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アジアの歴史




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    フーバー大統領の回想録 には、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な記録が含まれている。
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    来る2月6日の芸術委員会でその慰安婦碑の設置が承認されようとしています。
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    “カナダ有志の会”よりお願い
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    ↓ Bill 79, Nanjing Massacre Commemorative Day ↓
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    抗議のメールを、オンタリオ立法議会メンバーに送っていただけましたら幸いです。

    南京大虐殺は捏造だった証拠集

    韓国、韓国人慰安婦をドラム缶に入れて米軍らに供給、政府が米軍向けに売春管理



    国連も一蹴した中国の政治宣伝 自民党が明らかにした南京の捏造





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    http://www.sdh-fact.com/CL02_3/19_S1.pdf

    胡錦濤国家主席閣下への公開質問状 このたび中華人民共和国国家主席胡錦濤閣下のご訪日に当たって、日中両国の 友好を願う者として心より歓迎申し上げます。



    反日種族主義




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    大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言


    太平洋戦争におけるわが国の戦争被害

    「世界から恐れられた7人の日本人」





    「大東亜戦争の英雄の日本人1」


    「大東亜戦争の英雄の日本人2」


    「大東亜戦争の英雄の日本人6」


    「大東亜戦争の英雄の日本人3」空の要塞B29撃破とB29撃墜王


    「大東亜戦争の英雄の日本人4」陸軍エースパイロット撃墜数


    「大東亜戦争の英雄の日本人5」海軍エースパイロット撃墜数


    「大東亜戦争技術者」


    「大東亜戦争技術者2」


    「大東亜戦争石油」





    日米開戦前日米交渉(アメリカが日本に実質的最後通牒(日本の南部仏印撤退などの譲歩案に))





    「大東亜戦争の英雄の日本人1」







    「大東亜戦争の英雄の日本人2」






    23.空の要塞、B29 撃墜
    出撃してきた3万3000機のうち2700機に損害を与えた。

    B29・一機の損失は駆逐艦一隻の損失と同じである。
    なおB29はドイツ攻撃には不使用。

    B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。

    B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」という手紙を出し司令官のハンセルを叱咤している[290]。

    損害=撃墜+破損 3192  損害率=9.6% 日本本土を爆撃したB-29
    延べ出撃機数 33,401機
    作戦中の総損失機数 485機
    延べ出撃機数に対する損失率 1.45%
    作戦中の破損機数 2,707機
    破損率 8.1% 損害=撃墜+破損 3192  損害率=9.6% 日本軍の高射砲が直撃し墜落するB-29 B-29の損失数は資料によって異なり、日本の戦後の統計では損失合計714機[262](延べ数での出撃した全数は33,000機)で、延べ出撃数に対する損失率は2.2%程度という読売の資料がある。乗員の死亡は特攻隊員の死亡よりも多い。

    。 5機以上のB-29を撃墜した日本陸軍航空隊搭乗員[320][321][322]

    氏名・階級 所属 B-29撃墜数 備考

    樫出勇中尉 第4戦隊 26機 B-29撃墜数トップ、ノモンハン事件でも7機撃墜





    木村定光少尉 † 第4戦隊 22機 1945年7月14日戦死



    伊藤藤太郎大尉 第5戦隊 17機 B-29、20機撃破



    白井長雄大尉 第244戦隊 11機 F6Fヘルキャット2機撃墜



    市川忠一大尉 第244戦隊 9機 F6Fヘルキャット1機撃墜

    河野涓水大尉 † 第70戦隊 9機 1945年2月16日戦死

    小川誠少尉 第70戦隊 7機 P-51ムスタング2機撃墜

    小原伝大尉 第244戦隊 6機 F6Fヘルキャット2機撃墜

    吉田好雄大尉 第70戦隊 6機

    根岸延次軍曹 第53戦隊 6機

    佐々木勇准尉 航空審査部 6機 総撃墜数38機

    鳥塚守良伍長 第53戦隊 6機

    西尾半之進准尉 第4戦隊 5機

    鷲見忠夫准尉 第56戦隊 5機 P-51ムスタング1機撃墜

    川北明准尉 † 第9戦隊 5機 1944年戦死

    海軍航空隊のB-29撃墜王(16機撃墜破)遠藤幸男大尉(前列左)

    海軍航空隊のB-29撃墜王(16機撃墜破)遠藤幸男大尉(前列左)



    横須賀航空隊所属の黒鳥四朗少尉も一晩で5機を撃墜するなど、合計で6機を撃墜している



    海軍航空隊についても、夜間戦闘機「月光」に搭乗した第三〇二海軍航空隊所属の遠藤幸男大尉がB-29撃墜破数16機[148][323]、うち撃墜は8機を記録して「B-29撃墜王」などと呼ばれた[324]。

    横須賀航空隊所属の黒鳥四朗少尉も一晩で5機を撃墜するなど、合計で6機を撃墜している[325]。






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    第二次世界大戦におけるB-29の損失

    B-29損失数の各種統計

    日本軍の高射砲が直撃し墜落するB-29

    B-29の損失数は資料によって異なり、日本の戦後の統計では損失合計714機[262](延べ数での出撃した全数は33,000機)で、延べ出撃数に対する損失率は2.2%程度という読売の資料がある。

    アメリカ軍による第二次世界大戦でのB-29損失の統計も資料によって異なるので列挙する。

    米国戦略爆撃調査団(USSBS)による統計[263][240][264]

    日本本土を爆撃したB-29

    延べ出撃機数 33,401機

    作戦中の総損失機数 485機

    延べ出撃機数に対する損失率 1.45%

    作戦中の破損機数 2,707機

    投下爆弾 147,576トン

    搭乗員戦死 3,044名

    B-29所属部隊の戦績と損失(アメリカ空軍 第9爆撃航空団統計)[265]

    第20空軍

    1944年6月5日以降

    作戦数 380

    戦闘出撃機数 31,387

    その他出撃数 1,617

    出撃機数合計 33,004

    投下爆弾・機雷トン 171,060

    戦闘損失数[266] 494

    アメリカ本土での訓練損失 260

    損失合計 754

    搭乗員戦死 576

    搭乗員行方不明 2,406

    搭乗員戦傷 433

    搭乗員死傷者合計 3,415

    第20空軍の航空機種類、損失原因別の戦闘任務での損失(アメリカ陸軍航空軍統計管理室による統計-Table 165)[267][268]

    損失機数合計 敵戦闘機による損失 対空火器による損失 戦闘機と対空火器共同 その他・損失原因未確認を含む

    第20爆撃機集団 80 21 7 51

    第21爆撃機集団 334 53 47 19 216

    合計 414 74 54 19 267

    B-29迎撃に活躍した三式戦闘機「飛燕」通常の攻撃のほか体当たりでもB-29撃墜を記録している。写真は1945年6月にアメリカ国内でテストされている鹵獲機

    アメリカ陸軍航空軍統計管理室統計をもって日本軍に撃墜されたB-29の総数は147機とされることがある[269]。

    この統計の損失原因のその他(other causes)については故障や事故を含むが、もっとも多いのは未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)であり[270][137]、

    その中にも相当数の日本軍による撃墜数も含まれている。

    例えば、東京大空襲と呼ばれる任務番号40号、1945年3月9日(爆撃は翌10日未明まで)の東京市街地に対する夜間無差別爆撃では、B-29が325機出撃し損失が14機、内訳は日本軍の対空火器での撃墜2機、事故1機、その他4機(3機が燃料切れ墜落、1機不明)、7機が原因未確認とされている。

    原因未確認の7機はすべて連絡のないまま行方不明となった機であるが[271]、

    この日に出撃して無事帰還したB-29搭乗員からは、東京上空で7機のB-29がおそらく撃墜されたという報告があり[272]、

    さらに行方不明の1機については銚子岬の上空で4本の探照灯に捉えられて、大小の対空火器の集中砲火で撃墜されたという詳細な報告があったのにもかかわらず、原因未確認の損失とされ[271]、

    この日に日本軍により撃墜されたと判定されたのは、東京上空で対空火器で撃墜された1機と、対空火器による損傷で不時着水して搭乗員全員が救助された1機の合計2機のみに止まった。

    当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはよっぽどの確証が必要で、

    それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった[83]。

    B-29が最大の損失を被った任務番号第183号、1945年5月25日(爆撃は翌26日の未明まで)の東京市街地に対する夜間無差別爆撃では

    、B-29が498機出撃に対して26機を失っているが、

    日本軍に撃墜されたと記録されているのは対空火器で撃墜された3機のみで、

    対空砲と戦闘機の攻撃で大破し硫黄島近辺で放棄された2機と原因未確認で損失した20機は、

    アメリカ軍の記録上は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失には含まれていない[273]。

    しかし、日本軍側によれば、第302海軍航空隊だけで、月光7機、彗星(斜銃装備の夜間戦闘機型)4機、雷電5機、零戦5機が迎撃して、B-29の16機撃墜を報告し[274][275]、陸軍の高射砲も5月25日の1日だけで、八八式7cm野戦高射砲7,316発、九九式8cm高射砲6,119発、三式12cm高射砲1,041発、合計14,476発の高射砲弾を消費するなど激しい対空砲火を浴びせて、

    海軍の戦果も合わせてB-29合計47機撃墜を記録しており[202]、

    日本軍側の戦果記録は過大とは言え、未知の原因未確認の損失の中に相当数の日本軍の撃墜によるものが含まれているものと推定される。

    この日に出撃した航空機関士チェスター・マーシャルによれば、今までの25回の出撃の中で対空砲火がもっとも激しく探照灯との連携も巧みであったとのことで、帰還後に26機が撃墜されたと聞かされたB-29の搭乗員らが恐れをなしたと著書に記述している[276]。



    原因未確認の損失が確実に日本軍側の攻撃による撃墜であったケースとしては、任務番号第43号、1945年3月16日の神戸市街地に対する夜間無差別爆撃(いわゆる神戸大空襲)では、

    B-29が331機出撃して3機が失われたがすべてが未知の原因とされている[175]。しかし、このうちの1機ボブ・フィッツジェラルド少佐が機長のB-29「Z-8」号は、

    神戸の北方3kmで緒方醇一大尉の三式戦闘機の体当たりにより撃墜されている[277]。体当たりの様子は多くの国民に目撃され、体当たりされた「Z-8」号はバラバラに砕けて落下し、そのうち山中で発見された胴体部分に、緒方の三式戦の主脚と発動機の冷却器が食い込んでいるのが発見され[278]、

    別の部分の残骸から緒方の飛行長靴が見つかり、その後遺体も機体付近で発見されたため、B-29撃墜は緒方の功績とされて2階級特進で中佐となっている[279]。

    「Z-8」号の墜落した場所には、戦後に緒方の戦友らが、緒方と戦死した11名[注 4]の「Z-8」号搭乗員の名前を刻銘した慰霊碑を建立し[280]、2015年には緒方の遺族と、「Z-8」号搭乗員のひとりロバート・クックソン2等軍曹の遺族が神戸で対面している[281]。

    アメリカ陸軍航空軍統計管理室の上記統計によれば、1945年3月は日本軍の戦闘機により(確実に)撃墜されたB-29は1機もなかったとされているが[20]、緒方が体当たりで撃墜した「Z-8」号に加えて、任務番号第42号、1945年3月13日の大阪市街地への夜間無差別爆撃(いわゆる第1回大阪大空襲)で、B-29が295機出撃して2機が失われているが[282]、そのうち、原因未確認の損失とされている機体番号42-24754(操縦士ジョン・k・エリントン少尉、機体愛称はなし)も、飛行第56戦隊鷲見忠夫曹長の三式戦闘機に撃墜されている。

    この戦闘の一部始終を見ていた第11飛行師団師団長北島熊男中将の推薦で、鷲見は第15方面軍司令部より個人感状が贈られている[283]。42-24754の残骸は、大阪の下町堺筋に落下し、写真撮影され[284]、残骸の一部は戦後にアメリカ軍に回収調査されて、Ki-61(三式戦のこと)による撃墜と認定されている[285][286]。

    アメリカ陸軍航空軍の統計によれば、B-29の太平洋戦争における延べ出撃数に対する損失率(Combat LossesとBomb Sorties比較)は1.32%程度とされているが[287]、東京に対する空襲においては損失率が跳ね上がり3.3%となった。

    しかし、ドイツの首都ベルリン空襲のアメリカ軍とイギリス軍爆撃機の損失率は6.6%と東京空襲の2倍の損失率であった[288]。B-29の太平洋戦争における戦闘行動中の損失485機は全生産機中(第二次世界大戦後の生産分も含む)の12%に上った。

    アメリカ軍爆撃機の機種別損失率(アメリカ陸軍航空軍統計管理室による統計) [289]

    爆撃機種 総出撃機数 投下爆弾トン数 戦闘損失機数 損失比率

    B-25 63,177 31,856 380 0.60%

    B-26 129,943 169,382 911 0.50%

    B-17 291,508 640,036 4,688 1.61%

    B-24 226,775 452,508 3,626 1.60%

    B-29 31,387 159,862 414 1.32%

    上表の通りアメリカ軍の他の爆撃機と比較してB-29の損失率は決して低くはなかった。

    B-17は18万ドル、B-24は21万ドル、B-25が12万ドルであったのに対し、

    B-29の調達価格は63万ドルと、高価な機体であった。

    このため損失数の増加に業を煮やした陸軍航空軍司令官アーノルドは、「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。

    しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。

    B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。

    B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」という手紙を出し司令官のハンセルを叱咤している[290]。

    日本軍によるB-29迎撃

    早期警戒レーダー

    ドイツより日本に技術供与されたウルツブルグレーダーD型

    昭和天皇の観閲を受ける陸軍の九〇式大聴音機、B-29の探知にも使用された

    日本軍のレーダー開発は、第二次世界大戦初期はアメリカやイギリスなどの連合国のみならず、枢軸国のドイツと比較すると大きく出遅れていた。

    それでも陸軍が「超短波警戒機甲」と「超短波警戒機乙」の開発に成功すると、1942年から「超短波警戒機甲」、1943年には「超短波警戒機乙」が優先的に日本本土の主に海岸線や離島に設置されて早期警戒網を構築した。

    一方で海軍のレーダー「電波探信儀」の配置は前線のラバウルやウェーク島が優先されて、日本本土への配備はその後にされたが、設置された箇所は海軍基地や軍港周辺に限られた[291]。

    レーダーの設置個所についても、陸海軍の連携はなく、隣接した箇所に陸海軍がレーダーを設置するなど無駄が多かった。

    それでも、B-29による日本本土空襲が開始される1944年後半には、関東、中京、阪神の太平洋側及び九州は全周囲に渡ってレーダー網を構築できた。

    日本海側にはほぼ設置されず、東北方面も手薄ではあったが、それでも大都市や工業地帯といった主要地域については十分カバーができていた[292]。

    中でも八丈島に設置された「超短波警戒機乙」はマリアナから出撃するB-29を真っ先に捉えることができたが、乙型レーダーの探知距離は最大で250kmであり、八丈島から東京までの距離が300kmで合計550kmの距離しかなく、巡航速度が約400km/hのB-29であれば一時間ほどで到達してしまう距離で、八丈島から報告を受けて日本軍が迎撃の準備を行う時間的余裕はあまりなかった[293]。

    日本軍の警戒用レーダーの周波数がドイツ軍のレーダーとは異なっていたので、ヨーロッパ戦線で使用していたチャフの効果がなく、

    アメリカ軍は幅2.5cm、長さ30mから100mといった長細いアルミフォイルでつくったチャフを新たに作成している。このチャフは形状から「ロープ」と呼ばれていた[294]。

    しかし日本軍のレーダーは、いずれも接近してくる航空機の高度や編隊の性格(直掩戦闘機の有無など)まで探知することはできず、また方向もおおまかにわかるといった原始的なものであった。そのため、レーダーを補うために哨戒艇や目視監視哨戒といった

    人の目のよる旧来の手段に頼らざるを得ず、しばしば、これら人の目による第一報がレーダーよりも正確な情報となった[293]。

    日本軍は探知だけではなく火器管制レーダーについても配備を進めていた。大戦初期にシンガポールで鹵獲したイギリス軍のGL Mk.IIレーダー(英)をデッドコピーしたり、ドイツからウルツブルグレーダーの技術供与を受けたりして、

    「タチ1号」・「タチ2号」・「タチ3号」・「タチ4号」などの電波標定機を開発して本土防空戦に投入している[295]。

    B-29が夜間爆撃を多用し始めると、日本軍は高射砲と探照灯の照準を射撃管制レーダーに頼るようになった。各高射砲陣地には「た号」(タチの略称)が設置されて、レーダーの誘導で射撃する訓練を徹底して行うようになり[296]、6基〜12基で1群を編成する探照灯陣地にもレーダーもしくは聴音機が設置されて、

    レーダーや聴音機に制御された探照灯がB-29を照射すると、他の探照灯もそのB-29を照射した[297]。

    アメリカ軍は日本軍の射撃管制レーダーがイギリス製のものをもとに開発していることを掴むと、その対抗手段を講じることとし、B-29にジャミング装置を装備した。

    そしてB-29に搭乗してジャミング装置を操作する特別な訓練を受けた士官を「レイヴン」(ワタリガラス)と呼んだ。

    東京大空襲以降の作戦変更により、B-29が単縦陣で個別に爆弾を投下するようになると、爆弾を投下しようとするB-29は多数の日本軍火器管制レーダーの焦点となって、機体個別のジャミングでは対応できなくなった。そこで、アメリカ軍はB-29数機をECM機に改造して、専門的にジャミングを行わせることとした。

    そのB-29には18基にものぼる受信・分析・妨害装置が搭載されたが、機体のあらゆる方向にアンテナが突き出しており、その形状から「ヤマアラシ」と呼ばれることとなった[298]。

    ヤマアラシは、1回の作戦ごとに10機以上が真っ先に目標に到着して、熟練したレイヴンの操作により電波妨害をして探照灯や高射砲を撹乱、聴音機に対してはエンジンの回転数をずらしてエンジン特性を欺瞞するなど[299]、爆撃を援護し最後まで目標に留まった[300]。

    戦闘機と高射砲

    B-29の出撃総数と第21爆撃集団のB-29出撃1回に対する日本軍戦闘機の攻撃回数推移[301]

    年・月 B-29総出撃機数 日本軍戦闘機攻撃回数 日本軍本土防衛用戦闘機数

    1944年11月 611 4.4 375機

    1944年12月 920 5.4 370機

    1945年1月 1,009 7.9 375機

    1945年2月 1,331 2.2 385機

    1945年3月 3,013 0.2 370機

    1945年4月 3,487 0.8 450機

    1945年5月 4,562 0.3 480機

    1945年6月 5,581 0.3 485機

    1945年7月 6,464 0.02 500機

    1945年8月 3,331 0.01 535機

    上表のとおり1945年1月までの日本軍戦闘機によるB-29への迎撃は執拗であり、

    特に京浜地区の防衛を担う立川陸軍飛行場や調布陸軍飛行場に配備されていた二式戦「鍾馗」・三式戦「飛燕」、海軍厚木基地・横須賀基地に配備されていた雷電はB-29撃墜にとって有効な存在で、

    爆撃後背後から襲い、一度に十数機を被撃墜・不時着の憂き目に合わせたこともしばしばであった。

    日本軍戦闘機の装備の中で、B-29搭乗員に恐れられたのが三号爆弾であり、B-29搭乗員は炸裂後の爆煙の形状から白リン弾と誤認し、

    三号爆弾を「いやな白リン爆雷」と呼んで、空中で爆発すると凄まじい効果があったと回想している[302]。

    第三三二海軍航空隊に所属し零戦52型でB-29を迎撃した中島又雄中尉によれば、三号爆弾は命中させるのは非常に困難であったが、なかには7機のB-29を撃墜した搭乗員もいたという[303]。

    撃墜できなくとも、B-29の編隊を乱して、損傷したり落伍したB-29を集中して攻撃できるという効果もあった[304]。

    しかし、空冷エンジンの機体が圧倒的に多く、高高度性能が劣る日本軍戦闘機は、当初高高度精密爆撃を主戦術としていたB-29の迎撃に大変苦労をしていた。

    本土防空戦で主力の一翼を担った二式戦闘機「鍾馗」は、武装や防弾鋼板から燃料タンクの防弾ゴムに至るまで不要な部品を取り除いても、B-29の通常の来襲高度と同水準の10,500mまでしか上昇できなかった[305]。

    一瞬のうちに接敵するため照準が困難で、一度攻撃に失敗すると上昇姿勢となるため急速に失速し、B-29の銃座から恰好の目標となってしまうこと、またうまく離脱できても、高高度でのB-29と鍾馗の速度差から再度の攻撃が困難であったという[306]。

    B-29を苦しめたジェット気流が迎撃側の日本軍戦闘機にも障害となり、東京に来襲するB-29を迎撃する場合、B-29は伊豆半島あたりから北上してそののちに東に針路を変えてジェット気流に乗って加速してきたが、

    迎え撃つ日本軍戦闘機は高度8,000mまで上昇するとジェット気流に逆行する形となり、フルスロットルでも気流に押し流されて対地速度が殆どゼロの凧のように浮いているだけの状態になった[307]。

    このような状況下ではいくら熟練搭乗員でも、八王子ぐらいでB-29を捕捉して1撃を加え、反復して東京上空で2撃目、そして爆撃を終えて帰投しているところを銚子上空で3撃目を加えるのがやっとであった[308]。

    九州が幾度も空襲され、マリアナ諸島がアメリカ軍に攻略されると、

    1944年11月1日、東京にB-29の偵察機型F-13が高度10,000mの高高度で初来襲したが、F-13を捉えることができた日本軍戦闘機は皆無であった[309]。

    九州では陸海軍の数機がB-29に体当たりを成功させており、高高度性能に劣る日本軍戦闘機では、確実にB-29を撃墜できるのは体当たり以外にはないと考えられて、陸軍の震天制空隊など空対空特攻部隊が編成され、

    通常の戦闘機による迎撃に併せてB-29の迎撃に投入された[310]。

    海軍では高高度迎撃のため局地戦闘機「震電」の開発を進めていたが、

    空襲による工場の壊滅と技術的な問題により開発が遅延し、飛行試験の段階で終戦となった。

    B-29の来襲機数が劇的に増加する1945年3月以降は、逆に日本軍は沖縄での航空作戦に戦力の過半を投入しており、本土防空戦への戦闘機投入数はB-29の増加数には見合わないものであった[311]。

    また、ルメイによる作戦変更で夜間の市街地無差別焼夷弾攻撃が開始されたのも1945年3月であるが、

    夜間は、センチメートル波小型機上レーダーはおろか、

    各機を管制する防空システムすら不十分な日本側は効果的な迎撃ができず、斜め銃・上向き砲装備、双発の月光、二式複戦「屠龍」の夜間戦闘機が爆撃火災に照らし出されるB-29を発見・攻撃する状態で、灯火管制の中止を要求する飛行隊もあったという。

    ルメイは戦後に「日本軍の夜間戦闘機に撃墜されたB-29は1機も無い」と誤った認識を持っていたほど、徹底して日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していた[312]。

    1945年4月以降に攻略した硫黄島からP-51が日本本土に向けて飛来すると、本土決戦に向けて戦力温存をはかっていた日本軍は、損害に対して戦果が少ない小型機相手の迎撃は回避するようになって、さらに迎撃回数は減少していった[313]。

    戦闘任務におけるB-29の原因別損傷数[314][315]

    日本軍の五式十五糎高射砲、最大射高が20,000mもありどんな高空飛行のB-29も捉えられたが、わずか2門しか生産されなかった。

    年・月 損傷機数合計 敵戦闘機による損傷 対空火器による損傷 戦闘機と対空火器 事故による損傷

    1944年11月 11 3 3 2 3

    1944年12月 83 22 41 14 6

    1945年1月 120 68 20 21 11

    1945年2月 134 46 69 12 7

    1945年3月 210 12 188 9 1

    1945年4月 518 76 353 80 10

    1945年5月 600 53 495 43 10

    1945年6月 624 48 513 51 12

    1945年7月 234 13 218 2 1

    1945年8月 173 8 164 0 1

    合計 2,707 348 2,063 234 62

    戦闘機による迎撃回数の減少に伴い、1945年の5月頃から対B-29戦の主力は高射砲となった。主力高射砲であった八八式七糎野戦高射砲に加えて、新型の九九式八糎高射砲も1942年から量産が開始され、1943年に入ると、八八式7.5cm野戦高射砲が1942年度の総生産数600門から1943年度1,053門、九九式八糎高射砲は40門から400門へと増産が図られた[316]。さらに1943年5月には最大射高14,000mの三式十二糎高射砲も生産開始され、

    この3種の高射砲が主力となってB-29を迎え撃つことになった[317]。さらに、三式12cm高射砲でも10,000mを飛ぶB-29に対しては射高不足が懸念されたため、射高が20,000mもある五式十五糎高射砲が開発されることになった[318]。

    高射砲は日本劇場や両国国技館の屋上などにも設置されたが、

    当初の高高度精密爆撃の際は、数的には日本の高射砲戦力の主力を担っていた最大射高9,100mの八八式7.5cm野戦高射砲と、10,000mの九九式八糎高射砲は射高不足であり、B-29をなかなか捉えることができず、日本国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。

    しかし、ルメイによる作戦変更によりB-29の爆撃高度が下がると、日本軍の高射砲はB-29を捉えることができてB-29の損害は増大した[314]。

    首都防空担当の高射第1師団にいた新井健之大尉(のちタムロン社長)は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町大空襲のときなど、

    火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜した」と発言している。

    代々木公園にあった高射砲陣地から撃たれた高射砲はよく命中していたという市民の証言もある。

    高射砲弾が命中したB-29は赤々と燃えながら、その巨体が青山の上空ぐらいで爆発して四散していた。高射砲弾で墜落していくB-29を見ると拍手が起こったが、なかには「落としたって(敗戦時の)賠償金が増えるだけだ」と冷めた冗談を言うものもいたという[83]。

    日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していたルメイも高射砲に対してはかなり警戒していた[312]。

    日本軍の対B-29エースパイロット

    陸軍航空隊のB-29撃墜王(26機撃墜)樫出勇中尉

    対B-29の本土防空戦は陸軍航空隊が中心となって戦ったので、陸軍航空隊に多数の対B-29エース・パイロットが誕生した。

    特に九州にて双発戦闘機「屠龍」で戦った飛行第4戦隊と、首都圏にて「飛燕」(のちに五式戦闘機)で戦った飛行第244戦隊の所属搭乗員がトップを占めた。

    しかし、撃墜数の申告は、一般的に敵側の損害記録と突き合わせると過大であることが多く、B-29撃墜戦果報告の合計も実際の損失の合計よりは大きかった[319]。

    5機以上のB-29を撃墜した日本陸軍航空隊搭乗員[320][321][322]

    氏名・階級 所属 B-29撃墜数 備考

    樫出勇中尉 第4戦隊 26機 B-29撃墜数トップ、ノモンハン事件でも7機撃墜

    木村定光少尉 † 第4戦隊 22機 1945年7月14日戦死

    伊藤藤太郎大尉 第5戦隊 17機 B-29、20機撃破

    白井長雄大尉 第244戦隊 11機 F6Fヘルキャット2機撃墜

    市川忠一大尉 第244戦隊 9機 F6Fヘルキャット1機撃墜

    河野涓水大尉 † 第70戦隊 9機 1945年2月16日戦死

    小川誠少尉 第70戦隊 7機 P-51ムスタング2機撃墜

    小原伝大尉 第244戦隊 6機 F6Fヘルキャット2機撃墜

    吉田好雄大尉 第70戦隊 6機

    根岸延次軍曹 第53戦隊 6機

    佐々木勇准尉 航空審査部 6機 総撃墜数38機

    鳥塚守良伍長 第53戦隊 6機

    西尾半之進准尉 第4戦隊 5機

    鷲見忠夫准尉 第56戦隊 5機 P-51ムスタング1機撃墜

    川北明准尉 † 第9戦隊 5機 1944年戦死

    海軍航空隊のB-29撃墜王(16機撃墜破)遠藤幸男大尉(前列左)

    海軍航空隊についても、夜間戦闘機「月光」に搭乗した第三〇二海軍航空隊所属の遠藤幸男大尉がB-29撃墜破数16機[148][323]、うち撃墜は8機を記録して「B-29撃墜王」などと呼ばれた[324]。

    横須賀航空隊所属の黒鳥四朗少尉も一晩で5機を撃墜するなど、合計で6機を撃墜している[325]。

    日本陸軍航空隊のB-29への体当たり成功機数[326]

    地区 所属 体当たり機数

    関東地区 第10飛行師団 33機

    九州地区 第12飛行師団 8機

    名古屋地区 第11飛行師団 8機

    満州 第5航空軍 5機

    合計 54機

    この中には2回もB-29への体当たりを成功させて撃墜し生還した板垣政雄軍曹や中野松美伍長、

    三式戦闘機「飛燕」の主翼をB-29に尾翼に当てて破壊撃墜しながら、自らは片翼で生還した四宮徹中尉など、

    B-29を体当たり撃墜しながら生還したケースも含まれている[327]。朝日新聞は1944年12月8日の朝刊でB-29に対する体当たり攻撃を紹介し、中野伍長のインタビューを掲載している[6]。

    日本海軍でも、震天制空隊の初出撃に先駆けること3日前の1944年11月21日、第三五二海軍空所属の坂本幹彦中尉が零戦で迎撃戦闘中、長崎県大村市上空でB-29「アシッド・テスト」に体当たりして撃墜、戦死している[328]。

    その後には組織的な対空特攻がおこなわれたが、

    日本陸軍と比べると小規模で、第二二一海軍航空隊が1944年12月にルソン島でB-24爆撃機迎撃のために編成した「金鵄隊」と、訓練のみで終わった天雷特別攻撃隊にとどまった。

    日本軍のB-29迎撃に対するアメリカ軍の評価

    戦後に日本とドイツに対する戦略爆撃の効果を調査したUSSBSが出した結論は、日本本土空襲における第20空軍のB-29が日本軍戦闘機から被った損失は、第8空軍がドイツ本土爆撃でドイツ軍戦闘機から被った損失の1/3に過ぎず、警戒システムも迎撃地上管制システムもともに“poor”(貧弱)だったとしている[20]。

    日本の防空システムが“poor”だった要因としては下記を指摘している[329]。

    日本の戦争指導者たちが、連合軍による空襲の危険性を十分に認識せず、防空システムの整備を優先しなかった

    フィリピン作戦中は、日本軍航空部隊は連合軍の北上を止めるために使用され、それ以降は本土上陸に対する防衛が優先された

    対上陸部隊として使用するため、航空機と搭乗員は温存されて、日本空軍は常に作戦可能な戦闘機の30%未満しか本土防空に使用しなかった

    USSBSはさらに、日本に対する戦略爆撃はドイツに対する戦略爆撃よりもその期間や投下した爆弾の総量は少なかったが、その効果はほぼ同じであったと評価した。日本に対する高い戦略爆撃の効果の要因として下記を指摘している[330][331]。

    日本への爆撃は時間的、地域的に集約して行われた

    目標の構造物などがドイツに比べて脆弱であり、疎開や分散能力にも劣っていた 被害地域の復旧に時間がかかった

    B-29の本格空襲が始まる前に、日本の航空戦力は既に大きな打撃を受けており、防空能力が小さかった 第20航空軍が努力を重ねて高性能超重爆撃機B-29を使いこなした

    B-29搭乗員の取り扱い

    新潟で高射砲により撃墜され捕虜となったB-29のクルー、住民にリンチされていたところを軍に助けられている

    日本国内で捕らわれた連合軍搭乗員

    総数 545名

    うち遺体で発見[注 5] 29名

    爆撃・事故による死亡 94名

    軍事裁判などによる処刑 132名

    終戦時に解放 290名

    B-29の搭乗員に対しては、救出前に日本人に見つかったとしても「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の市民の捕虜に対する扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」と説明して不安を和らげようとしていた[注 6]。

    しかし、ブリーフィングなどで非公式には「日本上空でパラシュート脱出する場合、軍隊に拾われるように祈るしかない。

    民間人では、殴り殺される可能性がある」とうわさされていた[332]。1945年3月10日の東京大空襲以後、非戦闘員への無差別爆撃が激化すると、B-29搭乗員は日本の一般市民の憎しみを一身に受けることとなり、まずは、発見した一般市民から私刑で暴虐な扱いを受けることが多かった[333]。

    なかには能崎事件のように、一般市民によるリンチの末にB-29搭乗員が死亡してしまうこともあった。このため憲兵隊や警察は第一にB-29搭乗員の身柄確保に努めた。しかし身柄確保されても暴行を受けることもあり、軍人や軍関係者が関与し殺されたB-29搭乗員もいた。

    日本側はドーリットル空襲ののち、1942年7月28日に陸軍大臣補佐官名で、国際交戦規約に違反した者は戦争犯罪人として扱われるという通達を出している。

    実際にドーリットル空襲における軍事裁判では、捕虜となった8名全員に「人道に反する行為を犯した罪」で死刑判決が出ている(処刑されたのは3名、あと5名は減刑)。

    その後、B-29による日本本土空襲が始まった1944年9月8日には、無差別爆撃は戦争犯罪であるので死刑に処せられるべきとの通達が出ている[334]。

    無差別爆撃をおこなったB-29搭乗員は戦時国際法上の捕虜の扱いを受けず、人道に対する戦争犯罪者とされて略式裁判にかけられ戦時重要犯として処刑されたが、裁判を行うこともなく処刑されることも多かった。

    B-29搭乗員の取り扱いは、各軍管区に判断を委ねており、中部軍管区や西部軍管区といった日本の中西部の軍管区のほうが、東部軍管区よりもB-29搭乗員に厳しく、多数の搭乗員が裁判内外で処刑されている[335]。

    処刑されずとも、戦争犯罪人として通常の捕虜とは異なる「特別な扱い」を受けていたB-29搭乗員は、日常的な尋問や暴行に加えて、食事も1日におにぎり3個とコップ1杯の水しか支給されないものもいた[336]。

    なかには1945年1月27日に東京上空で日本軍によって撃墜されて捕らわれたレイ・F・ハローラン少尉のように、上野動物園の猿の檻に裸で猿の代わりに入れられて見世物にされるといった屈辱的な扱いを受けた搭乗員もいた[337]。

    一方で、機雷散布任務中に対空砲火で撃墜され福岡県直方市の遠賀川河川敷にパラシュート降下したが、殺気立った市民に囲まれたところを警官2名に救助されて、そののち民間の医師にケガの治療を受けて東京の捕虜収容所に送られ、

    そのまま終戦を迎えたフィスク・ハンレイのように日本側に手厚い対応をされたことを感謝している捕虜もいる[338]。 1945年5月、福岡県太刀洗陸軍飛行場を爆撃するために飛来したB-29が第三四三海軍航空隊戦闘四〇七飛行隊の紫電改による攻撃によって撃墜された)

    5月26日のB-29による東京への夜間無差別爆撃で収容されていた東京陸軍刑務所で焼死した62名や(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)、8月6日の広島への原爆投下により拘留されていた中国憲兵隊本部で死亡した11名など、B-29の空爆やアメリカ軍艦隊による艦砲射撃など友軍の攻撃で死亡した捕虜も多数にのぼった[339]。

    終戦後、B-29搭乗員を含む連合軍捕虜を殺害や虐待した関係者は、横浜に開廷された連合軍裁判所でB・C級戦犯として裁かれた。

    なかでも、第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官であった岡田資中将は、1945年5月14日の名古屋大空襲とそれ以後の空襲をおこなったB-29搭乗員38人を処刑した責任を問われ、B級戦犯として裁かれた。

    岡田はB-29による無差別爆撃を「米軍による民間人を狙った無差別爆撃は国際法違反である」「搭乗員はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と自分の判断の正当性を主張し、裁判を「法戦」と呼んで戦ったが、絞首刑の判決を受けて翌1949年9月17日に処刑された[340]。





    日本軍の対B-29エースパイロット 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:04 UTC 版)

    「B-29 (航空機)」の記事における「日本軍の対B-29エースパイロット」の解説

    対B-29の本土防空戦は陸軍航空隊が中心となって戦ったので、陸軍航空隊に多数の対B-29エース・パイロットが誕生した。特に九州にて双発戦闘機「屠龍」で戦った飛行第4戦隊と、首都圏にて「飛燕」(のちに五式戦闘機)で戦った飛行第244戦隊の所属搭乗員がトップを占めた。しかし、撃墜数の申告は、一般的に敵側の損害記録と突き合わせると過大であることが多く、B-29撃墜戦果報告の合計も実際の損失の合計よりは大きかった。

    5機以上のB-29を撃墜した日本陸軍航空隊搭乗員 氏名・階級所属B-29撃墜数備考樫出勇中尉第4戦隊 26機 B-29撃墜数トップ、ノモンハン事件でも7機撃墜 木村定光少尉 †第4戦隊 22機 1945年7月14日戦死 伊藤藤太郎大尉第5戦隊 17機 B-29、20機撃破 白井長雄大尉第244戦隊 11機 F6Fヘルキャット2機撃墜 市川忠一大尉第244戦隊 9機 F6Fヘルキャット1機撃墜 河野涓水大尉 †第70戦隊 9機 1945年2月16日戦死 小川誠少尉第70戦隊 7機 P-51ムスタング2機撃墜 小原伝大尉第244戦隊 6機 F6Fヘルキャット2機撃墜 吉田好雄大尉第70戦隊 6機 根岸延次軍曹第53戦隊 6機 佐々木勇准尉航空審査部 6機 総撃墜数38機 鳥塚守良伍長第53戦隊 6機 西尾半之進准尉第4戦隊 5機 鷲見忠夫准尉第56戦隊 5機 P-51ムスタング1機撃墜 川北明准尉 †第9戦隊 5機 1944年戦死 海軍航空隊についても、夜間戦闘機「月光」に搭乗した第三〇二海軍航空隊所属の遠藤幸男大尉がB-29撃墜破数16機、うち撃墜は8機を記録して「B-29撃墜王」などと呼ばれた。横須賀航空隊所属の黒鳥四朗少尉も一晩で5機を撃墜するなど、合計で6機を撃墜している。 日本陸軍航空隊のB-29への体当たり成功機数 地区所属体当たり機数関東地区第10飛行師団 33機 九州地区第12飛行師団 8機 名古屋地区第11飛行師団 8機 満州第5航空軍 5機 合計 54機 この中には2回もB-29への体当たりを成功させて撃墜し生還した板垣政雄軍曹や中野松美伍長、三式戦闘機「飛燕」の主翼をB-29に尾翼に当てて破壊撃墜しながら、自らは片翼で生還した四宮徹中尉など、B-29を体当たり撃墜しながら生還したケースも含まれている。

    朝日新聞は1944年12月8日の朝刊でB-29に対する体当たり攻撃を紹介し、中野伍長のインタビューを掲載している。

    日本海軍でも、震天制空隊の初出撃に先駆けること3日前の1944年11月21日、第三五二海軍空所属の坂本幹彦中尉が零戦で迎撃戦闘中、長崎県大村市上空でB-29「アシッド・テスト」に体当たりして撃墜、戦死している。その後には組織的な対空特攻がおこなわれたが、日本陸軍と比べると小規模で、第二二一海軍航空隊が1944年12月にルソン島でB-24爆撃機迎撃のために編成した「金鵄隊」と、訓練のみで終わった天雷特別攻撃隊にとどまった。

    ※この「日本軍の対B-29エースパイロット」の解説は、「B-29 (航空機)」の解説の一部です。 「日本軍の対B-29エースパイロット」を含む「B-29 (航空機)」の記事については、「B-29 (航空機)」の概要を参照ください。








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    樫出 勇(かしいで いさむ、1915年2月 - 2004年6月)

    は、陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍大尉。新潟県刈羽郡北条村(現柏崎市)出身。ノモンハン事件および太平洋戦争末期の本土防空戦において活躍し、B-29爆撃機に対する通算最多撃墜記録を有する。陸軍のエースパイロットである

    本土防空戦のB-29撃墜王 

    屠龍部隊

    二式複座戦闘機(愛称「屠龍」)を駆り、1944年(昭和19年)6月16日のB-29による初来襲(八幡空襲)の空戦から終戦までに樫出は北九州に来襲したB-29を26機撃墜したとされる(日本側発表のみによる)。当初は二式複座戦闘機には「屠龍」という愛称は冠されていなかったが、北九州を防衛する防空隊の活躍が日本の一般市民に知られた結果、樫出が所属していた小月の飛行第4戦隊(複戦)と芦屋の飛行第13戦隊を「屠龍部隊」と皆が呼ぶようになり、この名が定着した。また彼らには被撃墜時には必ず敵機を道づれとする信念があったという。

    樫出とともに戦った搭乗員の活躍も目覚ましかったとされ、日本側の記録によれば1945年(昭和20年)3月の時点で樫出中尉、木村准尉ともにB-29を18機撃墜、西尾准尉が11機撃墜、藤本軍曹が6機撃墜、佐々大尉、河野軍曹ともに3~4機撃墜、小川中尉、鈴木少尉、馬場曹長、内田曹長、西村軍曹、岩井伍長、辻伍長、横田伍長、筒井伍長ら2機撃墜、4機撃破というものであった。木村少尉は1945年7月14日に戦死してしまったが、樫出は木村少尉のことを自分を上回る技量の持ち主であると評価しており、(B-29撃墜数22機とされる)木村少尉が生きていれば自分を越す撃墜数を挙げていたと語っている。



    戦果



    1944年(昭和19年)8月20日、2度目のB-29大挙来襲に対する邀撃戦において、屠龍戦隊は来襲した80機のうち23機撃墜を報じた。これに対して屠龍戦隊の損害は3機未帰還、5機が被弾という損害であった。一方、アメリカ側の記録では爆撃機61機のうち14機喪失(損耗率23%。交戦以外による損失を含む)で、そのうち航空機による損失が4機(空対空爆撃による1機と体当りによる1機を含む)、対空砲火による損失が1機としており、逆に日本機17機撃墜を報じている[2]。






    【木村定光(きむら・さだみつ)中尉・戦死・22機】

    https://plaza.rakuten.co.jp/oceandou/diary/201806010000/

    (ウツボ)木村定光は大正四年八月十九日生まれ。千葉県松戸市出身。昭和十二年(二十二歳)六月熊谷陸軍飛行学校入校。昭和十三年(二十三歳)二月熊谷陸軍飛行学校(第六七期下士官操縦学生)卒業、熊谷陸軍飛行学校新田分校(助教)配属。

    (カモメ)昭和十七年(二十七歳)飛行第四戦隊(山口県小月飛行場)転属、<川崎・二式複戦「屠龍」双発複座重戦闘機>で、本土防空戦の大型機攻撃訓練を受ける。

    (ウツボ)昭和十九年(二十九歳)六月十五日、木村定光准尉は<ボーイングB−29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を二機撃墜、三機を撃破、激賞された。

    (カモメ)昭和二十年(三十歳)三月二十七日木村定光准尉は<ボーイングB−29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を五機撃墜、二機撃破し、武功章が授与されました。五月八日少尉に特進。七月十四日戦死、中尉に特進。享年三十歳。

    (ウツボ)昭和十九年六月十五日の夜、<ボーイングB−29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>が初めて日本本土を空襲した時、防空戦のため、木村定光准尉は、<川崎・二式複戦「屠龍」双発複座重戦闘機>で、山口県の小月基地を離陸した。

    (カモメ)この防空戦で木村准尉は、<ボーイングB−29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を二機撃墜、三機を撃破しました。




    陸軍撃墜王列伝(56)伊藤大尉

    の総撃墜数は一三機で、まさに重爆撃機の撃墜王だった テーマ:意外な戦記を語る(748)

    カテゴリ:陸軍撃墜王列伝

    (ウツボ)昭和十九年六月四日、伊藤中尉は五〇キロ爆弾二発を搭載し、ビアク島への夜間攻撃に出撃、目標に投弾後、地上掃射を続けたが、対空砲火を受けて被弾、海上に不時着水した。

    (カモメ)だが、すぐに救助されました。伊藤中尉は様々な空戦を経て歴戦のエースになるのです。

    (ウツボ)その後飛行第五戦隊は、メナド(インドネシアのスラウェシ島)を経由して、バゴロド飛行場(フィリピンのネグロス島)に移動した。その後、日本に帰国した。

    (カモメ)昭和十九年十二月、マリアナ諸島を基地にした、<ボーイングB−29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>が名古屋空襲を開始しました。伊藤中尉は、中京地区防空戦力の一員として、迎撃に向かいました。

    (ウツボ)昭和二十年一月伊藤中尉は第三中隊長を命ぜられ、中隊を指揮して、繰り返し爆撃に来襲する<ボーイングB−29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>の迎撃に上がり、次々に撃墜した。

    (カモメ)その後も<川崎「五式戦」単座戦闘機>に搭乗して、本土に来襲してくる<ボーイングB−29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を迎撃しました。昭和二十年七月七日、伊藤大尉は、武功徽章を授与されました。

    (ウツボ)伊藤大尉は、八月十五日の終戦までに戦闘機隊を指揮して、九機の<ボーイングB−29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を撃墜した。

    (カモメ)なお、伊藤大尉が撃墜した他の敵機も全て四発の重爆撃機でした。伊藤大尉の総撃墜数は一三機で、まさに重爆撃機の撃墜王だったのです。

    (ウツボ)戦後、伊藤藤太郎は、国際ライオンズクラブ会員になった。昭和五十八年五月十五日死去。享年六十七歳。著書に「激戦の空に生きて」(石人社・239ページ・1977年)がある。


    【白井長雄(しらい・ながお)大尉・13機】 

    (カモメ)白井長雄は兵庫県生まれ。昭和十六年七月陸軍士官学校(五五期)卒業。十一月操縦学生(八八期)。昭和十七年十一月飛行第二四四戦隊配属。

    (ウツボ)昭和十九年十月、白井中尉は飛行第二四四戦隊第三中隊長に任命され、終戦まで、第三中隊(みかずき隊)を指揮して、本土空襲に来襲する<ボーイングB−29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>の迎撃に明け暮れた。

    (カモメ)搭乗機は、<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>と<川崎「五式戦」単座戦闘機>でした。最終階級は陸軍大尉。

    (ウツボ)白井大尉の撃墜数は、<ボーイングB−29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>一一機、<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>二機の合計一三機。

    カモメ)白井大尉は<ボーイングB−29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>の撃墜王ですね。

    (ウツボ)そうだね。だが、戦後、白井長雄氏は、戦友たちと一切接触せず、戦争については何も語らなかったという。昭和四十九年死去。


    市川忠一大尉 第244戦隊 9機 F6Fヘルキャット1機撃墜




    遠藤幸男

    その他 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 曖昧さ回避 体操男子個人総合金メダリストの「遠藤幸雄」とは異なります。

    遠藤 幸男 えんどう さちお

    Sachio endo.jpg

    夜間戦闘機「月光」の前を歩く遠藤(前列左)と西尾治上飛曹(前列右)

    渾名 B-29撃墜王

    生誕 1915年9月9日

    大日本帝国の旗 大日本帝国 山形県東村山郡山辺町

    死没 1945年1月14日(29歳没)

    大日本帝国の旗 大日本帝国 愛知県渥美郡神戸村(現・田原市) 所属組織 大日本帝国海軍

    軍歴 1930- 1945 最終階級

    Imperial Japan-Navy-OF-4-collar.svg 海軍中佐(没後進級)

    リスト[表示] テンプレートを表示 遠藤 幸男(えんどう さちお[1][2], 1915年9月9日 - 1945年1月14日)は大日本帝国海軍の軍人、最終階級は中佐(没後進級)。

    海軍飛行予科練習生(予科練)の第1期生として日本海軍に入り、海軍航空の道を歩む。太平洋戦争では、前期から中期にかけては当初は遠距離戦闘機として開発された「月光」の開発と改修に参加し、ラバウルに進出後は「月光」を駆使して迎撃戦に活躍。日本本土に帰還後は第三〇二海軍航空隊に所属し、日本本土空襲で来襲するB-29迎撃で奮闘したが、名古屋空襲の迎撃戦で戦死した[3]。B-29撃墜破数16機[4][5][注釈 1][6][7](うち撃墜は公認8機[8][9][注釈 2][3])を記録して「B-29撃墜王」と呼ばれて国民的英雄となった[10]。予科練出身で中佐まで進級した唯一の人物でもある[11]。

    生涯

    開戦まで

    遠藤幸男は1915年(大正4年)9月9日、山形県東村山郡山辺町の材木商の家に生まれる[2]。早くに父親を亡くしていたので旧制中学校には進学せずに[12]、山形県立山形工業学校を首席で卒業し海軍を志願した[2]。1930年当時の日本海軍はロンドン海軍軍縮会議の影響で、主力艦の保有割合をアメリカ・イギリスの60%に抑えられたため、活路を空に見出しており、航空機搭乗員増加を進めていた。その第一弾として、1930年(昭和5年)6月に海軍飛行予科練習生[注釈 3]第一期生を採用したが、遠藤は全国10,000人の応募者から最終選考まで残った75人の1人として[13]横須賀海軍航空隊に入隊した[2]。競争率100倍以上の難関であったので、極めて優秀な人材が集い、教官であった浮田信家大尉は「本来なら海軍兵学校に楽々パス出来るものが、中学校にいけなかったために予科練を目ざしたもので、素質的には江田島以上と思われる者が多かった」と評している[14]。




    正確には、黒鳥四「朗」ですね。

    さらに、厳密には搭乗員ですが操縦ではなく、偵察員ですね。

    横須賀航空隊で倉本十三上飛曹とペアで夜間戦闘機「月光」を駆り、ひと夜で五機撃墜の殊勲を上げた事は有名です。

    亡くなる直前に出版された「回想の横空夜戦隊 ある予備士官搭乗員のB?29邀撃記」は渡辺洋二氏の補筆もあって読みごたえのある回想記でしたのでご一読をお勧めします。 特に、前述の五機撃墜のシーンは淡々と述べられているのが非常に印象的でした。

    大正12年(1923年)2月、東京に生まれる。 昭和16年、東京高等農林学校林学科(現・東京農工大学農学部)に入学する。在学中に徴兵検査を受け、甲種合格していたが、卒業を控えて川西航空機を受験。さらに海軍予備学生にも応募。 昭和18年(1943年)9月、東京高等農林学校を卒業し、第13期飛行専修予備学生として海軍に入隊。 18年11月、鈴鹿航空隊に配属。偵察員教育を 受け、教程終了後の希望機種に夜間戦闘機を希望。 19年5月、希望通り横須賀海軍航空隊夜間戦闘機隊に配属。同月、少尉に任官して横空付。第1飛行隊・第13分隊に分隊士として勤務。

    20年2月、第7飛行隊の飛行隊士に任じられる。4月、創本十三上飛曹とともにB‐29を1機撃墜、1機撃破。5月、一夜にB‐29を5機撃墜、1機撃破。6月、中尉に進級。同月、横須賀鎮守府司令長官により全軍布告、軍刀授与。8月、米軍調査にそなえて横空に残留待機。9月、復員。

    昭和21年、運輸技官として大臣官房技術研究所に勤務。25年、九州木材(株)入社。27年、日本マレニット(株)設立、九州支社長。

    平成7年(1995年)、退職し22年まで九州木材(株)顧問 平成24年2月4日逝去

    戦時中に「暗視ホルモン」として投与されたヒロポン(覚せい剤)の副作用に戦後は苦まれたが、その経験を述べている部分も興味深かったです。 2人がナイス!しています ナイス!


    https://plaza.rakuten.co.jp/oceandou/diary/201806010000/

    大東亜戦争は日本が勝った -英国人ジャーナリスト ヘンリー・ストークスが語る「世界史の中の日本」 単行本 - 2017/4/17 ヘンリー・S・ストークス (著), 藤田 裕行 (翻訳)

    B29はドイツを空襲していない

    B-29 (航空機) - Wikipediahttps://ja.wikipedia.org ? wiki ? B-29_(航空機)

    ボーイング B-29 スーパーフォートレス(Boeing B-29 Superfortress)は、アメリカのボーイングが ... B-29による日本本土空襲は、日本の継戦能力を喪失させる大きな要因となった。

    ?樫出勇 ・ ?ライト R-3350 ・ ?九〇式大聴音機 ・ ?ボーイング307

    B29

    日本本土爆撃に投入

    日本本土に初来襲したB-29を迎撃した二式複座戦闘機「屠龍」

    成都から八幡製鐵所を主目的としてB-29による日本初空襲が実施された、八幡を初の目標としたのは統合参謀本部の命令であった。1944年6月15日、B-29は75機が出撃したが、7機が故障で離陸できず、1機が離陸直後に墜落、4機が故障で途中で引き返すこととなり、残りの63機だけが飛行を継続した[75]。この日は早朝にアメリカ軍の大船団がサイパン島に殺到してサイパンの戦いが開始されており、それに呼応して中華民国のB-29が北九州方面に来襲する可能性が高いと日本軍も警戒していた[76]。やがて夜中の11時31分に、済州島に設置していたレーダー基地から「彼我不明機、290度、60キロ及び120キロを東進中」という至急電が西部軍司令部に寄せられた。

    日本軍のレーダーの性能は低く、これが敵機であるのか判断がなかなかつかなかったが、済州島からは次々と続報が入り、翌16日の0時15分には、長崎県の平戸と対馬の厳原と五島の福江を結ぶ線に設置されていた超短波警戒機甲も敵味方不明編隊を探知、これらの情報を検証すると、この敵味方不明編隊は400km以上の速度で巡航飛行を続けていることが判明したが、日本軍機が帰投や哨戒中にこの空域をこんな高速で飛行するはずがないと判断した西部軍は午前0時24分に空襲警報を発令した[77]。



    1 野生の馬――ムスタングの誕生

    http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU5/app1.htm

    1 ナチの翼、ヨーロッパをおおう 2 いまさら古い戦闘機なんて 3 ムスタングだ! 社長が陣頭指揮 4 世界で初めて層流翼を採用 5 一号機、大空にはばたく 6 すべて順調… 英空軍も満足 7 ムスタングはどっち?

     一九三九年〔昭和十四年〕九月、ヒトラーのドイツ陸軍は、ボーランドに侵入するや、たちまち、その攻略を完了してしまった。いわゆる電撃戦を初めてやってのけたのである。

     またたく間にこの小さな国家を手におさめたヒトラーの目は、西の難攻不落を誇るマジノ線〔フランスがドイツとの国境に建設した大要塞線〕と、その背後にひかえるフランス、およびイギリスの陸軍へとむきはじめたのである。

    1 ナチの翼、ヨーロッパをおおう top

     ポーランド侵攻作戦のほんの短い期間で、ドイツ空軍の実力は世界中に轟きわたった。  メッサーシュミットMe109戦闘機、ユンカースJu87「スツーカ」急降下爆撃機、そしてハインケルHe190爆撃機などのもつおそるべき性能

    3 ドイツ空襲は“地獄への急行便”

    1 自分で身を守れってことかい? 2 お寒い援護態勢 3 援護態勢ますます貧弱に 4 独軍の意図をつかめず 5 期待をになったサンダーボルト 6 独空軍、迎撃に本腰いれる 7 犠牲は、うなぎのぽり 8 厄災の十月十四日 9 最後の切り札ムスタング

    ロンドンから欧州大陸各地までの距離

     英本土において米陸軍航空軍の第8航空軍が編成された当時、重爆撃機が作戦に参加する時の戦闘機の援護の必要性などは、全く考えられたこともなかった。

    1 自分で身を守れってことかい? top

     事実、一九四二年に米陸軍航空軍総司令官のアーノルド大将が、在英のジェームズ・E・チェニー少将にあてた電報のなかで、五個飛行連隊の追撃機(のちに戦闘機という名称に統一された)を英本土に派遣するが、そのうちの二個飛行連隊は北アイルランドの警備に、三個飛行連隊は攻撃部隊として使用せよ、としか指定していない。  とはいえ、実際に英本土からのB17〔ボーイング社製の四発爆撃機、B24、B29とともに、第二次大戦における戦略爆撃のきめてとなった機種――「空の要塞」〕によるヨーロッパ本土爆撃作戦が策定されたときには、戦闘機が、航続距離ギリギリまで護衛して行くことに決定された。  そしてその地点から先は、各編隊が密集隊形をとって敵の迎撃をかわす、ときめられた。

    2 お寒い援護態勢 top

     一九四二年春、チェニー少将は、まもなく英本土に到着する予定のB17に同行できる機種は、カーチスP40「ウォーホーク」とベルP39「エアラコブラ」しかないことを知った。

     彼は、これらの機種が重爆撃機の援護、という困難な行動を遂行できるかどうか深刻に悩み、英空軍のポータル中将に、この疑問をぶつけてみたのだった。  それにたいしてポータル中将は、すぐに、イギリスの「スピットファイア」を投入することをすすめた。  そして、そのかわりに、中東でのイギリス軍の作戦に、「ウォーホーク」を参加させることを提案した。  彼は「スピットファイア」を“第二次大戦中にうまれた最高の多用途戦闘機であり、爆撃機隊を上空から援護する任務なら、すぐにでも果すことができる”と確信していたのである。

     ポータル中将の提案が採用され、アメリカからの第一陣である第31戦闘飛行連隊は、一九四二年六月に英本土に到着すると同時に「スピットファイア」による空戦の訓練を開始した。  まもなくすると、第1戦闘飛行連隊が、双胴型のロッキードP38「ライトニング」をもって次々と到着しはじめたが、彼らも、やはり英空軍の指導で「ライトニング」による、より高度な空戦の訓練に入ったのだった。

    チャールズ・ポータル英空軍中将  そして一九四二年八月十七日、第97爆撃飛行連隊に所属する一二機のB17は、英本土を基地とする、初の爆撃作戦に出撃したのである。  英空軍の「スピットファイア」による強力な援護のもとに、B17はフランスのルーアンとソッテヴィユ〔パリの北西二〇〇キロにある都市〕の操車場に、爆弾の雨を降らせた。  メッサーシュミットMe109が三機ほど姿を見せはしたものの、爆撃機隊の様子をうかがうだけで、攻撃はかけてこなかった。  この作戦の成功は、アメリカ側に楽観的な見通しをいだかせた。  カール・スパーツ大将は、アーノルド大将にたいする報告のなかで、爆撃機隊にたいして敵戦闘機が攻撃をかけてこなかった原因は、爆撃機が防御火力を集中的に使用できるように、密集した隊形の編隊をくんだことと、援護戦闘機隊が同行したためであろう、といっている。  とは言っても、彼らの目の前に横たわる疑問が、これで解決したというわけではない。  重爆撃機の大編隊が、果して援護戦闘機の行動圏外の敵地深くにまで侵入して爆撃を行い、重大な損害を受けることなしに、引揚げてこれるものかどうか?

    3 援護態勢ますます貧弱に top

     八月末になって、第52戦闘飛行連隊が到着し、「スピットファイア」による訓練を開始した。  しかし、まもなく彼らは、「ライトニング」を装備している第14戦闘飛行連隊と合併した。  それと同時に、作戦の状況に応じて効果的な援護行動を展開するために、第8戦闘兵団が編成された。  アメリカ人の義勇パイロットたちで編成されている英空軍の「鷲」飛行隊も、一九四二年九月二十九日付でこの第8戦闘兵団に編入され、「スピットファイア」を装備した米陸軍航空軍の三個飛行連隊とともに、作戦に参加することになった。

    双胴型のロッキードP38「ライトニング」: ドイツ空軍のパイロットたちがおそれていた足の長い、「ライトニング」を 爆撃機援護の任務からはずしたことは、重大な失敗だった

    米陸軍航空軍の首脳:カール・スパーツ大将(左)とアーノルド大将  しかし北アフリカ作戦の進展に伴い、第8航空軍の作戦計画は、大幅な変更にせまられたのだった。  第1、第14戦闘飛行連隊の「ライトニング」と、第31、52戦闘飛行連隊の「スピットファイア」は、北アフリカ作戦を担当するため新しく編成された、第12航空軍に編入されることになった。  この改編が行われるまでに、 「ライトニング」は、数回しか爆撃隊の援護には出動せず、その後一九四二年の後半は、第4戦闘飛行連隊に属する、もと「鷲」飛行隊や英空軍の「スピットファイア」が担当した。  しかし、「ライトニング」がこの作戦からはずされたことは、爆撃機隊の搭乗員にとってかなりのショックだった。  「スピットファイア」の場合、爆撃機の援護といってもフランス本土の大西洋岸がやっとだが、「ライトニング」なら平気で本土の奥地まで護衛してきてくれたからである。  「ライトニング」がいなくなったことと、冬の到来とで、第8航空軍の爆撃作戦は急に縮小された。

     一九四二年十一月には、八回の爆撃が行われたが、十二月に入ると、回数はその半分以下にまで低下した。  これらの爆撃の目標は、すべてフランス本土の大西洋岸に集中されていた。  そのなかには、サンナゼール〔パリ南西四〇〇キロ、ピスケー湾に面した港湾都市〕にある、ドイツ海軍のUポート基地なども含まれていたが、ここを攻撃するためには、距離的に「スピットファイア」の援護の圈外にでなければならず、ドイツ空軍の迎撃機の餌食となるB17も、少なくなかった。

    4 独軍の意図をつかめず top

     しかしそれにもかかわらず、第8爆撃兵団は一九四二年の暮れに作成した報告のなかでも、まだ、こんなことを主張している。  「今迄の爆撃作戦におけるドイツ戦闘機のとった行動を分析することによって、ひとつの事実が明らかになってくる。  それは、B17およびB24が、一二機以上の密集編隊で飛行した場合、敵がこれにたいして、重大な損害をあたえうるような戦法はありえない、ということである」  いうまでもなく、第8爆撃兵団の司令部は、その密集した爆撃機の編隊にたいしてドイツ空軍が、徹底した攻撃をかけてこない本当の理由をとらえていなかったのだ。  

    まず第一に、ドイツ空軍は、その爆撃機の密集編隊の防御火力の強さをさぐっている段階だったこと。

     第二に、海岸線すれすれのところにしか侵入してこない爆撃機の編隊は、戦闘機の大編隊にいつも援護されており、そこに、わざわざ突っ込んでまで空戦をやる気はなかったこと。

     第三に、ドイツ軍としては、フランス本土の大西洋岸にある軍事施設には、必死で護らねばならぬほどの戦賂的価値などなかったこと。

     第四に、ドイツの航空機の生産体制は、まだフル稼動にまで達しておらず、完成された機体は、すべて他のもっと重要を戦線に優先的に配備されていたこと。  そして最後に、ドイツ空軍は、西部での迎撃態勢づくりに、やっと着手したところだったのである。

     一九四二年末頃、ヘルゴラーント島〔北海にあるドイツ領の島〕からピアリッツ〔フランス南部、スペインとの国境の町〕にいたる、ヨーロッパ大陸の海岸線の防御用に、ドイツ空軍は、わずか一〇〇機の戦闘機しか配備していなかったのである。

    5 期待をになったサンダーボルト top

     ー九四二年のクリスマス・イブ、第8戦闘兵団に、まもなく配属される予定の新機種の詳細がもたらされた。  そして、ずんぐりとした機首に大型の星型エンジンを装備した、リパブリックP47「サンダーボルト」が英本土に到着したのは、それからまもなくのことだった。  もとはといえば、この機体にかけた米陸軍航空軍当局の過大な期待と興味が、当時、生まれたばかりのムスタングにたいする関心の薄さとなって現われ、ライト航空基地の飛行試験部の片隅に、ムスタングが長いあいだホコリをかぶったまま放置されるハメになった原因でもあったのである。

     ところで、到着した「サンダーボルト」は、胴体内の主燃料タンクが七八〇リットル、予備タンクが三八〇リットルで、合計一一六○リットルの容量をもち、爆撃機援護の行動半径は、最大二八〇キロだった。  これに補助燃料タンクを装備すれば、ヨーロッパ大陸の海岸線から三二〇キロ内陸まで援護飛行を続けることができるのだが、それはまだ、アメリカから送られてきてはいなかった。

    リパブリックP47「サンダーボルト」は、高々度において、結構、ドイツ空軍のフォッケウルフFw190と空戦をまじえることもあったが、低空における迎撃任務の方が多かった  性能的にいえば「サンダーボルト」は、ドイツ空軍のフォッケウルフFw190戦闘機に、互角の勝負をいどむことができた。 ひとまわり大きいこの「サンダーボルト」は、五〇〇〇メートル以上の高度でのFw190との空戦ではかなり有利だったが、低高度となると、軽快な相手と五分の勝負というわけにはいかなかった。  それに、この「サンダーボルト」は上昇性能〔高々度まで到達する所要時間で示す〕に不満があり、Fw190やメッサーシュミットMe109と同等とはいえなかった。  とはいえ、その強大な星型エンジンに、ものをいわせての急降下性能は、ほかのどの機もかなわなかったし、後期の改良型で採用された櫂〔かい〕型プロペラ〔プロペラの羽根が、ちょうどボートのオールのような形をしている〕と水噴射〔エンジンの吸気部に水を噴射し、空気の温度を下げて密度を高め、エンジンの出力を一時的にあげる方式〕は、その性能を一段と高めるのに役だっていた。  しかし、いろいろと得失はあったにせよ、とにかく高々度における性能がよいのだから、この「サンダーポルト」が、爆撃機隊の護衛にもってこいの機体であることに、間違いはなかった。

     主な欠点といえば、どちらかといえばガソリンをガブ飲みする傾向をもつ、プラット&ホイットニー二〇〇〇馬カエンジンに十分な飲料を供給するための、落下式補助燃料タンク〔主翼や胴体下部などに装備して、カラになったり、空戦を行うときなどには投下してしまう〕がないことだった。  そこで、とりあえず、アメリカから七六〇リットル入り補助燃料タンクが送られてきた。

     このタンクは、樹脂によって強化処理された紙製で、機体の胴体下部に装備される型式のものだった。  ところがこのタンクは、高度が八五〇〇メートル以上になると、うまくガソリンがエンジンに流入しないことがはっきりした。  それにガソリンの漏れが激しく、空気抵抗も大きかった。  そんなわけで、「サンダーボルト」は大きな期待をになって就役したものの、イギリスで開発された四一〇リットル入りのタンクが実用化する一九四三年の七月までのあいだ、このトラブルにさんざん悩まされ続けた。  この新型タンクは、圧力給送方式〔タンク内に圧力をかけて、ガソリンを送りだす方式〕で、一九四三年の九月になってやっと大量生産が開始された。

    6 独空軍、迎撃に本腰いれる top

     この年の夏のあいだ、爆撃機隊の援護は、第45、第56、それに第78戦闘飛行連隊の三個飛行連隊に所属する「サンダーボルト」が主に担当した。  彼らは補助燃料タンクのトラブルにもめげず、燃料が続くかぎり爆撃機とともに敵地の奥深くまで侵入して、勇敢にその任務を遂行した。

     しかし司令部は、戦略爆撃の目標をさらに奥の、「サンダーボルト」では到達できないところにまで延長した。  援護戦闘機隊は、とにかく行けるところまでついて行って、あとは爆撃機隊だけを、単独で行かせるしかない。  そして、適当な時間をおいて、第二波の援護戦闘機隊を発進させ、爆撃をおえて反転してくる爆撃機隊を待ちうけて合流し、英本土の基地まで連れ帰る以外に方法はなかった。  ところで、連合軍の爆撃が本格化するにつれ、ドイツ軍も、急いで迎撃態勢を整えていた。

     戦闘機の生産は最優先に指定され、一九四三年の一月一日から十一月二日までに、西部戦線における戦闘機の数は、六七〇機から一六六〇機に増強された。  ドイツ空軍はトロンヘイム〔ノルウェー中部〕からアンディー〔フランス南部〕にいたる防衛線を設定し、侵入してくる連合軍機にたいして、極めて効果的なレーダー警戒網をしいた。

     パイロットたちも、より優秀で経験の豊かな兵士が選抜され、少しでも迎撃の効果があがるように、と配慮された。  彼らの大部分は、ソ連国境地帯での空戦に投入されていた連中だった。  そのため「サンダーボルト」に援護された爆撃機隊がドイツ領に侵入して行くにつれて、空戦は激しさをくわえ、爆撃機の損失も多くなった。  一九四三年四月十七日のブレーメン〔ドイツ北西部の工業都市〕空襲は、「サンダーポルト」が参加した、ごく初期の作戦のひとつだが、このとき参加した一〇六機のB17のうち、一六機が失われている。

    1943年6月のキール空襲では、迎撃態勢をととのえたドイツ空軍の、ものすごい攻撃をうけてB17は手ひどい被害をこうむった 写真はB17下面の爆弾庫を開いて、爆弾を投下した瞬間のもの−爆弾3発が見える

    7 犠牲は、うなぎのぽり top

     一九四三年の六月ごろから、第8爆撃兵団は、援護戦闘機なしにドイツ本土の爆撃を敢行しては、手痛い損害をうけた。  たとえば、六月十三日、六〇機のB17によるキール〔バルト海に面したドイツの軍港〕空襲のさいには、ドイツ戦闘機による猛烈な迎撃をうけて、その三分の一以上にものぼる二二機が撃墜されてしまったのである。  襲いかかってきたのは、Me109、Fw190、それにMe110とユンカースJu88まで加わった。  Me109とFw190は、猛烈な勢いで上空から突っ込んで命中弾をあびせ、双発のMe110とJu88は、至近距離から二〇ミリ機関砲で猛射してきた。  それから八日後には、ルール地方のフルスにある、IG染料会社〔世界有数の化学会社〕のゴム工場を空襲して、一六機が失われた。  七月二十八日に第8爆撃兵団は、さらにオーシェレスレーベン〔ベルリン南面二五〇キロ〕とカッセル〔ドイツ南西部の工業都市〕を爆撃し、猛烈な反撃をうけた。

    ドイツ空軍の激しい迎撃をかいくぐり、ひどい損傷をうけながらも なんとか基地にたどりつくB17もあった 尾翼が破損している  この作戦によって失ったB17は、二二機にものぼったが、その時もしも、一〇五機の「サンダーボルト」が、英本土から四〇〇キロのところで、帰路を待ちうけていてくれなかったなら、損害はさらに大きなものとなっていたに違いない。  援護戦闘機隊は、戻ってくるB17の編隊に、六〇機ものドイツ戦闘機がくらいついているのを見てビックリした。  そして、彼らが空戦をしかける前に、みるみる九機ものB17が墜落していったのだった。

     しかし、第8爆撃兵団が一九四三年夏に行った、これら一連の爆撃作戦のなかで、最も野心的な計画は八月十六日に行われたドイツ本土の二都市同時爆撃だろう。  その日、一四六機のB17は、レーゲンスブルク〔ドイツ南東部、もうチェコ国境に近い〕にあるメッサーシュミットの組立工場群をめざした。  一八個飛行連隊の「サンダーポルト」と英空軍の「スピットファイア」一六個飛行連隊が、航続距離ギリギリのところまで援護に同行した。  そして、援護機の編隊が引返していったあと、B17は単独で飛行を続け、目標に爆弾を投下すると、そのまま北アフリカの米軍基地に向った。  この爆撃は、極めて大きな戦果をあげることに成功はしたが、援護機が引返し始めるのと同時に始まったドイツ空軍の迎撃は、驚くべきことに、なんとB17が地中海上にでるまで続いたのだった。

     目標まで進入したB17は一二七機、そして、そのうちの二四機が撃墜された。  レーゲンスブルクにむけて第一陣が発進してから三時間三〇分後、今度は二三〇機のB17が、シュバインフルト〔ドイツ本土のほぼ中央の工業都市〕のポール・ベアリング工場群をめざして離陸した。  こうして、第一陣と第二陣のあいだに三時間半の時差がおかれたのは、援護戦闘機が第一陣を送って基地に帰投し、第二陣のために、給油その他の補給作業を実施するためだった。

     だがしかし、この時差はまた、ドイツ空軍の戦闘機にも、同じように時間の余裕をあたえることになった。  そのため、米空軍はシュバインフルトに侵入したB17のうち三六機を撃墜され、その日だけで、合計六〇機という、出撃機数の一九パーセントにものぼるおそるべき損害をうけた。  もし第一陣がアフリカヘ向っていなければ援護機がきてくれるところまで迎撃が続いたわけだから、犠牲は、さらに大きなものになっていたことだろう。

    8 厄災の十月十四日 top

     ところで、戦闘機による長距離の援護飛行の可能性が実証されたのは、一九四三年九月二十七日のことだった。  「サンダーボルト」は、エムデン〔ドイツ北西端の港、英本土の基地から約四三〇キロ〕爆撃を行ったB17に初めて完全に随行したのである。  二八〇リットルの落下補助燃料タンクを使った「サンダーボルト」の編隊は、イギリスとドイツ本土を完全に往復したのだ。  この援護機のおかげで、B17の被害は、出撃機数二四四にたいしてたったの七機ですんだ。

     「サンダーポルト」も、二一機の敵と交戦して、二機を失っただけだった。  こうして援護戦闘機が、B24ないしはB17の編隊に同行するかぎり、損害は比較的少なくてすんだが、爆撃機だけが敵地深く侵入していった場合の損害は、恐ろしい勢いで増加するばかりだった。

     最もひどかったのは、一九四三年の十月、B17がシュバインフルトのボール・ベアリング工場群に再爆撃をかけた時のことである。  十月十四日、二九一機のB17は、二隊に分れて基地を発進した。  そして、お互いに五〇キロの間隔をとって、同時にヨーロッパ本土に侵入した。  「サンダーボルト」の編隊は、燃料の続くギリギリのところまでついて行き、あとは、B17だけで密集編隊をくんで飛び続けた。  ちょうどアーヘン〔ドイツ中部の西端、ベルギー・オランダとの国境に近い〕の上空、英本土から三八〇キロほどの地点だったが、待っていたかのように、ドイツの迎撃機の大編隊が、嵐のような勢いで、B17の編隊におそいかかったのである。  とにかく、ドイツ軍は、迎撃戦闘につかえそうな軍用機をすべてかりあつめてきたらしい。

     B17の密集編隊は、真正面と上からと猛烈な攻撃にさらされた。  双発の重戦闘機は編隊の後尾にくらいついて大口径の機関砲をあびせた。  それだけではない。

     B17の真上をおさえた編隊は、爆弾さえ投下したのである。  この日、出撃した第8爆撃兵団所属のB17のうちの六〇機が、空戦と地上砲火の犠牲となった。  ほかに一七機が、やっとのことで帰投はしたものの、機体は大損傷をうけており、残りの一二一機は、いずれもかなりの被害を蒙っていた。  ドイツ空軍兵器補給部の記録によれば、この時のドイツ空軍戦闘機の損失は三八機、ほかに二〇機が戦間中に被害をうけただけだという。  出迎えにやってきた第8戦闘兵団の「サンダーボルト」と英空軍の「スピットファイア」は、まだB17を取巻いて攻撃を続ける敵機のまっただなかから、B17を救いだすようにして英本土に連れ戻ったのだった。  この爆撃のあげた戦果を、かなりあまく見積もってみたとしても、この日の結果は、明らかに惨敗だった。

    9 最後の切り札ムスタング top

     第8航空軍司令部は、深刻な決断を求められる破目となった。  これだけの大きな損害をだしても、昼間の爆撃を続けるべきか? 戦闘機の援護なしに行った爆撃飛行のために、今や事態は、最悪の状態にまで追いつめられているのだ。

     ごく少数の「ライトニング」が援護に転用できることになり、二個の二九〇リットル入り落下補助燃料タンク使えば、行動半径を英本土から八二〇キロ〔ドイツ本土のほぼ五分の四をカバーする〕まで伸ばすことができたが、「サンダーポルト」の方は、一九四三年秋に、やっと供給されるようになった四一〇リットルの落下補助燃料タンクを使っても、ギリギリのところ六〇〇キロ〔ドイツ本土の三分の一、ベルリンをはじめとする主要都市はほとんどはいらない〕というところなのだ。

     頑丈な「サンダーボルト」は、行けるところまで行っては、ドイツ空軍の戦闘機を相手にめざましい活躍ぶりを示して入るものの、なんといっても行動半径が小さすぎる。  一九四三年十一月、P51ムスタングを装備した初の部隊が到着した。  ところが、この部隊は、新しく創設された第9航空軍に配属されることになっていたのである。

     これを知った第8戦闘兵団のウィリアム・ケプナー大将は、各方面をとびまわって、今や重爆撃機隊の援護と支援は、英本土に基地をおく、あらゆる米戦闘機隊に課せられた最大の任務だ、と説得を続けたのだった。  その結果、いろいろとウラの事情もからんで、この新着のムスタング部隊は、第9航空軍所属のまま、数ヵ月間だけ、第8戦闘飛行兵団にくわえられることになったのである。

    11 両軍決死の大空中戦 top

    http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU5/app4.htm

     ベルリン上空にムスタングが初めて進入したのに続いて、第8航空軍は、この“第三帝国”の首都に爆撃をくわえようと、天候が好転するのを、ひたすら待ち望んだ。  そして、ついに三月六日、この作戦が実施された。  天候はまだ非常に悪かったが、二四キロにもわたる、B17とB24による大パレードは、目標のベルリンに向っていっきに続き、一方、ドイツ軍もそうはさせじ、とばかりに全力をあげて迎撃してきた。

     しかし、密雲にはばまれ、目標を確認することができないまま投下された爆弾の大部分は、ベルリン郊外に落下し、肝心のベルリン市内には、ただの一発も落下しなかった。  とはいうものの、この作戦では、第二次大戦全期を通して、もっとも熾烈な空戦の一つといわれる、激しい戦闘が展開されたのだった。  ドイツ空軍は、侵入してくる大編隊にたいして、そ

    の途中に一六九機、ベルリン上空に二〇二機、さらに帰路に二四四機という大迎撃機群をくりだしてきた。  それにたいするB17とB24の大編隊は、六一五機の「サンダーボルト」、八六機の「ライトニング」そして一〇二機のムスタングに援護されていたが、爆撃機六九機が撃墜され、戦闘機一一機が未帰還となった。  もっとも手ひどい攻撃をうけた第3爆撃兵団の、あるB17の搭乗員は、その状況をこのように記録している。

     「わが兵団機にたいする敵機の攻撃は、極めて巧妙に行なわれた。  敵戦闘機にたいする防御と、味方戦闘機による援護の両方を考えて、爆撃機群は、延長一〇〇キロにもおよぶ二機一組の縦列戦闘隊形をくんだ。  ところが、敵の迎撃戦闘指揮官は、この隊形をとったばあい、その中央部の防御が手薄になることを見抜いたらしく、まず迎撃戦闘機を二群にわけて、わが方の戦列の最先端と最後尾に攻撃をかけて援護戦闘機をおびきよせた。  そして、そのスキをねらって、一〇〇機以上にものぼる、別の一群が全く無防備の戦列の中央部に襲いかかってきたのだ。

     異常なほど闘志に燃えた、この戦闘機群の猛烈な攻撃に、ものの三〇分とたたないうちに二〇機以上もの爆撃機が撃墜されてしまったのである」



    18 ドイツ空軍を追いつめる top

    http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU5/app4.htm

     この頃から、祖国防衛に必死の努力をくりかえすドイツ空軍は、その迎撃部隊の戦闘空域を、ドイツ本土の奥へ奥へと後退させはじめた。  これは、戦闘機の兵力をできるだけ温存させようという判断からでた戦術なのだが、そのために戦闘空域をドイツ本土の奥にうつすというかんがえは、連合軍にとって理解しかねるものだった。

     もしもドイツ空軍が、逆に、大西洋岸に進出して迎撃をかけたとしたら、侵攻してきた連合軍の援護戦闘機は、空戦を開始する前に、いやでも足手まといの補助燃料タンクを投下して、身軽にならなければならない。  となれば、もはや、彼らは爆撃機隊を援護して、敵地ふかくまで侵入するわけにはいかなくなるのだ。

     しかし、幸運なことに、ドイツ空軍は、その戦術を変更しようとはせず、戦局の進展とともに、ドイツ本土の奥へ奥へと後退を続けたのだった。  さらにドイツ空軍は、これまでのように、爆撃機にたいして集中的に砲火をあびせる迎撃方式から、援護戦闘機にたいして長時間にわたって空戦をいどむ方式へと戦術を転換した。

     米軍の戦闘機が帰投する途中、ちょっと爆撃機編隊から離脱して、敵の航空基地などに機銃掃射をくわえたりしはじめたのは、ベルリン爆撃がはじまってからのことだった。  一九四四年四月はじめになって、第8戦闘兵団司令官のケプナー大将は、正式に許可をだし、敵が上昇してくるのを待たなくても、地上にいるあいだに、片をつけることができるようになったのだった。



    6 落日むかえた栄光の独空軍 top

     ドイツ本土の奥へ奥へと侵攻していく“重爆”とともに、ひたすら援護の任務を続けるムスタングのパイロットたちは、やがて、ドイツ戦闘機の空戦能力が、急激に低下しはじめたことに気がついた。  ベテランのパイロットたちが、ムスタングとの空戦によって、次々に失われていき、その補充として、まだ若いパイロットが、ろくろく訓練もおわらないうちに実戦に投入されはじめたための現象なのである

    。  当然のことながら、これらの未熟なパイロットは、まともにムスタングと空戦を行なう能力など、はじめから、ない連中だった。  第352戦闘飛行連隊のジョン・F・ソーネル中尉は、かつてこの上もない脅威だったドイツ空軍の、この痛ましいような凋落ぶりを、一九四四年五月八日の戦闘にたくして、こういっている。



    日本へ 2 マリアナから日本本土ヘ top

    http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU5/app9.htm

     ー九四四年十一月、第20爆撃兵団ののB29は、占領したばかりのマリアナ諸島のサイパン、テニアンの両島に新設された飛行場から、日本本土の爆撃作戦を開始した。  その頃は、日本側の迎撃もそれほど大きなものではなかったが、やがては日本側が最後の力をふりしぼり、死物狂いの迎撃を展開してくることは十分に予想されていた。  となれば、まず、絶対に必要となるのは長距離援護戦闘機だが、いうまでもなく、これこそは、ムスタングの本来の姿なのである。

     しかし、そのためには、ムスタングの行動半径内に収まる基地がなくてはならない。  この要求をみたすための侵攻作戦は、一九四五年二月十九日、米海兵隊の硫黄島上陸によって開始された。

     そして、海岸線がなんとか確保できたかできないうちに、海軍設営隊が上陸し、とりあえず、戦闘機の発着が可能な、一七〇〇メートルほどの滑走路の建設工事を開始した。

    3 長距離援護で本領発揮 top

     一九四五年の三月六日、第15戦闘飛行連隊のムスタングは、完成したばかりの硫黄島南部飛行場の滑走路に到着し、ただちに作戦配置についた。  さらに、その月の十五日には、第21戦闘飛行連隊も到着した。  この二つの部隊は、長距離援護の任務につく前に、手ならしとして、周辺の島にある日本軍の施設にたいする攻撃を繰返したのだった。  しかし、ムスタングのパイロットたちは、日本本土への出撃をそんなに長く待つことはなかった。

     一九四五年四月七日、第15、第21戦闘飛行連隊のムスタングー○八機は、第73爆撃飛行団のB29一〇七機と会合するために、基地を発進した。  目標は東京郊外、立川市にある中島飛行機製作所の工場であった。  ムスタングの編隊は、伊豆諸島の神津島上空高度約五〇〇〇メートルで爆撃機の大編隊と会合し、彼らよりわずか前方を、両側からはさみこむような隊形で飛行を続けた。  そして爆撃目標の手前約七〇キロ付近〔伊豆半島北部〕にさしかかった時、日本の迎撃機の編隊が初めて姿を現した

    。  〔日本軍は当時、マリアナから来襲するB29の編隊を、まず八丈島のレーダーによって、約二五〇キロ手前で捕捉する。  それと同時に陸軍第10飛行師団の各部隊に警戒戦備が指令され、八丈島上空を通過中にB29であることが確認されると、ただちに出動が命令され、離陸した迎撃戦闘機は、富士山を目標に北上してくるB29編隊を、伊豆半島上空で待ち構えた〕  その日、日本軍は、出撃可能な、あらゆる機種を繰出していた。

     「ニック」〔陸軍二式仮座戦闘機「屠竜」〕、「トージョー」〔陸軍二式単座戦闘機「鍾馗」〕、「アーヴィング」〔海軍夜間戦闘機「月光」〕、「トニー」〔陸軍三式戦闘機「飛燕」〕、「ジーク」〔海軍零式艦上戦闘機52型〕……。 硫黄島にせいぞろいしたムスタング: 日本本土攻撃をねらって、一〇〇機以上が集結した B29と、それを援護するムスタング すみきった青海原の上を、B29を援護しながら飛ぶムスタングの編隊

    4 迎撃機の群れからB29守る top

     日本の迎撃戦闘機は、全機、闘志のかたまりのようになって、ムスタングとB29の大編隊に向って突入してきた。

     第15戦闘飛行連隊のロバート・W・ムーア大尉は、その日、“青小隊”〔四個飛行小隊からなる一飛行隊で編隊を組むときに、三番目の高さを飛ぶ飛行小隊をいう〕のリーダーをつとめていた。

     彼らの編隊は、銚子上空にさしかかるまで〔B29の編隊は関東各地を爆撃後、千葉県銚子から太平洋上にぬけるコースをとった〕日本の戦闘機と遭遇するチャンスはなかったが、突然四機の零戦が現われ、B29編隊を取り囲むようにレージーエイト〔8の字型に上昇反転を繰返す飛行法〕をはじめた。  高度七〇〇〇メートルほどのところにいたムーア大尉は編隊から離れ、四機の零戦のうしろにくっついて、彼もレージーエイトをはじめ、零戦の四番機に銃撃をくわえた。  するとその零戦は、あっというまに空中爆発を引き起してしまった。  続いてムーア大尉は、零戦の二番機が、8の宇の交点で速度が落ちるのをねらい、二〇〇メートルの距離から機銃を発射した

    。  弾丸は、エンジンと操縦席に命中するのが確認された。  彼が続いてもう一速射をくわえ、ついに零戦が炎を噴き始めた時、「“一時”の方向〔右前方〕から零戦が突っ込んでいくぞ、気をつけ!」という仲間の声が、彼の無電機に飛び込んできた。  とっさに彼は急降下をかけた。  しかし零戦はそれ以上追跡してこなかったので、危うく命びろいすることができたのだった。

     ムスタング部隊は、二一回にわたってこの長距離援護飛行に出撃したが、その日の損害はただの二機、それも一機は帰投の途中で不時着水したものだった。  ムスタングは、死物狂いで迎撃してくる日本機からB29を護り通したのだった。  B29の損害は三機で、そのうちの二機は対空砲火、一機は上空からの爆弾攻撃によるものであった。 富士山を横目に東京爆撃に向うB29の編隊

    5 地上攻撃でも大活躍 top

     ムスタング部隊に負わされることになる新任務のきざしは、四月十六日、九州地区にたいして行われた戦闘機による地上攻撃作戦に、はっきりと現われた。  目標上空に侵入した一個飛行連隊のうち、二個飛行隊は高度五〇〇〇メートルで上空直面を担当し、残る二個飛行隊のムスタングが超低空に舞いおりて、地上の目標に銃撃をくわえた。  また別の飛行隊は中高度で、海兵隊の第612飛行隊のPBJ爆撃機〔ノースアメリカンB25の海軍名〕が行うロケット弾攻撃を援護した。  彼らは、地上に待機していた日本機を数機大破炎上させ、地上施設に損害をあたえたが、日本軍は迎撃してこなかった。  四月十九日、第15、第21戦闘飛行連隊は、再び連合して神奈川県の厚木、横須賀の海軍航空基地を襲った。  この時は、迎撃してきた日本戦闘機と空戦が行われ、第15戦闘飛行連隊のジェームズ・B・タップ少佐は五機目を撃墜し、日本本土空域における米陸軍航空軍初のエースとなった。

    10 最後のレシプロ戦闘機

    1 軽量、高馬力のH型ムスタング 2 二人三脚?ツイン・ムスタング 3 朝鮮動乱のムスタング 4 空をかける“野生の馬”  第二次大戦が終ったからといって、決して、ノースアメリカンP51ムスタングの生命がつきた、というわけではない。  第二次大戦にこそ間に合わなかったが、そのあとにも、数々の工夫がこらされた新型のムスタングが現われているのである。

    https://plaza.rakuten.co.jp/oceandou/diary/201806010000/

    大東亜戦争は日本が勝った -英国人ジャーナリスト ヘンリー・ストークスが語る「世界史の中の日本」 単行本 - 2017/4/17 ヘンリー・S・ストークス (著), 藤田 裕行 (翻訳)

    5つ星のうち4.5 128個の評価 単行本 ¥1,760 獲得ポイント: 80pt ¥250 より 38 中古品¥1,760 より 29 新品¥3,520 より 1 コレクター商品 普及版 大東亜戦争は日本が勝った ¥1,320 (128) 残り12点(入荷予定あり) ________________________________________



    「太平洋戦争」はアメリカの洗脳だった この書は日本のプロパガンダではない。史実である。

    日本よ 呪縛から解放されよ! ヘンリー・S・ストークス 来日50年の総集編

    世界史を俯瞰して明らかになった 大東亜戦争の真実

    共産党などの左翼は、大東亜戦争は「侵略戦争」であったと言う。

    そうであろうか? 史実を検証すると、そこには明らかに「アジア解放戦争」の側面が見て取れる。 アメリカの侵略戦争や、大英帝国の植民地支配での戦争とは、明らかに違った姿を現じている。 私は、大東亜戦争を日本がなぜ戦ったのか、その結果、何が世界に起こったのかは、 世界文明史的な俯瞰をもってしてはじめて、明らかになるものだと、そう思い始めた。

    世界文明史の中で、大東亜戦争を位置づけようというような野心的な試みは、一冊の本で果たせるものでもないが、

    その第一歩を英国人ジャーナリストの私が切り開くことで、世界中に多くの賛同者が出てくると、 そう確信している。(本文より)

    1章 日本が戦ったのは「太平洋戦争」ではない!

    2章 「太平洋戦争」史観で洗脳される日本

    3章 日本は「和」の国である

    4章 世界に冠たる日本の歴史

    5章 オリエントにあった世界の文明と帝国

    6章 侵略され侵略するイギリスの歴史

    7章 アメリカの「マニフェスト・デスティニー」

    8章 白人キリスト教徒による太平洋侵略

    9章 マッカーサー親子によるフィリピン侵略

    10章 大日本帝国と西欧列強の帝国主義の違い

    11章 大日本帝国は「植民地支配」などしていない!

    12章 日本は中国を侵略していない

    13章 アメリカによる先制攻撃の「共同謀議」

    14章 大統領がアメリカ国民を欺いた日

    15章 大英帝国を滅ぼしたのは日本だった!





    「世界から恐れられた7人の日本人」上巻

    世界世界 せ ※下巻は、上巻購入後、次のページでご案内しております

    1人目:日本軍 20 万に匹敵する男    −明石元二郎陸軍大佐

    ○帝政ロシアを揺るがし、 日露戦争を勝利へ導く

    ○明石を支援した日本陸軍のスパイマスターたち

    ○ジェームス・ボンドも明石の味方に! ?


    2人目:米国務長官が欲しがった男     ―岩畔豪雄陸軍少将

    ○「世界基準の戦い方」をプランニングし、遂行する
    ○アメリカとの戦争回避に奔走
    ○インドの独立運動にも大きく貢献


    3人目:日本のスパイマスタ―    ―秋草俊陸軍少将
    ○インテリジェンス教育の総本山「中野学校」を創設
    ○猛者ぞろいの中野学校出身者
    ○謀略から特攻まで、 ただ目標完遂のために


    4人目:インドを独立に導いた謀略の素人    ―藤原岩市陸軍少佐
    ○5万ものインド人捕虜の心を一瞬にしてつかむ
    ○曲解され悪魔化される日本のナショナリストたち
    5人目:日本版アラビアのロレンス    ― 鈴木敬司陸軍大佐 


    ○親日ミャンマーの原点は鈴木大佐にあり
    ○「アジアはアジア人の手に」を願い共に戦った野田毅陸軍大尉
    ○日本が掲げた理想、そして誠の心がアジア諸国を動かした
    6人目:アメリカ軍の動きを的確に予測した情報のプロ    ―堀栄三陸軍少佐


    ○株価の動きでアメリカ軍の動きを予測
    ○その情報は、 陸軍大本営の参謀によって握りつぶされた
    ○米軍戦法の研究書を執筆し、日本軍の戦いに貢献
    ○アメリカ軍を壊滅状態に追い込んだ堀の教え
    7人目:MI5が徹底監視した唯一の日本人    ―小野寺信陸軍少将


    ○各国のスパイマスターたちに引けを取らない諜報力
    ○握りつぶされた「ヤルタ会談の密約」情報
    世界を変えてきた比類なき日本のインテリジェンス


    あとがき:ウィズコロナ時代だからこそ、先人のインテリジェンスに学べ
    著者プロフィール




    大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)


    大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)は、1943年(昭和18年)11月6日に大東亜会議にて採択された共同宣言。大東亜宣言とも。

    概要

    東京・帝国議事堂で同年11月に開催されたアジア地域の首脳会議の2日目に満場一致で採択された。採択後にビルマ国代表のバー・モウ内閣総理大臣が「自由インドなければ自由アジアなし」とインド独立を支持する意見を述べ、陪席者(オブザーバー)として出席した自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班が自由インドの確立を表明した[1]。次いで日本の東條英機内閣総理大臣が自由インドへの強い支援を会議で表明、大東亜会議は閉会した。

    参加国

    日本 : 東條英機内閣総理大臣、外務省・大東亜省などの各大臣、総裁、書記官など

    中国 : 汪兆銘国民政府行政院長、行政院副院長、外交部部長など

    タイ : ワンワイタヤーコーン親王(首相代理)、外務省など

    満洲 : 張景恵国務総理大臣、外交部大臣、特命全権大使など。

    フィリピン : ホセ・ラウレル大統領、外務大臣、大統領秘書など

    ビルマ : バー・モウ内閣総理大臣、特命全権大使、外務次官など

    インド:チャンドラ・ボース(首班)、最高司令部参謀長など

    宣言全文

    原文

    大東亞共同宣言

    抑?世界各國ガ各其ノ所??ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平??和確立ノ根本要義ナリ 然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽??クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望??ヲ逞ウシ遂??ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス 大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂??シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平??和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

    一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道??義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス

    一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊??重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス

    一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊??重シ各民族ノ創造??性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス

    一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ攝i??ス

    一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進??ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進??運??ニ貢獻ス

    口語訳

    そもそも世界各国がそれぞれその所を得、互いに頼り合い助け合ってすべての国家がともに栄える喜びをともにすることは、世界平和確立の根本です。

    しかし米英は、自国の繁栄のためには、他の国や民族を抑圧し、特に大東亜(東アジア全般)に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、大東亜を隷属化する野望をむきだしにし、ついには大東亜の安定を根底から覆(くつがえ)そうとしました。大東亜戦争の原因はここにあります。

    大東亜の各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、大東亜諸国を米英の手かせ足かせから解放し、その自存自衞を確保し、次の綱領にもとづいて大東亜を建設し、これによって世界の平和の確立に寄与することを期待しています。

    大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

    大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。

    大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。

    大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。

    大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。

    作成の経緯

    本文の5項目に関しては、1943年(昭和18年)8月初旬には外務省内「戦争目的研究会」で大西洋憲章(1941年)なども大いに参考にするかたちで文案作成がはじまり、同10月には完成したものとみられる[2]。これと別途並行して大東亜省は大川周明[3][4]や矢部貞治に宣言案を作成させており、それは前文として追加されることになった。大西洋憲章を参考にした本文が普遍的な真理を提唱するのに対し、大東亜省の前文は「米英支配の打破」という時事的な記述に偏っており、論理の接続が悪い所以とされる。

    日本を除く大東亜会議参加国は、会議2週間前になりようやく意見聴取の場を得たが、修正意見は日本側にことごとく拒絶され、結局一字一句の変更もなされずこの文面のまま全会一致で採択された。