼なので狭い陣地にピンポイントで投下するのは困難で、半分は敵の手に渡ってしまった。また地上からの砲火に加え、敵戦闘機が待ち伏せるようになって撃墜される機が出始めた。しかしちぎれんばかりに手を振る守備兵を見たパイロットは、再出撃、再々出撃を進言した。これに対し金光少佐が無線で司令部に告げた。『今日も空投を感謝す。手榴弾100発、小銃弾2,000発受領。将兵は1発1発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり。』『我が飛行隊が勇敢なる低空飛行を実施し、これが為敵火を被るは、守備将兵の真に心痛に堪えざるところなり。余り無理なきようお願いす。』それを聞いた隼隊は出撃を志願したが、7月中旬になると陣地はさらに小さくなり、手を振る守備兵は負傷して包帯を巻いた負傷兵ばかりで、投下しても陣地内の日本兵にはほとんど渡らなかった。実際最後の数百名は、片手片足、失明した兵が幽鬼のように敵に立ち向かっていた。

     雲南軍は、これまでの中国戦線の中国軍とは思えないほど勇敢に戦った。殺すのを一瞬ためらう程の少年兵が多かったという。しかし初陣の彼らは真っ正直に正面から戦い過ぎた。老練な日本軍の仕掛けたトラップに嵌り、犠牲を重ねた。日本軍にとっては、効果的に限られた武器で最大の効果をあげたと言える。中国軍は何度か降伏勧告を行ったが、鼻で笑われてしまった。

     8月中下旬の雲南軍の攻撃は中央付近の関山陣地に集中し、地上攻撃と併せて陣地直下まで掘り進んだ坑道による地中3ヶ所からの爆破により、8/19ついに陣地を奪われた。しかし8/20夜間、なけなしの兵を集めて夜襲を敢行して奪還。翌日再び奪取されるも8/22未明、逆襲して再奪取。しかし兵力が尽き、確保を続けることは出来なかった。

     9/5、決別電報を打ち、無線機を破壊し重要書類を焼却。9/6、金光少佐戦死。迫撃砲弾により腹部と大腿部を粉砕されていた。金光隊長は真鍋副官に後事を託しつぶやいた。『皆、よくやってくれた---』享年48歳。翌9/7未明、真鍋大尉、砲兵掩蓋内にて軍旗奉焼。早朝より激しい集中砲火を受け松山陣地陥落。午後真鍋大尉敵中に切り込み戦死(死後、少佐に進級)。18時全ての陣地が陥落し戦闘終結。突然戦場に静寂が広がった。

     真鍋大尉の命を受け、中尉ら数名が脱出し地元民に変装して戦線を突破し、日本軍の司令部に辿りついた。将校の生還者がいたことで、拉孟守備隊の最期の様子は比較的よく分かっている。騰越では一人の生存者もいない為、戦闘の詳細が今一つ不明である。

     拉孟守備隊の陥落した陣地跡に自決した15名の日本人慰安婦が横たわっていた。5名の朝鮮人慰安婦は雲南軍に投降した。降り注ぐ砲弾の雨の中で、守備隊が一番安全な場所に女達を匿っていたことが伺える。また最期の時に日本人慰安婦のお姉さんが、朝鮮人の女の子に降伏を勧めたのだろう。雲南軍は女がこの激戦の戦場にいたことに驚き、従軍看護婦として丁重に埋葬した。

     拉孟には軍属によって酒保(売店)と慰安所が出来ていた。女達は攻撃が近づいた時に引き上げることも出来たのだが、何故か残留を望んだ。長い間暮らしを共にした兵隊と女達の間には、家族愛のような絆が生まれていた。戦闘の最中に、一人の兵隊がなじみの女との結婚を申し出て許可された、という話しがある。しかし勇者として名誉の戦死を遂げた兵士に較べ、名もなく闇に葬られた死を遂げた女達があわれだ。彼女達も共に戦い、弾丸を運び炊事に従事し傷ついた兵を手当てし看護し、勇敢に死を選んだのに。  金光隊長が9/5、師団司令部に送った決別電文は以下の通り。

    『通信の途絶を顧慮して、予め状況を申し上げたし。---周囲の状況急迫し此までの戦況報告の如く全員弾薬食糧欠乏し。如何とも致し難く最後の時迫る。将兵一同死生を超越し命令を厳守確行、全力を揮ってよく勇戦し死守敢闘せるも、小官の指揮拙劣と無力の為御期待に沿うまで死守し得ず。まことに申し訳なし。謹みて聖寿の無窮、皇運の隆昌と兵団長閣下はじめ御一同の御武運長久を祈る。』

     騰越は城郭都市で、城壁は周囲4km正方形で高さ5m、幅2m、外側は石で内側は積土で固められていた。周囲の高地からは見下ろす位置にあるため、これらの高地も防衛する必要があったが、それには最低でも3個連隊、7千名の兵が必要だ。騰越守備隊長は水上少将であったが、少将はミイトキーナ救援に向かったので、蔵重大佐以下2,800名が雲南軍49,600名を迎えうった。守備隊は全滅、雲南軍は戦死9,168名、負傷10,200名の損害を出した。

     戦闘が始まる直前、師団司令部から1大隊の抽出を命ぜられた。そのため実際に騰越で戦ったのは2,800名ではなく2,025名であった。6/27、雲南遠征軍の砲撃開始。7/27、外郭陣地を放棄し城内に後退。8/13早朝、戦爆連合の24機が騰越城を空爆、その一弾が防空壕を直撃して蔵重大佐以下32名が戦死。以後太田大尉(28歳)が指揮をとった。この時点で守備兵は800名になっていた。連合軍の空爆は激しかった。  しかし騰越守備隊の凄まじい抵抗はむしろここから始まる。組織的防戦から死に物狂いの抵抗へ。空爆で崩れた城壁からなだれ込んできた5千を超す雲南軍と壮絶な市街戦を繰り広げる。昼間奪われた地域は夜襲で奪い返す。8/21、残存640名。9/1〜5、残存350以下。9/7、追い詰められた守備隊は太田大尉以下70名。9/11、守備隊の弾薬、手榴弾が尽きる。9/12、最後の無電。

    9/13、太田大尉の指揮下、生き残った数十名が軍刀と銃剣により敵陣地に突入して全員戦死。太田大尉の決別電は以下の通り。

     『現状ヨリスルニ、一週間以内ノ持久ハ困難ナルヲ以テ、兵団ノ状況ニ依リテハ、十三日、連隊長ノ命日ヲ期シ、最後ノ突撃ヲ敢行シ、怒江作戦以来ノ鬱憤ヲ晴ラシ、武人ノ最後ヲ飾ラントス。敵火砲ノ絶対火制下ニアリテ、敵ノ傍若無人ヲ甘受スルニ忍ビズ、将兵ノ心情ヲ諒トセラレタシ。』



     9月9日、敵将蒋介石は、雲南軍司令部に与えた訓示の中で次のように述べた。

     『戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。我が将校以下は、日本軍の拉孟守備隊、騰越守備隊あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命令を全うしある現状を範とすべし。日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し。』

     これが有名な蒋介石の逆感状である。日本軍の出す美辞麗句を並べた陳腐な感状に較べ、敵から範とすべしと言わしめたのだ。これ程価値のある(逆)感状はない。蒋介石は毀誉褒貶の多い人物だが、敵の勇気に感動する度量のある人だった。このことだけでも結構好きだな。拉孟・騰越の勇者がもし生きていてこのことを聞いたなら、一番うれしい一言だったに違いない。







     もう一つは、9月9日、中華民国総統の蒋介石が、部下将兵に与えた訓示である。これこそは、敵側が如何に拉孟守備隊の勇戦に苦しめられたかを明確に示す証拠であり、蒋介石から拉孟の将兵に手向けた逆感状とも言えるであろう。

    「松山陣地(拉孟陣地と同義)は9月7日、我が軍において攻占するところとなり、欣快に堪えず。(中略)戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。(中略)

     諸子はビルマの日本軍を模範とせよ。拉孟において、騰越において、ミートキーナにおいて、日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し」



    11.中川州男とペリリュー島の戦い〜バンザイ突撃の禁止、 相次ぐ御嘉賞と将兵の奮闘

    https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7798 Twitter シェア LINEで送る linkedin 2020年07月27日 公開 2020年08月05日 更新

    早坂隆(ノンフィクション作家) ペリリュー島に残る大砲 南洋の島、ペリリュー島。

    約1万の日本軍守備隊に対し、米軍の総兵力はおよそ4万2千人。 その中核は、米軍最強と謳われた第一海兵師団である。

    彼我の戦力差は明らかであったが、日本軍は島じゅうに張り巡らせた地下壕を駆使し、徹底抗戦を試みる。 驚異的な奮闘を指揮したのが、中川州男(なかがわくにお)大佐であった。

    ※本稿は、歴史街道編集部編『太平洋戦争の名将たち』より、一部を抜粋編集したものです。



    パラオの発展に尽力した日本

    西太平洋上に位置するパラオ共和国は、珊瑚礁に囲まれた美しい島嶼国家である。しかし、この「楽園」のような小さな島々にも苦渋の歴史がある。19世紀後半以降、パラオはスペインとドイツに相次いで植民地とされ、島民たちは搾取と愚民化政策の対象とされた。

    転機となったのは第一次世界大戦後である。大正9年(1920)、国際連盟の正式な決定によって、パラオは日本の委任統治領となった。以降、日本はインフラ整備や産業振興、学校制度の導入など、様々な政策を実行。その結果、島民の生活レベルや識字率は大きく向上した。

    しかし、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると、パラオは米軍の標的となった。フィリピン方面への攻撃拠点を求める米軍にとって、パラオ南端のペリリュー島にある大規模な飛行場は格好の存在であった。昭和19年(1944)、米軍はペリリュー島への上陸計画を策定した。

    これに対して日本軍は、ペリリュー島におけるそれまでの防備を根本から見直し、強力な迎撃態勢の構築を急いだ。

    その指揮をとった現地司令官が、歩兵第二連隊長・中川州男大佐である。

    中川は明治31年(1898)1月23日、熊本県の玉名郡で生まれた。一家は累代の熊本藩士という由緒ある家系だったが、明治になって武士の時代が終焉するとその生活は一変。中川の祖父や父は、学校や塾で国学や漢学などを教える教育者に転じた。ちなみに中川の父親である文次郎は、西郷隆盛率いる薩摩軍と共に戦った熊本隊の一員として西南戦争に参戦し、新政府軍と干戈を交えた経歴を持つ。文次郎はこの戦闘に敗れた後に、教育を生業とする道を歩むようになった。

    そんな家風の影響であろう、中川の二人の兄も教育畑へと進んでいる。すなわち、中川家とは筋金入りの「教育一家」であった。中川も世が世なら素晴らしい教育者になったのではないか。

    そのような環境で生まれ育った中川は、文武両道を地で行くような青年となった。口数は少ないが正義感が強く、純粋な性格であったと伝わる。地元の名門・玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)に進学した中川は剣道部に所属し、多くの学友たちと共に汗を流した。学科では漢学が得意であったという。

    そんな中川が卒業後に選んだのは、教師ではなく陸軍将校への道であった。成績優秀だった中川は、「陸軍を担う将校」を育成するための専門機関である陸軍士官学校に合格。熊本を出て上京し、同校で学ぶことになった。時は第一次世界大戦下であり、日本も国防の重要性が改めて意識された時期であった。また、元藩士といえども当時の中川家は経済的に困窮しており、そんな家族の生活を憂う心境もあって、学費のかからない同校に進んだとも言われている。同校では軍事学はもちろん、幅広い高等教育が実施された。

    大正7年(1918)、同校を卒業した中川は、福岡県久留米市の歩兵第四十八連隊で本格的な軍隊生活に入った。大いなる希望を持って入営した中川であったが、その後は学校の配属将校といった「閑職」に回された時期も長かった。エリート校である陸軍士官学校の卒業者とは言え、中川の軍人人生は順風満帆だったわけではない。

    そんな中川の生涯において大きな分岐点となったのが日中戦争(支那事変)であった。中川は第二十師団歩兵第七十九連隊の大隊長として華北戦線に出征。この時の一連の戦闘において中川は冷静かつ巧みな指導力を発揮し、上層部から高い評価を得た。その結果、中川は連隊長の推薦によって、陸軍大学校専科への進学を許されたのである。

    こうした経歴を見ると、中川という軍人は「挫折を知る」「現場からのたたき上げ」であったと言える。 陸大専科で学んだ中川はその後、独立混成第五旅団参謀などを経て、栄職である歩兵第二連隊長を拝命。茨城県の水戸を編成地とする同連隊は当時、「陸軍の精鋭」と呼ばれた部隊であった。

    同連隊は満洲北端の嫩江(のんこう)に「対ソ戦の備え」として駐屯していた。中川も嫩江で一年ほど過ごしたが、昭和19年(1944)3月、南方への転出が決まった。悪化の一途を辿る太平洋戦線において、米軍と雌雄を決するためである。日本軍は虎の子の「切り札」を、満洲から太平洋へ振り分けたことになる。

    中川は「二度と戻れない」という覚悟をもって、南洋へと向かった。 歩兵第二連隊の行き先は、パラオ・ペリリュー島であった。

    11.硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい[注 1]、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 栗林忠道陸軍中将

    1945年3月26日)は、第二次世界大戦末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation Detachment)。

    概要

    硫黄島遠景(2007年)。

    『硫黄島の星条旗』をかたどった合衆国海兵隊戦争記念碑 1944年8月時点での連合軍の戦略では、日本本土侵攻の準備段階として台湾に進攻する計画であった[10]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦については「コーズウェイ作戦」 (土手道作戦) としてに具体的な検討が進められたが、その後に陸海軍内で議論があり、1944年10月にはアメリカ統合参謀本部が台湾攻略の計画を放棄して、小笠原諸島を攻略後に沖縄に侵攻することが決定された[11]。作戦名は「デタッチメント作戦(分断作戦)」と名付けられたが、のちに「海兵隊史上最も野蛮で高価な戦い」と呼ばれることにもなった[12]。

    作戦は、ダグラス・マッカーサーによるレイテ島の戦いやルソン島の戦いが計画より遅延したことで2回の延期を経て[13]、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援を受けて開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍中将(戦死認定後陸軍大将)を最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊(小笠原兵団)の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は同島をほぼ制圧。3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。アメリカ軍の当初の計画では硫黄島を5日で攻略する予定であったが、最終的に1ヶ月以上を要することとなり、アメリカ軍の作戦計画を大きく狂わせることとなっ



    自決前、大田中将が海軍次官にあてた電文(全文) 知る戦争 2021年8月11日 12時00分 Facebookでシェアする Twitterでシェアする list noteで書く はてなブックマークでシェアする メールでシェアする 印刷する 写真・図版 沖縄の海軍司令官だった大田実氏(中央)一家の家族写真=板垣愛子さん提供 [PR]  76年前の1945年6月、沖縄の地下に掘られた洞穴で、一人の軍人が自ら命を絶ちました。海軍司令官の大田実海軍中将。自決直前に海軍次官にあてた電文では、沖縄戦の惨状と沖縄県民の献身をつづり、「後世特別の配慮を」と訴えました。 大田司令官の自死「貧困のどん底」 海を渡った娘の願い 大田実司令官が出した電文 (旧海軍司令部壕ホームページより) 《原文》 062016番電  発 沖縄根拠地隊司令官  宛 海軍次官  左ノ電■■次官ニ御通報方取計(とりはからい)ヲ得度(えたし)  沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ 県ニハ既ニ通信力ナク 三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非(あら)ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之(これ)ニ代ツテ緊急御通知申上グ  沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ 殆(ほとん)ド 顧(かえり)ミルニ 暇(いとま)ナカリキ  然(しか)レドモ本職ノ知レル範囲ニ於(おい)テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅(わずか)ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支(さしつかえ)ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚砲爆撃下■■■風雨ニ曝(さら)サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ  而(しか)モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊(ほうすい)婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身(ていしん)斬込隊スラ申出ルモノアリ  所詮(しょせん) 敵来リナバ老人子供ハ殺サレルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ  看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ■■ 真面目ニテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ  更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終止一貫  勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ■■ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管(ひたすら)日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ■■■■与ヘ■コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形■■■■■■  一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂(い)フ 沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ  県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ (■は判読できず) 《現代語訳》 昭和20年6月6日 20時16分  次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。  沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。  沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘に専念し、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。  しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。  看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。  これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。  沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。  沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。 大田司令官の自死「貧困のどん底」 海を渡った娘の願い      ◇  おおた・みのる 1891年、千葉県生まれ。海軍の中でも 1945年、占守島…日本を分断から救った男たち #樋口季一郎 https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2637 Twitter シェア LINEで送る linkedin 2015年11月25日 公開 2022年08月25日 更新 早坂隆(ノンフィクション作家) 占守島 終戦後の「忘れられた戦い」  日本は昭和20年(1945)の何月何日に戦争を終えたのか――。この問いに「8月15日」と答えない日本人はまずいないと思います。一方、大東亜戦争(太平洋戦争)における「地上戦が行なわれた日本の領土」といえば、多くの方が「沖縄」を連想することでしょう。  しかし、「終戦の日」の2日後、昭和20年8月17日の深夜、紛れもない日本の領土で始まった戦いが存在したことについては、知る人が少ないように思えます。日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきたソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」です。現在の北方領土問題へとつながる出来事でもありました。  かく言う私も、占守島の戦いについてある程度の知識はあったものの、「どのような戦いだったか」「どんな意義があったのか」を詳しく知ったのはここ数年のことです。関心を抱いたきっかけは、樋口季一郎中将でした。  樋口は昭和13年(1938)、杉原千畝よりも前にナチスからユダヤ人を救った人物で、占守島の戦いでは北方を守る第五方面軍の司令官としてソ連軍への反撃を命じました。そんな樋口の手記を入口に、私は占守島の戦いについて調べ始めたのです。 運命の、昭和20年8月17日深夜  最も印象的なのが、樋口の孫・隆一さんから伺った逸話です。隆一さんは、季一郎から次のような話を聞かされたと教えてくれました。  「日本の歴史家は、あの戦争の負け戦ばかりを伝えている。しかし、中には占守島の戦いのような勝ち戦もあったし、だからこそ今の日本の秩序や形が守られている。  負け戦を語ることも大事だが、その一方で、重要な勝ち戦があったことについても、しっかりと語り継いでほしい……」  自らの功を、公に喋るような人物では断じてない。取材を通じて樋口に抱いた印象です。そんな樋口が、占守島の戦いを「語り継いでほしい」と漏らしたのは、なぜなのか。樋口の胸の裡は、あの戦いの「意義」を知ればおのずと見えてきます。  占守島は今もなお、ロシアに実効支配されており、その存在すら学校の授業でも教えられることはありません。  占守島は千島列島の北東端に位置し、戦争当時は日本の領土でした。なお、国際法上、占守島だけでなく全千島列島と、南樺太も日本領として認められていました。  昭和20年当時、日本の北東の国境の最前線にあたる占守島には、約8,000の日本陸海軍将兵がいたとされます。ソ連と国境を接していますが、「日ソ中立条約」を結んでいたため、あくまでもアメリカ軍への備えです。  しかし――8月17日深夜、占守島に攻め込んできたのは、相互不可侵を約していたはずのソ連軍でした。ソ連は中立条約を一方的に破棄するという明らかな国際法違反を犯し、日本を「騙し討ち」したのです。  ソ連軍は8月9日にすでに満洲に侵攻していましたが、そこで行なわれたのは戦闘行為ですらありません。殺人、略奪、家屋侵入、そして強姦……。彼らは同じような手法で、千島列島の他、南樺太までも攻略しようと企みました。 北海道までを狙うソ連の野望  発端は、同年2月のヤルタ密約にまで遡ります。アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンが会談を行ない、ソ連が対日参戦を条件に千島列島や南樺太を獲得することを秘密協定で認めたのです。  しかし、スターリンはやがて、北海道の北半分の領有までも主張し始めました。対するアメリカはこれを拒否。後の冷戦構造の萌芽ですが、遺憾にも真っ先に巻き込まれたのが日本でした。  ソ連は終戦近しと見るや、千島列島や南樺太への侵攻を開始。どさくさに紛れて日本領を少しでも掠め取ろうとしたのです。あのスターリンならば、千島列島、北海道を獲った後、勢いに乗じて本州の東北地方の占領までをも窺ったであろうことは想像に難くありません。  結果、日本は戦後のドイツや朝鮮半島と同じような分断国家になっていたかもしれないのです。なお、日本側は当初、そんなソ連に和平の仲介役を期待していました。そんな史実も、あの戦争の一側面として知っておくべきでしょう。  陸軍きってのロシア通だった樋口は、「ソ連軍、来襲」の報に接した瞬間、ソ連の野望と日本が直面した未曾有の危機を鋭敏に察しました。戦後、樋口が「占守島の戦いが今の日本の秩序や形を守った」と指摘したのはそのためです。  樋口は誰よりも占守島の戦いの意義を知るからこそ、占守島で敢然と起ち上がり、肉弾と散った部下たちの姿を後世の日本人にも知って欲しいという「本音」を孫の隆一さんに語ったのでしょう。 次のページ 故郷に帰る夢を脇に置いて > ← 1 2 3 → 妻を後部座席に乗せソ連軍へ特攻〜書評『妻と飛んだ特攻兵』に涙 2022/08/18 https://bushoojapan.com/historybook/2022/08/18/3604 日本初の歴史戦国ポータルサイト BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) 8月15日は終戦記念日。 その終戦から4日後の8月19日、戦闘機でソ連軍に特攻した夫婦がいました。 戦闘機に、ワンピースの黒髪の女性が乗っているという「絵」はジブリ映画にでもありそうですが、これが本当に起きた史実だったのです。 ノンフィクション作家の豊田正義氏が刊行した『妻と飛んだ特攻兵(→amazon)』で初めて明らかにされました。 後にドラマ放送もされ、成宮寛貴さんと堀北真希さんが演じられておりましたが、一体どんな史実だったのか。 書評を兼ねて確認してみたいと思います。 ※ドラマはAmazonプライム・ビデオで視聴できます(→amazon) お好きな項目に飛べる目次 [とじる] 1ページ目 艶やかな光を湛えて風になびく黒髪が 元会津藩士の子孫と北海道出身の少尉 2ページ目 ソ連の虐殺に耐えかね特攻を決意する 艶やかな光を湛えて風になびく黒髪が ときは昭和20年8月19日――。 満州の飛行場を11機の九七式戦闘機(を改造した訓練機)が飛ぼうとしていました。 この時点日本はすでに降伏しています。 ソ連に対して飛行機を受け渡すためのフライトでした。 11人の操縦士を見守る多くの日本人。 操縦士の近くには、その家族でしょうか。 白いワンピースに日傘を差した2人の女性がいました。 誰もが見送りと思ったその女性たちは、自分の夫の飛行機の後部座席に乗り込むのです(一人は愛人でした)。 11人は、命令に反し、満州で日本人の虐殺を続けるソ連軍に一矢報いるため、特攻を密かに計画していたのです。 夫の覚悟についていこうと決めた2人の若い女性。 女性を乗せた2機が滑走路を走り出したとき、群衆たちはようやく異変に気付きました。 「艶やかな光を湛えて風になびく黒髪が目撃されたのだ」(306頁) 元会津藩士の子孫と北海道出身の少尉 「神州不滅特攻隊」を名乗った11人(+2人)は、 「戦い得ずして戦わざる空の勇士十一名 生きて捕虜の汚辱を受けるを忍び難し」 との遺書を残していました。 九七式戦闘機/wikipediaより引用 10機(1機は離陸直後にエンジン不調で墜落)の行方は分かりません。 特攻が成功したのか否か。 それは歴史の闇に消えました。 戦後、関係者の間で、「女性を特攻機に乗せた」ことが軍規違反とされ、彼らが「英霊」から外されたり、その後、仲間たちが名誉回復をしたりと、元軍関係者の間では密かに知られておりましたが、世間に出されるのは本書が初めてとのことです。 ひと組は夫婦で、青森出身の谷藤徹夫・朝子夫妻。 谷藤家は、元会津藩士の子孫(戊辰戦争後に下北半島に移住した末裔)だそうです。 斗南藩 斗南藩の生き地獄〜元会津藩士が追いやられた御家復興という名の流刑 続きを見る もうひと組は、北海道出身の少尉と現地で恋愛関係にあった宿の女中さんでした。 惜しいのは、取材に応じたのが11人のうち「谷藤家」関係者だけだったことです。 ※続きは【次のページへ】をclick! 大東亜戦争は日本が勝った -英国人ジャーナリスト ヘンリー・ストークスが語る「世界史の中の日本」 単行本 - 2017/4/17 ヘンリー・S・ストークス (著), 藤田 裕行 (翻訳)

    5つ星のうち4.5 128個の評価 単行本 ¥1,760 獲得ポイント: 80pt ¥250 より 38 中古品¥1,760 より 29 新品¥3,520 より 1 コレクター商品 普及版 大東亜戦争は日本が勝った ¥1,320 (128) 残り12点(入荷予定あり) ________________________________________



    「太平洋戦争」はアメリカの洗脳だった この書は日本のプロパガンダではない。史実である。

    日本よ 呪縛から解放されよ! ヘンリー・S・ストークス 来日50年の総集編

    世界史を俯瞰して明らかになった 大東亜戦争の真実

    共産党などの左翼は、大東亜戦争は「侵略戦争」であったと言う。

    そうであろうか? 史実を検証すると、そこには明らかに「アジア解放戦争」の側面が見て取れる。 アメリカの侵略戦争や、大英帝国の植民地支配での戦争とは、明らかに違った姿を現じている。 私は、大東亜戦争を日本がなぜ戦ったのか、その結果、何が世界に起こったのかは、 世界文明史的な俯瞰をもってしてはじめて、明らかになるものだと、そう思い始めた。

    世界文明史の中で、大東亜戦争を位置づけようというような野心的な試みは、一冊の本で果たせるものでもないが、

    その第一歩を英国人ジャーナリストの私が切り開くことで、世界中に多くの賛同者が出てくると、 そう確信している。(本文より)

    1章 日本が戦ったのは「太平洋戦争」ではない!

    2章 「太平洋戦争」史観で洗脳される日本

    3章 日本は「和」の国である

    4章 世界に冠たる日本の歴史

    5章 オリエントにあった世界の文明と帝国

    6章 侵略され侵略するイギリスの歴史

    7章 アメリカの「マニフェスト・デスティニー」

    8章 白人キリスト教徒による太平洋侵略

    9章 マッカーサー親子によるフィリピン侵略

    10章 大日本帝国と西欧列強の帝国主義の違い

    11章 大日本帝国は「植民地支配」などしていない!

    12章 日本は中国を侵略していない

    13章 アメリカによる先制攻撃の「共同謀議」

    14章 大統領がアメリカ国民を欺いた日

    15章 大英帝国を滅ぼしたのは日本だった!





    「世界から恐れられた7人の日本人」上巻

    世界世界 せ ※下巻は、上巻購入後、次のページでご案内しております

    1人目:日本軍 20 万に匹敵する男    −明石元二郎陸軍大佐

    ○帝政ロシアを揺るがし、 日露戦争を勝利へ導く

    ○明石を支援した日本陸軍のスパイマスターたち

    ○ジェームス・ボンドも明石の味方に! ?


    2人目:米国務長官が欲しがった男     ―岩畔豪雄陸軍少将

    ○「世界基準の戦い方」をプランニングし、遂行する
    ○アメリカとの戦争回避に奔走
    ○インドの独立運動にも大きく貢献


    3人目:日本のスパイマスタ―    ―秋草俊陸軍少将
    ○インテリジェンス教育の総本山「中野学校」を創設
    ○猛者ぞろいの中野学校出身者
    ○謀略から特攻まで、 ただ目標完遂のために


    4人目:インドを独立に導いた謀略の素人    ―藤原岩市陸軍少佐
    ○5万ものインド人捕虜の心を一瞬にしてつかむ
    ○曲解され悪魔化される日本のナショナリストたち
    5人目:日本版アラビアのロレンス    ― 鈴木敬司陸軍大佐 


    ○親日ミャンマーの原点は鈴木大佐にあり
    ○「アジアはアジア人の手に」を願い共に戦った野田毅陸軍大尉
    ○日本が掲げた理想、そして誠の心がアジア諸国を動かした
    6人目:アメリカ軍の動きを的確に予測した情報のプロ    ―堀栄三陸軍少佐


    ○株価の動きでアメリカ軍の動きを予測
    ○その情報は、 陸軍大本営の参謀によって握りつぶされた
    ○米軍戦法の研究書を執筆し、日本軍の戦いに貢献
    ○アメリカ軍を壊滅状態に追い込んだ堀の教え
    7人目:MI5が徹底監視した唯一の日本人    ―小野寺信陸軍少将


    ○各国のスパイマスターたちに引けを取らない諜報力
    ○握りつぶされた「ヤルタ会談の密約」情報
    世界を変えてきた比類なき日本のインテリジェンス


    あとがき:ウィズコロナ時代だからこそ、先人のインテリジェンスに学べ
    著者プロフィール




    大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)


    大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)は、1943年(昭和18年)11月6日に大東亜会議にて採択された共同宣言。大東亜宣言とも。

    概要

    東京・帝国議事堂で同年11月に開催されたアジア地域の首脳会議の2日目に満場一致で採択された。採択後にビルマ国代表のバー・モウ内閣総理大臣が「自由インドなければ自由アジアなし」とインド独立を支持する意見を述べ、陪席者(オブザーバー)として出席した自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班が自由インドの確立を表明した[1]。次いで日本の東條英機内閣総理大臣が自由インドへの強い支援を会議で表明、大東亜会議は閉会した。

    参加国

    日本 : 東條英機内閣総理大臣、外務省・大東亜省などの各大臣、総裁、書記官など

    中国 : 汪兆銘国民政府行政院長、行政院副院長、外交部部長など

    タイ : ワンワイタヤーコーン親王(首相代理)、外務省など

    満洲 : 張景恵国務総理大臣、外交部大臣、特命全権大使など。

    フィリピン : ホセ・ラウレル大統領、外務大臣、大統領秘書など

    ビルマ : バー・モウ内閣総理大臣、特命全権大使、外務次官など

    インド:チャンドラ・ボース(首班)、最高司令部参謀長など

    宣言全文

    原文

    大東亞共同宣言

    抑?世界各國ガ各其ノ所??ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平??和確立ノ根本要義ナリ 然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽??クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望??ヲ逞ウシ遂??ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス 大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂??シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平??和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

    一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道??義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス

    一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊??重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス

    一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊??重シ各民族ノ創造??性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス

    一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ攝i??ス

    一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進??ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進??運??ニ貢獻ス

    口語訳

    そもそも世界各国がそれぞれその所を得、互いに頼り合い助け合ってすべての国家がともに栄える喜びをともにすることは、世界平和確立の根本です。

    しかし米英は、自国の繁栄のためには、他の国や民族を抑圧し、特に大東亜(東アジア全般)に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、大東亜を隷属化する野望をむきだしにし、ついには大東亜の安定を根底から覆(くつがえ)そうとしました。大東亜戦争の原因はここにあります。

    大東亜の各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、大東亜諸国を米英の手かせ足かせから解放し、その自存自衞を確保し、次の綱領にもとづいて大東亜を建設し、これによって世界の平和の確立に寄与することを期待しています。

    大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

    大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。

    大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。

    大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。

    大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。

    作成の経緯

    本文の5項目に関しては、1943年(昭和18年)8月初旬には外務省内「戦争目的研究会」で大西洋憲章(1941年)なども大いに参考にするかたちで文案作成がはじまり、同10月には完成したものとみられる[2]。これと別途並行して大東亜省は大川周明[3][4]や矢部貞治に宣言案を作成させており、それは前文として追加されることになった。大西洋憲章を参考にした本文が普遍的な真理を提唱するのに対し、大東亜省の前文は「米英支配の打破」という時事的な記述に偏っており、論理の接続が悪い所以とされる。

    日本を除く大東亜会議参加国は、会議2週間前になりようやく意見聴取の場を得たが、修正意見は日本側にことごとく拒絶され、結局一字一句の変更もなされずこの文面のまま全会一致で採択された。